1945年(昭和20)になり、米軍は中小都市への攻撃を強化しました。米田国民学校の日誌では、1945年7月の空襲警報発令は、15回に達し、日に11回発令されることも、稀ではなくなりました。この事態は、「小軍都」と化していた加古川地域にとって深刻でした。加古川駅の空襲そして、ついに恐れていた空襲が加古川地域を襲ったのです。『加古川市誌(第一巻)』に、7月23日に、グラマン戦闘機が、加古川駅を機銃掃射したのに続いて、翌24日、米機3機が、小門口に爆弾を投下し、加古川駅に避難した急行列車を銃撃し、死者1、負傷3の犠牲が出ました。しかし、加古川町の「昭和20年事務報告書」によれば、被害は、さらに大きかったようです。同報告書は、被害を死亡3、重傷3、全焼壊家屋1、半焼壊家屋2棟と伝えています。「加古川小学校の学校沿革誌」...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(26)加古川駅の空襲
加古川駅前の水害加古川市広報(15号・昭和27年7月発行)は、加古川市内の水害を大きく取りあげています。以下は、「加古川市広報」からの抜粋です。(文字等一部変えています)写真は、昭和36年の加古川駅前通りの水害のようすです。根本的対策を急ぐ!(昭和27年)6月末から降り続いた雨は、7月に入り熱帯性低気圧の影響を受けて、さらに、ものすごい豪雨となったため各河川は刻々と増水しはじめ、2日夜8時頃には徐々に低地から浸水し始め・・・・、3日、ついに水は市街地へ浸水し、家屋への浸水.田畑の流失埋没等の被害があった。毎年、雨季に発生するこうした水害の原因は、加古郡天満村に源を発する「曇川(くもりがわ)」の最下流が、市内の灌漑用水を運ぶ五ヶ井水路に直結しているため、豪雨等によって増水し、曇川樋門を通じて加古川本流への放出が困...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(25)加古川駅前の水害
明治29年の水害最近の加古川駅前の水害の様子を見ておきたいのですが、その前に今回は予備知識です。大雨の時、加古川の水位は高くなり、水の勢いは増します。そんな時は、加古川の水の取り入れ口へ、反対に大量に流れ込むことになります。そのため、取り入れ口の水門は閉じられます。しかし、困ったことがおこります。曇り川(神野町)に、それをみましょう。曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となります。こんな時は、加古川へ排水する水門は閉じられます。水の行き場がなくなります。曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(24)明治29年の水害
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(23) 隅釜地蔵堂の地は篠原町の発祥の地か!
北篠原、隅釜地蔵尊(すみかまじぞうそん)おおきな招き猫の像が建物に沿って西へ10メートルほど行きます。そして、病院の集まったビルに沿って南へ少し歩き、最初の三差路を20メ―トルば西に行くと小さなお堂があります。そのお堂が、北篠原隅釜地蔵堂です。説明板には、隅釜地蔵会の説明があります。つまみ食いをして紹介会いましょう。隅釜地蔵堂の地は篠原町の発祥の地か!このお堂の地蔵尊三体のうち中央の両側に祀られている石仏尊は室町時代後期、天文2年(約450年前)のもので、当初は野佛と推察されます。地蔵堂の建立については不詳ですが、屋根の頂上の瓦には菊花の紋があり、なにやら由緒がありそうな地蔵堂です。人々は、霊験あらたかな地蔵尊にて諸願成就、特に子安、進学、安産の祈願をかけお授け戴いた人は多数ありました。当篠原町宇隅釜121番地...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(23)隅釜地蔵堂の地は篠原町の発祥の地か!
