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  • 里山の石神端書260 大杦大明神(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の田代・稲荷神社の大杦大明神長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。田代の稲荷神社は小高い丘の上。ちんまりした社殿の祭壇を守ように狐が一対対峙していました。田代青年団が寄贈したふっくらとした狐です。境内の隅に隠れるように祀られていた石祠が「大杦大明神」です。「文化八年酉(1825)」造立。大杦の杦は杉の略字。大杦大明神は茨城県稲敷市阿波(あんば)にある大杉神社に違いなく、江戸時代にこの稲荷神社に勧請されたのでしょう。あんば様と称された大杉神社は、古来霞ヶ浦の岬にあった神社で漁民の守護神として祀られ、神仏習合の時代は不動明王を本尊とする安穏寺で、近世には航海の神として茨城から東北の東海岸沿いに信仰が広まった神です。宮城の気仙沼には安波山があり、大杉神社が祀られていまし...里山の石神端書260大杦大明神(千葉県長柄町)

  • 昭和の石仏写真館(161)川口の寺社②

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市薬林寺(朝日)阿弥陀如来飯塚路傍・猿田彦氷川神社(南町)庚申塔専称寺(上青木)庚申塔安楽寺(上青木)地蔵菩薩大信寺(前上町)大信寺(前上町)地蔵菩薩前川神社(前川町)前川神社・狛犬前川神社・狛犬前川神社・大山石尊大天狗昭和の石仏写真館(161)川口の寺社②

  • 里山の石神端書259 延命地蔵(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の田代・本光寺の延命地蔵長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。本光寺は曹洞宗の小さな寺、寺の先に石造物が並んでいました。そのなかに目立つのが地蔵菩薩と石幢です。地蔵菩薩には立像・坐像がありますが、坐像で左足を下に垂れた延命地蔵もあります。本光寺の地蔵は光背や両手が欠けていますが、形の整った延命地蔵です。延命地蔵は日本で生まれた姿とされていて、地蔵を頼る人はこの足を立ちあがるための一歩踏み出す姿と見ました。『日本仏像辞典』(注)では「延命地蔵の名はインド成立の経典に中にはなく、『延命地蔵経』は和製の偽経とされている」とあります。地蔵の信仰の一つは子供の健全は生育を願うもので、延命地蔵の立ち上がろうとする姿は、一時でも早く救済してくれると見えたはずです。「明和五戌子(...里山の石神端書259延命地蔵(千葉県長柄町)

  • 里山の石神端書258 龍頭(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の刑部・八重垣神社の龍頭(木彫)長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。初めに向かったのは八重垣神社。入口の案内に「元応2年(1320)村人たちは月川の神輿山に祠を建て、スサノオノ命をまつり氏神としたという。安永7年(1778)現在地に社殿を新築して移り、刑部天王宮と称し、刑部・立鳥・鴇谷三か村の鎮守となった。(略)明治元年八重垣刑部神社と改め、刑部一村の鎮守となった」とありました。天王宮の祭神は牛頭天王で、京都祇園・八坂神社の祭神。牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神。これがこの国では疫病除けの神・スサノオノ命の垂迹として祀られてきました。これが明治維新の廃仏毀釈で仏教系の牛頭天王はスサノオノ命になりますが、八重垣神社の祭神の変化をみると、この国の祭神名変遷の様子が...里山の石神端書258龍頭(千葉県長柄町)

  • 野田市の庚申塔

    石田年子令和6年1月、飯島印刷サービス石田年子氏から『野田市の庚申塔』をいただきました。野田市は中世の庚申板碑から近世初期の青面金剛の庚申塔などが残り、庚申信仰の研究には欠かせない地域です。この野田市にお住まいの石田氏は早くからこの庚申塔に関心を寄せ、また千葉県立関宿城博物館調査協力員としてこの地域の石造物調査に取り組み、これまで多くの調査報告・論考を発表してきました。そして今回、ライフワークとしていた野田市の庚申塔を、1基ずつ所在地や銘文などのデータと写真でまとめ上げました。その数819基という膨大な資料です。【解説野田市の庚申塔】1野田市庚申塔の歴史2野田市庚申塔の概要3庚申塔の諸相4野田市の初期庚申塔一覧表/延宝期迄【野田市地区別庚申塔調査報告】【付記庚申塔一覧表】野田市の庚申塔

