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  • 加古川町旧鳩里村探検(7) 木村(7)・宮本武蔵の年譜

    「宮本武蔵」について、あまり順序だった記述になっていません。流れがつかみにくいと想像します。武蔵の年譜を紹介しておきます。整理ください。宮本武蔵の年譜1584年武蔵米田に誕生1588年このころ田原家から新免家(作州大原)に養子に行く1596年初めて、剣客と試合をして勝つ1600年黒田氏に陣借りをして関ヶ原の合戦に参加1604年京都・一乗寺で、吉岡一門との対決このころから、禅・絵画・作庭の研究1612年巌流島で佐々木小次郎との試合に勝つ1617年甥の伊織を養子とするこのころ、新免造酒之助(みきのすけ)を養子とする明石小笠原家の客分となる1626年養子官本伊織、小笠原家の家臣となる1634年伊織を頼り、小倉に住み、小笠原家の客分となる1636年伊織、島原の乱での軍功により、家老となる。武蔵も参加1640年熊本藩主細...加古川町旧鳩里村探検(7)木村(7)・宮本武蔵の年譜

  • 加古川町旧鳩里村探検(5) 木村(5)・宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

    宮本伊織の生誕400年(2012年)式典この記事は、2012年10月21日、泊神社(加古川町)木村で挙行されたときの再掲です。宮本武蔵の養子、伊織の生誕400年記念式典の記事です。10月21日が伊織の誕生日で、主催者はこの日にこだわって開催されたそうです。プログラムは「鬼太鼓座(おんでこざ)」の元メンバーの太鼓、武蔵円明流の演武、それに旭堂南海さんの「宮本父子伝」の講談等が披露されました。伊織は明石藩の家老に武蔵の養子の伊織は若くして明石藩の家老になり、島原の乱鎮圧に侍大将として活躍しています。泊神社は伊織にとっての氏神で、彼は1656年、荒廃する社殿を再建しています。宮本伊織・14代目当主参列式典では、宮本伊織から14代目の当主の方(写真上)も小倉から参加されました。優しそうな方でした。なお、その少し前にNH...加古川町旧鳩里村探検(5)木村(5)・宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

  • 加古川町旧鳩里村探検(5) 木村(5)・泊神社と米田天神社

    泊神社と米田天神社現在、高砂市米田町の米田天神社と泊神社について少し触れておきます。『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあり、かなりの大社であったようです。泊神社の氏子に注目します。泊神社の氏子は、地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするのですが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっています。現在、泊神社の氏子は、加古川の西岸にも広がっています。すこし不思議です。もと、加古川本流は米田村の西を流れていた江戸時代の絵地図で、加古郡と印南郡(いんなみぐん)の境界を見ています。「郡境」が、少しおかしい。「郡境」は川・海・山・道などを目印にするのが普通です。加古郡・印南郡の境界が決められた頃(奈良時...加古川町旧鳩里村探検(5)木村(5)・泊神社と米田天神社

  • 加古川町旧鳩里村探検(4) 木村(4)・宮本武蔵と泊(木村)神社

    宮本武蔵と泊(木村)神社吉川英治の小説『宮本武蔵』の話をしておきましょう。吉川は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」としています。そのため、一般に武蔵は作州人だと信じられています。近年、この説に異議が唱えられてます。つまり、「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説です。その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)に宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札が発見されました。棟札を少し説明を加えながら紹介しましょう。・・・・武蔵は赤松一族の出身である。武蔵誕生の250年ほど前のことである。赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまった。持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になった。名も田原に変え、地侍として勢力を伸ばした。そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の...加古川町旧鳩里村探検(4)木村(4)・宮本武蔵と泊(木村)神社

  • 加古川町旧鳩里村探検(3) 木村(2)・潮風の似合う神社(泊神社)

    潮風の似合う神社(泊神社)木村探検は泊(木村)神社から始めましょう。『播磨鑑』の記述に「泊(木村)神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあります。かなりの大社であったようです。*神宮寺・・・神仏混交の考え方で、神社に奉仕するために建てられた寺。泊神社の氏子に注目します。泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていました。そして、木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していました。記録にはないのですが泊神社(木村)は、もともと加古川の右岸(西岸)にあったのでしょう。「泊」は港(水門・みなと)を意味します。『日本書紀』に「鹿子の水門(かこ...加古川町旧鳩里村探検(3)木村(2)・潮風の似合う神社(泊神社)

