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  • 播磨町をゆく(7) 大中(6)、新井用水の逆サイホン

    新井用水は、播磨町の大池へ明暦2年(1656)3月に今里伝兵衛によって開発された新井用水は、約1年と言う短期間で完成させましたが、すべてが順調に進んだのではありません。加古川大堰(加古川市神野町西条)のところで取りこまれた水は、現在の播磨南中学のところの大池まで13キロ。難工事の連続でした。(加古川市)野口で東に向きを変えた新井は、播磨町の大池を目指し伸びています。新井用水の逆サイホンそうすると、途中、喜瀬川を越えなければなりません。そのため、当時としては驚くべき技術が採用されました。喜瀬川の下に樋を埋めて、水を対岸に流そうとするサイホンの技術です。大中遺跡から喜瀬川の右岸に沿って300メートルほど下ると、右側の土手下にフェンスに囲まれた見慣れない機械があります。ここが、新井(用水)が喜瀬川の下をくぐるところで...播磨町をゆく(7)大中(6)、新井用水の逆サイホン

  • 播磨町をゆく(6) 大中(5)、大中弥生遺跡

    大中(5)大中弥生遺跡播磨町の歴史遺産はなんといっても、大中弥生遺跡です。『播磨町まちあるきマップ』(ヘリテージ加古)では次のように説明しています。・・・大中遺跡は昭和37年(1962)年、中学生によって発見されました。弥生時代中期から古墳時代の中期の代表的な遺跡の一つで、国の史跡(しせな)に指定されています。様々な種類の住居跡が発見されています。出土品(しゅつどひんき)は郷土資料館保管展示されています。・・・大中弥生遺跡は、広く知られていますのでここでは詳しい説明は省かせていただきます。もう少し詳しい説明は「ひろかずのブログ」(「さんぽ171、播磨町を歩く52~55」)をお読みください。(no4658)書籍販売のお知らせ『加古川さんぽ-市内各町の歴史散歩』を販売しています。遠方の方には郵送します。お申し込は下...播磨町をゆく(6)大中(5)、大中弥生遺跡

  • 播磨町をゆく(5) 大中(4)、北向きの地蔵さん

    大中(4)北向きの地蔵さん善福寺のすぐ北で、喜瀬川に架かる大中橋の東詰に地蔵堂がありあます。安置されているのは、「北向きのお地蔵さん」です。この「北向きの地蔵さん」のお堂に地蔵堂に、説明がありましたので、その一部をお借りします。(説明は、文を少し変えています)北向地蔵尊喜瀬川のほとりに、北向きにこのお地蔵さんはたたずみ、私たちを見守っておられます。多くの仏さまは、南面されています。このような北向きのお地蔵さんの数は少なく、一層より多くの功徳があると言われています。地蔵菩薩は、この大地と同じように、万物を成長せしめる偉大な効力を蔵しておられる仏様です。まさに「大地の母」であり、私たちに一番親しみを持って接してくださり、苦しいとき、悲しいとき、助けのほしいときに地蔵さんに、一心に帰依するならば、必ず、あらゆる苦しみ...播磨町をゆく(5)大中(4)、北向きの地蔵さん

  • 播磨町をゆく(4) 大中(3)・大澤小学校(だいたくしょうがっこう)

    学制(がくせい)時代は、江戸時代から明治時代へとかわりました。世界に目を開いた日本は、その遅れを取りもどすために、まず教育に力を注ぎます。そして、明治5年(1872)8月「・・・・一般の人民は、必ず不学の戸なく、家に不学の人がいないようにする・・・」という大目標をかかげて教育の普及につとめました。これが「学制」です。この学制が実施された3年後の明8年には、全国に24,225の小学校がつくられました。しかし、就学率は3割程度であったといわれています。大澤小学校(だいたくしょうがっこう)この、学制により、播磨町域で最初につくられたのが大澤(だいたく)小学校でした。大澤小学校は、大澤、野添、二子(ふたこ)、古田、東中野、山之上(やまのうえ)を学区として、現在の大中の善福寺境内に開設されました。こうした初期の学校は寺院...播磨町をゆく(4)大中(3)・大澤小学校(だいたくしょうがっこう)

