大河・かこがわ(181) 播磨地方と赤松氏(2)・中道子山城の城主は誰?
中道子山城は立派な山城です。それでは、①誰がこの城を築いたのか、②その時期はいつか、③いつまで続いたのか、ということが知りたくなります。まず、①の城を築いた人物を調べてみます。城主は誰?赤松氏則(赤松円心の四男)か?橋新五郎か?城の築城者は、はっきりしているのが普通です。でも、志方の城山の場合は、はっきりしません。謎の城です。◇『中道山城跡発掘調査報告書』より「・・・中道子山城跡の城主は、二つの城主説が考えられてきている。その一つは赤松氏則築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはししげひろ)説である・・・」◇『志方町誌』より「・・・中道子山は俗になまって「ちゅうどうさん」と呼び、城山と呼ばれる場合が多い。(中略)『志方荘古城図附註』のみは、「至徳中、赤松円心の四男氏則(うじのり)、始めて之を築く」とし...大河・かこがわ(181)播磨地方と赤松氏(2)・中道子山城の城主は誰?
大河・かこがわ(180) 播磨地方と赤松氏(1)・中道山子城
東播磨の中世史は赤松氏なしには語ることはできないのですが、かんじんの赤松氏の東播磨にいての活動は、はっきりわかりません。語られている少しだけを紹介しましょう。赤松氏と中道子山城(1)志方の城山は、標高271.6㍍の山で、特に登るのに躊躇するほどの山でもありません。東播磨の中世の歴史を語るとき、赤松氏を抜きには語れません。中世ここに赤松氏のお城がありました。いろいろの書物をあさってみました。が、「中道子山城」の名は知られているわりに謎だらけの城です。中道子山この270㍍の城山の名前本当の名前は「中道子山(ちゅうどうしさん)」です。中道子の「子」は「寺(字)」が変化した読み方だといわれています。もともと、この城山の頂上の一角に「中道寺」という寺があったようです。安楽寺(細工所)の由来に「西暦811年、弘法大師(空海...大河・かこがわ(180)播磨地方と赤松氏(1)・中道山子城
播磨地方の中世太子信仰(2)前号で「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と書きました。「聖徳太子は重要な寺ではない」ということでは決してありません。中世における当地方の精神的な支えとなった大切な寺です。『加古のながれ』(加古川市)が言うように「鶴林寺は庶民に支えられていた寺」でした。鶴林寺の江戸時代以前の歴史は、日本史上でも地震・飢饉・戦争は引き続きた時代でした。その上に重い税金がありました。庶民の生活は、ますます厳しさを増し、まさに末法の世のようだったのです。こんな時代では、人々は仏様に救いをもとめます。この時期、いろいろな仏様に救いを求めましたが、「聖徳太子は観音の生まれ変わりであり、この世を救ってくださるのだ」という太子信仰も大きな広がりました。私たちの地域の太子信仰の中心が鶴林寺でした。そのため、鶴林寺に一...大河・かこがわ(179)播磨地方の中世・太子信仰(2)
播磨地方の中世太子信仰(1)鶴林寺は、法隆寺ではなく四天王寺(写真)から勧請し、創建された寺です。四天王寺は、法隆寺がもっぱら学問の寺であったのとは異なり、国家を守るという信仰と慈善事業済活動を中心として、実践的救済を展開することに力を注ぎつづけてきた寺院でした。四天王寺は、難波(なにわ)の港湾に面した立地に建つことから、外敵から守るという護国の大寺の役割をもっていました。その一方で、悲田院・施薬院・療病院を併設するなど慈善活動にも熱心に取り組みました。それが太子の理想の下に実現されていたことを考えるとき、鎮護国家思想の具現者としての太子の他に、太子は「観音」の再来であるという考えが大きなうねりとして広まりました。これが「太子信仰」です。この太子信仰が、大きなうねりとして広まったのは鎌倉・室町時代です。先に、鶴...大河・かこがわ(178)播磨地方の中世・太子信仰(1)
