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  • 加古川町旧鳩里村探検(37) 粟津(10) 豊沢団平(4)・千賀女との再婚

    団平、妻・八重を亡くす安政四年(1857)31才の時、高砂清水町に住んでいた佐藤市次郎の二女八重を娶りました。愛情は細やかで、常徳寺におさめられている位牌によれば、6人の子供をなしています。六人目に生れた女児の出産のために八重は31才で落命して母子ともなくなりました。団平は、芝居の出勤にも、弟子達の指導にも困って、贔屓の旦那衆より種々すすめもあったのですが、京都祇園の茶屋の女主人・沢田「ちか」を迎えて後妻としています。千賀女との再婚千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。しっかりした、真の強い人であったことは間違いなさそうです。当時、大坂義太夫弾の名人といわれる...加古川町旧鳩里村探検(37)粟津(10)豊沢団平(4)・千賀女との再婚

  • 加古川町旧鳩里村探検(36) 粟津(9) 豊沢団平(3)・弘化元年(1844)18才で豊沢団平を襲名

    *写真の彼岸花のある風景は本文と関係はありません。でも、団平の三味線に対する情熱と重なるように感じます。弘化元年(1844)18才で文楽座に出演、そして、豊沢団平を襲名団平は、平蔵の末っ子として文政10年(1827)3月21日、寺家町の醤油屋に生まれました。幼名は、丑之助とも力松といわれました。芸界に入った初めの名が力松で、常徳寺の記録は全部、丑之助です。竹本千賀太夫の養子となりましたが、千賀太夫のすすめで三代目豊沢広助に入門して三弦を始めました。そして、天保9年12才の春に力松を名のりました。一度三弦を習い始めると、人に倍して熱心であったので上達もいちじるしく、天保11年の春に天満の芝居に出、初めて三段目を弾く身になりました。弘化元年、18才で文楽座に出て、豊沢団平を襲名し、長門太夫の合三味線であった清七の代...加古川町旧鳩里村探検(36)粟津(9)豊沢団平(3)・弘化元年(1844)18才で豊沢団平を襲名

  • 加古川町旧鳩里村探検(35) 粟津(8) 豊沢団平(2)・団平は、寺家町で生まれる

    団平は、寺家町で生まれる団平は、家寺町に生まれました。家は代代醤油屋であったといわれています。今の寺家町330番地を含む一角です。昭和39年当時、玉岡昌二氏によると四代前の健蔵氏の代に寺家町に出て来て、初めはその家の一部を借りて住居を初めたのですが、間もなくその家を買取ったとのことです。この家の裏に近年(昭和39年)まで醤油蔵であったかと思われる建物が残っていたのですが、腐朽のため倒壊して、今それをしのぶものは残っていません。父・平蔵は作州(岡山県)尾崎村の竹内氏の次男として生まれ、加古家に入り養子となって仁右衛門を襲名しました。父・平蔵は、晩年尾崎村に帰っています。団平の父平蔵は、当時の記録によると放埒で大酒を呑みで、遊興にふけって京の島原、大阪の新町あたりで名が知られた人物でした。その上に、義太夫浄瑠瑠を好...加古川町旧鳩里村探検(35)粟津(8)豊沢団平(2)・団平は、寺家町で生まれる

  • 加古川町旧鳩里村探検(34) 粟津(7) 豊沢団平(とよさわだんぺい)って誰

    豊沢団平(とよさわだんぺい)って誰明治31年4月1日、場所は大阪の稲荷座です。その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、き聞き入る人々を魅了していました。九分どおり済んだと思われた時でした。団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。この時、71歳でした。三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。有吉佐和子は団平をモデルにして、小説「一の糸」を書いています。彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。粟津の常徳寺が加古家の菩提寺で、団平はこの境内に眠...加古川町旧鳩里村探検(34)粟津(7)豊沢団平(とよさわだんぺい)って誰

