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  • 疑心往生について・補足

    疑心往生の件は、拙このポストを参考にして頂けたらと思うが、https://www.facebook.com/share/p/tKMmH6eQrKn8MDsz/疑心が微塵でもあれば、真実浄土への往生は不可であります。これは、煩悩障が微塵でもあれば、空性を了解できないという事態と同じようなものであると考えると分かりやすいでしょう。もちろん、疑心があっても真実浄土以外のところへの往生は可であります。そちらを想定する場合もあるため、それらそれぞれの往生先へと向けた条件の相違については、より細かく説明していく中で、誤解を生まないようにするのが望ましいことになるでしょう。いずれにしても真実浄土への往生を勧めるのであれば、疑心は完全に無くす事態としなければならないというのが、親鸞聖人の意であると考えなければならないので...疑心往生について・補足

  • 四條縄手古戦場(東大阪市上四条) 地鎮法要・追善法要 楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養 経塚前祠堂にて厳修 法要の様子と経塚古墳について 2024年5月29日

    ようやくに東大阪市上四条の字・天王堂が芝・西光寺廃寺跡地・四條縄手古戦場跡・砂山城跡へ赴き、法要を厳修いたしました。これで安心して畑小路地蔵尊の堂内五輪塔二基の元々あった場所についての調査にも入ることができます。また、経塚の内部につきましても少し扱わせて頂いております。読経、回向も編集なしとなっており、全体がかなり長くなっていますので、ご興味のあるところだけご覧頂けましたらと存じます。四條縄手古戦場(東大阪市上四条)地鎮法要・追善法要楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養経塚前祠堂にて厳修法要の様子と経塚古墳について2024年5月29日https://youtu.be/PW2mDGLL-EU?feature=shared四條縄手古戦場(東大阪市上四条)地鎮法要・追善法要楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養経塚前祠堂にて厳修法要の様子と経塚古墳について2024年5月29日

  • 疑心往生・疑心残存の議論について

    この問題は、疑心のないこと、信心獲得したことを明確に証明するのが難しいのに起因する問題であり、また、自内証であるため、第三者からの判定も無理なもので、何がそもそも疑心であり、何が自力にあたるものかも、かなり個々人の恣意的なものに委ねることになってしまう面もあり、議論自体が堂々巡り、水掛け論に陥るのも仕方のないところがあります。まあ、疑心なく、自力でないとしても、周りからはそれは自力、功徳行、雑行、雑修と見られてしまうことも多々あるわけです。行動一つからでもです。例えば、道にカタツムリがおり、車に轢かれて亡くなると可愛そうだと思って、脇に避けてやる行為でも、本人の動機、内証などわかりようがないわけです。ある者は不殺生戒、慈悲行、功徳行として行う場合があるでしょうし、これは功徳行、自力行として行うのではない、...疑心往生・疑心残存の議論について

  • 古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて 四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて 2024年5月27日

    忌み地や禁足地への向き合い方について古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて2024年5月27日https://youtu.be/L0U-HHhNrlc?feature=shared古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて2024年5月27日

  • 上四条・西光寺廃寺跡・四條縄手古戦場跡地調査の前に楠木家・戦没者供養を勤める予定

    上四条の西光寺廃寺跡地調査は、単なる史跡調査や研究目的ではなく、やはりまずは供養をメインへと切り替えることにする。近日に西光寺廃寺跡、楠木正行公、正時公五輪塔が元あったところの調査へと向かう予定だが、すでにここだろうというところは最初に赴いた時に感じてはいる。おそらくは間違いないだろう。また、周囲においては、やはり、古来より古戦場跡であるだけに禁足地、忌み地としての伝えも多い。つまり、失礼があれば、祟りがあるということだ。気をつけなければならない。明治二年の村の願書にもあったように、以来、慰霊を丁寧になされてはいたが、もうここ数年は滞りがちとなっているのは明白で、明治、大正、昭和、平成と慰霊を続けていた施主たちが、次々と亡くなり、後の世代への継承が残念ながらなされなかったためであろう。花草神社跡の小祠が無...上四条・西光寺廃寺跡・四條縄手古戦場跡地調査の前に楠木家・戦没者供養を勤める予定

