ぶらり散歩(20) 水を求めて(10)、汗と涙が稲美の大地を作った
明治22年4月1日、蛸草新村・草谷村・下草谷村・野谷新村・印南新村・野寺村の6ヵ村が合併して母里村が誕生しました。初代母里村村長として蛸草の岩本須三郎が選ばれました。初代母里村村長・岩本須三郎蛸草新村の庄屋の家に生まれた須三郎は、父を早く亡くし12才で庄屋の家をついでいます。戸長になってからは、納税の問題・疎水事業にと、おいたてられ続けの毎日でした。あるとき、郡長が気の毒そうに、「岩本さんもえらいときに村長になってでしたな」となぐさめたほどです。しかし、「村長の言うことよう分かるが、借金だけがぎょうさんできた。なんでこんな時に疎水つくるんや、もうちょうっと時期待てへんのかいな・・・わしら、土地売るしかしょうない」と不満をもらすものも多くいました。(岩本)「土地売ったらあかん、もうじき水が来る。疎水の仕事や鉄道の...ぶらり散歩(20)水を求めて(10)、汗と涙が稲美の大地を作った
地図で淡河川・御坂(サイフォン)・練部屋(ねりべや)を確認ください。取水口は、淡河川から疎水に対する国の動きに、近隣の村々も参加を願い出ました。母里6ヵ村としても仲間が増えれば負担も軽くなります。双方の利害が一致して水利組合の組織は大きくなりました。19年には関係6ヵ村に加古新村、天満地区の10ヵ村、それに平岡の高畑村・土山村そして二見の東二見村・福里村が加わり21ヵ村となり、名前も「印南新村外20ヶ村水利組合」となりました。新しく組合に加わった村々の代表は、どのくらいの工事費になるのか不安でしたが、何とか各村々の負担も決めることができました。サイフォンって何?内務省に、より精密な調査を依頼しました。政府は、洋式土木を学んだ新進気鋭の田辺儀三郎技師を派遣してきました。調査の結果は、人々を困惑させるものでした。山...ぶらり散歩(19)水を求めて(9)、取水口は、淡河川から
ぶらり散歩(18) 水を求めて(8)、 疎水計画が動きだしたが・・・
疎水計画が動きだしたが・・・説得すれど印南新村の百姓衆が、郡役所に直訴したあくる日、郡長は上庁しました。なんとしても、土地の取り上げの件を県令に伝えたかったからです。しかし、県令からの返事は、むなしいものでした。(県令)「地価を修正し、増租分の延長も認めたのに、その上に郡役所まで押しかけるとはあまりにも強情者たちである。とんじゃくすることはない。処分は徹底して行なえ・・・」郡長は、何を説いても分かってもらえぬ上司に言いようのない怒りを覚えました。(郡長)「このままでは、村が潰れてしまう。当座、2000円でも納めたら急場をしのげるのだが・・・ともかく、今を切り抜けるために2000円が必要でした。郡長は、大阪のYに、土地の購入を申し込みました。Yは、葡萄園に興味を持ち、将来の疎水の話に目を輝かせました。「いまは儲け...ぶらり散歩(18)水を求めて(8)、 疎水計画が動きだしたが・・・
どこまでも続く苦難6ヵ村(現:母里)連合会結成疎水の話は、いつも工事費用のことになると前へ進みません。しかし、山田川疎水関係の印南新村、蛸草新村、野寺村、野谷新村、草谷村、下草谷の村々で疎水を造るための連合会がつくられました。役員もぐっと若返りました。魚住逸治23才(野寺村)、松尾要蔵29才(野谷新村)、岩本須三郎35才(蛸草新村)らを中心とし、若い熱と智恵で疎水問題が進められることが決まりました。国からの援助消えるしかし、行く手に暗雲が待ち受けていました。新政府は、西南戦争等に多額の出費があり、出費を抑えなければならなかったのです。新政府は、明治13年、太政官代48号をだしました。その3条には、府県が実施する工事の土木費のうち、国からの下げ渡し金を14年度より廃止するというものでした。厳しい税の取立てそれを追...ぶらり散歩(17)水を求めて(7)、どこまでも続く苦難
ぶらり散歩(16) 水を求めて(6)、北条直正、播州葡萄園にかける
