大河・かこがわ(211) 江戸時代(6) 近世の高砂(6)・高瀬舟が運んだもの
加古川の流れと高砂の町高砂の町場がつくられました。江戸時代の高砂は、加古川の流れをぬきに語ることはできません。高砂の町の特徴は、加古川の広大な後背地を持っていたことです。高砂は、商品経済の発達にともない、高瀬舟による加古川の舟運の役割は、ますます大きくなりました。高瀬舟の本来の役割は、年貢米を高砂へ運ぶことであったのですが、加古川の流域で産出された、さまざまな商品が高砂に運ばれました。また、高砂に集まった商品は、流域の各村々に運ばれました。どんなものが高瀬船で運ばれたのか主な商品は次のようです。◇下り荷物(高砂へ運ばれたもの)木工品・・・・・木材、タンス、下駄、桶、樽など生活用品・・・・薪、炭、紙、綿など食料品・・・・・米、芋、茶、梨など◇上り荷物(上流の村々に運ばれたもの)農具・・・・・水車、唐箕(とうみ)な...大河・かこがわ(211)江戸時代(6)近世の高砂(6)・高瀬舟が運んだもの
大河・かこがわ(210) 江戸時代(5) 近世の高砂(5)・高砂の町割り
高砂の町割り寛永3年(1626)、高砂町の町割りが完成しました。図は、「近世元禄の頃の高砂の町図」です。なお、『高砂誌』によれば、高砂の町割りを担当したのは尾上左近右衛門中須又右衛門でした。市街地の南部は、魚町・釣舟町・漁師町・戎町など漁業従事者の町、船頭・船持水主(かこ)・仲仕人夫等の渡海町などで構成されています。しかし、港町高砂の中心地は高砂川・南堀川に沿う東浜町・南浜町・材木町・今津町で、ここは、高砂町の玄関口で、船着き場・荷揚場の他、問屋の蔵が建ち並び、賑わいのある問屋街でした。飾磨と共に姫路藩の経済を支える東浜町の向いの北堀川を渡ると、南北の御津留穀留番所がありました。なお、北堀川に沿っての町は高瀬町です。これは、加古川筋に姫路藩、その他の藩の年貢の輸送に当たった高瀬船にちなむ町名と思われます。このよ...大河・かこがわ(210)江戸時代(5)近世の高砂(5)・高砂の町割り
大河・かこがわ(209) 江戸時代(4) 近世の高砂(4)・ 政治都市から経済(商業)都市へ
政治都市から経済(商業)都市へ江戸時代に繁栄した29ヵ町からなる高砂の町並みは、元和三年(1617)に姫路藩主となった本多忠政によってつくられたものです。元和の「一国一城令」に従って、高砂城が破却されたあと、その跡地には築城以前に、そこあった高砂神社が元の場所に戻され、神社の周辺に新たに町割りがなされて町人たちに屋敷地として与えられました。家を建てない場合は没収その時の「定書」の写し(写真)が『加藤家文書』に残されています。これには①高砂の町人を優先し、他所の者へはそのあとにすること、同じ屋敷地で競合した場合はくじ引きにすること。②屋敷地を与えられても家を建てない場合は没収して別の者に与えること。③屋敷の分議にあたっては高砂年寄(有力者)であっても「えこひいき」があれば直訴することなどが定められています。ここで...大河・かこがわ(209)江戸時代(4)近世の高砂(4)・ 政治都市から経済(商業)都市へ
大河・かこがわ(208) 江戸時代(3) 近世の高砂(3)・高砂城、慶長17年の頃に造られた?
高砂城、慶長17年の頃に造られた?高砂が近世の都市として成立したのは、姫路藩主となった池田輝政の高砂築城にはじまりました。(*戦国時代の高砂城は、荒井町小松原と思われる)おそらく、慶長六年から十四年にかけての大規摸な姫略築城が一段落したのち、高砂築城に着手したのでしょう。『慶長播磨国絵図』(天理大学図書館蔵)に城と高秒町が描かれています。ただし、その規模は不明で、はっきりとしていません。高砂は、城下町として出発したが!姫路藩主・池田輝政の時代に、現在の加古川の河口に高砂城が造られました。城下町は、現在の高砂神社を中心とする高砂町(たかさごまち)でした。もう少し、図の説明をしておきます。図は、近世の高砂の町場の図です。城下町から港(商業)町へ高砂の町は、姫路に次ぐ城下町として発展する予定でした。が、一大事件がおき...大河・かこがわ(208)江戸時代(3)近世の高砂(3)・高砂城、慶長17年の頃に造られた?