  • 上四条・経塚の祠堂

    上四条、経塚の祠堂、下記のブログ記事は10年前だが、まだ祭祀はしっかりなされていたようである。ただ、現在でも注連縄、紙垂(しで)はまだ代えられているようには思うが・・河内彷徨~郷土を見にゆく~私の故郷「中河内」を見に行きますhttp://ovw100bj.blog129.fc2.com/blog-entry-1061.html上四条・経塚の祠堂

  • 四條縄手の合戦の怨霊を慰霊したい旨の願書・四条村

    上四条(四条村)で実際に出されていた四條縄手の合戦の怨霊を慰霊したい旨の願書が記されてある項。祠、社建立は、恐らく経塚の前にあった社となったのであろう。菊水の紋が瓦に入ってあったことから、これに間違いない。ということは明治期の建立になる。公碑は、大正以降になるだろうか(大正十四年(1925)建立のようです)。やはり、元々に五輪塔、塚があったとされるところに建てられた可能性が高いが、隠された五輪塔の大きさから考えても、石組があまりに大き過ぎて不自然である。また、二石塔は並んであったと思われる。前回、公碑に赴いた際にピンときていたところが別にあった。間違いなくそこだと思っている。今回も不思議に御霊に呼ばれたのかもしれない。四條縄手の合戦の怨霊を慰霊したい旨の願書・四条村

  • 楠木正行公墓所・公刊物からの考察

    楠木正行公の往生院胴塚墓所、上四条西光寺跡墓所、四條畷雁屋南墓所、公刊されているものからの歴史認識としては、上四条の河内鑑名所記が、今のところ一番古いことになる。次に大日本史、そして、和漢三才図会、諸州巡覧記となる。編纂時、あるいは調査時、見聞から考えても、河内鑑名所記が一番古くなる。次に、大日本史と諸州巡覧記は同時期ぐらいになるだろうか。政府(幕府)公刊としての考証からは、やはり大日本史となる。もちろん、往生院における鷹司信房公による墓所整備が、1650年代であるため、その際に墓所としての認識に至る何らかの文献が、その前にはあったと考えられる。それは、大日本史編纂でも参考とした資料であったと思われる。彰考館による南朝関係資料の徹底調査においてで。もしかしたら、彰考館に残ってあるのかも。空襲でほとんど焼け...楠木正行公墓所・公刊物からの考察

  • 四條縄手の戦い跡・東大阪市上四条町の伝承

    上四条町には、いまだに馬の嘶き、軍勢の足音や雄叫びが山から響き渡るということがあるらしい。四條縄手の戦いは、最後には往生院城、客坊寺城、砂山城の正行軍は、山側からの佐々木道誉軍、東高野街道からは高師直軍に挟まれ、阿鼻叫喚の地獄であったと想像ができる。南朝方の城、砦、寺院、館、朝廷内裏などは吉野に至るまで容赦なくことごとく焼き払われてしまった。いかほどの無念であったであろうか。関連かもしれないが、やはり、往生院でも謎の地響きがいまだによくあり、小さい頃から聞いているが、南北朝時代の侍たちがこの辺りをまだ彷徨っているということであるのかもしれない。また、四條村には、明治期に村が騒動しく、落ち着きがなく、諍いが絶えないのは、四條縄手の戦いで亡くなった怨霊たちの仕業であるから、楠木正行の御霊を鎮めたいとの切実な訴...四條縄手の戦い跡・東大阪市上四条町の伝承

