せいもん払い加古川市に「誓文払い(せいもんばらい)」という、商店がこぞって参加する年末の大バーゲンセールがありました。狂おしいほどの賑わいでした。「誓文払い」は、もともと京都に始まった行事のようです。広辞苑は、「・・・一年中、商売上の駆け引きで嘘をついた罪を払い、神罰の赦免を請う行事。この日、呉服店は特に安値の売出しをする・・」と説明しています。もとの意味はともかく、姫路では12月1日から5日間、加古川ではその後日曜日を中心に5日間が「誓文払い」でした。地元商店だけでなく、遠くは大阪からも商人が大挙して押しかけるほどの大セールでした。寺家町・本町商店街は、写真のように満員電車なみの人混みでした。そのはずです。三木・小野・西脇など東播磨一円から人が加古川に集まりました。それに、姫路・明石は空襲で焼け野原になりまし...加古川町本町探検(31)せいもん払い
本町にある神田家洋館は、ぜひ紹介した建築物ですが、なにせ資料がなくまとめるのに迷っていました。さいわい『Kako-Styl2(すっきやか加古川編)』で城信幸さんが、神田家洋館を取材されています。今回の報告は、参照というより、ほとんどをお借りしています。神田家洋館加古川本町のほぼ中央に位置する神田家住宅洋館は、意匠や構造がユニークな近代遺産として、平成16年(2004)に国登録文化財に登録されました。もともとは、明治後期から大正初期に建てられたものですが、以後3代にわたって住宅部分などの増築がくりかえされ、木造住宅とレンガ造り洋館が並ぶ独特のたたずまいとなっています。老朽化のために取り壊しが決まっていましたが、市や専門家の助言で初期に建てられた部分を残すことになり、現在の姿となりました。二階の床柱は柱脚を角、上部...加古川町本町探検(30)神田家洋館
俳人:吉田白馬吉田白馬は、享保6年(1721)加古川で生まれました。若くして大坂の俳人と交わり、多くの句を残しましたが、今に伝わっている句はそれほど多くはありません。彼は、地元の滝瓢水(別府の人)らと共に活動をしています。諸国をめぐり多くの作品を作っていますが、俳人白馬が広く世に知られるようになったのは加西の盲人の俳人・竹内玄玄一(たけのうちげんげんいち)によるといわれています。彼は、玄玄一に俳諧への道を進めました。玄玄一は、「自分は、月や花の色さえ見ることができません。私には、何もできません・・・」というのでした。しかし、「俳句は目で見るものではありません。心の眼さえあれば作れるものです」と諭し、「心にて見るが見るなり月の色」と励ましの句を詠みました。玄玄一は感激し、即座に「暑さ忘るゝ風に驚く」と句を付け、白...加古川町本町探検(29) 俳人:吉田白馬
称名寺の境内に七騎供養塔があります。称名寺の紹介で二つの話題が抜けていましたので、今回と次回で説明しておきましょう。七騎供養塔南北朝時代です。足利尊氏は、楠木正成を打ち破る切り札として、高師直(こおのもろなお)を起用しました。正平五年(1350)、出雲(島根県)の守護である塩屋判官高貞は、足利尊氏の家来であった高師直(こうのもろなお)のざん訴をうけました。高貞の妻は、絶世の美人でした。生来、師直は好色な人物として知られていたが、高貞を謀反人に仕立て妻を奪おうとしたのです。この計画を知った高貞は、狩に行くまねをして京都を脱出し、妻も二十騎に守られて、間道から出雲へ向かいました。このことを知った師直は、追っ手をさしむけました。追っ手は、加古川河畔(加古川市米田町船頭あたり)で高貞に追いつき戦いとなりました。この時、...加古川町本町探検(28)七騎供養塔
朝日クラブ映画館・朝日クラブは、現在の本町公園の場所にありました。木村の岡田米吉さんらが昭和2年4月4日に許可を得て建設し、3年1月1日に活動写真館として開業しました。2階はU字型の観客席で、大映系映画館でした。娯楽の少ない時代でした。映画館はニッケの繁栄もあり大いににぎわっていました。朝日クラブの思い出です。私の小学校は、加古川小学校です。朝日クラブに近かったせいか、学校からの映画鑑賞で朝日クラブにしばしばでかけました。なにせ、テレビのないラジオの時代です。映画館へでかける前日はワクワクしたものです。ショックだった「怒りの孤島」「ここに泉あり」などは、小学生には少しかたい物語だったと思うのですが、熱心に見ました。今でも思い出すことができます。それに「怒りの孤島」の鑑賞では、深い意味はわからなかったのですが、子...加古川町本町探検(27)朝日クラブ
