常楽寺について、『大野史誌』から少し、お借かりして説明しましょう。常楽寺は、正嘉二年(1258)八月、暴風雨のためは、一宇を残して破壊されてしまいました。常楽寺、受難この後、繁栄を誇っていた常楽寺の再建は、さすがに進まなかったようですが、『大野史誌』は、「その後、文勧(文観)により再興された」と記しています。「文観慈母塔」の伝承を伝えていますが、銘には願主・道智とあり、文観の慈母塔ではないようです。が、この頃、西大寺の僧・文観の援助で、この寺を再建したのではないかと想像されます。再建は、この塔の造立された正和四年(1315)ごろのようです。当時、文観は37才でした。文観によって再建され、末寺18ヵ寺で寺領は30石であったといいます。そして、永禄年間(1558~1570)、三木城の別所氏の祈願所となり大いに繁栄し...文観(6)常楽寺、受難
文観(5)文観、大野(加古川町大野)で修業を始める文観の実家であるこの大野氏については、播磨国北条郷大野(加古川市加古川町大野)に居住する一族だったと考えるのが通説です。実際、同地には常楽寺という寺院が存在し、文観の在世中に真言律宗の西大寺の末寺として活動が活発で、のちに同寺に務めた宇都宮長老という人物が文観の関係者だったことも証明されています。*真言律宗については、後に説明しましょう。しかし、文観を追いかけたいのですが、謎だらけ人物です。特に、子供の時代の文観についてはほとんど分かりません。自分のことを語っていないのです。語りたくなかったのかもしれません。そのため、伝承では子ども時代に文観は「播磨の農民の子として生まれ、幼少時に天台宗の僧に130文の銭で買われた」という伝承まであります。不遇な少年時代か?前回...文観(5)文観、大野(加古川町大野)で修業を始める
文観、加古川の大野で誕生以前、「文観」というとチョットいかがわしい怪僧であり、てっきりその生まれは、現在の現在の加西市の一乗寺で勉強をした僧侶ぐらいに思っていました。入門書ばかりですが、中世史の網野善彦先生の著書を読んでいると、「文観は加古川市加古川町大野の出身で、大野の常楽寺で研修を始めた」と思えてきました。文観の誕生:弘安元年(1278)1月11日また、昭和29年度氷丘公民館地域学講座(1/27)で、兵庫大学教授の金子哲先生が「日岡の文観」というテーマで講義をされました。その講義から次の史料を紹介します。大切な史料ですから掲載させていただきますが、少し読みづらいので今日のところは「チラッとながめる」だけでけっこうです。(史料1)宝連「瑜伽伝灯商省」第九巻第二十九法務大僧正弘真条第廿九伝法務大僧正弘真号小野僧...文観(4)文観、加古川の大野で誕生
文観(3)文観の姿が浮かび上がってきました文観は、後醍醐天皇の影の人として活躍しています。そして、後醍醐の政治は日本の歴史を大きく動かしました。以前、「・・・文観について、加古川市とのつながりまた生活については、ほとんど紹介されていません。最近ようやく、おぼろげな姿が明らかになってきました・・・」と書きました。正直、まだまだ「分からないことだらけの人物です」でした。そこで、後醍醐の政治、そして文観を紹介したかったのですが、なにせ歴史学者でも困難な作業です。素人が手に負える課題ではありません。そのため、研究者の成果をかじり、それに想像を少しだけ加えて紹介するだけにしました。文観についてまとめた後、少し「文観」から遠ざかっていました。先週、K氏から「ウィキペデアに文観についてまとめてありますので、お読みください・・...文観(3)文観の姿が浮かび上がってきました