  • 加古川町旧鳩里村探検(2) 木村(2)・印南郡と加古郡の郡境

    個人的な話で申し訳ありません。私は、小学校・中学校・高校と加古川町泊町二丁目で過ごしました。中学校時代、木村を毎日通り抜け加古川中学校への通学でした。木村にはO君をはじめ、友達もいました。小学生2年生の担任のN先生も木村にお住まいで、先生の家の前を中学校へ通いました。(ブログ)加古川探検(旧鳩里地区)の探検を始めます。どこからでも良かったのですが、子ども時代の思い出もあって木村から始めてみます。印南郡と加古郡の郡境右の地図は、住宅地図を借用しています。加古川中央公民館と加古川市立図書館との間に、黒く塗りつぶした線を描きました。路地のような道路です。この道の左上をさらに北へ100メートルばかり歩きます。人形の店「陣屋」の隣に出ます。この道は、文(分)岸寺川(跡)なのです。何の変哲もない路地ですが、「文(分)岸寺川...加古川町旧鳩里村探検(2)木村(2)・印南郡と加古郡の郡境

  • 加古川町旧鳩里村探検(1) 木村

    「加古川町探検」不十分ですが、加古川・氷丘を探検をしました。当然、大切なことで抜けているとことは、たくさんあると思います。その都度、付け加えます。ひとまず、氷丘・加古川を終えて、残る加古川町の歴史探検で「鳩里地区」を歩いてみます。旧鳩里(地区)を歩く鳩里地区ってどこ?「鳩里村の名称は、わずかに「鳩里小学校(きゅうりしょうがっこう)」、「鳩里保育園(はとのさとほいくえん)等にわずかに残っているだけです。そのため、鳩里地区と言われても、「鳩里地区ってどこ」という人も多いのではないでしょうか。なじみの薄い地名になってしまいました。鳩里地区探検の前に「鳩里(きゅうり)村」について少しだけ説明をしておきましょう。右の地図は。「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、さらに現在の加古川市加古川町の部分だけを残したものです。地図の...加古川町旧鳩里村探検(1)木村

  • 加古川町中津・河原探検(22) でっかい河川敷のある町:中津・河原

    でっかい河川敷のある町:中津・河原河原の土手にいます。時間は5時を少し過ぎです。昼間の暑い日差しも少し弱まったようで、涼しい風が吹いてきました。河原・中津の西には広々とし田河川敷が広がっています。子どもたちが野球をしていました。お母さんたちが応援をしています。中津・河原は、普段あまり意識しませんが、でっかい河川敷(グランド)のある町です。水管橋がありその向こうに升田山があります。素晴らしい景観です。その日は、でっかい太陽が西(竜山)の方に沈んでいきましたした。加古川にも、こんな素晴らしい風景があったんです。ここへは、散歩にたびたび来ます。幸い、河川敷の真ん中にテニスコートがあります。その横は駐車場ですからそこに車を止めて河原を歩ます。ここの散歩は疲れません。草名前を調べてり、復習をしながら歩きます。交通事故の心...加古川町中津・河原探検(22)でっかい河川敷のある町:中津・河原

  • 加古川町中津・河原探検(21) 河原墓地の石幢(せきとう)

    河原墓地の石幢(せきとう)塔身仏の中で、なんといっても私たちがもっとも親しみを持っているのは地蔵菩薩(じぞうぼさつ)でしょう。「お地蔵さん」と呼んでいる仏様です。この仏様は、大地の恵を表わしている仏で、世の中が乱れた末法(まっぽう)の時代に入ったとされる平安時代の末頃から庶民のあいだで広く信仰されるようになりました。また、お墓の入り口あたりで、よく六体のお地蔵さんを見かけますが、仏教では人間が死んだ後、生前の行いにより、それぞれ六つの世界へ生まれ変わるというのです。その六つの世界とは、天上(てんじょう)・人間(にんげん)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・餓鬼(がき)・地獄(じごく)であると言います。しかし、心配はいりません。どの世界に生まれかわったとしても、そこへお地蔵さんが現れて死者の相談になってください...加古川町中津・河原探検(21)河原墓地の石幢(せきとう)

