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  • 里山の石神端書282 道祖神石祠(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)中里の道祖神石祠利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここで紹介するのは下総町で中里の道祖神としている場所です。集落外れの畑に土手を利用したこの場所には小型の石祠が山ほど積まれていて、その数の多さに驚きました。ほとんどが土手に寝かされ重ねられた異様さにも驚きです。石祠のほとんどは屋根から室部と台座が一体となった30センチ前後の高さで、室部正面に「道祖神」銘のあるものが若干あるだけ。見た目には同じような石祠ですが、詳細に調べればみな違っていて同じものは無いとも言えそう道祖神です。しかしこれほどの道祖神石祠を、石工あるいは手馴れた人が造ったのかの判断は難しいところです。推測ですが、奉納された時代が短期であれば専門の石工がいたともいえる数の多...里山の石神端書282道祖神石祠(千葉県成田市旧下総町)

  • 昭和の石仏写真館(171)川口市の円通寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市赤井の寺円通寺圓通寺の六地蔵地蔵菩薩阿弥陀如来板碑群板碑・至徳元年(1386)板碑・応永五年(1408)板碑・文正二年(1467)板碑・文明十二年(1480)板碑・文明十八年(1486)僧像十三仏昭和の石仏写真館(171)川口市の円通寺

  • 里山の石神端書282 石坂供養塔(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)中里・楽満寺の坂道供養塔利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯にある楽満寺を訪ねました。山門にユニークな像容の観音石仏が座していました。三十三所観音の一部で、残りは境内に並んでいます。近郷の女人講は造立したものです。三十三所といっても、像容をみると西国ではないものです。境内にはこれとは別の観音石仏もあり、こちらには西国札所二十二番のご詠歌が刻されていました。これら女性が造立した観音石仏があるのは、この寺が子授け・安産・子育ての如意輪観音を本尊としているからでしょう。寺ではこの本尊を源頼朝の妻政子の念持仏だったとしています。政子から如意輪観音を譲り受けたのはこの寺を開山・国一禅師(1233~1321)。国一は常陸生まれで鎌倉・臨済宗建長寺派の僧。もっと...里山の石神端書282石坂供養塔(千葉県成田市旧下総町)

  • 里山の石神端書281 阿弥陀、観音(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)冬父・迎接寺の阿弥陀、観音利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の冬父にある迎接寺を訪ねました。迎接寺は平安時代末から鎌倉期にかけて造られた阿弥陀・観音・勢至の来迎阿弥陀三尊を本尊とするこの地方の名刹。来迎阿弥陀は、臨終の阿弥陀信者を西方極楽浄土へ迎えに来る姿。迎え方には生前に積んだ功徳により九つの区別があります。いわゆる上中下の三品と上下中の三生の組み合わせの九品(くほん)で、阿弥陀の手に位置と印相で現しています。絵図や石仏では迎えに来る阿弥陀の印は上品下生(じょうぽんげじょう)が多く見受けられます。迎接寺の古い墓地にそのような弥陀と観音の美しい墓石が並んでいました。写真は来迎印の阿弥陀如来、十一面観音、如意輪観音です。(地図は国土地理院ホームペー...里山の石神端書281阿弥陀、観音(千葉県成田市旧下総町)

  • 昭和の石仏写真館(170)川口市の普門寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市本蓮の普門寺(庚申塔は№169と一部重複)庚申塔(元禄六年・1693)庚申塔(正徳二年・1712)庚申塔(正徳二年(1712)庚申塔(寛延二年・1749)庚申塔(寛延三年・1750)庚申塔(安永六年・1777)庚申塔(享和四年・1804)六地蔵六地蔵1六地蔵2昭和の石仏写真館(170)川口市の普門寺

  • 里山の石神端書279 天神(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)高の月輪神社の天神利根川下流の下総町が成田、市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここに案内するのは高集落の月輪神社金環殿の奥にある天神様木祠に鎮座する木彫の天神です。高集落外れに「月輪神社」の扁額がかかり、社殿に「金環殿」とある神社のさらに奥にある木祠が天神様。祀られているのが木彫の天神で、冠をつけ袍姿の坐像の胸に天神の象徴梅鉢紋をつけています。右手は笏を持つように握った形、左には太刀をさしているはずですが、これは見当たりません。これまで山や山麓の石仏をだいぶ見てきましたが、天神をはじめとした神像の石仏にはほとんど出会いませんでした。仏像が路地に立てられたのに対して神像は社殿に祀るという意識が強かったようで、数少ない天神石像は石祠内に祀られるケースが多い印象...里山の石神端書279天神(千葉県成田市旧下総町)

  • 『東国里山奥山の石神・石仏風土記』①

    (写真は仮の表紙です。出版は夏頃の予定)【経緯】22年9月、食道がんステージ4を告げられ抗がん剤治療に入る前に決めたのが、石仏・古文書・桜のボランティアなどの会の運営の辞退でした。山の石仏調べも出来なくなりました。こうなると自分の時間ができて始めたのが山の石仏のブログをまとめること。どうまとめるか構想は膨らんでいて、ブログ偏平足の「山の石仏案内」も千回を数え、ちょうど区切りのよい時期でもありました。いま振り返ると、がんになったのは、そろそろ自分のライフワークをまとめなさいという催促だったような気がします。それまで会の運営であまりにも忙しすぎました。『東国里山奥山の石神・石仏風土記』はブログ「山の石仏案内」から抜粋・加筆したもので、取り上げた山の石仏案内約1000、写真は新しく選びなおしたもの約1050で構...『東国里山奥山の石神・石仏風土記』①

  • 昭和の石仏写真館(169)川口市の寺社⑥

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社⑤慈林寺(安行慈林)六地蔵福寿院(赤井)庚申塔東光寺(江戸袋)観音東光寺・石幢東光寺普門寺(蓮沼)普門寺・庚申塔(元禄元年・1693)普門寺・庚申塔(正徳二年・1712)普門寺・庚申塔(寛延三年・1750)普門寺・庚申塔(安永六年・1777)普門寺・庚申塔(文化元年・1804)普門寺・庚申塔(天保五年・1834)昭和の石仏写真館(169)川口市の寺社⑥

  • 里山の石神端書278 道祖神(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)大和田路傍の道祖神利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。そこで見たのが路傍の一角に祀られた小さな石祠の道祖神の集まり。屋根・室部・台座が一緒になった20センチ前後の道祖神です。大和田の路傍の道祖神は、土手に上に祀られた石祠を取り囲むように小さな石祠が並んでいました。高さは20~30センチで屋根の形は流造りと切妻造り。室部の掘り窪みはなく銘もありません。台座も一緒です。大きさからして個人の奉納のようです。造立目的を下総町では道祖神として、夫婦円満、安産・子育てと案内しています。同じような道祖神は冬父の集会所でも見ましたし、中里にはとてつもない大量に奉納されている場所がありました。このような小型の道祖神は成田市や佐倉市の一部でも見ていますが...里山の石神端書278道祖神(千葉県成田市旧下総町)

  • 屋上菜園2024-04闘病日記25

    屋上菜園は体力がなくなった私に変わり、カミさんがやるというのでバトンタッチです。そうは言ってもこれまで手伝いをしたこともないカミさんですから、野菜作りのイロハから教えなければと、まず3月中旬にジャガイモの種を植えました。どうなることやら……。いまはキヌサヤの収穫。今年の3月末は風の強い日が多く、キヌサヤは茎が折れネットの支柱まで折れる始末で散々です。タマネギとニンニクは順調に成長中。*緩和ケアの話が出て、春彼岸の田舎の墓参りは今回が最後かなと車で出かけました。がんの告知を受けた後、弟夫婦と私とカミさんの4人での墓参りもこれで4度目。初めはこれほど続くとは思いませんでした。墓の前での兄弟夫婦の話は、そこに眠る父母に届いているはずなどと思うになったのも歳のせい、病のせい。見慣れた阿武隈と安達太良山の山脈を見な...屋上菜園2024-04闘病日記25

  • 里山の石神端書277 男根(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)小野・八幡神社の男根利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の小野八幡神社で、石碑に彫られた男根がありました。これは男根石と同じ趣旨の性神です。男根の大きさは約20センチ。これまでいろいろな石造男根を見てきましたが、この形は初めてです。淫祠(いんし)として為政者が造立を取り締まってきたこの種の石造物が、各地に残っているのは、性神信仰の根強さを示すものです。八幡神社の性神がどのような信仰背景があっての造立かは不明ですが、子授け子育てを願う神の一つであることは間違いありません。性神の脇には同じような男根のミニサイズの片割れがありました。このようなミニサイズの石造物は下総町の道祖神に見ることができます。この下総町には小さな石祠を道祖神として祀る風習があります...里山の石神端書277男根(千葉県成田市旧下総町)

  • 里山の石神端書276 十九夜塔(千葉県成田市旧神埼町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)大和田・龍安寺の十九夜塔利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の大和田にある龍安寺を訪ねました。龍安寺は曹洞宗の寺で山門前に禅宗特有の「不許葷酒入山門」の結界石が立っていました。その裏側には弘法大師の石仏群は、この寺が成田組十膳講八十八所霊場の一番になっているための造立でしょう。境内に入ると、左手に菩薩の石仏が並びます。その右端に座すのが「奉待十九夜/文化十四丑(1817)」銘の十九夜供養塔。十九夜塔は女性たちが、月齢十九日の夜に当番あるいはお堂に集まって経を唱え、歓談した行事を行って造立した石塔です。集まったとき掲げる軸の本尊は如意輪観音とされています。したがって造立された十九夜塔も例外もありますが如意輪観音がほとんどです。龍安寺の十九夜を見ると観...里山の石神端書276十九夜塔(千葉県成田市旧神埼町)

