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  • 別府町をゆく(3) 台風23号の高潮被害(1)

    台風23号の高潮被害(1)別府町南部の海岸ゼロ地帯台風23号(昭和40年)から続いた高潮・豪雨は東北播各地に悲惨な爪跡を残しました。台風23号が姫路市西部に上陸したのは9月10日午前10時55分。東北播は朝から暴風雨県内に巻き込まれ、(瞬間最大風速58.7㍍)加古川市に吹き荒れました。あまりにも強い雨で風速計が壊れ、アンテナや屋根ガワラの全戸に及んだが、高潮に飲まれた海岸線のゼロメートル地帯の被害はひどい状態になりました。別府町の海水浴場の休憩所も防潮堤にぶっつけられ、「逃げるのがやっと」というほど。(no4624)*写真:高潮で瞬時に浸水した別府町南部海岸地帯*写真:呉田利明氏提供別府町をゆく(3)台風23号の高潮被害(1)

  • 別府町をゆく(2) 昭和42年:最後の潮干狩(2)

    なつかしい別府町の風景最後の潮干狩(2)たまらなく懐かしい風景です。小・中学校の頃、別府の浜へは、よく潮干狩りに出かけました。浜には強烈な海の匂いがありました。別府の町から浜が、ある時点でプッツリと消えてしまいました。その間の事情を『加古川市史(第三巻)』で確かめてみます。・1967(昭和42)4月1日別府浜開き、最後の潮干狩り(~6月12日まで)4月4日臨海部の埋め立て始まる・1970(昭和45)1月臨海部の埋立て完成3月28日金沢町誕生5月1日東播磨港別府港区開港とあります。別府の潮干狩りは、昭和42年6月12日で終わりました。以後、風景は、鉄とコンクリートにかわりました。(no4623)*『加古川市史(第三巻)』・『明治・大正・昭和初期の加古川』(加古川総合文化センター)参照*写真提供:呉田利明氏(昭和4...別府町をゆく(2)昭和42年:最後の潮干狩(2)

  • 別府町をゆく(1) 懐かしい風景(1)・最後の潮干狩(1)

    なつかしい別府町の風景(1)最後の潮干狩(2)連載していました「野口をゆく」は、少し休憩します。というのは、最近、呉田利明(ごでんとしあき)さんから別府町の写真を紹介していただきました。先に、「なつかし別府町の風景」として紹介しましょう。近年、加古川市南部、特に別府町は大きく変貌しました。が、さいわい、別府町にお住いの呉田利明さんは、その変貌ぶりを写真に記録されています。貴重な記録です。その一部を呉田さんの許可を得て紹介します。説明は、私の方でわかる範囲で取材しますが、間違いや、さらに付け加えることがあると思います。ご指摘ください。*今日は、写真だけです。年配の方にとって、説明が不要なぐらい懐かしい風景(昭和42年の潮干狩)です。次回も潮干狩の紹介です。説明は次回とします。(no4622)別府町をゆく(1)懐かしい風景(1)・最後の潮干狩(1)

  • 野口をゆく(15) 教信物語(15)、教信寺法泉院の盛り土は教信所人の旧墓所か?

    右の絵(写真上)をご覧ください。盛り土の上に五輪塔が置かれています。この絵は、大阪市平野区にある融通念仏宗の総本山、大念仏寺が所蔵する絵伝軸の一部です。教信寺法泉院の盛り土は教信所人の墓所か?教信寺の踊念仏は、一遍が亡なった34年後の元亨三年(1323)、一遍上人の門弟・湛阿(たんあ)が、広く念仏者を集めて教信寺で7日間の念仏踊りを行いました。これが、野口大念仏の始まりだといわれています。この絵は、その湛阿(たんあ)が、野口念仏を開いた翌年、融通念仏宗の祖師の一人の法明が念仏聖らと教信上人の墓参りをした場面を描いています。ということは、絵に描かれた五輪塔の置かれている盛り土は、教信上人の墓ということです。教信寺の法泉院の中庭にある、こんもりとした盛り土(写真下)がそれだと伝えられています。教信上人は、ここに葬ら...野口をゆく(15)教信物語(15)、教信寺法泉院の盛り土は教信所人の旧墓所か?