  • 加古川町中津・河原探検(20) 小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴

    小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴氷丘小学校の運動場にみごとなクスノキがあります。歴史の古い小学校には、クスノキがあります。小学校とクスノキについて書いてみます。戦前の教育は、天皇中心の教育でした。楠木正成は、天皇の忠実な家来として、歴史上の人物としてだけではなく、精神教育の面で大きな役割をはたしたしました。そのため、小学校では、楠木正成の精神をあらわす樹木としてクスノキが植樹されたのです。それも、多くの場合、複数のクスノキが植樹されました。播磨小学校(播磨町)では、もとは校庭にク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲと8本のクスノキが植えられていました。「忠臣楠木正成」を表すために6本を植えたり、「楠木正成」と4本を植えられた例もありました。そのクスノキも戦後、児童数の増加やスポーツ熱のさかんになるにつれ、歴史の証...加古川町中津・河原探検(20)小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴

  • 加古川町中津・河原探検(19) むかし、日岡神社は「日向社」

    「ひろかずのブログ・中津河原(8日)の一部をもう一度読んでみます。・・・・日岡神社から南の鳥居へ歩きました。日岡神社から鳥居まで歩き、そこを右に歩くと大きな道(主要地方道加古川・小野線)と交差します。その道をさらに超えると、道は続いていないようですが、よく見ると駐車場の向こうに続いています。辺りをキョロキョロして、低い柵を乗り越えて、どんどん歩くと、中津(中条)の墓地に至り、その少し手前の三差路に常夜灯と道標がありました。日岡神社からここまで歩いてきた道は、当時(江戸時代以前)の一番の生活道路でであり、日岡神社への参道でした。左にある道標には、「右加古新田道、左国かね三木」とあり、道は加古川の土手沿い、西之山・西条・国包・宗佐を経て三木へと続いています。この道は、高砂から加古川を経て三木へ抜ける古道です。むかし...加古川町中津・河原探検(19)むかし、日岡神社は「日向社」

  • 加古川町中津・河原探検(18) 三宝荒神

    三宝荒神荒神さんの由来は仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像です。日本古来の荒々しい神の魂に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道、密教、三学区信仰などのさまざまな要素が混交して成立した言われています。三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)です。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがあります。不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多くあります。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであり、仏像としての作例は近世以降のものがほとんどです。願成寺の荒神さん願成寺の荒...加古川町中津・河原探検(18)三宝荒神

  • 加古川町中津・河原探検(17) 願成寺の鐘

    願成寺の鐘願成寺の境内(本堂の正面)の鐘楼に小ぶりの鐘があります。この鐘について『氷岡村実記(山脇重弘著)』で、次のように書いておられます。お借りしました。「・・・・お寺の鐘は約500年前の天文年間(西暦1540年ころ)の製作で、十円で購入している。戦時中、金属の供出で提出したところ、古いいわれのある有る鐘だとのことで返却されてきた。調べてみると、加東郡の神社のであった。このことが新聞の記事になり、神社から返却の要請があったが、戦国時代は陣鐘として使用され、徴発と寄進がり、転々と変えていったと考えられ、返還の必要がないということになった。・・・」鐘についてはよく似た話がたくさんあります。高砂市の生石神社の鐘・東神吉町升田の妙願寺の鐘の話はよく知られています。ここでは余話として妙願寺の鐘について付け加えておきます...加古川町中津・河原探検(17)願成寺の鐘