  • 播磨町をゆく(3) 大中(2)・善福寺 、 西国巡礼・郡西国二十番札所

    播磨町をゆく(3)大中(2)善福寺、西国巡礼・郡西国二十番札所西国三十三観音霊場巡りは、平安時代の中ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねをするようになりました。人々は、病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えるとお礼のために、または亡き人の供養のために、さらに自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音霊場めぐりに出かけました。第一番の那智山青岸渡寺から、最後の三十三番目の谷汲山華厳寺までの寺めぐりでした。それは、まさに苦行の旅でした。江戸時代になり、治安もよくなりました。交通機関も整備され、西国三十三観音霊場めぐりも比較的やりやすくなり、苦行であった巡礼も、レクレーション的な性格さえ持つようになりました。それでも、誰にでもできる気軽な巡礼の旅ではありませんでした。苦しい生活の庶民にとって、三十三...播磨町をゆく(3)大中(2)・善福寺、西国巡礼・郡西国二十番札所

  • 播磨町をゆく(2) 大中(1)・大中の村名

    *このシリーズ、「播磨町をゆく」は播磨町まちあるきマップ」(「ヘリテージ加古」編集・発行)たくさんお借りします。なお、転載等は発行・編集者の許可をいただいています。播磨町をゆく(2)、大中(1)・大中の村名大中村(おおなかむら)は明治10年、大澤村(おおざわむら)と東中野村が合併(がっぺい)して生まれた新村です。村名は大澤村(おおざわむら)の「大」と東中野村の「中」を合わせて「大中(おおなか)」となりました。大中地区北部(おおなかちくほくぶ)(旧大澤があり、古代の弥生時代から台地に集落が形成され、早くから人が住んでいたことがわかります。大正時代になると、別府港(べふこう)と国鉄土山駅間(こくてつつちやまえきかん)を結ぶ別府軽便鉄道(べふけいびんてつどう)が村の中を走っていました。昭和40年代前半には農地の土地改...播磨町をゆく(2)大中(1)・大中の村名

  • 播磨町をゆく(1) もう一度、播磨町(加古郡播磨町)を歩きます

    播磨町をゆく(1)もう一度、播磨町(加古郡播磨町)を歩きますシリーズ「別府町をゆく」は、少しお休みにして、新しいシリーズ「播磨町をゆく」をはじめます。「別府町をゆく」は、原則「播磨町をゆく」と1週間ごとの交互の連載とします。とりあえず、来週の土曜日まで「播磨町をゆく」の連載です。播磨町の各地域の名称のこと時代は、江戸時代から明治時代にかわりました。時代は変わったのですが、明治の初めの集落名は江戸時時代のままでした。つまり、当地域の村々は、東本庄村・西本庄村・宮北村・野添村・古宮村・大沢村・東中野村・経田村・古向村・宮西村・二子村でした。が、明治5年から7年にかけて政府の町村費用の節約方針があり、当地域の村々も合併が進められました。その結果、明治8年から9年にかけて、東本庄村・西本庄村・宮北村が合併して「本庄村」...播磨町をゆく(1)もう一度、播磨町(加古郡播磨町)を歩きます

  • 別府町をゆく(24) 浜の風景(8)・お爺さん・おばあさんの子どものころ

    浜の風景(8)お爺さん・おばあさんの子どものころこれらの写真は昭和32年当時のものです。昭和42前(浜の埋め立て)の浜の風景を知る人にとって、思い出いっぱい景色です。でも、子供や孫に「お爺さん・おばさんの子どもの頃、別府の浜で貝をいっぱいとったよ、夏には泳いだよ、それに魚釣りもしたんだ、夢の世界だったね・・・」と、語るだけの風景に変わってしまいました。子どもは信じないでしょうね。(no4652)*写真:浜の風景(呉田利明氏提供)別府町をゆく(24)浜の風景(8)・お爺さん・おばあさんの子どものころ

  • コーヒーブレイク 『加古川さんぽ(上・下)』をお読み下さい

    『加古川さんぽ(上・下)』をお読み下さい最近は、『加古川さんぽ(上・下)』の宣伝が多く申し訳ありません。内容のわりに、たくさんの方に読んでいただいています。ありがとうございます。今日も、ひつこく、宣伝させていただきした。ご了承ください。遠方の方には郵送します。お詫びです。500部だけの製作のため1冊が1000円(上・下で2000円)と高くついてしまいました。ご了承ください。お申し込は下記のいずれかへお願いします。Email7z6tn9@gmail.comTel携帯080-1353-0337自宅079-490-4641*お申込みは、自宅、携帯番号、住所(郵便番号)をお聞かせください。*ご近所の方は、自宅(加古川市尾上町今福9番地)で販売いたします(no4651)コーヒーブレイク『加古川さんぽ(上・下)』をお読み下さい