  • 昭和の石仏写真館(168)川口市の寺社⑤

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社⑤新光寺(峯)新光寺・不動明王新光寺・異形十一面観音新光寺・地蔵菩薩安行原蛇ノ木下安行原蛇ノ木下・大日如来安行原蛇ノ木下・庚申塔安行原蛇ノ木下・地蔵菩薩峯路傍・道祖神安行原蛇ノ木・庚申塔安行原蛇ノ木・地蔵菩薩安行原蛇ノ木・成田不動昭和の石仏写真館(168)川口市の寺社⑤

  • 里山の石神端書 埼玉県本庄市児玉町秋山

    里山の石神端書270宝筐院陀羅尼経(本庄市児玉町秋山・日輪寺)里山の石神端書271石棒(本庄市児玉町秋山・御嶽神社)里山の石神端書272五神神名塔(本庄市児玉町秋山・秋山新蔵人神社)里山の石神端書273文殊大士(本庄市児玉町秋山・直正寺)里山の石神端書274二十二夜塔(本庄市児玉町秋山・薬師堂)里山の石神端書275十二天(本庄市児玉町秋山・十二天山)里山の石神端書埼玉県本庄市児玉町秋山

  • 里山の石神端書275 十二天(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・十二天山の十二天秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。十二天はその秋山集落の山中に建つ神社です。秋山集落から林道に入り、馬頭観音が鎮座する瓦屋根の木祠が建っているところがかつての登山口で、石燈籠に「従是千百米」銘がありました。今の登山口の十二天池で、社務所・十二天会館が建っています。林道はさらに奥にのびて十二天神社の下まで入ります。ところで十二天は仏教の守護神、とくに密教の守護として行や儀式が行われた道場に絵図として用いられたようで、木彫としても少なく、石仏となるとほとんどありません。一般には災厄から守護とされたようです。山ではこれまで奥多摩の三ノ木戸山と西上州の馬居沢秋葉山で十二天に出会っています。奥多摩の三ノ木戸山の十二天尾根には「十二天山神」銘の丸石があり、宮内...里山の石神端書275十二天(埼玉県本庄市児玉町)

  • 里山の石神端書274 二十二夜塔(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・薬師堂裏の二十二夜塔秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ薬師堂の裏庭に石造物が並んでいました。一か所に集められたといった感じです。「猿田彦大神」、「庚申塔」、青面金剛庚申塔、墓石2基、石祠型墓石、宝篋印塔型墓石、二十二夜待供養塔、卵塔2基。庚申関係の石造物が3基ありますから、庚申信仰が継続して行われてきたのでしょう。卵塔は僧侶の墓石、石祠型墓石は江戸時代初期のものです。二十二夜塔には「二十二夜待供養/延享二年乙丑(1745)十二月廿二日/女人十一人」銘がありました。『日本石仏事典』(注1)には月待塔として十三夜塔から二十六夜塔まで解説され、これらが近世の造立で、地域により偏りがあり、造立者が男か女か、信仰の具体的例なども紹介されていて、実にさまざまな願...里山の石神端書274二十二夜塔(埼玉県本庄市児玉町)

  • 昭和の石仏写真館(166)川口市安行

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市安行の寺社金剛寺(安行吉岡)金剛寺案内金剛寺不動明王安行領塚路傍庚申塔・寛文(1661~63)安行領塚路傍庚申塔・寛保2年(1717)興善寺(安行領塚)庚申塔・元禄7年(1694)興善寺(安行領塚)庚申塔・宝暦8年(1758)興善寺(安行領塚)地蔵菩薩安行領家路傍庚申塔・安永3年(1774)宝蔵院(安行原)板碑・応安7年(1374)宝蔵院(安行原)成田不動昭和の石仏写真館(166)川口市安行

  • 里山の石神端書273 文殊大士(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・直正寺の文殊大士秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山際に建つのが禅宗の戸田山直正寺。本堂とその上に立つ文殊堂からなる寺です。寺の案内には、江戸時代初期の「承応元年(1653)戸田五郎左衛門直正が、戸田氏の供養のため廃寺を中興した」とありました。戸田氏はこの地を給地とした旗本。文殊堂は向拝柱を飾る豪華な木鼻と禅宗独特の花頭窓がある落ち着いた建物です。しかし堂内は畳もあげられて荒れるにまかせた感じ。天井の花絵のほとんどは薄れてしまいました。ここに案内する「文殊大士」の文字塔は、片付けられて淋しい仏壇の下に置かれていました。自然石を利用した文字塔です。文殊大士は文殊菩薩の一つの呼びかたで、特に禅宗で修行僧の理想形として僧形の文殊大士が座禅堂に安置されてきました。した...里山の石神端書273文殊大士(埼玉県本庄市児玉町)

  • 里山の石神端書272 五神神名塔(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・秋山新蔵人神社の五神神名塔秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ秋山新蔵人神社は、南北朝時代この地に縁があった秋山新蔵人光政の子孫が祀ったものと、境内の案内にありました。それは小さな社殿で、秋山集落に建つ寺社はどこも質素といった印象です。境内の隅に五角柱のそれぞれに「埴安媛命/倉稲魂命/天照大神/大己貴命/少彦名命」銘を刻した五神神名塔が祀られていました。高さ78センチ。五神神名塔は関東では、佐倉、相模など限られた土地で造立されたことがわかっています、どこでも70センチ前後の高さです。この石塔の造立目的は五穀豊穣を願うもので、土の神を祀る〝社日〟の習俗が根底にあるとされ、この石塔を地神と呼ぶ地方もあります。社日は「一年に二回あり、春分と秋分に最も近い戊の...里山の石神端書272五神神名塔(埼玉県本庄市児玉町)

  • 里山の石神端書271 大魔羅(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・御嶽神社の大磨羅秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ御嶽神社があるというので訪ねみました。御嶽(みたけ)神社というので、木曽御嶽(おんたけ)ではなく奥多摩の御嶽神社を勧請したものかと訪ねたのですが、それは小さな敷地の小さなお宮で、脇に大きな男根石が鎮座していて、予想は大外れでした。案内によると、御嶽神社は「この地にある飯島一族の氏神様で、古くから子孫繁栄、夫婦和合の神様」ということでした。さらに「御神体は石棒で(略)その型にならってか、大小様々な石棒が人知れず奉納され(略)秋山の大魔羅と呼ばれている」とありました。お宮をのぞくと内部には小さな木の男根が沢山納められていました。案内には「あまりの多さに氏子が時折取り片付ける事もある」とも。肝心の石棒ご神体...里山の石神端書271大魔羅(埼玉県本庄市児玉町)

  • 里山の石神端書270 宝筐院陀羅尼経(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・日輪寺の宝篋印塔秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ日輪寺は真言宗の寺、境内に宝篋印塔のような石塔が立っていました。この塔、相輪はあるものの笠は宝篋印塔のものとは違う層塔や宝塔のような形です。二段構えの上塔身の四面に彫られた種字金剛界四仏(阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)が宝篋印塔であることを示しています。これに「宝篋印塔」銘でもあれば間違いなく宝篋印塔となるのですが……。宝篋印塔は宝筐印陀羅尼を納めるための塔で、鎌倉時代以降石塔の一つとして盛んに造立されました。江戸時代になると墓石としても造立され、形も変形を重ねてこの日輪寺のような宝筐印塔も登場しました。造立の目的は下塔身に刻まれています。「経曰若有有情能於此塔一香一華禮拝供養八十」「億刧生死重罪一時...里山の石神端書270宝筐院陀羅尼経(埼玉県本庄市児玉町)

  • 昭和の石仏写真館(166)川口市の寺社④

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社赤山城跡(赤山)赤山城址案内真乗院(石神)真乗院庚申塔・元禄三年(1690)真乗院庚申塔・宝暦七年(1757)宝蔵寺(西新井宿)庚申塔・元禄八年(1695)宝蔵寺庚申塔・寛政三年(1791)宝蔵寺庚申塔・文政三年(1820)源長寺(赤山)案内源長寺石仏源長寺庚申塔・正徳六年(1716)昭和の石仏写真館(166)川口市の寺社④

  • 里山の石神端書 千葉県南房総市千倉

    里山の石神端書264地蔵絡子(南房総市千倉の平磯)里山の石神端書265鯨塚(南房総市千倉の平磯)里山の石神端書266大日如来(南房総市千倉の千田)里山の石神端書267鯉(南房総市千倉の千田)里山の石神端書268風神雷神(南房総市千倉の大川)里山の石神端書269やぐら(南房総市千倉の大川)里山の石神端書千葉県南房総市千倉

  • 屋上菜園2024-03闘病日記24

    2月5日夜は八千代市も大雪となりました。屋上菜園は雪の綿帽子をかぶって暖かそうです。6日朝は長靴を履いて外に出ました。しかし雪かきをするカミさんを見ているだけでした。食道がん発病以後、体力はすっかり衰えてしまいました。*2月は抗がん剤副作用の口内炎で苦しみました。食べられるのはおかゆ・麺・パスタなど味が薄く柔らかいものだけ。中旬に担当医にお願いしてうがい薬を変えてもらいましたが、それも効果がなく、「抗がん剤を休みますか」との提案がありました。確かに治療を休むのが一番良い方法です。でもそうすると転移したリンパのがんがまた動き出してしまうのが心配。どちらを選ぶか?治療を選択ました。それにもかかわらず2月下旬のCT検査の結果、リンパのがんは増大、肝臓のがんも復活。口内炎に苦しんだ今回の抗がん剤の効果は無し、とい...屋上菜園2024-03闘病日記24

