この文章は2007年2月10日の「ひろかずのブログ」に書いた文章を少し書き直したものです。神野倉庫解体2007年、加古川市加古川町大野にある旧陸軍神野弾薬倉庫の解体作業がほぼ終わりました。この戦争遺跡は、やがて取り壊されるとは聞いていましたが、解体作業がはじまっているのを知ったのは1月の中旬でした。さっそく、写真を撮りに出かけました。旧神野弾薬庫は、昭和12年(1932)頃に建設され、戦後は加古川刑務所が建てられました。終戦で不要となった弾薬庫や工場(現在の計務余と日岡公園の間)など9棟が放置されたままになっていました。地元の「旧陸軍神野弾薬庫等の戦争遺跡保存会」等が建設の「戦争遺跡」として保存を求めてましたが、傷みがひどく保存は難しい状態でした。加古川市は、日岡公園の駐車場としてこの3万9千平方メートルの土地...加古川町大野探検(53)神野倉庫(2)・神野倉庫解体
加古川町大野探検(52) 神野倉庫(1)・もと、加古川刑務所は弾薬庫(神野倉庫)
写真は、加古川刑務所で、所在地は、加古川市加古川町大野1530番地です。ですから、「大野探検」で刑務所について簡単に述べておきましょう。もと、加古川刑務所は弾薬庫(神野倉庫)戦前・戦中、ここは陸軍の弾薬庫であり、航空用爆弾に火薬をつめる作業を行っていました。「B52」の爆撃機の本土空襲が激しくなった頃、神野倉庫が空襲を受けると大惨事となることが予想されたので、新井用水沿いや日岡山公園周辺に横穴の壕を多数掘って、火薬・弾薬を隠していました。『水足誌』(水足史誌編纂委員会)に、次のような記述があります。読んでおきましょう。「・・・・大野山周辺、新井川の高い斜面に横穴を掘って火薬を隠したり、北浦の新田の畦や空き地に300キロ、500キロの爆弾が数個ゴロゴロと、ころがされてムシロで覆われており、兵隊が時々見回ってくる状...加古川町大野探検(52)神野倉庫(1)・もと、加古川刑務所は弾薬庫(神野倉庫)
太鼓橋『大野史誌』は、太鼓橋の説明を次のように書いています。・・・・この橋は常楽寺を流れる新井用水路に架かっていたが、日岡山公園道路の新設に伴って不要となり、本堂東の霊場竹生島に移設し保存されている。・・・新井用水太鼓橋の説明は以上ですが、ここで用水路について紹介しておきます。新井用水は、加古川大堰のところから常楽寺の山門前を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水です。承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。現在の播磨町・平岡町・野口町の溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太...加古川町大野探検(51)常楽寺の石造物(6)・太鼓橋
加古川町大野探検(50) 常楽寺の石造物(5)・文観上人慈母塔?
加古川町大野探検(16)で、少しだけ紹介しておいた常楽寺墓地の紹介です。常楽寺の宝塔常楽寺の墓地にある宝塔は材質(花崗岩)、様式等から伊派の手による石造物であることはたしかです。この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)に次のような説明があります。(文章は変えています) (常楽寺宝塔) 花崗岩製 高さ 2.35メートル 銘文 正和四年(1315)乙卯八月 日 願主 沙弥道智この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時、慈母をここ葬ったと『播磨鑑』は伝えています。 道智は、東大寺戒壇院の律僧『播磨鑑』の著者、平野庸脩(ひらのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。また、塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈す...加古川町大野探検(50)常楽寺の石造物(5)・文観上人慈母塔?