大河・かこがわ(207) 江戸時代(2) 近世の高砂(2)・今津町は、現・加古川市尾上町から移住者のつくった町
今津町(2)今津町は、現:加古川市尾上町からの移住者のつくった町前号の「慶長播磨絵図」は、江戸時代が始まって間もない頃につくられた絵図です。この絵図の加古川河口左岸に「今津村」の記載があります。中世の頃、今津村のあった加古川河口から尾上神社付近にかけての地域は、瀬戸内を行き交う船の停泊地として大いに栄えていたといいます。その今津村に慶長6年(1611)、藩主(池田輝政)から通達(図)がありました。内容は、「高砂村へ移り住み、砂浜の開作をする者は、諸役を免ずる」というものでした。*なお、この通達文(池田輝政定)は、『高砂市史(第五巻・資料編(近世)』p154に解読文があります。詳しくは、それをご覧ください。中世に栄えた今津村(現:加古川市尾上町)も、この頃になると砂の堆積により、その機能を失ないつつあったのです。...大河・かこがわ(207)江戸時代(2)近世の高砂(2)・今津町は、現・加古川市尾上町から移住者のつくった町
大河・かこがわ(206) 江戸時代(1) 近世の高砂(1)・今津町(1)
1580年三木城は落城し、城主・別所治は自害しました。これが、東播磨の中世のおわりです。以後、高砂は急速に発展しました。高砂の話をしましょう。今津町(1)地図で、「今津町」を捜してください。中世の「今津」は、現:加古川市尾上町『近世の高砂』(高砂市教育委員会)に、次のような記述があります。(一部書き改めました)「・・・中世の高砂は、播磨五泊の一つに数えられ、内海の寄港地としての地位を固めていた。ところが、この中世の高砂の泊(港)は現在の高砂の地ではなく、「播磨名所巡覧図絵」でも「今津の浦口」とあるように、加古川左岸の池田(加古川市尾上町)付近をさしていた・・・」(『近世の高砂』より)つまり、中世の今津(現:加古川市尾上町池田)は、「今津千軒」とよばれ、内海の寄港地として大いに賑わっていました。しかし、加古川河口...大河・かこがわ(206)江戸時代(1)近世の高砂(1)・今津町(1)
大河・かこがわ(205) 加古川の中世 阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)
秀吉・信長に攻められた神吉城跡は、現在の常楽寺です。常楽寺(東神吉町)に残る「女人来迎」を余話として紹介しておきましょう。当時(鎌倉・室町時代)、女人は、男子より穢れており、「変成男子(へんじょうなんし)」という考えが一般的でした。女性は、成仏でるが、そのままでは無理で、いったん男性に変身して姿かたちが男性にかわり、その後極楽への往生が可能とされていたのです。阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)日本仏教説話では、死後初七日(しょなぬか)からはじまって33回忌まで、さまざまな冥界(めいかい)の王や仏に出会うといいます。まず、死ねば閥魔王(えんまおう)の裁きを受けるとされました。あの世があるならば「地獄」より「極楽」を願うのが人情です。女性の往生を描く東神吉町にある常楽寺(浄土宗の寺)に、嫌倉時代末期から南北朝時代にかけ...大河・かこがわ(205)加古川の中世阿弥陀三尊来迎図(女人来迎図)
大河・かこがわ(204) 戦国時代(20) その後の加古川城主・糟谷武則