  • 里山の石神端書269 やぐら(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の大川・東漸寺のやぐら太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ大川の東漸寺の墓地奥の土手に穴を掘った〝やぐら〟のような形の墓地がありました。その中と周辺には江戸時代初期からの墓石が累々と重なっていて、墓石のオンパレード状態。やぐらであれば奥壁に五輪塔などの浮彫があるのですが、それは確認できませんでした。したがってこれをやぐらとすることはできませんが、房総のやぐらについて過去の資料から少し紹介します。やぐらは鎌倉時代の鎌倉に造られた山際の斜面を彫りくぼめて造った墓地。狭い土地の鎌倉で墓地を確保するために考え出された方法で、鎌倉だけで3000基もあるとされています。やぐらという名称について大三輪龍彦氏は『鎌倉のやぐら』(注)で、江戸時代初期の『新...里山の石神端書269やぐら(千葉県南房総市千倉)

  • 里山の石神端書268 風神雷神(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の大川・高塚不動の風神・雷神太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。高塚山には不動堂が建っていましたが、昭和の初めの火災で本尊不動明王は山麓の大聖院に下ろされたのは昭和36年。お堂内には、奈良時代に高塚不動を創建のした良弁(689~773)の開山縁起を描いた絵図18枚がかけられていました。良弁は奈良時代の僧。東大寺建立の僧として知られています。安房と縁が深いようで、鴨川の大山の開山も良弁となっています。もっとも良弁は相模の人で、丹沢の大山不動の開山者とされています。高塚不動・鴨川大山不動・丹沢大山不動の開山縁起の出だしは、良弁が赤子のときに鷲にさらわれたという件から始まります。鷲が向かった先が奈良、二月堂前の杉の木に引っかかっていたという設定です。今...里山の石神端書268風神雷神(千葉県南房総市千倉)

  • 昭和の石仏写真館(165)川口市の西光寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市戸塚の西光寺本堂山王二十一仏庚申塔・寛文二十年(1643)青面金剛庚申塔・宝永六年(1709)文字庚申塔・文政十三年(1830)念仏供養塔・慶安四年(1656)板碑・元享二年(1322)板碑・応永三十五年(1428)板碑・文明十年(1478)板碑・天正七年(1579)板碑・文禄五年(1596)昭和の石仏写真館(165)川口市の西光寺

  • 里山の石神端書267 鯉(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の千田・高皇産霊神社の木彫鯉太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。そのなかでひときわ高い山際に建つのが高皇産霊神社です。一直線の長い参道もこの神社の特徴。二の鳥居の扁額の神社銘は風化していますが、縁を飾る波などの文様はまだはっきり残っていました。扁額ばかりでなく、石造物の台座、寺社の向拝や欄間や柱に凝った意匠を凝らしたのが南房総(安房)の職人たちで、江戸時代末期には波の伊八、石工の武田石翁、宮彫りの後藤義光が安房の三名工として称えられました。三名工の一人後藤義光(1815~1902)は千倉の宮大工の家の生まれ。若いころは江戸の宮彫師の弟子となり、40代で安房に帰って仕事をしました。弟子の養成にも力を入れ、直弟子の後藤義信、後藤義久、後藤忠明、後藤兵...里山の石神端書267鯉(千葉県南房総市千倉)

  • 里山の石神端書266 大日如来(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の平磯・照明院の大日如来太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。真言宗の御本尊は大日如来。照明院の境内には3体の智拳印を結ぶ金剛界大日如来が座していました。いずれも円光を背にした丸彫りの大日です。房総ではときどき大日如来に出会いました。その一つが山に祀られた馬頭観音と対になった大日如来です。一石に馬頭と大日銘を刻した石塔もありましたから、対で祀ることが普通に行われていたと思われます。しかしどのような背景があっての造立かはわかりませんでした。参考になる例が伊豆半島の河津町にあります。『河津町の石像文化財』には大日と馬頭を並刻するものを8基報告されています。その目的は「天道大日に晴天を願い馬頭観音に馬の道中安全を願った」とあります。天道大日は農耕が始まる...里山の石神端書266大日如来(千葉県南房総市千倉)

  • 昭和の石仏写真館(164)川口の寺社②

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市観音堂(木曽呂)庚申塔・寛文十年(1670)真福寺(西川口)庚申塔・延宝八年(1680)妙蔵寺(根岸)妙蔵寺(根岸)庚申塔・延宝四年(1676)妙蔵寺(根岸)庚申塔・正徳四年(1714)妙蔵寺(根岸)庚申塔・享保十八年(1733)妙蔵寺(根岸)庚申塔①安永八年(1779)妙蔵寺(根岸)庚申塔②並木観音(並木)庚申塔・寛政十二年(18800)昭和の石仏写真館(164)川口の寺社②

  • 里山の石神端書265 鯨塚(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の平磯・長性寺の鯨塚太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ千田の長性寺を訪ねました。山門に子抱地蔵が座す長性寺、境内にブーゲンビリアの花が咲いていました。本尊は不動明王、拝見させてもらいましたら赤い憤怒の立像でした。鯨塚は本堂裏手のお堂入口に立つ宝篋印塔型の石塔で、「鯨塚/明治廿九年」銘。鯨は海からの漂着神。寄り神ともいわれた漂着物には、神像仏象をはじめ流木や貝や石までも、海からの恵みと考えて神仏として寺社に祀られました。千倉は和田などの南房総では漂着した鯨も仕留めた鯨も神として扱いました。南房総の太平洋側は昔から捕鯨が盛んな土地で、いまでも魚屋では鯨の肉やベーコンが売られています。かつては給食で鯨カツなどが出たそうですが、給食の経験がない...里山の石神端書265鯨塚(千葉県南房総市千倉)

  • 里山の石神端書264 地蔵絡子(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の平磯・観養寺の地蔵絡子太平洋に面した千倉の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ千田の観養寺を訪ねました。境内に入るとすぐ右手に阿弥陀如来、左手に地蔵菩薩が立っています。二尊とも整った像容で、地蔵の左肩には大きな絡子が彫られていました。絡子は袈裟の長さを調整する環で、主に禅宗の僧侶が使っています。袈裟は古代インドの僧侶の服。それはボロ布を集めて作ったことから糞掃衣(ふんぞうえ)、捨てられた布を綴り合わせて作ったことから衲衣(のうえ)とも呼ばれたと伝えられています。仏教が熱いインドから寒い北に伝わるにつれて、これを担った僧侶は必然的に分厚い服装になり、これに簡易な袈裟を着けるというスタイルに変わって、袈裟本来の意味は失われていきました。中国での袈裟はさらに装飾的...里山の石神端書264地蔵絡子(千葉県南房総市千倉)

  • 昭和の石仏写真館(163)川口市の吉祥院

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市南町の吉祥院六地蔵1六地蔵2五智如来・寛文十一年(1671)大日如来弘法大師庚申待(左)夜念仏(右)供養塔庚申待供養塔1・大永四年(1524)庚申待供養塔2夜念仏供養塔1・延徳二年(1490)夜念仏供養塔2昭和の石仏写真館(163)川口市の吉祥院

  • 里山の石神端書 千葉県長柄町

    里山の石神端書258龍頭(長柄町刑部)里山の石神端書259延命地蔵(長柄町田代)里山の石神端書260大杦大明神(長柄町田代)里山の石神端書261藪中の石仏(長柄町田代))里山の石神端書262神像(長柄町大津倉里山の石神端書263子安大明神(長柄町大庭)里山の石神端書千葉県長柄町

  • 里山の石神端書263 子安大明神(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の大庭・熊野神社の子安大明神長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。いま盗難防止のため山村の無住の寺社のほとんどは建物の扉を閉ざしてしまい、御本尊・御神体など拝めるところは皆無です。しかし境内に勧請された末社などは施錠されていないので、御本尊・御神体を拝めることがあり、ときには珍しい神仏に出会うこともあります。大庭・熊野神社でも珍しい出会いがありました。熊野神社の境内にある木祠には、「子安大明神」銘の下に女神が線刻された石塔が祀られていました。女神は日本神話に登場するような姿。不鮮明な線刻でハッキリしませんが、右手に木の枝を持ち、左手で赤子を抱いているように見えます。子安の本尊といえば仏像には子安観音があり、地蔵にも子を抱く姿があります。一方神像となると、櫛稲田姫命...里山の石神端書263子安大明神(千葉県長柄町)

  • 里山の石神端書262 神像(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の大津倉・大国主神社の神像長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。大津倉の大国主神社の入口にある木祠に「道祖神」の木札が納められていました。三木一彦氏の「房総半島における出羽三山信仰の浸透とその要因」(注)に「出羽三山への登拝は1~3週間をかけており、その間、家族は道祖神や地蔵に参詣して道中の無事を祈っていた」とあります。家族が出羽三山登拝中、留守をあずかる者は虫も殺してはならない、という話も聞きます。石段を登ると狛犬が迎えてくれます。胴長の狛犬です。神像は境内の隅にある木祠にあります。木祠に祀られた祭神は不明で、神像名も不明です。ほこりまみれで木彫かと思いましたが、触れてみると石像。冠をかぶり、袍を身につけた平安時代の朝服姿。手は笏を持つようになっていますが、笏は...里山の石神端書262神像(千葉県長柄町)

  • 昭和の石仏写真館(162)川口市の観福寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市前川の観福寺本堂仁王仁王庚申塔・元禄十三年(1700)庚申塔・享保六年(1721)庚申塔・元文三年(1738)庚申塔・寛政六年(1794)庚申塔・明治十一年昭和の石仏写真館(162)川口市の観福寺

