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  • 加古川町本町探検(1)・「ひろかずのブログ」再スタート

    加古川町探検(1)・「ひろかずのブログ」再スタート今日は、お詫びとお知らせです。「ひろかずのブログは終了します」と宣言したのは「5037号」でした、その後は「新ひろかずのブログ」として書いてきましたが内容・形式共に変わり映はありません。読んでいただいている人にとって、混乱だけでした。そのため、元の「ひろかずのブログ」の続きとして書いてみます。最後の「ひろかずブログ」以後、このブログを含めて43号を発行しています。そのため、元の最後の発行回数(no5037)に43号を加えた、5080号として再出発します。内容は、加古川市の各町ではなく、もう少し狭い範囲の探検をしようと思います。まず、旧加古川村(現本町)編から始めます。その次は、寺家町の散歩を予定しています。その後、高砂市・稲美町・播磨町の各町の探検に出かけます。...加古川町本町探検(1)・「ひろかずのブログ」再スタート

  • 新ひろかずのブログ(31) 加古川大改修(16)・国道2号線は、渋滞続き

    国道2号線は、渋滞続き〈新ひろかずのブログ・19〉では、次のように書きました。・・・高度経済成長期以降、市内を通る国道二号線の交通の渋滞は激しく、昭和43年度調べでは500メートル以上の渋滞が西行き446回、東行き401回、あわせ手847回もあり、通行車輛も一日4万台に近く、ますますふえる傾向となりました・・・・『写真集・加古川高砂の昭和』に、当時の交通渋滞の状態の写真と説明があります。紹介しておきます。〈対面通行だった国道2号線〉食堂2号は、昭和40年代に入ると交通量が増え、渋滞が慢性化するようになってきた。その対応として昭和42年12月より加古川橋東詰交差点から加古川平野交差点までの間東行き一方通行とした。写真は、一方通行される前、対面通行と渋滞のようすを伝えている。*写真:昭和43年撮影(提供=加古川市教...新ひろかずのブログ(31)加古川大改修(16)・国道2号線は、渋滞続き

  • 新ひろかずのブログ(30) 加古川大改修(15)・大きく変貌する加古川西詰めの交差点

    大きく変貌する加古川西詰めの交差点加古川橋の西側の交差点は、現在は6つの道が集まっています。そのため慢性的な渋滞の原因となっています。特に、朝夕のラッシュの時間では、毎日大渋滞です。私事ですが、ある事情でこの交差点をよく使います。混み具合には閉口しています。何とかしてほしいです。地元にとっては切実問題で、話し合いが持たれました。結果、写真のように4つの道が集まるように改良されるようです。新ひろかずのブログ(30)加古川大改修(15)・大きく変貌する加古川西詰めの交差点

  • 新ひろかずのブログ(29) 加古川大改修(14)・加古川橋北側で進む「新加古川大橋」

    加古川橋北側で進む「新加古川大橋」前号の「どのように工事は進むか」では架橋工事の手順でした。今回は、「どのような橋ができるか」です。現在進められているのは「ステップ1」で、現在の橋の北側(上流側)に進行中です。この工事が終われば、現在の橋は撤去され、将来「ステップ2」の工事が進められ、4車線の橋ができあがる予定です。新ひろかずのブログ(29)加古川大改修(14)・加古川橋北側で進む「新加古川大橋」

  • 新ひろかずのブログ(28) 加古川大改修(13)・どのように工事は進む

    それでは、今回の加古川大橋改築の話に戻ります。新加古川橋改造工事については、関係機関の報告などを参考にいさせていただきます。まず、「非日常のある日常探求ブログ」さんの研究をお借りします。どのように工事は進むそれではどのように工事は進められるのでしょう?①上流側に架橋をかける(今この工事が始まっています)②現在の加古川大橋を撤去③元あった場所に橋を架ける新ひろかずのブログ(28)加古川大改修(13)・どのように工事は進む