北条直正、播州葡萄園にかける地租が高い。従って土地は売れない。そんな時でした。北条は、大阪朝日新聞に、「官営ブドウ工場をつくるため、国は土地を求めている」というニュースをみつけました。北条は、土地を母里地区に誘致し、土地を国に買い上げてもらう。その金で納税する。税を完納して、今度は疎水の誘致を確実にさせよう。土地を売った農民は、ブドウ園で働かせてもらう。北条は、これより外の方法は考えられませんでした。福羽逸人の来県数日後、政府のブドウ園担当の福羽逸人(ふくばはやと)らの来県の知らせを受け、郡長は急いで上庁し訴えました。(北条)印南野は台地で水がありません、そんな土地でもよろしいのでしょうか。(福羽)葡萄は、暖かなところであれば良いのです。あまり水は必要としません。郡長は福羽を印南新村へ案内しました。穏やかな師走...ぶらり散歩(16)水を求めて(6)、北条直正、播州葡萄園にかける
ぶらり散歩(15) 水を求めて(5)、森岡県令 VS 北条郡長
貧乏神丸尾茂平次は、早朝から地租の督促に家々をまわっていました。「松う、おるか」「よう見えてまっしゃろ」夏の熱気は朝から強く、開けっぱなしの家の中はまるみえでした。「そら、わしも(地租)払いたいんやが、みてのとおりなんもおまへん。泥棒かてきてくれまへんわ。用心がよろしおますわ。もうなくなるもん、なんにもあらへん。残っとんのは、お婆だけでっせ。そいでよかったら、地租の代わりに持っていってもろたらよろします」土地が売れない以前では一反2~3円で売れていた畑も、最近では金に換えることが難しくなりました。あまりに高い地租のために、土地を買ったらその負担が大きくなるので買い手がなくなってしまいましたからです。森岡県令VS北条郡長県の庁舎で郡区長会が行われた日、北条郡長は少し早めに上庁して県令に訴えました。(北条郡長)県令...ぶらり散歩(15)水を求めて(5)、森岡県令VS北条郡長
工楽松右衛門旧宅が県指定文化財に観光活性化の弾みに今日(2/22)の神戸新聞東播版に「工楽松右衛門旧宅が県指定文化財に」の記事が掲載されています。工楽松右衛門の資料として掲載させていただきます。記事の終わりに、蛇足を付けさせていただきました。兵庫県高砂市高砂町今津町の「工楽松右衛門旧宅」と、隣接の港湾遺構が21日、県指定文化財に選ばれた。江戸時代の舟運拠点の様子や高砂の景観を、今に伝えている貴重さが評価され、関係者は「観光拠点として盛り上がる中、さらに弾みが付く」と喜ぶ。史跡「高砂堀川湊及び工楽松右衛門旧宅」として指定された。旧宅は江戸時代後期に建てられ、かつての南堀川西詰めに面している。小屋梁を直接柱で受ける構造や、外壁に古い舟板を再利用した「舟板塀」などの特徴がある。堀川湊は舟運の拠点として発展。南堀川船着...工楽松右衛門旧宅が県指定文化財に
ぶらり散歩(14) 水を求めて(4)、草谷新村・旧税の11.23倍(明治11年)
印南野台地は、南と西に徐々に低くなっています。印南野台地は雌岡山の北の山田川から水を弾けたら、水は比較的たやすく流れてくれる自然の地形となっています。水が欲しい野寺村の魚住完治等は、神出村の西村茂左衛門、藤本増右衛門を招いて山田川からの測量のことを聞くことにしました。魚住完治は、幾度となく測量しました。完治は、その費用のほとんどを私財で負担しました。草谷新村、旧税の11.23倍新祖額の調査が遅れて、発表が11年(1878)となったため、11年の末に納める額は、9・10年度の分が加算されました。旧税の実に6倍という常識を超える額となりました。明治11年、印南東部6ヵ村(現:稲美町母里)の旧税に対する倍率を『稲美町史』からひろっておきます。(『稲美町史』426p)印南新村7.17倍、野谷新村7.32倍、草谷村2.7...ぶらり散歩(14)水を求めて(4)、草谷新村・旧税の11.23倍(明治11年)