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(22) 木村一夫選手(2度のオリンピック6位入賞)
木村一夫選手(2度のオリンピック6位入賞)写真(右)がよくなく申し訳ありません。左から西田周平、織田幹雄そして、木村一夫選手です。昭和3年8月2日、新聞はオリンピック・アムステル大会で織田幹雄選手の「三段跳び優勝」を大きく報じました。そして、昭和7年のロサンゼルス大会では、南部忠平選手の三段跳びを「大日章旗上がる中に感激の君が代は轟く」と大きく報じています。この両、オリンピック大会に、氷丘小学校出身の木村一夫選手(加古川町溝之口)がいました。種目は走り高跳びで、1・88メートル、1・94メートルと両オリンピックとも6位入賞でした。関西学院中学部に進学した木村一夫さんは、昭和2年、第8回極東選手権大会の走り高跳びに出場、1・82メートルを跳び2位に入賞しています。この時の表彰状は、張学良の名で発行されています。時...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(22)木村一夫選手(2度のオリンピック6位入賞)
幻の鉄道地図で、不思議な鉄道を探してください。加古川駅から溝ノ口を通り東に鉄道がまっすぐにのび、水足あたりで北へ向きを変えている鉄道です。この地図は、昭和25年のものです。この鉄道について、水足の方に聞いてみました。「そうそう、懐かしいですね。汽車がありましたわ・・」と、この鉄道のことを思い出してくださいましたが、それ以上のことは、分かりませんでした。以前に小林精男(故人・加古川線を播州鉄道といっていた時代、運輸部総務課長をされていた)に聞いた記録があります。「・・・日岡山にある加古川刑務所は、戦前、神野倉庫と呼んでおり、今の加古川駅からこの鉄道で火薬を運んでいたんです。もともと、神野倉庫のあたりは山でしたので、その土を“尾上飛行場”建設に使ったんです・・・なにせ、あの広い場所が火薬庫でしたから、外に機密がもれ...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(21)幻の鉄道
天之御中主神社JR加古川駅のすぐ北にあるピカピカの神社に寄りました。「天之御中主神社(あめのみなかみぬしじんじゃ)」です。溝ノ口(加古川町溝ノ口)の人は、この神社を「妙見さん」と呼んでおられる。私の知っている溝ノ口の「妙見さん」は、古くて、壊れそうな神社でした。以前ここを訪ねたのは、もう約30年もまえになります。加古川駅の再開発にともない、ピカピカの神社に変身しました。これが人なら、つい「まあ!ずいぶん若く、綺麗になって・・・・」と言ってしまいそうです。神社も、周りの風景もまるで、変わってしまいました。溝ノ口に住むNさんは、子供のころの思い出として、次のように話してくださった。(以下、30年ほど前に取材した時の記録です)○春・夏の祭の頃は、小学生の子どもが太鼓をかついで、その後を数人がゾロゾロ歩き、「妙見さんの...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(20)天之御中主神社
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(19) 古代・播磨の軍団の駐留地は、溝ノ口?
古代・播磨の軍団の駐留地は、溝ノ口? 古代山陽道は駅ケ池の南岸から西進して加古川平野を横切り、現在のJR宝殿駅前あたりまでを直線で結ぶ大きな道路がありました。 およそ1300年前に設けられた古代山陽道です。 (もっとも、先に紹介したように、加古川三角州通過する古代山陽道は川筋が安定せず、野口から北へ日岡・升田・中西・岸へのバイパスがよく利用されたようです) このような幅の広い直線道路は全国七道にわたって敷設され、その最大の幹線道路が古代山陽道でした。 賀古駅は、先に紹介したように馬数の多い日本一大きな駅でした。 こうした駅路は、平時の交通だけが目的だったのでしょうか。 その最大の目的は、軍事であったと考えられます。 律令制の軍事組織として諸国に軍団が置かれました。播磨国ではその実在がまだ立証されていません。 歴...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(19)古代・播磨の軍団の駐留地は、溝ノ口?