  • 新ひろかずのブログ(27) 加古川大改修(12)、加古川の水害(5)・かこがわ改修工事完成

    かこがわ改修工事完成1933年(昭和8)、当初の計画(10年)を大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は完成し、竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行されました。官民あわせて千人が参列でした。その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいでした。この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼり、そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出しました。この大事業を記念して、加古川改修記念碑(写真)が建てられています。また、改修工事完成を記念して、「川祭り」を行うようになったのです。1934年(昭和9)11月、川祭りの第一日目に、加古川記念碑除幕式が盛大に行われました。記念碑は、加古川橋東詰めの春日神社のすぐ南にあるのですが、現在ではあまり知...新ひろかずのブログ(27)加古川大改修(12)、加古川の水害(5)・かこがわ改修工事完成

  • 新ひろかずのブログ(26) (資料として)石階段と石積未確認 南堀川周辺の港遺構

    昨日(1月24日)の神戸新聞東播版に下記の記事がありました。地域史資料として、掲載させていただきます。〈地域史資料として〉(記事・写真ともに神戸新聞より)石階段と石積未確認南堀川周辺の港遺構兵庫県高砂市高砂町の南堀川周辺に広がる港湾遺構を調査している同市教育委員会は、江戸時代前期に姫路藩によって整備された護岸の推定場所2カ所を発掘し、当時の海面につながる石階段などの遺構を確認したと発表した。船の荷揚げに使われていたとみられ、発掘された遺構は今回で計6カ所となる。(若林幹夫)南堀川は江戸時代、高砂港の船着き場だった。加古川や瀬戸内海から年貢米などを運ぶ中継地として栄えた。海運発展に貢献した工楽松右衛門(くらくまつえもん)の旧宅も隣接する。1939(昭和14)年ごろに道路拡張で埋め立てられたが、市は過去の写真から当...新ひろかずのブログ(26)(資料として)石階段と石積未確認南堀川周辺の港遺構

  • 新ひろかずのブログ(25) 加古川大改修(11)、加古川の水害(4)・改修工事進む

    改修工事進む加古川は、「河川法」により国の直轄事業として帝国議会で改修工事が決まりました。しかし、工事はなかなか始まりません。工事への着手の順位をめぐって、全国で激しい競争が展開されました。加古川河川改修期成同盟は、帝国議会へ工事開始の請願をし、大正7年度からの工事着手が決まりました。工事期間は、10ヵ年で、船頭(ふなもと・米田町)の南から荒井(高砂市)へ分流していた支流を締め切る工事を含む大改修工事でした。着工式は、1921年(大正10)日本毛織加古川工場の敷地で行われ、床次(とこなみ)内務大臣も出席しました。その後、関東大震災の復興・軍事予算などのため、治水予算は大幅削減がもくろまれ、工事は順調に進んだのではありません。工事が遅れれば、「明治30年の大洪水が再び起おこるだけでなく、近年発展しつつある沿岸工業...新ひろかずのブログ(25)加古川大改修(11)、加古川の水害(4)・改修工事進む

  • 新ひろかずのブログ(24) 加古川大改修(10)、加古川の水害(3)・河川改修

    加古川の水害(3)河川改修明治時代、「かこがわ」はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まりました。明治43年、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者がでました。国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとしました。そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」としました。「かこがわ」は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられました。この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川です。利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)...新ひろかずのブログ(24)加古川大改修(10)、加古川の水害(3)・河川改修

  • 新ひろかずのブログ(23) 加古川大改修(9)・ 河川改修要求なる

    加古川の水害(2)河川改修要求なる明治29・30年は、水害にみまわれました。そのため、加古川の本格的改修の要求が高まりました。明治31年、加古郡・印南郡の17ヵ村は、「加古川河身改修期成同盟」を結成しました。しかし、1904年(明治37)の日露戦争が、それに水をさしたのです。経費節減のため河川改修実現への動きは頓挫してしまいました。1907年(明治40)7月から9月にかけて、台風が次々来襲し、大きな被害をもたらしました。これをきっかけに、ふたたび河川改修要求の運動に火がつきました。その後、河川改修の運動はさらに高まり、1907年貴族院・衆議院で「加古川は、天下の大川ではないが、その被害ははなはだしく、人民の苦悩は計り知れない。だから、関係人民の苦衷を察し、加古川に河川法を施行し、相当の改修をして、安心して暮らせ...新ひろかずのブログ(23)加古川大改修(9)・河川改修要求なる