  • 野口をゆく(14) 教信物語(14)、教信頭部像

    三木合戦で野口城は、秀吉に攻められ炎上しました。三木城に味方し、野口城とともに戦った教信寺も焼かれてしまいました。ある小説では、その時、二人の僧は教信上人のお像を運び出しことに成功しました。教信の像はもともと立像であったが、持ち出しに成功しました。が、傷みが激しく、今のような、お首だけの像(写真)になったとしています。教信頭部像「・・・胴から離したままのお首は、下の方がささくれて、あま、あまりも痛々しい。その下の方を削り落して平らにせば、安らかに座ろうし、あんたの気持もおさまろう・・・」教信寺炎上のさなかに、胴から離された教信沙弥の首像は、折れた頸椎の部分が、柱のように突き出ていた。それを切断しようとして春成(僧)の心は揺れ動いた。「開祖の法躰(ほうたい)に手を懸けることがあって許されるでしょうか」・・・「お首...野口をゆく(14)教信物語(14)、教信頭部像

  • 野口をゆく(13) 教信物語(13)、教信は、鎌倉の浄土仏教に影響

    沙弥教信前回、覚如上人の『改邪秒』(1377)によれば、親鸞聖人は、つねに「われはこれ賀古(かこき)の教信沙弥の定(じょう)なり。つまり、「私は賀古の教信沙弥と同類の者である」と語っておられたという一節を紹介しました。「沙弥」とは、普通には正規の憎となる手続きを経ていない出家者、あるいは、姿は僧であっても妻子を養い生業に従事している者のことを指していう言葉です。播磨(はりま)国賀古の駅(うまや)(現在の兵庫県加古川市)のあたりに妻子とともに住み、人に雇われ労働することで日々の糧(かて)を得ていた教信沙弥の姿は、まさしくしゃみでした。教信は、鎌倉の浄土仏教に影響教信の影響のあった僧は親鸞ばかりではありません。沙弥をなのる空也上人(903~972)も、その一人です。空也も、正規の出家者ではありませんでした。青年時代...野口をゆく(13)教信物語(13)、教信は、鎌倉の浄土仏教に影響

  • 野口をゆく(12) 教信物語(12)、我(親鸞)は、加古教信沙弥の定なり

    沙弥・教信復習です。教信は、興福寺に入ったが、寺を出て諸国を放浪し、播磨国賀古郡の賀古駅(かこのうまや)の北、現在の加古川市野口町野口に草庵を結び、阿弥陀仏の称名を常に口に唱えました。彼は、旅人の荷物を運ぶ仕事で生計を立て、妻を娶り子供も一人生まれる。村人と共に、道作りや川堤の修理などにも従ったといいます。いつも西方浄土を念じて念仏を唱えているので、人々は彼を「阿弥陀丸」と呼びました。彼は僧にあらず俗でもない。後の人は彼を沙弥教信と述べています。沙弥教信は、無量寿経や阿弥陀経により、阿弥陀如来への信仰、すなわちすなわち「南無阿弥陀仏」の六字名号を常に口誦すると云うのは彼が初めてでした。我(親鸞)は、加古教信沙弥の定なり沙弥教信は、空也よりもさらに100年ほど前平安時代の初期の時期に、称名念仏をすでに行い、生涯常...野口をゆく(12)教信物語(12)、我(親鸞)は、加古教信沙弥の定なり