前回の「黒岩摩崖十三仏」で、「中世の石造物」を終える予定でしたが、高砂市の十輪寺の境内にある。水手供養塔(かこくようとう)を付け加えておきます。水手供養塔(かこくようとう)十輪寺(高砂町)を訪ねます。本堂の東側に、多数の石塔に囲まれた一基の大きな宝篋石塔(写真)があります。これは、1592年(文禄元)、秀吉の朝鮮侵略の際にかりだされて溺死した水手の供養塔です。この戦いに、高砂から100人が徴発され、帰国途中に96人が溺死したといいます。「文禄・慶長の役」とよばれる朝鮮侵略では武士のみでなく、多くの民衆が動員されました。「高麗へ渡り候へば、二度と帰らぬ・・・」とまでいわれ、多くの水夫・武士が死亡しました。この供養塔は、全国的にも貴重な民衆側からの朝鮮侵略を記録する石造物です。96の石塔群は、1730年に建てられた...大河・かこがわ(177)中世の石造物(19)・水主供養塔
大河・かこがわ(176) 中世の石造物(18)・黒岩磨崖十三仏
他に紹介したい中世の石造物はたくさんありますが、高砂市曽根町にある珍しい黒岩磨崖十三仏を最後に紹介して、シリーズ「中世の石造物」を終えることにします。黒岩磨崖十三仏自然に露出した岩壁に仏像を彫ったもので、山間の岩面に各種の仏像が彫られ、密教の影響があるといわれています。「十三仏」の磨崖仏です。曽根町の日笠山東麓の、いわゆる「黒岩磨崖十三仏」は、磨崖仏(まがいぶつ)としては、山間でなく、人家近くにあるということや、銘が彫られているという点が珍しく、しかも、十三仏が麿崖仏として刻まれているのは他にあまり例がありません。一人の尼が逆修供養のために刻む日笠山麓の黒昧がかった岩の一面を二段に長方形に分け、上段に勢至(しせい)、阿弥陀、阿閦(あしゅく)、大日、虚空蔵(こくぞう)の五尊像、下段に不動、釈迦、文殊、普賢、地蔵、...大河・かこがわ(176)中世の石造物(18)・黒岩磨崖十三仏
今回は平荘・上荘町の石造物を離れて東神町(天下原)の「こけ地蔵」とその伝承を紹介しましょう。こけ地蔵平安時代は、「鬼」や「もののけ」が信じられ、呪詛(じゅそ)が広く行われていました。その役割を担ったのが陰陽師でした。良く知られている陰陽師は、阿部清明(あべのせいめい)であり、それに対抗した陰陽師は、西神吉町岸に生まれたという蘆屋道満だったのです。道長との対抗に敗れた道満は播磨へ流罪となり、晩年は西神吉町岸の近くで余生を過ごし、亡くなったといいます。道満は、式神たちを井戸に閉じ込めて上京したままでした。主人の死も知らず井戸から式神たちは、赤い火の玉となり飛び出し道満を探しました。ある夜、井戸から飛び出した火の玉は、天下原(あまがはら)の空を横切り、むかし修業をした古墳に近づきました。*式神(しきしん・しきがみ)・...大河・かこがわ(175)中世の石造物(17)・こけ地蔵
大河・かこがわ(174) 中世の石造物(16)・地蔵寺の石仏
地蔵寺の石仏池尻(平荘町池尻)の集落の西に接する山麓に、一段高く地蔵寺があります。山門を入ると左側に、二基の石棺仏(写真)が並んでいます。大日一尊種子板碑向かって右の石仏は地蔵像です。この地蔵像の背面に大日如来を表わす図のような梵字が彫られています。それが大日一尊種子板碑です。写真では、はっきりしないので、石仏の散策の時にでも確認してください。この梵字の下に、弘安四年(1281)四月廿日の銘があります。前回紹介した西山の「阿弥陀一尊板碑」とおなじ年の造立です。同じ製作者の作だろうか?写真の右側の地蔵像は、その板碑の背面に彫られている。時代は鎌倉後期です。石棺の部材を利用した板碑の裏に他の石仏刻んだ例は他にありません。六地蔵立像写真左側の石仏は六地蔵です。八体であるのに六地蔵とは不思議に思えますが、下の男女二体の...大河・かこがわ(174)中世の石造物(16)・地蔵寺の石仏
大河・かこがわ(173) 中世の石造物(15)・西山(加古川市平荘町)の板碑