  • 新ひろかずのブログ(22) 加古川大改修(8)、加古川の水害(1)・被害の大きかった明治30年の水害

    明治の終わり~昭和の初めにかけて、加古川の流れは大きく変わりました。加古川大改修の時代です。今、加古川大橋、国道2号線の大改修が行われています。先にブログでも取り上げましたが、もう一度加古川の流れ(水害)の歴史を復習しておきましょう。加古川の水害(1)被害の大きかった明治30年の水害明治30年は、前年に続き、9月に台風は加古川を直撃しました。被害は、前年を大きくしのぐ大災害でした。死者8名、傷者31名、建物の流失倒壊383棟、破損浸水14,389棟、堤防破壊破損31,854間、道路破壊破損52,795間、橋梁流出破損838ヵ所で被害総額は1,057,000円にものぼりました。加古川流域の村々では、おりからのウンカの害にくわえ、収穫期に大水害を被ったため収穫のない田畑も少なくありませんでした。生活に困窮し、土地を...新ひろかずのブログ(22)加古川大改修(8)、加古川の水害(1)・被害の大きかった明治30年の水害

  • 新ひろかずのブログ(21) 加古川大改造(7)・現在の国道2号線は、昭和2年にはじまる

    『(旧)加古川市誌(第一巻)』(加古川市発行)のp344~5を文体を変えて一部を紹介しましょう。国道は、明治6年8月、山陽道を一等国道としました。そして、明治18年1月6日、道幅を4間以上と決め、「国道4号」としました。この時、加古川を通る国道は今の寺家町商店街(旧・西国街道)です。明治40年ごろから国道(旧西国街道)は牛馬車、人力車、自転車の往来が増え道路やごみの飛散がはげしくなり、商店の営業に差し支えるようになり、大正4・5年になり南部に道を作る計画が持ち上がり、大正7年に開通をみました。現在の国道2号線は、昭和2年にはじまる政府は大正8年に新しい道路法を実施し、翌年東京~加古川・明石~鹿児島の道路を国道2号線としました。国道2号線は、決められましたが、この時の国道は旧西国街道(寺家町商店街)で、加古川地方...新ひろかずのブログ(21)加古川大改造(7)・現在の国道2号線は、昭和2年にはじまる

  • 新ひろかずのブログ(20) 加古川大改修(6)・交通量の増加、加古川大橋の老朽化

    加古川大橋のことです。問題が発生し、改築が必要になっています。その1:交通量の増加東播磨(加古川市)と北播磨地域(山陽道)を結ぶ自動車専用道路(東播磨道)の工事は進んでおり、2024年度に全線開通予定です。完成すると、このあたり、特に国道2号線の交通量はさらに増えることになります。加古川大橋を通過する自動車は多く、加古川橋西詰・東詰め辺りでは大渋滞になるのは目に見えています。その2:加古川大橋は老朽化が進む加古川大橋は、一部改築はあったものの西行き車線(架設後90年経過)と東行き車線(同60年経過)は、朽橋です。大水により今すぐに橋が崩れたり、流されるということは考えにくいのですが、遠くない将来に、架け替えが必要になります。造り変えには莫大の費用が必要です。また、現在の大橋の橋脚は16本です。増水時に加古川の流...新ひろかずのブログ(20)加古川大改修(6)・交通量の増加、加古川大橋の老朽化