  • 里山の石神端書 日光市栗山村

    里山の石神端書252道標(日光市旧栗山村大笹峠)里山の石神端書253懸仏(日光市旧栗山村土呂部)里山の石神端書254石幢(日光市旧栗山村日向)里山の石神端書255二宮金次郎(日光市旧栗山村日向)里山の石神端書256狐(日光市旧栗山村日向)里山の石神端書257大日如来(日光市旧栗山村野門)里山の石神端書日光市栗山村

  • 里山の石神端書257 大日如来(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)野門の栗山東照宮栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村から外にでるには鬼怒川沿いに川治へ、山越えは黒部から大笹峠を越えて日光・今市へ、野門から富士見峠を越えて日光に出る道がありました。野門には大山栗山東照宮があります。境内にある案内によると、野門は江戸時代に日光御神領戊となり、辰戦争のときには富士見峠の戦いに駆り出され2名の死傷者を出しています。さらに幕府・会津方は日光東照宮境内の由緒宿坊に祀ってあったと思われる男体山三社神体(男体山・女体山・太郎山)と徳川公の御神体を野門集落に避難・移し祀り、これが野門東照宮の始まりとされています。大日如来は野門東照宮の脇、野門に古くからあった大山祇神社の境内奥に座しています。髪を観音風に結った智...里山の石神端書257大日如来(栃木県日光市旧栗山村)

  • 里山の石神端書256 狐(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)日向・男体山神社の狐栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村の神社を見ると、それぞれの集落に薬師堂が建ち、石造物も日光に関係する神仏がありました。日向の男体山神社もその一つで、おそらく墓碑だと思いますが五輪塔二基を一石に彫ったものなどは日光周辺でよく見られる古いものです。青面金剛の庚申塔は日光型ではない一般的なもの。文字庚申塔もありました。男体山神社も日光を代表する山ですから、その裏山の先にある栗山の男体山神社入口に「男体山/文化五辰(1808)」銘の石燈籠が立っているのは自然な成り行き。「聖徳太子」銘石塔もありました。狐は日光とは関係ありませんが、男体山神社に登る石段脇の石祠群のなかに、石祠を挟むような形の狐一対が藪のなかにひそんで...里山の石神端書256狐(栃木県日光市旧栗山村)

  • 昭和の石仏写真館(160)川口市の吉祥寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市末広の吉祥寺恵比寿大黒天毘沙門天吉祥天寿老人福禄寿布袋昭和の石仏写真館(160)川口市の吉祥寺

  • 里山の石神端書255 二宮金次郎(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)日向・子安地蔵堂前の二宮金次郎栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。その中の日向は大きな集落で、廃校になった小学校の前に子安地蔵堂が建っていました。平成元年に建てられたお堂ですが、堂内に「昭和七年」の寄進者名簿板がありますので、昔からあったお堂のようです。扉を開くと正面仏壇には5体の石仏が並んでいます。しかしどれも赤い頭巾と前掛けをしてあって尊名はわかりませんが、正面の地蔵の前掛けから子供の頭が飛び出していますから、これが本尊子安地蔵なのでしょう。他の石仏は運び込まれたという印象です。昔は頭巾などすべて外して調べたものですが、最近は病のためその元気はありません。廃校小学校の片隅に二宮金次郎の像が立っていました。薪を背負い本を読んでいる...里山の石神端書255二宮金次郎(栃木県日光市旧栗山村)