  • 加古川町旧鳩里村探検(33) 粟津(6) 旧制加古川中学(現:県立加古川東高校)の創建は大正13年

    美濃部達吉:旧制小野中学(現・県立小野高校)へ進学作家・司馬遼太郎氏は、昭和の敗戦までの時代を『この国のかたち(一)』で、次のように書いておられます。・・・昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だったということである。・・・「あんな時代は日本ではない」と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。司馬氏は、この時代を歴史から消してしまいたいような、衝動を感じておられるようです。この時代は、高砂出身の美濃部達吉の活躍した時代と重なります。重なるというよりも、美濃部達吉は軍部(参謀本部)の攻撃の対象になり、昭和10年、その学説(天皇機関説)は攻撃され、内閣によりその著作発禁の処分を受けています。戦前の極...加古川町旧鳩里村探検(33)粟津(6)旧制加古川中学(現:県立加古川東高校)の創建は大正13年

  • 加古川町旧鳩里村探検(32) 粟津(5) 粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明

    粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明稲荷神社とは、稲荷神社の総本宮・伏見稲荷大社をはじめ、稲荷大神または稲荷神を主祭神としてお祀りしている神社です。稲荷神は、稲を象徴する穀霊神、農業と深く関係する農耕神とされています。江戸時代までは国民のほとんどが農業に従事していたことから一般庶民に支持され、全国津々浦々、国内で最も普及した神社となっています。ちなみに「お稲荷さん」はきつねではありません。きつねは稲荷神のお使いであり、神様をお守りする存在として境内に置かれています。日本中で親しまれるようになった現在では、「家内安全」や「学業成就」「縁結び」など様々な願いを叶えてくれる、頼れる身近な神様として信仰を集めています。また、朱塗りの鳥居が連なっているのは、願い事が「通る」「通った」などの意味から、心願成就の祈念や成就の感...加古川町旧鳩里村探検(32)粟津(5)粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明

  • 加古川町旧鳩里村探検(31) 粟津(4) 戎神社(昭和34年1月、粟津神社境内に遷座)

    戎神社(昭和34年1月、粟津神社境内に遷座)大正15年、出雲の国、三穂(三保)神社の分霊を賜り、出雲大社加古川教会境内に恵比寿神社をお祀りしてましたが参詣の人が多く、敷地が狭いために、広い適当な移転先を探していました。そんな時でした。粟津神社より「受け入れてもいい」との返事を受け、昭和34年(1959)1月、粟津神社本殿の東隣に遷座しました。戎神としての商売繁盛の神様として、また漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集めています。今では、加古川戎神社として1月9日(宵宮)、10日(本戎)、11日(残戎)二大勢の参詣がありにぎわいます。昨日(23日)、もと戎神社があった出雲大社加古川協会(南本町3丁目)の場所を古い住宅地図をたよりに訪ねました。なるほど、神社にしては狭い場所です。その教会跡も現在モダンなアパー...加古川町旧鳩里村探検(31)粟津(4)戎神社(昭和34年1月、粟津神社境内に遷座)

  • 加古川町旧鳩里村探検(30) 粟津(3) 粟津神社

    粟津神社加古川駅から南へ国道2号線をこえて少し行くと行くと、粟津神社があります。氏神は天満宮で祭神は菅原道真です。この粟津神社は、元和元年(1615)創建とされています。菅原道真が大宰府に左遷中、この地に立ち寄られたという伝承、そして集落住民の発展、五穀豊穣、学問の成就を願い、村人たちで建てられました。摂社として、大歳神社(農業の神様)ともう一つの菅原道真を祭る天神木神社があります。菅原道真を祭る神社がふたつもあるのは、不思議ですね。もともと、天神木神社は名前のように、寺家町の天神木(現:県加古川総合庁舎の場所)にありましたが、新しく憲兵の隊校を寺家町の天神木に新築した際、この神社は粟津神社に移転しました。現在の粟津神社11月15日には、七・五・三には数多くおまいりがあります。また十月中旬~十一月中旬にかけて行...加古川町旧鳩里村探検(30)粟津(3)粟津神社