  • 加古川町中津・河原探検(16) 願成寺の阿弥陀石棺仏

    阿弥陀様の石棺仏加古川には、不思議な石仏がたくさんあります。石棺に刻まれた仏像、石棺仏です。これらの石棺仏は鎌倉時代から、室町時代にかけて多くつくられたが、その後はプッツリと姿を消しました。鎌倉時代は、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾されました。多くの古墳もこわされた。出土したした石棺は、「手軽な材料?」として仏像をつくる石材として再利用されたのです。しかし、単なる廃物利用ではなさそうです。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたようです。これらの石棺仏は全国で120基ほど確認されていますが、その八割が加古川市、加西市に集中しています。加古川市・加西市では、普通に見られる仏像であるが、全国的には大変珍しいものです。願成寺の石棺仏(写真)は、さらに数奇な運命をたどったようです。石棺仏...加古川町中津・河原探検(16)願成寺の阿弥陀石棺仏

  • 加古川町中津・河原探検(15) 結界石

    加古川町河原の願成寺の山門にある石造物「結界石(けっかいせき)」の紹介です。結界石「不許葷酒入山門」と刻んだこの石塔(写真)は、願成寺の山門の「結界石(けっかいせき)」です。「クンシュ、サンモンニ、イルヲ、ユルサズ」と読みます。葷酒の「葷」は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気がある食物や、カラシ・トウガラシなどの刺激性のあるもの、精力の出ると言われている食物、それに肉などを指しています。これらは、寺での修行(しゅぎょう)の妨げになるので、それらを食べて寺に入ってはいけない。また、酒も飲んで寺に入ってはいけない、と言う意味です。禅宗寺院の山門によくみられます。願成寺は、曹洞宗(禅宗)の寺です。ほとんどの結界石は、江戸時代に造られています。願成寺の結界石も江戸時代のものと思われます。山門を入れば、そこは聖域もともと仏...加古川町中津・河原探検(15)結界石

  • 加古川町中津・河原探検(14) 加古川花火大会

    加古川花火大会明治時代、加古川はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まりました。明治43年は、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者をだしました。国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとしました。そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」としました。加古川は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられました。この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川です。利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)・斐伊川(島根)・緑...加古川町中津・河原探検(14)加古川花火大会

  • 加古川町中津・河原探検(13) 明治29年の水害

    明治29年の水害明治29・30年、中津・河原辺りたりは大きな水害の被害を受けました。大雨の時、加古川の水位は高くなります。そんな時は、加古川の水の取り入れ口から、大量に流れ込むことになります。そのため、取り入れ口の水門は閉じられます。しかし、困ったことがおきます。曇り川(神野町)に、それをみましょう。曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となり、こんな時は、加古川へ排水する水門は閉じられます。水の行き場がなくなります。曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、氷丘・加古川の町へと押し寄せ、水害をおこしました。最近の加古川の水害史...加古川町中津・河原探検(13)明治29年の水害

  • 加古川町中津・河原探検(12) 戦争で神戸肉の生産ストップ

    戦争で神戸肉の生産ストップ・・・戦前から「神戸ビーフ」は有名でしたが、戦争のため生産は減量やストップの危機に面しました。加古川町は、神戸に代わる肉の生産地にとなりました。その一拠点が志方ともう一か所河原が加古川肉の生産拠点でした。場所は、現在のシルバーセンター(加古川市加古川町)のある周辺です。肉は、加古川で生産当時(戦後間もないころ)は、農業が中心で、農家は労働力の大切な一部として、たいてい牛を飼っていました。ですから、容易に牛肉の生産はできました。業者が農家から牛を買い、それを処理場に持って行き、製品にして神戸を中心に送り出しました。もちろん、食をあずから大切な仕事ですから、処理場には専属の獣医さんが常駐して、牛の健康状態、製品の品質、等級の分類など厳格に行われていました。当時の方に聞いた話では、処理場に連...加古川町中津・河原探検(12)戦争で神戸肉の生産ストップ

  • 加古川町中津・河原探検(11) 三木道(県道:加古川・高砂線)