文観(2)内藤湖南(ないとうこなん)の歴史観大正時代、京都大学の内藤湖南(ないとうこなん)先生の発言です。湖南氏の著作『日本文化史研究』(講談社学術文庫)で読むことができます。「・・・今日の日本を知るために、日本の歴史を研究するためには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありません。応仁の乱以後の歴史を知っておれば、それでたくさんです。それ以前のことは外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませんが、応仁の乱以後は、われわれの真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知っておれば、それで日本の歴史は充分だと言っていいのであります・・・」という一節です。いかがですか。「当時(大正時代〉としてはかなり思い切った発言であったと言ってよいと思います。当時、内藤さんのこの発言が一般の方の間に浸透していたとは思われませ...文観(2) 内藤湖南(ないとうこなん)の歴史観
文観(1)再度、文観(もんかん)を紹介しましょう2009年5月に『加古川さんぽ(加古川市内の歴史散歩(上・下二巻))を出版しました。加古川各町内の簡単な歴史でしたが、文観(もんかん)だけは、少し気張って、詳しく書いてみました。再度、文観を追うことにします。最初の「文観と後醍醐天皇」紹介しておきます。文観と後醍醐天皇以下の文は、『加古川さんぽ(加古川市内の歴史散歩(上・下二巻)の初めの文です。・・・・文観・後醍醐天皇の時代(南北朝時代)は、日本人の生活・考え方が最も大きく変化した時代でした。でも、南北朝時代については、教科書でも簡単な紹介に終わっています。霞の向こうの風景のようです。この時代の中心になっている人物は、間違いなく後醍醐天皇でした。その醍醐天皇を支えている重要人物の一人が、僧の文観(もんかん)です。し...文観(1)再度、文観(もんかん)を紹介しましょう
「ひろかずのブログ」を続けたいのですが・・・前号でシリーズ「かこがわと洪水」を終わります。ここでハタと困っています。前号で5066号になりました。4000号の時に、とにかく5000まで続けよう。そして、「ひろかずのブログを終了させよう」と、考えていました。またたくまに、5000号になってしまいました。中途半端でしたので、前号(5066号)まで続けました。先週から気になりだしました。「もう終わりか」と思うとすこし寂しくなりました。明日からする仕事がなくなります。まだ、76才ですから余生というには少し長くなりそうです。少なくとも、孫(現在小6)が高校を卒業するまでは続けたいですね。「東播磨と感染症」「東播播磨における赤松氏の興亡」等取り上げたいテーマがあるのですが、はっきりと分かっていません。専門家でも難しいテーマ...「ひろかずのブログ」を続けたいのですが・・・
大河・かこがわ(316) かこがわと洪水(17)・加古川駅前の洪水
昭和8年の加古川改修の後、大きな水害は経験していません。これは、たまたまそうであっただけで、偶然といえます。最近は「かこがわの水害」といえば、下の写真のように小規模なものでした。加古川駅前の洪水のようすを見ておきましょう。加古川駅前の洪水加古川駅前通り、火の見やぐらの見える所は、寺家町商店街の入り口付近です。写真の「神姫バスのりば」とあるのは、現在の「ケンタッキーフライドチキン店」のある場所です。写真の女性の姿から駅前商店街は床上50センチの水害でした。この水は、加古川本流水害ではなく、日岡山の北を流れる曇川(曇川:くもりがわ)の水が日岡山の西と本流の堤防の間を流れ、五ヵ井水から南へあふれだした水です。本流が切れていたら、こんな程度ではおさまりません。私たちは、「かこがわの洪水」といえば、このような小規模な水害...大河・かこがわ(316)かこがわと洪水(17)・加古川駅前の洪水
大河・かこがわ(315) かこがわと洪水(16)・河川工事進む(2)・かこがわ改修工事完成
河川工事進む(2)・かこがわ改修工事完成1933年、当初の計画(10年)を大きく延長し、16年の長期にわたり加古川改修工事は完成し、竣工式は、11月19日午前9より加古川町大橋南の河原で挙行されました。官民あわせて千人が参列でした。その日、加古川町内は美しく飾られ、旗行列や提灯行列などで大変な賑わいとなりました。この長期にわたる工事は、600万円の巨費にものぼり、そして、この間に要した延べ人員は120万人で、死傷者も321人を出しました。この大事業を記念して、加古川改修記念碑(写真)が建てられています。また、改修工事完成を記念して、「川祭り(現在の加古川のもと)」を行うようになったのです。1934年(昭和9)11月、川祭りの第一日目に、加古川記念碑除幕式が盛大に行われました。記念碑は、加古川橋東詰めの春日神社の...大河・かこがわ(315)かこがわと洪水(16)・河川工事進む(2)・かこがわ改修工事完成