ニッケ労働争議・・・おおいざ進めわが工手正義のための戦いに・・・日本毛織労働組合・誠和会の組合歌の一節です。第一次世界大戦後の大正13年4月13日、日本毛織労働組合・誠和会は結成されました。誠和会は、労資協調の穏健な労働組合でしたが、会社側は組合の結成を頑として認めようとはしませんでした。そればかりか、労働組合幹部全員に解雇を通告したのです。職工の会社側への不満は爆発しました。その背景には、次のような労働の実態もありました。ある女工の証言です。「・・・朝六時から晩の六時まで、六時がなってやれやれと帰ってくる。風呂から帰れば七時を過ぎている。十時に就寝すると、我等の勝手に使用する時間は、二時間ばかり・・・・」それに職工(ブルーカラー)の社員(ホワイトカラー)に対する不満もありました。また、男女差別の熱烈な叫びもあ...加古川町本町探検(26)ニッケ労働争議
トロッコ橋トロッコ橋の写真と私の思い出を掲載させていただきます。詳しく分かれば後日再度取り上げます。地図にある橋は、写真(上)のように加古川工場と印南工場(いんなみこうじょう)を結んでいました。この写真は子ども時代の懐かしい風景です。私の小学校卒業は、昭和30年です。この時、この橋は既に使われていませんでした。橋を覆っていたレールとレールの間の板の一部は、所々なくなっていました。もちろん通行禁止でした。この橋の中央部の川の流れが速かったのは、この下で泳いでよく泳ぎましたので、よく知っていました。ところどころ川面が板の隙間から見えました。私たち悪がきどもは、その流れを見ながら恐るおそる渡ったものです。渡り終えると、安堵感と満足感があったことを覚えています。注意されたことは一度もありませんでした。橋を渡りきった先は...加古川町本町探検(25)トロッコ橋
日本毛織(ニッケ)日本毛織株式会社(以下ニッケとする)は、当初明石市で建設が着手されましたが、明石は宮内省御用邸の候補地に選定されていたため急遽、移転先として加古川が選ばれました。理由は、加古川の水量・水質が工場に適していたこと、それに何よりも広大な土地の確保が可能であったことなどでした。明治32年(1899)、加古川工場がほぼ完了し、生産が開始されました。この時期は、日清戦争後で軍用絨の需要が続いており、生産が追いつかないほどでした。製品は、輸入品と比べて比較にならないほど劣っていまし、創業後まもなく輸入品に対抗できるほどになりました。明治35年(1901)から翌年にかけて戦後恐慌が襲いました。国内の毛織物業の倒産があいつぎ、ニッケも生産量は減少ました。こうした状況を打開するために、ニッケは政府需要へ依存する...加古川町本町探検(24)日本毛織(ニッケ)
日本毛織の工場拡大路線明治32年(1899)、加古川工場(加古川市加古川町)がほぼ完了し、生産を開始しました。この時期は、日清戦争後で軍用絨の需要が続いていました。その後も、ニッケは政府需要へ依存する方針をとりました。政府需要の利潤は、少ないものの安定性はきわめて魅力的でした。そして、日露戦争は、日清戦争と比べて規模も大きく、ニッケへの軍需品(軍服・毛布など)の注文が殺到しました。ニッケは、いっそう、政府依存の傾向を強め、軍需品の需要の激増により市中向けの製造を中止して、軍需品の製造により全力を注ぎました。また、日露戦争を契機に一層の飛躍をしたニッケは、その後も大規模な工場拡張を続けたのです。ニッケは、日の出の勢いでした。幻の「友栄町」郷土史家の三浦幸一さんは「幻の友栄町」について報告されています。その一部をお...加古川町本町探検(23)幻の「友栄町」