  • 新ひろかずのブログ(19) 加古川大改造(5)・国道2号線を一方通行に

    国道2号線を一方通行に高度経済成長期以降、市内を通る国道二号線の交通の渋滞は激しく、昭和43年度調べでは500メートル以上の渋滞が西行き446回、東行き401回、あわせ手847回もあり、通行車輛も一日4万台に近く、ますますふえる傾向となりました。兵庫県公安委会は、(昭和44年11月)7日、加古川市内の国道2号線の交通マヒ対策として、国道二号線の市街化地域1.6キロメートル東行きの一方通行とし、西行きについては、市道平野西河原線をう回するという幹線国道戦ではめずらしい交逼規制を決定しました。これまで駐車、右折、歩行者の横断禁止などの措置をとってきましたが大きな効果がなく、この規制となったものです。これによって、昭和44年12月1日より、加古川橋の東詰めから平野交差点までの国道二号線を東行きとし、市道平野西河原線(...新ひろかずのブログ(19)加古川大改造(5)・国道2号線を一方通行に

  • 新ひろかずのブログ(18) 加古川大改修(4)・橋はなかった(江戸時代)

    加古川大改修(4)江戸時代、加古川に橋はなかった「加古川大改造」の話から少し外れます。加古川大橋の余話としてお読みください。江戸時代、西国街道(現在の寺家町商店街)の陣屋(寺家町)辺りからさらに西へまっすぐ西へ行くと、加古川の渡場に突き当ります。そこに、加古川の河岸(かし)がありました。*川の港は「河岸」と呼ばれていました。加古川大河であり、技術的なことや防衛のために橋がかけられていません。渡河には渡し舟を使いました。『加古川市史(第二巻)』に「十二景詩歌」より、加古川の渡し場の風景があります。なお、ブログの絵は「加古川サロン」(加古川市加古川町本町)の岡田義治さん(故人)が「十二景詩歌」をもとに描かれたものです。(紙面の都合で、絵はその一部)渡し場のそばに粗末な小屋があり、馬子や駕籠かき、そして何人かの商人が...新ひろかずのブログ(18)加古川大改修(4)・橋はなかった(江戸時代)

  • 新・ひろかずのブログ(17) 旧加古川大橋とその跡の橋げたの土台

    旧加古川大橋とその跡の橋げたの土台加古川の大橋(国道2号線)のすぐ北の川面に転々と橋げたの土台の部分が残っています。今日は、この橋げたの土台と旧橋の話です。加古川は、古代から流路を何回も変えた暴れ川でした。技術的な問題もあったが、江戸時代は、何よりも姫路城の防衛のため加古川に橋が架けられていませんでした。明治時代になり、何回も橋が架けられるかけられたのですがその都度流されてしまいましまいました。大水に流されない、がっちりとした鉄の橋が求められました。そして、大正2年6月に、本格的な鉄の新橋(写真上))が架設されました。その鉄の橋の橋げたの土台が、今の国道2号線の北に点々と残っています。やがて、交通量が増えました。それに自動車が登場します。そのため、新しい本格的な橋が求められたのです。それが、一部改築されましたが...新・ひろかずのブログ(17)旧加古川大橋とその跡の橋げたの土台

  • 新ひろかずのブログ(16) 加古川大改造(2)・現在の加古川大橋(大正13年)に造られる

    加古川の大橋・2国(平野~加古川橋)が大きく変わろうとしています。大工事が始まりました。そこで、加古川大橋・国道2号線を取り上げてみます。題は、「加古川大改造」としておきます。加古川大橋辺りの歴史からはじめましょう。*詳しくありません。現在の工事・資料その他をお知らせいただければありがたいです。加古川大改造(1)現在の加古川大橋(大正13年)に造られる加古川は、古代から流路を何回も変えた暴れ川でした。技術的な問題もありましたが、江戸時代は、何よりも姫路城の防衛のため加古川には橋が架けられていません。明治以後、幾度となく橋が架設されたが、流失しています。この経過を『加古川市誌(第一巻)』にみてみましょう。明治7年粗造の木橋を架設明治12年5月11日流失(再建されるが14年再び流失)明治16年8月31日新しく架設明...新ひろかずのブログ(16)加古川大改造(2)・現在の加古川大橋(大正13年)に造られる

