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  • 加古川町平野・美乃利探検(21) 間形の力石(ちからいし)

    間形の力石(ちからいし)間形(まがた・美乃利)に、どこにでもあるような四角い石が灯篭の前に置かれています。前回のブログで紹介した「大和大明神の碑」の横の灯籠の前に置かれた四角い石です。この石には銘もなく、ただの石のようで、地元でもその存在を知る人は多くないようです。古老によれば、この石は「力石(ちからいし)」です。「力石」とは、字のごとく、力だめしをする時に使った石のことです。農作業の合間に、若者が集まった。そして、力自慢をしました。この石を持ち上げることができると一人前の若者として認められたのです。何回も使われたのでしょう。両手で持ち上げる部分はつるつるしています。間形の力石にはないのですが、娯楽から始まった力石には、重い石を持ち上げた人が、年号や自分の名前を石に刻んで、神社に奉納する行事へと発展したものです...加古川町平野・美乃利探検(21)間形の力石(ちからいし)

  • 加古川町平野・美乃利探検(20) (沼田家文書3) 大和守明矩に感謝

    大和守明矩に感謝前号で「姫路藩の財政は火の車」であることを紹介しました。さらに、延享五年(1748)朝鮮使節の接待費などが重なりました。朝鮮使節は、江戸への途中姫路藩の室津に立ち寄ります。その接待費・二万両を姫路藩の町人・農民に負担させました。悪いことは重なるもので、この年に猛烈な台風が襲います。さらに、寛延元年(1748)十一月、明矩は急死しました。嫡子は、10才とまだ幼く、転封のことが噂されました。この知らせが、姫路に到着したのは、翌寛延二年(1749)元日でした。藩主の死により、政治に空白ができました。寛延元年(1748)も暮れようとする十二月二十一日、印南郡の農民三千人が湧き出るように市川河原に結集した後、姫路城下へなだれ込む勢いをみせました。この時は、かろうじて百姓の怒りは燃え上がらずに終わりました。...加古川町平野・美乃利探検(20)(沼田家文書3)大和守明矩に感謝

  • 加古川町平野・美乃利探検(19) (沼田家文書・2)間形村:免相(税率)三割に

    沼田家文書(2)間形村:免相(税率)三割に沼田家文書を検討してみましょう。間形村の税率(免相・めんあい)は、それまで6割6分だったものが、「上がり地」となり、元文二年(1737)、上西条の沼田直次郎と加古新村と沼田九郎太夫に下げ渡しとなり税率も5割6分となりました。それでも村は安定せず、延享三年(1746)に3割の年貢率(免相)を藩主・松平明矩(あきのり)に願い出たところ認められました。(「間形村由来書送り之事」より)姫路藩は、間形村の窮状から判断して免相・3割を認めたのでしょうか?当時の姫路藩の財政事情をみておきます。姫路藩の財政は火の車徳川家の親戚の大名・松平明矩(あきのり)が、奥州白河藩から姫路城の城主としてやってきたのは、寛保二年(1742)のことでした。その時、白河藩では、借金を踏み倒すなど、ひと騒が...加古川町平野・美乃利探検(19)(沼田家文書・2)間形村:免相(税率)三割に

  • 加古川町平野・美乃利探検(18) (沼田家文書1)間形村由来書送り之事

    間形村由来書送り之事間形の沼田家のご祖は加古新村の方で、沼田家に伝わる文書「間形村由来書送り之事」(写真)があります。今回は、その内容(口語訳)の紹介をさせていただきます。*文書の口語訳は、内容が理解しやすいようにしたため、完全な直訳ではありません。間形村由来書送り之事(口語訳)間形村というのは、溝之口村の枝村ですが、溝之口村に家があるばかりで、間形の地には家が一軒もありませんでした。姫路藩主・榊原式部守(政岑)の時代、元文元年(一七三六)に、七五石一斗五升が「上がり地」となり、次の年の二月十八日に残りの三一五石五升の全てが「上がり地・あがちち」となり、取り上げられました。*注、「上がり地」・・・藩や幕府に召し上げられた土地その土地は、上西条の大庄屋・沼田直次郎と加古新村庄屋・(沼田)九郎太夫に下げ渡しとなりま...加古川町平野・美乃利探検(18)(沼田家文書1)間形村由来書送り之事

