中村旅館・最後の夜加古川飛行場(加古川市尾上町)に降り立った特攻隊員は、最後の夜を中村旅館(県道小野線の国道2号線と寺家町商店街の中ほどで、道路の西側)ですごしました。中村旅館は、戦時中陸軍の指定旅館でした。現在は、更地になっています。加古川から知覧(ちらん・鹿児島県)へ飛び、そこから特攻に出撃しました。*海軍の特攻は鹿屋から出撃しました。特攻隊員にとって、中村旅館の夜は、最後の安息の場所でした。その夜、特攻隊員は、お互いに、何を話たりあったのでしょう。・・・当時の様子を知るUさんの話では、「特攻の話などは全くなく、不思議なほどでした」と話しておられました。隊員たちは、遺品を残されています。写真の「断」とかかれた血染めの書もその一つです。誰かに宛てた書ではありません。「断」は、何からの断であったのでしょう。この...加古川町寺家町探検(31)中村旅館・最後の夜
寺家町の一里塚の場所判明慶応2年の寺家町を描いた地図をご覧ください。寺家町商店街(西国街道)です。右(東)方に一里塚があります。門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなしこれは一休さんの作だといわれています。でも、一休さんが生きた時代(1392~1481)には、一里塚はつくられていません。したがって、この狂歌は江戸時代の他の人の作品です。一里塚は慶長9年(1604)、二代将軍・秀忠が日本橋を起点として街道筋につくらせてから、次第に全国に広がりました。一里塚は、普通周囲が五間、高さ一丈の土を盛り上げ、そして目印に榎や松が植えられた。兵庫県の一里塚は、ほとんど松が植えられました。加古川市寺家町にあった一里塚は、いつの頃まであったのか、また正確な場所は分かっていませんでした。歴史学者の中村和男氏は、寺家町にあ...加古川町寺家町探検(30)寺家町の一里塚の場所判明
居屋河原日岡神社加古川地域の地名を研究されていた石見完治(いわみかんじ)さん(故人)は、著書『古地名新解』で、居屋河原(いやがわら)について、次のように「いつの頃か、はっきりしませんが、日岡山に神社がなかった昔、居屋河原(いやがわら)のこの地初めて宮を建てて、九州の「日向はん」をお迎えして祀りました。そして、神武天皇がここに祖神を祀り、礼(禮「いや」)をつくして、この神を崇められたので「禮ヶ原(いやがはら)」という」という地名伝承を紹介されています。なお、江戸時代、日岡神社は「日向(ひゅうが)神社」であり、日岡神社と呼ばれるようになったのは、明治の初めのころです。「居屋河原神社は、現在の日岡神社発祥の神社ではないか」とも想像されます。*神武天皇:日本の初代の天皇、実在の天皇ではなく伝説上の天皇です。なお、居屋河...加古川町寺家町探検(29)居屋河原日岡神社
加古川町寺家町探訪(28) 加古川ナンバーワンの大イチョウ ・ 龍泉寺(現:平野)のふるさと
加古川ナンバーワンの大イチョウここは、龍泉寺(現:平野)のふるさとこの大神宮とイチョウの木について『Kako-Style2』に、ありますので一部をお借りします。(大神宮は)、JRの車窓からも見え、ニッケ加古川工場内にある、小さな神社「大神宮」です。樹齢約360年といわれる幹周り約4m85㎝のイチョウを御神木に、神明造りの社殿を持つ大神宮は、加古川工場設立と同じ明治32(1899)年に、会社の社運の繁栄と工場の安全・参拝者への加護を祈念して創建されました。いわば加古川の二ッケ工場を見守る存在でした。伊勢神宮より、天照大神の御分霊をいただく氏神の泊神社(加古川町木村)の分霊が祭神として祀られています。少しだけ付け加えておきます。大神宮のイチョウの木は、もともとこの神社とは関係がなかったのです。ニッケの進出により、立...加古川町寺家町探訪(28)加古川ナンバーワンの大イチョウ・龍泉寺(現:平野)のふるさと