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(18) 溝ノ口遺跡(3)・日岡豪族と溝ノ口遺跡
日岡豪族と溝ノ口遺跡以下は、『加古川市史(第一巻)』の記述を、大幅に借用しています。日岡山には図のように多くの古墳があります。図中の古墳名は、次のようです。①勅使塚、②南大塚、③西大塚、④北大塚、⑤狐塚、⑥西車塚(①・②・③・④は前方後円墳、北大塚は前方部が削りとられているが、もとは前方後円墳)これらの古墳群は4世紀にさかのぼり、被葬者は日岡山の南に広がる平野を約200年にわたって支配していたと考えられます。平野部には、南西約2キロメートルの溝ノ口遺跡をはじめ、北在家・粟津などの弥生遺跡があり、早くから開けていました。中でも「溝ノ口弥生遺跡」は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、古墳時代の住居跡も発見されています。この辺りは、加古川の氾濫原の中にあって比較的安定し、しかも水利に恵まれた場所でした。『市史...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(18)溝ノ口遺跡(3)・日岡豪族と溝ノ口遺跡
加古川町篠原(まち)・溝ノ口探検(17) 溝ノ口遺跡(2) ・弥生を中心にした複合遺跡
溝ノ口遺跡(2)弥生を中心にした複合遺跡「溝ノ口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。その後の調査により溝ノ口遺跡は、広範囲に広がっていることがわかり、3回に分けて調査が行われました。第1回目は、平成26年12月9日から12月26日まで。第2回目は、平成27年8月10日から11月24日まで。3回目は、その北の美乃利地区(美乃利遺跡)の調査が実施されました。美乃利遺跡については、後日報告しましょう。調査の結果から、これらの遺跡は、弥生時代から平安時代の複合遺構であることが確認されました。今回は、溝ノ口遺跡の発掘...加古川町篠原(まち)・溝ノ口探検(17)溝ノ口遺跡(2)・弥生を中心にした複合遺跡
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(16) 溝ノ口遺跡(1) ・市内最大の弥生遺跡
溝ノ口遺跡(1)「溝口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。多数の出土品がありました。これら出土品の一部は、加古川市文化センター(平岡町)に展示されています。溝口遺跡は、JR加古川駅から東へ約1キロメートルの場所で、少し高くなっており、当時の加古川の東岸の「自然堤防」上にあったと想像されます。また、調査により溝口弥生遺跡は、弥生遺跡だけでなく、古墳時代・奈良時代の住居も含まれている複合遺跡であることが確かめられました。市内最大の複合遺跡です。しかし、溝口弥生遺跡は、調査後埋めら、その上に加古川バイパスがつくら...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(16)溝ノ口遺跡(1)・市内最大の弥生遺跡
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(15) 「溝ノ口」って、どのあたり
「溝ノ口」って、どのあたり*以下は、『加古川万華鏡(岡田功著)』を参照させていただいています。「溝ノ口」は江戸時代初期に間形村(まがたむら)を分村しています。昭和42年加古川バイパス建設工事中に地元の中学生により溝ノ口遺跡が発見され、昭和43~4年にわたって、発掘調査がなされ、弥生時代から奈良時代にかけての住居址等の遺構、タコつぼ・石鏃などが多数出土しました。この調査から北は日岡山、南は粟津・北在家の北部、東西は加古川・別府川氾濫原までが遺跡の範囲であることが分かりました。これら溝ノ口遺跡については、このシリーズ「溝ノ口探検」でも詳しく紹介しましょう。最近、溝ノ口は、加古川駅の近くであり、新しい建物が次々と建ち、加古川の顔として、激変している地域です。(no5063)*地図:溝ノ口加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(15)「溝ノ口」って、どのあたり
加古川町・篠原(町)・溝ノ口(14) 篠原町って、どのあたり