  • 里山の石神端書261 藪中の石仏(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の田代・延命寺の藪中の石仏長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。田代の延命寺は鶴岡宅の庭を通った先にありますので、ご主人にご挨拶してから境内に入りました。本堂は寺院というより生活の臭いがする民家風の建物です。このお堂は鶴岡氏が管理していて扉を開けていただきました。本尊は地蔵菩薩で、寺が延命寺なので延命地蔵なのでしょう。鶴岡氏によると、本堂の左手にある崖に石仏が沢山あるとうのです。竹や雑木で覆われた崖で登るのは無理ですが、藪に手をかけ這い上がってみると、風化した二体の石仏が倒れていました。このような感じでいくつかの石仏が崖に倒れているようですが、詳細は不明です。境内に同じように風化した石仏が一体立っていました。如意輪観音です。房総の石で彫った石仏は風化が激しく、この...里山の石神端書261藪中の石仏(千葉県長柄町)

  • 屋上菜園2024-02闘病日記23

    この冬雪はないだろうとみていましたが1月13日の夕方降り、翌日屋上に上がってみると、雪が薄っすらと残っていました。*昨年12月から始めた抗がん剤の副作用で、湿疹が出てしまいました。暮れから正月にかけてビールを飲んだのも良くなかったようで、胸から腹にかけて湿疹で真っ赤。ビールは一年半ぶり。飲めば湿疹が悪化することは予測できましたが、久々に家族が全員集まったこともあり楽しく美味しくいただきましたから、納得の湿疹悪化でした。髪の毛が抜けはじめました。今回の抗がん剤の副作用として担当医から説明されていましたが、髪は長い友達ですからやはり抜けるのは寂しいものです。それでも半年前に坊主頭にしていましたら、さほど目立ちません。それより口内炎がひどくなってきて、ミカンも食べられません。ところで年末から新年にかけて、白血球...屋上菜園2024-02闘病日記23

  • 里山の石神端書260 大杦大明神(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の田代・稲荷神社の大杦大明神長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。田代の稲荷神社は小高い丘の上。ちんまりした社殿の祭壇を守ように狐が一対対峙していました。田代青年団が寄贈したふっくらとした狐です。境内の隅に隠れるように祀られていた石祠が「大杦大明神」です。「文化八年酉(1825)」造立。大杦の杦は杉の略字。大杦大明神は茨城県稲敷市阿波(あんば)にある大杉神社に違いなく、江戸時代にこの稲荷神社に勧請されたのでしょう。あんば様と称された大杉神社は、古来霞ヶ浦の岬にあった神社で漁民の守護神として祀られ、神仏習合の時代は不動明王を本尊とする安穏寺で、近世には航海の神として茨城から東北の東海岸沿いに信仰が広まった神です。宮城の気仙沼には安波山があり、大杉神社が祀られていまし...里山の石神端書260大杦大明神(千葉県長柄町)

  • 昭和の石仏写真館(161)川口の寺社②

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市薬林寺(朝日)阿弥陀如来飯塚路傍・猿田彦氷川神社(南町)庚申塔専称寺(上青木)庚申塔安楽寺(上青木)地蔵菩薩大信寺(前上町)大信寺(前上町)地蔵菩薩前川神社(前川町)前川神社・狛犬前川神社・狛犬前川神社・大山石尊大天狗昭和の石仏写真館(161)川口の寺社②

  • 里山の石神端書259 延命地蔵(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の田代・本光寺の延命地蔵長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。本光寺は曹洞宗の小さな寺、寺の先に石造物が並んでいました。そのなかに目立つのが地蔵菩薩と石幢です。地蔵菩薩には立像・坐像がありますが、坐像で左足を下に垂れた延命地蔵もあります。本光寺の地蔵は光背や両手が欠けていますが、形の整った延命地蔵です。延命地蔵は日本で生まれた姿とされていて、地蔵を頼る人はこの足を立ちあがるための一歩踏み出す姿と見ました。『日本仏像辞典』(注)では「延命地蔵の名はインド成立の経典に中にはなく、『延命地蔵経』は和製の偽経とされている」とあります。地蔵の信仰の一つは子供の健全は生育を願うもので、延命地蔵の立ち上がろうとする姿は、一時でも早く救済してくれると見えたはずです。「明和五戌子(...里山の石神端書259延命地蔵(千葉県長柄町)

  • 里山の石神端書258 龍頭(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の刑部・八重垣神社の龍頭(木彫)長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。初めに向かったのは八重垣神社。入口の案内に「元応2年(1320)村人たちは月川の神輿山に祠を建て、スサノオノ命をまつり氏神としたという。安永7年(1778)現在地に社殿を新築して移り、刑部天王宮と称し、刑部・立鳥・鴇谷三か村の鎮守となった。(略)明治元年八重垣刑部神社と改め、刑部一村の鎮守となった」とありました。天王宮の祭神は牛頭天王で、京都祇園・八坂神社の祭神。牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神。これがこの国では疫病除けの神・スサノオノ命の垂迹として祀られてきました。これが明治維新の廃仏毀釈で仏教系の牛頭天王はスサノオノ命になりますが、八重垣神社の祭神の変化をみると、この国の祭神名変遷の様子が...里山の石神端書258龍頭(千葉県長柄町)

  • 野田市の庚申塔

    石田年子令和6年1月、飯島印刷サービス石田年子氏から『野田市の庚申塔』をいただきました。野田市は中世の庚申板碑から近世初期の青面金剛の庚申塔などが残り、庚申信仰の研究には欠かせない地域です。この野田市にお住まいの石田氏は早くからこの庚申塔に関心を寄せ、また千葉県立関宿城博物館調査協力員としてこの地域の石造物調査に取り組み、これまで多くの調査報告・論考を発表してきました。そして今回、ライフワークとしていた野田市の庚申塔を、1基ずつ所在地や銘文などのデータと写真でまとめ上げました。その数819基という膨大な資料です。【解説野田市の庚申塔】1野田市庚申塔の歴史2野田市庚申塔の概要3庚申塔の諸相4野田市の初期庚申塔一覧表/延宝期迄【野田市地区別庚申塔調査報告】【付記庚申塔一覧表】野田市の庚申塔

  • 里山の石神端書 日光市栗山村

    里山の石神端書252道標(日光市旧栗山村大笹峠)里山の石神端書253懸仏(日光市旧栗山村土呂部)里山の石神端書254石幢(日光市旧栗山村日向)里山の石神端書255二宮金次郎(日光市旧栗山村日向)里山の石神端書256狐(日光市旧栗山村日向)里山の石神端書257大日如来(日光市旧栗山村野門)里山の石神端書日光市栗山村

  • 里山の石神端書257 大日如来(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)野門の栗山東照宮栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村から外にでるには鬼怒川沿いに川治へ、山越えは黒部から大笹峠を越えて日光・今市へ、野門から富士見峠を越えて日光に出る道がありました。野門には大山栗山東照宮があります。境内にある案内によると、野門は江戸時代に日光御神領戊となり、辰戦争のときには富士見峠の戦いに駆り出され2名の死傷者を出しています。さらに幕府・会津方は日光東照宮境内の由緒宿坊に祀ってあったと思われる男体山三社神体(男体山・女体山・太郎山)と徳川公の御神体を野門集落に避難・移し祀り、これが野門東照宮の始まりとされています。大日如来は野門東照宮の脇、野門に古くからあった大山祇神社の境内奥に座しています。髪を観音風に結った智...里山の石神端書257大日如来(栃木県日光市旧栗山村)

  • 里山の石神端書256 狐(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)日向・男体山神社の狐栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村の神社を見ると、それぞれの集落に薬師堂が建ち、石造物も日光に関係する神仏がありました。日向の男体山神社もその一つで、おそらく墓碑だと思いますが五輪塔二基を一石に彫ったものなどは日光周辺でよく見られる古いものです。青面金剛の庚申塔は日光型ではない一般的なもの。文字庚申塔もありました。男体山神社も日光を代表する山ですから、その裏山の先にある栗山の男体山神社入口に「男体山/文化五辰(1808)」銘の石燈籠が立っているのは自然な成り行き。「聖徳太子」銘石塔もありました。狐は日光とは関係ありませんが、男体山神社に登る石段脇の石祠群のなかに、石祠を挟むような形の狐一対が藪のなかにひそんで...里山の石神端書256狐(栃木県日光市旧栗山村)

  • 昭和の石仏写真館(160)川口市の吉祥寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市末広の吉祥寺恵比寿大黒天毘沙門天吉祥天寿老人福禄寿布袋昭和の石仏写真館(160)川口市の吉祥寺

  • 里山の石神端書255 二宮金次郎(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)日向・子安地蔵堂前の二宮金次郎栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。その中の日向は大きな集落で、廃校になった小学校の前に子安地蔵堂が建っていました。平成元年に建てられたお堂ですが、堂内に「昭和七年」の寄進者名簿板がありますので、昔からあったお堂のようです。扉を開くと正面仏壇には5体の石仏が並んでいます。しかしどれも赤い頭巾と前掛けをしてあって尊名はわかりませんが、正面の地蔵の前掛けから子供の頭が飛び出していますから、これが本尊子安地蔵なのでしょう。他の石仏は運び込まれたという印象です。昔は頭巾などすべて外して調べたものですが、最近は病のためその元気はありません。廃校小学校の片隅に二宮金次郎の像が立っていました。薪を背負い本を読んでいる...里山の石神端書255二宮金次郎(栃木県日光市旧栗山村)

  • 里山の石神端書254 石幢(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)日向・薬師堂の石幢栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。日向の野尻は栗原村の東の入口で、集会所の奥に薬師堂が建っていました。その脇の石幢は、周辺の道路工事の折に集められたものと、集会所に集まっていた女性から教えていただきました。女性の話では、栗山村には集落ごとに薬師堂があり、今も信仰が続いているとのこと。石幢は4基。その中の一基には「天文二年(1533)」銘と日光市教育委員会の案内があります。天文は中世末期、戦国期の造立で、龕部の六地蔵は古風な像容です。ところで天文二年は癸巳となりますが、この石幢は「丁酉」となっていて干支からすると「天文六年」になります。他の石幢は「文政九年(1826)」「安政四年(1857)」銘がありました。中世の...里山の石神端書254石幢(栃木県日光市旧栗山村)