加古郡郡長北条直正明治19年、加古郡郡役所の新庁舎は完成しました。今日は、郡役所の話ではありません。明治12年に加古郡の初代郡長・北条直正の話です。北条直正は、まさに義人でした。当時、県令(今の県知事に当たる)は、森岡昌純(まさずみ)でした。彼は、薩摩出身で、どこまでも明治新政府の指示に従うと言う人物でした。その彼が、地租改正で腕をふるいました。母里地区(稲美町)の税は、江戸時代に比べて一挙に3倍をこえました。稲美地区の他の多くの農民も税を払うことができません。特に、母里地区の197戸と総戸数の半分以上が、土地を失い破産状態となりました。それでも、県令は、農民に税の完納をせまりました。郡長の北条は、農民の窮状をだまって見過ごすことはできません。農民は、鍬を持ち、蓑笠をかぶり県庁や加古郡郡役所に押しかけたこともあ...加古川町寺家町探検(27)加古郡郡長北条直正
加古郡の郡役所は寺家町に明治12年1月8日、印南郡加古川村は加古郡寺家町にならい加古川町(まち)としました。この日は、加古郡役所を隣町の寺家町に設置した日でした。加古川村は、江戸時代から印南郡よりもむしろ、川東(東岸)の加古郡つながりが深い地域でした。明治22年2月21日、印南郡に属していた加古村(現:本町)が地理的な関係から加古郡に編入され、同年4月1日には加古川町・寺家町・篠原町が加古郡加古川町を編成しました。*昭和26年1月1日、加古川町は本町に改称また、明治22年4月1日、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を含む)、氷丘村も加古郡の村として誕生しました。郡役所は、現:JAビルの場所に寺家町近辺の町村が加古郡との合併に先立つ、明治12年(1879)、加古郡の郡役所を寺家町におきました。最初は、常住寺の寺家町の麑...加古川町寺家町探検(26)(加古郡)郡役所(1)
加古川町寺家町探検(25) 余話として: 加古川遷都論・寺家町あたりに政府官庁街
余話として加古川遷都論・寺家町あたりに政府官庁街大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおきました。関東大震災です。そして、政府は壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川の地を候補地の一つに挙げています。加古川が候補にあげられたのは、第一に災害が少ない地域であるということでしたが、その他に「中国・朝鮮への侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがありました。候補地として、加古川の他に八王子(東京都)はともかく、ソウル(韓国)が、あげられています。「遷都(八幡和郎著)」」(中公新書)では、加古川への遷都の理由を次のように述べています。「・・・(首都...加古川町寺家町探検(25)余話として:加古川遷都論・寺家町あたりに政府官庁街
加古川町寺家町探検(24) 三宅周太郎(加古川名誉市民賞第1号)