西山の板碑西山(加古川市平荘町)の地蔵堂の奥に二枚の板碑(写真上)があります。阿弥陀一尊板碑まず、向かって右の小さい方の板碑に注目してください。写真では、はっきりしないので、拓本(写真下)で確認します。組み合わせ式石棺の底石に、阿弥陀を表わす梵字を刻んでいます。そして、左中央に弘安四年(1281)の銘があります。弘安四年は、二回目の元寇(弘安の役)の年です。随分古い年代の板碑です。阿弥陀三尊板碑この板碑に向かって左の大きな板碑は、組み合わせ式石棺の底石に梵字で阿弥陀三尊を刻んでいます。時代を確認できる銘がないのですが、右の板碑と同じ形式で彫られており、同年代の板碑としてほとんど間違いがないと思えます。地蔵堂の奥にはこれらの板碑だけでなく、板碑や石仏の残欠がたくさん集められています。どれも時代を感じます。それにし...大河・かこがわ(173)中世の石造物(15)・西山(加古川市平荘町)の板碑
大河・かこがわ(172) 中世の石造物(14)・常楽寺(上荘町井ノ口)の笠塔婆の阿弥陀さん
常楽寺(上荘町井ノ口)、笠塔婆の阿弥陀さん常楽寺(上荘町井ノ口)は、日光山の霊園の近くにある古刹です。常楽寺の参道の入り口近くに、たくさんの石造物(写真)があります。この付近で見つかった石造物がここに集められているようです。写真の笠塔婆(前列向かって左から二番の石仏を彫った石造物)を見てください。この石造物は町石笠塔婆(ちょうせきかさとうば)と呼ばれています。*町石(丁石)・・・路傍に立てて目標物までの道程を何丁と記した石笠塔婆・・・塔身と笠の二部よりなる、後に笠の上に宝珠を飾るものが普遍化する。この笠塔婆のそばに次のような説明があります。読んでおきます。・・・中央部の阿弥陀坐像を刻んだ笠塔婆は、日光寺(常楽寺)より一丁の距離であることが刻まれている。この笠塔婆は、元ここから一丁(約109㍍強)のところにあった...大河・かこがわ(172)中世の石造物(14)・常楽寺(上荘町井ノ口)の笠塔婆の阿弥陀さん
大河・かこがわ(171) 中世の石造物(13)・長楽寺(小畑)の石棺仏
長楽寺(小畑)の石棺仏小畑(平荘町小畑)の長楽寺を訪ねた時は、暖かな日差しの中にありました。本堂が南面しています。その左側が墓地で、墓地の南に手入れの行き届いた竹林があり、竹をわたる風の騒ぎがここちよい。墓地の西端に六地蔵(写真)があります。下部を埋めて建っています。家型石棺の蓋の内側に彫られ、地面からの高さ183センチの堂々とした石棺仏です。石棺の蓋の外側は写真下のようです。正面の縁取りした内部の平面に、二列三段に六地蔵を配しています。それにしても、六地蔵の刻み方は複雑で、坐像、立像そして上部の二体だけが蓮華座であり、光背部も二種の違った形式で刻んでいます。説明板(加古川市教育委員会)は、南北朝時代の石仏であると説明しています。なお、石仏の前に小形の「くりぬき石棺」の身の部分があります。(no4878)大河・かこがわ(171)中世の石造物(13)・長楽寺(小畑)の石棺仏
大河・かこがわ(171) 中世の石造物(12)・「見土呂姫」の伝承
見土呂姫(みとろひめ)の伝承上荘町見土呂(みとろ)山条のお堂の横にみごとな石棺仏(写真)があります。この三体の石仏には、次のような話が伝えられています。お堂にその説明があるので読んでおきます。(注:一部書き変えている)「見土呂(みとろ)」姫赤松円心の砦として室町時代の初めに井口城がつくられた。その後、井口城は、赤松満祐(みつすけ)の支配下におかれた。当時、城主は井口家治(いえはる)であった。家治の娘は、心やさしい美しい見土呂姫だった。井口家に出入りしていた若者は、姫のあまりの美しさに心を奪われた。ある年の「月見の祝」の時だった。若者は、やっと姫に近づくことができ、思いを告白したが、断られてしまった。絶望のあまり若者は、姫を殺してしまった。そして、裏山に埋めた。しばらくして、そのことを知った村人は姫の死を悼み、こ...大河・かこがわ(171)中世の石造物(12)・「見土呂姫」の伝承