石棺(古墳時代後期:6~7世紀)常楽寺の境内の宝塔とうの前に石棺があります。説明板に、その説明があるので、読んでおきます。<石棺>この石棺は「くりぬき石棺」の身です。凝灰岩(竜山石)製縦146センチ横75センチ高さ54センチくり抜き部の深さ38センチ説明は以上で、詳細は分からないようです。日岡山周辺にはたくさんの古墳がありましたが、壊されて現在は、ほとんど姿を消してしまいました。氷丘中学校設置の石棺と同時代のものか同時代の古墳から見つかった石棺が氷丘中学校の正門近くに設置されているので、みておきます。氷丘中学校(加古川市加古川町大野)の正門を入ると、向かって右に石棺は、昭和59年に、ここに設置されたものです。神戸新聞は、この石棺を次のように報道しました。名前等、一部記事を変え転載します。・・・石棺は、ふたが失わ...加古川町大野探検(49)常楽寺の石造物(4)・石棺
この宝塔について、加古川市教育委員会の説明板がありますので読んでおきます。宝塔この宝塔は、銘文により文化元年(1804)に造立されたことが分かります。凝灰岩(竜山石)製全高186.5センチ平成三年三月三日加古川市教育委員会宝塔について宝塔と言えば、ふつう基礎・塔身・笠・相輪からなり、塔身が円筒形の軸部と首部からなる塔のことです。宝塔は、基本的に経塚の墓標として用いられてきました。しかし、その後、念仏供養などに用いられるようになりました。常楽寺の宝塔は、経塚の標識ではなく、供養塔です。この宝塔には、文字が多く刻まれています。まだ読めていません。きょうは、境内に文化元年(1804)造立の宝塔があるということにとどめておきます。(no5152)*写真:常楽寺境内の宝塔加古川町大野探検(48)常楽寺の石造物(3)・宝塔
加古川町大野探検(47) 常楽寺の石造物(2)・板 碑(いたび)
板碑(いたび)板碑は、中世仏教(鎌倉~室町時代)で使われた供養塔です。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものです。頭部に二条線が刻まれています。実際には省略される部位分もあります。板碑は、鎌倉時代~室町時代に集中してつくられました。戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもあります。現代の卒塔婆につながっています。常楽寺境内の板碑常楽寺境内の板碑は、梵字(種字)ではなく、地蔵菩薩が彫られています。板碑の横に少し説明がありますので、一部をお借りします。常楽寺の板石(板碑の石材)は、古墳後期(6世紀)に使用されていた組合せ石棺材です。この付近の日岡山古墳群のから出土したものでしょう。室町時代後期に造られたものと...加古川町大野探検(47)常楽寺の石造物(2)・板碑(いたび)
加古川町大野探検(46) 常楽寺の石造物(1)・常楽寺の十三重の層塔
常楽寺の十三重の層塔この十三重の層塔は、常楽寺本堂の東の茂みの中にあります。基礎には何の装飾もありません。塔身の軸部に種字があるだけです。銘は、風化によりほとんど判読できません。層塔は、十層までの各層には、ほとんど破損がありませんが、上段の二または三層は欠失しており、急に細くなっています。相輪部は、後の補修で不似合いです。竜山石製高さ約5メートル銘文□□(正中?)二年乙□□□□*銘は現在、風化のためほとんど判読できません。この十三重の層塔について、『加古川市史(第七巻)』は、「・・・全体としては、なおよく古調をとどめているが、・・・・おそらく(鎌倉時代)後期の中ごろのものとしてもややおそく、1325年頃の像立と推定してほぼ誤りがないであろう・・・」としています。当然ですが、寺院の石造物は単なる飾りではありません...加古川町大野探検(46)常楽寺の石造物(1)・常楽寺の十三重の層塔
焼けた古仏立像『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)の木造古仏立像(写真)を紹介しています。紹介しておきましょう。木造古仏立像一木造彫眼像高54.0センチ年代不詳常楽寺の本堂堂奥に安置されている仏像の一体です。火災に遭ったためであろうか、すでに全身が大きく損われており、像容は詳らかではありません。恐らく常楽寺または村内の堂から移されたものでしょう。『播磨鑑』に載る寺記によると、常楽寺は大化元年(645)に法道仙人によって草創され、正嘉二年(1254)に洪水により堂宇が流され、その後、文観(1278~1357)が再興したとされています。さらに、天正六年(1578)に秀吉に焼かれ、延宝二年(1674)に現在の地に本堂を建立したとしています。現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷として...加古川町大野探検(45)焼けた古仏立像
