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2014/11/26

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  • 週末の世論調査

    27日の土曜日、朝10:03頃の事。総務省(だったかな?!)から世論調査の電話が掛かってきた。その時頭を過ったのは『ああ、やっぱり解散総選挙は間近なんだな』と云う事。質問は全部で15ぐらいだつたかな、はっきりとは覚えてはいない。ダイヤルのブッシュ・ボタンを押して答える方法で、多分3~5分程度だったと思う。今度の選挙には行くか否か、支持政党は?(数人の人名を挙げて)知ってますか?…etc.誰がどう聞いても選挙関連だと推測する様な質問だった。まあ、いつもの事か…と思い一通り質問に答え受話器を置いた後は忘れていた。しかし今日になったら若干の意味合いが変わっていたのに気が付いた。TVのニュースでは《秘書が更迭された》その背景には《週末に行なわれた電話に依るアンケート調査の結果云々…》とか言っていた。それが直接の原...週末の世論調査

  • (‘76)12月31日(金) 泉屋餅搗き大会と除夜の鐘撞き

    昼間、大晦日の餅搗き。思ってもみなかった事で、知らないうちに庭に臼と杵が用意されていた。オバチャンは餅米を蒸かし、折りたみのテーブルには紙の皿、小豆や何やらの準備が整っていた。意外だったのは大根おろしまであった。みんなで代る代る餅を搗き始めた。私も生まれて初めての体験をさせてもらった。杵というのは傍で見ているのと違い、結構重いものだった。搗き上ったお餅はその場で戴いた。なにしろまだ湯気の上がっているお餅、それも自分でも参加したものを食べるのだから、もう最高!!大晦日の嬉しいハプニング、みんなでとても良い思い出が出来た…と、大はしゃぎ。心憎い程のオヤジさんの心遣いに感謝。他の民宿での事は判らないけれど、こうした事がこの泉屋の人気の秘密かもしれない。子どもたちの様な客と共に楽しみ、喜ばせてくれる。人柄と云うの...(‘76)12月31日(金)泉屋餅搗き大会と除夜の鐘撞き

  • (’76) 12月25日(土) 故・牧野京子宅

    午後二時、「おきなわ丸」石垣港接岸。ついにやって来た、年末年始の竹富へと…。理想を言えば昨日のクリスマス・イヴをも…と云う事だったけれど、日程の都合上やむを得ず一日遅れた。竹富へ渡る前に有田貴代美に電話をして(故)牧野京子のお墓を教えてもらえる様に話しをした。九月十八日(土)に肝硬変の為、二十歳と云う若さで逝ってしまった。その事は京子の死後数日経ってから貴代美からの手紙で知らされた。正直なところ泣きはしなかつたけれど、泣きそうになる程の哀しみに襲われた事は確かだった。そう、とても言い知れない悲しみが込み上げてきたのを覚えた。だから今度の渡島の時は、絶対に京子の墓参りに行こうと決めていたのだった。沖縄のお墓は解りにくいとかで、家に行った方がいい…と(何の事か私には理解し難い事を)電話での貴代美は言っていた。...(’76)12月25日(土)故・牧野京子宅

  • (’76)12月7日(火) 伊藤喜代子の誕生日

    1976年、この年は前半ちょっとサボり気味だったので、後期はそのツケが回って来た。12月頃になって僅かながらオフの日が取れる様になつてきてた。それでもX’masEve迄は楽は出来なかった。そんな中で、この日は久し振りの息抜きの日だった。12/7(火)伊藤喜代子の誕生日越後中里で出逢った喜代子の誕生日。電話を掛けてお祝いの言葉を告げた。九ヵ月程前、未だ春には遠い日に再会したきりで、凡そ一年近く経った冬に入ってからの再会となる。電話で、「ねェ、明日会わない」の言葉に、「ええ、いいわよ」と早いレスポンス。彼女の良さは私に対してとても素直な妹の様な存在でいてくれる…事かな。この四月から保母さんに成る為に学校へ通っている。この九ヶ月でどの様に変ったのか、明日の放課後御茶ノ水で会うのが、今から楽しみでしようがない。(’76)12月7日(火)伊藤喜代子の誕生日

  • (‘76)6月2日(水) & 3日(木)