大河・かこがわ(169) 中世の石造物(11)・ほほえみ地蔵
ほほえみ地蔵昭和54年、西山(加古川市平荘町)の墓地で二基の仏たち(写真)は発見されました。見つけたのは西山在住の藤原良夫さんで、ウルシやツタが生い茂った中で見つけられました。二基のうち写真右の一基は、「ほほえみ地蔵」として知られています。お祭りの夜、ゆれる灯明の明かりに照らされると、お顔が、にっこりと笑っているように見えたところから名づけられたと言います。ほほえみ地蔵は、「線刻地蔵板碑」という厳しい名前を持っています。像は線刻のため写真では、はっきりしないため拓本で確かめください。説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。「この板碑は、古墳時代の家形石棺の身の底の部分を再利用し、線刻で蓮華座上に立つ地蔵菩薩を彫り出した珍しいものです。地蔵像の左右に銘文があり、応長元年(1311)9月に造られたことが分かり...大河・かこがわ(169)中世の石造物(11)・ほほえみ地蔵
大河・かこがわ(168) 中世の石造物(10)・双石仏と四尊石仏残欠
双石仏と四尊石仏残欠前号と同じ敷地内にある地蔵堂の隣の地蔵堂の石仏を訪ねます。二基の石仏があります。左側の石仏(写真上)には、高さ50cm・幅53cmで立像(地蔵)と坐像(阿弥陀)が彫られています。右側一基(写真下)には、高さ約63cm・幅53cmの石棺に四体の阿弥陀坐像が彫られています。これらの石仏について、説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。・・・堂内にある二面の石仏も石棺の側石にそれぞれ仏像を彫ったもので、一面は阿弥陀像と地蔵、もう一つには阿弥陀三体(欠けたた部分に一体があり、本来は四体)が彫られており、造られたのは二面とも南北朝から室町初期と思われます・・・説明板にあるように、これらの石仏は、隣の地蔵堂の四体石仏も含めて、全て一枚の石板に数体の仏像を刻んだ石棺仏です。この特色を持つ石仏は平荘町...大河・かこがわ(168)中世の石造物(10)・双石仏と四尊石仏残欠
大河・かこがわ(167) 中世の石造物(9)・四尊石仏(平荘町養老)
四尊石仏(平荘町養老)平荘町養老の西の端に、同じ敷地内に二つの地蔵堂があります。きょうは、地蔵堂に向かって左の四尊石仏(写真)を訪ねてみます。こんな話があります。・・・ある時、村人が牛(馬)を引いて、この石橋を渡ろうとすると必ず急に牛(馬)の足が動かなくなってしまう。村人は、不思議に思いました。ある時である、村の女の人が洗濯をしていると、小川に架かる橋の下の辺りの水面に仏様の姿をみつけました。村人は、驚いて石橋を起こしてみると、この四体の像を刻んだ仏様のお姿があらわれました・・・・『加古川市史(第七巻)』でも、「この石仏はもと西山から養老に通じるあぜ道の橋にしていたのを仏様の像があるので、現在の場所へ移したものである。正面が黒色を帯びているのは、長い間祀られたもので、香煙によるものである」と記述されています。説...大河・かこがわ(167)中世の石造物(9)・四尊石仏(平荘町養老)
八ッ仏(平荘町小畑字八ッ仏)「八ッ仏」(やつぼとけ)を訪ねました。前日は、雨のせいで小川には近くの山から流れ出た水音がありました。遠くでカラスが鳴いていました。あぜ道を急いでいると足元に蛇がいました。八ッ仏は、あたたかい春の日差しの中でした。八ッ仏の所在地は、加古川市平荘町小畑字八ッ仏です。小畑の集落から北西約500mの山麓にあります。石仏の名が小字名として残っているのはめずらしい例です。説明板(加古川市教育委員会)を読んでおきます。石仏・・・この石仏は大型石棺の家型石棺の蓋に八体の仏像を彫ってあり、俗称「八ッ仏」として祠られています。この石室には、後にある古墳から出土したものでしょう。石仏には、銘はありませんが、南北朝時代に彫られたものと思われます・・・(以下略)説明板では、南北朝の作としていますが、田岡香逸...大河・かこがわ(166)中世の石造物(8)・八ッ仏