  • 新ひろかずのブログ(15) 加古川国道2号線4車線化(1)

    最近、東神吉町へよくでかけます。加古川大橋で大掛かりな工事が行われています。気になります。さいわいインターネットや神戸新聞等でこれらの工事について説明がありますので、紹介します。加古川国道2号線4車線化(1)30年経てようやく始動国道2号線の4車線化工事導兵庫県加古川市中心部を横断する一方通行の国道2号の4車線化(対面通行化)工事が、1990年の都市計画決定から30年を経て、ようやく動き始めた。県は昨年12月、事業区間で初の着工となる加古川橋(加古川町本町-米田町船頭)の架け替え工事を開始。期間は約10年を見込み、完了すれば、付近の渋滞が大幅に緩和される見込みという。全体の事業費は172億円。区間は、坂元交差点(野口町坂元)-加古川橋西詰交差点(米田町船頭)の約3・3キロ。このうち約1・4キロが東行きの一方通行...新ひろかずのブログ(15)加古川国道2号線4車線化(1)

  • 新ひろかずのブログ(14) 提案:「 寒咲きナノハナ」を植えてはいかがでしょう

    提案:「寒咲きナノハナ」を植えてはいかがでしょう昨日の神戸新聞の朝刊に、「寒咲きナノハナ」の記事がありました。最初の部分を引用させてもらいます。・・・冬場に開花する「寒咲きナノハナ」が、国営明石海峡公園(淡路市夢舞台)で見ごろを迎え、一足早い春の訪れを感じさせている・・・・(写真は、小さいので新聞とは別の写真です)花の少ない時期に、一面のナノハナはいいですね。春が近いことを感じます。観光協会への提案です。加古川でも、休田がたくさんありますね。市が援助して「寒咲きナノハナ」を植える運動をしてはいかがでしょうか。一考をお願いします。きっとたくさんの人が見学に来られると思いますよ。新ひろかずのブログ(14)提案:「寒咲きナノハナ」を植えてはいかがでしょう

  • 新ひろかずのブログ(13) 今から、散歩にでかけま~す

    ◇今から、散歩にでかけま~す◇この人物だれかわかりますか。まるで、お尋ね者のようです。私です。この姿で散歩します。最近、作業をしていて、よくバランスを崩すことがあります。ヤバイ!今一番気を心配しているのは、体調と認知症のことです。本はよく読みます。が、認知症はどうにもなりません。体調管理は何とかしなければいけません。そこで、途中で軽い腰痛ため休みますが、毎日5,000歩の散歩を最優先させています。グッズも写真のように揃えました。ほとんど午後3時ごろに出かけます。寒くありません。今から出かけま~す。新ひろかずのブログ(13)今から、散歩にでかけま~す

  • 新ひろかずのブログ(12) ポインセチアの押し花(葉)

    ポインセチアの押し花(葉)昨年の11月下旬に買ったポインセチアです。まだ、書斎で元気に咲いています。昨日のことです。ある本を探していたら、このポインセチアの押し花(葉)を見つけました。ポインセチアを買ってきたとき一枚だけ、とび出ており、ハサミで切り落とした葉です。水分は抜けて、色は少し変色していますが、きれいです。その頃、町にジングルベルがなり始めていました。はやいですね。きょうは、はや1月の11日(月・成人の日)。そうそう、私が「成人」を祝ったのは57年前です。加古川小学校の講堂で式典がありました。感動のない、しらけたノンポリの学生でした。新ひろかずのブログ(12)ポインセチアの押し花(葉)

  • 新ひろかずのブログ(11) オマーンからのプレゼント

    オマーンからのプレゼント前回の腕時計の続きです。「オマーンの副首相にいただいた腕時計」のコメントにMさんから時計のケースのことがありました。ケースは、写真のようです。ただ、そのカバーにオマーンの国章と王冠があります。国・王家からのプレゼントの意味でしょうね。*オマーンは王政の国家です。*国章(こくしょう)は、国家を象徴する紋章や徽章のことで、一般に国旗よりもデザインが複雑なため、その国の風土、歴史、文化などが象徴的に表現され、その国を理解する上で国旗よりも多くの情報を読み取ることができる。*国章(インターネットより)新ひろかずのブログ(11)オマーンからのプレゼント