    この’76.年という時代は未だまだ現在の様に銀行のカードというものがそれ程深く根付いてはいない頃で、給料袋に現金の時代。思い出せますか?だから地方に出掛ける時には財布の中身を常に気にかけていたものでした。言い換えれば、今よりも現金(お金)の有り難さが際立っていたと思います。それで予定を立てるのも(私には)楽しみの一つでした。多くの場合費用対効果を如何にして見極めるかが大切になります。私にとってはそんな時代でもありました。それがこの時には、最後の最期で綱渡りを楽しむ始末事になりました。6/2(水)残金90円也午後七時五十分「飛龍」、様々な思い出を振り返らせながら大阪南港に接岸。そのまま大阪駅に向かった。駅構内改札口付近、互いに未だ別れたくないといった面持ちで儀礼的な別れを交わした。名古屋に向かい家路に着く洋...(‘76)6月2日(水)&3日(木)

  • (’76) 5月26日(水) 再び泉屋

    午前九時、六泊の与那国での日々を終えて、また六時間半の航海が始まった。刻一刻と『幕』に近付いて行くのを感じる。那覇での出逢いから始まった今回の洋子との八重山も波照間・与那国と目的を達っして、後は…今度は本当に「飛龍」に乗り込む迄の…余韻の様な日々を如何にして過ごすかと云う事が大事になってきた。そこで私はもう一度竹富に行く案を出した。洋子も前回の印象が残っていた為か、すんなりと泉屋行きに賛成した。石垣の波止場に着く迄の間、荒れる海の中をまるで木の葉が揺れる様に進む船の甲板から、その波を見ていた。洋子を含め旅行客の多くが船酔いしていたが、わたしは平然としていた。私の場合は去年の東京晴海港から那覇迄の荒れに荒れた48時間15分の、波間に漂う牢獄で慣らされた為なのであろうか、午後三時三十分に石垣の波止場に立った時...(’76)5月26日(水)再び泉屋

  • (‘76)5月22日 (土) 私をおいて先に…

    さて、うなされ続けた一夜明けての朝。二日酔いの為洋子は起きられず、朝食をとる事さえもおぼつかないまま昼近く迄布団の中で時を過ごす。石垣へ帰る船に乗れなくなり、次の出航日(26日)迄このまま連泊する事となった。と云うのも石垣⇔与那国は4日に1便の就航だからだ。「私をおいて先に帰っていいのよ…」とは言うけれど、もう既に船は沖の遥か彼方。『今更何を言ってるの、見知らぬ土地に一人置き去りには出来ないでしょ!』とは思ったけれど、本気ではなかった。だから、飛行機と云う手段を知っていたけど口にはしなかった。何とか洋子が起き上がれる様になった昼下がりの事、散歩を兼ねて「名物」と言われている「与那国パン」を買い求めに出てそれを昼食とした。特別美味しいというわけではなかったし、どうしてそれが「名物」と言われているのか二人には...(‘76)5月22日(土)私をおいて先に…

  • (‘76) 5月21日(金) 東岬(あがりみさき)のヤギ鍋パーティーと泡盛75度

    朝、どちらからとなく、「今夜は宿を変えてみない」と云う話しが出て、お互いに、「そうねぇ」と同意を求める様な結論に落ち着いた。そこで朝食をとって一服してから、徐ろに荷物をまとめなかたけ荘を出た。次は何処へ行こうか決めていたわけではない。取り敢えず歩き始めた。どのくらい歩いたであろうか。真っ直ぐには歩かず気の向いた方へ角々曲がりながらだったので、なかたけ荘からの距離はそう遠くは無い筈である。そこで一軒の民宿を見つけた。「民宿・さきはら荘」がそれである。ここはなかたけ荘とは異い、民家の香りがしない民宿である。が、悪くはない処の様である。ちょっと一息ついた後、釣りの道具が有ったのでやった事も無いのにそれを借りて、「なんた浜」という近くの浜に出て暇をつぶして楽しんだ。《意外な事に》何匹か釣れはした…が、これがまたこ...(‘76)5月21日(金)東岬(あがりみさき)のヤギ鍋パーティーと泡盛75度

  • (‘76)5月14日(金) & 20日(木)