大河・かこがわ(314) かこがわと洪水(15)・改修工事進む(1)
改修工事進む(1)加古川は、「河川法」により国の直轄事業として帝国議会で改修工事が決まりました。しかし、工事はなかなか始まりませんでした。工事への着手の順位をめぐって、全国で激しい競争が展開されたのです。加古川河川改修期成同盟は、帝国議会へ工事開始の請願をしました。ついに、大正7年度からの工事着手が決まりました。工事期間は、10ヵ年で、船頭(ふなもと・米田町)の南から荒井(高砂市)へ分流していた支流を締め切る工事を含む大改修工事でした。着工式は、1921年(大正10)日本毛織加古川工場の敷地で行われ、床次(とこなみ)内務大臣も出席しました。その後、関東大震災の復興・軍事予算などのため、治水予算は大幅削減がもくろまれ、工事は順調に進んだのではありません。工事が遅れれば、「明治30年の大洪水が再び起おこるだけでなく...大河・かこがわ(314)かこがわと洪水(15)・改修工事進む(1)
河川改修明治時代、「かこがわ」はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まりました。明治43年は、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者がありました。国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとしました。そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」としました。「かこがわ」は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられました。この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川です。利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)・斐伊川(島根...大河・かこがわ(313)かこがわと洪水(14)・河川改修
大河・かこがわ(312) かこがわと洪水(13)・河川改修要求なる
河川改修要求なる明治29・30年は、水害にみまわれました。そのため、加古川の本格的改修の要求が高まりました。明治31年、加古郡・印南郡の17ヵ村は、「加古川河身改修期成同盟」を結成しました。しかし、1904年(明治37)の日露戦争が、それに水をさしたのです。経費節減のため河川改修実現への動きは頓挫してしまいました。1907年(明治40)7月から9月にかけて、台風が次々来襲し、大きな被害をもたらしました。これをきっかけに、ふたたび河川改修要求の運動に火がつきました。その後、河川改修の運動はさらに高まり、1907年貴族院・衆議院で「加古川は、天下の大川ではないが、その被害ははなはだしく、人民の苦悩は計り知れない。だから、関係人民の苦衷を察し、加古川に河川法を施行し、相当の改修をして、安心して暮らせるようにして欲しい...大河・かこがわ(312)かこがわと洪水(13)・河川改修要求なる
大河・かこがわ(311) かこがわと洪水(12)・被害の大きかった明治30年の水害
被害の大きかった明治30年の水害前号のブログ「明治29年の水害」の続きです。翌、明治30年の9月にも台風は加古川を直撃しました。被害は、前年を大きくしのぐ大災害となりました。死者8名、傷者31名、建物の流失倒壊383棟、破損浸水14,389棟、堤防破壊破損31,854間、道路破壊破損52,795間、橋梁流出破損838ヵ所で被害総額は1,057,000円にものぼりました。加古川流域の村々では、おりからのウンカの害にくわえ、収穫期に大水害を被ったため収穫のない田畑も少なくありませんでした。生活に困窮し、土地を手放す者も続出しました。土地売買の手続きが日々百件以上もあり、登記事務所は連日夜業をするほどであったといいます。これらの水害をきっかけに、加古川河川の本格的改修の要求がたかまったのです。それには、国庫の補助が必...大河・かこがわ(311)かこがわと洪水(12)・被害の大きかった明治30年の水害