加古郡長・北条直正加古郡役所は、明治19年に建設されました。場所は「人形の店・陣屋」のすぐ東です。郡役所の話ではなく、加古郡の初代郡長・北条直正の話です。小説『赤い土』(小野晴彦著)は、彼についての詳細を紹介しています。北条直正は、まさに義人でした。当時、県令(今の県知事)は、森岡昌純で、彼は薩摩出身で、どこまでも新政府の指示に忠実な人物でした。その彼が、地租改正で「腕をふるう」のでした。地租改正で、大増税になりました。母里地区(稲美町)の税は、江戸時代に比べて一挙に3倍をこえたのです。多くの農民は税を払うことができなくなりました。197戸と総戸数の半分以上が、土地を失い破産状態となりました。それでも、森岡県令は農民に税の完納をせまりました。郡長の北条は、農民の窮状をだまって見過ごすことはできませんでした。農民...ぶらり散歩(3)水を求めて(3)、加古郡長・北条直正
きびしい租税(租額)明治10年の春でした。地価を調査するための調査員が台地の村へやってきました。新祖額では村が潰れてしまう!そして、明治11年7月24日、新祖額が申し渡される日をむかえました。印南新村の丸尾茂平次は、気がすすまぬまま、姫路妙光寺へ出かけました。会場には各戸長(村長)の代表等数百人が集まっていました。県の掛長は、はっきりした声で述べました。「それでは各改正掛より新祖額をお渡しする。よく確かめて印を押されたい」新祖額が戸長(村長)代表に渡されました。茂平次は、体のふるえが止まりません。印南の東部6ヵ村の代表は、その不当な祖額をなじりました。祖額は、旧祖額(江戸時代の年貢率)と比べて蛸草新村は4.96倍、野谷新村は3.49倍、印南新村は3.44倍、野寺村は3.3倍、下草谷村は2.25倍でした。比較的少...ぶらり散歩(12)水を求めて(2)・村が潰れてしまう!
水を求めて(1)大増税始まる19世紀前半の文化~天保期(1804~49)には、新しい商品作物として綿の栽培が急速に広がりました。特に、綿作は水のすくない印南野台地の人々にとって、欠かすことのできない商品作物となりました。やがて、江戸幕府は終わり、日本は開国をします。それに伴い、安い外国綿がどっと輸入され、国内の綿生産の衰退は決定的となりました。印南の台地の村々は、水が少なく十分な米の収穫がありません。そこに、新しい税制(地租改正による大増税)でした。『母里村難恢復史略』稲美町の「郷土資料館」に『母里村難恢復史略(もりそんなんかいふくしりゃく)』(以下『難恢復史略』)が展示されています。著者は、北条直正(ほうじょうなおまさ)です。*北条直正については後に詳細を紹介します。明治12年、加古川の寺家町に「加古郡役所」...ぶらり散歩(11)水を求めて(1)・大増税始まる
ボーダーの地域加古川・高砂・稲美町・播磨町の位置を考えています。律令制度下で、直接に都の勢力が及ぶ範囲を畿内といいました。大和(奈良)・河内・和泉・山城(京都)・摂津が機内です。播磨は摂津に接しているが、畿内ではありません。が、播磨はボーダー(接点)の位置にありました。律令制度に先立つ古墳時時代、播磨の石棺や古墳からの出土品は畿内と似ており、明らかに西日本のものとは異なっています。この時代は、播磨は畿内の勢力下にあったのですが、都からは周辺部でした。この位置にある地域は、常に緊張した政治的状況にさらされていました。自らを維持するためには、湧き上がるエネルギーを必要としたのです。加古川地方は、古代より都の勢力と結びつきの強い地域でありながら、四国・吉備(岡山)の勢力と対峙する場所にありました。これは古代のことだけ...ぶらり散歩(10)ボーダーの地域
ぶらり散歩(9) 加古新村(現:稲美町加古)の誕生(4)・子孫には負担となる
