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  • 里山の石神端書183 道祖神(山梨県南部町)

    南部町本郷の原間・三差路の道祖神南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。原間集落の三差路に丸石が備えられた新旧の石祠が二基並んでいました。これは道祖神だと思いましたが銘はなく、山梨では丸石があっても道祖神とは限らず、地元に人に確認が必要です。何の神を祀ったものか、近くの古老に尋ねると、石祠は道祖神で、新しい道祖神は近くに3カ所にあったものをここにまとめたもので、丸石も道祖神だそうです。お祭りもしているとのこと。この後も、この周辺で幾つかの道祖神を確認しましたが、すべて石祠でした(地図の青丸印)。峰集落の路傍若宮集落の若宮山王社入口杉尾集落の路傍(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書183道祖神(山梨県南部町)

  • 昭和の石仏写真館(129)大田区の寺社⑯矢口

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区矢口圓應寺圓應寺庚申塔案内圓應寺庚申塔庚申堂庚申堂の庚申塔矢口の渡し跡花光院花光院の六地蔵新田神社新田神社の矢口新田神君之碑案内新田神社の矢口新田神君之碑昭和の石仏写真館(129)大田区の寺社⑯矢口

  • 里山の石神端書182 丸石(山梨県南部町)

    南部町本郷の若宮・若宮八幡神社の丸石南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。八幡神社の入口に石祠、馬頭観音、「馬頭観世音」銘石塔2基が並んでいました。どこにでもある風景ですが、どんな祀神にも丸石が置かれているのが山梨風です。南部は静岡県に接する町ですから、丸石文化がここまできているのかという印象でした。丸石を道祖神として祀ることは山梨ではごく普通に見られ、他の地方にもないわけではありませんが、甲府と中心とした地域では極めて多くの丸石が道祖神として祀られています。また丸石が必ずしも道祖神でなく、屋敷神はじめいろいろな祀神にも置かれていのも山梨なのです。山梨の道祖神を研究した中沢厚氏は『山梨県の道祖神』(注1)で石祠・木祠・文字碑・双神・単神・丸石・石棒などを取りあげるなかで、丸石信仰について...里山の石神端書182丸石(山梨県南部町)

  • 里山の石神端書・神奈川県山北町河内川流域

    山北町大蔵野・須賀神社の忠魂碑山北町大蔵野・長光寺の唯念名号塔山北町山市場・平山満蔵寺の断橋供養塔山北町神縄・神尾田神社の笠付角柱型庚申塔山北町玄倉・道祖神里山の石神端書・神奈川県山北町河内川流域

  • 里山の石神端書181 道祖神(神奈川県山北町)

    山北町玄倉・道祖神玄倉は玄倉川最後の集落。かつてはこの集落に一泊して塔ノ岳や蛭が岳を目指したが、今はここまでの道が丹沢湖に沈み、玄倉から先のルートは崖崩れなどで閉鎖されています。集落の入口に立つのが新旧二体の双体道祖神が立っていました。古い像は「安永九子天(1780)」、新しいのは「平成二十八年/玄倉自治会」銘。神奈川県の西部は、男女区別のない江戸時代初期の古い双体道祖神が多ところです。江戸中期になって男女の区別が出てきても、手をつないだり、肩を組んだり、酒器を持ったり、まして抱き合ったりする像は造立されませんでした。古い双体像を見ますと江戸中期の造立で、向かって右の被り物がるのを男神とすると、左の顔が風化しているのが女神です。手は持物があるようですがよくわかりませんが、神奈川県西部の伝統的は双体道祖神で...里山の石神端書181道祖神(神奈川県山北町)

  • 昭和の石仏写真館(128)大田区の寺社⑮西六郷

    伊藤介二・昭和の石仏写真館(128)東京都大田区西六郷宝憧院宝憧院の石船宝憧院の石船案内安養寺安養寺の百味供養塔安養寺の参明藤開山安養寺の富士講案内薬師寺薬師寺の廻国供養塔薬師寺の廻国供養塔昭和の石仏写真館(128)大田区の寺社⑮西六郷

  • 里山の石神端書180 笠付角柱型庚申塔(神奈川県山北町)

    神奈川県山北町神縄・神尾田神社の笠付角柱型庚申塔丹沢湖の神尾田地区の神社が湖南岸の小高い山の上に建っています。その入口に並ぶ石造物の一つが笠付角柱型庚申塔。石塔の上部が削られて角柱に見えますが、脇に笠が置いてあります。「享保十四年(1729)/庚申供養塔」銘と、角柱の正面と左右側面の三面にそれぞれ猿が浮き彫りされています。笠付角柱型庚申塔は神奈川県でよく見かけ、江戸時代初期のものが多いのが特徴にようです。またこの型は神奈川だけでなく、関東各地にも点在しています。さらに同型で正面に青面金剛・四夜叉・二鶏・三猿などを集めた塔を含めると、数はさらに増えます。庚申塔の形式分類をした石神裕之氏は「近世庚申塔にみる流行型式の普及」(注)で、五輪塔・宝筐印塔から自然石まで18の型式に分類し、そのなかで笠付型を笠付角柱型...里山の石神端書180笠付角柱型庚申塔(神奈川県山北町)

  • 里山の石神端書179 断橋供養塔(神奈川県山北町)

    神奈川県山北町山市場・平山満蔵寺の断橋供養塔満蔵寺の境内奥に「断橋遭難供養塔」が立っていました。「大正四年十月廿七日夜/吊橋墜落遭難志望者」銘もあります。死者は男1名、女5名。河内川沿いの集落はどこも左岸にありますが、平山だけが右岸にあり、吊り橋で行き来していたのでしょう。二十七夜の月の出は翌日の朝方、何かの集まりの帰りの真っ暗な吊り橋を大勢で渡ったのでしょう。その重みに吊り橋は耐え切れず、谷底に落ちてしまった。十月下旬の谷川の水は冷たかったはずです。境内には石幢もありました。地蔵が持つ蓮華(?)がユニークです。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書179断橋供養塔(神奈川県山北町)

  • 昭和の石仏写真館(127)大田区の寺社⑭南馬込

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区南馬込北野神社北野神社の庚申塔萬福寺萬福寺の六地蔵円乗院円乗院の大日如来熊野神社熊野神社の庚申塔昭和の石仏写真館(127)大田区の寺社⑭南馬込

  • 里山の石神端書178 唯念名号塔(神奈川県山北町)

    神奈川県山北町大蔵野・長光寺の唯念名号塔大蔵野は山の斜面にあり、段々畑と坂道からなる集落です。そのため曹洞宗長光寺の境内も狭く、墓地は少し離れた山の斜面を削って造られました。何もないと思った境内奥に名号塔と庚申塔がありました。名号塔の名号は仏・菩薩の名。とくに南無阿弥陀仏の六字名号を刻んだものを名号塔とすることが多い。長光寺の名号塔には丸みのある豪快な文字で「南無阿弥陀仏」、下に「唯念」の花押。これは丹沢の西の山中、静岡県小山町の奥の沢を拠点に駿河・伊豆・相模一帯で念仏布教をした唯念(1826~80)の唯念名号塔です。庚申塔は笠が失われているが、これは笠付角柱型といわれる庚申塔。正面と左右脇に猿が刻まれているものです。正面には「過去心不可得」銘。仏書によると、金剛経のなかの三世心不可得の一つのようです。残...里山の石神端書178唯念名号塔(神奈川県山北町)

  • 里山の石神端書177 忠魂碑(神奈川県山北町)

    神奈川県山北町大蔵野・須賀神社の忠魂碑第二東名の工事が進む大北野の集落では、トンネルと橋の工事が同時に進行して賑やかな様子。そのなかに鎮まっている須賀神社に忠魂碑が立っていました。忠魂碑は国のために戦って戦死した兵士を祀るために造立された石碑。その始まりは、幕末の戊辰戦争の官軍戦死者を表彰するため、明治2年に東京九段に創建された東京招魂社にあるそうです。これが明治12年に靖国神社と改名して今日に続いています。これとは別に各地で忠魂碑が立てられました。須賀神社の招魂碑は「陸軍大将乃木希典閣下直筆」銘がある日露戦争の戦没者を祀ったもので、背面に出征軍人として、国民兵之部・後備役之部・予備役之部、補充兵役の名前が並んでいました。一見してこちらも賑やかに様子ですが、神社は鎮まりかえっていました。(地図は国土地理院...里山の石神端書177忠魂碑(神奈川県山北町)

  • 昭和の石仏写真館(126)大田区の寺社⑬山王

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区山王善應寺義民六人衆案内義民六人衆熊野神社1熊野神社2熊野神社狛犬熊野神社狛犬厳島神社昭和の石仏写真館(126)大田区の寺社⑬山王

  • 里山の石神端書・茨城県笠間市愛宕山山麓

    石岡市真家・明圓寺の中興碑笠間市泉・隠沢観音の石燈籠蓮華笠間市泉・龍泉寺の立春大吉お札笠間市下郷・三社神社入口の子安観音笠間市上郷・瀧入不動堂の子安観音笠間市泉・愛宕山の十三天狗里山の石神端書・茨城県笠間市愛宕山山麓

  • 里山の石神端書176 十三天狗(茨城県笠間市)