常住寺・加古の松常住寺は、元は寺家町にあった堂々としたお寺でした。常住寺については「加古川町寺家町探検」として、寺家町で詳しくまとめる予定です。ここでは、簡単な紹介にしておきます。旅する「常住寺」『加古郡史』から、常住寺の縁起を少し拾ってみます。「・・・殷賑をきわめた常住寺は、嘉禄のころ(1225~7)加古川の氾濫により堂塔・記録類は残らず流されてしまった。ただ、薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将だけが松の木に留まり残った。この松が、加古の松である」縁起はともかく、『播州名所巡覧図絵』にも、みごとな「加古の松」(挿絵)が描かれています。図の常住寺の境内の大きな松がそれです。よほど立派な松であったようです。『加古川の昔と今(加古川の文化を語る会)』(昭和57年発行)で、M氏は、昔の思い出として「・・残っていたのは...加古川町本町探検(22)旅する「常住寺」
加古川改修記念碑は、最近紹介した記事ですが、連載しています「加古川町本町探検」が一区切りしたら小冊子にまとめる予定です。その関係上、ここで再度紹介させていただきます。かこがわ改修記念碑1933年(昭和8)、当初の計画(10年)を大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は完成し、竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行されました。官民あわせて千人が参列でした。その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいでした。この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼり、そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出しました。この大事業を記念して、加古川改修記念碑(写真)が建てられています。また、改修工事完成を記念して、「川祭り」を行うようになりました。...加古川町本町探検(21)かこがわ改修記念碑
加古川町本町探検(20) 赤壁神社の伝承・ネコ(たま)の復讐
赤壁神社の伝承ネコ(たま)の復讐「春日神社」(加古川市加古川町本町)の続きです。春日神社の境内に「赤壁神社」(写真)があります。赤い壁の、いかにも不気味な感じです。この神社に怪猫の伝承があります。・・・昔、この辺りに住む油絞りの職人の徳蔵は、「たま」という一匹の老猫をかわいがっていました。「たま」は、頭がよく賭博のサイコロの目をおぼえました。両目をつぶれば「丁」、片目は「半」と徳蔵に知らせました。ある日、十四、五人ばかりで賭博をし、吉蔵・吉松兄弟は共に20、30両ばかり負けました。場が果てて、帰り道のことです。吉蔵・吉松兄弟は、徳蔵を闇討ちにし、その金を奪って逃げました。通夜の夜のことです。不思議なことが相つぎました。庄屋の家に逗留していた吉岡儀左衛門は、「たま」を追いかけました。「たま」は吉蔵の家に飛び込みま...加古川町本町探検(20)赤壁神社の伝承・ネコ(たま)の復讐
春日神社加古川城主・糟谷氏の話を続けます。国道2号線の加古川大橋の東詰近くに、ひときわ目につく公孫樹があります。春日神社です。江戸時代の幕府の正式な家系図によると。糟谷氏は相模国糟谷荘の在であり、江戸時代の「糟谷(加須屋)氏文書」では、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足であるとしています。やがて、祖先は宇治川の合戦で功績をあげ、雁南荘(がんなんのしょう)を与えられました。雁南荘は、今の加古川市加古川町付近です。室町時代、糟谷氏は赤松の支配下に入り、加古川城を造り城主になったと考えられます。なんと、糟谷氏の祖先は、藤原(中臣)鎌足というのです。どうも怪しい。一般的に系図の信用度というものは、この程度のものです。とにかく、時の雁南荘の糟谷有季(かすやありすえ)が藤原氏の氏神を文治2年(1186)ごろ、奈良の春日神社か...加古川町本町探検(19)春日神社