  • 西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!? 2024年5月21日

    ついに畑小路地蔵尊にある楠木正行・正時兄弟の五輪塔の元々祀られていたところが特定できた。やはり、砂山城跡だったが、そこには西光寺というお寺もあったことがわかった。また一つの謎が解けた。更に、村では当時に色々と障りが多く混乱が起こっていたのは、四條縄手の戦いで亡くなった者たちの供養をちゃんとしてないからだということで、供養をするための請願も出されていたことも改めて知った。しかし、逆に四條畷神社建立を避けるために正行公・正時公のお墓を壊して、五輪塔を隠匿するのでもあるが・・果たして、五輪塔が元にあったところへと戻ることは、これから先いつかあるのだろうか・・西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!?2024年5月21日h...西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!?2024年5月21日

  • 新しい領解文問題・有志の会いまだ本丸にたどり着けず

    ようやくにかなり踏み込んではいるが、今更感でもあり、遅きに失している。これを機に浄土真宗でも中観思想について学ぶようにするのが良いであろう。何よりもツォンカパ大師の思想考究をお勧めする。ならば二度とこのような間違いも起きないことであろう。とにかく、まだ有志の会も何が問題の本丸であるのかについては見えていないようでもある。これではまだまだ解決には時間が掛かるだろう。附論―冊子の内容と記述手法の問題―このたび公開された総合研究所冊子(以下、「冊子」と呼ぶ)について、一部では「学問的に厳正に立論された満井論文」などと評価し公言する人もいるようであるが、率直に言って、この冊子の内容は、「論文」と呼ぶに値するものではない。この冊子は、一見すると様々に論を展開しているように見え、それを証明しているかのように先学の文章...新しい領解文問題・有志の会いまだ本丸にたどり着けず

  • 花草神社跡(東大阪市上四条町)と神宮寺小太郎首塚 楠木正成公・正行公親子二代に仕えた八尾市神宮寺の武将 2024年5月20日

    花草神社跡(東大阪市上四条町)と神宮寺小太郎首塚楠木正成公・正行公親子二代に仕えた八尾市神宮寺の武将2024年5月20日https://youtu.be/cS6TYIuGEGg?feature=shared花草神社跡(東大阪市上四条町)と神宮寺小太郎首塚楠木正成公・正行公親子二代に仕えた八尾市神宮寺の武将2024年5月20日

  • 四條縄手の戦いの史跡群をめぐる(東大阪市上四条町) その激戦の痕跡 霊光院 旧楠公院 畑小路地蔵尊 歯神さん 砂山城跡 2024年5月20日

    四條縄手の戦いの史跡群をめぐる(東大阪市上四条町)その激戦の痕跡霊光院旧楠公院畑小路地蔵尊歯神さん砂山城跡2024年5月20日https://youtu.be/8d1qQJqr9MQ?feature=shared四條縄手の戦いの史跡群をめぐる(東大阪市上四条町)その激戦の痕跡霊光院旧楠公院畑小路地蔵尊歯神さん砂山城跡2024年5月20日

  • 四條縄手の戦いの戦闘経過検討

    四條縄手の戦いの戦闘経過は、当然に太平記を基準に考察されるのだが、物語的に脚色されているところもあるため、そのままを鵜呑みにはできない。砂山城跡に初めて行ったが、山岳戦を戦うにはもってこいの要所であり、背後の神感寺城の役割を補完するにも十分と感じた。しかし、生駒山の背後から佐々木道誉軍が進撃し、鷲尾砦、慈光寺砦、神感寺城と落され、客坊城、往生院城も襲われ、砂山城にも敵軍が迫ったのは、前線の正行にも伝えられたはずである。または、狼煙台が至るところにあり、急変を知ったはずだ。正行には渡辺橋の美談があるように、敵でさえも戦闘が終われば救うようなお方であった。そんな正行が、後方の味方が危ないと知った時に果たして無視して、更に高師直軍へ向けて進軍できただろうか。答えは否である。即座に引き返し、砂山城に迫った佐々木道...四條縄手の戦いの戦闘経過検討

  • 楠木正行公・御墓所 全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔 / 明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!? そして、明治時代後期に発足した南木会とは!? 2024年5月19日