篠原町探検を始めましたが、「篠原町ってどんな町」「範囲はどこ」という疑問があります。ここでグーグルマップにより篠原(町)・溝ノ口の場所を確かめておきましょう。そして簡単に篠原町・溝ノ口の歴史をみておきます。今回は篠原町です。溝ノ口につては次回に見ることにします。篠原町って、どのあたり以下は、『加古川万華鏡(岡田功著)』を参照させていただきました。「篠原村」の地名が初めて見えるは、天正12年(1515)の鶴林寺文書です。篠原村は、名前からも想像できますが、もと加古川の三角州の湿地帯で「篠の野原」あったといいます。それが激変したのは、明治21年、山陽鉄道(現JR)の明石~姫路間の開通でした。大正12年、鈴木自動車が山陽電車(山電)の委託で、加古川駅前~電鉄尾上間の営業を開始しました。昭和2年、神姫自動車が(現神姫バ...加古川町・篠原(町)・溝ノ口(14)篠原町って、どのあたり
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(13) 姉妹都市マリンガ(3)・イッペイ(ブラジルの国花)の花が咲きました
イッペイ(ブラジルの国花)の花が咲きました「イッペイ」の花が咲いています。もともとイッペイの木は暖かい気候を好みます。そのためかイッペイの木は元気がなくなっているようです。沖縄では、1970年ごろから植樹された沖縄市のイッペイ(黄色)並木は有名とのことです。あまり、聞きなれ知られていない木ですが、1954年にブラジルの木として選定され、ブラジルを代表する樹木です。ブラジルでは、桜のような木に成長します。そして、春には黄、淡紅紫、そして白い花を咲かせます。沖縄では、2月頃から少しづつ咲き、3・4月が盛りです。JR加古川駅北側のロータリーのイッペイは、マリンガ市と加古川市の友好の印として平成17年に植樹されました。マリンガ市は、緑いっぱいの都市です。春には、イッペイが街にいろどりをそえるそうです。私事ですが、30歳...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(13)姉妹都市マリンガ(3)・イッペイ(ブラジルの国花)の花が咲きました
(史料として)高砂 『愛称の道』と『愛称名』出版(愛称の道調査隊)
(4月16日・金、神戸新聞より)高砂『愛称の道』と『愛称名』出版兵庫県高砂市内で古くから使われている地域特有の道について呼び名を調べてきた歴史愛好家グループが、現地へ足を運び、住民から聞き取った成果を冊子「高砂『愛称の道』と『愛称名』」にまとめた。63カ所の道だけでなく、地名と地蔵の愛称も併せて紹介。阿弥陀、荒井など地区ごとに分け、一覧表と経路が分かる地図を写真付きで掲載している。(若林幹夫)グループは「愛称の道調査隊」。高塚洋さん(77)=高砂市、清水敏男さん(73)=同市、亀野忠重さん(73)=同市の3人で、実測の日本地図を作った伊能忠敬の足跡についても研究してきた。今回は、市立図書館の市民向け講座「市史ゼミ」のテーマとして2019年に調査を始め、市内7地区を2年かけて順に巡った。冊子の冒頭では調査背景とし...(史料として)高砂『愛称の道』と『愛称名』出版(愛称の道調査隊)
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(12) 姉妹都市マリンガ(2)・マリンガ大聖堂
マリンガ大聖堂JR加古川駅は一新しました。駅前も変わりましたが、それ以上に駅裏(北側)の風景は激変でした。駅北のロータリーに、三角形のタワー(写真)があります。「何を表現したオブジェかな?」と思われた人も多いのではないでしょうか。美術作品にしては、少しダサイ感じもします。新聞でも紹介されたので、記憶されている方もおられるでしょうが、この塔はマリンガ市(加古川市との姉妹都市・ブラジル)にある大聖堂(教会)のミニチュア版です。南米でもっとも高い教会です。私事で申し訳ありませんが、もう40年ほど以前に、一度この大聖堂に登った事があります。丁度クリスマスの頃でした。登りきった所から見る、緑いっぱいのマリンが市は、実に美しい都市でした。でも、階段が急で、しんどかったことを覚えています。HPを見ると、「89才の日系の杉本さ...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(12)姉妹都市マリンガ(2)・マリンガ大聖堂
加古川町篠原(町)溝ノ口探検(11) 姉妹都市マリンガ(1)・マリンガ大通り