加古川城廃絶加古川城主の糟谷武則は、賎ケ岳の戦後も秀吉方の武将として、数々の戦役に出陣しました。徳川家康と戦った小牧の役(天正13年)、小田原の役(天正18年)、そして朝鮮への侵略、世に言う「文禄の役」では晋州城攻撃にも参戦しました。武則は、秀吉の栄達とともに出世したが、関ケ原の合戦では西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃したのです。「賎ケ岳7本槍」で活躍した武将たちは、武則をのぞき、みな東軍(家康方)に味方しました。そのため、7本槍の他の武将に比して、武則の事跡は、全くといってよいほど何も伝えられていません。幕府が編纂した『廃絶録』には、次のように書かれています。一万二千石、播州かこ川、糟谷内善正宗孝(三十四)、慶長七年(1603)、めし出され後断絶すおそらく息子・宗孝の代に...加古川町本町探検(18)加古川城廃絶
賎ケ谷七本槍・糟谷武則「加古川評定」の行われた加古川城(加古川町本町)の城主は、糟谷武則でした。天正10年(1582)信長父子が本能寺で明智光秀に討たれた後、秀吉は高松城(岡山県)の水攻めを手際よく切り抜け、山崎の合戦で早々と光秀を敗死させました。この時、秀吉は、信長の第一の家臣であった柴田勝家と対等の地位につき、また、信長の葬儀を主宰し、その力を徐々に拡大させました。ついに、柴田勝家と雌雄を決する戦いの火ぶたがきっておとされました。これが、賎ケ岳の戦(しずがだけのたたかい)です。この賎ケ岳の戦では、秀吉の機動力もさることながら、家臣の勇敢な戦いぶりも、勝利に導いた大きな要因でした。特に、福島正則、加藤清正、片桐且元、脇坂安治、平野長泰、加藤嘉明、そして糟谷武則7人の活躍は目覚しく、後に秀吉から感謝状が贈られ、...加古川町本町探検(17)賎ケ谷七本槍・糟谷武則
加古川町本町探検(16) 加古川評定(no2)・ 加古川評定実況(『播磨灘物語』より)
加古川評定(no2)・加古川評定実況(『播磨灘物語』より)前号の「加古川評定」の続きです。歴史といながら、今日は司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』の一部を読むことにします。・・・いよいよ秀吉が広間にあらわれ、評定がはじまった。当然のことながら秀吉は正面の席にいる。播州者は、みな秀吉をあるじのごとく秀吉にむかい、はるかに下がっている。「なぜじゃ、我々はみな羽柴ごとき者を主のように仰がばならぬ・・・・」と、どの男も、この位置関係に不満を持ち、別所賀相(べっしょよしすけ・三木城主長治の叔父)のごときは「ちょっと、かわやに・・・・」とつぶやき、ゆっくり腰を上げて、そのまま部屋を出て小一時間帰ってこなかった。評定も進みつつあった時である。賀相に言わせれば、「下郎上がりが、何を間違えて、かかる場所に座っておるのか・・・」といい...加古川町本町探検(16)加古川評定(no2)・加古川評定実況(『播磨灘物語』より)
加古川町本町探検(15) 加古川評定(かこがわひょうじょう) no1
加古川評定(かこがわひょうじょう)no1秀吉が加古川村(現:本町)へやってきました。時は、信長・秀吉の頃です。当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大阪では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれません。その時、石山本願寺を支援していたのが、毛利氏です。やがて、播磨を舞台に信長軍と毛利軍人の激しい戦いが展開されることになりました。当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂の諸城は、三木の別所氏の支配下にありました。天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届きました。内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものでした。三木城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才でした。やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東にある称名寺あた...加古川町本町探検(15)加古川評定(かこがわひょうじょう)no1
