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  • 里山の石神端書269 やぐら(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の大川・東漸寺のやぐら太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ大川の東漸寺の墓地奥の土手に穴を掘った〝やぐら〟のような形の墓地がありました。その中と周辺には江戸時代初期からの墓石が累々と重なっていて、墓石のオンパレード状態。やぐらであれば奥壁に五輪塔などの浮彫があるのですが、それは確認できませんでした。したがってこれをやぐらとすることはできませんが、房総のやぐらについて過去の資料から少し紹介します。やぐらは鎌倉時代の鎌倉に造られた山際の斜面を彫りくぼめて造った墓地。狭い土地の鎌倉で墓地を確保するために考え出された方法で、鎌倉だけで3000基もあるとされています。やぐらという名称について大三輪龍彦氏は『鎌倉のやぐら』(注)で、江戸時代初期の『新...里山の石神端書269やぐら(千葉県南房総市千倉)

  • 里山の石神端書268 風神雷神(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の大川・高塚不動の風神・雷神太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。高塚山には不動堂が建っていましたが、昭和の初めの火災で本尊不動明王は山麓の大聖院に下ろされたのは昭和36年。お堂内には、奈良時代に高塚不動を創建のした良弁(689~773)の開山縁起を描いた絵図18枚がかけられていました。良弁は奈良時代の僧。東大寺建立の僧として知られています。安房と縁が深いようで、鴨川の大山の開山も良弁となっています。もっとも良弁は相模の人で、丹沢の大山不動の開山者とされています。高塚不動・鴨川大山不動・丹沢大山不動の開山縁起の出だしは、良弁が赤子のときに鷲にさらわれたという件から始まります。鷲が向かった先が奈良、二月堂前の杉の木に引っかかっていたという設定です。今...里山の石神端書268風神雷神(千葉県南房総市千倉)

  • 昭和の石仏写真館(165)川口市の西光寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市戸塚の西光寺本堂山王二十一仏庚申塔・寛文二十年(1643)青面金剛庚申塔・宝永六年(1709)文字庚申塔・文政十三年(1830)念仏供養塔・慶安四年(1656)板碑・元享二年(1322)板碑・応永三十五年(1428)板碑・文明十年(1478)板碑・天正七年(1579)板碑・文禄五年(1596)昭和の石仏写真館(165)川口市の西光寺

  • 里山の石神端書267 鯉(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の千田・高皇産霊神社の木彫鯉太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。そのなかでひときわ高い山際に建つのが高皇産霊神社です。一直線の長い参道もこの神社の特徴。二の鳥居の扁額の神社銘は風化していますが、縁を飾る波などの文様はまだはっきり残っていました。扁額ばかりでなく、石造物の台座、寺社の向拝や欄間や柱に凝った意匠を凝らしたのが南房総(安房)の職人たちで、江戸時代末期には波の伊八、石工の武田石翁、宮彫りの後藤義光が安房の三名工として称えられました。三名工の一人後藤義光(1815~1902)は千倉の宮大工の家の生まれ。若いころは江戸の宮彫師の弟子となり、40代で安房に帰って仕事をしました。弟子の養成にも力を入れ、直弟子の後藤義信、後藤義久、後藤忠明、後藤兵...里山の石神端書267鯉(千葉県南房総市千倉)

  • 里山の石神端書266 大日如来(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の平磯・照明院の大日如来太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。真言宗の御本尊は大日如来。照明院の境内には3体の智拳印を結ぶ金剛界大日如来が座していました。いずれも円光を背にした丸彫りの大日です。房総ではときどき大日如来に出会いました。その一つが山に祀られた馬頭観音と対になった大日如来です。一石に馬頭と大日銘を刻した石塔もありましたから、対で祀ることが普通に行われていたと思われます。しかしどのような背景があっての造立かはわかりませんでした。参考になる例が伊豆半島の河津町にあります。『河津町の石像文化財』には大日と馬頭を並刻するものを8基報告されています。その目的は「天道大日に晴天を願い馬頭観音に馬の道中安全を願った」とあります。天道大日は農耕が始まる...里山の石神端書266大日如来(千葉県南房総市千倉)