開発人の特権を認める議定證の第4項を読むことにします。概略は次のようです。(議定證:第4項)加古新村へ各々様(才兵衛・治兵衛・喜平次のこと)の村の百姓となり、開発された新田畑を私どもに、その身代相応に誰にでも割り付けくださり、感謝しております。その恩にむくいるため、各々様の持っておられる田畑の持ち高がどれほどであっても、各々様の諸役はもちろん、米銭の入用等は末世末代まで少しもお出しにならないで下さい。村中の者が持ち寄って負担します。もし、百姓が困るようなことがあっても、「協力してください」というような訴訟がましいことは、いっさい言いません。子孫には負担となるが、明治39年まで続くこの百姓の才兵衛らに対する約束も、時代がたち開発当初の事が遠い過去となった江戸時代の末期から明治時代になると、子孫にとっては大きな負担...ぶらり散歩(9)加古新村(現:稲美町加古)の誕生(4)・子孫には負担となる
ぶらり散歩(8)稲美町加古には寺がない ・移住者は、才兵衛・治兵衛・喜平次の旦那寺に
加古土地改良区に、古文書「村方万事議定證(むらかた、ばんじぎじょうしょう)」(以下「議定證」とします)が保存されています。加古土地改良区で「議定證」(写真)を見せていただきました。変なおじさん(私)が、一緒ですがお許しください。いま、「加古新村の誕生」は、この議定證から加古新村の歴史を紹介しています。稲美町加古には寺がない移住者は、才兵衛・治兵衛・喜平次の旦那寺に(議定證:第5項)一宗旨の件ですが各々様(才兵衛・治兵衛・喜平次)と同じ禅宗になり、旦那寺も同じにしたいのでよろしくお願いします。神社や寺の守り札をいただいたりするのも、こちらからは一切口出しせず、三人様の指図どおりに致します。勝手に跡目を入れて、引っ越しをするようなことは致しません。これは兄弟・下人であってもお断りをし、帳面に書かれている外に、他所か...ぶらり散歩(8)稲美町加古には寺がない・移住者は、才兵衛・治兵衛・喜平次の旦那寺に
ぶらり散歩(7) 加古新村(現:稲美町加古)の誕生(2)・加古大池
加古新村(現:稲美町加古)の誕生(2)姫路藩は、この新村の開発を進めるために援助をおしみませんでした。加古大池をつくる加古新村は、比較的順調に歩みだすことができました。これは、あまり他に例をみません。というのは、新しい村をつくるということは、池などを造り、まず水の確保がされなければなりません。新しく池などを造ると、既にある近隣の村では流れてくる水が少なくなります。当然のこととして抗議があります。加古新田の場合は、加古大池等を造りました。加古大池の水は、雨水だけでは当然足りません。草谷川からの水を使うことになります。草谷川の水は、川郷が水を使わない時期に加古大池に草谷川から水を引くとはいえ、水利権の一部を放棄したことになります。当然、下流の野村・下村・宗佐・船町・上西条・中西条などの草谷川の川郷からの抗議があるは...ぶらり散歩(7)加古新村(現:稲美町加古)の誕生(2)・加古大池
加古新村(現:稲美町加古)の誕生(1)稲美町加古(旧加古新村)の話をしましょう。開拓許可おりる加古新村の開発は、万治元年(1658)加古才兵衛の開発願に始まりました。加古新村の開拓について『加古新村由来記』は、次のように記しています。「中西条村(現:加古川市八幡町)の才兵衛は、26才の時から、庄屋を勤めていました。村の東の広大な原野の開拓を考え、3年間、麦・稗・大豆・小豆などを植え、低いところには、稲の種を蒔いたところ実を結びました。さらに3年間、実際に住んで寒暑に耐えられることも確かめました。才兵衛は、上西条(現:八幡町)の喜平次に印南野台地の開拓を熱心に説きました。喜平次も賛同はしたものの、開拓のための資金が心配でした。才兵衛は、資金のことを親類の下村の治兵衛にも相談しました。彼も同意し、三人は印南野台地の...ぶらり散歩(6)加古新村(現:稲美町加古)の誕生(1)