大河・かこがわ(165) 中世の石造物(7)・神木(こうぎ)の石棺仏
神木(平荘町)の石棺仏加古川地域には不思議な石仏がたくさんあります。石棺の蓋、あるいは身の部分に仏を刻んだ石棺仏です。これらの石棺物は、鎌倉時代から室町時代にかけてさかんに造られましたが、その後、なぜかプツリと姿を消しています。鎌倉時代、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾されました。この時、多くの古墳も壊され、出土した石棺は、仏像を彫る材料として再利用されたのでしょう。単なる廃物利用ではなさそうです。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたのでしょう。石棺仏は、全国に120基ほど確認されていますが、その8割が加古川市、加西市地域に集中しています。その理由は、はっきりとしません。加古川市・加西市地域では普通に見られるこれら石棺仏ですが、珍しい石造物です。写真は、神木(こうぎ・平荘町神木...大河・かこがわ(165)中世の石造物(7)・神木(こうぎ)の石棺仏
大河・かこがわ(164) 中世の石造物(6)・法華山の一乗寺の傘塔婆
今日は、加古川市域を離れますが、一乗寺(加西市)の傘塔婆の話です。まだ、少し文観にこだわっています。法華山の一乗寺の傘塔婆文観が正応三年(1290)、一乗寺において慶尊律師の下で得度(とくど・出家)しました。文観13歳の時でした。ということは、文観が小僧として常楽寺(加古川町大野)に入ったのは10歳ごろだったのかもしれません。一乗寺の正門付近は、高さ290㎝の大型の笠塔婆(凝灰岩製)があります。文字は読みにくいですが、写真をご覧ください。塔身正面の上部に種子(梵字)「アーク(大日如来)」と彫り、その下に大きな字で「金輪聖王」、その下に少しあけて「自金堂一町」と彫られています。その下に、やや小さな字で「正和五十二月廿一日」「依勅造立之」と二行に分けて刻まれています。この笠塔婆は、正和五年(1316)十二月に造立さ...大河・かこがわ(164)中世の石造物(6)・法華山の一乗寺の傘塔婆
大河・かこがわ(163) 中世の石造物(5)・報恩寺の十三重の層塔
報恩寺(平荘町山角)の十三重の層塔先に紹介した常楽寺(加古川町大野)の墓地に立派な宝塔があります。加古川近辺は石の産地であり、石造物はそれらの石を材料とするのが普通です。近辺で産出する石は、凝灰岩で、やわらかく細工がしやすく、従って、安く作ることができます。常楽寺の宝塔は、凝灰岩ではありません。硬い細工の難しい花崗岩を材料とした宝塔です。前号で紹介した、報恩寺の四基の五輪塔も花崗岩です。そして、報恩寺には見事な花崗岩の十三重の層塔があります。常楽寺の宝塔や報恩寺の層塔・五輪塔は、他所で完成させ、ここに運ばれたものと思われます。これらの宝塔・十三重の層塔・五輪塔は、ともに西大寺の石工集団伊派の製作による石造物といわれています。当時、硬い花崗岩に見事な細工を加工する技術を持った石工集団は、西大寺の石工集団より見つけ...大河・かこがわ(163)中世の石造物(5)・報恩寺の十三重の層塔
大河・かこがわ(162) 中世の石造物(4)・伊派の石造物:報恩寺(平荘町山角)の五輪塔
中世の石造物(4)伊派の石造物:報恩寺(平荘町山角)の五輪塔報恩寺(平荘町山角)の五輪塔の話です。報恩寺の境内の奥にみごとな4基の五輪塔(県指定文化財・写真)があります。この一基から金銅製の骨臓器がみつかりました。正和五年(1365)の造立であることも明らかになりました。これらの五輪塔は、報恩寺の僧の墓塔であり、作者は、大和の名工・伊行恒(いのゆきつね)であることもわかりました。これと常楽寺五輪塔を比較すると、両者の規模は同じ六尺塔(約180㎝)ですが、その形状には差があります。また、論文「東播磨の中世石塔と文観」は「・・・具体的にいえば、常楽寺五輪塔は地輪が幅に比して高く、火輪の軒反りがかたく、報恩寺の五輪塔は花崗岩製で、常楽寺の方は凝灰岩と異なります。制作時期の問題は、近在に報報恩寺五輪塔以外の適当な比較材...大河・かこがわ(162)中世の石造物(4)・伊派の石造物:報恩寺(平荘町山角)の五輪塔