三宅周太郎(加古川名誉市民賞第1号)*以下の記事は、『新かこがわ辞典』を参照させていただきました。加古川名誉市民賞、第1号が贈られたのは劇評家、三宅周太郎です。三宅は、劇評といういささか地味な分野で健筆をふるいましたが、また、特筆すべきことは、文楽(人形良瑠璃)の救世主となったことです。常設小屋の火災等により衰亡の危機に陥っていた文楽の研究に本格的に取り組み、その成果が世の注目を集めるところとなり、今でも文楽を楽しむことのできるのは周太郎のおかげです。また、昭和5(1930)年6月、刊行された『文楽の研究』は『続文楽の研究』とともに、初版以来版を重ねるなど、不朽の名著となっています。三宅は、明治25(1892)年に寺家町の「忠良」を銘柄とする酒造家に生まれました。生家が中心となって出資した劇場「寿座」に幼少のこ...加古川町寺家町探検(24)三宅周太郎(加古川名誉市民賞第1号)
検番筋(けんばんすじ)ベルデモール街から寺家町通りを西に向かって、一筋目の北行き道路を通称「検番筋」と呼んでいました。現在の家並みからはとても想像が出来ないのですが、昭和32、3(1957、58)年頃までは、ダンスホールやバー・キャバレーに飲食店等がひしめく、加古川町内の一大歓楽地でした。検番とは、「芸者屋の取り締まり、芸妓に口のかかった時の取次などをする事務所」です。もう少し説明をしますと、料理屋、待合、芸妓屋の3業が集まって営業している地域を一般に「三業地」と俗称しています。3者が合流して同業組合を組織しているところから、そう呼んでいました。その営業には公安委員会(第二次大戦までは警察署)の許可が必要であり、組合の中で芸妓の斡旋や料金の決済などの事務処理をする必要が生じ、この地域の内に検番を置くことになりま...加古川町寺家町探検(23)検番筋・繁の家
龍泉寺(加古川市加古川町平野)は、今は加古川町平野ですが、元は寺家町のお寺でした。事情を説明しましょう。なお、龍泉寺については、「かこがわ探検シリーズ・平野編(仮称)」でさらにその詳細を紹介することにします。龍泉寺燃える江戸時代の「加古川宿絵図(部分)・慶応元年(1865)」(地図)をご覧ください。龍泉寺は、もともと寺家町字蔵屋敷にありました。日本毛織(ニッケ)が、加古川に進出していらい、龍泉寺はニッケに囲まれてしまいました。境内の大きなイチョウの樹は、現在も元のばしょを占拠しています。*「宿絵図」の向かって左上部に龍泉寺があります。図中の常住寺も移転しました。光念寺は、現在も絵図の場所にあるので場所は想像しただけると思います。当時、ニッケは日の出の勢いで、会社は龍泉寺に対して立ち退きを要求しました。檀家の中に...加古川町寺家町探検(22)龍泉寺燃える
加古川町寺家町探検(21) 大将軍(2) 大将軍(堂)は、 常住寺の鬼門か?
大将軍(2)「将軍」と聞くとすぐに源頼朝・徳川家康等を思い浮かべ、「将軍堂には、どの将軍が祭られているのか」と考えてしまいます。大将軍とは柳田国男も指摘されているように「将軍」とは関係がなく、塞の神(さえのかみ)・道祖伸などとも混同されて村を様々な悪霊災厄殻守る神です。小門口(「こもんぐち」・「こもぐち」とも読む)」の祀られているのは、「増長天」であり、これは南方を護る神様です。地元の歴史に詳しいK氏は「昔、この地は、隣接する「常住寺」を中心としていました。そして、常住寺を基点として、常住寺の北東側が丑・虎の方角、すなわち「鬼門除け」となるので、ここに大将軍堂を建てたのではないかと考えても不思議ではありませんね・・・」と、言っておられます。ウシトラ(北東)の方向昔から、「丑寅(「艮・うしとら)」の方向は、「鬼門...加古川町寺家町探検(21)大将軍(2)大将軍(堂)は、常住寺の鬼門か?