その後の加古川城主・糟谷武則志方城落城後、秀吉軍は三木城を攻め立てます。そして、三木城は陥落し、三木城主・別所長治は自害します。加古川城主・糟谷武則は、加古川地方の城主としては、唯一、織田(豊臣)方として戦いました。その後の糟谷氏の運命を紹介しておきましょう。加古川城主の糟谷武則は、賎ケ岳の戦後も秀吉方の武将として、数々の戦役に出陣しました。徳川家康と戦った小牧の役(天正13年)、小田原の役(天正18年)、そして朝鮮への侵略、世に言う「文禄の役」では晋州城攻撃にも参戦しました。武則は、秀吉の栄達とともに出世しました。が、関ケ原の合戦では西軍(石田三成方)に味方し、家康の関西における本拠地である伏見城を攻撃しました。加古川城廃絶「賎ケ岳七本槍」で活躍した武将たちは、武則をのぞき、みな東軍(家康方)に味方しています...大河・かこがわ(204)戦国時代(20)その後の加古川城主・糟谷武則
高砂城の攻防高砂城の話です。『播州太平記』から高砂城の戦いを再現します。が、この本は物語性が多く、実態はよくわかりません。とにかく、高砂城は秀吉軍に敗れました。・・・秀吉は、三木城を攻めようと、三木城の東にある平井山に陣を置いて、三木城を兵糧攻めにする準備にとりかかりました。高砂城がじゃまになります。高砂城主・梶原景行は、別所氏とは親密な関係にありました。景行は、毛利とひそかに連絡をとり、海上から加古川を登り、美の川を経て三木城へ兵糧を運びこもうとしました。天正六年(1578)十月十八日、秀吉軍の攻撃が始まりました。秀吉軍は、高砂城に火をつけました。その時、毛利の援軍が波をけたててやって来ました。秀吉の兵は、梶原軍と毛利軍に挟まれ、ほとんどが打ち取られ、残った兵は今津(現:加古川市尾上町)へ逃れたといいます。高...大河・かこがわ(203)戦国時代(19)高砂城の攻防
大河・かこがわ(202) 戦国時代(18) 志方状の戦い(2)・志方城の戦いはあった
志方城の戦い(2)・志方城の戦いはあったが戦闘には、戦力だけでは判断できない要素もあります。「志方城(右図:木内内則作)の戦いは、確かにあった」と考えます。その理由として、播磨地域の情勢をみておきます。播磨は、浄土宗・浄土真宗の影響が強い地域です。信徒は「主君と自分とは現世だけの契りであるが阿弥如来との契りは未来永劫の契りである。主君よりも信仰の方が大切である」と考えます。もし、戦わずして信長方に敗北を認めるとなると、家臣・領民の支持を一挙に失いかねません。石山本願寺は、信長軍と壮烈な戦いをしています。志方地域からも多くの者が本願寺の支援に出ています。信長は、まさに仏敵であり悪魔でした。また、志方城から家臣たちも三木城を支援しており、三木城にも多く籠城しています。最初から戦わず信長側につく雰囲気にはありません。...大河・かこがわ(202)戦国時代(18)志方状の戦い(2)・志方城の戦いはあった
大河・かこがわ(201) 戦国時代(17) 志方城の戦い(1)
志方城の戦い(1)神吉城は落城しました。信忠(信長の長男)は、神吉城を叩き潰しました。引き続き、信忠は大軍を率いて城主・櫛橋政伊(くしはしまさこれ)の志方城へ攻め寄せました。この時、官兵衛は加古川にはいません。したがって、官兵衛は自分の妻の実家・志方城を攻めるという苦痛から逃れることができました。守る志方の兵は1000人。志方城の戦いはあったのか?志方城の攻防についての詳細はよくわかりません。以前、あるところで「志方城の戦いはなかった」と言う説を紹介したことがあります。そう考えたのは、志方城に先立つ神吉城の戦いでは、織田軍に押しつぶされ、城主(神吉頼定)も討たれました。その時、近隣の城からも、三木の城からもほとんど援軍はありませんでした。野口城の戦いでも援軍はありませんでした。志方城の戦いでも援軍は期待できませ...大河・かこがわ(201)戦国時代(17)志方城の戦い(1)
大河・かこがわ(200) 戦国時代(16):450年前の石垣保存へ