    四條畷神社創建に際して翻弄された四条村・・隠匿された正行公・正時公の二石塔を再確認。そして、明治期に小楠公神社建立を図った往生院の哀愁・・楠木正行公・御墓所全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔/明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!?そして、明治時代後期に発足した南木会とは!?2024年5月19日https://youtu.be/qGCVN4vsNqw?feature=shared楠木正行公・御墓所全国七ヶ所目・東大阪市上四条町・畑小路地蔵尊五輪塔/明治元年に小楠公神社建立計画が往生院にあった!?そして、明治時代後期に発足した南木会とは!?2024年5月19日

  • 上四条・砂山城跡の楠正時公碑の前にあったお社・経塚古墳

    上四条・砂山城跡の楠正時公碑の前にあったお社。菊水の瓦の社があったが、ここが経塚だった。お経が彫られた石がたくさん祀られてあると文献で見ていたが、このお社の裏手にある古墳の中にあるようだった。後から見たら確かに裏手に石組がある。この経塚はもしかしたら四條縄手の戦いで亡くなった者たちの供養として古墳が活用されたのかもしれない。上四条・砂山城跡の楠正時公碑の前にあったお社・経塚古墳

  • 東大阪市上四条町にも楠木正行公・正時公供養の石塔が存在していたか!? 四條畷市雁屋南町の小楠公墓所由来の補足について 2024年5月18日

    隠蔽された楠木正行公・正時公供養石塔を確認か?東大阪市上四条町にも楠木正行公・正時公供養の石塔が存在していたか!?四條畷市雁屋南町の小楠公墓所由来の補足について2024年5月18日https://youtu.be/lnNf80Gp9JI?feature=shared東大阪市上四条町にも楠木正行公・正時公供養の石塔が存在していたか!?四條畷市雁屋南町の小楠公墓所由来の補足について2024年5月18日

  • 上四条、砂山城跡にある正行公碑、正時公碑

    上四条、砂山城跡にある正行公碑、正時公碑を見に行ったが、もう荒れ放題だった。探すのにも難儀した。近くには廃神社も、、小楠公神社の建立計画は、往生院、上四条、現在の四條畷神社と明治時代にもちあがっていた。往生院もあと少しのところで神社となるところだったが直前に頓挫し、上四条も土地の強制接収を恐れての反対運動があり、結局は現在の四條畷神社に決まることになった。しかし、この廃神社を見て、もし、こちらに小楠公神社が決まっていたなら、と想像してしまう。上四条は、一大観光名所になり、瓢箪山駅の次に四条駅が敷設され、参道も賑わうことになっていただろう。瓢箪山駅、四条駅、枚岡駅、額田駅と。往生院も四条駅からならば徒歩10分で今よりかなり楽に。上四条の史跡群、また動画でも取り上げます。上四条、砂山城跡にある正行公碑、正時公碑

  • 南北朝時代、南朝方陰陽を司っていた勘解由小路家

    南北朝時代、南朝方陰陽を司っていたのが、勘解由小路家、つまり、賀茂家であったことを裏付ける後醍醐天皇の綸旨書。後醍醐天皇は、八咫烏信仰と共に、賀茂家を重用したわけでもある。南北朝時代、南朝方陰陽を司っていた勘解由小路家

  • 楠木正成公・正行公の戒名について 補足 小楠公・正行公墓所・往生院胴塚についての歴史認識 2024年5月17日

    いくつか伝わってある楠木正成公、正行公の戒名。戒名の由来、それぞれについて考察してみました。楠木正成公・正行公の戒名について補足小楠公・正行公墓所・往生院胴塚についての歴史認識2024年5月17日https://youtu.be/Lv5l5EnmSNo?feature=shared楠木正成公・正行公の戒名について補足小楠公・正行公墓所・往生院胴塚についての歴史認識2024年5月17日

  • 南北朝時代・四條縄手の戦い(1348年・正平3年1月5日) 楠木正行・正時 vs 高師直・佐々木道誉 四條縄手 東大阪市四条町・上四条町周辺 四條畷市北条周辺 2024年5月16日

