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『碧巌録』より 第三六則 長沙一日遊山 / 長沙遂落花囘(その2)
禅の問答は本当に受け答えになっているのだろうか。世間的な意味での受け答えにはなっていない。問いに対してずらしたり、はぐらかせたり、受け流したり。なぜだろう。そんなに力むなよ、こだわるなよ、解放されて自由になって見ろよ、ということだろう。
2025/05/31 21:05
『碧巌録』より 第三六則 長沙一日遊山 / 長沙遂落花囘(その1)
草花をめでることのできる良い時節は、いましかないのかもしれない。ならば、お勤めよりも、心の赴くままに時節を満喫した方がよいのかもしれぬ。一日遊んで夕方帰ってきたら、「どこに行ってました」と問い詰める者がいたとしても。
2025/05/18 16:28
『碧巌録』より 第三五則 文殊前三三(その1)
「前三三、後三三」とは、いったいどのような意味だろう。その疑念を、そのこだわりをしばらく胸に抱いたままにする。やがて、その意味が分かった、つまり、その問いと一体となったと思えたころ、もう抱いた疑問はどうでもよくなっている。
2025/05/17 11:28
『碧巌録』より 第三四則 仰山問甚処来 / 仰山不曾遊山(その4)
「存在」のことを考えれば、その「存在」を受け止める「心」の問題を考えないわけにはいかない。「存在」は「心」に働きかけ、「心」も感じる能力があるので、「心」は動かされざるを得ない。だが、「心」がよく澄んだ「鏡」のようであってみればどうだろう。
2025/05/11 20:43
『碧巌録』より 第三四則 仰山問甚処来 / 仰山不曾遊山(その3)
「どこから来た」は、恐ろしい質問ではある。ここに来る長い修練の間に、本来の「一人」にまみえたかと問うのである。まみえていたのであれば、からからと笑って、そんな質問はごめんだと、さっさと踵(きびす)を返して立ち去るであろう。
2025/05/06 17:19
『碧巌録』より 第三四則 仰山問甚処来 / 仰山不曾遊山(その2)
禅では、言葉で指し示せないもの、まさにそれを掴むことを修練する。その指せないもののありかを、またその方向を示すために、「これ」、「あれ」を用いる。しかしこれは高いところに登るための梯子(はしご)のようなもので、登ってしまえばそれは忘れられる。しかし、登るためには必要なものなのだ。
2025/05/05 13:49
『碧巌録』より 第三四則 仰山問甚処来 / 仰山不曾遊山(その1)
禅は、言句や文字的知識、文字言語にこだわるのを嫌う。一方で、その人となり、禅境、心の出来具合を表出することになる言葉、言語を重んじている。禅においては、言語に関する考察が欠かせない。
2025/05/03 14:47
2025年5月 (1件〜100件)
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