  • 別府町をゆく(23) 浜の風景(7)

    浜の風景(7)きょうは、説明抜きです。昭和32年当時の別府の浜です。昭和32年、私は中学2年生でした。加古川中学の生徒でしたから、普段の遊び場ではなかったのですが、夏は海水浴に、春は潮干狩りによく来ました。マテ貝を採りが、面白かったのをよく覚えています。砂の穴に塩を入れると貝が顔を出すんです。(no4650)*写真:浜の風景(写真提供:呉田利明氏・昭和32年)別府町をゆく(23)浜の風景(7)

  • 別府町をゆく(22) 浜の風景(6) 金沢新田跡(3)

    前回に引き続き『別府小学校百周年記念誌』より、田下明光さんの思い出です。魚(じゃこ)とり魚の獲り方です。「タンボツ」と呼ばれる竹筒でウナギを獲る方法があります。太い竹を1㍍位に切って中の節を全部とり去り、数十本を束にしてヒモでくくって水の中にオモリをつけて沈めます。数メートル間隔で、ヒモをつなぎ数本一組にして大ミゾ、小ミゾ、シンガイなどに沈めておきます。何日かして行くと、タンボツの中でウナギが寝ているのです。また、竹ヒゴの先にウナギ用の細長いハリをくくりつけ、大きなミミズを房がけにして、大ミゾの石垣の穴の中に入れて、中のウナギを誘い出したり、ひっかけたりしました。シンガイでは、夏になると、ゆでたザリガニの身をエサにして、ウナギを専門に釣りました。土用の丑の日が近づくと、友達と誘いあって大物を狙いに行きました。ワ...別府町をゆく(22)浜の風景(6)金沢新田跡(3)

  • 別府町をゆく(21) 浜の風景(5)・金沢新田跡(2)

    『別府小学校創立百周年記念誌』に、田下明光さん(昭和37年卒業)が子どもの頃、新野辺の海岸で遊ばれた思い出を書いておられます。浜の風景(4)僕にとって別府は海です。そして、海は別府でした。父親となって自分の娘、息子に話して聞かせる少年時代の想い出は、あの遠浅の別府の海の話しばかりなのです。小学校に入る頃に始めた釣りは未だに続いていますが、エサを買わなければならないことと、魚が釣れなくなったことは、当時と比べて大きな変化です。シンガイ・ワンド・マガリ「シンガイ、ワンド、マガリ」この言葉を懐かしく感じるのは30代後半(それも男性かナァ)までではないでしょうか。(*この原稿は平成5年に書かれていますので筆者は現在50才代後半)別府海岸は、加古川の東岸から別府川の西岸にかけて、加古川市のほぼ南限いっぱいの尾上町と別府町...別府町をゆく(21)浜の風景(5)・金沢新田跡(2)

  • 別府町をゆく(20) 金沢新田跡(1)

    金沢新田跡(1)赤く塗った部分が、江戸時代につくれた「金沢新田」です。金沢家(東神吉町砂部)に残る文書等から判断して、「金沢新田」は、天保四年(1833)ごろからはじまり、天保八年(1837)に完成したと思われます。この時の新田は84町4反21畝の広大な新田でした。この金沢新田とさらに別府の浜への拡張により神戸製鋼所は建設されました。写真は、金沢新田の風景です。(no4647)*写真:金沢新田の風景(昭和33年・呉田利明氏撮影)書籍『加古川さんぽ』販売のお知らせ『加古川さんぽ-市内各町の歴史散歩』を販売しています。遠方の方には郵送します。お申し込は下記のいずれかの方法でお願いします。Email7z6tn9@gmail.comTel携帯080-1353-0337自宅079-490-4641別府町をゆく(20)金沢新田跡(1)