大河・かこがわ(161) 中世の石造物(3)・稲屋、福田寺の層塔
稲屋、福田寺の層塔自宅から1キロほど西へ行くと稲屋(加古川市加古川町稲屋)の集落があります。稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。稲屋の近くにある泊神社は、地域の氏神であり、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられています。この稲屋に福田寺という古刹があります。「ふくでんじ」と読みます。福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔があります。現在は十一重ですが、本来は十三重であったと思われます。塔身(初層軸)には、三面に如来像を浮き彫りされています。この反対の面の如来像両協に銘文があり、銘からこの層塔は、...大河・かこがわ(161)中世の石造物(3)・稲屋、福田寺の層塔
大河・かこがわ(160) 中世の石造物(2)・常楽寺の墓地にある宝塔
常楽寺の宝塔常楽寺の墓地にある宝塔も材質(花崗岩)、様式等から伊派の手による石造物であることはたしかです。この宝塔について少し説明を加えておきます。この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)に次のような説明があります。(文章は変えています) (常楽寺宝塔) 花崗岩製 高さ 2.35メートル 銘文 正和四年(1315)乙卯八月 日 願主 沙弥道智この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時、慈母をここ葬ったと『播磨鑑』は伝えています。 道智は東大寺戒壇院の律僧『播磨鑑』の著者、平野庸脩(ひらのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。また、塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈すればよいのでしょうか。『播磨鑑』...大河・かこがわ(160)中世の石造物(2)・常楽寺の墓地にある宝塔
大河・かこがわ(159) 中世の石造物(1)・常楽寺(加古川市大野)の石造十三重層塔
中世の石造物(1)常楽寺(加古川市大野)の石造十三重層塔一般的に、中世の地方の歴史は、わからないことだらけです。というのは資料(古文書)などがないためです。でも、東播磨地方には中世の石造物がたくさん残されています。それらを手がかりに歴史家は、東播磨の歴史を明らかにしようとされています。前回までの文観の余韻が残っています。文観・西大寺・伊派の石造物から歴史探訪に出かけましょう。常楽寺石造十三重の層塔2017・3・17(日)の神戸新聞で、加古川市教育委員会は、同市加古川町大野の常楽寺にある「石造十三重塔」を市文化財に指定したことを報じました。以下の記事はその一部です。・・・過去の記録によると、(石造十三重塔の)塔身には制作年代を示すとみられる銘文が刻まれていた。判読できるのが一部分のみだったため、文安2(1445)...大河・かこがわ(159)中世の石造物(1)・常楽寺(加古川市大野)の石造十三重層塔
大河・かこがわ(158) 鎌倉時代(45) 文観(39)・中途半端な最終号