    三木道(県道:加古川・高砂線)高砂から三木へ抜ける三木道(滝野~加古川町)・高砂道(高砂港~加古川町)は、昔から繋がっていましたが、明治22年4月高砂道は、やや東方に移転しました。現在の中津・河原を抜ける三木道(県道加古川・高砂線)も方向をやや東にとり、河原・中津を抜け国包村を通り三木・滝野に伸びました。しかし、町内を曲がった道部分が多く、大正13年9月14日町会で路線を直通とし、道幅を拡張し、工事費の3分の2を負担することを決め県に上申しました。この案件は認められ、大正14年、改修費の3万6千を負担して工事が行われました。しかしながら、なお道幅が狭く、曲がったところが多いため、大正15年道幅5間として高砂道・三木道の改良工事をしました。加古川駅は新しくなりました、そして駅北も大変貌をとげています。加古川駅辺り...加古川町中津・河原探検(11)三木道(県道:加古川・高砂線)

  • 加古川町中津・河原探検(10) 「加古川驛への石柱」

    「加古川驛への石柱」以前紹介した「加古川驛(人馬継立問屋場)」の石柱のことです。この石柱(写真)は「加古川驛」の文字を刻んでいます。西国街道播磨国南加古郡加古川驛加古川駅ができたのは、明治21年(1888)ですから、標柱はこの加古川駅のものではありません。西国街道と言うのであるから、江戸時代のものです。江戸時代、加古川の駅(人馬継立問屋場)は、陣屋の東隣にありました。とすれば、この標柱は、そこから北のどこかにあったことになりますが、元あった場所は、はっきりと分かりません。以前「きっと、寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川町中津)あたりの旧道沿いにあったのではないかと思われます」と紹介しました。そこで、昨日(8月10日)、この人馬継立問屋場のあった場所から河原・中津を経て日岡神社へ歩いてみました。問屋場の場所は...加古川町中津・河原探検(10)「加古川驛への石柱」

  • 加古川町中津・河原探検(9) 河原村は室町時代にできた村か?

    河原村は室町時代にできた村か?河原村のことです。古くは川原村と書き(正保郷帳)、加古川左岸(東岸)に沿いの三角州中にあった集落(加古郡誌)です。そのため、田は米作にはて来ていません。裏作の麦作にたよった村のようでした。応永十六年(1409)9月付のある文書には「播磨国河原」として登場していますから、村ができたのは室町時代のことと思われます。その後、慶安二年(1649)に願成寺が創建されています。河原村の北にあるのは中津ですが、中津村は中州村が転化したといいます。これらの集落は、ともに米作には適さない集落であったようです。しかし、江戸時代になり、稲作も発展し村は大きくなってきました。時代は、一挙に飛びますが、明治十五年(1882)発行の『播磨の国地種便覧』によれば、河原村の戸数・人口は次のようでした。河原村戸数5...加古川町中津・河原探検(9)河原村は室町時代にできた村か?

  • 加古川町中津・河原探検(8) 中津の常夜灯と道標

    中津の常夜灯と道標先日、日岡神社から南の鳥居へ歩きました。それも、お昼の3時ごろでした、汗だくだくの散歩になりました。鳥居まで歩き、そこを右に歩くと大きな道(主要地方道加古川・小野線)と交差します。その道をさらに超えると、道は続いていないようですが、よく見ると駐車場の向こうに続いています。辺りをキョロキョロして、低い柵を乗り越えて、どんどん歩くと、前号で紹介した中津(中条)の墓地に至ります。その少し手前の三差路に常夜灯と道標があります。その常夜灯と道標の紹介です。常夜灯の前に石碑があります。この道標は、もとはここにあったのではなく少し移動させられたそうですが、「右大野宮道」と刻んでいます。日岡神社からここまで歩いてきた道は、当時の一番の生活道路でもあった日岡神社への参道です。そして、左にある道標には右加古新田道...加古川町中津・河原探検(8)中津の常夜灯と道標

  • 加古川町中津大野・河原探検(7)中津中条墓地の十王石仏

    中津中条墓地の十王石仏きのう(8月7日)中津の墓地に出かけました。墓地の入り口には、普通六地蔵があるのですが、ここの墓地には六地蔵ではなく十王(じゅうおう)石造があるので写真を撮りに出かけました。墓地の入口に説明があります。読んでおきましょう。江戸時代享保5(1720)年凝灰岩(竜山石)製右側の石板高さ(地上部分)48cm幅154cm厚さ25cm左側の石板高さ(地上部分)48cm幅164cm厚さ25cm墓地の入り口にある2枚の石板には冥途で死者を裁く十王像が彫られています。仏教や道教では死者の初七日から三回忌にかけて十王から裁きを受けることによって、来世の生まれ変わるところが決まると言われています。初七日秦広王(不動明王)二七日初江王(釈迦如来)三七日宋帝王(文殊菩薩)四七日五官王(普賢菩薩)五七日閻魔王(地蔵...加古川町中津・河原探検(7)中津中条墓地の十王石仏