加古川市の姉妹都市(ブラジルのマリンガ市)を紹介します。今日はその1、マリンガ大通りです。少し古い神戸新聞の記事(2008年)から、紹介します。マリンガ大通り【神戸新聞】加古川市は、姉妹都市のブラジル・マリンガ市にちなんで愛称をつけたJR加古川駅北の県道に、「マリンガ通り」と表示した案内板を設置した。2008年は、日本のブラジル移民百周年。現地でさまざまな行事が計画され、両市の交流にも注目が集まる中、大きな友好のシンボルとなりそうだ。(松井元記者)通りに愛称がついたのは、2004年11月。前年の5月に姉妹都市提携三十周年の記念訪問団がマリンガ市を訪れた際、現地に「加古川大通り」があると知らされたのがきっかけで、加古川市も加古川駅北につくる都市計画道路を「マリンガ通り」と名付けた。この通りは、駅の高架化に伴う土地...加古川町篠原(町)溝ノ口探検(11)姉妹都市マリンガ(1)・マリンガ大通り
加古川駅の周辺、溝ノ口(村)を散策しましょう。溝の口村水は稲を育てました。畑を潤しました。その水が流れる溝は、農民にとって命そのものでした。現在に生活する私たちは、「溝」といえば、生活用水でよごされた「ドブ」を思い浮かべる人も少なくありません。昔、溝は豊かな稔・豊かな生活のイメージにつたがる言葉でした。地図は、文化十三年(1816)の「五ヶ井・新井掛村々溝手絵図」の解読図(一部)です。五ヶ井の水路は溝ノ口村(赤丸付近)で集まり、さらにたくさんの水路に分かれています。この五ヶ井用水の分かれるところに水天宮(写真)があります。たしかな証拠(古文書等)は、ありませんが、「溝ノ口村」の名前のおこりは、溝の分かれている所に位地していた村ということでしょう。石見完次氏は、『河(38号)』(加古川流域史学会)で、次のように述...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(10)溝の口村
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(9) 加古川の驛(人馬継立問屋場)
今日の報告は、「加古川町寺家町探検(7)・加古川の驛」と同じ内容です。現:JR玄関、南口のすぐ左に「加古川驛』の石柱があります。「加古川町寺家町探検(7)」で説明しましたが、加古川駅(篠原町)にあるために、もう一度、とりあげておきます。加古川の驛(人馬継立問屋場)この石柱(写真)「加古川驛」の文字を刻んでいます。読んでおきましょう。江戸時代の石柱です。西国街道播磨国南加古郡加古川驛加古川駅ができたのは、明治21年(1888)ですから、標柱はこの加古川駅のものではありません。西国街道と言うのであるから、江戸時代のものです。江戸時代、加古川の駅(人馬継立問屋場)は、陣屋の東隣にありました。とすれば、この標柱は、そこから北のどこかにあったことになりますが、元あった場所は、はっきりと分かりません。寺家町から日岡神社へ向...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(9)加古川の驛(人馬継立問屋場)
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(8) 出世大明神(出世稲荷大神)
今回の報告は「加古川町篠原(町)・溝ノ口探検6)」と記事内容が重なります。ご了解ください。出世大明神(出世稲荷大神)「・・・JR加古川駅は、すっかり装いを変えました。特に、駅北は、かつての面影がまったくありません。かつて、駅北の駅用地内に、わずかばかりの木の中に、小さな稲荷神社が、忘れられたようにありました。その神社の両脇に石灯篭があり、「・・・・・・社員一同」と刻んでいました・・・」この場所を訪れたのは40年以上も前のことです。以前に書いた「ひろかずのブログ」では「・・・整備にともない、神社は壊されたのか、もちろん石灯籠もありません。・・・」書いています。*場所は、先に紹介した、加古川駅の北側のノーターンすぐ北あたりだった」ように覚えています。神社は残っていた散歩の途中で、偶然に駅のすぐ北に「出世大明神(出世...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(8)出世大明神(出世稲荷大神)
宮本武蔵 in 高砂(37) 宮本武蔵の養子・伊織が寄進 泊神社の棟札、加古川市文化財