「大将軍」について(1)郷土のおはなしとうた(第1集)より寺家町は、山陽街道の宿場町として栄えて、人馬の往来が激しかった。ちょうど、町筋の中ほどに「常住寺」というお寺があって、庭に鹿児の松(初代)があり、その枝ぶりが、蛸の足のように伸びて、枝の先が町通りまで広がっていた、といいます。秀吉のころでした。加古川が氾濫して寺家町は大洪水に見舞われ、お寺のお堂も水浸しになりご本尊の阿弥陀像も流出してしまいました。水が引いて、町の人々もほっと一安心して外に出たところ、鹿児の松から光り輝くものがあるので近寄ってみると、「常住寺」のご本尊・阿弥陀様が松の枝に留まっておられたので、住職はじめ、檀徒一同大喜びで仏様の徳をたたえて、元の本堂に安置しました。しかし、加古川の洪水はたびたびあって、人々を困らせました。「これは、阿弥陀様...加古川町寺家町探検(20)大将軍(1)常住寺の伝承
八重食堂とカツメシ*『Kako-Style2』(2015年4月発行)で、池沢文隆さんは「八重食堂のカツメシ」を紹介しておられます。お借りします。寺家町商店街の少し南に八重食堂というお店がありました。「カツメシ」に関して、まかない食のようだった「カツメシ」を立派な洋食メニューとして、提供したのは同店だと言っても過言ではありません。廃業した今でも「八重食堂のカツメシが1番うまかったー」と言う人が大勢います。八重峯子さんに当時のカツメシのレシピを尋ねると、厳密なレシピなどはな<、その時々のシェフが受け継いだ味にアレンジを加えた独特のものであったそう。すじ肉や鳥の骨、野菜くず、肉や野菜を炒めた油、果物、さらにはバナナの皮も加え、大な鍋で一週間程煮込む伝説のたれ。さまざまな材料から引き出されたコクと風味が、カリっと揚がっ...加古川町寺家町探検(19)八重食堂とカツメシ
加古川町寺家町探検(18) 常住寺(4) 五ヶ井用水の完成は、戦国時代か?
五ヶ井用水の完成は、戦国時代か?平成29年度氷丘公民館地域学講座「日岡の文観(1315年前後を中心に)」、兵庫大学教授金子哲氏の講演を参照にさせていただきます。・・・・一般論として、鎌倉時代の農業は、鋤・鍬使う農業でしたが二毛作も始まっています。人口も増えました。商業活動も盛んになりました。『加古川市史』は、「(鎌倉時代)農業生産を高まりと用水の必要性を認めながらも、この時代には、加古川という大河を利用した用水を造る技術がまだなく、五ヶ井用水の完成は、まだ無理としています。五ヶ井改築に関係する伝承・寺伝を有する三寺(常楽寺・鶴林寺・常住寺)には、すべてに西大寺勢力が入っています。西大寺勢力が加古川下流域に勢力を伸ばした鎌倉時代後期以降と考えられます。五ヶ井は、大規模な工事でした。守護所が播磨西部に移動する南北朝...加古川町寺家町探検(18)常住寺(4)五ヶ井用水の完成は、戦国時代か?
真言律宗の寺々真言律宗は、中学校の歴史にはあまり登場しませんが、時代に大きな影響をあたえました。永仁三年(1295)、文観は西大寺に入り受戒(真言律宗の僧受戒した後の名前)しました。この時の坊号(お寺での名前)は「殊音(しゅおん)」でした。大野(加古川町大野)の常楽寺は、この西大寺系の真言律宗の寺としてさかえました。*文観(もんかん):後に「大野編」で詳しく取り上げますが、ここでは文観は後醍醐天皇と共に時代を動かした加古川出身の高名な僧侶としておいてください。常住寺は西大寺直参末寺近辺の西大寺系の寺院を見ておきましょう。加古川市加古川町大野常樂寺播磨の筆頭末寺加古川市加古川町本町常佳寺(元は寺家町)加古川市平荘町山角報恩寺加古川市尾上町成福寺(不明)兵庫大学の金子教授は西大寺流の寺院として、次の2寺を西大寺の末...加古川町寺家町探検(17)常住寺(3)真言律宗の寺々
加古川町寺家町探検(16) 常住寺(2)・もと常住寺は、真言律宗の寺