  • 加古川町旧鳩里村探検(29) 粟津(2) 粟津弥生遺跡

    粟津弥生遺跡話を「溝ノ口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見から始めます。この遺跡は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。その後の調査により溝ノ口遺跡は、広範囲に広がっていることがわかりました。溝ノ口遺跡は日岡山に古墳を築いた豪族の住んでいた村だったのでしょう。調査の結果から、これらの遺跡は、弥生時代から平安時代の複合遺構であることが確認されました。粟津遺跡(集落)は日岡豪族につながる一族か町の開発にともない、工事で破壊される部分の調査が実施されました。場所は地図の丸の部分です。その近くに、高等学校の地図記号がありますが、加古川東高校です。場所は...加古川町旧鳩里村探検(29)粟津(2)粟津弥生遺跡

  • 加古川町旧鳩里村探検(28) 粟津(1) 粟津は、『風土記』の登場する古い村

    粟津は、『風土記』の登場する古い村永正十二年(1515)八月日付の「鶴林寺文書」に粟津(加古川市加古川町)の記録があります。粟津村は、1515年には存在していました。しかし、それは村の始まりではありません。記録にはないのですが、粟津村の歴史は、はるか昔にさかのぼります。想像を交えて書いてみます。まず、粟津を「粟」と「津」に分けて考えてみましょう。「粟」ですが、「大化の改新」(645)の以後、現在の播磨町から平岡町いったいは「粟々の里(あわわのさと)」と呼ばれ、『風土記』には「コリメが、この野を耕して粟を植えた。そのため「粟々の里」といった・・・」と書かれています。粟の生産が盛んな土地であったのかもしれません。石見完次氏は、粟津の「アワ」は湿地帯で池沼の多いところの意味であると指摘されています。粟津には「富家(フ...加古川町旧鳩里村探検(28)粟津(1)粟津は、『風土記』の登場する古い村

  • 加古川町旧鳩里村探検(27) 稲屋・友沢(16) 古新堰堤(こしんえんてい)

    古新堰堤(こしんえんてい)加古川は大きな川ですが、特に米田町古新辺りから川幅を広げて、瀬戸内海に流れ込みます。古新堰堤は、よく知られており、しばしば広く説明されています。この古新の堰堤の対岸は「友沢」なんです。「友沢」についての説明がありません。むかしから加古川は、大量の土砂が河口辺りで堆積させ、その流れを妨げてきました。そのため、浅くなった川底のためにしばしば氾濫し、水害を引き起こした暴れ川でした。特に、江戸時代、河口の高砂港は、この堆積により港が浅くなることが最大の問題でした。この堆積作用は現在も続いており、絶えず川底をさらえる必要があります。塩害河口あたりの水のもう一つの問題は、塩水が混じった気水域であることです。塩水を含んだ水は直接、田畑に利用できませんし、飲料水にも適しません。河口から少し離れた米田町...加古川町旧鳩里村探検(27)稲屋・友沢(16)古新堰堤(こしんえんてい)

  • 加古川町旧鳩里村探検(26) 稲屋・友沢(15) 県立加古川河川敷マラソンコース

    「加古川河川敷マラソンコース」は「加古川みなもロード」という名称なんですね。このブログの説明は、インターネットから引用させていただきました。左上に説明があるのですが、小さくて読みずらいです。下記のような説明です。県立加古川河川敷マラソンコース加古川、「みなもロード」の概要このコースは、国土省が整備した緊急用河川敷ロードを活用し、平時にはジョギング・ウォーキングをはじめ本格的なマラソン大会を行うように整備しました。平成15年のコース開設以来、地元加古川・高砂のマラソン大会をはじめ、毎年様々な大会に利用しています。スタート・ゴール地点は「友沢」の河川敷です。スタートとゴールに選手が到着の時は、いつも大きな歓声が湧き上がりますよ。私の散歩は、ほとんど夕方で、ゴール・スタート地点から国道2号線のまでを往復します。草花が...加古川町旧鳩里村探検(26)稲屋・友沢(15)県立加古川河川敷マラソンコース