加古川町大野探検(44) 日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)
日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)常楽寺の観音像の説明の続きです。写真をご覧ください。・・・・注目すべきは、台座下部背面(聖観音菩薩立像)台座銘に「日向宮本地仏」の銘が向って右から左に陰刻されていることです。台座の制作は、その形式と本堂の他の仏像等の修理から17世紀後半と考えられますが、その頃には、この像が、日向宮(日岡神社)の本地仏とされていました。室町時代後期から江戸時代初期にかけて、常楽寺の寺勢は衰えていたため、この関係をどの程度遡って考えるかは問題です、加古川市内唯一の式内社である日岡神社と、中世播磨で隆盛を誇った常楽寺との、神仏習合のようすを窺わせる貴重な資料といえます。ここで、「本地仏・日向宮・式内社」の言葉を整理しておきます。本地仏(ほんじぶつ)「本地(ほんじ)」というのは本来の姿という意味...加古川町大野探検(44)日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)
加古川町大野探検(43) 木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)
・・・・常楽寺について『大野史誌』は、「天正六年(1578)羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した」とだけ記述しています。常楽寺のことを調べたいのですが、残念なことに記録・寺宝等は焼かれ、現在ほとんど残されていません。・・・私もそう思い込んでいたのですが、常楽寺には立派な聖観音立像等がわずかに残されていました。秀吉軍により、焼き打ちになることが予想されたのでしょう。この観音菩薩像はどこか別の場所に隠していたのかもしれません。この観音像について、『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)からの説明をお借りします。木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)常楽寺本堂の奥に安置される聖観音菩薩立像である。穏やかな相貌を持つ、やや大きめの頭部と、奥行のある体部の肉取りさらに、腰をやや左に捻り、微妙に左足を踏出...加古川町大野探検(43)木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)
常楽寺炎上江戸時代に書かれた『播磨鑑』に「・・・常楽寺の支配下にあった寺は、十八ヵ寺を数えた」とあります。調査により、確認されているのは十ヵ寺で、後の寺については分かっていません。常楽寺(加古川市加古川町大野・日岡神社の東隣)は、大きな寺であったようです。そんな、大きな勢力を誇った寺が、急速に勢力を弱めた理由は、何であったのでしょう。戦国時代のことです。播磨地方を西(山口)の毛利が支配下におくか、それとも東の信長・秀吉が支配するかをめぐって、一大決戦が東播磨の地で展開されました。加古川地方は、当時三木・別所氏の配下にあり、その別所氏は毛利に味方しました。(この戦で、加古川城主・糟谷氏のみは、信長方に味方しました)信長は、秀吉に三木攻めを命じました。秀吉は、三木・別所氏に味方する加古川地方の城・寺々を先に焼き討ち...加古川町大野探検(42)常楽寺炎上
明治天皇、日岡山へ明治30年(1897)4月、姫路に陸軍第10師団が新設され、春と秋の二回大規模な演習が定期的に行われるようになrました。明治36年(1903)11月12日~15日に実施された特別演習は、日露戦争(明治37)を想定して特別な意味をもっていました。善通寺(香川県)の師団も加わり大規模な戦闘訓練でした。加古川が主な演習場になったのは11月13日で、この時、明治天皇が加古川に来られ、日岡山から、この訓練のようすを天覧しています。その場所(OAA会館とひれ墓との間の山頂部)に、写真のような記念碑(駐蹕の碑)が建てられています。駐蹕は、読みづらい文字ですが、「ちゅうさつ」と読みます。意味は、「天子が行幸の途中、一時乗り物を止めること。また、一時その土地に滞在しすること」です。*大辞林(小学館)よりこの、戦...加古川町大野探検(41)明治天皇、日岡山へ