    南北朝時代・四條縄手の戦い(1348年・正平3年1月5日)楠木正行・正時vs高師直・佐々木道誉四條縄手東大阪市四条町・上四条町周辺四條畷市北条周辺2024年5月16日https://youtu.be/6q1MCBM0Dgs?feature=shared南北朝時代・四條縄手の戦い(1348年・正平3年1月5日)楠木正行・正時vs高師直・佐々木道誉四條縄手東大阪市四条町・上四条町周辺四條畷市北条周辺2024年5月16日

  • 小楠公墓所・楠木正行公のお墓 往生院胴塚・宝筐院首塚・額田首塚・正行寺首塚・四條畷墓所・甑島墓所 全国六ヶ所に伝わる楠木正行公ご墓所の由来について 往生院六萬寺 2024年5月15日

    楠木正行公のお墓全国に伝わってあるお墓の由来について小楠公墓所・楠木正行公のお墓往生院胴塚・宝筐院首塚・額田首塚・正行寺首塚・四條畷墓所・甑島墓所全国六ヶ所に伝わる楠木正行公ご墓所の由来について往生院六萬寺2024年5月15日https://youtu.be/E2bPJRYfQrA?feature=shared小楠公墓所・楠木正行公のお墓往生院胴塚・宝筐院首塚・額田首塚・正行寺首塚・四條畷墓所・甑島墓所全国六ヶ所に伝わる楠木正行公ご墓所の由来について往生院六萬寺2024年5月15日

  • 楠木正行公の念持仏について 毘沙門天・多聞天立像 懐中仏 携行仏 守り本尊 戦勝祈願 岩瀧山往生院六萬寺 2024年5月14日

    楠木正行公の念持仏・毘沙門天立像の由来について楠木正行公の念持仏について毘沙門天・多聞天立像懐中仏携行仏守り本尊戦勝祈願岩瀧山往生院六萬寺2024年5月14日https://youtu.be/uEV5JeiEYsU?feature=shared楠木正行公の念持仏について毘沙門天・多聞天立像懐中仏携行仏守り本尊戦勝祈願岩瀧山往生院六萬寺2024年5月14日

  • 今後の配信予定 楠木正行念持仏について 楠木正行御墓所について 四條縄手の戦いについて 楠木正成・正行の戒名について 楠木家一族による寺院開基開山について 2024年5月13日

    次回から楠木正行公関連について扱う予定です。今後の配信予定楠木正行念持仏について楠木正行御墓所について四條縄手の戦いについて楠木正成・正行の戒名について楠木家一族による寺院開基開山について2024年5月13日https://youtu.be/GNGBFSV7G5o?feature=shared今後の配信予定楠木正行念持仏について楠木正行御墓所について四條縄手の戦いについて楠木正成・正行の戒名について楠木家一族による寺院開基開山について2024年5月13日

  • 叡尊(興正菩薩)と枚岡神社 元寇降伏祈願法会 蒙古襲来・元寇 全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命 2024年5月11日

    1274年~1275年には全国の寺社で宗旨宗派関係なく、元寇降伏祈願法会が開催されていたのでしょう。叡尊(興正菩薩)と枚岡神社元寇降伏祈願法会蒙古襲来・元寇全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命2024年5月11日https://youtu.be/LsKjS2uDLj4?feature=shared叡尊(興正菩薩)と枚岡神社元寇降伏祈願法会蒙古襲来・元寇全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命2024年5月11日

  • 往生院と修験道 往生院と陰陽道 妙見菩薩像・八臂弁財天像 土御門家と額田歴代組 金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山 役行者 不動明王 2024年5月10日

