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『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その2)
20年間同じ問いを発し続けたのは、仏恩に報いるためである。そして誰一人として答えられない公案であった。そこから、禅における言葉の関係の考察に入る。
2025/02/15 11:48
『碧巌録』より 第二五則 蓮華庵主不住 / 蓮華峯拈拄杖(その1)
一瞬のひらめきの中に活路を見出し、躊躇していては命を落とす。一所不住で、つねにとどまらない。
2025/02/11 12:20
『碧巌録』より 第二四則 劉鉄磨台山 / 鐵磨到潙山
劉鐵磨と溈山の応酬は間髪を入れない。そこに躊躇や疑義を挟めば、精神は死ぬ。彼らの応酬に意味があるのか。普通に考えたら、合理的な意味を持ち、目的を達するための有意な会話ではない。だが、禅は「意味」も越えねばならない。意味がなくても行為し行動しなければならない。
2025/02/09 11:20
『碧巌録』より 第二三則 保福妙峰頂 / 保福長慶遊山(その3)
禅が目指すのはもちろん、「妙峯孤頂」の境地であるが、そこはどのような世界なのか。存在は存在として、独露している。相対的な差別相の世界を超越しているのだから、目、耳、鼻、舌、身体の感覚も手掛かりを失い、冷熱、物質といった物理法則も及ばない。しかも、禅はその「妙峯孤頂」にとどまることも忌む。「妙峯孤頂」を常に超えていくことを求める。
2025/02/08 15:37
『碧巌録』より 第二三則 保福妙峰頂 / 保福長慶遊山(その2)
山や自然の境は対すれば、おのずから静寂・静謐の雰囲気が迫ってくる。だが、そこにとどまるを良しとしないのが禅だ。常にとどまらず、流動し、生き生きと変化する。停滞やなずみは「死」として退ける。
2025/02/01 18:02
2025年2月 (1件〜100件)
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