聖徳閣(しょうとくかく)聖徳閣(写真)。懐かしい風景です。日岡山山頂にありました。でも、この建物を知る人は少数派になりました。その日は、桜の満開の、少し風のある日でした。老夫婦は「聖徳閣」はどこですか・・・」と、公園で遊んでいる中学生にたずねたました。もちろん、中学生はそんな建物があったことは知りません。「このおっさん・・・場所まちがえたんちかうか・・・」と。そして「そんなもん、ここにあらへん」と応えたらしい。老夫婦は、久しぶりで昔の思い出を捜されていたのでしょう。それにしても、そっけない中学生の気持ちに、さぞがっかりされたこと思われます。昭和11年、現在の日岡山のハリマハイツの場所に聖徳閣はつくられました。『写真集・加古川(玉岡松一郎編)』の説明を転載しておきます。昭和11年8月、多木久米次郎氏が日岡山に建て...加古川町大野探検(40)聖徳閣(しょうとくかく)
義勇奉公之碑日本は、清国(明治27・28年)との戦争で勝利し、この日清戦争の勝利は、日本を軍国主義に導くきっかけとなりました。日岡神社の門(随神門)をくぐると、すぐ西(左手)の小高い丘に、写真のような塔があります。この塔は、「義勇奉公之碑」で、戦没者を慰霊するための塔です。明治29年6月25日に建立されました。この時期、日本は日清戦争勝利の余韻の中にありました。塔の建立以来、4月20日には加古郡全体の慰霊祭が、この場所で行われました。その後、日本は日露戦争・満州事変・日中戦争へと突き進んでいきました。『大野史誌』(大野町内会発行)は、昭和7年4月20日の加古郡全体の戦没慰霊祭の写真を載せています。なお、この慰霊祭に参加した町村は、加古川・高砂・別府・尾上・神野・八幡・加古新・野口・二見・天満・阿閉・平岡・母里そ...加古川町大野探検(39)義勇奉公之碑
亥巳籠(おいごもり)日岡神社に伝わる伝統行事を紹介しましょう。日岡神社でいただいたパンフレットから引用します。(少し、文章を変えています)(亥巳籠は)一般に「おいごもり」と呼ばれ、旧正月後の最初の亥の日~巳の日まで籠るので「亥巳籠」と言われています。ヤマト・タケルのお母さん(稲日大郎姫命・いなひおおいらつめのみこと)は、双子の皇子をご出産しました。亥巳籠は、その時、安産されるように黙祷(もくとう)した状態を後世に伝えたものだといわれています。(写真上:神社では本殿の扉を榊で囲い、しめ縄を張り、鈴を柱に結えていっさいの音を禁じています)また、この期間中に安産のお参りの方へのご供養をつくったり、頭人を決めたり、氏子や地域のための平和と繁栄を祈ったりします。(写真下:ご祈祷に授与するご神供つくりのようす)亥巳籠が明け...加古川町大野探検(38)亥巳籠(おいごもり)
今日の話題「居屋河原(いやがわら)神社」は、「加古川町寺家町探検(29)」と同じ内容です。ご了解ください。居屋河原日岡神社加古川地域の地名を研究されていた石見完治(いわみかんじ)さん(故人)は、著書『古地名新解』で、居屋河原(いやがわら)について、次のように「いつの頃か、はっきりしませんが、日岡山に神社がなかった昔、居屋河原(いやがわら)のこの地初めて宮を建てて、九州の「日向はん」をお迎えして祀りました。そして、神武天皇がここに祖神を祀り、礼(禮「いや」)をつくして、この神を崇められたので「禮ヶ原(いやがはら)」という」という地名伝承を紹介されています。なお、江戸時代、日岡神社は「日向(ひゅうが)神社」であり、日岡神社と呼ばれるようになったのは、明治の初めのころです。「居屋河原神社は、現在の日岡神社発祥の神社で...加古川町大野探検(37)居屋河原日岡神社