    土御門家と勘解由小路家。双方の明暗が分かれた拙仮説として、南北朝の争いにその要因があったとみています。八咫烏陰陽道と美作後南朝。少し止まっていますが、早く美作後南朝も再考察を再開したいですね。往生院と修験道往生院と陰陽道妙見菩薩像・八臂弁財天像土御門家と額田歴代組金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山役行者不動明王2024年5月10日https://youtu.be/WD1ii0u1SmI?feature=shared往生院と修験道往生院と陰陽道妙見菩薩像・八臂弁財天像土御門家と額田歴代組金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山役行者不動明王2024年5月10日

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の四)に思ふ

    結局、声明七も的外れなままに終ってしまったか、、残念。まあ、あまり期待もしていなかったけども、、いまさらに、「空」、「縁起」、「無分別」をめぐる解釈の誤用については書くまでもないと思っていたが、要は「新しい領解文」問題も根っこの部分にあるのは、これである。有志の会が、声明七(まだ途中)にて、くだんの問題論文のことと併せて、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の間違いについて、「仏願の生起本末」の観点からの反論をされているが、本質的な問題はそこではなく、明らかな「空」、「縁起」、「無分別」の誤用にあるのである。どうしてこの点をもっとダイレクトに指摘されないのかが不思議なのである。もちろん、従前より親鸞思想・浄土真宗教学において最も弱いのが、空思想、中観思想であります。もっとも、元々は世親、曇鸞、道綽、善導...勧学・司教有志の会声明(七の四)に思ふ

  • 河内・浄土院跡へ 瓦の散在状況の確認と記録 東大阪市横小路町 2024年5月9日

    再度、浄土院跡へと赴きまして、現況を記録しておきました。河内・浄土院跡へ瓦の散在状況の確認と記録東大阪市横小路町2024年5月9日https://youtu.be/vg_0Olg-xNk?feature=shared河内・浄土院跡へ瓦の散在状況の確認と記録東大阪市横小路町2024年5月9日

  • 往生院本堂に祀られてある妙見菩薩・八臂弁財天の由来について

    これまで、本堂に妙見菩薩が祀られてある由来が、あまりわからなかったが、河内の陰陽道の古い歴史から、葛城修験の宿場でもあった往生院なら修験道(立派な役行者坐像もある)と共に陰陽道を扱っていたのも頷けることになる。すぐ近くの額田に土御門家に仕えて祭祀を行っていた額田歴代組の鎮宅霊符神社があり、金剛生駒山系における修験道と共に、古来より河内は陰陽道の盛んな土地柄でもあったわけである。とすれば、本堂にある八臂弁財天も、やはり陰陽道関係として祀られてあったと思われるのである。江戸時代は、浄土宗鎮西派にありながら、別に額田歴代組によっての行者堂等も有して、修験道・陰陽道も修めていたということなのであろう。その名残が本堂に安置されてあると考えることができる。そして、親鸞聖人自作坐像を御影としたお堂もあり、四月の春ごとと...往生院本堂に祀られてある妙見菩薩・八臂弁財天の由来について

  • 往生院金堂・焼失時期について 南北朝時代・四條縄手の戦い 室町時代・河内守護畠山家内紛 2024年5月8日

    鎌倉時代の金堂、室町時代の金堂、2回の焼失の時期について往生院金堂・焼失時期について南北朝時代・四條縄手の戦い室町時代・河内守護畠山家内紛2024年5月8日https://youtu.be/Ui8kMT-acns?feature=shared往生院金堂・焼失時期について南北朝時代・四條縄手の戦い室町時代・河内守護畠山家内紛2024年5月8日

  • オウム真理教の殺人肯定の論理と同じような論理・新しい領解文・「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」

    オウム真理教の殺人肯定の論理と同じようなものですか、と。まあ、同じようなものということになります。煩悩による行為も、仏の悟りによる行為も、空、縁起、無分別で同じだと言うわけなのであります。悪取空見の典型というわけですね。いまさらに、「空」、「縁起」、「無分別」をめぐる解釈の誤用については書くまでもないと思っていたが、要は「新しい領解文」問題も根っこの部分にあるのは、これである。有志の会が、声明七(まだ途中)にて、くだんの問題論文のことと併せて、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の間違いについて、「仏願の生起本末」の観点からの反論をされているが、本質的な問題はそこではなく、明らかな「空」、「縁起」、「無分別」の誤用にあるのである。どうしてこの点をもっとダイレクトに指摘されないのかが不思議なのである。もち...オウム真理教の殺人肯定の論理と同じような論理・新しい領解文・「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」

