フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
1569年年の四月八日、 信長は都を追放されて堺に住んでいた、 宣教師ルイス=フロイスに面会しました。 フロイスはこのときの信長の印象を、 つぎのようにローマに報告しています。 「この尾張の王は年齢が
のちに信長と京都で会った耶蘇会士ルイス=フノロイスは、 かれを評して 「倣慢」「ほとんど規律に服せず。」といっています。 規律に服さないとは、 旧来の習慣や規格にとらわれないという意味です。 信長
一五四三年に、 ポルトガル人の乗ったジャンク船が 種子島に漂着して鉄砲を日本に伝えました。 船の持ち主は、 倭寇の首魁(しゅかい)である 明人の王直(おうちょく)です。 ポルトガル商人が倭寇と一緒に、
われわれは知るところが少ないにもかかわらず、 大洋を航海する船が、 病原菌を広めた全体的な結果について、 知ることはできます。 第一に、それまで孤立して 暮らしていた住民たちが、 致命的な人命損失を
西欧の船は、多くの疫病―― その中には黄熱病やマラリアのような 命にかかわる病が明らかに含まれていました ――をアフリカから新世界に運び、 そこで蚊の媒介によって 中央アメリカおよび南アメリカの各地方を、
病気は、価格の変様と同様、 人間の意思とは無関係に、 まったく理解されることなしに、 広まりました。 病気の拡大に伴う事情は はっきりとはしません。 その理由は、 アメリカにおける原住民の間であれ
アメリカ産の栽培植物の発見は、 各地域の食橿供給を増大させ、 それに伴う人口増加を引きおこしました。 このことは確実に支那南部におこりました。 またアフリカ、特に西アフリカにおける 人口の劇的な増
アメリカの栽培植物は、植物学的に、 旧世界で知られているものとは まったくちがっていました。 西欧、アジアおよびアフリカの 農民たちがそれまで知っていたものを補う きわめて価値ある作物でした。 例
伝統的な社会・経済的諸関係 によって定められていた、 確たる日常生活の中のすべての安定性は、 一五〇〇年と一六五〇年の間に 西欧におこった激しい物価変動のため ついえ去りました。 各政府は、それまで
コルテスは翌二一年、 大軍を率いてふたたび来襲し、 四カ月かけてメキシコを完全に征服しました。 つづいて、フランシスコ・ピサロは、 南米のペルーを中心とする インカ帝国の首都クスコに入城し、 ペルー
いっぼう、スペインの植民者は 中南米地方へ探検を進め、 一五一三年九月には. ハナマ地峡を乗りこえ、 太平洋を望む地点へ到達しました。 その間、 冒険と黄金の夢にとりつかれた 投機的な荒れくれ男たち
一五世紀の末に、 地理上の発見を他国に先がけてなしとげた スペインとポルトガルは、 一六世紀の前半にさらに探検の歩みを進めました。 ボルトガルはインドのゴアに基地と商館を設け、 香料とくに胡椒を求め
フランス、イギリス(イングランド)、 オランダといった国々は この条約によって領土獲得の優先権から 締め出される形となりました。 この状況を打破するには、 スペインやポルトガルの船団に対して 海賊行
ジョアン2世は スペインのフェルディナンド2世と直接交渉し、 1494年に教皇子午線からさらに西に270レグア進んだ 子午線を境界線とするトルデシリャス条約を締結しました。 1506年にはアレクサンデル6世の次の
1492年、クリストファー・コロンブスが 「インド」(実際には西インド諸島)に到達し、 帰還しポルトガル・スペイン両国において 「新世界」への冒険的航海がブームとなりました。 しかしコロンブス以前から、
わが国への鉄砲の伝来については よく聞かされますが、 鉄砲の放棄についてはあまり聞かない。 しかし鉄砲放棄のもつ意味合いは大きい。 世界の歴史は戦争の歴史ともいわれ、 同時に武器の発達の歴史でもあ