  • 昭和の石仏写真館(164)川口の寺社②

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市観音堂(木曽呂)庚申塔・寛文十年(1670)真福寺(西川口)庚申塔・延宝八年(1680)妙蔵寺(根岸)妙蔵寺(根岸)庚申塔・延宝四年(1676)妙蔵寺(根岸)庚申塔・正徳四年(1714)妙蔵寺(根岸)庚申塔・享保十八年(1733)妙蔵寺(根岸)庚申塔①安永八年(1779)妙蔵寺(根岸)庚申塔②並木観音(並木)庚申塔・寛政十二年(18800)昭和の石仏写真館(164)川口の寺社②

  • 里山の石神端書265 鯨塚(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の平磯・長性寺の鯨塚太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ千田の長性寺を訪ねました。山門に子抱地蔵が座す長性寺、境内にブーゲンビリアの花が咲いていました。本尊は不動明王、拝見させてもらいましたら赤い憤怒の立像でした。鯨塚は本堂裏手のお堂入口に立つ宝篋印塔型の石塔で、「鯨塚/明治廿九年」銘。鯨は海からの漂着神。寄り神ともいわれた漂着物には、神像仏象をはじめ流木や貝や石までも、海からの恵みと考えて神仏として寺社に祀られました。千倉は和田などの南房総では漂着した鯨も仕留めた鯨も神として扱いました。南房総の太平洋側は昔から捕鯨が盛んな土地で、いまでも魚屋では鯨の肉やベーコンが売られています。かつては給食で鯨カツなどが出たそうですが、給食の経験がない...里山の石神端書265鯨塚(千葉県南房総市千倉)

  • 里山の石神端書264 地蔵絡子(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の平磯・観養寺の地蔵絡子太平洋に面した千倉の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ千田の観養寺を訪ねました。境内に入るとすぐ右手に阿弥陀如来、左手に地蔵菩薩が立っています。二尊とも整った像容で、地蔵の左肩には大きな絡子が彫られていました。絡子は袈裟の長さを調整する環で、主に禅宗の僧侶が使っています。袈裟は古代インドの僧侶の服。それはボロ布を集めて作ったことから糞掃衣(ふんぞうえ)、捨てられた布を綴り合わせて作ったことから衲衣(のうえ)とも呼ばれたと伝えられています。仏教が熱いインドから寒い北に伝わるにつれて、これを担った僧侶は必然的に分厚い服装になり、これに簡易な袈裟を着けるというスタイルに変わって、袈裟本来の意味は失われていきました。中国での袈裟はさらに装飾的...里山の石神端書264地蔵絡子(千葉県南房総市千倉)

  • 昭和の石仏写真館(163)川口市の吉祥院

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市南町の吉祥院六地蔵1六地蔵2五智如来・寛文十一年(1671)大日如来弘法大師庚申待(左)夜念仏(右)供養塔庚申待供養塔1・大永四年(1524)庚申待供養塔2夜念仏供養塔1・延徳二年(1490)夜念仏供養塔2昭和の石仏写真館(163)川口市の吉祥院

  • 里山の石神端書 千葉県長柄町

    里山の石神端書258龍頭(長柄町刑部)里山の石神端書259延命地蔵(長柄町田代)里山の石神端書260大杦大明神(長柄町田代)里山の石神端書261藪中の石仏(長柄町田代))里山の石神端書262神像(長柄町大津倉里山の石神端書263子安大明神(長柄町大庭)里山の石神端書千葉県長柄町