以下は、2016年9月23日の神戸新聞の記事です。余話として掲載させていただきました。450年前の石垣保存へ加古川・神吉八幡神社兵庫県加古川市西神吉町宮前の神吉八幡神社境内にある、最後の神吉城主、神吉頼定(よりさだ)の父頼経(よりつね)が寄進したとされる約450年前の石垣の一部保存が進んでいる。同神社は来年5月の国恩祭に向けた改修で解体を検討したが、郷土史家らが重要性を確認。計画は変更された。(津田和納)石垣は昨年11月、地域の歴史に関心を持ち調べている籠谷(かごたに)ツルヱさん(66)=高砂市北浜町=が確認した。神吉八幡神社の元総代、神吉省象さん(88)と偶然出会い、話をするうち、石垣の存在を知り、夫の照弘さん(69)と石垣の場所に向かった。松などが、うっそうと茂る雑木林の中に縦7メートル、横15メートルにわ...大河・かこがわ(200)戦国時代(16):450年前の石垣保存へ
大河・かこがわ(200) 戦国時代(16) 余話:450年前の石垣保存へ 加古川・神吉八幡神社
450年前の石垣保存へ加古川・神吉八幡神社兵庫県加古川市西神吉町宮前の神吉八幡神社境内にある、最後の神吉城主、神吉頼定(よりさだ)の父頼経(よりつね)が寄進したとされる約450年前の石垣の一部保存が進んでいる。同神社は来年5月の国恩祭に向けた改修で解体を検討したが、郷土史家らが重要性を確認。計画は変更された。(津田和納)石垣は昨年11月、地域の歴史に関心を持ち調べている籠谷(かごたに)ツルヱさん(66)=高砂市北浜町=が確認した。神吉八幡神社の元総代、神吉省象さん(88)と偶然出会い、話をするうち、石垣の存在を知り、夫の照弘さん(69)と石垣の場所に向かった。松などが、うっそうと茂る雑木林の中に縦7メートル、横15メートルにわたって周辺の石垣と石の色や形が異なる一部分に行き当たった。ひときわ大きな石に文字が掘ら...大河・かこがわ(200)戦国時代(16)余話:450年前の石垣保存へ加古川・神吉八幡神社
大河・かこがわ(199) 戦国時代(15) 神吉城の戦い(5)・神吉城落城
激戦も大詰めを迎えました。信長側の記録である『信長公記』を読んでおきます。神吉城落城(『信長公記』より)・・・7月15日夜、淹川一益・丹羽長秀両軍の攻め口から神吉城東の丸へ突入し、16日には中の丸へ攻め込みました。(信長軍は)敵将、神吉則実を討ち取り、天守に火をかけました。敵味方入り乱れて火花を散らし、その間に天守は焼け落ち、敵(神吉)方の将兵過半数が焼死しました。西の丸は荒木村重が攻めました。ここには、城主の叔父の神吉藤大夫が立て寵もっていました。藤大夫が降参の申し入れをしてきたので、佐久間信盛・荒木村重の二人が斡旋し、信長はこれを聞き届けた。藤大夫は赦免され、隣の志方の城へ退去しました。・・・城主・頼定の叔父(神吉藤大夫)が内応して、落城したと記しています。神吉城落城は、頼定の叔父神吉藤大夫のうらぎりか?『...大河・かこがわ(199)戦国時代(15)神吉城の戦い(5)・神吉城落城
大河・かこがわ(198) 戦国時代(14) 神吉城の戦い(4)・激しい神吉城攻めの理由とは?
激しい神吉城攻めの理由とは?信長が、なぜ、こうまでして大部隊を神吉城(図・木内内則作)攻めに投入したのでしょう。実は、権力者の体面に関わる事件が、播州で続いたのが、その主な理由でした。これまで友好関係にあった別所が、突如信長にそむき、毛利に走りました。また、尼子一族の上月城が、毛利の大軍に囲まれましたが、圧倒的な武力を誇る信長軍でも三木城(東播州)と上月城(西播磨)の二方面作戦を強いられるため、尼子一族を見捨てたことです。さらに、秀吉が三木城外で、東播磨の連合軍の夜襲を受け、見るも無残な惨敗を被ったこの三点が神吉城へ、大軍勢を投入した主な理由でした。これらの屈辱に信長の怒が爆発しました。(織田)信忠は何の戦果を挙げることなく、手ぶらで播州を引き上げるわけには行きません。見せしめのためにも神吉一族を抹殺することで...大河・かこがわ(198)戦国時代(14)神吉城の戦い(4)・激しい神吉城攻めの理由とは?