  • 新ひろかずのブログ(10) 50.6000円の腕時計・・・・

    50.6000円の腕時計・・・・突然の大ニュースでした。天皇の即位式にオマーンの副首相が稲美町に来られるというニュースです。即位式が、迫ってきた時でした。大使館から稲美町に「即位式の後、副首相さんをはじめ、オマーンの一行が公式行事後、私的に10月25日に稲美町のブサイナ姫の墓参をしたい」との連絡が入りました。稲美町は、大忙わらわになりました。この墓参と関係なく、オマーン大使館は、私のブログ「オマーン国王夫人物語」を読んでおられたようです。そんな関係で、「墓参の時に私にも出席してほしい」という連絡が入りました。オマーン国王夫人、稲美町への墓参の詳しいことは「ひろかずのブログ・オマーン夫人物語」をご覧ください。その日(墓参当日)、墓参に先立ち稲美町役場で副首相さんとお会いして時計までいただきました。きのう(7日)、...新ひろかずのブログ(10)50.6000円の腕時計・・・・

  • 新ひろかずのブログ 50.6000円の腕時計・・・・

    50.6000円の腕時計・・・・突然の大ニュースでした。天皇の即位式にオマーンの副首相が稲美町に来られるというニュースです。即位式が、迫ってきた時でした。大使館から稲美町に「即位式の後、副首相さんをはじめ、オマーンの一行が公式行事後、私的に10月25日に稲美町のブサイナ姫の墓参をしたい」との連絡が入りました。稲美町は、大忙わらわになりました。この墓参と関係なく、オマーン大使館は、私のブログ「オマーン国王夫人物語」を読んでおられたようです。そんな関係で、「墓参の時に私にも出席してほしい」という連絡が入りました。オマーン国王夫人、稲美町への墓参の詳しいことは「ひろかずのブログ・オマーン夫人物語」をご覧ください。その日(墓参当日)、墓参に先立ち稲美町役場で副首相さんとお会いして時計までいただきました。きのう(7日)、...新ひろかずのブログ50.6000円の腕時計・・・・

  • 新ひろかずのブログ(9) 高砂と渋沢栄一(9)・「晴天を衝く(NHK大河ドラマ)」を楽しみにしよう

    「晴天を衝く(NHK大河ドラマ)」を楽しみにしよう明治維新に生きた男たちは、日本という未開地を暗中模索で耕しました。多くの困難がありましたが、それ以上に創造の喜びがありました。その喜びを人一倍に感じたのが栄一でした。栄一は、明治時代に大蔵省で度量衡の改正、租税制度の改革、駅逓法の改良、貨幣制度の改革、鉄道敷設案、諸官庁の事務、公債制度、紙幣制度、銀行条例、廃藩置県にかかわる制度、会計法などの仕事にかかわりました。新政府のほとんどの基盤整備にかかわったといえます。その後、政府を去り民間事業事業に力をいれました。特に、銀行制度に力を入れています。第一国立銀行も彼の設立によるものです。「国立銀行」という名前から、現在の日銀のような銀行を想像しますが、政府の規則にのっとって運営される私立銀行です。余談になりますが「銀行...新ひろかずのブログ(9)高砂と渋沢栄一(9)・「晴天を衝く(NHK大河ドラマ)」を楽しみにしよう