  • 里山の石神端書263 子安大明神(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の大庭・熊野神社の子安大明神長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。いま盗難防止のため山村の無住の寺社のほとんどは建物の扉を閉ざしてしまい、御本尊・御神体など拝めるところは皆無です。しかし境内に勧請された末社などは施錠されていないので、御本尊・御神体を拝めることがあり、ときには珍しい神仏に出会うこともあります。大庭・熊野神社でも珍しい出会いがありました。熊野神社の境内にある木祠には、「子安大明神」銘の下に女神が線刻された石塔が祀られていました。女神は日本神話に登場するような姿。不鮮明な線刻でハッキリしませんが、右手に木の枝を持ち、左手で赤子を抱いているように見えます。子安の本尊といえば仏像には子安観音があり、地蔵にも子を抱く姿があります。一方神像となると、櫛稲田姫命...里山の石神端書263子安大明神(千葉県長柄町)

  • 里山の石神端書262 神像(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の大津倉・大国主神社の神像長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。大津倉の大国主神社の入口にある木祠に「道祖神」の木札が納められていました。三木一彦氏の「房総半島における出羽三山信仰の浸透とその要因」(注)に「出羽三山への登拝は1~3週間をかけており、その間、家族は道祖神や地蔵に参詣して道中の無事を祈っていた」とあります。家族が出羽三山登拝中、留守をあずかる者は虫も殺してはならない、という話も聞きます。石段を登ると狛犬が迎えてくれます。胴長の狛犬です。神像は境内の隅にある木祠にあります。木祠に祀られた祭神は不明で、神像名も不明です。ほこりまみれで木彫かと思いましたが、触れてみると石像。冠をかぶり、袍を身につけた平安時代の朝服姿。手は笏を持つようになっていますが、笏は...里山の石神端書262神像(千葉県長柄町)

  • 昭和の石仏写真館(162)川口市の観福寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市前川の観福寺本堂仁王仁王庚申塔・元禄十三年(1700)庚申塔・享保六年(1721)庚申塔・元文三年(1738)庚申塔・寛政六年(1794)庚申塔・明治十一年昭和の石仏写真館(162)川口市の観福寺

  • 里山の石神端書261 藪中の石仏(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の田代・延命寺の藪中の石仏長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。田代の延命寺は鶴岡宅の庭を通った先にありますので、ご主人にご挨拶してから境内に入りました。本堂は寺院というより生活の臭いがする民家風の建物です。このお堂は鶴岡氏が管理していて扉を開けていただきました。本尊は地蔵菩薩で、寺が延命寺なので延命地蔵なのでしょう。鶴岡氏によると、本堂の左手にある崖に石仏が沢山あるとうのです。竹や雑木で覆われた崖で登るのは無理ですが、藪に手をかけ這い上がってみると、風化した二体の石仏が倒れていました。このような感じでいくつかの石仏が崖に倒れているようですが、詳細は不明です。境内に同じように風化した石仏が一体立っていました。如意輪観音です。房総の石で彫った石仏は風化が激しく、この...里山の石神端書261藪中の石仏(千葉県長柄町)

  • 屋上菜園2024-02闘病日記23

    この冬雪はないだろうとみていましたが1月13日の夕方降り、翌日屋上に上がってみると、雪が薄っすらと残っていました。*昨年12月から始めた抗がん剤の副作用で、湿疹が出てしまいました。暮れから正月にかけてビールを飲んだのも良くなかったようで、胸から腹にかけて湿疹で真っ赤。ビールは一年半ぶり。飲めば湿疹が悪化することは予測できましたが、久々に家族が全員集まったこともあり楽しく美味しくいただきましたから、納得の湿疹悪化でした。髪の毛が抜けはじめました。今回の抗がん剤の副作用として担当医から説明されていましたが、髪は長い友達ですからやはり抜けるのは寂しいものです。それでも半年前に坊主頭にしていましたら、さほど目立ちません。それより口内炎がひどくなってきて、ミカンも食べられません。ところで年末から新年にかけて、白血球...屋上菜園2024-02闘病日記23

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