新仏教と旧仏教ここで、鎌倉仏教の話をしておきましょう。鎌倉時代、地震・飢饉・戦争は引き続きおきました。その上に重い税金があり、人々の生活は、厳しさを増し、まさに末法の世のようでした。人々は、仏様に救いをもとめました。この時代、法然・親鸞といった新しい考えの宗教家がキラ星のように誕生しました。そして、「浄土(極楽)」の教えが広まりました。それも、厳しい修行は必要でなく、一心に仏様にすがれば、極楽に往生できるという、誰にでもできる教えでした。そのため、庶民は救いを仏様に求めました。この浄土教の教えは、すさまじい勢いで広がろうとしました。当然、それまでの宗教(教団)と争いがおきます。常住寺は、真言律宗の寺旧仏教側にも反省がおきました。「お釈迦さまが一番大切にされたのは戒律(かいりつ)を守ることである。もう一度、いまの...加古川町寺家町探検(16)常住寺(2)・もと常住寺は、真言律宗の寺
常住寺・加古の松『加古郡史』から、常住寺の縁起を少し拾ってみます。・・・殷賑をきわめた常住寺は、嘉禄のころ(1225~7)加古川の氾濫により堂塔・記録類は残らず流されてしまった。ただ、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将だけが松の木に留まり残った。この松が、加古の松である。・・・縁起はともかく、『播州名所巡覧図絵』にも、みごとな「加古の松」(挿絵)が描かれています。絵図の常住寺の境内の大きな松がそれです。よほど立派な松であったようです。『加古川の昔と今(加古川の文化を語る会)』(昭和57年発行)で、M氏は、昔の思い出として「・・残っていたのは二代目です。その枝が常住寺さんから出とったんです。大きなもんでした」と語っておられます。二代目の「加古の松」のあった常住寺は、寺家町の本陣の北の西国街道沿いにありました。それ...加古川町寺家町探検(15)常住寺・加古の松
『雨月物語』の「菊花の契」の舞台は、寺家町高校の古文に登場する物語で、作者は上田秋成で、作品は「菊花の契(きっかのちぎり)」です。懐かしく、思い出された方も多いのではないでしょうか。もちろん、物語です。が、上田秋成は『菊花の契』の場面を加古の宿に設定しています。時代は、戦国時代です。その宿とは、加古川の寺家町です。そうとなると、物語というものの、読まずには済まされません。以下に、かいつまみ内容を説明しておきましょう。菊花の契播磨の加古の学者、丈部左門(はせべさもん)は、旅の途中で病気にかかった出雲の軍学者、赤穴宗右衛門(あかなそうえもん)を看病し、二人は、義兄弟の契りを結びました。やがて、次の9月9日の再開を約束して赤名は、出雲へ発ちました。出雲へ帰りつきましたが、旧主は新城主にとってかわっていました。新城主の...加古川町寺家町探検(14)菊花の契り
コレラ大流行鳥尾小弥太については『ひょうご維新列伝(一坂太郎著)』(神戸新聞総合出版センター)を引用させていただいています。・・・・・安政五年(1858)、幕府は日米修好通称条約をむすびました。一年後、横浜、長崎、箱館港が開かれて貿易が始まり、物価高騰等さまさまざまな問題がおきました。世の尊王攘夷論者たちは、激しく幕府を攻撃しました。しかも、安政五年夏には、外国船が持ち込んだコレラが発生し、七月に江戸へ入って猛威をふるいます。コレラは、激しい下痢と高熱をともなう急性伝染病で、インドで起こり、ヨーロッパに広がり、日本には文政五(1822)年、長崎から人ってきたとされています。死亡する確率が高いことから「コロリ」と呼ばれ、恐れられました。江戸でのコレラの死者数は、安政五年だけで、二万八千余人とも、十二万三千人ともい...加古川町寺家町探検(13)鳥尾小弥太光念寺に眠る
加古川町寺家町探検(12) 光念寺(2)・松岡青蘿(まつおかせいら)の句碑