大河・かこがわ(310) かこがわと水害(11)・明治29年の水害
明治29年の水害大雨の時、当然「かこがわ本流」の水位は高くなります。そのため、「かこがわ」の支流からの取り入れ口の水門は閉じられます。曇り川(神野町)に、それをみましょう。(*曇り川:日岡山の北を流れる「かこがわ」の支流)曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けられたという説まであるぐらいです。しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となります。こんな時は、「かこがわ」へ排水する水門は閉じられると、水の行き場がなくなります。曇り川の濁流は、曇り川が「かこがわ」に突き当たり、「かこがわ」の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、かこがわの町に水害をおこしました。加古川町の水害史のパターンは、この例がほとん...大河・かこがわ(310)かこがわと水害(11)・明治29年の水害
大河・かこがわ(309) かこがわと洪水(10)・築山(つきやま)
築山(つきやま)先に、嘉禄元年(1225)、国包を襲った大洪水については、紹介しました。「この地(加古川市八幡地区)は、加古川が大きく蛇行し、特に洪水が多かったのです。国包には写真のような人工の築山(つきやま)があります。洪水時の避難場所です。宝暦六年(1756)、国包出身の長浜屋新六郎という人が、洪水で被害に困る住民のために私財を投げ打って築いたものだと伝えられています。当時は、水害のため飢饉の状態でした。この工事により、多くの貧しい人々が仕事を得て救われたとも伝えられています。後年、この築山に土地の人々が感謝の気持ちと安全への祈りをこめ築山神社を築きました。なお、この築山には近くから見ると一本のように見える大樹です。この木は、二本の榎が一本のムクノキを両脇から包み込むような形で成長して、三本あわせた木の周囲...大河・かこがわ(309)かこがわと洪水(10)・築山(つきやま)
大河・かこがわ(308) かこがわと洪水(9)・中津・大野村、升田堤建設にはんた~い
中津・大野村、升田堤建設にはんた~い前回紹介したように、流域の人々にとっての生活は、まさに「かこがわ」との対決の歴史でした。前回の復習です。万治元年(1655)、姫路藩は、升田山から船頭(ふなもと・加古川橋西)にかけて、丈夫な堤防(升田堤)をつくり、水害を防ぎ現在の加古川本流の西側に広大な田畑を計画しました。この升田堤が完成すれば、その対岸の大野・中津村等の洪水の可能性が大きくなります。そのため、大野・河原・中津の百姓達は、藩主・榊原忠次に嘆願書を出しました。「・・・私たちの村々は、昔から水害の際は西側と同じように被害を受けてきました。ところが、この度の工事で右岸(西岸)だけが強くなり、左岸(東岸)が弱いままですから、一方的に被害が私どもへかかってきます。この度の工事を小規模にして、今後少しずつ高くしてはいかが...大河・かこがわ(308)かこがわと洪水(9)・中津・大野村、升田堤建設にはんた~い
大河・かこがわ(307) かこがわと洪水(8)、「かこがわ」は暴れ川(2)・升田堤