大河・かこがわ(197) 戦国時代(13) 神吉城の戦い(3)・神吉城は反撃するも
神吉城は反撃するも6月27日、(信長軍は)神吉城を攻めたてました。北から東の山へかけて、織田信忠(信長の長男)・織田信孝(信長の三男)・細川藤孝等が前後左右何段にもなって陣を布き、神吉城の北の志方の城に対しては、織田信雄(信長の二男)が陣取りました。また、丹羽長秀等は、備えとして西の山に陣を布きました。滝川一益・稲葉一鉄・筒井順慶・明智光秀・荒木村重らは神吉の城へ激しく攻めよせ、たちまちに外構えを攻め破って裸城にしてしまいました。織田信孝は、足軽と先を争って戦い、苦戦で、負傷・戦死が若干ありました。しかし、一挙に攻略できそうにもなかったので、この日は攻撃をゆるめ、翌日、銃弾よけの竹束を持って、本城塀際まで詰め寄り、埋め草で堀を埋め、築山を築いて攻め立てました。神吉城は、南の方が手簿であったので織田信包(のぶかね...大河・かこがわ(197)戦国時代(13)神吉城の戦い(3)・神吉城は反撃するも
大河・かこがわ(196) 戦国時代(12) 神吉城の戦い(2)・神吉戦はじまる
神吉戦はじまる(天正6年6月25日・旧暦)天正6年(1578)6月25日の早朝、戦闘がはじまりました。総大将(織田)信忠が、軍配を反しました。織田勢は、大国集落と岸集落の二ヵ所から仕掛けてきました。大国地区に結集した織田軍は、我先にと川に水しぶきを上げました。続々と騎馬武者が川中に突入し、さらに水しぶきを巻き上げ、中洲に乗り上げ、突進しました。これを迎える神吉勢は、恐怖で顔は引きつり、壁に身を沈め、必死に恐怖を押しのけ、銃口を突き出しました。神吉城のゲリラ作戦織田軍の騎馬武者か荒井川に乗り入れました。騎馬が突進した浅瀬の中ほどは、人の膝下まで水嵩があって流れは早い。それでも、騎馬武者は先を競って押し寄せてきます。一群の騎馬隊で、荒井川か黒く塗りつぶされた。川の半ばを越え、突進した先頭の騎馬が、グラッと傾き、よろ...大河・かこがわ(196)戦国時代(12)神吉城の戦い(2)・神吉戦はじまる
大河・かこがわ(195) 戦国時代(11) 神吉城の戦い(1)・信長軍、神吉城を攻撃
信長軍、神吉城を攻撃天正6年(1578)6月25日、野口城攻撃の後、信長は神吉城攻撃を命じました。神吉の風景と政治情勢を確認しておきます。当時の風景です。神吉城の南(現在の神吉町と西井ノ口の間)を、加古川の支流の荒井川南西の方向に流れていました。政治情勢は、この時、信長は、秀吉を一旦、但馬(竹田城)に左遷しました。その理由は、播州経営の失敗でした。従って、秀吉・官兵衛は、一端姿を消し、神吉戦に秀吉・官兵衛の姿はありません。信長軍は、どの方向から攻めてくるか?神吉城として大問題は、「どの方角から織田軍が神吉城を攻めて来るか」ということでした。大方の予想は、加古川を北上し、日岡山を過ぎた池尻辺りの浅瀕を渡河するという意見でした。とすれば、南側の荒井川方面での備えは無駄になるばかりか、一戦も交えず敵の攻撃を受けます。...大河・かこがわ(195)戦国時代(11)神吉城の戦い(1)・信長軍、神吉城を攻撃
大河・かこがわ(194) 戦国時代(10) 余話:鶴林寺に残る禁制
鶴林寺に残る禁制時代は戦国時代の終わりの頃、天正6年(1578)です。東播磨地方が、信長・秀吉の支配に入るか、それとも中国地方に勢力を持つ毛利の勢力下に入るかを決する戦が、加古川地域で展開されました。当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下にありました。加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏のみが、秀吉方に味方でした。しかし、野口・神吉・高砂・志方城の結束は強く、三木方に味方でした。秀吉は、勢力を持つ寺院等も調略した。ここに一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺に残されています。容は、次のようです。鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる軍勢が一般人に乱暴を働くこと陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること田畑を荒らすことこれらに違反するものは速やかに厳罰に処す天正六年三月二五日筑前守(*秀吉のこと)秀吉は、鶴林寺の調...大河・かこがわ(194)戦国時代(10)余話:鶴林寺に残る禁制
大河・かこがわ(193) 戦国時代(9) 野口城の戦い(2)・なぜ、野口城が最初に狙われたか?
なぜ、野口城が最初に狙われたか?天正月6年4月3日、三木城を取りまく諸城の攻撃の火蓋が野口城の攻撃から始まりました。早朝より攻撃が開始され、秀吉軍は、3000の兵で攻めたてました。この戦いで糟谷武則は、初陣でした。それにしても、「なぜ野口攻めから始まったのか?」と言うことが疑問でした。理由として考えられるのは、①街道筋の城である、交通も発達しており経済に豊かな土地である。②城の規模が比較的小さく、比較的攻めやすく成果を上げるのに適当である、と考えていました。野口城孤立、そして破れる(野口城戦では、三木側からの援軍はありません)・・・・三日目でした。野口一帯をおおう煙の海を泳ぎ渡るように、新たな兵力が攻囲軍の後方に迫りました。「待ち続けた味方、の援軍がとうとう着いたぞ」「見殺しにされるかと案じていたが、これで助か...大河・かこがわ(193)戦国時代(9)野口城の戦い(2)・なぜ、野口城が最初に狙われたか?