  • 加古川町旧鳩里村探(25) 稲屋・友沢(14) 播州大橋からの風景

    播州大橋からの風景昨夜の台風14号の被害はなかったでしょうか。今日から、秋本番になるようです。散歩を楽しみましょう。先日も、自宅(尾上町今福)から2キロほど離れた加古川にかかる明姫幹線(播州大橋・播州大橋)の歩道を東から西(高砂)の方向に歩いています。東詰の少し西に歩いた場所から写真を撮りました。マンガ『よつばと』にある風景です。絵と比べていると、少しだけ違っていますが、この場面の風景であることはわかります。対岸の南(左)に鉄塔が描かれています。が、鉄塔は写真のように北側(右)にあります。そして、対岸の右側に大きなビル(スーパー)がありますが、実際は南側(左)です。少しだけ違って描かれていますが、それにしてもこんな景色をマンガの中で見つけるのは楽しい散歩です。なお、このまんが『よつばと』の作者のお住まいは高砂だ...加古川町旧鳩里村探(25)稲屋・友沢(14)播州大橋からの風景

  • 加古川町旧鳩里村探検(24) 稲屋・友沢(13) 寿願寺の阿弥陀様は、洪水のことを知っている

    寿願寺の阿弥陀様は、洪水のことを知っている文禄2年(1593)、(友沢の)福田一族は一宇の道場を建てます。その後、享保年(1718)、本願寺のから、「寿願寺」の寺号と「阿弥陀如来立像」を賜り今に伝えています。『加古郡史』には文禄2年(1593)とあり、本徳寺(姫路)年表には宝暦元年(1751)とあります。ともあれ、寿願寺は江戸時代の初めか、それより少し前の創建のようです。村(集落)自体も、あまりさかのぼらないようです。というのは、もともと友沢は加古川の湿原を開墾してできたようで、しばしば洪水の被害があった集落でした。友沢は洪水の被害の多い集落寿願寺が創建されたころ、しばしは洪水がおきました。その様子を升田堤(東神吉町)に見ておきましょう。升田堤完成万治2年(1659)8月上旬、工事がほぼ完成したころに暴風雨が襲...加古川町旧鳩里村探検(24)稲屋・友沢(13)寿願寺の阿弥陀様は、洪水のことを知っている

  • 加古川町旧鳩里村探検(23) 稲屋・友沢(12) 友沢(村)を歩く

    友沢(村)を歩く友沢村は、ふるくは加古川三角州の氾濫原で「留沢」が転化したのではないかといわれています。大正期のころまで加古川の右岸・印南郡古新(こしん・現在の高砂市)への渡し舟がありました。下の数字は、明治14・5年の頃の記録(『播磨地種便覧』)ですが、江戸時代の数字とほぼ同じだと思われます。当時の周辺の稲屋・木村と比べて小さな村であったようです。《友沢村:明治14・5年ころ》戸数70戸人口277人(木村84戸人口342人・稲屋138戸人口487人)きのう(9月15日・水)午後、加古川南高校の南(友沢)を歩いてみました。新しい家並みばかりです。でも、新しい家並みを歩いていると「友沢」の真ん中に比較的大きな家がかたまっている一角があります。古い家がかたまっています。道はせまいんです。小さなお寺「寿願寺」のあたり...加古川町旧鳩里村探検(23)稲屋・友沢(12)友沢(村)を歩く