新撰組・河合耆三郎粛清さる文久三年(1863)の夏のある日、一人の若者が高砂の町から姿を消しました。彼の家は、この地方では誰知らぬ者のない蔵元(くらもと)であり、秋の収穫期になると威勢の良い現場監督として、堀川岸で活躍していました。その彼が、突然豊かな暮らしをなげうって姿を消したのです。やがて、京の新撰組に入り、サムライになったことが、風の便りに聞こえてきました。彼の名は、河合耆三郎で、武士として活躍したいと常々考えていました。新撰組のできたことを知り、いてもたってもいられなく、ついに高砂の町を飛び出しまたのです。彼は、蔵元の息子で、銭の勘定に明るいことを買われ、新撰組では勘定方(会計係)の仕事をまかされました。新撰組の規則は、他に例をみない厳しいものでした。慶応二年(1866)二月二日の朝のことです。前夜、タ...ぶらり散歩(5)新撰組・河合耆三郎粛清さる
ぶらり散歩(4) 三島由紀夫 i n 加古川(2)・召集令状届く
三島由紀夫in加古川(2)召集令状届く由紀夫の二回目の加古川訪問は、入隊の時です。昭和20年2月4日、赤紙、召集令状の電報がありました。電文には、「本籍地(志方町)で入隊せよ」と書かれていました。東京を発つ時、微熱だったのですが、志方に着くにつれて熱は激しくなってきました。入隊地の現在の青野ヶ原へ出かけました。この時のようすも、「仮面の告白」から引用します。「・・・(入隊場所の青野ヶ原で)入隊検査で獣のように丸裸にされて、うろうろしているうちに、私は何度となく、くしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいう音をラッセル(異常呼吸音)と間違え、あまつさえ、この誤診が私のでたらめの病状報告で確認され・・・(省略)・・・私は、肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた。営門を後にすると私は駆け出した。・・・・」彼は、加...ぶらり散歩(4)三島由紀夫in加古川(2)・召集令状届く
ぶらり散歩(3) 三島由紀夫 in 加古川(1)・三島由紀夫の松
三島由紀夫in加古川(1)三島由紀夫の松(徴兵検査の場所)三島由紀夫は、東京生まれですが、祖父、定太郎が志方町生まれで本籍が志方町にありました。祖父は、政府の役人でほとんど東京住まいでした。父、梓は東京生まれで政府に勤めており、由紀夫も東京生まれで、志方が懐かしいという思いはなかったようです。三島由紀夫が加古川市志方町を訪れたのは二回のみです。一回目は、由紀夫に徴兵検査(昭和19年5月)の命令が来た時です。当時、徴兵検査は現住所か本籍地のどちらで受けてもかまわなかったのです。彼も父も何とか公威(由紀夫)の不合格になることを望んでいました。おしなべて体格のよくない東京での徴兵検査になれば合格率が高くなります。当時の由紀夫は体の貧弱な若者でした。父、梓はたくましい若者の多い本籍地・加古川で受験すれば不合格の可能性が...ぶらり散歩(3)三島由紀夫in加古川(1)・三島由紀夫の松
雪の鶴林寺75才のお爺さんですが、今朝はうれしかったですね。起きると窓の外は雪景色。食事前に、鶴林寺へ出かけました。山門でハタと困ってしまいました。入山料(拝観料)を持ってきていません。山門から撮影しようとしましたら、料金所のお婆さんが「どうぞどうぞ」と拝観料なしに撮影ができました。今日の「ひろかずのブログ」は、説明なしです。雪の鶴林寺をご覧ください。(no4535)*写真:雪の鶴林寺◇きのう(2/10)の散歩(15.314歩)ぶらり散歩(2)雪の鶴林寺
「ぶらり散歩100」をはじめます「豊沢団平さんのこと」を急停車させ、いったん終えることにします。お読みいただきありがとうございました。次の話題を書きたくて終わることにしたのではありません。「地味な話題が続き、そろそろ〝ひろかずのブログ〟を読むのをやめようかな・・とお考えの方も多くなったのではないかと想像したからです。「ひろかずのブログ」は、今日でno4634号になりました。自分でも「よく続いている」と驚いています。そこで、今まで書いたら4634号から面白そうな記事をひろってみたり、新たなトリビアもどきを付け加えて書いてみようと思います。いま「ひろかずのブログ」は、加古川市の話題が多いですが、もちろん守備範囲は稲美町・播磨町・高砂市・加古川市です。とりあえず100号ばかりを考えています。「ぶらり散歩100」と題を...ぶらり散歩(1)「ぶらり散歩100」をはじめます