  • 昭和の石仏写真館(159)川口市の光音寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市領家光音寺日待供養塔庚申塔・元禄三年(1689)板碑板碑・文明五年(1472)板碑板碑・歴応三年(1340)板碑板碑昭和の石仏写真館(159)川口市の光音寺

  • 里山の石神端書253 懸仏(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)土呂部・瀧尾神社の懸仏栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。栗山村でも土呂部(どろぶ)は山間の標高900メートルの盆地にある集落。気象観測所があり、冬になると関東の最低気温測定地として天気予報に土呂部の名が登場します。黒部ダムから街道を離れて、石仏が並ぶ先が土呂部への道。土呂部集落の奥にあるのが廃校になった小学校の跡地に建つ公民館。その脇に瀧尾神社が建っています。参道脇に木祠が10、石祠が3並び、石段を上った先に瀧尾神社。神社は小さな木祠。その中に納められているのが阿弥陀如来の懸仏。公民館に隅に立つ案内には「青銅の板を打ち出したもので、直径29センチの円形の掛仏には、寛政九年(1797)の記載があり、県内でも工芸的にも大変貴重なもので...里山の石神端書253懸仏(栃木県日光市旧栗山村)

  • 2024年石仏写真展

    日本石仏協会2024年石仏写真展期日1月17日(火)~22日(日)会場東京都千代田区一番町25JCBビル地下1F日本カメラ財団JCⅡクラブ25フォトサロン最寄駅東京メトロ半蔵門線・半蔵門駅④出口*偏平足の作品「薬師堂の石幢」栃木県日光市野尻(栗山村)薬師堂の石幢Ⅰ薬師堂の石幢Ⅱ師堂の石幢Ⅲ2024年石仏写真展

  • 里山の石神端書252 道標(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)上栗山・大笹峠の道標栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村から外にでるには鬼怒川沿いに川治へ、山越えは黒部から大笹峠を越えて日光・今市へ、野門から富士見峠を越えて日光に出る道がありました。いま大笹峠一帯は牧場となり、日光から車道も峠の北になる黒部集落まで通じています。その峠に石仏が二体、車道脇に鎮座していました。いずれも頭部が新しく差し替えられた石仏で如来か菩薩風で尊名はわかりません。一つの石仏は道標を兼ねたもので、台座は「右ゆにし/黒部/土呂部左可わまた/上栗山/野門」と刻されていました。右は湯西川へは、黒部から土呂部を通るという意味でしょうか。土呂部は冬の天気予報で関東の最低気温の観測地としてよく報じられる集落です。台座側面に「...里山の石神端書252道標(栃木県日光市旧栗山村)

  • 屋上菜園2024-01闘病日記22

    2024年、明けましておめでとうございます。キヌサヤの成長が例年になく早く、つるを伸ばしてきたので、ネットを張ってやりました。12月初めに蒔いた小松菜は、芽がでませんでした。野菜の種には発芽時期があり、それ以外に蒔いても芽がでないというのが常識で、いい加減な屋上菜園ですからまだ間に合うだろうと非常識なことをしますので、ときどき失敗します。*食道がん・ステージ4の抗がん剤治療も2年目。無事、新年を迎えることができました。12月初めにインフルエンザ、中旬に6回目の新型コロナワクチンの接種をしました。いまさらという感じもありますが、抵抗力のない身体だし、外にも出たいし、もう少しやりたいことがあるので接種しました。そして、12月中旬のCT検査では食道あたりのリンパに転移したがんが大きくなっているとのこと。抗がん剤...屋上菜園2024-01闘病日記22

  • 里山の石神端書 栃木県茂木町

    里山の石神端書243奥山念仏供養塔(茂木町飯)里山の石神端書244七福神(茂木町飯)里山の石神端書245正徳太子(茂木町下飯)里山の石神端書246奥山念仏塔(茂木町下飯)里山の石神端書247墓碑・良秀(茂木町小山)里山の石神端書248千人供養塔(茂木町木幡)里山の石神端書249石仏群(茂木町木幡)里山の石神端書250稲穂(茂木町北高岡)里山の石神端書251念仏塔(茂木町北高岡)里山の石神端書栃木県茂木町

  • 里山の石神端書251 念仏塔(栃木県茂木町)

    茂木町北高岡・安楽寺の念仏塔茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。丈六の阿弥陀如来が本尊の安楽寺。丈六は1丈6尺(約485センチ)です。寺の案内では、阿弥陀如来坐は「頭部、仏身に鎌倉時代末期の特色を残しており、表情が温容で全体の形も優美であり、像高で273㎝は、県内最大級のぶつぞうものです」とあります。町の案内には「丈六とは身の丈が一丈六尺(484㎝)あるという意味で坐るとその半分の八尺(273㎝)になる」とあります。とにかく釈迦の身の丈が丈六とされていましたので、仏像は丈六が理想で、坐像は半分の八尺としたようです。丈六の阿弥陀は本堂が施錠されて見ることは叶いませんでした。境内には「南無阿弥陀仏」の名号塔が散...里山の石神端書251念仏塔(栃木県茂木町)

  • 里山の石神端書250 稲穂(栃木県茂木町)

    茂木町北高岡・日枝田の神神社の稲穂茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。北高岡の日枝田の神神社は小高い山の上。境内に「日枝神社/明神神社/合祀記念」銘の石碑が立っています。二社合わせて日枝田の神神社になったようで、木に竹をついたような名称は、合祀にあたっていろいろあったのでしょう。境内入口に東屋風の建物の下に手水石があり、その脇に稲穂を線刻した自然石がありました。初めて見る稲穂だけの石造物です。稲穂といえば稲穂をかついて狐に乗る稲荷もありますが、稲穂だけでは何の神かわかりません。ところが東屋内のある奉納の板に「手水石」と並んで「豊饒石」と墨書きされていました。養蚕の神として蚕種石(こだねいし)がありますが、豊...里山の石神端書250稲穂(栃木県茂木町)

  • 里山の石神端書249 石仏群(栃木県茂木町)

    茂木町木幡・路傍の石仏群茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。芳賀富士の東山麓、木幡の道端に石仏が纏められていました。「勝善神」「聖徳太子」「廿三夜塔」「馬頭観音」「馬頭尊」「出羽三山供養塔」などすべて文字塔です。勝善神は馬の供養塔。「出羽三山供養塔」はじめ、これまでも見てきた神仏です。このなかで気になるのは「出羽三山供養塔」。頭に胎蔵界大日の種字アーンク、その下中央に湯殿山、右に月山左に羽黒山の文字塔です。紀年銘はありませんが、中央が湯殿山なので明治時代以前の石塔です。この石塔は前にも別の場所で見ていて、地元の人に尋ねても出羽三山の信仰はなかったということでした。別の場所から運んできたとは思えないし、木幡で...里山の石神端書249石仏群(栃木県茂木町)

  • 昭和の石仏写真館(158)川口市の寺社①

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市氷川神社(川口)氷川神社・八大龍王庚申堂(本町)庚申堂・庚申塔正覚寺(元郷)正覚寺正覚寺・庚申塔正覚寺・魚籃観音随泉寺(元郷)随泉寺・閻魔王昭和の石仏写真館(158)川口市の寺社①

  • 里山の石神端書248 千人供養塔(栃木県茂木町)

    茂木町木幡・慈眼寺の千人供養塔茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。浄土宗慈眼寺の境内に阿弥陀如来が線刻された大きな供養塔が立っています。阿弥陀は立像で上品下生(じょうぽんげしょう)の印。阿弥陀には上品・中品・下品と上生・中生・下生を組み合わせた九品の印があります。死者を極楽浄土に迎える方法が9つあるという経典(観無量寿経)から生まれた考えで、生前の行いに応じて迎え方が異なるということです。側の案内には、寛政九年(1797)に慈眼寺二十二世良悟上人が造立したもので、裏面に供養した千人の戒名がきざまれているとあります。しかし昭和20年代に無住となって壊滅状態になった寺を、平成6年に檀徒の人々により阿弥陀堂が建立...里山の石神端書248千人供養塔(栃木県茂木町)

  • 里山の石神端書247 墓碑・良秀(栃木県茂木町)

    茂木町小山・高雄神社の三峰都法良秀大徳墓碑茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。鳥居に高雄大明神の扁額がある高雄神社。その境内入口の石仏群は周辺から集められたような印象です。そのなかに、頭に種字アに続いて「三峰都法良秀大徳」銘の石塔があります。種字アは真言宗の墓碑によく使われます。三峰は秩父の三峯山でしょうか、それとも多くの山という意味でしょうか。都法良秀は戒名で、大徳は僧侶のことで僧の戒名にも使われます。したがって「三峰都法良秀大徳」は墓碑ということになりますが、どうでしょうか。この場所には他にも「聖徳太子」「二十三夜供養塔」「種字サク(勢菩薩)二十三夜九供養塔」地蔵菩薩立像、地蔵菩薩坐像などもあり、集落の...里山の石神端書247墓碑・良秀(栃木県茂木町)

  • 昭和の石仏写真館(157)川口市の錫杖寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市本町の錫杖寺本堂庚申塔・享保十天(1725)庚申塔・安永四年(1775)庚申塔・文政二年(1810)十三仏①十三仏②十三仏③十三仏④昭和の石仏写真館(157)川口市の錫杖寺

  • 里山の石神端書246 奥山念仏塔(栃木県茂木町)