  • 加古川町中津・河原探検(6) 皇紀二千六百年(昭和15年)

    2月11日は「建国記念の日」です。この日、初代の天皇・神武天皇は奈良の橿原で天皇になる儀式をし、昭和15年(1940)は、その式典から数えて2600年目(皇紀2600年)にあたるといいます。(もちろんこれは神話の話で、2600年前は縄文時代(狩猟時代)で、天皇は存在しません。)氷丘小学校の『創立80周年記念誌・くすの木』に、当時のようすを伝える1枚の写真が掲載されています。この年は、日独伊三国同盟・大政翼賛会の結成等、日本は着実に戦争準備を整えました。皇紀2600年の式典も戦争に備えて、国民の意識を高め、団結を強める意味がありました。皇紀二千六百年(昭和15年)1940年12月10日、紀元二千六百年奉祝の記念式典が全国で実施されました。また、加古川小学校でなされた「紀元二千六百年奉祝式典に関する訓話」は、この日...加古川町中津・河原探検(6)皇紀二千六百年(昭和15年)

  • 加古川町中津・河原探検(5) 中津駅

    中津駅「播州鉄道」は、大正2年(1913)に加古川~西脇間で開業です。開業後、まもなく経営は困難になり、第一次世界大戦後の不況が、さらに追い討ちをかけ、大正12年(1923)、経営陣はかわり、名称も「播但鉄道」として、再スタートをきりました。この頃から利用者も増え、経営も順調にのび、地域の重要な足となりました。時代は太平洋戦争に突入し「播但鉄道」は国有化され、国鉄・加古川線となり、その後、民営化され現在にいたっています。「氷丘小学校60周年記念誌」に、播州鉄道の時代、氷丘小学校脇に中津駅があったことを取り上げています。「播鉄(播州鉄道)は、よく列車の故障がありました。当時、学校脇に中津駅というのがあって、学校の汐干狩の時だけ停車しました。この駅で降りるのは、氷丘小学校の先生二人だけだったんです」とA氏は話してお...加古川町中津・河原探検(5)中津駅

  • 加古川町中津・河原探検(4) 升田堤防(中津河原の対岸の堤防)建設はんた~い!

    升田堤防(中津河原の対岸の堤防)建設はんた~い!加古川の豊かな流れは、生活の糧であるとともに、時には洪水を引きおこし、住む人の家を壊し、田畑を流しさった。流域の人々にとっての生活は、まさに加古川との闘いの歴史でした。時は万治元年(1655)、姫路藩は、升田山から船頭(ふなもと・加古川橋西詰)にかけて、丈夫な堤防(升田堤)をつくり、水害を防ぎ現在の加古川本流の西側に広大な田畑を作ろうとしました。この升田堤が完成すれば、その対岸の大野・中津村等の洪水の可能性が大きくなります。そのため、大野・河原・中津の百姓達は、藩主・榊原忠次に嘆願書を出しました。「・・・私たちの村々は、昔から水害の際は西側と同じように被害を受けてきました。ところが、この度の工事で右岸(西岸)だけが強くなり、左岸(東岸)が弱いままですから、一方的に...加古川町中津・河原探検(4)升田堤防(中津河原の対岸の堤防)建設はんた~い!