  • 加古川町平野・美乃利探検(17) 美乃利新村(しむら)・間形村(まがたむら)

    美乃利新村(しむら)・間形村(まがたむら)右の地図は、元禄播磨国絵図(部分)を分かりやすく書き直した地図です。この地図で、大野新村と間形(まがた)を見つけてください。大野新村は、大野から分かれて独立した村です。正保播磨絵図には出ていません。別の史料(荒木家文書)では、明暦二年(1656)に大野新村は、大野村から独立したとしています。大野新村は、一般的に「しむら」と呼ばれました。この大野新村の分離について『大野史誌(大野史誌編集委員会)』「・・・明暦二年本村の南に大野新村を設けた』と書くのみで、分離の理由を知ることはできません。しかし、大野新村は新井用水が完成した明暦二年、大野村より分離していますから、分離には新井用水と何らかのかかわりがあったのでしょう。明治9年、大野新村は間形と合併し、名称を「美乃利」とする時...加古川町平野・美乃利探検(17)美乃利新村(しむら)・間形村(まがたむら)

  • 加古川町平野・美乃利探検(16) 新井用水

    日岡山の裾から野口の印南野台地に沿って江戸時代の初めに新井用水がつくられました。美乃利村(当時は、大野村に含まれた集落でした)のそばの用水です。少しだけ、説明をしておきましょう。新井用水加古川大堰のところから野口を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水(新井用水)の話です。承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。寺田池の水も完全に干上がってしまいました。それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(五ヶ井用水で灌漑をしている村々)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。野口・平岡・播磨の村々の百姓は、...加古川町平野・美乃利探検(16)新井用水

  • 加古川町平野・美乃利探検(15) 五ヵ井用水(4) 西大寺技術集団

    西大寺技術集団鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。人口も増えました。商業活動も盛んになりました。唐突に、鎌倉時代の西大寺派の農業技術集団が登場します。一般的に鎌倉時代に、大河に堰を設けるなどということは、技術的に不可能と思われていたのです。でも、最近の研究で、私たちの地域には、その技術があることがわかりました。常樂寺は、大野(加古川町大野)は、北條郷にある西大寺派の有力寺院でした。五ヶ井用水の改修には、この西大寺派の農業土木技術が使われたと想像されるのです。もう少し説明が必要ですが、五ヵ井用水が現在のような水路に改修されたのは1315年ごろ、つまり、鎌倉時代と考えられるようになりました。論理が飛躍しているようで、ストンと腑に落ちないでしょう。西大寺農業土木技術集団の話を続けましょう。...加古川町平野・美乃利探検(15)五ヵ井用水(4)西大寺技術集団

  • 加古川町平野・美乃利探検(15) 五ヶ井用水の水路

    五ヶ井用水の水路先に紹介したように、奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。地方には国司・里長等の地方官が置かれました。これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにありました。政府は、税を確実にするために土地制度を整えたのが、条里制でした。条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。美乃利でも条里制の土地があったことは確かめられています。しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。では、どのようにして水を得たのでしょうか。池から得たとも考えられが、池の遺構がありません。埋もれてしまったとも考えられるが、これだけ発達した条里制です。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものです。考えられることは、加古川の水を利用することです。それにしても、加古川からの...加古川町平野・美乃利探検(15)五ヶ井用水の水路