今日(4/11)の神戸新聞の朝刊に次の記事があります。史料として掲載させていただきます。宮本武蔵の養子・伊織が寄進泊神社の棟札、加古川市文化財兵庫県加古川市教育委員会は、剣豪宮本武蔵の養子、宮本伊織が寄進したとされる泊(とまり)神社(同市加古川町木村)所蔵の棟札(むなふだ)2枚を、市文化財に指定した。武蔵らの戦国時代末期の様子や、荒廃していた同神社の復興経緯などが記され、市教委は「当時の地域社会や文化を知ることができる重要な一次資料として、学術的価値が高い」としている。(斉藤正志)伊織は現在の同県高砂市米田町出身とされる。若くして明石藩の家老になり、藩主小笠原忠真の移封に伴って豊前小倉へ。島原の乱で侍大将として戦功を挙げた。泊神社は伊織ら一族の氏神で、小倉藩の筆頭家老だった伊織が浄財を寄せて1653年に再建した...宮本武蔵in高砂(37)宮本武蔵の養子・伊織が寄進泊神社の棟札、加古川市文化財
高砂線私の小学校時代(加古川小学校)は、昭和20年代の最後の頃です。その頃、夏には学校から高砂の浜へ海水浴に出かけました。高砂線は、子供の声であふれかえっていました。私の高砂線は、浜に続く思い出がつまった鉄道でした。高砂は、戦前から多くの工場が進出し、高砂線はお客さんだけでなく、貨物も大いに利用されていました。高砂線は、大正3年播州鉄道高砂線として開通しましたが、経営難のため大正9年に播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年、国鉄に買収されました。昭和36年頃から、海岸は埋め立てられ、海水浴場は姿を消しました。そして、急速なモータリゼーションによりアッという間に貨物・乗客とも急減しました。その後、膨大な赤字が重なり、高砂線は昭和59年10月30日廃止になりました。線路跡の大部分は、道路(鶴林新道)として利用されてい...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(7)高砂線
史料として(4月10・土、神戸新聞より)三島由紀夫ゆかり加古川図書館が休館兵庫県加古川市は9日、加古川図書館(同市加古川町木村)が6月24日から休館すると発表した。10月に予定するJR加古川駅前への移転準備のため。現在の建物は書庫として利用する方針で、作家の三島由紀夫が徴兵検査を受けた場所として知られる歴史的建造物の中に、関係者以外は入れなくなる。同図書館は1935(昭和10)年に加古川町公会堂として建築された。正面窓の幾何学模様のステンドグラスなど、アールデコ調の近代的な装飾が施され、県景観形成重要建造物にも指定されている。老朽化して耐震性がない可能性があるため、市は解体も選択肢として、今後の方針を検討している。同図書館は、機能を加古川ヤマトヤシキが入るカピル21ビル6階に移す。現在は約16万冊を所蔵。移転に...三島由紀夫ゆかり加古川図書館が休館
JR加古川線JR加古川駅はすっかり装いを変えました。特に、駅北は、かつての面影が消えてしまいました。駅北の駅用地内に、小さな稲荷神社があり、その神社の両脇に石灯籠には、「播州鉄道株式会社社員一同」と刻んでありました。この場所を訪れたのはずいぶん以前のことです。以前の「ひろかずのブログ」で、「・・・整備にともない、神社は壊されたらしい。もちろん石灯籠もない。ご存知の方は教えていただきたい」と書きました。この神社は、加古川駅のロータリーより西へ歩くと、移転され鎮座して残っていました。なんと、神社名は「出世大明神」。この神社に参ると出世するのでしょうかね・・・播州鉄道から播但鉄道、そして国鉄(現:JR)加古川線へ「播州鉄道]は、大正二年(1913)に加古川~西脇・北条間(南は高砂間)で開業した。しかし、開業後まもなく...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(6)JR加古川線
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(5) ニッケグラウンド(2)・ニッケグラウンドは、(第11回)国体のハンドボール会場に