  • 加古川町中津・河原探検(3)  梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠る

    梶原十衛門(冬庵)神吉城の援軍に冬庵について余話を付け加えてきます。(神吉)頼定は、兄・信烈の臨終の時に、次の約束をしました。「(神吉城の)次の領主は、一端は自分が継ぐが兄の遺児・信常が成人した時には、信常を城主とする」と。頼定は、なやみましたが、その次代の神吉城主・信常を三木へ送りました。信常は、この時まだ13歳でした。この入城には、反対の者も少なくありませんでした。頼定は、信常の守役として、三枝晴重ら12名を付けました。一方、信常の入城に応えて、三木城より神吉城への加勢がありました。この時、神吉城に入ったのは、梶原十右衛門冬庵ら41名の歴戦の武将でした。梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠るたぶんに伝承の域を出ませんが、梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきます。冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大...加古川町中津・河原探検(3) 梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠る

  • 加古川町中津・河原探検(2) 中津構居跡(中津権現社)

    中津構居跡(中津権現社)中津権現社に、説明板があるので読んでおきます。播磨鑑(宝暦二年)に、「梶原冬庵古城跡大野郷在中津村今農家ノ居屋敷ト成鎌倉権五郎景政ノ末葉天正年中秀吉ノ為ニ神吉城ニ於テ討死ス」とあり、播州古城記には「中津城中津村鎌倉権五郎景政ノ末葉梶原十右衛門の居城也天正中神吉式部貞範に従いて討死す」と説明しています。平成三年三月加古川市教育委員会援軍は来らず三木城の戦いで三木側についた加古川地方の諸城は、当然、瀬戸内海を圧して進んでくる頼もしい毛利の援軍の光景を描いていました。三木方にとっての最大の不運は、毛利方には余裕がなかったこと、そして、何よりも毛利家は天下に覇を求めなかったことにありました。最後まで、強烈な毛利からの援軍はありませんでした。神吉城の戦い(天正6年・1567)は、当地方では最大の戦...加古川町中津・河原探検(2)中津構居跡(中津権現社)

  • 加古川町中津・河原探検(1) 顔のない仏様

    顔のない仏様なんや、この仏さん(写真)顔ないわ。いたずらされて、かわいそうやな・・・」とある子どもは大きな声でいいました。私も「いたずらにしては度が過ぎる」と同じような気持ちになりました。中津の権現社(加古川市加古川町中津・加古川の水管橋のすぐ東)にあるこの石仏について『加古川市史(第七巻)』は、次のように説明しています。・・・・面の中央に磨りこんだU字状の溝がついているほか、全体に損傷がひどい。・・・天文ころ(1540)の造立と推定して、ほとんど誤りがないであろう・・・ある時、地元のYさんが、次のように話してくださいました。「・・・そうやな。この仏さまは大日さんで、頭や歯などが痛い時、石でお顔を擦りますねん。そして、その白い粉を痛いところにこすりつけると、ふしぎになおります。・・・なおったら、お礼に河原で拾っ...加古川町中津・河原探検(1)顔のない仏様

  • 加古川町大野探検(55) 大庄屋・荒木弥一右衛門

    「大野探検」をダラダラまとめていました。前号で終える予定でした。読み返してみるとなんと大野の歴史では抜かすことのできない「江戸時代の大庄屋・荒木弥一右衛門』がありませんでした。急遽つけ加えました。大野探検は「大庄屋・荒木弥一右衛門」で終わりとします。大庄屋・荒木弥一右衛門江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれていました。大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋です。つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいました。庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっていました。荒木弥一右衛門は、文化7年(1810)大庄屋を命じられ、明治4年の廃藩置県まで続きました。大野組は、他の「組」よりも大きな組でした。文政1...加古川町大野探検(55)大庄屋・荒木弥一右衛門

  • 加古川町大野探検(54) 最近の大野(大野・加古川駅付近の洪水)の洪水

    最近の大野(大野・加古川駅付近の洪水)の洪水大雨の時、加古川の水位は高くなります。そんな時は、加古川支流の水が本流に流れ込めなくなります。このような時は、「強制的』に本流へ排水する必要があります。このような理由で曇り川と本流の合流点に、排水機場が1964年に設定されました。それでも、排水は充分ではありませんでした。曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となりました。排水機場の排水能力を超えました。水の行き場がなくなります。曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、水害(写真:1961年の加...加古川町大野探検(54)最近の大野(大野・加古川駅付近の洪水)の洪水

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