  • 枚岡神社と往生院との関係性について 枚岡神社と生駒山系の地蔵菩薩信仰 六萬寺の寺名の由来仮説 念仏法難中の法然聖人の枚岡神社参詣 2024年5月7日

    河内一ノ宮・枚岡神社と往生院との関係性について考察してみると、今まで見えてこなかった興味深いことが色々とわかってきました。生駒山系で地蔵信仰が盛んな理由と六萬寺の寺名の由来についても、枚岡神社との関連で改めて考えてみました。また、枚岡神社に法然聖人が参詣された記録があることと往生院との関係についても推察してみました。枚岡神社と往生院との関係性について枚岡神社と生駒山系の地蔵菩薩信仰六萬寺の寺名の由来仮説念仏法難中の法然聖人の枚岡神社参詣2024年5月7日https://youtu.be/jAdjJgNTh8Y?feature=shared枚岡神社と往生院との関係性について枚岡神社と生駒山系の地蔵菩薩信仰六萬寺の寺名の由来仮説念仏法難中の法然聖人の枚岡神社参詣2024年5月7日

  • 河内・浄土院の存在確定! 枚岡市史・江戸時代の字名「浄土院ヶ谷」発見!! 河内国河内郡横小路村 天保14年(1843年)の村明細帳 2024年5月6日

    奈良県国立博物館所蔵の当麻曼荼羅・銘文にある「河内国河内郡浄土院」と同定できる史料をついに確認しました。河内・浄土院の存在確定!枚岡市史・江戸時代の字名「浄土院ヶ谷」発見!!河内国河内郡横小路村天保14年(1843年)の村明細帳2024年5月6日https://youtu.be/TjQ02Bc2xqc?feature=shared河内・浄土院の存在確定!枚岡市史・江戸時代の字名「浄土院ヶ谷」発見!!河内国河内郡横小路村天保14年(1843年)の村明細帳2024年5月6日

  • 法然聖人の往生院参詣の可能性も

    もう一つ、法然聖人の往生院参詣も、枚岡神社参詣と共にあった可能性が出てきた。時期的な問題はあるが。九條家と法然聖人との関係からも往生院参詣は十分に推測できたことであったが、意外にも近いところにその足跡があったのである。由来がなければこのような話も残るものではない。この点もまた掘り下げていければ。法然聖人の往生院参詣の可能性も

  • 江戸時代の横小路村明細帳に「字浄土院ヶ谷」を確認

    ついに発見した。江戸時代の横小路村明細帳に「字浄土院ヶ谷」と。枚岡市史に。執念。字浄土谷や字浄土寺ではなく、「浄土院」とはっきりあるのに、なぜ、字浄土谷となったのか、、また、近くの古墳が、浄土寺谷古墳群となったのか、、「院」と間違っていなければ、奈良国立博物館にある当麻曼荼羅の銘文、河内國河内郡浄土院は、まさに横小路村の「浄土院」と同定されたはずであったのに、、ついに二つ目の痕跡を歴史上にて発見できた。間違いなく、河内浄土院は存在していたのである。江戸時代の横小路村明細帳に「字浄土院ヶ谷」を確認