  • 加古川町平野・美乃利探検(13) 五ヶ井用水(2)・条里制と五ヶ井の水路

    条里制と五ヶ井の水路先に紹介したように、奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。地方には国司・里長等の地方官が置かれました。これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることにありました。政府は、税を確実にするために土地制度を整えたのが、条里制でした。条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。美乃利でも条里制の土地があったことは確かめられています。しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。では、どのようにして水を得たのでしょうか。池から得たとも考えられが、池の遺構がありません。埋もれてしまったとも考えられるが、これだけ発達した条里制です。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものです。考えられることは、加古川の水を利用することです。それにしても、加古川か...加古川町平野・美乃利探検(13)五ヶ井用水(2)・条里制と五ヶ井の水路

  • 加古川町平野・美乃利探検(12) 五ヶ井用水(1)

    五ヶ井用水(1)大野・中津・美乃利は五ヶ井用水のど真ん中の集落(五ヶ井郷)です。五ヶ井用水の話をしましょう。『日本書紀(にほんしょき)に、次のような話があります。・・・五ヶ井用水の伝承(今から1300年以上も前のことです)聖徳太子は、叔母君の33代・推古天皇(すいこてんのう)のために法華経(ほけきょう)の講義をしました。これを聞かれた推古天皇は、大いに感動され、その労をねぎらうために、播磨の国の良田、500町歩を聖徳太子に与えました。太子はこれをありがたくお受けして、斑鳩寺(揖保郡太子町)と鶴林寺に分け、それぞれ361町、139町を分け与え荘園としました。・・・・そして、鶴林寺の田畑を潤すために造られたのが「五ヶ井用水」だというのです。しかし、加古川の本流に堰(せき)を築き、洪水の時にも崩れない、しっかりとした...加古川町平野・美乃利探検(12)五ヶ井用水(1)

  • 加古川町平野・美乃利探(11) 美乃利に残る条里制(じょうりせい)跡

    美乃利に残る条里制(じょうりせい)跡奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。地方には国司・里長等の地方官が置かれました。これら地方官の仕事は治安、そしてなによりも農民から確実に税を納めさせることでした。政府は、税を確実にするために、まず土地制度を整えます。これが条里制です。条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。その仕組みは、六町四方(43.2ヘクタール)の大区画を縦横六等分、つまり36の小区画に分けました。そして、その一つをさらに36等分し、その一つひとつに一の坪・二の坪・三の坪・・・のような番号をつけ所有者をはっきりさせました。美乃利の条里制の遺構(図)をご覧ください。以下『美乃利の本』から一部引用させていただきます。「・・・・やがて、そのシステム(条里制)が失われ、それから千年...加古川町平野・美乃利探(11)美乃利に残る条里制(じょうりせい)跡

  • 加古川町平野・美乃利探検(10) 美乃利遺跡

    日岡豪族と溝ノ口遺跡美乃利遺跡の紹介の前に、溝ノ口遺跡の復習をしておきます。日岡山には多くの古墳があります。これらの多くの古墳群は4世紀にさかのぼり、被葬者は日岡山の南に広がる平野を約200年にわたって支配していたと考えられます。平野部には、南西約2キロメートルの溝ノ口遺跡をはじめ、北在家・粟津などの弥生遺跡があり、早くから開けていました。中でも「溝ノ口弥生遺跡」は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、古墳時代の住居跡も発見されています。『市史』に、次のような面白い指摘があります。・・・日岡山古墳群の現存する5基(前述の4基と稲日大郎姫の御陵)の前方後円墳は、すべて前方部を南に向けています。前方後円墳については、必ずしも定説があるわけではありませんが、前方部を平野側に向けている場合が多い。それらは、被葬者...加古川町平野・美乃利探検(10)美乃利遺跡

  • 加古川町平野・美乃利探検(9) 美乃利村は、明暦二年(1656)大野村より分村、そして間形村を合併(明治9年)