ニッケグラウンドは、(第11回)国体のハンドボール会場に昭和31年10月発行の「広報かこがわ」は、第11回秋季国体が加古川市でも開催される特集を組んでいます。タイトルを見ると、「国体秋季大会開催」「両殿下の行幸を仰ぐ」と誇らしげに宣伝しています。加古川市の財政は火の車昭和31年に第11回国体が兵庫県で開催され、加古川市ではハンドボールの会場に決まりました。しかし、経済的な負担の問題がおおきな課題でした。県下の各市町村は、昭和28年6月ごろから開催種目の誘致運動が始まりました。加古川市でも、体育協会を中心に①体育館建設による室内競技、②軟式野球、③軟式庭球などを目標に誘致運動がはじまりました。①の体育館建設は、財政的理由により、あっさり拒否。②の軟式野球も人員が多く設備が大きなものが必要であると却下されました。そ...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(5)ニッケグラウンド(2)・ニッケグラウンドは、(第11回)国体のハンドボール会場に
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(4) ニッケグラウンド(1)、もとニッケのグラウンドは、石炭カスの集積場
ニッケグウンド(1)写真をご覧ください。加古川駅の南に大きな空き地がありますね。「ニッケグラウンド」と呼んでいました。いまでは、ここにプラザホテル・ホテルアゼリア・但陽金庫本店等のビルが立ち並び、かつてグラウンドであったとは想像はできません。今回は、昭和57年6月発行の『加古川の昔と今』(加古川文化連盟)で、大村さんと水田さんがこのグラウンドについて語っておられますので、引用させていただきました。ニッケのグラウンドは、石炭カスの集積場(大村)あのグラウンドは、ニッケのコークスのやり場がないので、私(大村氏)の本家やら私の家の土地やら全部強制買い上げ、要するに御用商人から買い上げて、馬力もって石炭カスをあすこに運んで山積みしとったんです。それをならしてグランドにしたということで、一時は社宅を建てようかという目的や...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(4)ニッケグラウンド(1)、もとニッケのグラウンドは、石炭カスの集積場
二代目、加古川駅舎加古川旧駅舎(写真)は、もともと明治43年に大坂の桜島駅として新築され、大正8年5月、加古川駅の乗客は増えたため、桜島駅を加古川へ移築しました。写真をご覧ください。中央に時計が取り付けてあり三角形屋根の時計として親しまれました。プラットホームの柱は古いレールが使用され、外側西側に小荷物取り扱い所がありました。もちろん一階だけの建物でした。平成15年に建て替えられたのですが、「保存しろ」「新しい駅舎にしろ」といろいろ意見はあったようです。地元のOさんは、「残してもええもんと、つぶしてもええもんがあります。加古川駅は、こんな古いものをいつまでも置いと加古川の恥ですなぁ・・・あれは、大正大演習の時に天王寺(大阪)から、それも古いやつをもってきとんですから、かなり古いんです」と手厳しい意見を述べておら...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(4)二代目、加古川駅舎
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(2) 山陽鉄道開通(明治21年)
山陽鉄道明治21年に開通した山陽鉄道(現:JR山陽線)は、最初から加古川を通るように計画されていたものではありません。当初は、東二見(明石市)・高砂・飾磨(姫路市)・網干(姫路市)の海岸線を通過する予定でした。山陽鉄道開通(明治21年)明治新政府は、国づくりのために鉄道の建設を急ぎました。でも、十分な資金はありません。そのため、印南郡の大地主・伊藤長次郎、加東郡・近藤常三郎等の民間資金で進められました。鉄道は、印南野という土地の得やすい、安価な土地を選んでの工事になりました。山陽鉄道は、私立鉄道でのスタートでした。明治27年、政府は広島に大本営御置いて対清戦争の布告をします。山陽鉄道で運んだ兵員・兵器広島から海路大陸に送りました。37年から日露戦争入ると軍需輸送に明け暮れます。明治40年、鉄道国旧法であっさりと...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(2)山陽鉄道開通(明治21年)
加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(1) 経済の中心は、高砂から加古川の町へ