大河・かこがわ(193) 戦国時代(8)・野口城の戦い(1)
野口城の戦い(1)秀吉軍は、三木城の勢力を、簡単に考えていたようです。しかし、三木城攻撃の初戦で手痛い敗北を喫しました。秀吉は、三木城をとりまく城を攻撃し、城を裸にしてしまう作戦に変更しました。最初に狙いを定めたのが野口城でした。野口城の城主は、長井四郎左衛門政重です。そこへ、秀吉軍は手持ちの兵3000人で攻めたてました。対抗する野口方は、軍勢380人に近在の農民、教信寺の僧兵を加えた600人が城にたてこもったといいます。野口の地形話は、すこし、野口合戦をはなれ地形の話です。中部中学校の東に駅ヶ池(うまやがいけ)があります。印南野台地は、一般的に水が得にくい土地柄で開拓が遅れましたが、この辺りばかりは、地形が西と南に低く、北と東が高く、印南野台地の西の端にあって、水が集まる場所でした。雨が多い時は、ここに水が集...大河・かこがわ(193)戦国時代(8)・野口城の戦い(1)
大河・かこがわ(192) 戦国時代(7)・加古川評定(2)・評定は決裂
加古川評定(2)・評定は決裂天正6年(1578)2月23日、秀吉は、評定のために7500人を率いて加古川の糟谷の館(加古川城)に向かいました。この加古川評定は、毛利攻めの方策を論じる軍評定のはずでした。別所は、長治の名代として、叔父の賀相と三番家老の三宅治忠、を評定へ送り込みます。その他、東播磨の主だった城主、神吉城(神吉頼定)、野口城(長井艮重)、英賀城(三木通秋)、石守城(中村重房)、瑞谷城(衣笠範景)、魚住城(魚住頼治)・阿形城(油井勝利)、高砂城(梶原景行)、志方城の輝橋伊定、淡河城(淡河定範)らは、加古川評定に加わりました。しかし、播州の二大勢力の当主・三木城主(別所長治)、御着城主(小寺政職)の姿はありませんでした。三木・別所氏が信長方に味方すれば、他の領主もそれに倣ったかもしれません。しかし、三木...大河・かこがわ(192)戦国時代(7)・加古川評定(2)・評定は決裂
加古川評定(1)時は、信長・秀吉の時代です。当時、信長は武田・上杉と対峙しており、大阪では石山本願寺(浄土真宗)が信長に対抗して、身動きがとれません。その時、石山本願寺を支援していたのが、毛利氏でした。やがて、播磨を舞台に信長軍と毛利軍人の激しい戦いが展開されます。当時、野口・神吉・加古川・志方(以上加古川市)・高砂の諸城は、三木の別所氏の支配下にありました。天正5年(1577)信長から別所氏に一通の手紙が届きました。内容は「毛利攻めにおいて、信長方に味方されたい・・・・・・恩賞ははずむ」というものでした。城主・別所長治(べっしょながはる)は、この時21才でした。やがて、評定(会議)が加古川城(加古川西高等学校の東にある称名寺が加古川城跡・写真)で開かれました。信長側からは秀吉が、そして三木側からは城主・長治に...大河・かこがわ(191)戦国時代(6)・加古川評定(1)
大河・かこがわ(190) 戦国時代(5)・加古川城主・糟谷武則
加古川城主・糟谷武則加古川近辺の城主は、三木城の別所氏の支配下にありました。「加古川城主・糟谷武則だけは、信長・秀吉の味方でした」といわれています。が、詳細を見ておきましょう。糟谷武則の母は、御着城主・小寺政職(まさもと)の妹で、八代加古川城主・糟谷朝貞(ともさだ)へ嫁ぎ、ふたりの子供(糟谷朝正とその妹)を産んだのですが、故あって離婚し、志村某と再婚し、武則をもうけました。武則は、異父の兄と姉が加古川城におり、兄の糟谷朝正は九代加古川城主になり、姉は、三木城・別所氏に嫁いでいます。母の再婚相手が早く亡くなったため、母は6才の武則の養育を前の嫁ぎ先の糟谷家(加古川城)に托して、ふたたび再婚しました。武則は、異父兄の糟谷朝正と共に育てられて成長しました。朝正は、武則を養弟として糟谷姓を名のらせ、後に朝正はその子(友...大河・かこがわ(190)戦国時代(5)・加古川城主・糟谷武則
大河・かこがわ(189) 戦国時代(4)・毛利軍、別府に襲来(4)