    美乃利村は、明暦二年(1656)大野村より分村そして、間形村を合併(明治9年)郷土史家・岡田功氏が書かれた『かこがわ万華鏡』(木戸書店)があります。その本から、美乃利を紹介紹介している最初の部分をお借りします。美乃利は、江戸時代の加古郡大野新村と同郡間形(まがた)村が明治9年(1876)の合併に伴なって誕生した村名です。稲の稔り(みのり)がよくなるように都の願いをこめて名づけられたのでしょう。大野新村は、明暦二年(1656)大野村より分村した村です。大野新村は、大野村から独立して、大野新村は、一般的に「しむら」と呼ばれていました。一方、間形村は、元禄天保郷帳には「間方」とあります。寛延元年(1748)の「間形村由来書送り之事」によると、「江戸時代中期まで一軒の家もなく、延享三年(1764)一村として独立した」と...加古川町平野・美乃利探検(9)美乃利村は、明暦二年(1656)大野村より分村、そして間形村を合併(明治9年)

  • 『加古川さんぽ上・下(市内各町の)歴史散策』 の販売のお知らせ

    いま、ブログを2つ(「ひろかずのブログ」と「ひろかずの日記」)とフェイスブック(FB)を発信しています。きのうのFBで下記のお願いを掲載しました。今日の「ひろかずのブログ」「ひろかずの日記」でも番外編として、書籍販売のお知らせをさせていただきます。『加古川さんぽ上・下(市内各町の)歴史散策』販売のお知らせドジな話で申し訳ありません。もう半年もまえです。『加古川さんぽ』の購読申し込みがありました。そのとき、「完売になり申し込みありません」とお断りしました。一昨日、部屋(離れ)の整理をしました『加古川さんぽ』が40部(組)出てきたのです。印刷所から届いた時に保存用にと別に保管していた分でした。もし、お読みいただける方はお申し込みください。遠方の方には郵送します。<お詫び>500部だけの製作のため1冊が1000円(上...『加古川さんぽ上・下(市内各町の)歴史散策』の販売のお知らせ

  • 加古川町平野・美乃利探検(8) 龍泉寺(4)・加古川宿の商人たち

    加古川宿の商人たちずいぶん前です。1993年夏、龍泉寺の墓標を調査したことがあります。蚊の大群と悪戦苦闘したことを覚えています。龍泉寺が元、寺家村(町)(ニッケパークダウン敷地内)にあったためか、墓碑の戒名の他に「かぎや治郎吉」・「たたみや七兵衛」等、生前の仕事・名前が刻まれた墓碑が見つか見つかりました。その時見つけた墓碑は、次のようでした。(西暦をつけておきます)年号(西暦)職種・名前不明畳屋吉右衛門不明塩屋新兵衛宝永7年(1710)かぎや治郎吉寛保2年(1742)たたみや七兵衛寛政2年(1790)鈎屋市左衛門文政3年(1820)鈎屋市左衛門文政8年(1825)綿くり屋左七郎文政9年(1826)帆屋喜兵衛天保2年(1831)農具屋伝兵衛元治元年(1864)碁座屋伝助鈎屋市左衛門の名前が二人ありますが、これは、...加古川町平野・美乃利探検(8)龍泉寺(4)・加古川宿の商人たち

  • 加古川町平野・美乃利探(7) 龍泉寺(3)・龍泉寺の五輪塔(ごりんとう)

    龍泉寺の五輪塔(ごりんとう)龍泉寺の五輪塔は、寺の前の旧山陽道の西方約150mの北側路傍に建っていましたが、道路拡幅により現在地に移されました。地輪の東面には、南北朝時代の康永三年(1344)の造立銘文が刻まれています。五輪塔について説明しておきましょう。五輪塔について平安時代以前、仏教は主に貴族や豪族のためのもので、庶民にはまだ縁遠いものでした。しかし、鎌倉時代に親鸞(しんらん)や日蓮(にちれん)等が新しい仏教をはじめ、またたくまに庶民の間に広まりました。それまでは、金属や木で見事な仏像がつくられ、それを安置する立派な寺院も多く造られました。鎌倉時代には、これらに代わって石の仏像や五輪塔が多く造られるようになりました。石の方が雨ざらしでおけるし、場所をとらず、何よりも安くつくることができました。五輪塔は、鎌倉...加古川町平野・美乃利探(7)龍泉寺(3)・龍泉寺の五輪塔(ごりんとう)