    茨城県笠間市泉・愛宕山の十三天狗天狗の面が飾られた愛宕山の本殿裏に、この山の祭神飯縄社が祀られていました。その背後に並ぶ石祠が十三天狗。中央に一回り大きな石祠を置き、コの字型に12の同じ石祠が並んでいます。知切光歳氏は『天狗の研究』(注1)で、愛宕山の十三天狗は「平田実篤の『仙境異聞』(仙童寅吉物語)によって、にわかに世人の注目を浴び、重味を加えた(略)寅吉が言いだす以前は、ささやかな無名天狗群の小祠にすぎなかったし、もっと以前は十二天狗であった」と説明しています。寅吉は江戸にいた超能力を持ち、愛宕山に飛んで修行をしたという子供。実篤が寅吉から聞き書きを始めたのは文政三年(1820)とされ、これが実篤の霊界へ入る切掛けの一つとなったといわれています。十二天狗は古くから愛宕山にいた天狗。新しく加わったのは筑...里山の石神端書176十三天狗(茨城県笠間市)

  • 屋上菜園2023-04闘病日記12

    玉ネギ・ニンニク・絹サヤが元気に育っているいつもの風景です。3月初めに植えたジャガイモはなかなか芽を出さず、ヤキモキしましたがやっと出ました。*食道がんステージ4で抗がん剤治療中。昨年の秋彼岸に、両親に病気の報告がてら田舎へ墓参りをしました。その時はこれが最後かなと思っていましたが、墓を守っている弟夫婦に春彼岸に会う約束をしました。それから半年、抗がん剤治療が効いてこの春彼岸もどうにか墓参りができそうな状態になりました。田舎への途中、栃木の山奥の寺の和尚と話をする機会があり、ガンの話になりました。すると和尚は、私はガンと知らされたとき心の病も発症してしまいましたというのです。宗教者でも心の病になるんだと思うと同時に、正直な和尚さんに出会ってホッとしました。田舎のお寺は最近本堂を建立したばかりです。本堂の壁...屋上菜園2023-04闘病日記12

  • 里山の石神端書175 子安観音(茨城県笠間市)

    茨城県笠間市上郷・瀧入不動堂の子安観音本堂脇に二条の滝を落とす瀧入不動堂の本尊不動明王のご開帳は1月28日と7月28日。28日は不動の縁日です。境内には石仏がいくつかありますが、不動明王はありません。いくつかの石仏では子安観音、子抱地蔵、如意輪が目を引きました。子安観音は垂髪で顔を横にして抱いた子供を見つめるこの地方独特の姿です。それに菩薩形の子安観音が並びます。子抱地蔵は右手に錫杖、左手に子供を抱く姿。如意輪観音には「十九夜供養塔/元禄十丁丑天(1697)」銘がありました。前回紹介した光野志のぶ氏は、子安講の集まりで掲げる軸に子安観音や嬰児を抱く神仏の姿はないとしたうえで、「子安講は、一つの寺社、あるいは一定の神仏を信仰するというよりは、安産、子育てにご利益があるときけば、観音さまでも、お地蔵さまでも、...里山の石神端書175子安観音(茨城県笠間市)

  • 里山の石神端書174 子安観音(茨城県笠間市)

    茨城県笠間市下郷・三社神社入口の子安観音三社神社の入口に幾つかの石仏が覆い屋に並んでいます。子安観音・子安地蔵・庚申塔、文字の聖徳太子・二十三夜などです。このなかで笠間市周はじめ、茨城・栃木・千葉の北総でよく見るのが子供を抱く観音・子安観音です。この姿は江戸時代初期の十九夜塔の本尊如意輪観音が、中期以降子供を抱く観音に姿を変えたものと指摘されています。三社神社入口の子安観音はさらに進んで、子供を抱く垂髪姿。茨城ではこのおばさん顔の子安観音をよく見ます。なかには横向きで子供を見つめる姿もあります。次に三社神社がある岩間町(笠間市)の子安観音を調査した光野志のぶ氏の「茨城県の子安観音像(注)から、子安観音を造立したのはどのような人たちかを紹介します。光野氏は岩間町に子安観音は45基、二十三夜塔は46あり、十九...里山の石神端書174子安観音(茨城県笠間市)

  • 昭和の石仏写真館(125)大田区の寺社⑫山王

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区山王日枝神社円能寺大森貝塚天神神社天祖神社横の庚申堂庚申堂の庚申塔・寛政12年(1800)薬師堂薬師堂の富士講碑案内薬師堂の富士講碑昭和の石仏写真館(125)大田区の寺社⑫山王

  • 里山の石神端書173 立春大吉(茨城県笠間市)

    茨城県笠間市泉・龍泉寺の立春大吉お札2月初め、龍泉寺の静まった山門には豆まきの豆が落ちていました。そして山門の柱には新しい「立春大吉」「鎮防火燭」の貼り紙。この季節ならではのお寺の風景です。「立春大吉」の立春は冬から春になる節目の日、大吉は良い運で今年も良い年でありますようにという願い。「鎮防火燭(ちんぼうかしょく)」は竈や照明の火を鎮め防ぐという意味で、禅宗の寺から始まって広まったようです。火の字を小さくするのがミソとか。ところでこの龍泉寺という名は水に関係しているのでしょうか。境内奥に祀られた覆い屋のなかには水神の「八大竜王大善神」の社が祀られ、寺の下には出水不動と呼ばれている不動明王が立ち、さらに下流には大きな貯水池があります。八大竜王を祀り、不動明王が護り、池を造って山麓に水田を開発したように見え...里山の石神端書173立春大吉(茨城県笠間市)

  • 里山の石神端書172 蓮華(茨城県笠間市)

    茨城県笠間市泉・隠沢観音の石燈籠安産子育ての観音として知られた隠沢観音は愛宕山の南の鐘転山の山麓に建つ古刹です。参道の先の長い石段脇の如意輪観音や不動明王を見ながら登ると本堂。境内に立つ一対の石燈籠が迎えてくれます。石燈籠の竿は四角形。向かって左は未敷(みふ)蓮華、右は開敷(かいふ)蓮華が大きく浮き彫りされていました。未敷蓮華は容易に悟ることができない姿、開敷蓮華は悟りを開いた姿と言われています。蓮華ばかりでなく、火袋も笠の四角形の美しい石燈籠でした。正徳二年(1712)の造立。境内奥にはこの地方に多い光明真言塔もありました。下部に「光明真言一億五百□」らしきの銘があります。これは南無阿弥陀仏を唱える念仏講と同じように、光明真言を集団で一億五百□回唱えたということだと思います。振り返ると関東平野や霞ヶ浦も...里山の石神端書172蓮華(茨城県笠間市)

  • 里山の石神端書169 中興碑(茨城県石岡市)

    茨城県石岡市真家・明圓寺の中興碑明圓寺は親鸞上人二十四輩の明法(弁圓)が開いた寺。境内に「明圓中興/天保乙未(1835)/法證院釋正道法」銘がある墓石が残っています。親鸞は越後に流罪になった後、関東で布教活動をします。二十四輩は親鸞が関東で布教をしたとき一緒に行動した高弟24人で、その人たちが開いた寺も指します。明圓寺を開いた明法(1184~1251)も二十四輩の一人で、元は修験道の行者だったようです。寺の案内によると、明圓寺は天明六年(1786)に山津波で本堂・庫裏ともに流されてしまったとあります。そうしますと今明圓寺の境内に残る天保六年の明圓中興碑は、流された本堂を再建したことを記しているようです。寺の脇に「馬滝」の案内があったので登ってみました。修験者の妙法→滝→不動明王という方式で滝のどこかに不動...里山の石神端書169中興碑(茨城県石岡市)

  • 里山の石神端書・千葉県長南町小生田川流域

    里山の石仏端書164長南町地引・八坂行堂の行堂、百八社参り札里山の石仏端書165長南町地引・妙覚寺の延命地蔵里山の石仏端書166長南町地引・正善寺の白井鳥酔碑里山の石仏端書167長南町地引・行堂跡と梵天里山の石仏端書168長南町小生田下・大乗寺の石燈籠里山の石仏端書169長南町小生田下・熊野神社の手水鉢里山の石仏端書170長南町小生田上・小生田行堂の大日如来里山の石神端書・千葉県長南町小生田川流域

  • 里山の石仏端書170 大日如来(千葉県長南町)

    長南町小生田上・小生田行堂の大日如来小生田の行堂は民家風の建物、玄関の上に「小生田行堂」の看板がかかっていました。いまでいう集会所のようなもので、内部に祭壇を設え、出羽三山講の人たちが三山に出かける前にはここに籠って身体を清め、毎月の8日にはここで地域の安全や五穀豊穣を祈願するそうです。行堂の前に石造物が並んでいました。石仏はいずれも出羽三山の湯殿山の本尊大日如来です。古いのは①「享保四(1719)」の胎蔵界大日、次に②享和十一年(1726)の金剛界大日と③「明和四年(1767)の金剛界大日の三体。①②は墓石です。この地方の出羽三山講は講員の葬儀も行っていたそうで、墓石にも三山の象徴である梵天を立てているところがあります。出羽三山供養塔もあり、三山銘のしたに芭蕉の俳句が刻されていました。「雪能峯以久つ久津...里山の石仏端書170大日如来(千葉県長南町)

  • 昭和の石仏写真館(122)大田区の寺社⑪六郷

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区六郷妙法稲荷熊野神社観乗寺寶泉寺六郷神社専修寺関東別院北野神社六郷鉄橋昭和の石仏写真館(122)大田区の寺社⑪六郷

  • 里山の石神端書169 家紋(千葉県長南町)

