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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 井笠地方の塩田②入浜式→流下式への変換

    井笠地方の塩田②入浜式→流下式への変換昭和50年ごろ、倉敷市児島小川に汚水処理場の建設工事があり、勤務先が施工していた。その工事現場の前は海で、周囲は竹を逆さに架けた(田んぼのハゼ、大根干しに似ている)塩田跡地だった。それが、管理人が見る山陽地方の流下式塩田の最後だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下記は、「瀬戸内塩田の所有形態」重見之雄著大明堂平成5年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・流下式塩田への変換わが国の製塩業は、塩田で海水を濃縮する「採かん」過程と、濃縮した海水を原料に製塩を行う「せんごう」過程が結合して成り立っている。後者の過程は専売制以降、合同せんごうの推進の強力な行政指導の結果、平釜式から真空式へと発展をとげた。「採かん」過程は近世以...井笠地方の塩田②入浜式→流下式への変換

  • 井笠地方の塩田①

    井笠地方の塩田①昭和30年代の前半まで、瀬戸内海沿岸は大半が塩田で、井笠地方も大小の塩田が連なっていた。代表例として寄島の塩田を調べた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下記は、「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寄島塩田が盛んになった天保期では、全国の塩田の90%が入浜式で、寄島でも入浜式で製塩していた。明治38年専売法が実施。自由な製造・販売は終わり、製塩のみに従事することになった。昭和13年、片本浜に蒸気利用式丸管機を設置し、採集したかん水をパイプで送水し一括製塩することになった。昭和31年、枝条架式濃縮装置が完成。管理と経営経営は、地主・自作・小作が、おのおの浜労働者を雇った。浜労働者いろいろな職種・階級があり「...井笠地方の塩田①

  • 魚の販路

    魚の販路金浦から「トト道」という、鮮魚を吹屋まで天秤リレーした道を発掘調査や整備の新聞記事が、ここ2~3年載ることがある。史的に、天秤道がそんなに重要なこととは思えないが、金浦の魚がどこに、どのように販売されたかは気になる。茂平は小さな漁港だったが、獲れた魚は伏越の市場に運ばれた。伏越の魚市場からは、どこに・どのように販売されたかは知らない。(笠岡市史に記載がない)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下記は、「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮮魚運搬船・仲買船・漁船等によって水揚げされた漁獲物は魚市場によって流通機構にのせられた。口伝によると、江戸末期に中安倉に魚市場が設けられたのが始まりである。明治、県南沿岸地方では最...魚の販路

  • 「たで船」

    「たで船」茂平港には20数隻の漁船がいた。そのすべてが木造船で、プラスチックの船が登場する前に漁師も漁港も消滅した。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・下記、「寄島町史・第二集」平成三年寄島町役場発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木造船底引漁船はFRPを素材として建造されるようになり昭和49年第一号が誕生した。その後、漁船のFRPは急速に進んだ。元来、木造船は十年の寿命というのが定説である。船底部分から腐食が進み、やがて浮揚力が減少するとともに、浸水防止が不可能になるから、少しでも船を長持ちさせるため、いわゆる「たで船」という作業を欠かすことができなかった。この作業は、まず、満潮時に「りん木」と呼ぶ角材、もしくは丸材を前後に一本ずつ船底に挿入して固定する。「りん...「たで船」

  • 自由、寛容、正義を説いた勝者②蒋介石

    中国では。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「日本帝国の最後」太平洋戦争研究会編2003年発行新人物往来社、より転記。報復を禁じた蒋介石の放送。日本政府がポツダム宣言の受諾を条件つきながら連合国に申し入れたのは8月10日のことである。中国大陸ではひとしおの喜びと感慨を持って迎えられた。重慶はむろんのこと、各地は爆竹とドラの音と民衆の雄叫びでわきかえった。8年にわたる抗日戦が勝利に終わったのであるから当然だった。蒋介石が放送した、その要旨は、「われわれはけっして報復を企図してはならない。ことに敵国の人民に侮辱を加えてはならない。・・・もしも暴行をもって敵の従来の暴行にこたえ、侮辱をもって彼らの誤った優越感に...自由、寛容、正義を説いた勝者②蒋介石

  • 自由、寛容、正義を説いた勝者①マッカーサー

    ミズーリ号の調印式。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「日本帝国の最後」太平洋戦争研究会編2003年発行新人物往来社自由、寛容、正義を説いた勝者ミズーリ号での降伏調印式に、喜び勇んで参加したものは、敗者の中には無論いなかった。が、その沈鬱なる雰囲気に包まれた日本全権団に、一条の光明を与えたのが、調印式前に行われた、予定外のマッカーサーのスピーチだった。------ここに我々主要参戦国が参集して、平和克服の目的とする厳粛なる協定を締結しようとしている。我々は相互不信、悪意、また憎悪の念を抱いてここに集まったわけではない。むしろ戦勝国と敗戦国とを問わず、人類のより高き威厳に到達せんことを祈念するものである。す...自由、寛容、正義を説いた勝者①マッカーサー

  • 赤痢、焼け跡に猛威をふるう

    昭和20年、食べもの・着るもの・住む場所、すべてが不足した夏。伝染病が流行った。父の話・2000年10月08日「城見村の施設としてあった隔離所はウチでもおばあちゃんが一時はいっていた。赤痢や疫痢になった人は普通家で看病していたが隔離するよううるさく指導され、連れて行くようになった。軍隊にいるとき家に(一時)帰宅する場合”家に伝染病のひとはいない”ことを確認してからでないと帰れなかった。看護婦・・といっても見習いにけのはえた程度の・・・もその際は常駐していて医者は適時にきて帰っていた。」下記は福山空襲直後(=終戦前後)の広島県深安郡引野村の郷土史本。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「戦争の中の子供たち」福...赤痢、焼け跡に猛威をふるう

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