  • 野口を行く(11) 教信物語(11)、野口念仏のはじまり

    野口念仏のはじまり一遍の念仏踊りが最初に行われたのは、信州の佐久、小田切という場所で念仏を称えていときの事でした。この時、念仏が自然に踊りになり、やがて踊りの輪は、急激に広がりました。ある者は鉢を叩き、あるものはそれに合わせて手足を動かす。ある者は踊りはね、あるものは手を叩くといったように、それはまったくの乱舞でした。彼らは各人の喜びを、体一杯に表現しました。一遍は、その時の気持ちを「はねばはねよおどらばおどれ春駒ののり(法)の道をば知る人ぞ知る」と詠んでいます。以後、一遍の布教は踊りとともに念仏を広げていきました。何が人々をそのような激しい踊りの表現を取らせたのでしょう。踊り念仏は、社会の混乱期にはじまっています。一遍の生きた時代は、旱魃・水害の自然災害が人々を襲いました。そして、戦乱は続きました。その上に、...野口を行く(11)教信物語(11)、野口念仏のはじまり

  • 野口を行く(10) 教信物語(10)、一遍聖絵と教信寺

    「一遍聖絵」に教信寺が登場します。内容は、今まで述べたことと若干重なりますが、見ておきましょう。一遍聖絵と教信寺一遍は、弘安九年(1286)に、印南野の教信寺に参詣したと『聖絵』巻九に記されています。しかし、この年の念仏会を12月24日から大晦日まで四天王寺で行なっており、そののち播磨方面に出発していますので、教信寺に参詣したのは弘安十年(1287)の正月であろうと思われます。さて、前回のブログで書いたように、教信寺は一遍にとって特別の地であったのです。正応二年(1289)、一遍の病気が重くなった時、兵庫の真光寺から迎えが来るまでは「いなみ野の辺にて臨終」しようと思っていたからです。なぜ一遍は教信寺で臨終を迎えようとしたのでしょう。一切を捨て遊行の生活に生きた一遍にとっては、終焉の地などは何の意味ももたなかった...野口を行く(10)教信物語(10)、一遍聖絵と教信寺

  • 野口をゆく(9) 教信物語(9)、一遍の死と教信寺

    一遍の死と教信寺一遍の死について書いてみます。一遍は、野口の教信寺で眠りたいと考えていました。ウィキぺディアは、一遍の死について次のように書いています。「・・・正応2年(1289)死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51(満50歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる・・・」死地を求めて一遍は、正応2年(1289)季節は夏を迎えようとした頃、讃岐の国の善通寺へ向かいました。それは死地を求めての最後の旅でした。きっと、生涯の終わりを迎えるために空海の故郷を訪ねたのでしょう。そして、阿波の国から淡路島へ渡り、そして岩屋への旅でした。加古の里の教信寺で眠りたい・・・夏の太陽は、一遍の病躯を容赦なく照りつけました。一遍は、ここで、...野口をゆく(9)教信物語(9)、一遍の死と教信寺

  • 野口をゆく(8) 教信物語(8)、教信の死(『今昔物語集』より)

    教信『今昔物語集』に登場『今昔物語(こじゃくもがたり)は、平安時代末期に成立したと考えられている説話集です。集められた説話の数は千を越え、それもインド・中国地域からも集められています。インド・中国・日本は、平安時代では全世界を意味するものでした。つまり『今昔物語集』は、世界中から集められた説話集ということです。いま読んでいる本は『日本の古典を読む⑫・今昔物語集』(小学館)です。この本は、専門書ではありません。一般の読者を対象に『今昔物語』から代表的な話を集め編集されています。それに、「播磨国賀古駅(かこのうまや)の教信が往生すること」と教信の死が登場します。教信は、平安時代でも、広く知られ尊敬を集めたお坊さんだったようです。それでは、『今昔物語集』に登場する教信の紹介です。教信の死(『今昔物語集』より)大阪の箕...野口をゆく(8)教信物語(8)、教信の死(『今昔物語集』より)