    千葉県長南町小生田下・熊野神社の手水鉢熊野神社神社境内に「天明八戊申年(1788年)」銘の形の整った手水鉢があります。その側面に家紋が刻されていました。手水鉢に家紋となると、個人あるいは一族で奉納したものなのでしょうか。測面には3人の名もありました。家紋の本に当たってみると、八剣輪宝のようですが、この家紋もいろいろあり、手水鉢の家紋は見当たりません。輪宝は修験関係者が仏教でいう輪宝を家紋に取り入れたものという説もありました。家紋というと子供のころ、お盆のとき仏壇前に下げる大きな提灯に源氏車があったので、これが我が家の家紋だと思っていました。ところがカミさんと結婚するとき、用意する留袖などには嫁ぎ先の紋を入れるということで、初めて我が家の家紋が三つ葉かたばみだと知りました。源氏車は母の実家の家紋でした。いつ...里山の石神端書169家紋(千葉県長南町)

  • 里山の石神端書168 石燈籠(千葉県長南町)

    千葉県長南町小生田下・大乗寺の石燈籠大乗寺の境内に入る石段に石燈籠が立っていました。新しい燈籠で火袋のところに如来仏が浮き彫りされていて、石幢に近い構造です。よく見れば石幢としては笠も宝珠もおかしな造りのうえ火袋もあるし、中台や竿の節などは石燈籠ですから、石燈籠としました。石造物の世界も時代により変化してきましたが、製作がグローバル化した最近では突然新しい形が出てきますから判断にとまどうことがあります。近くに覆い屋に入った地蔵菩薩もありました。こちらは正当な地蔵で、顔の小さい落ち着いた風情です。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書168石燈籠(千葉県長南町)

  • 昭和の石仏写真館(122)大田区の寺社⑩萩中

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区萩中萩中神社真光寺正覚寺妙覚寺福稲寺善永寺延徳寺福泉寺昭和の石仏写真館(122)大田区の寺社⑩萩中

  • 梵天 千葉県長南町地引・行堂跡

    里山の石仏端書167長南町地引・行堂跡と梵天ここに案内する梵天は仏教の梵天に影響されたとされるこの国独特の神の依り代、神が憑依する幣束です。梵天は修験ではよく使かわれますが、特に出羽三山では重要視されています。その一つが秋の峰入りに行う黄金堂に梵天を投げ入れる行事。秋の峯入りは擬死再生の儀式。その始めとして梵天(男)を黄金堂(女)に投げ入れることから始まり、行を通して生まれ変わることを目的としています。この梵天が出羽三山の象徴として、勧請先でも梵天を立てるようになったのは江戸時代の中頃からでした。特に千葉県では今も続けられています。千葉県の梵天の形はさまざまです。長南町では竹を支柱とし、その先に藁を円筒に巻き付け半紙で包んで麻紐で結び、上部に白幣束を付けるシンプルな形です。梵天の下には「明治六年」銘の出羽...梵天千葉県長南町地引・行堂跡

  • 屋上菜園2023-03闘病日記11

    屋上菜園2023-02闘病日記112月末買ったジャガイモの種1キロの袋には、小さ目のジャガイモが15個も入っていたので切らずに植えることにしました。*食道がんステージ4の抗がん剤治療中。聞いてはいましたが副作用は厄介なものです。朝食は毎日私が作っています。10数年前にカミさんが事故で右腕骨折を機に作りはじめ、これが今も続いています。味噌汁を作り魚を焼くだけで、あとは作り置きのおかずを並べる簡単なものです。NHKのラジオ体操を聞きながら作る朝食は楽しいものでした。これが最近では憂鬱になってきました。抗がん剤の副作用で味がわからなくなり、いつも満腹感になっていることはすでに書きました。これが近頃ではテレビの料理番組を見ているだけで満腹感がさらに増してくるようになり、朝食も食卓に並べるころには食べる気さえなくな...屋上菜園2023-03闘病日記11

  • 白井鳥酔 千葉県長南町地引・正善寺

    里山の石仏端書166長南町地引・正善寺の白井鳥酔碑正善寺の入口に「鳥酔の/露柱庵」に石碑があり、寺の裏山に白井鳥酔の墓がありました。現地の案内に、白井(1701~1769)は地引の代官を務めた白井家に生まれ。代官も務めたが俳諧を志し、芭蕉没後に低調卑俗化した俳諧の復興に貢献したことが記されています。墓の中央に三基から成る碑があり、その中央に「露柱塚/涼志さ也む/可しへ毛登類/夢乃橋」銘。露柱塚は正善寺に造った庵で、俳号でもあった露柱庵から名付けられたものです。このような塚と石碑が、鳥酔の弟子たちにより各地に建てられたようです。(地図は国土地理院ホームページより)白井鳥酔千葉県長南町地引・正善寺

  • 延命地蔵 千葉県長南町地引・妙覚寺

    里山の石仏端書165長南町地引・妙覚寺の延命地蔵妙覚寺の参道に品の良い地蔵が座しています。右手は錫杖を持つ形、右手は宝珠、右足を台座から下げた半跏座の地蔵です。この半跏座の地蔵こそ、仏説延命地蔵経に「右の膝を曲げて、臂を立て、掌に耳を承け、左の膝を申べ下し、手に錫杖を持して」と説かれた延命地蔵です。妙覚寺参道の地蔵と経典の地蔵像では若干違いますが、半跏像で足を下げている姿は延命地蔵として間違いありません。石仏の延命地蔵を見ると、立ち上がった地蔵や足を下ろしていない地蔵も延命地蔵と紹介されている例が沢山ありますがそれも間違いではなく、とげぬき・しばられ・子抱・水子ほか経典にない異名地蔵は五万とあります。これも釈迦亡き後56億7千万年後に弥勒菩薩が登場するまでの無仏の時代、衆生を救う仏として地蔵菩薩に与えられ...延命地蔵千葉県長南町地引・妙覚寺

  • 行堂、百八社参り札 千葉県長南町地引・八坂行堂

    里山の石仏端書164長南町地引・八坂行堂の行堂、百八社参り札ここに案内する行堂(ぎょうどう)は、出羽三山を参りする人たちが集落に建てたお堂です。房総には出羽三山に出かける前のお籠りや、八日講などと呼ぶ行事を続けているところが沢山あり、長南町地引の八坂行堂もその一つです。お籠りは行屋に泊り飲食や行動を慎み、心身を清めること。八日講は出羽三山の登拝する講の呼びかたで、三山講、奥州講などするところもあります。集落内の狭い路地を登った先に建つ行堂は民家風ですが、室内に祭壇を作り出羽三山を御祀りしています。出羽三山に出かける前にはここに籠って身体を清め、毎月の8日にはここで地域の安全や五穀豊穣を祈願するそうです。行堂の先には出羽三山の供養塔が3基立っています。いずれも中央に「月山」脇に「羽黒山/湯殿山」銘。「大神」...行堂、百八社参り札千葉県長南町地引・八坂行堂

  • 昭和の石仏写真館(122)大田区の寺社⑨

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区羽田羽田神社自性院牛頭天王堂牛頭天王案内羽田囃子①羽田囃子②玉川弁才天弁才天前の六郷川昭和の石仏写真館(122)大田区の寺社⑨

  • 里山の石仏端書・神奈川県厚木市飯山、煤ケ谷

    里山の石神端書156厚木市飯山・大師堂の地蔵群里山の石神端書157厚木市飯山・金剛寺の六地蔵里山の石神端書158厚木市飯山・龍蔵神社の地蔵里山の石神端書159厚木市飯山・飯山観音の坂東札所石仏里山の石神端書160厚木市飯山・白山の龍里山の石神端書161厚木市飯山・熊野神社の道祖神里山の石神端書162清川村煤ケ谷・蓮久寺の宝篋印塔里山の石神端書163清川村煤ケ谷・八幡神社の額束里山の石仏端書・神奈川県厚木市飯山、煤ケ谷

  • 額束 神奈川県清川村煤ケ谷・八幡神社

    里山の石神端書163清川村煤ケ谷・八幡神社の額束金翅集落を見下ろす高台に建つ八幡神社の社殿横に、かつて鳥居に付いていた額束(がくつか)が置かれていました。地面に置かれた額束を眺めていて、石にしては構造の複雑さに気づきました。普通額束は鳥居の中間、笠木と貫の間に挟むきょうに置かれますが、八幡神社の額束は人を見下ろすように傾きをつけて置くように作られています。額束をよく見ると一石が出来ていて、鳥居に取りつける部分に笠木にはめ込むような突起がついています。石鳥居ならではの固定される構造です。こういう造り方がいつごろから始まったのでしょうか。鳥居の調査・研究の報告はありますが、額束を研究したものはあるようでしょうか。この傾きを付けた石造額束の報告もまだ見ていません。手元にある『鳥居』(注)に額束についての何も記載...額束神奈川県清川村煤ケ谷・八幡神社

  • 宝筐院塔 神奈川県清川村煤ケ谷・蓮久寺

    里山の石神端書162清川村煤ケ谷・蓮久寺の宝篋印塔丹沢東山麓の里にある煤ケ谷の金翅、この小さな集落に建つのが蓮久寺。蓮久寺の境内に大きな隅飾りの宝筐院塔が立っています。宝筐院塔は宝筐院陀羅尼経を納める塔で、笠の部分の四隅の突起が隅飾り。石造宝篋印塔は鎌倉時代中期に関西で始まり、後期に関東での造立が始まり、宝治二年(1248)の鎌倉やぐら出土宝篋印塔が最古の塔です(注)。隅飾りは垂直に立つほど古いものとされていて、徐々に傾きが出て、江戸時代の関東に墓石として造立されるとこの隅飾りが大きくなり、蓮久寺のように四方に広がる宝篋印塔も造られました。蓮久寺の塔は高さも250センチと大型です。相輪があれば3メートルを超えているはず。寛延三年(1750)の造立。宝篋印塔の塔身には阿閦(ウーン)宝生(タラーク)阿弥陀(キ...宝筐院塔神奈川県清川村煤ケ谷・蓮久寺