古代山陽道7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強めました。そして、勢力を更に拡大するために道を整備しました。とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は重要な道でした。街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたりました。野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれました。山陽道最大ということは、日本で最大の駅が野口に置かれたのです。他の駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていたのですが、賀古の駅は、40頭を数えました。山陽道のバイパス古代山陽道は、今の国道二号線に沿って造られましたが、図の点線のような古代山陽道は、野口から日岡山へ、そして升田へ渡り、神吉・大国・岸・魚橋というバイパスがよく使われました。*地図で確認ください。古代において日...加古川町大野探検(36)古代山陽道
加古川町大野探検(35) 文観を追え(16)・「文観を追え」は、いったん休憩
「文観を追え」は、いったん休憩文観の話も、そろそろ退屈になってきたのでは?次回から、大野に話を戻しましょう。文観は、加古川出身の人であり、日本史の転換点に出現した重要な人物です。加古川人としては、黙っているわけにはいきません。もっと知っていただきたい人物です。最近、歴史学では文観の姿は、徐々に浮かび上がっていますが、まだまだはっきりとした人物像が浮かんではいません。資料(記録)が少ないためです。でも、記録は紙に書かれた資料ばかりではありません。彼は、奈良西大寺の僧としても大活躍しています。西大寺は、石工集団を抱えていたことで知られています。それに、彼らは、播磨地方で大きく活躍していたことも明らかになっています。播磨地方は、御影石は少ないものの、石材で有名な所です。石像を始め石の製造物がたくさん残されています。そ...加古川町大野探検(35)文観を追え(16)・「文観を追え」は、いったん休憩
加古川町大野探検(34) 文観を追え(15)・文観は、破戒僧でない
文観は、破戒僧でない南朝方の劣勢は覆うべくもなく、延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天皇は京郡奪還の夢を果たすことなく世を去りました。文観は、正平十二年(1357)河内金剛寺大門往生院で亡くなりましたが、後醍醐天皇の死後、活躍はありません。文観の人生は、後醍醐天皇の活躍と重なっています。『太平記』によりつくられた文観の評価文観の死後の話です。文観の宗教は、もっぱら「邪教」真言宗立川流の祖とされて流布されていました。この宗派は、「セックスを宗教に持ち込んだ異形の信仰である。」としています。この説は『太平記』により広がった説を言えるようです。後醍醐天皇が亡くなり、足利尊氏の時代が始まりました。足利幕府によりつくられた公認の歴史書と言える『太平記』では、後醍醐天皇の政治・文化をよく書くはずがありません。後醍醐天皇...加古川町大野探検(34)文観を追え(15)・文観は、破戒僧でない
鎌倉幕府滅ぶ元弘二年(1333)五月二十二日、北条時高(31)は、鎌倉の東勝寺で最期を迎えました。グレンの炎は次々と自害する諸将を焼き尽くしました。死者は600人、みな切腹して果てました。鎌倉幕府は滅びました。文観の活躍元弘三年(1333)六月五日、後醍醐天皇は京都へ凱旋しました。引き続き文観が鬼界ヶ島(硫黄島・鹿児島県)から帰ってきました。その後の文観の経歴は、華々しいものでした。(南朝年号)・正慶二年(1333)硫黄島から帰洛・建武元年(1334)このころまでに醍醐寺座主・東寺大勧進職・建武二年(1335)東寺一の長者(真言宗のトツプ)・建武三年(1336)大僧正に任じられるしかし、後醍醐天皇による「新政(建武の新政)」は、失敗し、足利尊氏にうらぎられ、吉野に逃げ込みました。時代は、めまぐるしく動きます。後...加古川町大野探検(33)文観を追え(14)・鎌倉幕府滅ぶ
後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し、京都へ凱旋し、「新たな政治」(建武の新政)をはじめました。建武の新政とその後の南北朝の展開の詳細については、他の書物をお読みください。ここでは中学用歴史教科書(『中学新歴史・帝国書院』)を読んでおきます。建武の新政幕府をほろぼした後醍醐天皇は、1334年、年号を「建武」と改め、天皇みずからが政治を行いました。そして、これまでの公家(くげ)政治のしきたりを大はばに改め、公家と武家の政治の両面を取り入れたしくみをつくり、倒幕(とうばく)に功績のあった公家や武士に官職をあたえました。これを「建武の新政」といいます。しかし、新政府は、公家や寺社をたいせつにしましたが、倒幕に活躍した武士に対しては恩賞が少なく、また、当時の武家社会につくられていた慣習を無視したりしたため、多くの武士たちから不...加古川町大野探検(32)文観を追え(13)・建武の新政