  • 野口をゆく(7) 教信物語(7)、民話「上人魚」

    (民話)、上人魚(しょうにんうお)教信には、次のようなお話が伝えられています。平安の都が定まってまだそれほど年月がたっていないころ、教信沙弥は播州賀古の駅に根拠を置いて、新しい仏教活動を展開しておりました。それは形式を重んじ、戒律を守る伝統的な従来のあり方ではなく、社会生活の中に釈尊の精神を生かそうという実践仏教の方法でありました。したがって、まだ日本の仏僧がだれもしていない結婚生活を、何のこだわりもなく千百何十年も以前に公然とふみきっていたのです。たまたまある日、土地の信徒が川魚を教信に供養してくれました。教信は感謝してこれをよばれてしまいました。すると今までも破戒僧としてにがにがしく思っておりました別の人が、これを聞いていよいよがまんできなくなり「結婚したり生魚を食べたりすることは、仏道修業をする者のなすべ...野口をゆく(7)教信物語(7)、民話「上人魚」

  • 野口をゆく(6) 教信物語(6)、教信・浄土教の先駆者

    教信・浄土教の先駆者平安時代の中ごろ、政治がみだれ、その上に転変異変も加わりました。人々は仏様に救いを求めました。「浄土教」の教えが人々の心をとらえました。浄土教は、阿弥陀仏にすがって祈れば、極楽浄土に生まれかわることができるという教えでした。生活に疲れた人々は、必死で阿弥陀さんにすがりました。この浄土教の教えは、鎌倉時代にかけて花開くのですが、教信はその先駆者でした。教信は、非僧非俗の沙弥(しゃみ)生活に入ったことは、時代思潮の影響大なりとはいえ、彼の純枠さがそうさせたのでしょう。彼の人間性を否定しない、平等思想の偉大さを認めざるを得ません。阿弥陀丸・荷送り上人常に彼は庵の西窓から想いを西方(西方浄土)によせていました。そして、疲れた農民のために農耕も手伝いました。旅人を援けて荷物も運んだり、わらじも貸与しま...野口をゆく(6)教信物語(6)、教信・浄土教の先駆者

  • 野口をゆく(5) 教信物語(5)、 賀古の駅(かこのうまや)

    賀古の駅(かこのうまや)7世紀、大和政権(奈良を中心とする政権)は、天皇を中心に勢力を強め、その勢力を、さらに拡大するために道を整備しました。とりわけ、奈良と九州の大宰府を結ぶ山陽道は、最も重要な道でした。街道の途中には駅(うまや)を設けて、官人の旅・租税の運搬にあたらせました。野口(加古川市野口町)に、山陽道最大の駅、賀古の駅(かこのうまや)がおかれました。山陽道最大ということは、奈良と大宰府の間では日本で最大の駅が野口にあったということです。他の駅では、多くて20頭ほどの馬が置かれていましたが、「賀古の駅」は、40頭を数えました。2009年、2010年(平成22)の県立考古博物館の発掘により、約80m四方の築地塀で囲まれて、古代山陽道から駅家表門への進入路、表門の柱の礎石が確認されています。隣の大きな池は、...野口をゆく(5)教信物語(5)、賀古の駅(かこのうまや)

  • 野口をゆく(4) 教信物語(4)、実践の地を求めて

    実践の地を求めて興福寺を後にした教信はその後どこを巡っての旅であったのかは、はっきりとしていません。信州長野の善光寺ともいわれています。教信寺の前住職の長谷川慶明氏は、その後、一時京都に活躍の場所を求めてのではないと想像されています。しかし、京都も、奈良と同じく古い体質を残していました。承和三年(八三六)の秋でした。教信は、山陽道を西へ向って行脚していました。さすがに、山陽道は当時の一番の幹線道路だけあって、整備され、多くの人々の行きかいがありました。須磨、明石を過ぎ、播磨路にはいりました。山は遠くで、平野がひろがっています。その広々した印南野の中心に賀古の駅(かこのうまや)が置かれていました。賀古の駅については、次回訪ねてみましょう。野口は、布教の最適の地駅の東端(現在の野口神社の地)には白鳳期(大化の改新~...野口をゆく(4)教信物語(4)、実践の地を求めて