  • 昭和の石仏写真館(121)大田区の寺社⑧

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区羽田長照神社海岸寺久宝寺本羽田公園天祖神社正蔵院正蔵院石仏昭和の石仏写真館(121)大田区の寺社⑧

  • 道祖神 神奈川県厚木市飯山・熊野神社

    里山の石神端書161厚木市飯山・熊野神社の道祖神神奈川県は双体道祖神の多いところで、とくに丹沢山麓で目にします。飯山の熊野神社は住宅造成のため新しく建立された神社。その片隅の稲荷神社脇に道祖神などの石造物が集められていました。道祖神の一つ、双体道祖神は「寛政三年(1791)」の造立。風化が進んでいて全体像はよくわかりません。丹沢山麓の道祖神について松村雄介氏の『相模の石仏』(注)によると、相模に道祖神塔がはじめにあらわれるのは寛文年間(1661~1673)で、僧形の双体像。この形は近世前期の特徴で山梨や群馬にもあるが、男女の祝言像などに変化するのに対し、相模では中期になっても続いたのが特徴と指摘しています。熊野神社の道祖神は江戸後期のもので、僧形ではなく男女双体像です。土地の神である「地神」も神奈川に多い...道祖神神奈川県厚木市飯山・熊野神社

  • 龍 神奈川県厚木市飯山・白山

    里山の石神端書160厚木市飯山・白山の龍飯山観音入口の小鮎川にかかる庫裏橋の下流の土手に飯山七不思議が描かれています。その一つが「白山池の霊水」。白山山頂の池は、飯山観光協会の案内に「白山山頂にある池は日照のときも水がかれることがない」とある雨乞い信仰がある池です。この池には白龍がいるという伝承もあります。飯山観音から白山山頂までは約30分、白山神社の前にある小さな水たまりが龍の住むという池で、青銅の龍が池を覗いていました。池を護るように立つのは山岳信仰の祖と仰がれた役行者。かたわらの石碑に「勅諡神変大菩薩/役行者千百遠忌/文化四丁卯年(1807)」銘があります。勅諡(ちょくし)は天皇が諡(おくりな)を与えることで、役行者は没後1100年の寛政11年(1799)に、光格天皇から神変大菩薩の勅諡をいただいて...龍神奈川県厚木市飯山・白山

  • 昭和の石仏写真館(120)大田区の寺社⑦

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区糀谷子安八幡神社天祖神社糀谷神社十王堂十王堂天祖神社三徳稲荷糀谷観音昭和の石仏写真館(120)大田区の寺社⑦

  • 坂東札所石仏 神奈川県厚木市飯山・飯山観音

    里山の石神端書159厚木市飯山・飯山観音の坂東札所石仏飯山観音は坂東札所第六番です。坂東札所の成立には諸説あり、鎌倉時代成立説が有力です。その根拠の一つは札所の多くが鎌倉幕府の御家人の領地にあるということ。この六番飯山観音は、安達義景が堂宇を建立した寺です。第九番埼玉の慈光寺は、頼朝が奥州藤原氏追悼の戦勝祈願をした寺。県内に二か所しかない群馬の第15番白岩観音と16番水沢観音も、御家人になった里見氏の領地でした。里見は鎌倉の動きを静観していた新田氏の一族でしたが、頼朝と親しくしていたことが坂東札所に選ばれたと推測しています。飯山観音の境内に坂東札所各寺院の本尊石仏を巡るコースがあります。置かれた石仏は新しいもので、簡単な像容の観音が並んでいます。千手観音の持物がない手が奇妙で、十一面観音の頭部の面が雑に彫...坂東札所石仏神奈川県厚木市飯山・飯山観音

  • 屋上菜園2023-02闘病日記10

    1月末暖かくなってきたので、タマネギとニンニクに追肥しました。ただ雨が降らないので、追肥は溶けることなく野菜の根元に残ったままです。今年こそ大きく育ったタマネギとニンニクを見たいものです。インゲンも育ち始めました。*抗がん剤に副作用はいろいろあります。特に治験薬の副作用は50もの症例が報告されています。いま苦労している一つが鼻血です。鼻血はいつも少しずつ出ているようで、鼻のなかで固まります。鼻をかむと大きな血の固まりが出てきてビックリすることもあります。この固まりが大きくなると鼻づまり状態になり、気になって鼻ほじりをはじめ、最近はこれが癖になりました。ただあまりいじると血が流れ出し、止まらなくなるので慌ててテッシュを鼻に押し込みますが、こうなるとなかなか止まりません。以前にシャックリが出たときは担当医に話...屋上菜園2023-02闘病日記10

  • 中世石仏・地蔵 神奈川県厚木市飯山・龍蔵神社

    里山の石神端書158厚木市飯山・龍蔵神社の地蔵坂東札所第六番飯山観音の入口左手にあるのが龍蔵神社。神社の案内によると祭神は級長津彦(しなつひこ)命、級長戸辺(しなとべ)命、風の神です。『新編相模国風土記稿』に、龍蔵神社の「本尊は石一顆を神體とす、本地弥彌陀薬師十一面」とあり、別当は本山修験の龍蔵院と記されています。また神社の案内では「神亀二丑年(725)僧行基勧請すると云伝えられる。古昔は井山神社龍蔵大権現と称した」とあります。平安時代から仏教が別当(神宮寺)を設けて神社を支配する神仏習合は江戸時代まで続きました。しかし明治維新の神仏判然令で解体されたのを機に、寺と神社はわけられ廃仏毀釈にまで暴走し、寺院・仏像の廃棄にまで進んで神社から仏教色は一掃されました。ただこれには地域差があり、今も神社に鐘楼や石仏...中世石仏・地蔵神奈川県厚木市飯山・龍蔵神社

  • 昭和の石仏写真館(119)大田区の寺社⑥

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区蒲田妙典寺石仏梅屋敷公園蒲田八幡神社妙安寺北野神社昭和の石仏写真館(119)大田区の寺社⑥

  • 六地蔵 神奈川県厚木市飯山・金剛寺

    里山の石神端書157厚木市飯山・金剛寺飯山観音入口の庫裏橋を渡った右手奥に建つのが金剛寺。参道入口に「禁葷酒入門」銘の結界石が立ち、山門左手に建つ大師堂に並ぶ百体地蔵は里山の石神端書156で案内しました。金剛寺に大師堂があるのはかつて真言宗だったため、入口に禅宗特有の結界石があるのは室町時代後期に曹洞宗に改めたため。寺の案内によると、寺宝の木彫地蔵菩薩はかつて庫裏橋の側にあったもので、院慶の作。別名「身代わり地蔵・黒地蔵」といわれていたそうです。この地蔵があって、大師堂の百体地蔵につながったように思います。院慶は平安末期から鎌倉時代の仏師の円派、院派、慶派の院派に所属していた仏師です。質素な境内に一石に3尊ずつのあまり見ない六地蔵があります。台座にある「六道能化」の六道は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天...六地蔵神奈川県厚木市飯山・金剛寺

  • 百体地蔵 神奈川県厚木市飯山・大師堂

    里山の石神端書156厚木市飯山・大師堂丹沢の東山麓にある飯山は中世に仏教文化が栄えたところで、飯山観音の他に金剛寺やかつては寺院も兼ねていた龍蔵神社が今に続いています。大師堂は坂東札第六番の飯山観音・長谷寺の入口、金剛寺の参道に建つ古いお堂です。そのお堂の左脇と裏側に取り付けた庇の中に沢山の地蔵が並んでいるのが百体地蔵。厚木市の『野だちの石造物』(注)によると、その数は台座だけの地蔵も含めて108体で、さまざまな像容が並ぶ光景は壮観です。造立年は元文五年(1740)~文化四年(1807)の約50年間。そのほとんどが近隣の人たちが造立した供養塔ですが、中には江戸の人の銘もありますから、供養のための地蔵奉納は遠方にも知られていたようです。その地蔵たちの写真を紹介します。(注)『野だちの石造物』1972年、厚木...百体地蔵神奈川県厚木市飯山・大師堂

  • 昭和の石仏写真館(118)大田区の寺社⑤

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区蒲田榮林寺開山供養塔案内椿神社圓頓寺本堂行方直清供養塔案内昭和の石仏写真館(118)大田区の寺社⑤

  • 里山の石仏端書・埼玉県越生町越辺川

    越生町越辺川・龍ヶ谷山中の太田道灌生地越生町越辺川・龍ヶ谷龍穏寺の結界石越生町越辺川・龍ヶ谷の山神宮越生町越辺川・下ヶ戸の薬師堂越生町越辺川・黒山全洞院の澁澤平九郎越生町越辺川・大満大満寺の板碑里山の石仏端書・埼玉県越生町越辺川