  • 加古川町平野・美乃利探検(6) 龍泉寺(2)・龍泉寺燃える

    龍泉寺燃える江戸時代の「加古川宿絵図(部分)・慶応元年(1865)」(絵図)をご覧ください。龍泉寺は、もともと寺家町字蔵屋敷にありました。日本毛織(ニッケ)が、加古川に進出していらい、龍泉寺はニッケに囲まれました。境内の大きな公孫樹がありました。*「宿絵図」の向かって左上部に龍泉寺があります。図中の常住寺は、現在本町へ移転しました。光念寺は、現在も絵図の場所にあるので龍泉寺の元の場所は、お分かりになると思います。当時、ニッケは日の出の勢いで、会社は龍泉寺に対して立ち退きを要求しました。檀家の中には、「だいたい、後から来て立ち退けとはけしからん。そんな不見識なことはできん」と強力に反対する意見も多くありました。そんな時でした。龍泉寺は、庫裏を残し焼け落ちたのです。丁度、ニッケ創立十周年記念(明治44年6月12日)...加古川町平野・美乃利探検(6)龍泉寺(2)・龍泉寺燃える

  • 加古川町平野・美乃利探検(5) 龍泉寺(1)・(龍泉寺の伝承)龍と旅僧

    龍泉寺(1)龍と旅僧平野の龍泉寺に伝わる話です。昔、蔵屋敷(寺家町字蔵屋敷、ニッケパークタウン敷地内)というところに、大きな池がありました。ある時、一人の旅僧が、この池のそばを通り過ぎようとすると、たくさんの人が集っていました。聞けば、村の娘が、今日この池にすむ竜の人身御供(ひとみごくう)になるというのでした。旅僧は、少し考えてから「気の毒な事じゃ・・・今夜のところは、私にまかせてもらえぬか・・・」といって、娘も村人も家に帰えしまえした。その夜、旅僧は「南無阿弥陀仏・・・なむあみだぶつ・・・ナムアミダブツ・・・」と、一心に経をとなえました。真夜中、突然雷のような音と共に大雨になり、池のまんなか辺りに大波がおこり、恐ろしい竜が姿を現しました。「エイッ・・・」。旅僧は数珠で、竜の頭辺りを力いっぱい打ちすえました。あ...加古川町平野・美乃利探検(5)龍泉寺(1)・(龍泉寺の伝承)龍と旅僧

  • 加古川町平野・美乃利探検(4) 胴切れの地蔵さん

    胴切れの地蔵さん平野(加古川市加古川町)に、不思議な「胴切地蔵」の話があります。江戸時代、このあたりに、この地蔵を熱心に信仰している一人の男がいました。ある日のこと、この男は西国の大名行列に出会いました。考え事していたのか、つい、その男は行列の前を横切ってしまいました。当時のことです。「無礼者・・・」と、まっ二つに切られてしまいました。「ギャー・・・」と言う叫び声が辺りに響き渡たり、時間が一瞬こおりつきました。・・・・・しかし、行列は何事もなかったかのように進んでいきました。その時、不思議なことがおきていました。気がついてみると、その男の胴はつながっており、血も出ていません。恐るおそる、あたりを見まわすと、なんと胴がまっ二つになった地蔵様が倒れているのでした。「これは、きっと地蔵様が身代わりになってくださったの...加古川町平野・美乃利探検(4)胴切れの地蔵さん