    5/14(金)美崎荘・紀行の幕間午後二時。「第八新栄丸」は三泊の日程を終えて少々疲れ気味の私と洋子を乗せ、石垣島へと向かった。五時三十分。久し振りと感じられる波止場に船は着いた。今夜は竹富へと云う案も既に最後の船便は無く、「明日にしよう」と云う事になった。今夜はもう一度波照間島を散歩しながら、ゆっくりと眠る事にしよう。洋子も多分そうするだろう。二人の八重山紀行は今、その第一歩を踏み出したばかり。明日からは暫く竹富とこの石垣で…。5/20(木)与那国島サーターアンダギーと日章旗午前八時。荒れる外海を、この八重山では比較的大きな鉄の船が、まるで大きな波のうねりを掻き分け泳いでいる…といった様であった。六時間に渡る航海を終えて、無事与那国に着いたのは午後二時であった。波照間の時と比べると乗船客は圧倒的に多いが、...(‘76)5月14日(金)&20日(木)

  • (’76) 5月12日(水) 日本最南端の荒波と石碑

    波照間壮観。まさにこの一言で言い尽くしてしまうのではないか…と思うくらいの景観である。海面迄は何メートルあるのかちょっと想像しにくい。南の果にそそり立つ岸壁に打ち寄せる波は何処迄も蒼く、勢いはその飛沫を頭上遥かなる所迄押し上げる。すぐ足の下、岸壁辺りの海面は潮で純白に染まり、その周りを蒼い色調が波間を占有してしまう。風はそれ程強くは感じないが、絶えず激しく流動している。空気は何処迄も澄みきっていて、太陽は心地良い時間を爽やかなる汗の中に閉じ込めてしまう。束ノ間、私は無限の時の中を散歩する。今、私は確かに日本の最南端に居る。日本最南端の石碑が目の前に在る。欲を言ったら限りが無い。これらの感激で十分である。那覇では幾分迷ったが、やはり戻って来たのは、この景観を目にしただけでも正解であった。その意味では洋子に心...(’76)5月12日(水)日本最南端の荒波と石碑

  • (‘76) 5月8日(土) どんでん返し

    目覚めの午後。二人にとっては「朝」の珈琲を飲みにサテンドールへ行った。そこで洋子が全く以って意外な事を言い始めた。「ねェ、本当に今夜の船で帰っちゃうの?」「うん」「出来る事なら一緒に廻って欲しかったなァ」「バカな事言わないで。今夜の船で帰る為に、もうちゃんと乗船券は買ってあるの知ってるじゃない」「う〜ん、でもさぁ…ジュンとだつたらいい旅になるだろうなぁ…って思ったから…」「そりゃ、まぁねェ、波照間と与那国でしよ。行きたくないって言ったら嘘になるねぇ」「なら、そうしてよ」「でもさあ、お金が無いもの。今回は長逗留するつもりが無かったから、それ程持ってきてないし」少しの間だけ私を見つめていたと思ったら急に「お金の事ならいいわ」「えっ?」「私が出してあげる。その代り贅沢な旅は期待しないでね」「ちょ、ちょっと待って...(‘76)5月8日(土)どんでん返し

  • (‘76)5月7日(金) Y.H.春海荘と鈴木洋子

    午前七時三十分。「おきなわ丸」那覇港接岸。無事に「竹富での誕生日」を迎えた私は五日、石垣に渡り美崎荘に泊まった。そして昨日、夕方出航の「おきなわ丸」に乗り込んだのである。それで今朝那覇港に着いたのであるが、今回はおとなしくこのまま帰る予定で、今夜一泊このY.H.春海荘に泊まり、明日の「飛龍」で大阪へ渡るつもりでいる。出発前には日程も日数も全く考えていなかった今回の八重山紀行も、こうして振り返ってみれば今日で丁度二週間という、こじんまりとした小旅行として幕を迎えようとしている。家に戻る迄17~18日間といったところであろうか。何となく気が緩みがちであるのに気が付いた。そう、その気が緩んだところに出て来た悪い相手…。名古屋から来て私と入れ違いにこれから八重山に行こうという鈴木洋子。歳は私と同じ。行動予定が全く...(‘76)5月7日(金)Y.H.春海荘と鈴木洋子

  • (‘76.) 5月1日〜6日 平穏にして何事も起らず

    ここ迄はゆっくりと、長閑な南の島での休暇を満喫出来た。予定通り誕生日を泉屋で過ごせたので、もう後は帰る事を考えれば良かった。ちょっとした息抜きの旅行気分だったので、満足気に残りの時間を過せば良いのだ。2日(日)はオヤジさんに連れられ数人で石垣島の闘牛見物に出掛けた。初めての経験であり全くの予期せぬ出来事だったので、嬉しさと興奮が入り混じった気持ちに終始した。あまりの迫力にピントをがなかなか合わなかった。近くに寄って来た時には、あまりの大きさに一瞬怖さを覚えた程だった。竹富に戻った後は何人かで西の桟橋まわりでコンドイ浜へ。ヤシガニ。大きさはA4の紙位とでも言えばいいのかな。このハサミは人の指など切断してしまう…と云う。正に名前の通り“椰子”ガニ。この時期に来ている人達は、G.W.を利用しての旅行客なので、長...(‘76.)5月1日〜6日平穏にして何事も起らず