豊沢団平のことを年譜(1)・(2)で整理しておきます。豊沢団平年譜(2)明治10年58才文楽座を去り彦六座に移る明治26年67才11月千賀死去享年53才明治31年72才4月1日団平稲荷座の舞台に倒れ死去阿倍野に葬る昭和19年長男・平三郎が死去、遺族が常徳寺石碑に団平の名を刻む(no4633)*写真:豊沢団平◇きのう(2/8)の散歩(10.687歩)〈お願い〉「ひろかずの日記」http://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630b時々、上記の「ひろかずの日記」のURLもクリックください。豊沢団平さんのこと(13)豊沢団平年譜(2)
豊沢団平のことを年譜(1)・(2)で整理しておきます。豊沢団平年譜(1)文政10年3月21日誕生団平寺家町西の町の醤油屋に生まれる天保6年9才入門天保9年12才三代目広助に入門、力松を名乗る天保11年14才天満の芝居に出演、初めて一場を持つ天保13年16才丑之助と改名天保14年17才三弦の横綱格となり、若太夫を弾く弘化元年18才豊沢団平を襲名長門太夫の合三味線となる嘉永2年21才母もと女死去(65才)安政元年28才妻、八重を娶る〃〃養父、安次郎死去(68才)万延元年34才初めて女児を得たが死産文久2年36才長男が生まれたが死去文久3年37才父平蔵作州にて死去(81才)慶応元年39才平三郎誕生慶応3年41才国吉誕生明治2年43才母八重死去八重死去後、千賀を娶る(no4632)*写真:豊沢団平◇きのう(2/7)の散...豊沢団平さんのこと(12)豊沢団平年譜(1)
団平の墓碑一代の名入団平が大往生をとげたのは明冶31年4月1日のことで、時に72才でした。安倍野の禅林寺に葬られました。団平はそこに眠っているのですが、団平の没後、襲名のことで問題をおこした仙左衛門が、明冶43年頃高野山に団平の墓碑を建てたとのことです。院号は「調音院」団平の長男平三郎が亡くなった後、昭和19年に遺族門弟衆が加古川常徳寺の父祖の墓畔に加古家霊位の碑を建て、これに団平の名を刻んでいます。法名は、大違絲道居士でした。団平の左は長男平三郎の法名です。(no4631)*写真:団平の墓碑(常徳寺)◇きのう(2/6)の散歩(10.698歩)豊沢団平さんのこと(11)院号は「調音院」
団平逝く明治31年4月1日の舞台でした。団平の三味線の音はことに美しく、聞くものを感動せしめずにはおかなかったといいます。すでに、台本も残り一枚余となった8時30分頃のことでした。団平は、撥を持ったまま弦を弾こうともしません。その様子が尋常ではなかったので大隅太夫が「代り・・・代り・・・」と声をかけ、楽屋にいた門弟の豊沢龍助が羽織のまま舞台にかけ上って後を弾き継ぐ間に、門人が団平を左右より抱きかかえて楽屋へもどってきました。すぐに、診察をうけました。容体は急性悩充血ですぐに病院につれてゆくことになったのですが、運ばれていく途中、三休橋北詰派出所前で全く絶望となってしまいました。時刻は、10時30分でした。門弟等は涙ながら遺骨を清水町の自宅に運びました。団平はかねてから「撥をもったまま死にたい」と語っていましたが...豊沢団平さんのこと(10)団平逝く
逸話(3)「テン」の音伊勢の桑名に二代目鶴沢寛治という三味線の名人がありました。団平が、まだ丑之助を名乗っていた時代のことです。寛治が、丑之助に三味線の秘訣を教えました。丑之助はさっそく、二挺の三味線をもって来ると寛治は、双方の調子を合わせて三味擦を下に置き、しばらく目つぶると「この音色をよく聞くように」といいながら、三の糸を指につまみ、手をはなすと、まことにさえてテンという音が生まれました。「若しこの音色が出る様になったら天下の名人級である。何度も、この音の出る様に工夫しなさい」と言って、その時は別れました。丑之助は、その後一心にこれ練習をしました、そのテンの音色は、なかなか出ません。より一層の練習に打ち込みました。それから、七年がたちました。桑名へ興行に行った折、団平は寛治を訪ねました。その時、寛治は自分の...豊沢団平さんのこと(9)逸話(2)・テンの音