    茂木町飯の下飯・路傍の奥山念仏塔茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。路傍や山の裾野などに小規模の墓地があるのは、この国の山村ではよく見かける風景です。集落あるいは同族で造った小規模の墓地で、御堂などを建てたところもありますが、僧侶はいません。旅の僧が留まったなどの話を聞くこともあります。下飯の奥山念仏塔がある場所も小規模な墓地の入口でした。丸彫りの地蔵菩薩、子安地蔵大菩薩・奉廿三夜供養塔・三界満霊塔の文字塔が並ぶなかに奥山念仏塔がありました。石塔上部に胎蔵界大日の種字アーンク、その下に日輪月輪、そして「奉供養奥山念佛」とあります。造立は明和四年(1767)。茂木町の奥山念仏塔は中飯の逆川招魂社脇の墓地にもあ...里山の石神端書246奥山念仏塔(栃木県茂木町)

  • 里山の石神端書245 正徳太子(栃木県茂木町)

    茂木町飯の下飯・八幡神社の正徳太子茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。下飯を見下ろす高台に建つ八幡神社の境内に正徳太子供養塔があります。石塔の頭に日輪月輪があり「南無正徳太子尊/天明四甲辰歳(1784)/飯村下中/講中二十六人」銘が刻されています。これは正徳太子を守護神とした講の集まり、太子講26人が造立したものです。この26人がどのような職業の人たちかは不明ですが、太子講を組織したのは木挽・大工・左官・鍛冶・畳・石工・樵などを生業とした人たちでした。講を作り祭日を決め、賃金や仕事の申し合わせなどを行ったようです。正徳太子が職人の守護となった経緯は不明ですが、大工などは太子が曲尺を作った人という説があります...里山の石神端書245正徳太子(栃木県茂木町)

  • 昭和の石仏写真館(156)川口市の善光寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市船戸町の善光寺六地蔵猿田彦阿弥陀如来板碑板碑板碑馬頭観音馬頭観音馬頭観音昭和の石仏写真館(156)川口市の善光寺

  • 里山の石神端書246 七福神(栃木県茂木町)

    茂木町飯・中飯の慶翁寺恵比寿大黒天毘沙門天弁才天福禄寿寿老人布袋茂木町は茨城県に接する栃木県の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。慶翁寺は曹洞宗の寺。禅宗系のお寺は質素を旨としますから、石造物などは少ないのですが最近ではそうでもなく、慶翁寺の境内には新しい石仏、釈迦如来や子抱地蔵などは造立されていました。七福神もその一つで、簡単な像容の神仏が並んでいました。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書246七福神(栃木県茂木町)

  • 里山の石神端書245 奥山念仏供養塔(栃木県茂木町)

    茂木町飯・中飯の逆川招魂社脇の墓地茂木町は茨城県に接する栃木県南西部の町。茨城県筑西市から茂木町を結ぶ真岡鉄道の終点町でもあります。街の中央を流れる逆川流域の寺社を訪ねました。奥山念仏供養塔があるのは飯の逆川招魂社脇の墓地入口。地蔵の先に「子安地蔵大菩薩「奉待廿三夜塔」「三界萬霊塔」と並んで立っています。その姿は頭上に種字胎蔵界大日の種字アーンクと日輪・月輪、その下に「奥山念仏供養塔」と刻されています。奥山はどこの山を指しているのか。茂木町に問合せていますが、今もって返事はありません。茂木町に限らず石造物の問い合わせは、返事がくることはほとんどありません。思うに、頭上の大日如来は出羽三山、日月輪は念仏講の印。したがって、出羽三山の集まり(講)が開いていた念仏講と判断したいところです。しかし、幾人かの古老に...里山の石神端書245奥山念仏供養塔(栃木県茂木町)

  • 里山の石神端書 福島県いわき市遠野町

    里山の石神端書233三界萬霊塔(いわき市遠野町川堀)里山の石神端書234仙台四郎(いわき市遠野町稲荷林)里山の石神端書235大曼荼羅(いわき市遠野町富岡)里山の石神端書236東堂山(いわき市遠野寺ノ代)里山の石神端書237廣作仏事(いわき市遠野早川)里山の石神端書238神馬(いわき市遠野大藪)里山の石神端書239湯殿山(いわき市遠野町白坂)里山の石神端書240念仏地蔵(いわき市遠野町中妻)里山の石神端書241帰依三宝塔(いわき市遠野町横道)里山の石神端書242男根(いわき市遠野町)里山の石神端書福島県いわき市遠野町

  • 昭和の石仏写真館(155)所沢の西国三十三所観音③

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県所沢市(場所不明)(観音名は札所寺の本尊としたが、いくつかの石仏は本尊と違っている)第23番千手観音第24番十一面観音第25番十一面観音第26番聖観音第27番如意輪観音第28番聖観音第29番馬頭観音第30番千手観音第31番千手・十一・聖観音第32番千手観音第33番十一面観音昭和の石仏写真館(155)所沢の西国三十三所観音③

  • 野の仏の風景

    中野高通2023年11月、青娥書房、1760円中野高通氏から「野の仏の風景」をいただきました。東京生まれで東京育ちの少年が、夏冬に過ごした父の田舎・佐賀で石仏に出会い、石仏と会話した思い出。石仏の本との出会い。大人になってその記憶をもとに調査して、多くの写真とともにまとめたのがこの「野の仏の風景」。石仏調べの原点を教えてくれる一冊です。【石仏追懐】我流石仏の楽しみ方佐賀の石仏ノート銀杏こどもの頃の記憶を辿って―庚申塔二基鮎返り(やぎゃい)の滝へ―里山の秘仏探訪記肥前狛犬出会いの記「多久の肥前狛犬展」見学記【石仏点描】お白石持ち行事多良岳の役の行者像白塔の観音様猿と狛犬忘れられた磨崖仏帰ってきた肥前狛犬古渡天満宮の磨崖獅子大村市福重地区に線刻仏と仏頭石青木磨崖梵字群小江の赤観音ししこま様立石観音磨崖仏【石仏...野の仏の風景

  • 屋上菜園2023-12闘病日記21

    秋になるのが遅く植え時を心配したタマネギ、ニンニク、キヌサヤでしたが元気に育っています。*11月中旬のある日の午後、突然体が震えて高熱が出ました。熱をはかると38.7度。この日の午後は新型コロナワクチン接種を予約していたので、これをキャンセル。診察してもらうべく近くの内科医を探しましたが見つからなかったので、抗がん剤治療を受けているがん研究センターの治療者用ホットラインに連絡して、すでにいただいている薬のなかの抗生物質薬の指示をいただきました。同時に新型コロナとインフルエンザの検査も受けてという指示。薬が効いたのか夜には平熱に下がりました。その夜にネットで探したコロナ&インフを検査する抗原検査キットを注文。これが翌日の午前中に届いて早速検査をした結果、やり方が悪かったのか何の反応もありませんでした。後日行...屋上菜園2023-12闘病日記21

  • 里山の石神端書242 男根(福島県いわき市遠野)

    いわき市遠野町横道・諏訪神社の男根いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街の西外れに建つ諏訪神社の境内に男根を祀る屋根がけされた末社があります。男根のなかに昭和六十二年の墨書きがありますから、少なくとも40年前まで信仰があったようです。どのような信仰かはわかりませんが、この形の神に願う一つは子授けですから、この諏訪神社の末社は男根も子授けを担った神と想像します。『道祖神の源流』(注1)には、「いわき市遠野地区では、昭和40年頃まで、旧暦6月15日の天王祭りにニンギョウサマと呼ばれる藁人形を作っていた。(略)ニンギョウサマは、ムラ全体で作るものと各家で作るもので大きさの違いがあるものの、作り方はほぼ同様で形状は杉の葉をさして鎧を着たようにし、刀をもたせて武者姿に作っ...里山の石神端書242男根(福島県いわき市遠野)

  • 里山の石神端書241 帰依三宝塔(福島県いわき市遠野)

    福島県いわき市遠野町横道・上遠寺の帰依三宝塔いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街の西外れに建つ上遠寺の山門に「不許葷酒入山門」銘の結界石が立っています。境内には「帰依三宝塔」の供養塔。帰依三宝は仏法僧の三宝にすがります、仏教徒になりますとう意味です。「花元童女/根岸村施主加茂之助/白室一露信女/享保十一丙午天(1726)」銘がありました。想像するに、出産のとき亡くなった母子を一緒に供養したのでしょうか。仏式葬儀を始めるに当たってまず戒名をいただくことは今も行われているもので、江戸時代に檀徒制度ができて庶民にも広まったとされています。それを裏付ける一つが高野山の清浄心院に保存されている「供養帳」です。中世のころから高野山では、地方に出掛けて高野山での死者の追善供...里山の石神端書241帰依三宝塔(福島県いわき市遠野)

  • 昭和の石仏写真館(154)所沢の西国三十三所観音②

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県所沢市(場所不明)(観音名は札所寺の本尊としたが、いくつかの石仏は本尊と違っている)第12番千手観音第13番如意輪観音第14番如意輪観音第15番十一面観音第16番千手観音第17番十一面観音第18番如意輪観音第19番千手観音第20番千手観音第21番聖観音第22番千手観音昭和の石仏写真館(154)所沢の西国三十三所観音②

  • 里山の石神端書240 念仏地蔵(福島県いわき市遠野)