  • 別府町をゆく(19) 浜の風景(3)・魚釣り

    浜の風景(3)魚釣りいつの時代も釣りは人気がありました。この写真は、昭和32年の釣りの風景です。場所は、背景に「あかがね御殿」がありますので、場所はお分かりと思います。今の海洋センター付近です。ここにたくさんの太公望が集まりました。「オジサン・・・今日は何が釣れるんですか」アジが多いな。「今夜のおかずですか」そうやな、酒のアテにな・・・うまいで・・・当時は、キャッチ・アンド・リリースなんてしません。食べるために釣りをしました。釣り竿は、竹でした。(no4646)*写真:昭和32年の魚釣りの風景(提供:呉田利明氏)◇書籍販売のお知らせ◇『加古川さんぽ-市内各町の歴史散歩』を販売しています。ご希望の方は下記の方法でお申し込みください。遠方の方には郵送します。Email7z6tn9@gmail.comTel携帯080...別府町をゆく(19)浜の風景(3)・魚釣り

  • 『加古川さんぽ(上・下)』ができました

    お爺ちゃんが書きました、読んでくださいね。(写真:昨年6月円照寺にて)*今日も「別府町をゆく」はお休みで、昨日と同じ内容で申し訳ないです。今日から、『加古川さんぽ』の販売を開始します。『加古川さんぽ(上・下)』ができました『加古川さんぽ(上・下)』が、できあがりました。きのう(17日)、印刷所から届きました。「やさしく、短く(簡潔に)」をモットーにして編集したつもりですが、私の独りよがりで、読んでいただけるかが心配です。感想をいただければ幸いです。なお、きょう(18日)から販売をします。お読みいただけるお友達を紹介してください。お届けします。遠方の方には郵送します。お詫びです。500部だけの製作のため1冊が1000円(上・下で2000円)と高くついてしまいました。ご了承ください。お申し込は下記のいずれかへお願い...『加古川さんぽ(上・下)』ができました

  • コーヒーブレイク 『加古川さんぽ(上・下)』ができあがりました

    『加古川さんぽ(上・下)』ができあがりましたのびのびになっていました『加古川さんぽ(上・下)』がやっと完成しました。きょう(17日)の昼頃、印刷所から届きました。6月で26才になりますが、久々の嬉しい気分で、若いころの気分を味っています。苦労して、作り上げる作業は特別です。「やさしく、短く(簡潔に)」をモットーにして編集しました。でも、私の独りよがりで、肝心の読んでいただく方にとって、つまらないかもしれません。感想をいただければ嬉しいです。なお、明日(17日)から販売をしますが、お読みいただけるお友達を紹介していただけないでしょうか。お届けします。遠方の方には郵送します。お詫びです。500部だけの製作のため1冊が1000円(上・下で2000円)と高くついてしまいました。ご了承ください。お申し込は下記のいずれかで...コーヒーブレイク『加古川さんぽ(上・下)』ができあがりました

  • 別府町をゆく(18) 浜の風景(2)・ノリづくり(2)

    ノリづくりの風景(2)きょうのブログも、きのうに引き続き別府の浜での「ノリづくり」の風景です。特に説明はありません。昭和32年当時の、浜の日常の風景だったんですね。(no4623)別府町をゆく(18)浜の風景(2)・ノリづくり(2)

  • 別府町をゆく(17) 浜の風景(1)・ノリづくり(1)

    浜の風景(1)昭和26年、別府町が加古川市になって以来、別府の町の風景は、まさに激変でした。これが半世紀の間の変わりようかと思えないほどの変化でした。こどもたちは、想像ができないでしょうね。別府の子どもは、別府は海辺の町と思っていないのかもしれません。それほどの変わりようです。しばらくは、昔の別府の海辺を潮風に誘われて散策してみましょう。きょうは、別府の浜でのノリづくりの風景です。(no4642)*写真:ノリづくりの風景(昭和32年撮影)、呉田利明氏提供別府町をゆく(17)浜の風景(1)・ノリづくり(1)

  • 別府町をゆく(16) イトーヨーカ堂ができました

    イトーヨーカ堂ができました前回の「別府町をゆく」で山陽電車別府駅の新築中の写真を紹介しました。昭和63年撮影の写真です。きょうのキトーヨーカ堂の建設中の写真も昭和63年の写真です。ですから、別府駅界隈の風景が激変したのは、昭和63年のようです。神戸製鋼ができ、関連企業が増え、人口が増え、そしてイトーヨーカ堂ができ駅舎が完成しています。昭和42年に浜が消えてから20年ほどの年月が経ちました。別府は、全く違う街に生まれかわりました。(no4641)*蛇足です。イトーヨーカ堂のある場所は、もと多木製肥所があった場所です。写真:建設中のイトーヨーカ堂(呉田利明氏提供)別府町をゆく(16)イトーヨーカ堂ができました