  • 野口をゆく(3) 教信物語(3)、教信、興福寺を去る

    興福寺は、救いの場ではなかった藤原氏一門の氏寺興福寺は、伽藍輪郭の美しさを競っていました。僧房の僧達も、一応は仏道精進にいそしんでいましたが、心の底には、藤原氏の権勢に安住しており、ひと時も彼等の脳裡から離れないものは、特権意識でした。藤氏一門の血縁者もいました。彼等のプライドは、地位と新文化の体得者であるという自負の念でした。それは、また、輝かしい将来の栄達を予約されていました。若い学僧、教信も彼等の中に混っていました。教信は、仏教論理学においては右に出るものがいないほどでした。彼を知る僧からも、将来長老の器として嘱望されてもいました。しかし、彼は、心の空虚を満たすことが出来ませんでした。彼は、同輩と何度も討論を試みたし、先輩に問いかけました。が、返ってくるのは、形式的表面的な解答だけでした。彼の求めるものは...野口をゆく(3)教信物語(3)、教信、興福寺を去る

  • 野口をゆく(2) 教信物語(2)、陰謀の時代

    「令和の典拠」となった歌会は教信の活躍する半世紀ほど前天平二年の正月十三日に、太宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の家に集まって、宴会(うたげ)が開かれました。この歌会が開かれたのは、現在の暦では、西暦730年2月8日ごろだそうです。意味は、次のようです。時に、初春の令月にして、気淑(よ)く、風和らぐ。梅は、鏡前の粉を披く蘭は、珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす。もう少し、分かりやすくしておきましょう。折しも、初春の佳(よ)き月で、空気は清く澄みわたり、風はやわらかく、そよいでいる。梅は佳人の鏡前の白粉(おしろい)のように咲いているし、蘭は貴人の飾り袋の香にように匂っている。天平時代は、藤原氏の陰謀で幕を開けたこの歌を詠む限り、大伴旅人の気持ちは、穏やかです。しかし・・・この前年の神亀五年(729)に、絶大な勢...野口をゆく(2)教信物語(2)、陰謀の時代

  • 野口をゆく(1) 教信物語(1)

    野口をゆく(1)教信物語(1)きょうで、「ひろかずのブログ」4608号になりました。この間、高砂市・稲美町・播磨町、そして加古川市をずいぶん歩きました。よく続いているでしょう。でも、3月の3日でした。突然、足がジンジンして、50㍍も歩いたら足が抜けるようで、歩けなくなりました。医者へ行っても原因不明。半月ぐらいこんな状態が続きました。さいわい、1か月ぐらいして、今も少し違和感が残っていますが、急に少し楽になってきました。原因は、「歳も考えず歩き過ぎ」だったようです。一日に10.000歩以上を歩くことを目標にやく2年間続けていました。先月以来、座っていても痛かったのですが、うまくできているんですね。でも、おかげで気晴らしに、製作中の『加古川さんぽ』を纏めることができました。新「ひろかずのブログ」をはじめます!この...野口をゆく(1)教信物語(1)

  • コーヒーブレイク 「稲美町北山の曇川土手の桜」は、 散り始めていました

    「稲美町北山の曇川土手の桜」は、散り始めていました最近、2017年4月9日に取り上げた「稲美町北山の曇川土手の桜並木」のアクセスが多く、「今年も見頃は、そろそろかな」と撮影に出かけました。少し残念だったですね。もう散りはじめていました。先週あたりが満開の見頃だったようです。でも、川面の花筏もいいものですよ。川辺の桜のトンネルを散策してきました。写真は、きのう(11日)の桜です。(no4607)*写真:稲美町天満北山集落の曇川沿いの桜、(2019・4・11撮影)コーヒーブレイク「稲美町北山の曇川土手の桜」は、散り始めていました