  • 加古川町平野・美乃利探検(3) 西国街道

    西国街道平野は、西国街道に沿った街でした。戦国時代が終わり、徳川幕府が全国を統一しました。多くの、新しい政策が実施された。そのもっとも代表的なものは交通網の整備でした。幕府は、江戸を起点として五街道を本街道とし、その他の主な道を脇街道としました。山陽道は、古代においては、都と九州の道宰府を結ぶ最も主要な「大路(たいろ)」でしたが、江戸時代に西国街道(中国街道)と呼ばれる脇街道となりました。そのため、西国街道の維持管理は、幕府の政策にそったものでしたが、それぞれの藩にまかされました。その分、姫路藩は自由に運営ができるようになりました。「慶長播磨絵図」をみると、加古川の宿は、江戸時代の最初から宿駅の指定があったようです。寛永12年(1635)に参勤交代の制度が確立すると、加古川の宿にも大名の宿泊施設である「本陣」が...加古川町平野・美乃利探検(3)西国街道

  • 加古川町平野・美乃利探検(2) 加古川町美乃利の歴史や伝説を冊子に

    「ひろかずのブログ」では、本町、寺家町、篠原、溝ノ口に引き続き、昨日から「平野・美乃利編」を始めました。これに合わせてくれたように、昨日の神戸新聞は、美乃利の方が編集された『美乃利の本』が紹介されました。力作です。史料として掲載させていただきます。(以下の記事・写真は、とも神戸新聞より)加古川町美乃利の歴史や伝説を冊子に兵庫県加古川市加古川町美乃利(みのり)の美乃利町内会が、地元の歴史や伝説を紹介した冊子「美乃利の本」を発行した。古代の飛鳥、奈良時代の役所があったとみられる遺跡が見つかっていることや、第12代景行(けいこう)天皇の王子の産湯に使ったとされる「石の盥(たらい)」の伝承など、多彩な話題で地域の魅力を発信している。(斉藤正志)日岡神社(同市加古川町大野)の秋祭りに巡行する屋太鼓の意義などを、若い世代に...加古川町平野・美乃利探検(2)加古川町美乃利の歴史や伝説を冊子に

  • 加古川町平野・美乃利探検(1) 平野地区・美乃利地区の探検に出発

    加古川町探検シリーズは、本町、寺家町、篠原町、溝ノ口の歴史探検を不十分ですが終えました。引き続き平野、美乃利地区の探検をします。加古川町探検シリーズ(第3集)平野地区・美乃利地区の探検に出発平野は寺家町の東隣の地区で、江戸時代の西国街道に沿った地区です。町の姿は激変しましたが、まだ、古い江戸時代の面影をとどめている地域です。美乃利地区は、平野の北に位置しています。さいわい美乃利地区については、今年の1月に美乃利地区の方が『美乃利の本』(美乃利史誌編纂委員会)を出版されました。拝読させていただきました。素晴らしい労作です。美乃利に関しては、この本からも多くをお借りして紹介をします。なお、美乃利地区の地図は後に紹介することにします。それでは、平野・美乃利地区の探検に出かけましょう(no5081)加古川町平野・美乃利探検(1)平野地区・美乃利地区の探検に出発

  • 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(35) かつめし(6) かつめし復活す

    テレビ・新聞等で「かつめし」が紹介される平成4の月のことでした。2代目の一角昌博が大阪で、ある研究会に講師として出席していた時のことでした。家から電話があり「すぐに帰ってほしい・・」事情を聞くと「かつめし」のことでした。「テレビの方が私(一角昌博氏)に聞きたいとカメラを据えて待っている」とのことでした。加古川には、珍しい食べ物「かつめし」があると聞いて取材をしていたら、その食べ物の発生のお店は「いろは食堂」の一角さんだということが分かり、発症の店を取材せず人放送できない」と私をまっておられたのです。そして、その年(平成11)6月に放送がありました。また、その年の9月に今度は毎日テレビが「甘辛アベニュー」という番組で、夜のゴールデンタイムに「かつめし特集」(1時間の番組)を放送しました。これで、「かつめし」の名前...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(35)かつめし(6)かつめし復活す

  • 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(34) かつめし(5) 「ニューいろはのかつめし」消える