  • 別府町をゆく(15) 山陽電車別府駅(2)、駅舎改築

    山陽電車別府駅(2)、駅舎改築前号の「別府町をゆく」をもう一度ご覧ください。写真は、昭和63年当時の別府駅です。その下の写真の前(南)は畑です。「この駅はどこでしょうか」とクイズになりそうです。子どもたちにとっては、とっても想像できないでしょうね。風景は、激変しました。畑は、商店にかわり、その南の道を隔て「伊藤ヨーカ堂」につらなっています。神戸製鋼所が別府に進出し、イトウヨーカ堂ができ、人口は急増しました。別府駅は、大きく改築されました。*写真:改築中の山陽電車別府駅(昭和63年撮影)呉田利明氏提供別府町をゆく(15)山陽電車別府駅(2)、駅舎改築

  • 別府町をゆく(14) 山陽電車別府駅(1)

    山陽電車別府駅(1)この2枚の駅は昭和34年に撮られた懐かしい山陽電車の別府駅舎です。年配の方にとっては、たまらなく懐かしい写真だと思います。まだこのころに神戸製鋼所はありません。乗り降りの客も、少なかったのでしょうね。その後間もなくして、神戸製鋼所ができました。イトーヨーカ堂もできました。山陽電車・別府駅の利用者が増え、手狭になり、別府駅は改築されました。次回のブログは、別府駅改築の写真です。(no4639)*写真:旧山陽電車、昭和34年撮影(呉田利明氏提)別府町をゆく(14)山陽電車別府駅(1)

  • 別府町をゆく(13) 消える海(3)

    消える海(3)『加古川市史(第三巻)』の著者は、加古川市のウォーター・フロントが完全にまで企業の物になったことの異常さをしてきされています。およそ、市史らしくない感情的な表現で次のように記述です。(『加古川市史・第三巻』896pより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名のもとに、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。このことの持つ意味を、私たちはもう血度よく考えてみないといけないのではないのだろうか。(以下略)・・・・「出来てしまったものは、仕方がない」ではすまされません。(no4638)*『加古川市史(第三巻)』参照*写真:浜に埋められる基礎コンクリート(呉田利明氏提供)別府町をゆく(13)消える海(3)

  • 別府町をゆく(12) 消える海・浜のしゅんせつ

    消える海(2)・埋め立て『加古川市史(第三巻)』の次の指摘に注目します。・・・(埋め立てにより)かつての浜辺での海水浴や潮干狩りの楽しさを奪われたのであり、「埋め立て造成」の名の下に、景観の強制的な変更とその受け入れを余儀なくされてしまったのである。このことの持つ意味を、私たちはもう一度よく考えてみないといけないのではないだろうか・・・・以下は「広報かこがわ」からの引用です。・・・このしゅんせつで浜辺がなくなり、潮干狩り、海水浴場が姿を消し、昔の面影は一変し、壮観な工場群が建設されようとしている。(「広報かこがわ」1967年4月15日号)(見出し)「来春完成めざし埋め立て始まる尾上町・別府町地先の公有水面」・・・現在約十隻のしゅんせつ船がか動しており、排砂管より勢よく土砂が吹き出している、日々海岸が変ぼうしてお...別府町をゆく(12)消える海・浜のしゅんせつ

  • 別府町をゆく(11) 消える海(1)

    別府町から海岸が消える(1)昭和36年(1961)2月、加古川市は、3億8000万円の赤字を抱えて、財政は火の車でした。この時(昭和37年)甘いささやきがありました。東は、明石から西は赤穂にいたる地域が「播磨工業地帯」として指定を受け、昭和37年、加古川市・兵庫県・神戸製鋼所は、神戸製鋼所加古川工場建設に関する協定書に調印し、加古川市は工業都市に向けて一歩をふみだしました。神戸製鋼所が本格的創業を始めた昭和45年(1970)頃から、加古川市の財政は徐々に改善されました。この意味ではある程度評価できます。「・・・第二次産業の中で素材産業が大きなウエイトを占める加古川市の産業構造は不安な状況にあり、今後活力ある街づくりを推進するためには、バランスのとれた産業構造を確立し経済活動を活発化することが必要である。・・・」...別府町をゆく(11)消える海(1)