  • 加古川町旧鳩里村探検(22) 稲屋・友沢(11)  稲屋逆水樋

    稲屋逆水樋神戸新聞出版センターから「近代の歴史遺産をたずねて」に「稲屋逆水樋」が紹介されています。この逆水樋は、目につく場所でないためか、あまり知られていません。この本から「稲屋逆水樋」を紹介しましょう。・・・加古川下流の東岸の稲屋地区(加古川市加古川町稲屋)は、昔から海水の逆流による浸水が多く、稲作や野菜類の栽培もしばしば被害を受けた。水門が出来るまでは、田畑の畦に土のうを積んで防ぐより方法がなく、毎年"潮害"に苦しめられてきた。写真の「稲屋逆水樋」と「大正十二年十月」の明記がある。現役であるが、この水門が、造られてから84年(平成18年時点)がたっている。水門・扉・護岸の傷み目立つようになり、平成18年改修)の秋から取替え工事がはじまった。・・・現在、新しい逆水樋となっています。場所は、山陽電車と加古川左岸...加古川町旧鳩里村探検(22)稲屋・友沢(11) 稲屋逆水樋

  • 加古川町旧鳩里村探検(21) 稲屋・友(10) さようなら、ありがとう

    再び永平寺へ札幌にある大寺院、中央寺の住職になって5年の歳月が流れました。この間奕保禅師は雲水の育成に全力を注ぎました。昭和56年の夏、宮崎禅師(せんじ)の人生にまた大きな転機が訪れました。永平寺で監院(かんいん)を務めていた禅師が亡くなり、宮崎禅師は、その後任を引き受けてほしいと頼まれたのです。監院というのは、禅寺において会計や人事、あるいは地方の寺院との連絡や外部との交渉、さらには広報的な事柄にいたるまで、寺の維持運営に関わるすべての責任を負う役柄です。奕保氏、永平寺の住職(曹洞宗貫主)に続いて、宮崎禅師は副住職に推挙されました。宮崎禅師は、副住職になった時、85歳でした。一方・永平寺の住職(貫主)である丹羽禅師は・宮崎禅師よりも年下で、81歳でした。副住職になって8年半の歳月が流れた平成5年9月7日、丹羽...加古川町旧鳩里村探検(21)稲屋・友(10)さようなら、ありがとう

  • 加古川町旧鳩里村探検(20) 稲屋・友沢(9) 「平気で生きること」の大切さ

    「平気で生きること」の大切さ宮崎禅師は、もう死ぬかもしれないという瀕死の状態を経験しました。・・・・命も危ないというほどの大病をして、「もう変わったというより、生まれ変わってきたようなもんや。いっぺん死んだんだから、生きておるということが不思議になってきた。だから、それからは、第二の人生や」と、よく言っておられました。奕保禅師の入院生活は、結局、三年四ヵ月もの長期問におよびました。その間、奕保禅師は、いつも窓の外に向かって坐りました。加古川は、工業地帯であると同時に、大阪や神戸、姫路に通うサラリーマンたちのベッドタウンとして発展してきた街です。病室の窓からは、様々な形や色をした家々の屋根が見えました。空き地になっている場所もあります。家庭菜園か何かなのだろう。そこは、ちょっとした畑になっています。そうした窓の外...加古川町旧鳩里村探検(20)稲屋・友沢(9)「平気で生きること」の大切さ

  • 加古川町旧鳩里村探検(19) 稲屋・友沢(8) 奕保禅師倒れる

    奕保禅師倒れる昭和43年、永平寺の後堂(雲水の指導)として、二年を過ごした宮崎禅師は、生涯忘れることができない、ある出来事に遭遇しました。その日、後堂は夜中に目を覚まし、トイレに起き、部屋に戻り床に就こうとした時でした。突然、電話が、鳴り響きました。時刻は、午前零時。すると、受話器の向こうから切迫した声が聞こえてきました。「禅師様(熊沢禅師)のご様子がおかしいんや」奕保氏は部屋を飛び出しました。一目散に階段を駆け上りました。60代も半ばを過ぎた老体。しかも、出し抜けに駆けだしたために息が切れました。階段は百段近くあります。息が苦しくなってきました。たどり着いた時、住職はすでに息を引き取った後でした。奕保氏は、涅樂(ねはん)に入ったばかりの住職と対面しました。96歳でした。熊澤禅師は、24年にわたって永平寺の住職...加古川町旧鳩里村探検(19)稲屋・友沢(8)奕保禅師倒れる