    「ニューいろはのかつめし」消える約20年ちかく、地域にごひいきいただいた「ニューいろは」でしたが、あまりの忙しさに追われている間に、ご夫婦は体をこわされました。そのため、奥さんのお父さんの忠告でいろはの総合ビルを貸しビルにし、「ニューいろは」は、加古川から姿を消すことになりました。当然のこととして「いろはのかつめし」も、加古川から姿を消すことになりました。その後は、他の数店で細々とかつめしは残っていましたが、元の味も消えだんだん愛好家も少なくなっていきました。加古川の商店街激変社会情勢も激変しました。車社会になり、郊外型のスーパーマーケットは非常な勢いで誕生し、加古川の商店街は時代の波に翻弄されることになりました。しかし、この間も一角昌博氏は、デミグラスソースのレシピを保存して、年に2回ほど「いろはの味のかつめ...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(34)かつめし(5)「ニューいろはのかつめし」消える

  • 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(33) かつめし(4) 昭和34年、「ニューいろは」オープン

    昭和34年、「ニューいろは」オープン一角昌博氏は、父久雄を引き継ぎました。昭和34年、大学を卒業すると同時に、従来の平屋建ての「いろは食堂」を地下1階、地上3階の総合ビル(1階:食堂、2階:喫茶、3階:和食)とし、名前も「ニューいろは」としてオープンさせました。そのころには、国鉄(現:JR)も記者から電車が走るようになり、交通は格段に便利になり、駅前の商店街も徐々に整備され、時代にあったビルが建つようになり徐々に活気を取り戻してきました。「かつめし」も当初の「牛かつめし」だけから「豚かつめし」もレパートリーにくわえました。「かつめし」は、だんだんと他の店でも提供されるようになってきました。「デミグラスソース」は、一子相伝で、70年後の今日も最初の味を守り続け、今日に伝えています。その後も、多くの方にご贔屓をいた...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(33)かつめし(4)昭和34年、「ニューいろは」オープン

  • 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(32) かつめし(3)・「いろは食堂」のかつめし

    「いろは食堂」のかつめし戦後間もないころ、洋食はまだはじまったばかりで、実はカツレツに使うパン粉が手に入りにくく、近所のニシカワパンの協力でパン粉を砕いて、パン粉をつくってもらったこともありました。当時、近くの町で商店らしいのは加古川の町ぐらいでした。農家の方たちの一番の楽しみは盆と正月のお休みと、そして6月の田植えが終わった後の「さなぼり市」と、秋の収穫が終わった後の「せいもん払い」に加古川の町に出て買い物をして「いろは食堂のかつめし」か「かさよしのうどん」、そして寺家町の「まるまんのうどん」を食べるのが何よりの楽しみでした。せいもん払い・さなぼり市の時は、近在から山のような人が加古川の町に集まり黒山の人だかりで、商店街は押すな押すなの人だかりでした。今では想像すらできない人出でした。それをあてこんで、阪神方...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(32)かつめし(3)・「いろは食堂」のかつめし

  • 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(31)

    カツメシの誕生加古川が、この地域の牛肉の生産の拠点になりました。そんな状況に目をつけた「いろは食堂」の初代の一角久雄は「この安価で良質の牛肉を何とか地域の人に食べていただきたい」と、当時は「うどん屋さん」くらいしかなかった加古川の駅前に洋食屋・「いろは食堂」を開店しました。しかし、ここでひとつの問題がありました。洋食を箸で・・・農家中心で、洋食などを食べた経験のない人がほとんどの加古川で、ナイフやフォークなどを使うことになるわけです。「洋食ではあるけれど、食べやすい方法で洋食を提供できないものか・・・」といろいろと知恵を絞りました。そして、カツレツとライスをナイフとフォークで召し上がっていただくのではなくて、箸で食べていただく方法を考え出しました。ごはんを洋食皿にのせて、その上に一口で食べられる大きさに切ったカ...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(31)