  • 「新しい領解文」問題の根っこにあるもの 「空」「縁起」「無分別」をめぐる解釈の誤用

    いまさらに、「空」、「縁起」、「無分別」をめぐる解釈の誤用については書くまでもないと思っていたが、要は「新しい領解文」問題も根っこの部分にあるのは、これである。有志の会が、声明七(まだ途中)にて、くだんの問題論文のことと併せて、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の間違いについて、「仏願の生起本末」の観点からの反論をされているが、本質的な問題はそこではなく、明らかな「空」、「縁起」、「無分別」の誤用にあるのである。どうしてこの点をもっとダイレクトに指摘されないのかが不思議なのである。もちろん、従前より親鸞思想・浄土真宗教学において最も弱いのが、空思想、中観思想であります。もっとも、元々は世親、曇鸞、道綽、善導と空思想、中観思想を扱わなかったというわけではないものの、その比重は明らかに軽くなっていくことに...「新しい領解文」問題の根っこにあるもの「空」「縁起」「無分別」をめぐる解釈の誤用

  • 怒濤文学の研究も

    先々代、川口蓮海、ペンネーム、怒濤の小説。「千鳥の曲」を入手した。怒濤文学の研究もようやくに開始である。怒濤文学の研究も

  • 河内・浄土院 歴史表舞台デビューへ 大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて 2024年5月2日

    浄土院についても、更に調査研究・考察を鋭意進めたいと思います。河内・浄土院歴史表舞台デビューへ大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて2024年5月2日https://youtu.be/6-RUJyoIOv4?feature=shared河内・浄土院歴史表舞台デビューへ大東市・アクロス歴史アカデミー講座2024.7.14「河内往生院の世界」にて2024年5月2日

  • 浄土院 歴史表舞台デビューへ 大東市・アクロス歴史アカデミー講座「河内往生院の世界」にて

    河内・浄土院にあった本尊当麻曼荼羅をめぐっての新発見について、考古学者の小林義孝先生に、25年ほど前に往生院六萬寺史に寄稿の論文にて、往生院において来迎会・お練り供養がなされていたのではないかと、先生が推論されていたことが、推論ではなかったことが明らかになりつつありますと、ご報告しましたら、その浄土院、当麻曼荼羅のことを、私の講座で15分、話をしてほしいとのお返事を頂きました。パンフレットを送って頂きましたが、なんと、タイムリーにも先生の講座「河内往生院の世界」にて、2時間講義の中、15分、話をさせて頂けるようです。早速に、浄土院の調査研究の成果を発表できる機会に恵まれました。浄土院、歴史表舞台デビュー第一歩であります。有り難いことでございます。大東市、住道駅のすぐ近くです。講座は一回700円で、できれば...浄土院歴史表舞台デビューへ大東市・アクロス歴史アカデミー講座「河内往生院の世界」にて

  • 勧学・司教有志の会 声明(七の三)に思ふ 外道・邪教に堕ちた西本願寺・本願寺派

    まあ、結局のところは、「新しい領解文」にて、西本願寺・本願寺派は、仏教から著しく逸脱、転落し、外道、邪教に陥ったのは覆せない歴史的事実となってしまったわけである。改悔批判前に、そのように警告した文書をしかるべきに具申したのは、もはや、これでは外道、邪教との誹りを免れないであろうが、その是非を問うた次第であった。今さらにまた声明を再開しても、もう遅きに失してしまっている。やるなら御正忌報恩講・改悔批判前にもっと声高にやるべきであっただろう。また、声明ではなく、門主への諫言状としなければ意味はほとんどない。一連のことは「門主の意向」で進んできたことであるのは間違いないのだから、門主の翻意を促さないとどうにもならないだろう。的外れなのである。勧学・司教有志の会声明(七の三)ー総合研究所冊子の問題点ー衆生、仏願の...勧学・司教有志の会声明(七の三)に思ふ外道・邪教に堕ちた西本願寺・本願寺派

  • 歴史に埋もれたままの寺院 経塚 楠開基 多門寺 について 2024年4月30日

    おそらくは、四条縄手の合戦の後、楠木正儀によって開基された楠木正行らの供養のためのお寺であったのだろう。歴史に埋もれたままの寺院経塚楠開基多門寺について2024年4月30日https://youtu.be/dHoNHcQX40g?feature=shared歴史に埋もれたままの寺院経塚楠開基多門寺について2024年4月30日

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