    福島県いわき市遠野町大藪・大藪山観音堂いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街道から北に外れた中妻の西光寺に地蔵菩薩があります。地蔵には「念仏供養/延享四丁卯(1747)」銘があり、首から鉦のようなものを下げています。よく見ると地蔵にしては錫杖も宝珠もなく、念仏行者風でもあります。寺は無住でこの石仏の情報はありませんが、鉦のようなものを持つ姿から想像を膨らますと、この地方のお盆の行事の〝じゃんがら〟を思い出します。じゃんがら念仏踊りと称されているこの行事はいわき市やその周辺町村でも行われているもので、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら集落の新盆の家を中心に供養して回る踊念仏の一つです。この遠野にもじゃんがら念仏があります。その起源は不明ですが、一説に佑天上人が始めたものと...里山の石神端書240念仏地蔵(福島県いわき市遠野)

  • 里山の石神端書239 湯殿山(福島県いわき市遠野)

    福島県いわき市遠野町白坂・愛宕神社の湯殿山いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街道から北に外れた石坂の愛宕神社の入口に「萬延元年(1860)」造立の「湯殿山」供養塔が立っています。高さ130センチの大きな石に刻されたこの形が東北の出羽三山信仰の供養塔です。その多くは頭に胎蔵界大日如来の種字アーンクが入っていますが、愛宕神社に石塔にはありません。ちなみに関東の出羽三山供養塔は「月山/湯殿山/羽黒山」と三山を一石に刻したものが一般的です。この違いは出羽三山に参拝するコースに関係があります。東北とくに南部の道者は距離が短い月山の南側の登山口になる大井沢や本道寺から入り、湯殿山だけ巡って羽黒山までは行かなかい道者もあったようです。一方関東南部の道者は山形から船で最上川を...里山の石神端書239湯殿山(福島県いわき市遠野)

  • 昭和の石仏写真館(153)所沢の西国三十三所観音①

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県所沢市(場所不明)第1番如意輪観音第2番十一面観音第3番千手観音第4番千手観音第5番千手観音第6番千手観音第7番如意輪観音第8番十一面観音第9番不空羂索観音第10番千手観音第11番准胝観音昭和の石仏写真館(153)所沢の西国三十三所観音①

  • 里山の石神端書238 神馬(福島県いわき市遠野)

    福島県いわき市遠野町大藪・大藪観音堂いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街道から北に外れた大藪に観音堂があるので訪ねました。集落外れの小さな森のなかにある観音堂は、幅のひろい立派な石段から始まります。その先に建つ観音堂は石段とは比べようもないちんまりしたお堂。先の地震の影響でしょうか、土台が傾き、御堂も歪んでいます。なかを覗くと木製の白馬がこちらを見ていました。大藪の観音はこの地方の馬の守り神として知られ、その信仰が盛大であったことを示しているのが立派な石段のようです。石段を見ると、石段の脇を抑えている袖石の所々に奉納者の名が刻されているのがあります。地名と名前が一緒になったこの袖石は高額の奉納をした人たちなのでしょうか。お堂裏に青面金剛の庚申塔が倒れていました...里山の石神端書238神馬(福島県いわき市遠野)

  • 里山の石神端書237 廣作仏事(福島県いわき市遠野)

    福島県いわき市遠野町早川・湯殿山神社の廣作事仏いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街道から北に外れた早川に湯殿山神社が建っています。参道入口の階段脇に立つ「廣作仏事宝塔」銘の石塔が目にとまりました。頭には阿弥陀如来の種字キリークが刻されています。「廣作仏事」の廣作の意味はよくわかりませんが、仏教の精神に基づいて宝塔を造立しましたということでしょうか。「宝暦(1751~)」銘も読みとれます。近くに法塔があるかと探しましたが、これは見つかりませんでした。湯殿山神社なので、出羽の湯殿山系の神社と思いましたが、それらきし石造物もありません。福島県神社庁の資料によるとこの湯殿山の祭神は大山祇神で山の神のようで、いつのころか湯殿山から山の神に変わったようです。立派な石段を登...里山の石神端書237廣作仏事(福島県いわき市遠野)

  • 昭和の石仏写真館(152)所沢・多門院

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県所沢市中富の多門院鬼の念仏虎の狛犬Ⅰ虎の狛犬Ⅱ勝軍地蔵地蔵菩薩Ⅰ地蔵菩薩Ⅱ昭和の石仏写真館(152)所沢・多門院

  • 里山の石神端書236 東堂山(福島県いわき市遠野町)

    福島県いわき市遠野町寺ノ代・妙光寺の東堂山いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。東堂山の供養塔がある妙光寺は街道から離れた山の中にあるいわき七福神の毘沙門天の寺。平安時代に筑波から磐城に入り、会津に落ち着いた徳一(生没不明)開山とされている寺です。本堂の左手奥に建つのが東堂山のお堂。お堂の前には「東堂山」の石塔も立っていました。東堂山は御斎所街道から少し北に離れた小野町にある、馬の信仰で阿武隈南部の広い地域で信仰された寺です。この地域には「東堂山」銘の石塔があることも知られています。東堂山も徳一を開山とした満福寺。馬の信仰で知られた東堂山がいま人気になっているのがこの寺の観音堂奥に並ぶ羅漢石仏で、奉納者自身が造った石仏です。昭和60年ごろから始まったこの自作羅漢奉...里山の石神端書236東堂山(福島県いわき市遠野町)

  • 里山の石神端書235 大曼荼羅(福島県いわき市遠野)

    福島県いわき市遠野町富岡・蓮浄寺の大曼荼羅いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。街道から離れた山沿いの日蓮宗蓮浄寺に大曼荼羅の石塔が立っていました。中央に「南無法蓮華経」、その左右に「南無多宝如来/南無釈迦如来」、さらに左右に「南無上行無辺行菩薩/南無浄行安立行菩薩」銘が並びます。これを大曼荼羅と称しています。造立は「安永四未(1775)」。下部に「法界」銘。他に「題目千部塔」もありました。大曼荼羅は法華経の世界を仏名で描いた法華曼荼羅の一つ。法華経に説かれた如来・菩薩・明王・天の仏を漢字や梵字で記しています。そのなかの従地湧出品十五に説かれた四菩薩が上行菩薩・浄行菩薩・無辺行菩薩・安立行菩薩。仏道修行をする人の根本的な総願としてあげられる「四弘誓願(しぐせいがん...里山の石神端書235大曼荼羅(福島県いわき市遠野)

  • 屋上菜園2023-11闘病日記20

    ホームセンターの苗の販売は早い傾向があり、グズグズしていると売り切れになってしまいます。本来ならもう少し気温が下がってから植えた方が安定するようですが、今年もせかされる様に10月中旬にタマネギとニンニク買ってきて植えました。*二週間に1回3日間の抗がん剤点滴もたいぶ慣れてきました。点滴の日は朝6時前に車で家を出ます。病院までは30キロ約1時間。病院到着後すぐ早朝採血の順番札を取って7時30分から始まるのを待ちます。早朝採血は少しでも早く治療に入れるための病院が用意しているプログラムで、担当医に申告しておきますが人数制限があります。採血は5分ほどで終了。この解析結果が出る1時間後にはデータが担当医に届き、9時前後に診察。データによる点滴薬の量の指示が点滴治療の部署に届き、9時30分~10時に点滴が始まります...屋上菜園2023-11闘病日記20

  • 里山の石神端書234 仙台四郎(福島県いわき市遠野)

    福島県いわき市遠野町稲荷林・稲荷神社の仙台四郎いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。稲荷神社入口の土手に「正徳太子」「石尊社」「飯豊山」の文字塔があります。境内隅に建つお堂の扉を開けると、祭壇脇に20センチぐらいの小さな木彫坐像がありました。縞模様の着物を着て腕組みする坐像。これは主に仙台で祀られてきた〝仙台四郎〟と呼ばれている商売の神様です。座った膝小僧の間に見える丸いものは男根です。いつのころからかこの姿になったかは不明ですが、これも仙台四郎像の特徴です。仙台四郎(1855ごろ~1902ごろ)は江戸時代末期から明治かけて実在した人物で、仙台の商売の神・福の神として写真や人形で店先に祀られている人神です。稲荷神社のお堂の名称はわかりませんが、仙台四郎はだれかが持...里山の石神端書234仙台四郎(福島県いわき市遠野)

  • 里山の石神端書233 三界萬霊塔(福島県いわき市遠野)

    福島県いわき市遠野町川堀・観音堂の三界萬霊塔いわき市の遠野は、いわき市の湯本と内陸部の石川町を結ぶ御斎所街道にある山間の街。御斎所は遠野町にある御斎所山からの命名だそうで、このブログの石仏177御斉所山で案内しました。御斎所街道から北には外れた山裾に建つ観音堂。境内入口にそびえるイロハ楓の巨木が目印です。農作業をしていた男性の話では、御堂本尊の観音は戦後2度盗難にあい、そのたびに造り直したそうで、いまは施錠されて本尊は拝観できません。境内隅に「三界萬霊塔」に立っています。上部に刻された種字は阿弥陀如来(キリーク)、勢至菩薩(サク)、観音菩薩(サ)の阿弥陀三尊。「三界」は欲界(淫欲、食欲のはなはだしい世界)・色界(欲界ほどではないが色を有する世界)・無色界(精神のみが存在する世界)、萬霊はこの世の生命あるも...里山の石神端書233三界萬霊塔(福島県いわき市遠野)

  • 昭和の石仏写真館(151)所沢・狭山不動寺②

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県所沢市上山口の狭山不動寺昭和の石仏写真館(151)所沢・狭山不動寺②

  • 里山の石神端書 山梨県丹波山村・青梅街道

    里山の石神端書223太子堂(東京都奥多摩町青梅街道)里山の石神端書224姫の石観音(東京都奥多摩町小留浦)里山の石神端書225不生位(山梨県丹波山村)里山の石神端書226大日・馬頭(山梨県丹波山村)里山の石神端書227大六天(山梨県丹波山村)里山の石神端書228一石六地蔵(山梨県丹波山村)里山の石神端書229光明真言塔(山梨県丹波山村)里山の石神端書230良円和尚(山梨県丹波山村)里山の石神端書231木花開耶姫神(山梨県丹波山村)里山の石神端書232双体像(山梨県丹波山村)里山の石神端書山梨県丹波山村・青梅街道