播磨の守護所平家滅亡の後(鎌倉時代)、加古川地方へ関東から多くの武士の移入があり、東播磨の中世は、はじまりました。そして、現在の県庁といってもよい播磨の守護所が、加古川町本町に置かれたのです。場所は、現在の称名寺ある場所辺りと言われています。守護所は、加古川に置かれた源氏としては、できれば播磨の県庁所在地である姫路に守護所を置きたかったようですが、古代から何かと播磨の中心は姫路でした。姫路は、天皇政権の役所である国衙(こくが)が置かれており、もともと都との結びつきのつよく、そのつてで京都の公家や役所と結び、自分たちの地を守ろうとしました。そのため、姫路周辺には平家の所領が少なく、源氏が姫路周辺で勢力を伸ばそうとして時に、姫路周辺の土豪たちは源氏に抵抗し、源氏領にできなかったようです。源氏は、姫路に地頭を大量に送...加古川町本町探検(14)播磨の守護所
加古川映劇加古川小学校北側の道路を西に向かい、ニッケ社宅に入る手前の雁南川のたもと右側に「加古川映劇」がありました。戦後しばらくは、地方回りの役者が芝居工業をしていましたが、その後全面的に改装して映画館として再出発しました。しかし、町から少し遠いこともあってか、昭和37年には営業不振で閉館しました。「映劇」の期間が短かったせいか、加古川の町の人たちは今でも「加古川劇場」と覚えておられるようです。蛇足:小学校の頃、自宅は加古川映劇の近くでした。まだテレビもなく映画が全盛期で、加古川の中心から少し離れていましたが、加古川映劇は元気でした。小学校の上級生のころだったと思います。当時、有名な喜劇俳優の「金五郎さん」の公演がありました。入場券もないのにでかけました。羨ましそうに長い時間、劇場の前でうろうろしていたことを覚...加古川町本町探検(13)加古川映劇
ニッケ社宅倶楽部トロッコ道を抜けるとニッケ社宅です。社宅には洋館があります。日本毛織が向上を建設する際に事務所として建設された木造に買い洋館建ての事務所です。ニッケ工場のに伴い現在の社宅用地に移築されました。1号館と2号館があります。ドイツ人技術者など外人技術者の宿舎に充てられました。工場完成後、外人技術も呼ばれなくなり、その後ニッケ倶楽部として社員に開放されました。もうすぐ春。桜と洋館がきれいな風景を作ります。その時は、カメラを持ってお出かけください。(no5091)*写真:ニッケ倶楽部(洋館)と桜加古川町本町探検(12)洋館・ニッケ社宅倶楽部
加古川町本町探検(11) 映画「火垂るの墓」、ニッケ社宅でロケ
レトロなニッケ社宅日本毛織(ニッケ)が古川工場を建てた際に、春日神社前周辺の多一帯を買い上げ遊園地にしました。その後、工場から排出される石炭殻の捨て場として埋め立てられ、工場が拡大するにつれて社員も多くなり大正時代に工場拡張のため、工場内にあった社員住宅が、ここに移転されました。古い大正・昭和レトロの雰囲気を残す地域として、映画の撮影にしばしば使用されています。映画「火垂るの墓」、ニッケ社宅でロケ作家の野坂昭如さんが自らの戦争体験を基に著した小説「火垂るの墓」の映画撮影が、2011年6月22日、加古川市加古川町の日本毛織の社宅が立ち並ぶ住宅街であり、女優の松阪慶子さんも加わり、住民がバケツリレーで消火訓練をする場面などが撮影されました。原作のイメージを尊重して「できるだけ神戸周辺で撮影したい」という監督の意向か...加古川町本町探検(11)映画「火垂るの墓」、ニッケ社宅でロケ
