加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(26) 加古川駅の空襲
1945年(昭和20)になり、米軍は中小都市への攻撃を強化しました。米田国民学校の日誌では、1945年7月の空襲警報発令は、15回に達し、日に11回発令されることも、稀ではなくなりました。この事態は、「小軍都」と化していた加古川地域にとって深刻でした。加古川駅の空襲そして、ついに恐れていた空襲が加古川地域を襲ったのです。『加古川市誌(第一巻)』に、7月23日に、グラマン戦闘機が、加古川駅を機銃掃射したのに続いて、翌24日、米機3機が、小門口に爆弾を投下し、加古川駅に避難した急行列車を銃撃し、死者1、負傷3の犠牲が出ました。しかし、加古川町の「昭和20年事務報告書」によれば、被害は、さらに大きかったようです。同報告書は、被害を死亡3、重傷3、全焼壊家屋1、半焼壊家屋2棟と伝えています。「加古川小学校の学校沿革誌」...加古川町篠原(町)・溝ノ口探検(26)加古川駅の空襲
2021/04/30 10:02