  • 新ひろかずのブログ(8) 高砂と渋沢栄一(8)・栄一、パリへ

    栄一、一ツ橋家に仕える栄一が一ツ橋家に仕官したのは、元治元年(1864)のことです。伊保(高砂)で藩札を使い綿の取引を始め、徳川家の財政のたてなおしを図ろうとしたのはこの頃のことです。栄一は、どうしてそんな方法を思いついたのでしょう。その基盤は、故郷の血洗島での藍玉の販売にあるのではないかと想像されます。栄一は、儲けるよりもその方法に興味を持ったようです。慶喜が徳川将軍を引き継ぐのは慶応2年(1866)ですから、まだ将軍職ではありません。この時期、日本はまさに激動のじだいでした。それらは、栄一の感度の良いアンテナにキャッチされました。彼は、おぼろげながら「このままでは、幕府はやがて滅亡する」と想像したようです。慶喜が、将軍職を引き受けた時、栄一は「やがて沈んでいくかもしれないドロ船に乗るべきではない」と上司にも...新ひろかずのブログ(8)高砂と渋沢栄一(8)・栄一、パリへ

  • 新ひろかずのブログ(7) 高砂と渋沢栄一(7)・渋沢要一、一ツ橋家と結びつく

    ◇渋沢要一、一ツ橋家と結びつく◇渋沢栄一は、天保11年(1840)今の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)に生まれました。血洗島は、なんとも恐ろし気な名前です。中山道と利根川に挟まれた地域で、交通の要衝でしたが、水害も多い集落でした。渋沢家は、商業的な農業(藍玉の生産と販売)で大をなした農家でした。時代は、まさに激動の時代でした。要一は、水戸学(尊王攘夷思想)の影響を強く受け、胸にほとばしるような激情が溢れていました。高崎城を襲う計画があり、やがて、江戸へ出奔します。江戸で運命的な出会いがありました。一ツ橋家の当主徳川慶喜(後の15代将軍)の側近中の側近、平岡円四郎との出会いです。クーデター計画(高崎城襲撃)中断文久3年(1863)の10月でした、元の要一等の攘夷論者たちはクーデターの実行(高崎城の襲撃)の謀議が...新ひろかずのブログ(7)高砂と渋沢栄一(7)・渋沢要一、一ツ橋家と結びつく

  • 新ひろかずのブログ(6) 渋沢栄一と高砂(6)・細工所陣屋の役人・山崎信三の墓碑

    陣屋の役人・山崎信三の墓碑記録はありませんが、安楽寺に一基の陣屋に縁のあると思われる人物の碑があります。戒名の院号や碑文から細工所陣屋でかなりの地位のあった役人のものと思われます。墓碑の裏側の文字は、小さい字で、その上に埃が覆っており、読みにくくなっています。地元の史家・宮永半治氏は、写し取られますので、それをお借りします。(碑文)表円説院定岳教伝禅居士山崎信三の墓裏教禅代山崎諱教公称新蔵其の先江州人也而後住於遠州矣迎住干江府住一橋公官干播州也天明元年丑年閏五月廿一日罹病絡終後干播州細工所村之官署葬干同安楽寺之北蛍年六十四嗣子孝政建焉簡単な訳をつけておきます。生前、戒名「円説院定岳教禅居士」は、生前、山崎新蔵です。元、滋賀の人で、その後、遠州(現静岡県)に住み、播州の一ツ橋公領の官吏でした。天明元年(1781)...新ひろかずのブログ(6)渋沢栄一と高砂(6)・細工所陣屋の役人・山崎信三の墓碑

  • 新ひろかずのブログ(5) 渋沢栄一と高砂(5)・細工所(加古川市東志方細工所)陣屋跡

    (復習)東志方9ヵ村・高砂三ヵ村は、小田原藩領に前号の復習です。宝永の富士山の大爆発(宝永4年・1707)の後、小田原藩の領土の過半を一時、幕府に返上にしてしまいました。そして、小田原藩は、それに代わる土地を宝永5年に、復興がなるまでという期限つきでしたが、新たな領地を得ました。その一つが、高砂の3ヵ村、東志方の9ヵ村でした。、この状態が約40年、延享4年(1747)まで続きました。東志方9ヶ村・高砂3ヵ村一ツ橋領(天領)にその後、東志方・高砂のこれらの村は、新たな支配領に組み込まれることになります。八代将軍・吉宗は、家康によって創設された御三家にならって御三卿(ごさんきょう)を創設しました。東志方・高砂3ヵ村々は、小田原藩の領土でしたが、延享4年(1747)から今度は御三卿の一ツ橋家の領地に組み込まれました。...新ひろかずのブログ(5)渋沢栄一と高砂(5)・細工所(加古川市東志方細工所)陣屋跡