松岡青蘿(まつおかせいら)の句碑貞享5年(1688)、芭蕉は、はじめて兵庫の地を踏見ました。その後、「奥の細道」の旅を終え、大坂で急逝します。芭蕉の没後、播磨の地には芭蕉を敬慕する数多くの俳諧師が、きら星のごとく排出しました。松岡青蘿(まつおかせいら)は、その一人で、蕪村などとともに「芭蕉中興の六人」に数えられています。青蘿は、元文5年(1740)前橋藩の江戸屋敷で生まれ、6才の時竹沢家の養子になりました。しかし、身持ち不慎のため20才の時姫路に移されたが、23才で姫路からも追放されています。身持ち不慎の内容は、賭博とも言われるが、はっきりしません。その後、諸国を遍歴し、好きな俳諧の修業をつみ、明和4年(1767)、播州へもどりましたが、姫路には入れてもらえませんでした。加古川の大庄屋・中谷家の庇護の下に居を構...加古川町寺家町探検(12)光念寺(2)・松岡青蘿(まつおかせいら)の句碑
加古川町寺家町探検(11) 光念寺(1)・加古郡で唯一の東本願寺門徒の寺
『加古川の昔と今』(昭和49年発行)という冊子で、玉岡松一郎さん、水田広二さん、吉田実念さんらが、加古川の町につて広く語り合っておられます。光念寺(写真)について次のようです。光念寺(1)加古郡で唯一の東本願寺門徒の寺(玉岡)光念寺の檀家が養田あたりにもあるんですなぁ。これはどういう関係ですやろ。(水田)それはしらんけど、養田(ようた・尾上町)にも土山にもたくさんあります。(吉田)このあたりに光念寺の檀家のない所はないくらいです。(・・・一部省略・・・)(吉田)かく町内会に檀家があるということは、このあたりで東本願寺の人が「どこどお寺があったらそこにお世話になりたい」言うて光念寺に集まって来たと思うんです。長田あたりにあり、養田にあり、安田にもある。ほとんど光念寺門徒の人がいないところはないくらいですね。東本願...加古川町寺家町探検(11)光念寺(1)・加古郡で唯一の東本願寺門徒の寺
前号で団平さんの生誕地にある石碑を紹介しました。今日は、寺家町から少し離れますが、粟津の団平さんの墓碑にお参りしましょう。団平さんの死明治31年4月1日。場所は大阪の稲荷座です。その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、聞き入る人々を魅了しました。九分どおり済んだと思われた時ででした。団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。71歳でした。三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としました。粟津の常徳寺が加古家の菩提寺...加古川町寺家町探検(10)団平さんの死
加古川町寺家町探検(9) 豊沢団平(1) 「豊沢団平生誕之地」の碑
豊沢団平(1)豊沢団平さんって誰?その1:「豊沢団平生誕之地」の碑たしかに(豊沢)団平さんの碑があったことを覚えています。だれかが、「むかし団平さん(義太夫三味線の名手)という人いて、その人はここで生まれたんや・・・」と教えてくれたからです。いつ・だれに聞いたかすっかり忘れました。その碑は、小さな碑でした。記憶を頼りに、その場所に出かけました。場所は、加古川中央公民館の玄関から寺家町商店街へまっすぐの道があます。商店街の道の手前20㍍ぐらいの左(西側)です。「もう50年以上前に見た小さな石碑ですから、もうないだろう・・・」とダメ元で出かけました。が、なんとあったではありませんか。今は、駐車場になっており、少しだけ移動しているようでしたが、フェンス沿いにありました。団平さんの影を見つけました。はっきりと「豊沢団平...加古川町寺家町探検(9)豊沢団平(1)「豊沢団平生誕之地」の碑
本陣宿場を代表する施設は、なんといっても「本陣」です。本陣は、参勤交代の大名の宿舎で、本陣が整備されたのは、参勤交代が制度化された寛永期以降のことです。加古川宿の本陣は、寺家町に置かれました。場所は、『加古川市史(第五巻)』に、加古川宿絵図(慶応元・1865)があるので参考にしてください。この図は、その解読図(部分)に彩色したものです。「宿絵図」には常住寺・最上寺が描かれていますが、最上寺は現存しません。常住寺は、本町へ場所を変えています。*常住寺については、後日「寺家町探検」で取り上げます。さいわい、光念寺は今も絵図の位置にあるので、本陣のあった場所は想像していただけます。本陣は、光念寺のすぐ北の寺家町の西国街道に沿っており、寺家町組大庄屋の中谷家が代々つとめていました。史料で確かめることできるのは、大坂町奉...加古川町寺家町探検(8)本陣