  • 里山の石神端書232 双体像(山梨県丹波山村)

    山梨県丹波山村丹波・宝蔵寺の双体像甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波の宝蔵寺に双体像があります。丹波川を背にして建つ宝蔵寺は真言宗。境内に「百万遍供養」銘の供養塔、大日如来、阿弥陀如来が座っています。双体像があるのは境内裏、宝蔵寺の住職が無縁仏を集めた場所という一角です。首のない地蔵などとともに2体の双体像がありました。2体とも風化していますが、僧形の顔ははっきり残っています。一見道祖神と間違いそうですが、これは墓石だと思います。戒名などはありませんが、寺院の無縁仏場にあること、奥多摩や山梨の塩山地方は双体道祖神は少ないことなどから、墓石と判断しました。山梨の墓石を見ると、戦国末期から武家の墓に五輪塔を納めた石祠型墓石が登場し、近世初頭には庶...里山の石神端書232双体像(山梨県丹波山村)

  • 里山の石神端書231 木花開耶姫神(山梨県丹波山村)

    山梨県丹波山村奥秋・子之神社の木花開耶姫神甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった秋山の子之神社に「磐長姫/木花開耶姫神/角行/食行/霊」銘の富士信仰石塔が立っています。中央が木花開耶姫神で富士信仰の中心になる神です。磐長姫は木花開耶姫神の姉。二人とも大山津見神の娘で、日本神話では美形の木花開耶姫神に対し醜い磐長姫という設定です。木花開耶姫を見初めた瓊瓊杵尊が結婚を申し込むと、大山津見神は磐長姫も一緒に嫁がせます。ところが瓊瓊杵尊は醜い磐長姫を送り返してしまいます。磐長姫は長寿の神で、これ以降天皇の寿命は短くなったと、古事記に書かれています。一方木花開耶姫は一晩で妊娠したことを瓊瓊杵尊に私の子ではないと言われ、産屋に入って火をつけ、3人の子(火照命=海...里山の石神端書231木花開耶姫神(山梨県丹波山村)

  • 昭和の石仏写真館(150)所沢の寺社④

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県所沢市の寺社④瑞岩寺(山口)瑞岩寺案内瑞岩寺の山口氏墓地普門院(上新井)普門院の六地蔵北野天神社(北野)北野天神社の青面金剛庚申塔、天保14年(1843)北野天神社の勝軍地蔵案内北野天神社の勝軍地蔵金徳寺(北野)金徳寺の地蔵宝玉院(三ヶ嶋)氷川神社(堀之内)昭和の石仏写真館(150)所沢の寺社④

  • 里山の石神端書230 良円和尚(山梨県丹波山村)

    山梨県丹波山村奥秋・金龍寺の良円和尚甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった奥秋の金龍寺の墓地を訪ねました。金龍寺は真言宗の寺ですが、本堂もなく墓地だけがあります。墓地入口に良円和尚の墓碑が立っています。次に碑面を紹介します。「良円和尚は一八〇九年(文化六年)山城の国、醍醐の百姓の子として生まれる。生来頭脳明晰さと物覚えの良さは、村人で評判となり、これを伝え聞いた報恩院(醍醐)の住職が弟子に迎え僧侶として育てた。一八二三年(天保五年)良円二五歳の時報恩院(醍醐)武藏の国下恩方村浄福寺の計らいで末寺である甲斐の国丹波山村奥秋の金龍寺住職として迎えられた修行時代、山城の国(京都)清水寺での花見の折、舞台から飛び降りても怪我ひとつ追わなかったという話はあまり...里山の石神端書230良円和尚(山梨県丹波山村)

  • 里山の石神端書229 光明真言塔(山梨県丹波山村)

    山梨県丹波山村押垣外・川上神社の光明真言塔甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波山村押垣外の川上神社境内に「光明真言塔/文政八(1825)」銘の光明真言塔が立っています。真言塔が立っていたので、かつてはお寺も兼ねて僧・行者がいたと思いますが、いま境内に集会所が建っていて、その痕跡はありません。光明真言は大日如来を中心とした五智如来に生前の罪の除減を願う密教の経典です。したがって光明真言塔が造立されたのは、天台・真言の密教系のお寺がある地域となります。この丹波山村もそのようなところで、村内の丹波にある宝蔵寺、奥秋の金龍寺、保之瀬の法興寺はみな真言宗です。写真は宝蔵寺の大日如来、金龍寺の光明真言塔です。宗派による石塔をみると、禅宗は「不許葷酒入山門」...里山の石神端書229光明真言塔(山梨県丹波山村)

  • 昭和の石仏写真館(148)所沢の寺社③

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県所沢市の寺社金乗院(上山口)金乗院六地蔵石幢清照寺(上山口)清照寺六地蔵石幢清照寺庚申塔宝暦14年(1764)勝光寺(山口)勝光寺百観音供養塔1勝光寺百観音供養塔2来迎寺(山口)来迎寺案内来迎寺方除出世地蔵昭和の石仏写真館(148)所沢の寺社③

  • 里山の石神端書228 一石六地蔵(山梨県丹波山村)

    山梨県丹波山村高尾・墓地入口の一石六地蔵甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波山村高尾の墓地入口に一石六地蔵が立っています。丁寧な造りで上に三角の破風がつき、地蔵はそれぞれ何かも持っていますがよくわかりません。この一つの石に地蔵菩薩を六体並べる形は山梨独特のもので、県内のほとんどの地方に散見されます。高尾の墓地入口には一石に地蔵を3体ならべ二つにして並べる地蔵もありましたが、この形は山梨風ではありません。ところで丹波山村の位置は奥多摩の西の山梨県です。いまでは東京圏の印象が強い村という印象です。しかしこのような一石六地蔵を見ると、ここは山梨だと気づきます。ただ山梨特有の丸石が見当たりませんでした。青梅街道の山一つ越えた塩山には沢山見られるのに、こ...里山の石神端書228一石六地蔵(山梨県丹波山村)

  • 里山の石神端書228 一石六地蔵(山梨県丹波山村)

    山梨県丹波山村高尾・墓地入口の一石六地蔵甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波山村高尾の墓地入口に一石六地蔵が立っています。丁寧な造りで上に三角の破風がつき、地蔵はそれぞれ何かも持っていますがよくわかりません。この一つの石に地蔵菩薩を六体並べる形は山梨独特のもので、県内のほとんどの地方に散見されます。高尾の墓地入口には一石に地蔵を3体ならべ二つにして並べる地蔵もありましたが、この形は山梨風ではありません。ところで丹波山村の位置は奥多摩の西の山梨県です。いまでは東京圏の印象が強い村という印象です。しかしこのような一石六地蔵を見ると、ここは山梨だと気づきます。ただ山梨特有の丸石が見当たりませんでした。青梅街道の山一つ越えた塩山には沢山見られるのに、こ...里山の石神端書228一石六地蔵(山梨県丹波山村)

  • 里山の石神端書227 大六天(山梨県丹波山村)

    山梨県丹波山村高尾・集落外れの大六天神社甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波山村高尾の集落外れに大六天神社が建っています。大六天は関東一円に広く信仰された招福の神でしたが、明治の初めに社名の変更や合祀で数を減らし、いまでは神奈川県にその痕跡を残すだけになってしまいました。しかし丹波山村では今も信仰が続き、社殿は昭和40年に再建されています。境内の石燈籠には「奉納大六天宮御廣前」銘、「文政十一戌子天(4828)/氏子中」とありました。大六天は仏教を妨害する魔王でしが、仏教に取り入られて欲界の六欲天の最高位にある他化自在天になったと仏書にあります。欲界は三界(欲界・色界・無色界)の一つで、色欲食欲が強い衆生が住む世界。六欲天は他化自在天と四王天・忉...里山の石神端書227大六天(山梨県丹波山村)

  • 石仏写真館(168)所沢・狭山不動寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県所沢市上山口の狭山不動寺不動寺弁天堂弁天堂案内羅漢堂大黒堂大黒堂案内第二宝塔第二宝塔案内桜井門鐘石仏写真館(168)所沢・狭山不動寺

  • 屋上菜園2023-10秋の空

    涼しくなったので、夕方少しずつプランターの土の入れ替えをしています。5日の屋上は秋らしい空が広がっていまして、その美しさにしばし見とれてしまいました。東の空西の空屋上菜園2023-10秋の空

  • 里山の石神端書226 大日・馬頭(山梨県丹波山村)

    山梨県丹波山村高尾・路傍の大日・馬頭並立像甲州街道の裏街道・青梅街道は奥多摩の小河内、丹波山の村を通って塩山に出ました。その道筋にあった丹波山村の中央公民館前で、一石に大日如来と馬頭観音を並立した石仏を見ました。風化してはっきりしない石仏ですが、向かって右は智拳印の大日如来。左は頭上に馬頭を戴く馬頭観音です。大日と馬頭を祀った山は千葉県の房総に沢山ありますが、造立の趣旨はわからないままです。また伊豆半島の河津町にも同じ石仏があり、こちらは『河津町の石造文化財』(注1)「天道大日に晴天を願い馬頭観音に馬の道中安全を願った」と紹介しています。丹波山村の大日・馬頭並立もこのような背景があっての造立なのかは不明ですが、同じ場所に馬頭観音や牛馬供養塔もあるので、この地が牛馬供養の場所であったのは確かです。大日と牛に...里山の石神端書226大日・馬頭(山梨県丹波山村)

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