いま、加古川町を歩いています。なんとか、「加古川町本町探検」と「加古川町寺家町探検」を不十分でですが、まとめてみました。引き続き、「加古川町篠原(町)・溝ノ口」の探検にでかけます。よろしくお願いします。江戸時代、地域の中心は高砂このシリーズでは「篠原町・溝ノ口」の二つの町を歩いてみますが、今日はその前に少し寄り道をします。地図を見てください。明治39年修正の国土地理院発行の加古川・高砂の町のあたりの地図です。町場は、加古川(本町・寺家町)と、高砂町ぐらいで辺りは農村の風景が広がっています。高砂の町と高砂の町を比べてください。明治39年ですから、明治の終わりのころです。でも、地図を見る限り加古川の町より高砂の町の方がずいぶん大きいようです。そうなんです。江戸時代、近辺の年貢米は、高砂に集まりました。高砂は、その外...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(1)経済の中心は、高砂から加古川の町へ
加古川警察署「加古川町寺家町探検(3)復習:分岸寺界隈」の図絵で、「人馬引き継役所」を見つけてください。ここを改良して、明治6年に加古川分署(明石警察署の分署)が配置されました。これが加古川警察のはじまりでした。その後、明治26年12月、加古郡役所の地に独立した加古川警察署を設置しました。そして、明治37年加古川警察署庁舎として新築されました。写真は、大正12年の加古川警察署の写真です。場所は、寺家町字五反田46番地在(東播総合出張所の場所)です。警察は、感染症の取り締まりも昔は、警察の仕事は防犯や交通の取りだけではなく、保健・衛生関係の仕事も兼ねていました。加古川警察署においても明治11年のコレラ、24年・25年のコレラ・赤痢。そして、大正5年の後数年間は、これら腸チフスの撲滅にも力を入れました。戦後は、保健...加古川町寺家町探検(35)加古川警察署
加古川町寺家町探検(34) さなぼり市 (さなぼり大売り出し)
さなぼり市(さなぼり大売り出し)戦後しばらく、近くで商店らしい賑わいのある町は加古川の町ぐらいでした。農家の方たちの一番の楽しみは盆と正月のお休みと、そして6月の田植えが終わった後の「さなぼり市」と、秋の収穫が終わった後の「せいもん払い」に加古川の町に出て買い物をして「いろは食堂のかつめし」か「かさよしのうどん」、そして寺家町の「まるまんのうどん」を食べるのが何よりの楽しみでした。近在から山のような人が加古川の町に集まり黒山の人だかりで、商店街は押すな押すなの人だかりでした。今では想像すらできない人出でした。それをあてこんで、阪神方面の商人も進出して大いに賑わいがありました。「せいもん払い」については「加古川町寺家町探検(31)・せいもん払い」で紹介していますのでご覧ください。寺家町も同じで、狂おしいほどの賑わ...加古川町寺家町探検(34)さなぼり市(さなぼり大売り出し)
加古川町役場明治22年2月21日、印南郡に属していた加古川町(まち)が地理的な関係から加古郡に編入され、同年4月1日、加古川町(まち)・寺家町・篠原村が合併して、新しく加古郡加古川町(ちょう)が誕生しました。そして、昭和26年1月1日に加古川町(まち)は、「本町」と改称しました。少し、付け加えです。加古川町役場は、明治22年寺家町311番地に建設されました。後に、同町316番地、313番地、314番地に移っています。いずれも、場所は寺家町の地番ですが、旧印南郡と旧加古郡・寺家町との境目(陣屋の近く)に位置しています。新加古川町役場落成(大正15年)そして、加古川町はだんだん大きくなり、大正15年6月7日、現在、加古川中央公民館として使われている場所に加古川町役場が新築落成しました。写真の加古川町役場の場所は寺家...加古川町寺家町探検(33)加古川町役場
太子堂消える国道2号線と加古川小野線の交わる大川町の交差点の北西隅に小さな大師堂があり、説明には、こう書いてありました。「当大師堂は、江戸時代末期嘉永3年に(1850)、当地大川町に疫痢が流行て、住民の方が多数お亡くなりになりましたので、高野山より御霊をお受けしまして、ここに建立されました・・・」詳しいことはわかりんせん。急性の激しい中毒症状の病であったようです。多くの人が亡くなられたんでしょうね。『加古川宿のスケッチ(阿木哲郎著)』(日本文学館)で、次のように記しておられます。・・・嘉永3年は、全国的に天候不順で天災・人災に人々は苦しめられた時代でした。とりわけこの年の寒さは厳しく加古郡一帯ではコメの値段が上がり、生活も困窮し、洪水もおき、ひとびとは疲弊していました。そこを疫病が襲いました。『武江年表』には、...加古川町寺家町探検(32)太子堂消える
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