加古川の驛(人馬継立問屋場)JR加古川駅舎の入り口に向かって少し左に、比較的大きな「加古川驛」の標柱石があります。この標柱の南面に、次の文字を刻んでいます。西国街道播磨国南加古郡加古川驛加古川駅ができたのは、明治21年(1888)で、標柱はこの加古川駅のものではありません。西国街道と言うのであるから、江戸時代のものです。江戸時代、加古川の駅(人馬継立問屋場)は、陣屋の東隣にありました。とすれば、この標柱は、そこから北のどこかにあったことになりますが、元あった場所は分からりません。寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川町中津)あたりの道沿いにあったのではないかとおもわれます。7世紀、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道が整備され、山陽道は加古川を通り、野口には「賀古の駅(かこのうまや)」がおかれました。鎌倉時代には交通...加古川町寺家町探検(7)加古川の驛(人馬継立問屋場)
橋本関雪(はしもとかんせつ)明治16年、橋本関雪(はしもとかんせつ)は神戸に生まれました。関雪は、たびたび文展(戦前の文部省美術展覧会)で賞を受け、特選にも選ばれています。後に帝展(戦前の帝国美術展覧会)の審査員も勤めました。彼は、海外でも高い評価を受けている日本を代表する日本画家です。そんな彼も、若い頃は苦しい生活を経験しました。16歳の時、困窮した父と共に、現在の加古川市尾上町養田に移りました。以後7年間、播州での生活が続きました。高砂では、岸本家をはじめ、関雪を援助した人は多く、そのため、高砂には関雪の作品が多く残されています。加古川町寺家町の山脇氏宅(寺家町)にも逗留しています。この時(明治42年)は、病気養生のためでした。山脇氏宅には「逗留のお礼と彼の作品を贈る」とのメモが残されています。これらの作品...加古川町寺家町探検(6)橋本関雪(はしもとかんせつ)
山陽巡行(明治18年)慶応3年(1868)、王政復古の大号令から戊辰戦争を経て、明治政府が誕生しました。明治政府は、成立とともに「天皇」のありがたさを国民に説明しなければならなかったのです。そのため、6回もの天皇の全国巡行が実施されました。そのうち、山陽巡行は、明治18年(1885)7月からはじまり、8月8日の朝、兵庫県入りした。夕刻、姫路の本徳寺に入り、翌9日、本徳寺(姫路市)を出発した天皇一行は、昼に加古川に到着し、休憩と昼食を旧陣屋(当時、山脇伊平邸)でとりました。この時、旧陣屋(寺家町)は、立派な松の盆栽を陳列し、天皇を迎えました。そのため、天皇から「樹悳堂(じゅとくどう)」の名を贈られました。(*悳は徳の本字)それにしても巡航は、一日50キロ。夏の真っ盛りの強行軍でした。天皇は、猛暑を吹き払うために、...加古川町寺家町探検(5) 山陽巡行(明治18年)
陣屋「宿」の主な役割は、その名のとおり宿泊地と人や荷物の輸送にあたる中継地、すなわち「駅(うまや)」としての役割を持っていることです。江戸時代、加古川の宿は、幕府の直接支配する街道ではなく、脇街道(西国街道)に沿った宿場町として発展しました。脇街道の諸施設はその地域を支配する大名の裁量に任されることがほとんどでした。加古川宿の「御茶屋屋敷」は、その代表的なもので、姫路藩の私的性格を持つ施設でした。この施設は、姫路藩主の休憩所であると共に、藩の出先機関としての役割を持ちました。後に、「御茶屋屋敷」が廃止されますが、その地の一部に人馬継役所(駅)がつくられました。宝暦二年(1752)に、人馬継役所の西に、御茶屋屋敷の復活ともいえるも姫路藩の「陣屋」が設けられました。「陣屋」の遺構は、寺家町商店街の「人形の店・陣屋」...加古川町寺家町探検(4)陣屋