  • 板碑 埼玉県越生町越辺川・大満

    里山の石神端書155越生町越辺川・大満の大満寺大満集落の奥に建つ大満寺は曹洞宗の寺、六地蔵が迎えてくれます。境内から墓地に入るところに板碑が立っています。頭に阿弥陀如来の種字キリークを入れた高さ138センチの板碑です。銘は「十佛土中唯有一乗法/崇性禅門延文五庚子(1360)七月二日/無二亦無三除佛方便」。板碑は死者の追善供養、生前の逆修供養のため、鎌倉期から戦国期まで造立された石卒塔婆です。「十佛土中…無三除佛方便」は法華経方便品第二にある偈頌(げじゅ)で、板碑に刻まれた偈頌では多い文言です。その理由として小花波平六氏は「板碑造立の趣旨によく合致しており、通常人々に親しまれ、誦され、また、死者の供養をはじめ諸種の回向や諷誦・敬白などに、多く用いられているから」(注1)としています。意味は「十方仏土中には、...板碑埼玉県越生町越辺川・大満

  • 澁澤平九郎 埼玉県越生町越辺川・黒山

    里山の石神端書154越生町越辺川・黒山の全洞院澁澤平九郎(1847~1862)こと尾高平九郎は埼玉県深谷の名主の子。寺にある案内によると、平九郎の姉は明治の実業家澁澤栄一の妻で、栄一が渡欧する際に三九郎は澁澤の養子となって澁澤を名乗ります。しかし幕末に旧幕府軍の先鋒となり、官軍と衝突した飯能戦争に敗れて自害、22歳でした。全洞院は古くは修験の寺。中世に近くにある曹洞宗の古刹龍穏寺の末寺となった小さなお寺です。平九郎の首は生越の法恩寺、骸はこの全洞院に葬られました。墓石には「明治元歳五月廿三日為所事戦/不克屠腹死時貮拾貳」とありました。(地図は国土地理院ホームページより)澁澤平九郎埼玉県越生町越辺川・黒山

  • 昭和の石仏写真館(117)大田区の寺社④

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・大田区大森大林寺三輪神社三輪神社富士猿密乗寺密乗寺板碑薭田神社稗田神社案内昭和の石仏写真館(117)大田区の寺社④

  • 屋上菜園2023-01闘病日記9

    年末、屋上の仕事納めは散らばっていたプランターの並べ替えでした。タマネギ、ニンニクは元気です。キヌサヤも芽を出して成長しています。*担当医は、体調と相談して好きなことをやっていいですよと言います。私には、元気なうちにやりたいことをやっておきなさい、そのうちやりたくても出来なくなりますと聞こえます。抗がん剤治療を始めてから4か月、体重は7キロ減りました。登山で鍛えた自慢の足はめっきり細くなって淋しいかぎりです。病気は受け入れることができました。しかし体力の低下はまだ受け入れることができないでいます。治験にも参加していて日に2回血圧を計っています。抗がん剤治療後5日目ごろから体調は良くなるので、11月下旬早起きして埼玉の生越の里山へ車で出かけました。京葉・外環・関越と走りなれた道ですが結構混んでいて頭がボーっ...屋上菜園2023-01闘病日記9

  • 薬師堂 埼玉県越生町越辺川・下ヶ戸

    里山の石神端書153越生町越辺川・下ヶ戸薬師堂古いお堂の下ヶ戸薬師堂。境内の石燈籠に「武刕入間郡黒山村/薬師堂/村々心信竒進/文政十二年丑(1829)」銘があります。この薬師を黒山の人たちがどれほど信心していたかは、本堂の長押(なげし)に貼り付けられた寄進者名からもわかります。そのお堂も、いまは立ち寄る人も少ない様子で、古い薬師如来と十二神将があるというお堂内を見ることができません。石仏は薬師堂脇に胸中央に両手宝珠を持つ地蔵菩薩が一つ。銘から尼僧の墓石のように見えます。ここまで越辺川周辺の寺社には町で立てた案内がありました。しかしこの薬師堂には何もなく、お堂そのものが荒れるにまかせているようにみえました。この薬師堂に来る前に訪ねた平倉の菩提寺(地図の青丸)は見つからず、地元の人に訪ねると、とうの昔に廃寺と...薬師堂埼玉県越生町越辺川・下ヶ戸

  • 道標 埼玉県越生町越辺川・龍ヶ谷

    里山の石神端書152越生町越辺川・龍ヶ谷の山神宮龍ヶ谷の奥、川沿いの道が二俣になる所に道標が立っています。苔むした自然石に「右ちゝ婦みち/左たかや□」銘、年期銘江戸時代の道標とみました。右へ行けば、飯盛峠に出て尾根通しに秩父札所1番の四万部に出ますが、江戸からの秩父巡礼はこの龍ヶ谷のだいぶ北にある東秩父から入っていますから、この「ちゝ婦」は巡礼の道ではなく、単に秩父方面ということなのでしょう。「左のたかや□」は高山不動尊への道です。奥武蔵の山中には古くから多くの寺院が点在し、不動明王を本尊とする高山不動もその一つです。奥武蔵は黒山にあった本山派の山本坊をはじめ、天台・真言の修験の山でした。二俣の右手には山神宮があります。案内よると祭神は大山衹、江戸時代初期の創建で明和と天保に再建されています。(地図は国土...道標埼玉県越生町越辺川・龍ヶ谷

  • 昭和の石仏写真館(115)大田区の寺社③

    伊藤介二・昭和の石仏写真館(115)大田区大森厳正寺不入斗稲荷神社徳淨寺貴船神社貴船神社狛犬昭和の石仏写真館(115)大田区の寺社③

  • 結界石 埼玉県越生町越辺川・龍ヶ谷

    里山の石神端書151越生町越辺川・龍ヶ谷の龍穏寺龍穏寺は曹洞宗の古刹。寺の案内によると、太田道真(1411~1492)・道灌(1432~1486)親子により中興され、江戸時代に曹洞宗寺院を統括する僧録司に任じられ、下総市川の総寧寺と下野栃木の大中寺とともに〝関三刹〟と呼ばれ、本山江永平寺の貫主の多くがこの三ヶ寺から昇山したそうです。龍穏寺の入口に造立されたのが「禁葷酒」の結界石。葷はネギ・ニラ・ニンニクなどの臭いの強い野菜。僧侶が修行をする寺に、葷酒の臭いがする俗人の入山を禁じたものと解釈さてらいます。結界石の多くは角柱に銘が入ったものですが、龍ヶ寺の結界石は高さ170センチの自然石の彫られた古刹に相応しい堂々たるものです。境内奥に太田道灌の墓所もありました。案内に、道灌の「戦功と高潔な人柄は、かえって主...結界石埼玉県越生町越辺川・龍ヶ谷

  • 太田道灌生地 埼玉県越生町越辺川・龍ヶ谷

    里山の石神端書150越生町越辺川・龍ヶ谷の山中越辺川上流の龍ヶ谷に、江戸城を築いた太田道灌(1432~1486)の生地「三技庵」がります。現地に立つ案内には、三技庵は道灌の父道真(1411~1492)が築いて自得軒砦と名付けたそうです。また案内には『新編武蔵風土記稿』の龍穏寺の項に「寺中三技庵門前の小高き所にあり、此所古へ道真入道が居住せし所ならんといへり」とあります。龍穏寺は曹洞宗の古刹で、道新・道灌親子により再興された寺です。三技庵は龍穏寺の東に山中で一帯は杉林の中。中世の砦跡ですから、この時代の城跡の見方に慣れていないと、単なる山の中の平坦地にしか見えません。かろうじて生越町の案内が立っているので砦跡とわかります。砦跡の傍らに石仏が一体。「松室良樹禅定尼/天和二年壬戌(1683)」銘のある如意輪観音...太田道灌生地埼玉県越生町越辺川・龍ヶ谷

  • 里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書145富津市竹岡・仲村のお堂のショケラ里山の石神端書146富津市竹岡・金山の大日寺の岩屋里山の石神端書147富津市竹岡・観音堂の遍照金剛里山の石神端書148富津市竹岡・稲荷神社の狐里山の石神端書149富津市竹岡・上白狐の石仏覆屋里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

  • 里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書145富津市竹岡・仲村のお堂の庚申塔里山の石神端書146富津市竹岡・金山の大日寺の岩屋里山の石神端書147富津市竹岡・観音堂の遍照金剛里山の石神端書148富津市竹岡・稲荷神社の狐里山の石神端書149富津市竹岡・上白狐の石仏覆屋里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

  • 里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書145富津市竹岡・仲村のお堂の庚申塔里山の石神端書146富津市竹岡・金山の大日寺の岩屋里山の石神端書147富津市竹岡・観音堂の遍照金剛里山の石神端書148富津市竹岡・稲荷神社の狐里山の石神端書149富津市竹岡・上白狐の石仏覆屋里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

  • 里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書145富津市竹岡・仲村のお堂の庚申塔里山の石神端書146富津市竹岡・金山の大日寺の岩屋里山の石神端書147富津市竹岡・観音堂の遍照金剛里山の石神端書148富津市竹岡・稲荷神社の狐里山の石神端書149富津市竹岡・上白狐の石仏覆屋里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

  • 里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書145富津市竹岡・仲村のお堂の庚申塔里山の石神端書146富津市竹岡・金山の大日寺の岩屋里山の石神端書147富津市竹岡・観音堂の遍照金剛里山の石神端書148富津市竹岡・稲荷神社の狐里山の石神端書149富津市竹岡・上白狐の石仏覆屋里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

  • 里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書145富津市竹岡・仲村のお堂の庚申塔里山の石神端書146富津市竹岡・金山の大日寺の岩屋里山の石神端書147富津市竹岡・観音堂の遍照金剛里山の石神端書148富津市竹岡・稲荷神社の狐里山の石神端書149富津市竹岡・上白狐の石仏覆屋里山の石仏端書・千葉県富津市白狐川流域