  • 別府町をゆく(10) 多木製肥所(5)・別府鉄道(2)

    別府鉄道(2)別府鉄道は、大正4年7月5日の創立です。当時、別府の地は山陽本線と直接連絡していなかったので、多木製肥所の製品を陸路遠隔地へ発送する場合、別府から土山駅または加古川駅まで荷車で運搬して、汽車に積むか、あるいは別府港から船積みで神戸港まで運びました。そのため運賃がかさみ、荷痛みがひどく、社長であった多木久米次郎は、この不利不便を除き、別府と山陽線とを結ぶ鉄道の敷設を思いたちました。大正5年1月から路線の実測に着手し、大正10年9月3日には野口線(野ロ~別府港間、3.6キロメートル、同12年4月11日には土山線(別府港~土山間、4キロメートル)を開通させた。この両線の開通によって、多木製肥所では製品の輸送が円滑に行なわれるようになりました。運輸が便利になり、昭和の初めごろ、旅客輸送、貨物輸送ともに盛ん...別府町をゆく(10)多木製肥所(5)・別府鉄道(2)

  • コーヒー・ブレイク ルピナスは満開(西志方横大路)

    ()ルピナスは満開連休はいかがでしたか。きっと楽しいお休みを過ごされたと思います。私の方は『加古川さんぽ(上)(下)』の校正の作業で終わってしまいました。きのう終わりました。今日ぐらいから印刷にかかるそうです。(*完成は17日)反動できょうは、少しボケっとしています。ゆっくりします。そのため「別府町をゆく」はお休みとします。午前中、志方へルピナスを見に行きました。高御位山をバックにきれいでした。ささやかな絶景のおすそ分けです。(no4634)コーヒー・ブレイクルピナスは満開(西志方横大路)

  • 別府町をゆく(9) 多木製肥所(4)・別府鉄道(1)

    別府鉄道(1)・・・別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の9月でした。現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線がありました。別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。モータリゼーションの波で乗客は...別府町をゆく(9)多木製肥所(4)・別府鉄道(1)

  • 別府町をゆく(8) 多木製肥所(3)・時代を反映した多木肥料のポスター

    多木肥料のポスターこのポスターは、明治末~大正にかけての多木肥料の宣伝ポスターのようです。図柄は、豊年満作のめでたいイメージですが、米や野菜にまじって軍艦と銃弾もえがかれています。時代を色濃ゆく描き出したポスターです。(no4632)別府町をゆく(8)多木製肥所(3)・時代を反映した多木肥料のポスター

  • 別府をゆく(7) 多木製肥所(2)・多木肥料所のエントツ消える

    多木肥料所のエントツ消える以下は、昭和43年2月23日の神戸新聞の記事の一部です。レンガ造りでは播州一を誇っていた加古川市別府町別府多木肥料所(多木隣太郎所長)の名物「多木のエントツ」二基の傷みが激しく、いよいよ姿を消すことになり、22日午後2時から解体作業が行われ、1基が姿を消しました。このエントツは、高さ52㍍で、明治34年牛馬の骨を蒸すボイラー用として2基建設されました。大正にはいり、同工場が硫酸を作るようになってからは焙焼炉として使用さていました。(no4631)*写真上は神戸新聞より、下は呉田利明さんの撮影された解体前の多木肥料のエントツ。別府をゆく(7)多木製肥所(2)・多木肥料所のエントツ消える

  • 別府町をゆく(6) 多木製肥所(1)

    多木製肥所(1)多木久米次郎の紹介です。久米次郎は、生年:安政6(1859)に生まれ、没年は、昭和17(1942)です。わが国最初の人造肥料製造家。姫路藩領播磨国加古郡別府村(兵庫県加古川市別府町)の地主で魚肥商の多木勝市郎の3男に生まれ、父の死後、20歳で家業を継ぎ、農村振興の基礎を安価で良質な肥料に求め、明治23(1890)年に獣骨を原料とした過燐酸肥料の製造を開始しました。肥料の原料に獣骨を使ったため、その悪臭は近隣の住人の非難にもなりました。その後、原料を燐鉱石に変え、さらにカリや窒素などの肥料をも製造しました。大正7(1918)年には、多木製肥所を株式会社多木製肥所に改め、社長に就任しています。また、村議、県議を経て、明治41年に衆院議員に当選しました。5回の当選を重ね、昭和14(1939)年には貴族...別府町をゆく(6)多木製肥所(1)