毛利軍、別府に襲来(4)『播磨灘物語』(司馬遼太郎)が描く、別府城の戦を続けます。司馬氏は別府城を加古川市別府町としています。・・・(別府城の)望楼は官兵衛を載せて、しらじらと明けはじめた空に浮かんでいる。海浜には、毛利・雑賀の兵がふえている。官兵衛の視界には、海浜をおおっている松原でさえぎられていたが、それでも人数の推定はできた。(・・・・二千人か)と、官兵衛が踏んだのは、海浜にいる人数である。船でなおも、到着しつつあった。夜が明けきって海面が白く光ったとき、淡路島の北端から播州海岸にいたるまでの海面に、ゴマをまいたように船が浮かんでいた。どの船も軍兵を満載し、この別府の海岸にむかってすすんでいた。「撃つな」・・・官兵衛は城兵に厳命してある。城を静まりかえらせて、敵が城壁にとりつくのをひたすらに待つのである。...大河・かこがわ(189)戦国時代(4)・毛利軍、別府に襲来(4)
大河・かこがわ(188) 戦国時代(3)・毛利軍、別府に襲来(3)
毛利軍、別府に襲来(3)別府村について、『播磨鑑』には、「阿閇庄(あえのしょう)別府村」とあり、『播州名所巡覧図絵』に、「別府、本庄村(現:播磨町)の西の村にて阿閇庄なり」とあります。別府がもと阿閇庄内(現:播磨町)に属していました。別府は、その昔、阿閇の一部の村であり、「別府は加古川市・・・・」という我々の思い込みから地名・地域の混乱が生じます。このことを念頭におき、『播磨灘物語』(司馬遼太郎)を続けます。(一部省略)◇毛利来る(3)◇・・・毛利軍は水軍の運用に長じていた。かれらは、はるかな根拠地から水軍でやってきて、意外な場所に船団を着け上陸作戦をやる。・・・官兵衛は、阿閇の別府城の望楼にのぼって敵の来襲を待っていた。夜は、まだ明けない。海面は暗いが、敵の動きはわかる。対岸の淡路島の岩屋から、無数の火が押し...大河・かこがわ(188)戦国時代(3)・毛利軍、別府に襲来(3)
大河・かこがわ(187) 戦国時代(2)・毛利軍別府に来る(2)
戦国時代(2):毛利軍別府に来る(2)三木城主・長治の父の別所安治は、若干39歳で病没した。その時、長治はまだ12才であった。三木方の政治は、安治の次弟・賀相(よしすけ)と三男・重棟(しげむね)が長治の後見することになったが、後に、三男・重棟は信長に近づき賀相と袂を分かった。以上が、予備知識である。『播磨灘物語』(司馬遼太郎)を続ける。(一部省略)◇毛利軍来る(2)◇・・・別府を領していたのが、今度の争乱(三木合戦)で織田方についている別所重棟であった。この別府に、小城があった。この時期、別所重棟が、ここを守備している。重棟は、兄の賀相と不仲ということが主因とになって、織田方に属している・・(省略)・・そこに、毛利軍が水軍によって運ばれてきたのである。毛利軍といっても、大坂の本願寺に加担している紀州雑賀(さいが...大河・かこがわ(187)戦国時代(2)・毛利軍別府に来る(2)
大河・かこがわ(186) 戦国時代(1)・毛利軍別府に襲来(1)
戦国時代(1):毛利軍別府に襲来(1)戦国時代、東播磨の中心は三木の別所氏でした。天正六年(1578)二月、三木の別所長治(ながはる)は、中国の毛利と呼応して、織田信長に反旗をひるがえしました。三木城の守りは固く、秀吉は、三木側に味方する周辺の城を落とす作戦を取りました。毛利方は、三木に援軍・食料を送らねばなりません。天正六年四月、毛利軍は別府城を襲いました。この別府城であるが、『加古川市史(第二巻)』は、別府城の場所を「別府」とだけ書いて場所を示していません。別府城の場所は確定していません。小説家・司馬遼太郎氏は、『播磨灘物語』で、別府城を別府として話を進めています。小説と歴史は、区別しなければならないが、地元としてはこの説をとります。別府城の攻防を紹介したい。以下、『播磨灘物語』からの転載です。司馬氏には申...大河・かこがわ(186)戦国時代(1)・毛利軍別府に襲来(1)
大河・かこがわ(185) 播磨地方と赤松氏(6)・中道山子城山は、前期赤松の時代に築城