加古川町大野探検(31) 文観を追え(12)・後醍醐天皇、隠岐に流されるも
後醍醐天皇、隠岐に流されるも倒幕計画に失敗した後醍醐天皇はとらわれ、さらに暮府によって皇位をはくだつされ、隠岐(おき)に流されました。元弘二年(1332)三月、鎌倉幕府の滅亡の1年余り前のことでした。後醍醐天皇は、身を日本海に浮かぶ孤島におくことになりましたが、時代は動いていました。時代は、商業も盛んになり、情報の飛び交う社会でした。隠岐は、かつての孤島ではありません。情報は、秘密のルートからどんどんもたらされました。後醍醐天皇の遠島の後も、息子の護良(もりよし)親王や、河内(かわち)の豪族、楠木正成(くずのきまさしげ)らによって、なおも根強く倒幕運動は続けられていました。後醍醐は、隠岐島にいながらも、なお幕府打倒の機会を虎視眈々と狙っていたのでした。隠岐へ流されてから11か月後のことでした。元弘三年(1333...加古川町大野探検(31)文観を追え(12)・後醍醐天皇、隠岐に流されるも
加古川町大野探検(30) 文観を追え(10)・後醍醐天皇、加古川を行く
後醍醐天皇、加古川を行く正和五年(1316)、北条高時が執権につきましたが、幕府の支配体制の乱れは著しものがありました。復習です。先に述べたように、この機を見た後醍醐天皇は、正中(せいちゅう)元年(1324)、倒幕を計画しました。しかし、後醍醐天皇は、天皇には珍しく、それであきらめるような人物ではありません。元弘元年(1331)にも倒幕の計画を進めましたが、この時も身内の密告により失敗に終わってしまいました。俊基は、捕らえられ鎌倉へ護送されました。文観は遠島でした。そして、後醍醐天皇は、隠岐島(おきのしま)に流されることになりました。京都を出発した天皇一行は、7月12日に教信寺(加古川市野口町)の前の山陽道を通り、加古川の宿に入りました。加古川での宿は、播磨の守護所(場所は現在の称名寺-加古川町)でした。残念な...加古川町大野探検(30)文観を追え(10)・後醍醐天皇、加古川を行く
加古川町大野探検(29) 文観を追え(10)・文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ
文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ後醍醐天皇の幕計画は正中の変に続き、またまた失敗でした。今度は、鎌倉幕府は激怒しました。厳しい取り調べでした。文観には死罪の決定が下されました。「たとえ身分の高い僧であろうとも、死罪にすべきだ」ということに決まったのです。しかし、次のような噂話がまことしやかにつたえられています。・・・・執権の北条高時が眠っているとき、夢の中に数千の猿があらわれ、「われらは、比叡に住む仏の使者である」と、猿が高時(時の執権)につげたのでした。「僧たちに拷問(ごうもん)にかけたらしいが、かならず仏罰があろう。さきごろの地震も、そのむくいである・・・」と言って姿を消しました。もともと気の弱い高時は、夜中におきて、部下をやって、文観の獄舎をのぞかせたところ、獄舎の障子に、不動明王の姿が写しだされてい...加古川町大野探検(29)文観を追え(10)・文観、死罪を免れ鬼界ヶ島(硫黄島)へ
加古川町大野探検(29) 文観を追え(9)・正中の乱は失敗するも!
正中の乱は失敗するも!幕府は、倒幕の中心となった日野資朝(すけとも)・日野俊基(としもと)を取り調べましたが、下手な裁断はくだせませんでした。倒幕を企てたといっても、密告だけで、これという証拠もなかったのです。もし、倒幕計画に加わったと思われる公家たちをことごとく捕え、後醍醐天皇までむりやりに退位させてしまえば、地方の武士や民衆の反発を買いかねません。決裁は、両名を死刑にするところですが、資朝(すけとも)は佐渡ヶ島へ遠島。俊基(としもと)は「無罪」となりました。後醍醐天皇は、これでへこたれるような、やわな天皇ではありません。「倒幕」の二文字がますます燃え盛るのでした。それからしばらく経(た)って、宮中に、醍醐寺の文観僧正が招かれました。「ご坊に、お願いがございます」と、俊基が殊勝な顔つきで、頭をさげるのでした。...加古川町大野探検(29)文観を追え(9)・正中の乱は失敗するも!