  • コーヒーブレイク:『加古川さんぽ(市内各町の歴史散策)上・下』間もなく完成

    『加古川さんぽ(市内各町の歴史散策)上・下』14年ほど前(退職2年目)から始めたブログ「ひろかずのブログ」ですが、途中で大きな事故もなく今も続いています。きょうの「ひろかずのブログ」で、4.606号になりました。最初の5年ほどは、1日に200程度のアクセスでしたが、1.700号の時でした。このブログを新聞(神戸新聞)が大きく取り上げてくれました。その後、一日のアクセスが一挙に1.000を超えるようになりました。以後も、徐々に増え、現在2.000~3.000で安定しています。こんな作業をしながら13年が過ぎました。5月1日(令和元年・最初の日)発行予定記事内容は、だんだんと地域史(加古川市・高砂市・稲美町・播磨町)が中心になり、原稿がたくさんたまりました。「それらをつまみ食いして冊子に纏めたい」という思いが膨らん...コーヒーブレイク:『加古川さんぽ(市内各町の歴史散策)上・下』間もなく完成

  • 令和について(5) 「いなみ野万葉の森」紹介

    「令和について(1~4)」は、おせっかいな内容になってしまいました。でも、「令和」の典拠になった公園の歌碑ついて、公園関係者の方々にご検討下さいますようお願いもうしあげます。最後に、「いなみ野万葉の森」を紹介しておきます。稲美中央公園の一角にある「万葉の森」は町制施行30周年記念事業の一環として企画され、昭和63年に完成しました。「いなみ野万葉の森」紹介説明板には「この万葉の森は、古代の印南の海を縮景造園した日本庭園です。池は、印南の海、その北の森林は賀古の松原(かこのまつばら)で、池の中の島は淡路島です・・・」とあります。池が印南の海をあらわし、その真ん中に淡路島がデンとあります。そして、池を囲んで賀古の松原があり、印南川(加古川)が流れています。説明にはないのですが、印南の海の周囲には、印南野(台地)が広が...令和について(5)「いなみ野万葉の森」紹介

  • 令和について(4) 池主は、クーデター計画(「奈良麻呂の変」)に加わる

    大伴氏一族は、武門の人たち大伴池主ことを付け加えておきます。池主は、大伴につながる一族です。天皇の住む、宮城には12の門があります。その門の一つ一つを古代の豪族が守りを固めています。その正面の門は、大伴門です。大伴氏はその門を守るだけではなく他の11の門を統括していました。つまり、大伴氏の本来の仕事は、天皇を守るという近衛兵でした。ですから、天皇家と深い誼(よしみ)を持った一族です。しかし、旅人・家持の時代は、天皇の権力を藤原氏がそれにとって代わろうとした時代でした。*大伴池主は、大伴家持と共に活躍。聖武天皇が亡くなり、橘諸兄が亡くなり、その息子(奈良麻呂)が、それに反対し、クーデターを起こそうとして失敗しました。「奈良麻呂の変」以後、大伴氏の力は、弱まりました。家持は、このクーデターを予想はしていたでしょうが...令和について(4)池主は、クーデター計画(「奈良麻呂の変」)に加わる

  • 令和について(3) 「令和」の典拠になった歌の作者は、「大伴池主」ではない!