  • 2023年石仏写真展

    日本石仏協会2023年石仏写真展期日1月17日(火)~22日(日)会場東京都千代田区一番町25JCBビル地下1F日本カメラ財団JCⅡクラブ25フォトサロン時間午前10時~午後5時最寄駅東京メトロ半蔵門線・半蔵門駅④出口偏平足の作品「限界集落の神仏」群馬県下仁田町西牧野中野・山神神社の山の神群馬県桐生市黒保根町・楡沢の石祠新潟県上越市柿崎区平沢・光宗寺の阿弥陀如来群馬県片品村針山・針山穴観音の狐東京都八王子市上恩方町・枠山神社の狛犬2023年石仏写真展

  • 昭和の石仏写真館(115)大田区の寺社②

    伊藤介二・昭和の石仏写真館(115)大田区大森最徳寺題目寺東貫森稲荷大森神社浅間神社諏訪神社昭和の石仏写真館(115)大田区の寺社②

  • 屋上菜園2023-01闘病日記8

    2023年、屋上の野菜も食道がんの私も新年を迎えることができました。*おみくじを引くのは年1回、千葉・船橋大神宮の初詣だけです。そのおみくじは財布に入れ、前年のおみくじを神社に返します。昨年のおみくじを見ましたら「大吉」でした。旅行のところには「さわりなし病用心」とあり、病気のところには「なおる信心が第一」とありました。10月より抗がん剤治療中の身としては、このおみくじ当たっているような、いないような一年でした。今年は4日から入院しての治療なので、初詣は退院してからにします。屋上菜園2023-01闘病日記8

  • 日本の石仏178(2022-12)

    ■発行・日本石仏協会〒254-0031神奈川県平塚市天沼7-59-305(中森)TEL0463-24‐0203■発売・青娥書房〒101‐0051東京都千代田区神田神保町2-10-27TEL03‐3264‐2023■2200円【表紙】六地蔵石塔/川崎市麻生区片平の修廣寺(高橋俊昭)【写真】▼子を抱く観音/栃木県足利市猿田町(𠮷田信吉)▼カイコの女神たち/群馬県下仁田町、山梨県北杜市(下平武)▼佉羅陀山地蔵大菩薩/山梨県北杜市須玉町の海岸寺、素朴な二尊仏/山梨県須玉町の海岸寺(中野高通)▼石碑に刻された仏像・准胝観音菩薩坐像(窪世祥彫刻)/東京都杉並区の大円寺(嘉津山清)【特集】地蔵アラカルト▼お地蔵さん(中野高通)▼宮城・仰返り地蔵▼宮城・虫喰地蔵菩薩▼秋田・ケダニ地蔵▼群馬・水子地蔵▼群馬・水子地蔵▼群馬...日本の石仏178(2022-12)

  • 石仏覆屋 千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書149富津市竹岡・上白狐の石仏覆屋建物を保存するために覆う屋根を覆屋(おおいや)、覆堂、鞘堂などとも書きます。路傍の石仏を集めて簡単な屋根をかけてあげるのも覆屋です。石仏は集落の外れなどの祀り場に立てられてきました。路傍に立つ単体の石仏も、道路整備などで一か所に集められることが多くなりました。上白狐の覆堂はブロックを積んで屋根を乗せた簡単な造り。内部には庚申と馬頭と9体の地蔵が集められていました。庚申塔は青面金剛を本尊とした六臂で、合掌するショケラをぶら下げています。「寛延二年(1749)」銘。地蔵は六地蔵と単体像が3体。馬頭は三面六臂の丸彫り坐像。中央で馬口印、法輪、数珠などを持っています。地蔵は六地蔵と3体の地蔵。六地蔵はお寺の参道に並ぶことが多く、路傍には珍しい。白狐川流域には各集落に...石仏覆屋千葉県富津市白狐川流域

  • 狐 千葉県富津市竹岡白狐川流域

    里山の石神端書148富津市竹岡・稲荷神社の狐道路脇の急な石段を登ると稲荷神社で、鳥居と狛犬代わりの狐が出迎えてくれます。狐がくわえているのは玉と巻物。玉は願いを叶えてくれる如意宝珠、巻物は荼吉尼天の経典などと説もありますが、よくわかりません。稲荷の狐がくわえるものに稲や鈎もあります。くわえている物の変化は、稲荷信仰が食物の神としてのミケツ儀礼から始まって仏教と習合、後に商売の神として町内や屋敷に祀られるようになって、願いが多様化した結果のようです。境内に立つ石燈籠の台座にも狐が彫られていました。こちらは自由に飛び跳ねる狐で、何をくわえているかはわかりません。社殿内にも狐が一対、こちらを向いて座っていました。両方とも何もくわえていません。稲荷神社の狐には、何もくわえていない狐と、稲・宝珠・経典・鈎をくわえる...狐千葉県富津市竹岡白狐川流域

  • 昭和の石仏写真館(114)大田区の寺社①

    密厳寺(東京都大田区大森)密厳寺地蔵菩薩地蔵案内庚申塔庚申塔案内昭和の石仏写真館(114)大田区の寺社①

  • 屋上菜園2022-12闘病日記7

    いつも手入れしている野菜や花や植木は育てている人に似てくるのでしょうか、食道がんが見つかって治療に入るにしたがって、野菜たちが枯れたり弱ったりしてきました。木や花に聞いてみたら、単に手入れがおろそかになったのが原因、と言っていました。*抗がん剤治療にはいろいろな副作用が伴うようです。特に吐気に悩まされた話は良く聞きます。しかし私は剤治療の後4・5日胃がもたれる程度ですんでいます。吐き気に対する薬はだいぶ進化しているようです。ただ抗がん剤は血液とともの体中めぐるわけですから、あちらことちらから異常が出るわけで、特に食べ物の入口と出口や弱っている場所に異変が出るようで、私は手先のしびれ、鼻血、口内のただれ、歯茎の痛み、硬い便に苦しんでいます。血圧も上がってきました。しゃっくりも出ました。それに頭がボーッとしま...屋上菜園2022-12闘病日記7

  • 遍照金剛 千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書147富津市竹岡・観音堂の遍照金剛集落奥の山際に観音堂が建っています。お堂が山際にある光景はこの国の原風景です。遍照金剛は空海の灌頂名。空海が唐に渡って真言僧・恵果から受けた結縁灌頂、目隠しをして曼荼羅の上に花を投げ、落ちた場所の仏と縁を結ぶこの儀礼で、空海の花は胎蔵・金剛両曼荼羅とも大日如来の上に落ちました。これにより恵果は空海に遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂号を授けました。遍照金剛は大日如来であり、空海をさす号にもなりました。観音堂の空海には「南無遍照金剛」銘。空海にすがります、の意味です。空海が座る椅子の下に水瓶と靴があります。空海の絵図には必ずこの二つが描かれています。特に水瓶は灌頂に使う閼伽という水が入っているもので、空海にとっては象徴的なものなのでしょう。江戸時代の『仏像図...遍照金剛千葉県富津市白狐川流域

  • 岩屋 千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書146富津市竹岡・金山の大日寺の岩屋房総の山は砂岩や泥岩でできていますから穴が掘りやすく、岩屋に納められた石仏をよく見かけます。岩屋というと鎌倉時代に鎌倉で墓所とした〝やぐら〟を思い出しますが、この形式は房総の安房地方にも伝わり多く残っています。金山の大日寺の岩屋を案内します。岩屋は寺に入口に地蔵が祀られたものが一つ。さらに寺の右裏手の岩崖に深い窟が二つ。一つには合掌する馬頭観音で、頭に小さな馬頭がついています。一つには宝珠と錫杖を持つ地蔵菩薩で、錫杖が見事です。他に浅い窟に地蔵菩薩と六地蔵。いずれも顔の風化が進んでいるのは窟が浅いためでしょうか。そしてこの並びには廻国供養塔や庚申塔も立っていました。それから大日堂の境内には塚があります。塚上の石造物は二基。一つは頭に金剛界大日の種字ブァンと...岩屋千葉県富津市白狐川流域

  • 昭和の石仏写真館(113)調布Ⅶ深大寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館(113)調布Ⅶ深大寺深大寺(東京都調布市)山門本堂不動滝地蔵菩薩昭和の石仏写真館(113)調布Ⅶ深大寺

  • ショケラ 千葉県富津市白狐川流域

    里山の石神端書145富津市竹岡・仲村のお堂の庚申塔墓地には、墓地だけ、墓地とお堂、墓地とお堂と庫裏の三つパターンがあります。白狐川流域には墓地とお堂という所がいくつかありました。仲村の墓地もその一つで、山際の高台に立派な御堂が建っていました。境内で見つけたのはショケラを持つ青面金剛の庚申塔。雑な造りのうえ風化も進んではっきりしない青面金剛ですが、左手にぶら下げているのがショケラです。ショケラの名称については縣敏夫氏の『図説庚申塔』(注)によく纏められていますので、抜粋します。ショケラという言葉は庚申信仰者の一部の地方で使われていて、江戸時代には「しょうけら、しや虫、しゃきら」などの呼びかたもあった。これを庚申研究書に初めて記されたのが、庚申信仰研究に第一人者窪徳忠が昭和31年に出した『庚申信仰』で、これが...ショケラ千葉県富津市白狐川流域

  • 里山の石仏端書 千葉県いすみ市須賀谷

    いすみ市須賀谷・妙昌寺の鬼子母神いすみ市須賀谷・能満寺の一石六地蔵いすみ市須賀谷・実相寺の僧・義海墓石いすみ市須賀谷・松尾神社の大日如来里山の石仏端書千葉県いすみ市須賀谷