  • 令和について(7) 令和記念除幕式

    きょう(5月2日)の神戸新聞は、「いなみ野万葉の森」の「令和」の記念碑のニュースを伝えました。「いつか子どもに教えたい」令和記念除幕式に妊婦参加(2日朝刊・神戸新聞より)「令和」時代が幕を開けた1日、兵庫県東播地域も祝賀ムードに包まれた。令和の典拠となった「万葉集」にちなんだ稲美町の庭園「いなみ野万葉の森」で新しい歌碑や記念碑を建立。また、各市町の役所には婚姻届を提出するカップルが続々と訪れ、幸せを願う1日となった。「令和」の記念碑が披露された稲美町国安の「いなみ野万葉の森」では町主催の除幕式があり、約150人が集まった。奈良時代の貴族の装いの人たちや出産間近の妊婦らが参列した。「令和」は万葉集の一節から引用。梅見の宴会で詠まれた和歌の序文で、50基以上ある庭園内の歌碑にも記されている。改元を祝い、稲美ライオン...令和について(7)令和記念除幕式

  • 別府町をゆく(5) 台風23号の高潮被害(3)

    台風23号の高潮被害(3)台風23号(昭和40年)の高潮は大変な甚大な被害をもたらしました。きょうは、その被害のようすの3回目です。呉田利明さんは、これらの写真の外にもたくさんの高潮被害の写真を撮影されています。他の写真は別の機会に紹介することにしましょう。これらの自然災害は、しばしば忘れた頃におきています。とりわけ、今、注意をしておかねばならないのは「南海地震」の津波ではないでしょうか。津波に注意を!まず、ハザードマップの確認を以下は蛇足です。話は少し飛躍します。もし淡路島がなかったら、私たちの地域は数回の大きな津波の襲来があったと想像されます。さいわい、今まで、淡路島が壁になり、太平洋の津波から私たちの地域を守ってくれました。津波が、起きたとしても、和歌山・大阪・神戸を迂回します。そのため、非難するための時...別府町をゆく(5)台風23号の高潮被害(3)

  • 「令和」の時代が始まりました

    「令和」の時代が、はじまりました。特に関心がある方ではないのですが、何となく「時代が、良くなるといいのにな・・・」という気持になっています。きょう(5月1日)、「令和」の石碑(写真)の除幕式が「いなみ野万葉の森」であることを聞いていたので、時間も確かめず出かけました。残念!終わっていました。すばらしい「令和」の時代にできるのは「私たち」なんですね。きょうの神戸新聞に素晴らしいコラムがありましたので紹介させていただきました。「令和」の時代がスタートしました(神戸新聞コラムより)詩人の茨木のり子さんが生まれたのは大正15年、昭和改元の年にあたる1926年である。大正ロマンの華やぎはだんだんと影をひそめ、昭和は破滅に向かって戦争への道を歩んでいく。代表作のひとつ「わたしが一番きれいだったとき」は、そのころを振り返って...「令和」の時代が始まりました

  • 別府町をゆく(3) 台風23号の高潮被害(2)

    台風23号の高潮被害(2)別府町南部の海岸ゼロ地帯台風23号(昭和40年)から続いた高潮・豪雨は東北播各地に悲惨な爪跡を残しました。別府町の高潮に見舞われた海岸線のゼロメートル地帯の被害は、写真のようなひどい状態でした。その後、護岸工事が行われ、現在まで、こんなひどい被害は経験していません。でも、災害で一番恐ろしいのは「経験の風化」ですね。*写真:高潮で瞬時に浸水した別府町南部海岸地帯*写真:呉田利明氏提供≪お願い≫むかしの写真をご紹介くださいいま、加古川市・高砂市・稲美町・播磨町の写真を集めています。一昨年、東神吉町井ノ口の昔の写真を紹介していただきました。貴重な地域の宝物(歴史)でした。そんな、写真をお持ちの方やお知り合いの方をご紹介ください。一枚からで結構です。保存し、広く知っていただきましょう。(no4...別府町をゆく(3)台風23号の高潮被害(2)

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