国道2号線の下にトンネルがあります。場所は。加古川橋東詰から少し東へ下ったところです。このトンネルについて知る人は少なくなり、詳しいお話をお聞きすることはできませんでした。さいわい、山脇重弘氏の著、『加古川町実記(かこがわまちじっき)』で、このトンネルについて、次のように書かれています。文章を少し変えて、お借りします。国道2号線の下にトンネルが・・・日本毛織加古川工場から少し離れた春日神社周辺の低地を日本毛織が購入して、遊園地にするために、はじめは原毛の廃屑をうめていましたが、後に工場で出た石炭の燃え滓を本町社宅造成のためトロッコで運びました。そして、ニッケ工場内に新しい工場の建設のために、工場内の社宅をここに移転しました。国道2号線の下の低いトンネルをくぐり、今は線路も撤去され本町の西国街道(本町・寺家町商店...加古川町本町探検(10)国道2号線の下にトンネルが・・・
加古川地蔵尊加古川2号線の橋詰めに地蔵尊があります。場所がら、交通安全を願う地蔵尊かとも思える地蔵尊ですが、そうではありません。加古川は恵みの川です。子供たちは、水泳・魚とりなどでよく遊びました。子どもの頃、私も夏休みには、毎日のように水浴びや魚とりに出かけました。楽しかったですね。でも、ドキリとしたことを何回か経験しました。流れが変化する場所がありました。そして、深みもありました。時々、子供が亡くなる悲しい事故もあり、「加古川地蔵尊」は、川で亡くなった人の霊を慰めるために建てられました。老人会の方がきれいに掃除をし、祀られています。加古川地蔵尊ご詠歌一、こころにあおぎまつらんじぞうそんかこのながれのきよきよすがた二、きょうもなおふかきみとくをふしがみしゅうじょうとともにいくよをまつらん(no5088)加古川町本町探検(9)加古川地蔵尊
保存されている親柱前号の続きです。明治以後、幾度となく橋が架設されたが、流失しています。加古川橋の歴史を復習しておきます。。明治7年粗造の木橋を架設明治12年5月11日流失(再建されるが14年再び流失)明治16年8月31日新しく架設明治25年7月24日流失明治27年3月31日新しく架設明治29年以降毎年の洪水のため破損がひどくなる大正2年6月本格的な鉄の新橋架設(上の写真)大正13年8月15日現在のもとになる加古川大橋完成今日は、大正2年6月に完成した旧大橋について付け加えておきます。この旧大橋の手前の親柱の4本に注目してください。目立たな場所ですが、この橋の親柱が船頭側(西岸)の土手に写真のように保存されています。このあたりのお出かけの時はご覧ください。バンバン‐テレビで放映されたとき、「そえんじさん」と一緒...加古川町本町探検(8)保存されている親柱
旧加古川橋と橋げたの土台加古川の大橋(国道2号線)のすぐ北の川面に転々と橋げたの土台の部分が残っています。今日は、この橋げたの土台と旧橋の話です。加古川は、古代から流路を何回も変えた暴れ川でした。技術的な問題もあったが、江戸時代は、何よりも姫路城の防衛のため加古川に橋が架けられていませんでした。明治時代、何回も橋が架けられるかけられたが、その都度流されてしまいましまいました。大水に流されない、がっちりとした鉄の橋が求められました。そして、大正2年6月に、本格的な鉄の新橋(写真上)が架設されました。その鉄の橋の橋げたの土台(写真下)が、今の国道2号線の北に点々と残っています。やがて、交通量が増えました。それに自動車が登場します。そのため、新しい本格的な橋が求められたのです。それが、一部改築されましたが、現在の橋で...加古川町本町探検(7)旧加古川橋と橋げたの土台
加古川の(河岸)の続きです。そこは、食事所があったのであろう、茶屋所(ちゃやじょ)と呼ばれていました。加古川の河岸は、荷の輸送はあまり繁盛していなかったようです。それまでは、ほとんどの荷物は高砂まで直接運ばれ、ごく一部が小揚(こあげ)される程度であったといいます。加古川の河岸(かし)と塩座高砂では、製塩業がさかんでした。そして、塩の行商はこの地方の主な産業の一つになっていました。舟運の発達により大量の塩が高瀬舟で奥へ運ばれるようになりました。それまでの商人の生活がなりたたなくなってきました。そのため、塩商人たちは姫路藩に対して運上銀(税金)の上納と引き換えに販売権を願い出て、認められました。享保一六年正月に加古川村に、塩の販売を監視し、運営する塩座(塩改所)が設置されました。高瀬舟による塩輸送にも運上銀がかけら...加古川町本町探訪(6)加古川の河岸(かし)と塩座