  • (‘76.)4.30. 知ったか振りのガイド気取り

    午前中、九時四十分の船で竹富に戻って来た。十時、船を降りて郵便局へ辿る道すがら、私は二人の女の娘と話しをしていた。船の中で語らい始めて以来、あれやこれやと八重山の事に付いて、特に竹富の素晴らしさを話して聞かせていた。今夜の宿がまただ決まっていない二人を我が泉屋へ誘った。未だ郵便局が見えていなかった所。博多からやって来た田原美恵子と鬼塚千鶴の二人であった。もうすぐ二年目の安易な慣れなのであろうか。彼女達を島内の散歩やコンドイ浜へ泳ぎに連れて行った時など、まるで私自身が古くから住んでいる『半島民』であるかの様な錯覚に落ちてしまったのに気が付く。それは或る面で、私が竹富に言い様の無い愛着を感じていると云う証しかも知れない。去年と今年の異いは、その様な観点に薄っすらとでも表出している事であろうか。私は彼女達が初め...(‘76.)4.30.知ったか振りのガイド気取り

  • 4月29日(‘76) 再び会って

    昨日午前中の早い時間に泉屋に着いた。午前中に石垣へ渡り、昨日連絡を取っておいた牧野京子に会う。去年八重山を涙を呑んで去る時、ノリ子と共に「おとひめ丸」に乗る私を見送りに来てくれた、アルバトロス四人娘の一人である。少々太り気味で肌はトースト色。どちらかと言うと美形ではない(ゴメンネ)けれど、人間的にはとても可愛い、純情な娘だ。そして宮平観光ホテルでアルバイトをしている、やはり元アルバトロス四人娘の有田貴代美に会いに二人で行った。暫くして二人と別れた後、偶然平田と会い、石垣一周(西廻り)のドライブに出掛けた。僅か七ヵ月余りしか経っていないせいか実感が湧かなかったが、石垣島最北端の平野で足を止めた時は、『やっぱり石垣に来てるんだなぁ』と感じた。美崎町。今夜は新婚の平田の家に泊まる事となった。私にとっては今夜何処...4月29日(‘76)再び会って

  • ‘76. 2度目の沖縄渡島

    去年書いていた八重山での日記、帰宅した時に「これで完結したわけではない」と書いていた通り、翌’76年もやはり出向いて行った。丁度今頃の事だった。今年も(飛び飛びにはなると思うけれど)書いてみようと思う。去年は現在の日付に合わせて投稿していたけれど、今回は日付けがズレて始まる。八重山への想いは私の心に深く浸透し根付いていたのでした。‘76.4.24.(土)映画「トミー」日本初公開を観るいよいよ第二回目の八重山への旅に出る。今回は大阪南港から「飛龍」という船で出航する。これには二つの理由が有る。一つは東京晴海港からの48時間15分の長い船旅は、去年でうんざりしてしまつている為で、時間的に約半分の大阪を選んだ…と云う事。そしてもう一つの理由は…こちらの方が私には重要なのだが、今迄日本では未公開であったTheWh...‘76.2度目の沖縄渡島

  • ごろ寝ウイーク

    今年もG.W.はごろ寝ウイークと決め込んで、雑踏を避けようとしていたのに、ちよつと散歩に出掛けてみたら忽ち人込みの中に突入してしまつた。駅の南と北では極端に人足が違っていた。❨何処から来たの??❩歩き難くなった道の中でスーツケースをゴロゴロと、他人の迷惑も考えず堂々と歩こうとしている(外人)は邪魔でしかない。日本国中でこんな光景が繰り広げられているのは解っているけれど、商売人達だけが、喜んでいるのかと思うと、なんか腹が立ってきます。そりゃあ私も地方には行きまくつていましたけれど、混雑時は避けていました。今に始まった事ではないけれど、地元でのこの光景は見たくないですね。そう言えば昔はG.W.とは言わず、飛び石連休…と言っていましたよネ。何だかんだ理由を付けて、訳の分からぬ休みが増えましたね。人出が増えたのは...ごろ寝ウイーク

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