  • 里山の石神端書254 石幢(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)日向・薬師堂の石幢栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。日向の野尻は栗原村の東の入口で、集会所の奥に薬師堂が建っていました。その脇の石幢は、周辺の道路工事の折に集められたものと、集会所に集まっていた女性から教えていただきました。女性の話では、栗山村には集落ごとに薬師堂があり、今も信仰が続いているとのこと。石幢は4基。その中の一基には「天文二年(1533)」銘と日光市教育委員会の案内があります。天文は中世末期、戦国期の造立で、龕部の六地蔵は古風な像容です。ところで天文二年は癸巳となりますが、この石幢は「丁酉」となっていて干支からすると「天文六年」になります。他の石幢は「文政九年(1826)」「安政四年(1857)」銘がありました。中世の...里山の石神端書254石幢(栃木県日光市旧栗山村)

  • 昭和の石仏写真館(159)川口市の光音寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市領家光音寺日待供養塔庚申塔・元禄三年(1689)板碑板碑・文明五年(1472)板碑板碑・歴応三年(1340)板碑板碑昭和の石仏写真館(159)川口市の光音寺

  • 里山の石神端書253 懸仏(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)土呂部・瀧尾神社の懸仏栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。栗山村でも土呂部(どろぶ)は山間の標高900メートルの盆地にある集落。気象観測所があり、冬になると関東の最低気温測定地として天気予報に土呂部の名が登場します。黒部ダムから街道を離れて、石仏が並ぶ先が土呂部への道。土呂部集落の奥にあるのが廃校になった小学校の跡地に建つ公民館。その脇に瀧尾神社が建っています。参道脇に木祠が10、石祠が3並び、石段を上った先に瀧尾神社。神社は小さな木祠。その中に納められているのが阿弥陀如来の懸仏。公民館に隅に立つ案内には「青銅の板を打ち出したもので、直径29センチの円形の掛仏には、寛政九年(1797)の記載があり、県内でも工芸的にも大変貴重なもので...里山の石神端書253懸仏(栃木県日光市旧栗山村)

  • 2024年石仏写真展

    日本石仏協会2024年石仏写真展期日1月17日(火)~22日(日)会場東京都千代田区一番町25JCBビル地下1F日本カメラ財団JCⅡクラブ25フォトサロン最寄駅東京メトロ半蔵門線・半蔵門駅④出口*偏平足の作品「薬師堂の石幢」栃木県日光市野尻(栗山村)薬師堂の石幢Ⅰ薬師堂の石幢Ⅱ師堂の石幢Ⅲ2024年石仏写真展

  • 里山の石神端書252 道標(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)上栗山・大笹峠の道標栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村から外にでるには鬼怒川沿いに川治へ、山越えは黒部から大笹峠を越えて日光・今市へ、野門から富士見峠を越えて日光に出る道がありました。いま大笹峠一帯は牧場となり、日光から車道も峠の北になる黒部集落まで通じています。その峠に石仏が二体、車道脇に鎮座していました。いずれも頭部が新しく差し替えられた石仏で如来か菩薩風で尊名はわかりません。一つの石仏は道標を兼ねたもので、台座は「右ゆにし/黒部/土呂部左可わまた/上栗山/野門」と刻されていました。右は湯西川へは、黒部から土呂部を通るという意味でしょうか。土呂部は冬の天気予報で関東の最低気温の観測地としてよく報じられる集落です。台座側面に「...里山の石神端書252道標(栃木県日光市旧栗山村)

  • 屋上菜園2024-01闘病日記22

    2024年、明けましておめでとうございます。キヌサヤの成長が例年になく早く、つるを伸ばしてきたので、ネットを張ってやりました。12月初めに蒔いた小松菜は、芽がでませんでした。野菜の種には発芽時期があり、それ以外に蒔いても芽がでないというのが常識で、いい加減な屋上菜園ですからまだ間に合うだろうと非常識なことをしますので、ときどき失敗します。*食道がん・ステージ4の抗がん剤治療も2年目。無事、新年を迎えることができました。12月初めにインフルエンザ、中旬に6回目の新型コロナワクチンの接種をしました。いまさらという感じもありますが、抵抗力のない身体だし、外にも出たいし、もう少しやりたいことがあるので接種しました。そして、12月中旬のCT検査では食道あたりのリンパに転移したがんが大きくなっているとのこと。抗がん剤...屋上菜園2024-01闘病日記22

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