「かこがわ」は暴れ川(2)・升田堤前回(「かこがわ」は暴れ川・1)の図(「正保播磨国絵図(解読図)」)を参照ください。池尻から下流に二つの大きな流れがあります。二筋の加古川は、二ヶ所の渡船が必要で旅人は難渋しました。それに、加古川は若干西に低い勾配をつくっています。特に、西加古川沿い人々は洪水に難渋しました。姫路藩は、ここを美田に変え藩の収入をはかりました。藩主・榊原忠次は、升田で西加古川をせき止め、船頭(ふなもと)までの堤(升田堤)の強化を命じたのです。(*升田堤:現在の升田から米田町船頭まで)この工事に動員された役夫は、60万ともいわれています。万治二年(1659)八月、工事がほぼ完成した時でした。暴風雨が襲ったのです。一夜のうちに堤は壊れ、元の河原にもどってしまいました。お上から、「この工事は重要である。...大河・かこがわ(307)かこがわと洪水(8)、「かこがわ」は暴れ川(2)・升田堤
大河・かこがわ(306) かこがわと洪水(7)・「かこがわ」は暴れ川(1)、二筋の流れ
「かこがわ」は暴れ川(1)・二筋の流れ1600年、姫路藩を支配した池田氏は、地図の場所に高砂城・高砂町の建設をはじめました。この時、現在の「かこがわ」本流は支流であり、本流は現在の高砂市の西部を流れていました。絵図は、「正保播磨図絵(解読図)」の一部です。*正保(1644~1648)正保(しょうほう)播磨図絵では、平荘町池尻あたりから、ほぼ同じ大きさの二本の流れがあります。東の流れは東加古川、西の流れは西加古川と呼ばれていました。このように、「かこがわ」は、現在の流れと同じではなく古代から幾度となく、洪水を引きおこし、その流れを変えました。「かこがわ」の周辺に住む人々にとって、「かこがわ」は恵の川であるとともに、同時に闘いの対象でもあったのです。(no5056)*絵図:「正保播磨図絵(解読図)」大河・かこがわ(306)かこがわと洪水(7)・「かこがわ」は暴れ川(1)、二筋の流れ
大河・かこがわ(305) かこがわの洪水(6)・米田大洪水(応永32年・1425)
米田大洪水(応永32年・1425)中世の地域の歴史は、はっきりしません。ほとんど史料が残っていないからです。そんな中で、米田の定願寺(じょうがんじ)の僧・鎮増(ちんぞう)が残した『鎮増私聞書』は、室町時代を知る貴重な記録であり、それに加古川の大洪水のことが登場します。・・・・その年(応永32年・1425)の7月25日の夜半から雨がひどくなり、ついに加古川が氾濫しました。・・・・加古川は、播州平野を流れる大河でございます。・・・・いったん川が暴れだすと手がつけられません。今回のような、大洪水は、近隣の人々が流されて亡くなるという大惨事に至ったのでございました。私も、いちおう避難しましたが、目の前を流れてゆく人々をみましても、どうすることができない、もどかしさがございました。人を救うのが僧侶のつとめであるはずですの...大河・かこがわ(305)かこがわの洪水(6)・米田大洪水(応永32年・1425)
大河・かこがわ(304) かこがわの洪水(5)・嘉禄元年(鎌倉時代)、大洪水が国包を襲う
嘉禄元年(鎌倉時代)、大洪水が国包を襲う図は、「元禄播磨図会(部分)読解図』から、さらに現代の八幡町付近を残したものです。郡堺が描かれています。国包(くにかね)に注目してください。国包は、加古川東岸にあるが八幡町ではありません。不思議なことに現在でも加古川市上荘町に属しています。その昔、郡堺が決められた時(奈良時代)、「ここを加古川が流れ、印南郡と加古郡の堺にしたのではないか」と考えます。記録によると、国包は元加古川の西岸の村でした。村が移動したのではありません。嘉禄元年(1225)、この地を大洪水が襲い、川は集落を突き抜けました。そのため国包村は真っ二つになってしまったのです。古代より「かこがわ」は暴れ川であり、嘉禄元年以前も、以後も「かこがわ」は、しばしば流路を変えています。『風土記』の時代(奈良時代)と嘉...大河・かこがわ(304)かこがわの洪水(5)・嘉禄元年(鎌倉時代)、大洪水が国包を襲う
大河・かこがわ(303) かこがわと洪水(4)・ 加古郡と印南郡の郡境の語ること