中途半端な最終号文観が加古川市加古川町大野の生まれであることは確実です。文観は、後醍醐天皇の(裏方の)ブレーンでした。文観が生きた時代は、鎌倉時代の最後から南北朝時代です。南北朝を含むこの時代は、日本の歴史の大転換点でした。日本の歴史を二つに区切るならこの時期です。とすると、この時代と後醍醐天皇・文観の研究は日本史の一大課題のはずです。でも、他の時代と比べてあまり研究が進んでいるとは言えません。当然、文観の研究もあまり進んでいるとは言えません。このブログでは、文観とこの時代、そして加古川地域を紹介しようとしましたが、素人の手におえる課題としては手ごわ過ぎました。・・・今、この分野での研究が進んでいるようです。このあたりで、とりあえず、このシリーズを一休みして、あたらしいことが分かれば、その都度紹介しましょう。(...大河・かこがわ(158)鎌倉時代(45)文観(39)・中途半端な最終号
大河・かこがわ(157) 鎌倉時代(44) 文観(38)・文観ルート
文観ルート話を少し戻します。醍醐帝が討幕の行動をおこした時、寺院がその都度拠点となっています。当初、元弘の乱によって後醍醐天皇が都を落ちていったのは笠置山であり、そこの笠置寺にこもりました。隠岐島から脱出、船上山に大山寺(だいせんじ)の僧兵を頼りに陣を張りました。「建武の新政」の失敗から再度、都を捨てて吉野蔵王堂を行在所として、後に河内へ出て金剛寺、さらに観心寺へと行宮を移しています。この一連の寺院と関連のある人物を探すと、当時後醍醐天皇の信任が厚かった醍醐寺座主文観僧正の名が浮き上がってくるのです。後醍醐帝はこの討幕挙兵の策謀が露見して、腹心の者たちが捕縛された知らせを受けると、当時、息子の護良親王が座主であった比叡山延暦寺へ逃げ込みました。そして、六波羅軍(鎌倉幕府軍)が、比叡山の行在所攻撃にきたという情報...大河・かこがわ(157)鎌倉時代(44)文観(38)・文観ルート
大河・かこがわ(156) 鎌倉時代(43) 文観(37)・鎌倉幕府滅ぶ
鎌倉幕府滅ぶ元弘二年(1333)五月二十二日、北条時高(31)は、鎌倉の東勝寺で最期を迎えました。そして、グレンの炎は次々と自害する諸将を焼き尽くしました。死者は600人、みな切腹して果てました。鎌倉幕府は滅びました。文観の活躍元弘三年(1333)六月五日、後醍醐天皇は京都へ凱旋しました。引き続き文観が硫黄島から帰ってきました。その後の文観の経歴は、華々しいものでした。(南朝年号)・正慶二年(1333)硫黄島から帰洛・建武元年(1334)このころまでに醍醐寺座主・東寺大勧進職・建武二年(1335)東寺一長者(真言宗のトツプ)・建武三年(1336)大僧正に任じられるしかし、後醍醐天皇による「新政(建武の新政)」は、前回にみたように失敗し、吉野にこもりひとすら足利尊氏の北朝打倒を目指し祈り続けました。足利氏を後(う...大河・かこがわ(156)鎌倉時代(43)文観(37)・鎌倉幕府滅ぶ
大河・かこがわ(155) 鎌倉時代(42) 文観(36)・建武の新政は失敗
後醍醐天皇が隠岐の島を脱出し、京都へ凱旋をし、「建武の新政」をはじめました。建武の新政とその後の南北朝の展開の詳細については、他の書物をお読みください。ここでは中学用歴史教科書(『中学新歴史・帝国書院』)を読んでおきます。建武の新政は失敗幕府をほろぼした後醍醐天皇は、1334年、年号を建武と改め、天皇みずからが政治を行いました。そして,これまでの公家(くげ)政治のしきたりを大はばに改め,公家と武家の政治の両面を取り入れたしくみをつくり,倒幕(とうばく)に功績のあった公家や武士に官職をあたえました。これを「建武の新政」といいます。しかし、新政府は、公家や寺社をたいせつにしましたが、倒幕に活躍した武士に対しては恩賞が少なく、また、当時の武家社会につくられていた慣習を無視したりしたため、多くの武士たちから不満をもたれ...大河・かこがわ(155)鎌倉時代(42)文観(36)・建武の新政は失敗
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