復習:文(分)岸寺川界隈「加古川町寺家町探検」も、このシリーズ(寺家町編)が終わったらまとめます。編集の都合上再度ここでも掲載しさせていただきました。上の図は「加古川サロン」(加古川町本町)の岡田義治さん(故人)が作製された図です。(図中の番号)1人馬継立の問屋場2御高札場3陣屋4文(分)岸寺川の石橋5唐人薬師堂6芝居小屋番号5の唐人薬師堂以外は加古郡寺家町に属していました。挿絵から江戸時代の文岸川界隈の賑わいが想像されます。加古川地域の中心地なお、数字「3」の陣屋以外の施設は、現在残っていません。陣屋(寺家町)は、現在の「人形の店・陣屋」ではなく、その奥にある樹悳堂(じゅとくどう)がそれです。樹悳堂(じゅとくどう)についても寺家町探検で再度紹介しましょう。なお、前回でも説明したように、明治22年まで、加古郡と...加古川町寺家町探検(3)復習:文(分)岸寺川界隈
文(分)岸川(ぶんがんじがわ)右の地図は、住宅地図を借用しています。加古川中央公民館と加古川市立図書館との間に、黒く塗りつぶした線を描きました。路地のような道路です。この道の左上をさらに北へ100メートルばかり歩きます。人形の店「陣屋」の隣に出ます。この道は、文(分)岸寺川(跡)なのです。何の変哲もない路地ですが、「文(分)岸寺川筋」であり、明治22年4月1日以前は、この狭い道を境にして南が印南郡であり、北が加古郡と分れていました。郡境は、奈良時代に決められたこの郡境は、聖武天皇の神亀三年(726)に創設されています。郡境を決めるとき海・やま・川などがその基準になったと考えられます。当時(奈良時代)の「かこがわの本流」は、文(分)岸川のところを流れていたのでしょう。そして、「文(分)岸川」の左岸側(西側)は、印...加古川町寺家町探検(2)文(分)岸川(ぶんがんじがわ)
なぜ、寺家町(じけまち)このあたりの集落が寺家町と呼ばれるようになった理由は、はっきりわかりません。いろいろな説があります。その一は、鶴林寺は大きな寺で、鶴林寺の小門がこのたりにもあり、寺家町の小門口(こもぐち)は、鶴林寺の小門のあったところで、鶴林寺との関係から寺家町となったとする説です。その二は、もと、野口に寺家村があり、そのため加古郡内に二つの寺家村がありました。その野口の寺家村の人が加古川開拓にあたり、その地を寺家村としたとする説です。二つの寺家村があったので、人々の間で混乱もあったようで、明治初年にの野口の寺家村は「大辻村」と名前を変えました。その三は、応仁の乱のころ、大きな寺であった常住寺や龍泉寺は荒れはて、人々は、小門(口)辺りに集落をつくり、住み着いたといいます。この集落を寺家村と呼んだというの...加古川町寺家町探検(1)なぜ、寺家町(じけまち)
文(分)岸寺川界隈を歩く江戸時代、文(分)岸川界隈を散策してみましょう。文岸川界隈には、江戸時代、挿絵のような施設がありました。(図中の数字)1人馬継立の問屋場2御高札場3陣屋4文(分)岸寺川の石橋5唐人薬師堂6芝居小屋なお、数字「3」の陣屋以外の施設は現在残っていません。陣屋(加古川市加古川町寺家町)は、現在の「人形の店・陣屋」ではなく、その奥にある樹悳堂(じゅとくどう)がそれです。樹悳堂(じゅとくどう)については寺家町探検で再度紹介します。なお、明治22年まで、加古郡と印南郡は、絵図の文(分)岸寺川で分かれていました。*文岸寺川の右(東)が加古郡(加古川町寺家町)、同左(西)が印南郡(本町・旧加古川町)。説明は以上です。余分な説明はイメージを壊します。ご想像ください。この図辺りが、江戸時代の加古川地方の中心...加古川町本町探検(32)文(分)岸寺川界隈を歩く
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