加古郡と印南郡の郡境の語ること地図は、「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、現在の加古川市加古川町の部分だけを拡大したものです。地図の加古川村(現在の本町)・木村・友沢村・稲屋村とその他の村との間に郡境があります。この郡境は、聖武天皇の神亀三年(726)に創設されました。郡境を決めるとき海・やま・川などがその基準になったと考えられますその時、「かこがわ」は郡境に沿ったところを流れていたのでしょう。そして、「かこがわ」の左岸側(西側)は印南郡、右岸側(東側)は加古郡と決められました。ですが、なにせ「かこがわ」は暴れ川です。幾度となく大洪水をおこし、流路を変えました。流路が現在のように定まってからも、加古川村・木村・友沢村・稲屋村は印南郡のままで、長く変更されませんでした。江戸時代になり、これらの村々は印南郡に属して...大河・かこがわ(303)かこがわと洪水(4)・加古郡と印南郡の郡境の語ること
大河・かこがわ(302) かこがわと洪水(3)・旧流路の語ること
奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整ってきました。地方には国司・里長等の地方官が置かれました。これら地方官の仕事は治安、なによりも農民から確実に税を納めさせることでした。政府は、税を確実にするために土地制度を整えた。これが条里制です。条里制は、七世紀の末には始まっていただろうと思われます。旧水路跡は、何を語る条里制の土地があったことは確かめられています。しかし、土地だけでは田畑になりません。水が必要です。どのようにして水を得たのでしょうか。池から得たとも考えられが、池の遺構がありません。埋もれてしまったとも考えられますが、これだけ発達した条里制です。どこかで遺構が見つかってもよさそうなものです。考えられることは、「かこがわ」の水を利用することです。でも、「かこがわ」からの用水を造り作り、条里制の田畑に引いたと...大河・かこがわ(302)かこがわと洪水(3)・旧流路の語ること
大河・かこがわ(301) かこがわと洪水(2)・大河「かこがわ」がある
大河「かこがわ」がある以前のことでした。大阪の方とお話しをしていました。私の発音が悪かったのでしょうね。その人は、「(ところで、あなたのお住いの)カケガワ市って静岡県でしたかね。愛知県でしたかね」といわれるんです。「いえいえ、私は兵庫県のカコガワ市の出身です」と、訂正したことがあります。掛川市をインターネットで調べてみると人口は、加古川の半分より少ない都市です。加古川市は、知名度の少ない都市のようです。これは近くに、神戸・明石・姫路市等々の全国級の都市があるためかもしれません。姫路市は、なんといってもお城で知られています。明石市は、子午線の通る街であり、神戸市・明石と淡路をつなぐ大橋があります。明石海峡大橋は誰もが知っています。そこで、加古川市のセールスポイントは?となるのですが「これこそ加古川市だ」というもの...大河・かこがわ(301)かこがわと洪水(2)・大河「かこがわ」がある
「かこがわと洪水」の話をしよう「北条直正物語」はいかがでしたか。続いて何の話をしようか迷いました。当面「コロナ」の話もしなければいけません。学校での歴史は、あまりにも政治・経済だけにかたより語られているようです。ペスト・天然痘・インフルエンザ等の感染症が日本ばかりでなく世界の歴史大きく動かした歴史があまり語られていません。これら感染症を含めての歴史がもっと語られる必要があります。しかし、ここに、決定的な大きな壁があります。私には、語る知識がないことです。さいわい、最近素晴らしい感染症に関する書籍が出版されてきました。いま、それら入門書を毎日読んでいます。後日(いつになるかしれません)、紹介したいと考えてみます。話題を変えます。それにしても、今年は梅雨が九州・山形(最上川)地方では甚大な被害をもたらしました。加古...大河・かこがわ(300)「かこがわと洪水」(1)
北条正直さん没後100周年大正9年6月15日、北条正直は亡くなりました。西暦でいえば1920年です。85歳、波乱の人生でした。今年は、2020ですから、北条正直がなくなってから100周年になります。稲美町では、北条正直を顕彰して記念行事が組まれていましたが、コロナの影響で行事は今のところ予定が立っていません。明治時代からの稲美町は、全国的にも珍しい苦難を背追いながらの歴史でした。まさに汗と涙の歴史の連続でした。北条正直の活動は、稲美町の先人とともにありました。その後、稲美町は現在の姿に生まれ変わったのです。もちろん、稲美町の先人の努力のたまものでしたが、北条正直が果たした役割を忘れることはできません。北条正直があっての現在の稲美町といっても言い過ぎではないでしょう。しかし、いま稲美町の住民に「あなたは北条正直を...北条直正物語(37)北条直正さん、没後100周年