    「令和」の典拠になった歌の作者は「大伴池主」ではない!大伴の旅人・家持・池主について少しだけ考えてみましょう。「令和」の典拠になった宴のことです。この宴は、太宰府の大伴旅人の家に集まっての歌会ですから、旅人が絡んでいることは確かです。その他、分かっていることを少し上げておきます。(1)大伴家は、大伴家は天皇家を警護する家柄です。(2)この時、旅人は、九州の反乱を平定するために大宰府に派遣されていました。(3)大伴旅人は、大伴家持のお父さんです。(4)大伴旅人は、665年頃の生まれ(731年没)だと言われています。(5)大伴家持は、717年頃の生まれ(785年没)だと言われています。(6)この宴が開かれた時は、730年ですから、この時、家持13歳ぐらいの子どもです。(7)旅人は、宴の翌年、大納言として帰郷したが、...令和について(3)「令和」の典拠になった歌の作者は、「大伴池主」ではない!

  • 令和について(2) 華やかな歌会でした。が・・・

    華やかな歌会でした。が・・・昨日(6日・土)、午後「いなみ万葉の森」に出かけました。もちろん、元号「令和」の典拠となった歌碑を見学するためでした。ここへは何度も来ているのですが、こんなに華やいだ「万葉の森」は初めてでした。やはり元号(令和)に関心があるのですね。見学に来た目的は、この歌碑を見たかったためですが、何よりもその作者が「大伴池主」になっていることを、直に確認したかったからです。その理由は、次回以降にします。今日は歌の意味と当時の社会情勢を、少しだけ見ておきます。天平二年の正月十三日に、太宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の家に集まって、宴会(うたげ)が開かれました。この歌会が開かれたのは、現在の暦では、西暦720年2月8日ごろだそうです。意味は、次のようです。時に、初春の令月にして、気淑(よ)く、風和...令和について(2)華やかな歌会でした。が・・・

  • 令和について(1) 「令和」ゆかりの地沸く

    「(元号)令和」について4月3日(水)の神戸新聞は、「兵庫令和ゆかりの地沸く」と題して「いなみ万葉の森」にある新元号「令和」の典拠となった歌碑を大きく紹介しました。少し気になります。それは、万葉の森にある歌碑の作者が「大伴池主(おおとものいけぬし)」となっていることです。神戸新聞も気になったのか。写真等の説明に、「(万葉の森)碑上で作者が、大伴池主となった経緯は不明という」と註を入れています。今日は、神戸新聞記事から、その歌碑についての一部の紹介です。「令和」ゆかりの地沸く(1)(以下、記事・写真とも神戸新聞からの転載)新元号「令和」の典拠となったのが日本最古とされる歌集「万葉集」だったことを受け、ゆかりの地に注目が集まっている。万葉集には古代人が航路として行き交った瀬戸内海沿いで詠まれた歌が多く収められ、兵庫...令和について(1)「令和」ゆかりの地沸く

  • 稲美町と神戸市の合併 仮調印後にご破算

    神戸市との合併問題昭和30年3月、旧加古・天満・母里三ヵ村が合併して稲美町が発足しました。もともと、財政的に豊かでない村同士の合併で、合併条件にも「将来は大都市への合併」をうたっていました。稲美町の誕生は、大都市との合併のワンステップといえる新町の誕生でした。そのため、大西一雄町長は神戸市との合併に向けて、まっしぐらに合併を進めました。七年ごしの交渉がみのり、昭和37年2月神戸市側が重い腰をあげ「稲美町合併」を決定しました。仮調印後にご破算稲美町と神戸市の合併がまさに実現しようとする時でした。予想もしていない合併反対の火の手があがりました。まず、兵庫県が反対を表明しました。理由は、県は稲美町を含めた播磨総合改発計画を進めており、同町が神戸市と合併すると計画に大きな影響があるということでした。ついで、加古川市が反...稲美町と神戸市の合併仮調印後にご破算