名人豊尺団平については多くの逸話が残っています。そのうち二・三をここに紹介しておきましょう。(逸話1)船頭の教え若い20才前のころでした。団平は、義太夫の修行にたえきれずに、故郷の加古川へある日逃げて帰りました。そして再び大阪へ行く気力もなくて、ある日、加古川の渡し舟のりました。するとその老船頭が舟こぐ竿を使いながら、「今日は工合が悪い。きのう怠けて一日休んだらもう竿が思うように使えない」と呟く(つぶやく)のでした。それを間いた彼は、船頭でもそうだ。「浄瑠璃は、毎日の仕募で、一日休んでも腕が下る…」と反省し、再び大阪へ帰って修業を始めたということです。(逸話2)勝手に計算して持って帰ってんか団平は、稽古にいそがしい日日を送ったので借金取が来ても稽古が済むまで待ってもらっていました。そのうち借金取も何人かにふえま...豊沢団平さんのこと(8)逸話(1)
三木歴史散策in高砂市今日は、2月24日(日)の歴史散策(「三木歴史散策in高砂市」)の下見を三木市の係の方と一緒にしてきました。当日が楽しみです。もちろん、歴史散策の目玉の松右衛門の旧宅にも寄りました。館長さんが「ひろかずのブログ」の「工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛」を読んでいただいていました。館長さんとお会いするのは初めてでした。感激でしたね。今後ともよろしくお願いします。*仕事がかさなり、原稿ができていなかったため「豊沢団平さんのこと」は、中断していました。明日から再開します。(no4627)◇きのう(2/2)の散歩(10.421歩)三木歴史散策in高砂市
「毎日が日曜日」なんですが、今日だけは忙しかったため「豊沢団平さんのこと」の原稿が来ませんでした。そのため、「ひろかずの日記」とおなじ記事を掲載させていただきます。経過報告『加古川さんぽ~市内各町の歴史散歩~』製作中明日から、本格的な校正作業で~すいま、『加古川さんぽ‐市内各町の歴史散策‐』上・下二冊の編集作業を急いでいます。先日、原稿(表紙ともに)を2月中旬完成、3月中旬に製本完成の予定としました。こう決めておかないと、いつまでもだらだらと時間だけが過ぎていきそうです。今日(2/2)の午前中、参考図書を整理して纏めました。これで、まえがき(あとがき)・もくじ・内容(本文)・参考図書と原稿がだいたいできました。上巻・下巻合わせて300ページほどの冊子になります。明日から。校正に取り組みます。300ぺージを緊張し...『加古川さんぽ~市内各町の歴史散歩~』製作中
2019年1月の散歩「目標:一日10.000歩」は達成することができました。お陰で風邪もひいていません。ご飯も美味しいです。この調子で2月もがんばりますか!そうしたら春です。1月の散歩1日(火)12.514歩自宅~播州大橋・自宅~長田公園2日(水)11.759〃自宅~大崎・自宅~稲屋3日(木)11.284〃自宅~ジョウシン電機・自宅~マックスバリュー4日(金)11.885〃自宅~鶴林寺~長田公園・自宅周辺5日(土)10.461〃自宅~長田公園・自宅周辺・鶴林寺周辺6日(日)13.383〃自宅~長田公園・自宅~稲屋~大崎7日(月)10.697〃平荘湖1周・自宅周辺8日(火)11.500〃自宅~新幹線側道で川岸~播州大橋~自宅9日(水)11.359〃自宅~鶴林寺~長田公園・アクトス周辺10日(木)10.667〃自宅...1月の散歩
「ブログリーダー」を活用して、ひろかずのブログさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。