  • 新ひろかずのブログ(4) 渋沢栄一と高砂(4)・東志方9ヶ村・高砂3ヵ村は小田原藩領に

    *12月31日のブログ(宝永の大噴火)の続きです。小田原藩壊滅宝永4年(1707)11月23日(現暦:12月16日)、「宝永の噴火」と知られる富士山が、空前の大爆発をおこしました。その少し前、元禄16年(1703)にも、房総近海を震源とするマグニチュード8.0~8.2といわれる巨大地震が、南関東地方に大災害をもたらしています。ことに小田原の被害は甚大で、町は火災でほとんど全滅。小田原城は、天守閣をはじめ多くの建物が全壊しました。宝永の大噴火は、その4年後の出来事です。富士山は、膨大な火山灰を噴出させ、風下の小田原領を直撃し、小田原領は、火山灰にのみこまれました。たちまちに食料が不足し、飢餓が襲いました。火山灰は川をせき止め、いたるところで洪水を引きおこしました。◇東志方9ヶ村・高砂3ヵ村は小田原藩領に◇当時、小...新ひろかずのブログ(4)渋沢栄一と高砂(4)・東志方9ヶ村・高砂3ヵ村は小田原藩領に

  • 新ひろかずのブログ(3) 渋沢栄一と高砂(3)・宝永の大噴火

    江戸時代の富士山の大噴火の話です。今日の話題には、加古川・高砂が登場しません。宝永噴火により、一橋家と加古川・高砂の関係ができました。次回以降の予備知識としてお読みください。◇宝永の大噴火(宝永4年・1707)◇宝永4年(1707)、宝永地震(M8.4)が発生しました。海岸を大津波が襲い、津波による家屋の倒壊は2万戸、死者は少なくとも2万人に達したといわれています。悪いことは重なりました。宝永地震の49日後、富士山が大噴火しました。山麓の村々には焼け石が絶え間なく降り注ぎ、家も畑もたちまち、その下に埋まりました。江戸でも、その後10日あまり灰が降りました。噴火の大きな被害を直接受けたのは小田原藩の各村々でした。絶望的な村の風景となりました。すべての収穫を奪われ、たちまち飢饉が襲いました。小田原藩は、米一万俵を各...新ひろかずのブログ(3)渋沢栄一と高砂(3)・宝永の大噴火

  • ◇オリンピックの開催問題 、 これでいいのか?◇

    ◇オリンピックの開催問題、これでいいのか?◇新型コロナウイルスの影響で延期された東京オリンピック・パラリンピックの開催について、NHKの世論調査(12月15日の報道)の結果は、「さらに延期すべき」と「中止すべき」をあわせると66%で、「開催すべき」を大きく上回りました。しかし、多くのマスコミは、オリンピック開催問題について、だんまりを決め込んでいます。首相も開催を声高に叫んでいます。昨日の産経新聞の一面は「日本はオリンピックで再生する」とまで言い切っています。「狂気の沙汰」では?マスコミは、「開催」でもいいです。今こそ、少し遅すぎますが、取り上げてほしいです。世界のコロナの情勢を見るとき、オリンピック開催できる状況とは、とても考えられません。それに、ダラダラと結論を延期させながら、予算を湯水のように垂れ流すべき...◇オリンピックの開催問題、これでいいのか?◇

  • あけまして、おめでとうございます

    あけまして、おめでとうございます元旦今年の正月ばかりは、こんな言葉を簡単につかえませんね。「コロナよ早く退散しろ・・・!」と叫びたいです。でも、元気を出して頑張りましょう。今年も、よろしくお願いします。あけまして、おめでとうございます

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