北条直正の墓碑を訪ねる北条直正のお墓を訪ねました。11月の終わりでした。前日まで、暖かい日が続いていたのですが、その日は朝からどんより雲が覆って、今にも降り出しそうでした。昼過ぎ、コンビニでおにぎりを買って、ほおばりながら出かけました。加古川北インターで山陽道に乗り、姫路西インターでおり、姫路と鳥取を結ぶ国道29号線を北へ10分ばかり車を走らせると、めざす墓地はすぐ見つかりました。場所は、龍野市神岡町野部です。広い墓地です。車から降りると、ついに小雨がふり出しました。でも、北条直正さんが、水で歓迎してくれているようです。これだけ大きな墓地だと、北条直正の墓碑を探しだすのは大変です。・・・・・北条・・・北条・・・と探していると、「北条家」の墓碑が多い。このあたりは北条の姓が多いらしい。しまった!・・・北条直正の戒...北条正直物語(38)北条直正の墓碑を訪ねる
義に生きた人・北条直正ここまで、主に小野晴彦さんの小説『赤い土』から多くを引用させていただき、母里村の生活をかけた農民の歴史をたどりました。その中で加古郡長の果たした役割を抜きにして現在の稲美町を語ることはできません。北条郡長あっての現在の稲美町でした。「北条直正物語」も次回で終わることにします。北条直正についてまとめとして紹介しておきましょう。北条直正は、播州揖保郡林田藩に代々仕えてきた藩士の家柄でした。明治12年1月8日、郡の役所(写真)が加古川の寺家町に置かれた時、北条直正は、10日、初代郡長として着任しました。疎水計画が具体化しようとしていた時でした。北条は、郡長の職にありながら、母里地区の農民に同情し農民が不利益を受けないようにいろいろ画策しました。そして、県令(県知事)をはじめ、租税課長ともしばしば...北条直正物語(38)義に生きた人・北条直正
(魚住)逸治はん、国会議員にならへんか話を少し前にもどします。須三郎は、はかどらぬ疎水工事に政治力の不足を感じていました。(岩本)「(魚住)逸治はん、あんた国会議員に立候補せいへんか・・・」(魚住)「やぶからぼうに、何いうねん」(岩本)「逸治はんは、25歳で兵庫県の議員もされたし、郡部会副議長もしている。あんたの力をみんな認めている。あんた以外に誰もあらへん足らんのは政治の力や(岩本)「立派な疎水つくらなあかん。そのためには政治力が必要や。わし等に欠けているのは政治力なんや」「さいわい、こっちには疎水組合がある。それだけ有利や・・・」逸治は迷いましたが立候補を決断しました。逸治はみごと当選し、県では12名の衆議院議員の一人となりました。・・・・逸治はん大変や、疎水が潰れた・・・疎水が、大雨でこわれたという一報が...北条直正物語(32)逸治はん、国会議員にならへんか
魚住逸治はん、疎水が潰れた・・・明治24年9月20日、淡河川からの水が本格的に印南野台地に流れくだりました。その喜びもつかの間でした。明治25年7月23日、降りだした雨は雨あしを強めました。雨粒は凄まじい音を立てながら台地をたたきつけました。村長の岩本は「疎水は、だいじょうぶか」「ケシ山のトンネルは・・」と不安になり見回りにでました。心配は的中でした。途中で野谷の(松尾)要蔵にあいました。「どないや・・・」「(岩本)須三郎はんか・・えらいこっちゃ・・水路もケシ山のトンネルも、ぐちゃぐちゃにつぶれとてしもうて・・・」須三郎は、その風景に呆然と立ちつくすばかりでした。まるで、白いヘビがのたうっているみたいでした。被害は、サイフォンを除く全線で全滅でした。・・・・須三郎は、へこたれるわけにはいきません。「なんとかなる...北条直正物語(33)魚住逸治はん、疎水が潰れた・・・
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