  • 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(30) 「かつめし」(1) かつめしの原形

    「かつめし」(1)かつめしの原形昭和22年、終戦の混乱期に、いろは食堂の初代一角久雄氏が、加古郡加古川町篠原二丁目字鳥居裏に平屋建ての「いろは食堂」をオープンさせました。当時、加古川町は、町とは言いながら農村に囲まれた町でした。近隣の産業もほとんどが農業でした。一角久雄氏が、どうして、かつめしのアイディアを思いつかれたのでしょう。戦後、加古川町に人が集まる東播・北播では加古川町は、比較的商店街も発達した地域でした。当時、工場として、日本毛織があり、町として賑わいがありました。姫路・明石・神戸は空襲で大打撃姫路・明石・神戸等、近隣の町は空襲に会い、大きな被害受けたのですが、奇跡的に加古川は、ほとんど戦火を受けずに終戦を迎えました。従って、加古川にあった商店もほとんど無傷の状態で残りました。貧しい時代であったといえ...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(30)「かつめし」(1)かつめしの原形

  • 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(29) 「新興座」と三宅周太郎家

    「加古川市名誉市民賞」第1号受賞者、三宅周太朗さんに関しては「ひろかずのブログ・三宅周太郎さんのこと」をお読みください。ここでは、加古川駅前にあった「新興座」と周太郎家についてについて紹介しておきます。「新興座」と三宅周太郎家明治19年頃に山陽鉄道株式会社(JR山陽線の前身)が計画され、明治20年12月23日、現在の加古川駅が開業しました。そして、演劇場・寿座が現在の駅前(現:ヤマトヤしキ)の場所に建設されました。この寿座のことは三宅周太郎さんの『半世紀』には、次のように記しています。「・・・私が母に別れた6才の頃から、土地の繁栄策として、株主として町へ私の家が主になって芝居小屋を建てました。・・・私の父は堅い一方の人で、そんなことは大嫌いでしたが、やむなく出資して建てさせられました。加古川は、藩政時代からの宿...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(29)「新興座」と三宅周太郎家

  • 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(28)  国鉄(現:JR)、電化公式試運転 明石~姫路間

    国鉄(現:JR)、電化公式試運転明石~姫路間明石-姫路間の電化公式試転運は2月27日関係市町村の歓喜に湧きかえるうちに行われました。この日早春の播州路をついて午前11時10分装をこらした電車は小、中学生のブラスバンドに迎えられ、すべるように加古川駅に到着。正に当地方交通史上画期的な一瞬でした。花束をうける乗務関係者の顔も感放に繋張。今日あるを期待して努力した関係市町村理事者、議会関係者、地方有力者及び国鉄当局の労苦もしのばれて、心中さこそとさっせられた瞬間でした。次で、万歳声裏に姫路に向って出発上々の成績を収めて終了しました。商店街からの心配の声も・・・このように、国鉄(現:JR)電化の実現は市をあげて歓迎され、喜ばれましたが、しかし、商店街の一部には神戸や姫路方面に従来の客層が吸収されるのではないかという不安...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(28) 国鉄(現:JR)、電化公式試運転明石~姫路間

  • 加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(27) 北向きの地蔵・かき庄

    今回は、『Kako-Style2』から「向きの地蔵」と「かき庄」の紹介をお借りしています。北向きの地蔵池田吉弘さんは、篠原町の「北向きの地蔵さん」を、次のようにまとめておられます。子どもの守り神として信仰される「お地蔵さま」ですが、北を向いている地蔵は少ないといわれています。しかし、篠原観音寺にある地蔵堂には、なぜか中央の一番大きな地蔵だけが北を向いています。江戸時代の中期から祀られ始めて300余年。お参りした多くの人々のさまざまな願いごとを叶えてきたことが評判となり、今では「願いの叶う北向きのお地蔵さん」として、参拝に訪れる人が絶えない人気スポットになっています。中には、子宝に恵まれなかった3人の人が願掛けをしたところ、3人ともに子どもを授かったというエピソードも。また、周囲にはスナックや飲み屋が多く、商売繁...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(27)北向きの地蔵・かき庄

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