  • 大日如来 千葉県いすみ市須賀谷

    里山の石神端書144いすみ市須賀谷・松尾神社の大日如来石仏が無いといわれた上総七里法華、日蓮宗の寺院には庶民信仰の石造物は少ない傾向があります。七里法華は上総土気城主酒井定隆(1435~1522)の領地すべてが日蓮宗ですから、地域全体をみても庚申塔などの石造物は少なく、寺の入口に髭題目の題目塔があるぐらいです。七里法華に隣接する須賀谷の松尾神社を訪ねました。山門に入ると二童子・二鶏・三猿の「安永五年(17769)銘の庚申塔。少し登って山包講の「浅間神社」、そして出羽三山関係の石造物があります。その一つは智拳印を結んだ金剛界大日如来。これこそ出羽三山奥の院の湯殿山本地仏です。その後ろには、上部に金剛界大日の種字アーンクと「湯殿山」を中心に月山/湯殿山銘の「明治四未年」の出羽三山供養塔。奥の方には「月山大神」...大日如来千葉県いすみ市須賀谷

  • 昭和の石仏写真館(112)調布Ⅵ深大寺不動堂

    伊藤介二・昭和の石仏写真館(112)調布Ⅵ深大寺不動堂深大寺不動堂(東京都調布市)不動堂不動明王不動明王矜羯童子制吒迦童子昭和の石仏写真館(112)調布Ⅵ深大寺不動堂

  • 僧・義海 千葉県いすみ市須賀谷

    里山の石神端書143いすみ市須賀谷・実相寺の僧・義海墓石石仏が無いといわれた上総七里法華、七里法華の七里は距離ではなく、戦国期の上総土気城主酒井定隆(1435~1522)の庇護のもと勢力を広げた日蓮宗一色の地域です。酒井氏の日蓮宗帰依は、定隆が江戸湾を船で移動中日泰上人(1432~1506)に出会い、その法力に感服して、将来城主になったときには領内を日蓮宗に改宗させると約束したことに始まります。七里法華に隣接する須賀谷の天台宗実相寺を訪ねました。「出羽大神/月山大神/湯殿大神」銘の明治三十三年造立石塔が立つ小高神社。境内の石造物は狛犬と石燈籠。神社の右奥が実相寺です。本堂左手の土手にあるのが直径70センチの円形墓石。80センチの台座に乗った墓石には頭に大日如来種字アーンク。続いて「至誠院賢者義海墓」銘があ...僧・義海千葉県いすみ市須賀谷

  • 一石六地蔵 千葉県いすみ市須賀谷

    里山の石神端書142いすみ市須賀谷・能満寺の一石六地蔵石仏が無いといわれた上総七里法華、上総土気城主酒井定隆(1435~1522)の領地の寺院すべてが日蓮宗の法華七里ですが、中世には天台宗が多かった土地です。その七里法華に隣接する須賀谷に天台宗の能満寺があります。寺の入口に建つ細長いお堂をのぞくと観音や地蔵の石仏が並んでいました。その中の一つが一石六地蔵。上下に三尊ずつ並ぶ地蔵は風化して持物がわかるのは数珠・錫杖・幢幡だけ。側面に「安永五丙申(1776)/願主善心」「施主女中六人」銘。地域の六人の女性が能満寺の善心和尚の指導で建てた六地蔵なのでしょう。お堂内には「正徳二(1712)銘がある聖観音菩薩と地蔵菩薩2基も立っていました。能満寺の山門には単体の船形光背の六地蔵が半ば埋もれていました。(地図は国土地...一石六地蔵千葉県いすみ市須賀谷

  • 伊藤介二・昭和の石仏写真館(111)調布Ⅴ諏訪神社

    諏訪神社(東京都調布市)庚申塔社殿寛文6年(1666)延宝4年(1676)元禄8年(1695)享保10年(1725)伊藤介二・昭和の石仏写真館(111)調布Ⅴ諏訪神社

  • 屋上菜園2022-12闘病日記6

    11月中旬、歯抜け状態の玉ネギをまとめたので、空いたプランターにキヌサヤの種を蒔きました。来年の春には実ってくれるはずですが、プランター5つはちょっと多すぎかな。*ただいま食道がんステージ4の抗がん剤治療中。抗がん剤治療は何種類もの薬を、胸に埋め込んだポートから点滴で入れますから時間がかかります。担当医は患者の症状とこれまでの治療データから、患者に効果的な薬を組み合わせます。どんな薬を点滴したかは、「診療明細書」が出ますのでそれで確認できます。11月末の点滴では生理食塩液・生食・デキサート注射液など10種類でした。それぞれの薬の効能はネットで調べることができ、このなかには副作用を抑える薬も入っています。この組み合わせが上手く作用すればガンの増殖を抑え、副作用も抑えることができます。したがって、抗がん剤治療...屋上菜園2022-12闘病日記6

  • 鬼子母神 千葉県いすみ市須賀谷

    里山の石神端書141いすみ市須賀谷・妙昌寺の鬼子母神石仏が無いといわれた上総七里法華、日蓮が誕生した千葉県は日蓮宗の寺院が多いところ。中世から日蓮宗の布教による寺院があり、なかでも東上総は戦国初期の上総土気城主酒井定隆(1435~1522)の庇護もあって、この領地のほとんどが日蓮宗でその範囲を七里法華と呼んでいます。七里法華に隣接する須賀谷の日蓮宗寺院を訪ねました。人家の少ない上須賀谷の谷奥に日蓮宗の妙昌寺と本乗寺が100メートルも離れないで建っています。どちらも入口に「南無妙法蓮華経」に髭題目の題目塔が立っています。初めに妙昌寺を訪ねますと、参道をはじめ境内にも石造物はなく、あっても新しい石燈籠ぐらいです。寺の裏側もあり僧侶の墓石も質素です。そんななかで見つけたのが「鬼子母神」銘の石塔。側面に「昭和七年...鬼子母神千葉県いすみ市須賀谷

  • 里山の石神端書・栃木県那須塩原市板室、百村

    里山の石神端書134那須塩原市板室・大日堂の白湯山供養塔里山の石神端書135那須塩原市板室・羽黒神社近くの不動明王里山の石神端書136那須塩原市油井・農業生活センターの薬師堂里山の石神端書137那須塩原市百村・山神宮の日記念仏塔里山の石神端書138那須塩原市百村・光徳寺の石橋供養塔里山の石神端書139那須塩原市百村・愛宕神社の馬頭観音群里山の石神端書140那須塩原市百村・穴沢子安地蔵堂の性神里山の石神端書・栃木県那須塩原市板室、百村

  • 性神 栃木県那須塩原市百村

    里山の石神端書140那須塩原市百村・穴沢子安地蔵堂の性神百村の東の穴沢の道端に建っているお堂が穴沢子安地蔵堂です。お堂内部の様子はわかりませんが、本尊が子安地蔵なのでしょうか。那須塩原市の案内ではこの地蔵に安産子育て祈願の獅子舞があるそうです。お堂脇の木祠には石造の地蔵菩薩が鎮座しています。錫杖に宝珠を持つ代表的な地蔵の姿。子安地蔵という子供を抱いた地蔵を想像しますが、これも子安地蔵なのでしょうか。境内に子授けの神らしき石があります。大きな自然石は女陰状の石、その下に男根状の石が置かれています。地元の人は何と呼んでいのかわかりませんでしたので、子授けの性神としておきます。性神栃木県那須塩原市百村

  • 伊藤介二・昭和の石仏写真館(110)調布Ⅳ青渭神社

    青渭神社(東京都調布市)本殿案内けやき扁額伊藤介二・昭和の石仏写真館(110)調布Ⅳ青渭神社

  • 馬頭観音群 栃木県那須塩原市百村

    里山の石神端書139那須塩原市百村・愛宕神社の馬頭観音群愛宕山は京都にある本山に倣って集落の西の小高い丘の上に建つケースが多い。百村の愛宕山も集落の西の山に建つ。入口から一直線に登る階段も愛宕山の特徴です。広い境内では百村に伝わる百堂念仏舞が行なわれます。社殿の左側には馬頭観音の石仏が並んでいます。この那須地方に多い頭に2から3つの馬頭を載せのものから、「馬頭観音」銘の上に馬頭を置くものなど、その数62基。造立年は明治以降のものです。百村には神社2社、寺院2寺がありますが、それほど大きな集落はありません。それにもかかわらずこれほどの馬頭があるのは、信仰心が篤かったからでしょう。神社近くの老女の話によると、馬頭観音があったのは愛宕神社ではなく、さらに山奥に入ったところでかつては祭りが盛大に行われ、子供のころ...馬頭観音群栃木県那須塩原市百村

  • 石橋供養塔 栃木県那須塩原市百村

    里山の石神端書138那須塩原市百村・光徳寺の石橋供養塔光徳寺は曹洞宗の寺。山門手前に禅宗の寺によく見かける「不許禁酒入山門」銘の結界石が立っています。酒を飲んだ人の境内立ち入りを禁止する意味です。結界石には葷酒(臭いの強い野菜や酒)銘の「禁許葷酒」もあります。結界石の側面に「石橋供養塔」銘が立っています。裏側に「相対成橋両岩石渡」で始まる造立の目的が記されている、明和三丙戌(1766)の石橋供養塔です。全国の石橋供養塔を調査している南川光一氏(注)は、石橋供養塔の造立者として念仏や庚申の講中を多いことを指摘しています。念仏や庚申の集まりは夜、儀礼のあとは飲食しながらの談義。このなかでいろいろな話のなか、作場道の整備や橋架け、橋架け替えなども話し合われたことが想像できます。それにしても結界石と一緒にした石橋...石橋供養塔栃木県那須塩原市百村