赤松氏の後期赤松氏の盛衰を年表で追うことにします。赤松家、没落の年譜・明応八年(1499)赤松一族のナンバー2であった浦上則村が赤松家の乗っ取りをはかる。・永正四年(1507)義村と洞松院(妻の松は洞松院と共謀)の対立が深まる。・永正十五年(1518)義村は浦上追討の兵をあげる。・大永二年(1522)義村は室津の寺に幽閉され殺害される。則房の代で赤松惣領家消滅復活を遂げた赤松家も、赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきます。政則を継いだ義村は、室津の寺に幽閉され殺害されてしました。その後、息子の晴政は父の敵打ちに成功するものの、次の則房の時代には守護職も失い、秀吉の傘下に組み込まれます。そして、天正13年(1585)屋島で戦果をあげ阿波の地に新天地を得ました。赤松惣領家は播磨を離れます。阿波に移って13...大河・かこがわ(185)播磨地方と赤松氏(6)・中道山子城山は、前期赤松の時代に築城
大河・かこがわ(184) 播磨地方と赤松氏(5)・嘉吉の乱後の赤松氏
嘉吉の乱後の赤松氏嘉吉の乱の後の赤松一族の歴史を見ていると、赤松一族は本格的な中道子山城を築城する余力があったとは考えられないのです。嘉吉の乱以後の赤松の歴史を簡単にたどっておきます。後期赤松一族*赤松円心~満祐までを前期赤松一族と呼んでいます嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)は自害しました。それを確かめて、満祐は自害しました。この時、赤松氏が再び復活するとは、誰も考えたものはいなかったと想像されます。赤松政則の誕生、そして赤松家復活しかし、偶然にもその年、満祐につながる子供(次郎法師丸)がかくまわれていたのです。彼は、後の赤松政則です。家臣連中が次郎法師丸を担いで赤松家再興の動きに出ます。南朝方が持っている三種の神器の一つである神璽を取り返して北朝に納めれば赤松氏の...大河・かこがわ(184)播磨地方と赤松氏(5)・嘉吉の乱後の赤松氏
大河・かこがわ(183) 播磨地方と赤松氏(4)・嘉吉の乱・満祐、義教(足利六代将軍)を殺害
満祐、義教(足利六代将軍)を殺害「・・・新邸の池のカモの子がたくさん生まれました。水面をすべる様子がいかにもかわいく、ぜひともお運びくださるように・・・」嘉吉元年(1441)旧・六月、義教(足利六代将軍)のもとへ、こんな招待状が届きました。新邸の主(あるじ)は、赤松満祐でした。義教は、就任以来続いていた戦いに勝ち抜き満ち足りた気持ちのときでした。義教と仲が悪くなっている満祐からの招待でしたが、喜んでこの招待を受けました。義教は多数の重臣とともに赤松邸に入りました。庭先の猿楽は三番まで進み、酒はすでに五杯目。宴たけなわのころでした。この時、明かり障子がドット開き十数名の武士が義教めがけて突進してきました。義教は、叫び声もあげる間もなく首をかき切られたのです。満祐は、その日の夜のうちに、京都二条にある屋敷を焼き払い...大河・かこがわ(183)播磨地方と赤松氏(4)・嘉吉の乱・満祐、義教(足利六代将軍)を殺害
大河・かこがわ(182) 播磨地方と赤松氏(3)・孝橋(たかはし)新五郎繁広
中道子山城跡の城主は、二人の城主説が考えられています。その一つは赤松氏則(範)築城説であり、もう一つは孝橋(新五郎)繁広(たかはし・しんごろう・しげひろ)説です。孝橋(たかはし)新五郎繁広赤松円心の三男は則祐です。そして、則祐の子・義則の長男は、嘉吉の乱で歴史の名を残している赤松満祐です。嘉吉の乱については、ここでは説明を省きます。嘉吉の乱後、満祐は守護所の坂本城(姫路市)で幕府軍を迎え撃ちましたが、府軍は坂本城を攻め、これを陥落させました。満祐らは、少なくなった部下とともに揖保郡にある城山城(きやまじょう)で最後の一戦をするものの城山城は陥落、満祐の首は長刀(なぎなた)の先に貫かれ、京都で見聞されました。ここに、赤松氏はいったん没落しました。この満祐の最後の戦いに嫡子教康と弟の則繁が父と一緒に戦かいましたが、...大河・かこがわ(182)播磨地方と赤松氏(3)・孝橋(たかはし)新五郎繁広
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