  • 加古川町旧鳩里村探検(18) 稲屋・友沢(7) 戦地でお経を唱える

    戦地でお経を唱える宮崎禅師が福田寺の住職になったころの日本は、国全体が戦争に向かっていました。加古川の街も、徐々に戦時色が濃くなりました。昭和10年、加古川に陸軍の飛行場が建設されることが決まると、様々な軍事施設が造られ、街は小軍都と化していきました。宮崎禅師も戦争に巻き込まれていきました。昭和12年の夏、赤紙が届きました。7月7日に中国で盧溝橋事件が勃発すると、それをきっかけに、日本と中国は戦争状態に突入しました。当時、37歳だった僧侶は、呉(くれ)の港から船に乗り込みました。船が到着したのは、上海でした。上海では当時、日中両軍による戦闘が本格化しはじめ、街には重苦しい空気が立ちこめていました。僧侶が配属されたのは、機関銃の部隊でした。機関銃の扱いには不慣れでした。その上に、他の者たちより年を取っていました。...加古川町旧鳩里村探検(18)稲屋・友沢(7)戦地でお経を唱える

  • 加古川町旧鳩里村探検(17) 稲屋・友沢(6) 小塩師匠の死

    小塩師匠の死大学を中退した宮崎禅師は、再び京都の大徳寺に行きました。27歳の時のことでした。宮崎禅師は、一生懸命修行しました。また、歴史ある大徳寺には、古い文献が数多く残されています。宮崎禅師は、連日、書庫を訪ねては、それらの古い文献を読みあさりました。昭和4年5月23日、京都で修行を行う青年のもとに電報が届きました。加古川からでした。修行の身である青年のもとに電報が送られてくることなどめったにありません。嫌な予感が的中しました。「シショゥ、キトク」青年はあわてて住職の部屋へと向かいました。「師匠が危篤との知らせが届きました。これから加古川へ帰ってもよろしいでしょうか」「すぐに行きなさい」京都駅に到着した青年は、駅舎にかかげられた時計に目をやりました。11時55分。汽車の速度がいつもより遅いように感じられてしか...加古川町旧鳩里村探検(17)稲屋・友沢(6)小塩師匠の死

  • 加古川町旧鳩里村探検(16) 稲屋・友沢(5) 勉強がしたい

    勉強がしたい宮崎少年は、高等小学校の二年生の時に、得度をしました。15歳の時のことでした。この得度の際に師匠から授かったのが、「突保(えきほ)」という僧名でした。奕保はこの頃、ある思いが芽生えていたのでした。「より学業を積みたい」と思うようになっていました。そして、大正6年、17歳の夏についに寺を飛び出しました。寺を抜け出した少年は、大阪に住む親戚のもとへと向かい、ゴム会社を経営するその親戚のもとで働き、学資を稼ぐことにしたのです。そんなある日、少年のもとに人が訪ねてきました。幼い頃に生き別れた母親でした。少年が寺を飛び出したと聞いて、駆けつけてくれたのです。母親は、少年に封筒を差し出して「これを使いなさい」言ってくれました。お金が入っていたました。少年は深々と頭を下げて、そのお金を受け取り、そのお金で東京行き...加古川町旧鳩里村探検(16)稲屋・友沢(5)勉強がしたい