加古川の河岸(かし:港)江戸時代、西国街道(現在の寺家町商店街)の陣屋(寺家町)辺りからさらに西へまっすぐ西へ行くと、加古川の渡場に突き当ります。そこに、加古川の河岸(かし)がありました。*川の港は「河岸」と呼ばれていました。加古川大河であり、技術的なことや防衛のために橋がかけられていません。渡河には渡し舟を使いました。『加古川市史(第二巻)』に「十二景詩歌」より、加古川の渡し場の風景があります。なお、ブログの絵は「加古川サロン」(加古川市加古川町本町)の岡田義治さん(故人)が「十二景詩歌」をもとに描かれたものです。(紙面の都合で、絵はその一部)渡し場のそばに粗末な小屋があり、馬子や駕籠かき、そして何人かの商人が描かれています。この絵から、当時(江戸時代後期)の加古川の渡し場の風景が想像できます。加古川の河岸は...加古川町本町探検(5)加古川の河岸(かし:港)
戦国時代が終わり、徳川幕府が全国を統一しました。多くの、新しい政策が実施されました。代表的なものは、交通網の整備でした。幕府は、江戸を起点として五街道を本街道とし、その他の主な道を脇街道としました。山陽道は、古代においては、都と九州の大宰府を結ぶ最も主要な「大路(たいろ)」でしたが、江戸時代に西国街道(中国街道)と呼ばれる脇街道となりました。そのため、西国街道の維持管理は、幕府の政策にそったものでしたが、管理は大名にまかされました。その分、姫路藩は自由に運営ができるようになりました。「慶長播磨絵図」をみると、加古川の宿は、江戸時代の最初から宿駅の指定があったようです。寛永12年(1635)に参勤交代の制度が確立すると、加古川の宿にも大名の宿泊施設である「本陣」が寺家村におかれ、旅行者の荷物を次の宿場まで運ぶ、人...加古川町本町探検(4)西国街道沿いの町
加古川町(まち)から本町へ明治22年2月21日、印南郡に属していた加古川町(まち)が地理的な関係から加古郡に編入され、同年4月1日、加古川町・寺家町・篠原村が合併して、新しく加古郡加古川町(ちょう)が誕生しました。そして、昭和26年1月1日に加古川町(まち)は、「本町」と改称しました。少し、付け加えです。まず、備後村の件です。備後村は鳩里村誕生以前の明治11年、北備後と南備後に分離し独立した村になりました。そして、西河原は明治10年に加古川町(まち)から分離し、鳩里村に編入され独立しました。分離の理由は分かりません。鳩里村は、昭和4年に、氷丘村は昭和12年に、それぞれ加古川町と合併し、現在の加古川町の原形ができました。なお、鳩里村の名称は、鶴林寺(加古川市加古川町北在家)が「班鳩寺(はんきゅうじ)」とも呼ばれた...加古川町本町探検(3)加古川町(まち)から本町へ
加古川本町探検(2) 加古川村(現加古川町本町)、元印南郡の村
加古川町本町探検(2)加古川村(現加古川町本町)、元印南郡の村地図は。「元禄播磨絵図(部分)解読図」の一部です。地図の加古川村(現:本町)・木村・友沢村・稲屋村とその他の村との群の境を示す境界線があります。左側(西)は印南郡(いんなみぐん)、右側(東)は加古郡です。その昔、郡境が決められた奈良時代、ここを加古川が流れ、両郡の境になったのでしょう。なにせ、加古川は暴れ川でした。幾度となく大洪水をおこし流路を変えています。流路が現在のように定まってからも、加古川村・木村・友沢村・稲屋村は、印南郡のまま残されました。しかし、これらの村々は印南郡に属しているとは言うものの地理的な関係から、加古川東岸の村々との結びつきを強めていきました。明治22年4月1日、新しく町村合併が行われ、加古川村、鳩里村(友沢村・木村・稲屋村を...加古川本町探検(2)加古川村(現加古川町本町)、元印南郡の村
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