  • 播磨町さんぽ(28) 村・町の名前(5) 播磨町は、加古川市・別府町との合併を拒否

    別府町、加古川市と合併播磨町は、合併を拒否高砂町との合併は、高砂町を中心にしたものであり、はじめから別府町としては気乗りではありませんでした。この間、加古郡二見町は、大久保町・魚住町がとともに袂をわかって明石市と合併することを決めました。阿閇村は、孤立路線を選択します。別府町の話です。別府町は孤立路線をとるか、加古川市との合併話を進めるかの選択肢が残されるだけとなりました。こうした中で、突然の転機が訪れました。別府町は、かねてから国や県に別府港の改修を陳情していました。それが認められることになりました。しかし、総工費は、三億円と見積もられ、地元負担は二割五分でした。つまり、別府町の負担は、7.500万円です。別府町単独では至難の事業でした。この時、加古川市長から別府町に「・・・合併を考慮にいれずとも、地方発展の...播磨町さんぽ(28)村・町の名前(5)播磨町は、加古川市・別府町との合併を拒否

  • 播磨町さんぽ(27) 村・町の名前(4)、阿閇村は、別府・加古川との合併をキッパリと拒否

    別府村、加古川市との合併は賛成小差「世論調査の投票」(拘束力を持たない)の結果をもたないものの、別府町と加古川町の合併は反対となりました。結果、今度は阿閇村(現:播磨町)との合併が現実的な協議にはいりました。事態は、加古川市制実施予定の6月1日に向けてますますの緊迫していました。町長・町議会とも最終的な態度を決めなければならなくなりました。そのため、今度は拘束力のある「決戦投票」の結果にゆだねることを決めた。投票は、昭和25年5月6日に実施され、結果は次のようでした。加古川町との合併賛成1250票〃合併反対1164票*この投票には、「外国人(在日朝鮮人を指す)は投票せしめない」との注意書きがありました。結果は、加古川町と別府町の合併が賛成が多かったのですが、その差はわずかに86票でした。一部の議員からは「町長リ...播磨町さんぽ(27)村・町の名前(4)、阿閇村は、別府・加古川との合併をキッパリと拒否

  • 播磨町さんぽ(26) 村・町の名前(3) 別府町の合併構想

    加古川市(当時加古川町)と別府町との事情から始めます。加古川町と別府町との合併は「臨海工業都市への発展」を秘めた極めて魅力的な青写真でした。そのため、別府町への合併の誘いは、加古川町だけではなかったのです。◇三つの合併構想◇加古川町から別府町へ合併の申し入れがなされたのは、昭和24年(1949)でした。当時、加古川町との合併以外に、別府町には二つの選択肢がありました。一つは、加古郡別府町、阿閇村・二見町が合併する、東播臨海都市建設構想です。神戸新聞は「・・・・(阿閇村・二見町との合併は)あらゆる面で共通した条件を持つものの団結で、将来の発展を期したいという提案があり、全員が大体賛成の意向を示したのでちかく関係町村によって正式の合併相談が行われる模様である・・・」(昭和24年11月17日)と報じました。今にも、別...播磨町さんぽ(26)村・町の名前(3)別府町の合併構想

  • 播磨町さんぽ(25) 村・町のなまえ(2)、播磨町の誕生

    村・町のなまえ(2)播磨町の誕生きょうは、播磨町の誕生の話です。江戸時代、現在の播磨町の地にはどんな村があったのでしょう。最初にそれらの村々を紹介しておきます。クイズです。「江戸時代、播磨村はあったのでしょうか?」もちろん答えはノーです。江戸時代、今の播磨町の地には、東本庄村・西本庄村・宮北村・野添村・古宮村・大沢村東中野村・経田村・古向村・宮西村そして二子村の11ヵ村がありました。時代は明治になり、明治8~9年にかけて合併があり、東本庄村・西本庄村・宮北村が本庄村に、大沢村・東中野村はそれぞれの村名の一字を取り「大中村」に、そして古向村、経田村も旧村名の一字を残し、「古田村」が誕生しました。それら、あたらしくなった本庄村・野添村・古宮村・大中村・古田村・宮西村・二子の村々は、明治22年4月1日、新しい村制によ...播磨町さんぽ(25)村・町のなまえ(2)、播磨町の誕生

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