  • 加古川町旧鳩里村探検(15) 稲屋・友沢(4) 宮崎少年、福田寺に入る

    宮崎少年、福田寺に入る宮崎少年の家は、兵庫県加西郡(現・加西市)の地で32代、1200年近く続いた庄屋でした。宮崎保少年は、その旧家の長男で、一人っ子でした。少年は、この時、実は、両親と一緒に暮らしていませんでした。母は、父がよそに女性を作ったため、少年が小学校に上がる前に実家に帰ってしまったのです。その原因を作った父は、少年が8歳の時に亡くなりました。その後、祖父と一緒に古い屋敷で暮らしていました。やがて、身支度を整えた少年を迎えに、年老いた尼僧(にそう)がやって来ました。親のいない少年の将来を案じた親戚が、少年を寺に入れてくれるようにと頼んだのです。少年は、わずかな荷物が入ったカバンを持ち、祖父たちに別れを告げて家を出た。少年と尼僧を乗せた馬車は、朝の日差しの中を南へと向かいました。宮崎禅師(ぜんし)が憎侶...加古川町旧鳩里村探検(15)稲屋・友沢(4)宮崎少年、福田寺に入る

  • 加古川町旧鳩里村探検(14) 稲屋福田寺(3) 宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと

    宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと・・・・私(瀬戸内寂聴さん)が出会った中で、もっとも尊敬しているお坊さんのひとりが、永平寺貫首(えいへいじかんしゅ)を務められた宮崎奕保禅師(みやざきえきほぜんし)さまです。残念ながら2008年、106歳で亡くなられました。私は83歳のとき、105歳だった猊下(げいか・高僧に対する敬称)と「合わせて188歳」の対談をする機会にめぐまれました。猊下は生き仏さまそのものの高僧ですが、私のぶしつけな質問にも、清らかな笑みを浮かべながらお答えになります。私は、すっかりファンになってしまい、あれこれ長々とお話ししてしまいました。・・・(『95歳まで生きるのは幸せですか(瀬戸内寂聴共著)』より)その時、ビックリしたのはその内容ではなく、突如、宮崎突保氏の名前が登場したことでした。宮崎氏の...加古川町旧鳩里村探検(14)稲屋福田寺(3)宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと

  • 加古川町旧鳩里村探検(13) 稲屋・友沢(2)・福田寺(稲屋)の層塔

    福田寺(1)福田寺の層塔前回説明したように稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。稲屋の近くにある泊神社は、地域の氏神であり、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられています。この稲屋に福田寺という古刹があります。「ふくでんじ」と読みます。福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔があります。現在は十一重ですが、本来は十三重であったと思われます。塔身(初層軸)には、三面に如来像を浮き彫りされています。この反対の面の如来像両協に銘文があり、銘からこの層塔は、正和二年(1313)に、尼西河弥陀仏を願主として造...加古川町旧鳩里村探検(13)稲屋・友沢(2)・福田寺(稲屋)の層塔

  • 加古川町旧鳩里村探検(12) 稲屋・友沢(1)・鹿子水門(かこのみなと)

    鹿子水門(かこのみなと)『日本書紀』応神天皇13年の条に、次のような話があります。・・・天皇が淡路島に狩に出かけた時に、多くの鹿が「鹿子水門(かこのみなと)」に入るのを見たので、調べてみると、日向(宮崎)の豪族の娘(髪長媛-かみながひめ)が都に仕えるために東上するための一行だった。彼らが鹿皮の衣を着ていたので、鹿と見あやまったのだった・・・これは、地名説話ですが、九州と畿内を結ぶ瀬戸内海の泊(港)のひとつに、「鹿子水門」があったことを物語っています。古代には河口が港として利用される場合が多かったのですが、航海に必要な水や食料も得やすかったのでしょう。それに、加古川の河口は内陸部と結ぶ重要な拠点でした。「鹿子水門」がどこにあったか、明らかではありません。でも、加古川東岸は西岸と比べ若干土地が高く、加古川の流れは西...加古川町旧鳩里村探検(12)稲屋・友沢(1)・鹿子水門(かこのみなと)