加古川町大野探検(27) 文観を追え(8)・後醍醐天皇の野望
後醍醐天皇の野望八髻文珠菩薩(般若寺)の語ること後醍醐天皇の討幕にかける執念を知る手掛かりが、奈良の般若寺に残されていました。般若寺には古くから伝えられてきた仏像・「八髻(はっけい)文珠菩薩」(写真)があります。最近、歴史学者・網野善彦氏等の研究により、その文殊菩薩が後醍醐天皇の意を受けた文観が、幕府打倒を祈願してつくらせたものであったことが明らかになりました。菩薩の体内から、そのことを示す銘文が発見されました。銘文は「金輪聖主御願成就」とあり、般若寺の住職の話では、「文珠菩薩が大変痛んでいたので、解体修理した際に見つかった」ということです。「金輪聖主」とは後醍醐天皇のことです。後醍醐天皇は、着々と討幕の準備を進めていました。さっそく仲間を集め、秘策が練られました。「この計画を隠すために行われた無礼講では、素肌...加古川町大野探検(27)文観を追え(8)・後醍醐天皇の野望
加古川町大野探検(26) 文観を追え(7)・文観、西大寺の僧に
文観、西大寺の僧に文観は、弘安元年(1278)に播磨国(はりまのくに)に生まれ、13歳のときに法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ)(兵庫県加西市)で出家し、僧になりました。法華山・一乗寺は、真言律宗の開祖叡尊(えいぞん)ゆかりの寺院であり、法華山で僧になった文観は、二年後には、叡尊がかつて住職であった奈良西大寺へはいり、西大寺二世長老の信空(しんくう)から教えを受けました。正安三年(1302)に、西大寺の信空から教えを受け、秘法を授けられた文観は、同年に醍醐寺報恩院の道順から阿闇梨(あじゃり:真言・天台の高僧)の位を持つ正規の僧となっています。醍醐寺で得度した叡尊が、西大寺流の律宗をおこしたのちも、醍醐寺や高野山と関係を持ちつづけたように、文観もまた、正規の真言僧でありつつ、西大寺流の律僧としての活動をつづけ...加古川町大野探検(26)文観を追え(7)・文観、西大寺の僧に
西大寺の末寺文観、西大寺(奈良)と大野(加古川町大野)の常楽寺とのつながりを見ましょう。私たちの地域で、西大寺の末寺は常楽寺だけではありません。西大寺の末寺帳に次の寺が挙げられます。加古川市加古川町本町常住寺元は寺家町加古川市平荘町山角報恩寺加古川市尾上町成福寺(不明)*常樂寺は、西大寺直参末寺の中でも、最も格が高いグルーブに入っています。以上の4ヵ寺の内、成福寺は名前のみで詳細は分かりません。尾上神社あたりにあった寺院ではないかと想像しています。兵庫大学の金子先生は西大寺流の寺院として、さらに次の2寺を指摘されています。西大寺流寺院稲美町中村円光寺(元は国安)加古川市加古川町稲屋福田寺加古川地域は、真言律宗西大寺とつながりが特に強固な地域でした。真言律宗が私たちの地域に果たした役割を見ていきたいのですが、私た...加古川町大野探検(25)文観を追え(6)・西大寺の末寺
加古川町大野探検(24) 文観を追え(5)・常楽寺は、西大寺系の真言律宗の寺院
加古川市大野は北條郷最近の網野善彦氏を中心とする研究でも、「文観の生まれは加古川市大野である」としています。「北条」の件ですが、中世、大野あたりは北條郷でした。「北条」と言えば加西の北条がよく知られているため加西と思い込みがちですが、加古川市大野は中世、北條郷です。文観は加古川の北條郷で生まれたとされています。新仏教と旧仏教鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きました。その上に重い税金があり、人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。こんな時、人々は仏様に救いをもとめます。この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。そして、「浄土(極楽)」の教えを広めようようとしたのです。それも、厳しい修行は必要でなく、一心に仏様にすがれば、極楽に往生できるという教えでした。そのため...加古川町大野探検(24)文観を追え(5)・常楽寺は、西大寺系の真言律宗の寺院
加古川町大野探検(23) 文観を追え(4)・父とは不仲であったのか?
父とは不仲であったのか?史料「瑜伽伝(ゆがでん)」から、彼について想像してみます。彼の直弟子の宝連(ほうれん)が書いています。少し気になるか所があります。「(文観は)大野源太夫重貞孫也、播州人也、弘安元年戊寅正月十一日乙未鬼宿金曜辰初分誕生、非母可生孝子・・・・」の部分です。「(文観は)大野源太夫重貞孫也」と書いており、お爺さんが登場し、父のことを書いていません。何か理由がありそうです。彼の父が亡くなっているのであれば、別の書きようがあるはずです。母については「非母可生孝子」と書いています。少年時代、どのような家族構成で生活したのかはわかりませんが、家族問題をかかえていたようです。このような家庭環境のためか、聡明な少年であった後の文観は、父、母あるいは世話をする人により寺に預けられたのかもしれません。その寺が大...加古川町大野探検(23)文観を追え(4)・父とは不仲であったのか?
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