  • 伊藤介二・昭和の石仏写真館(109)調布Ⅲ常性寺

    常性寺(東京都調布市)本堂案内馬頭観音地蔵菩薩伊藤介二・昭和の石仏写真館(109)調布Ⅲ常性寺

  • 日記念仏塔 栃木県那須塩原市

    里山の石神端書137那須塩原市百村・山神宮の日記念仏塔百村は会津中街道の村、小さいながらも集落内に2社2寺もある古い村です。集落北の外れの道端から少し入った杉林のなかに山神社が建っています。石鳥居の脇に立つのは「日記念仏」銘の石塔。あまり目にしないこの石塔については石田年子氏の「三山信仰の痕跡」(注)から案内します。「日記念仏とは三山系修験が江戸時代初期より、三山信仰流布の折に広めたとされるもので、つくば市栗原に建つ慶長八年(1603)を初見に利根川下流域に三十数基と他県に数基点在する比較的珍しいものである。日記念仏は月々の決められた日に、寮などに集まり日記念仏の和讃をとなえるというもの」。三山系修験の三山は出羽三山です。百村は念仏の盛んな村だったようで、村内や集落南の外れに建つ愛宕神社では百堂念仏舞が行...日記念仏塔栃木県那須塩原市

  • 薬師堂 栃木県那須塩原市

    里山の石神端書136那須塩原市油井・農業生活センターの薬師堂油井集落の農業生活センター裏に鹿島神社が建っています。神社の境内に集会所が建てられた情景はよく見かけます。山間部の集落にとってかつては祭りをした神社の広い境内は何をするにしても好都合なスペースです。神社脇に屋根が横向きになったいくつかの石祠が無造作に並んでいました。神社の脇には小さなお堂があり、中央に置かれた棟札状の木札に「薬師種字バイ奉再建薬師瑠璃光如来」とありますから薬師堂です。この木札が御本尊なのしょう、薬師の脇には伐折羅・波夷羅・安底羅・摩虎羅など、薬師の眷属である十二神将の名もあります。御本尊の前には石造物が3体。いずれも頭巾に前掛けがあり、尊名の確認は早々にあきらめました。薬師如来・月光菩薩・日光菩薩の薬師三尊のようでもありますが、最...薬師堂栃木県那須塩原市

  • 伊藤介二・昭和の石仏写真館(108)調布Ⅱ祇園寺

    祇園寺(東京都調布市)本堂十王堂閻魔王地蔵菩薩庚申塔元禄15年(1702)伊藤介二・昭和の石仏写真館(108)調布Ⅱ祇園寺

  • 屋上菜園2022-11闘病記5

    気がついたらタマネギ苗、私の病状に合わせるかのように半分くらい根付かず消えてしまいました。抗がん剤投与の副作用から体調が戻ったら、歯抜け状態のところに植え替えようと考えています。*11月中旬、2回目の通院抗がん剤投与をしてきました。朝7時過ぎに前回と同じように受付機号を取って受付機の開始を待ちますが、すでに大勢の待ち人です。受付機は3台で、時間になると病院の人が番号札順に受付機に誘導。受付機に診察券を入れると、その日のスケジュール表と呼出器が出てきます。呼び出しは診察受付をしてから1回目診察が近いコール、2回目診察室に入ってくださいコールです。診察受付で名前・生年月日を言うと、それを聞いていた後ろの待合席に座っていたご婦人からカミさに声がかかりました。聞くと、娘の嫁ぎ先のお母さんの友人の方で、ご主人が同じ...屋上菜園2022-11闘病記5

  • 里山の石神端書135 不動明王(栃木県那須塩原市)

    栃木県那須塩原市板室・羽黒神社近くの不動明王板室の大日堂を一ノ木戸とした那須の白湯山信仰は、江戸時代初期に出羽三山を勧請したものとされています。それは那須の茶臼山を月山とし、お湯の湧き出る御宝前を湯殿山としたもので、山中に志津という場所もあるので、山形の大井沢から志津、湯殿山、月山を移し祀ったものと見ています。では板室の羽黒山はどこに祀ったのか。これはわかりませんでした。ところで今回、板室から百村へ向かう阿久戸集落の道端に「羽黒山神社」という神社を見つけました。これで那須山麓に出羽三山が揃うのですが、この羽黒山神社の情報はまったくありませんので、白湯山や出羽三山信仰に関係ある神社なのかはわかりません。神社の先に石祠に納められた不動明王があります。おかしな祀り方ですが石祠には「不動尊氏子連名/大正五年」とあ...里山の石神端書135不動明王(栃木県那須塩原市)

  • 里山の石神端書134 白湯山(栃木県那須塩原市)

    栃木県那須塩原市板室・大日堂の白湯山板室は江戸時代の元禄8年(1695)に開かれた会津中街道の宿場。板室の西の那珂川支流の谷にある板室温泉はこの宿場の人たちが経営していました。宿場奥の大日堂にその人たちがかかわった道標が立っています。山王峠越えの会津街道が災害で通行不能になったときに、急遽開かれたのが那須大峠越えのこの会津中街道でした。しかし山中の街道がすぐにできるわけはなく、それ以前に板室に大日堂を建立して三斗小屋から那須の茶臼岳に入る白湯山信仰の道があって、それを利用して街道としたようです。白湯山信仰は三斗小屋北の大峠を越えた会津にも広まり、こちらからも信仰の道があったのです。大日堂の白湯山塔には種字胎蔵界大日如来(アーンク)の下に「白湯山」銘が入っています。那須に白湯山を開いたのは那須の南山麓百村の...里山の石神端書134白湯山(栃木県那須塩原市)

  • 里山の石神端書 群馬県片品村花咲

    片品村花咲・登戸の薬師堂片品村花咲・登戸の天狗山片品村花咲・山崎の武尊神社片品村針山・穴観音の蚕稲荷里山の石神端書群馬県片品村花咲

  • 伊藤介二・昭和の石仏写真館(107)調布Ⅰ

    金龍寺(東京都調布市)本堂庚申塔地蔵菩薩人頭杖伊藤介二・昭和の石仏写真館(107)調布Ⅰ

  • 里山の石神端書133 蚕稲荷(群馬県片品村)

    群馬県片品村針山・穴観音の蚕稲荷針山は武尊山の南山麓、標高1000メートルの高原の集落です。ここからさらに30分ほど登った先にあるのが穴観音。登山口に立つ片品村の案内に、本尊の如意輪観音は寛政十年(1798)、越後国中蒲原郡の東福寺の通寛和尚が背負ってきたもの、とあります。沢沿いの穴観音の道を辿ると大きな赤い鳥居があり、扁額に「正一位蠶稲荷大神」の文字。この道は蚕(かいこ)稲荷への道でもあります。案内によると蚕の飼育法の一つ〝いぶし飼い〟という養蚕技法を発見し普及に努めた永井紺周郎の功績を称える稲荷のようです。この技法は蚕室内で火をおこして煙を充満させるもので、永井流養蚕術として群馬県北部や中部に普及したそうです。沢の流れが細くなったあたりの左手に立派な石段が現れます。これが穴観音への最後の登り。石段下に...里山の石神端書133蚕稲荷(群馬県片品村)

  • 里山の石神端書132 石祠(群馬県片品村)

    群馬県片品村花咲・山崎の武尊神社神社の境内にはさまざまな神が勧請され、木祠や石祠に祀られています。なかには長屋のような覆い屋に多くの神様を祀ったところもあります。これが群馬の赤城山麓や奥利根ではとてつもない石祠を並べた光景に出会うことがあります。山崎の武尊神社もそうでした。武尊神社は諏訪神社、八坂神社、不動堂などもある広い境内です。その奥にL字型に並んだ石祠の数は61社。手前の大きな2祠以外はみな同じ大きさで、これだけ並ぶと壮観です。双体道祖神や天照・大己・少彦真名・埴谷・倉稲魂の五神神名塔もあります。普通五神神名塔は五角柱ですが、ここでは六角柱で一面に造立者銘が入っています。諏訪神社は栃久保と鍛冶屋集落の二社を合祀したもので、鳥居の額束と社殿の扁額が同じような形になっています。扁束、よく見ると造るは大変...里山の石神端書132石祠(群馬県片品村)

  • 屋上菜園2022-11闘病記4

    10月初めに植えたタマネギ苗、退院して見ると枯れてしまったのが多いにビックリです。植えるのが早すぎたのでしょうか?ニンニクは芽が出て順調に成長しています。*10月下旬、初めての通院抗がん剤治療のため病院に行ってきました。朝7時過ぎに病院に入ると待合室はすでに多くの待ち人。1日に200人もの抗がん剤の通院患者が来ると聞いていましたが、抗がん剤は通院治療が主流のようです。まずは受付の順番札を取って受付機械の開くのが待ちました。この待ち時間はこの後の採尿・採血、臨床研究センターで治験の問診、担当医の診察、通院治療センターでの投薬と続きました。治療センターでの点滴投薬は約4時間。終わったのは午後4時、すべて胸に装着したポートからでした。投薬はこれで終わりでなく、この後46時間点滴投与の携帯型ポンプ(トレフューザポ...屋上菜園2022-11闘病記4

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