  • 加古川町旧鳩里村探検(11) 木村(11)・加古川公会堂

    加古川公会堂元兵庫県営繕課長の置塩章が設計した西洋建築で、1935年(昭和10年)に加古川町公会堂として竣工されました。完成当時は演劇や各種の講演会が開催され、地域の文化において中心的存在で、アールデコ風の幾何学模様にデザインされたステンドグラスの大アーチ窓や側面の連続アーチ窓、スクラッチタイル張りの1階正面部分に大きな特徴です。1971年(昭和46年)から加古川市立図書館の本館として利用されてましたが、1989年(昭和62年)に開館した平岡町の加古川総合文化センター図書館が2006年(平成18年)の組織再編で新たに市立中央図書館となり、旧公会堂の本館が加古川町地域の分館「加古川図書館」として使用されていました。2008年(平成20年)、兵庫県の景観形成重要建造物に指定されました。保存問題加古川町公会堂と同時期...加古川町旧鳩里村探検(11)木村(11)・加古川公会堂

  • 加古川町旧鳩里村探検(10) 木(10))・三島由紀夫の松(徴兵検査の場所)

    三島由紀夫の松(徴兵検査の場所)三島由紀夫が加古川市志方町を訪れたのは二回のみです。一回目は、由紀夫に徴兵検査(昭和19年5月)の命令がきた時でした。当時、徴兵検査は現住所か本籍地のどちらで受けても良かったのです。彼も父も何とか公威(由紀夫)の不合格をのぞんでいました。おしなべて、体格のよくない東京での徴兵検査になれば合格率が高くなります。幸い、当時の由紀夫は体の貧弱な若者でした。たくましい若者の多い本籍地・加古川で受験すれば不合格の可能性が高くなると踏んだのです。この徴兵検査の時、加古川を訪れています。検査は、視力・腕力・走力それに重量挙げまでありました。後に、『仮面の告白』で、この時のようすを「・・・・農村青年たちが軽々と十回も上げる米俵を、私は胸までも持ち上げられずに検査官の失笑を買ったにもかかわらず、結...加古川町旧鳩里村探検(10)木(10))・三島由紀夫の松(徴兵検査の場所)

  • 加古川町旧鳩里村探検(9) 木村(9)・石弾城

    木村の歴史探検と言いながら話は米田(高砂市)に飛んでいました、話題を木村に戻します。戦国時代や室町時代に、加古川市域でも領主の館ができました。江戸時代に発行された『播磨鑑(はりまかがみ)」それらの館が城・構居として記載されています。木村にあった「城」もその一つです。城、構居の基準ですが、比較的大きな館を城とよんだりしていますが、小さくても自分たちの館を城と呼んでいたようです。石弾城さて、木村にあった石弾城ですが、城の名前も「いしはずみじょう」とか「いしきはじきじょう」と読ませて、はっきりしません。そして、詳しいことはわからないようです。ある研究者は、インターネットで次のように説明しておられます。お借りします。暦応2年(1339年)大井三樹伊予守宰によって築かれたといわれ、暦応2年(1339年)雁南荘地頭職を得て...加古川町旧鳩里村探検(9)木村(9)・石弾城

  • 加古川町旧鳩里村探検(8) 木村(8)・赤松、田原、そして宮本へ

    赤松、田原、そして宮本へもう少し、田原と宮本の関係をのべておきましょう。話は、武蔵生誕から250年ほど昔にさかのぼります。そのころ、播磨全域に、強大な勢力を幾っていたのは豪族・赤松則村(円心)でした。円心には、四人の男子があり、その二男、赤松貞範が、田原家の祖とされています。赤松本家は、三男の則祐(そくゆう)が跡を継ぎ、貞範は、京都で別流をたてました。その貞範の孫に持貞という子がおり、室町幕府四代将軍足利義持の寵愛を受けるようになりました。義持は、播磨を、持貞に与えようとさえするほど持貞を溺愛しました。ところが、その持貞が、あろうことか、将車義持の側室に手を出してしまい、ことが発覚してしまいました。義持は激怒し、持貞に切腹を命じて、嫡男の家貞ら一族を京から追放してしまいます。応永4年(1427)のことでした。そ...加古川町旧鳩里村探検(8)木村(8)・赤松、田原、そして宮本へ

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