活発な経済的、文化的な交流の背景に、 中世における人知・人力を超えた 疫病のような共通の体験(危機)があったのです。 その解決を求めての未知なる海外への進出、 そこでの強烈な国際交流のなかから、 そ
網野善彦は 「南北朝の内乱は民族の体質、 あるいは民俗の根底に関わる 大きな構造上の転換期」で、 この動乱期を節目として 「呪術性が次第に社会から消えていく…… 理性が優位を次第に占めてくる」 としてい
ユーラシア大陸の かなり広域な部分を襲ったとみられる 疫病はほぼ一三五〇年に始まり、 その後少なくとも百五十年間は 深刻な危機をもたらす形で続発しました。 一三五〇年頃というと、 わが国ではちょうど
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フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
ボルテールにつづいて、 フランスの最大の知識人はルソーです。 ルソーは一七五五年に 「人間不平等起源論」を書き、 文明の発達にともない 人間の自由がうばわれて 不平等が生みだされたと主張し、 文明の
イギリスで市民革命が成功してのちも、 フランスでは国王の力がつよく、 国王による独裁政治がつづいていました。 しかし、 一八世紀に多くのフランスの知識人が、 独裁政治にたいしてたたかい、 一八世紀末
アメリカが独立したとき、 その国土はまだ東海岸に近い 東部十三州のみでしたが、 一九世紀のうちに、 アメリカ人は西へ西へと進撃をつづけ、 一八五○年ごろに、 ついに太平洋岸まで到達しました。 その拡
アメリカの独立宣言文の最初に、 つぎのように記されています。 「われわれは自明の原理として、 すべての人は平等につくられ、 造物主によって、 一定のうばいがたい諸権利を賦与され、 そのなかに生命、自
一八世紀の西欧は、 一七世紀のイギリスにおこった市民革命が 各国にひろまっていった時期です。 注目されるのは、 アメリカの独立(1770年代)と フランス革命(一八世紀末)です。 アメリカには一七世紀
不平等条約説は、 これまで述べてきた日米和親条約と その四年後に締結された 日米修好通商条約とを あわせて論じられてきました。 なお最恵国待遇(条項)がいきていたため、 そのほかの列強との条約も 上
大東亜戦争の戦後の時期に、 日本の戦争責任の問題もからみ、 日本とその他アジア諸国とのあいだに、 近代の「共通性」をもとめる力がはたらいて、 再度この条約の不平等性が強調されました。 その場合、アジ
日米和親条約の調印は 一八五四年三月三一日でしたが、 「正文」を何語にするか の話し合いがなかったため、 最後の段階で応接掛は 外国語文への署名を拒否し、 ペリー側をあわてさせました。 日本文(応接
ペリーの贈り物にたいして幕府は、 米をはじめ反物や漆器類を贈呈し、 さらにべリーからの要望により 作物の種子や苗も贈りました。 贈り物の点では、アメリカ側が、 それを条約交渉にうまく利用しました。
最初に宴会を催したのは幕府側ですが、 贈り物の贈与で先手をとったのは アメリカ側でした。 一八五四年三月八日の 応接掛が催した宴会で、 ペリー一行は条約草案を提示しました。 その一週間後に幕府の条
アメリカ草案にたいして、 幕府は一週間後に アメリカに草案をわたしましたが、 それはまるで木で鼻をくくったような そっけない内容でした。 すべての交渉を長崎でやる、 という意味の旧来の幕府の態度を
アメリカ草案は、 望厦条約を基礎に不必要な部分を削除する という手順と論理で構成されていました。 草案と望厦条約漢文版とを 同時に応接掛にわたした理由も そこにありました。 応接掛はその削除にとも
条約草案はまず アメリカ側からだされ(使用言語は漢文)、 同時に望厦条約の漢文版が添付されていました。 望厦条約とは 一八四四年に清米間で締結された条約であり、 二年前の清英間の南京条約にたいする
日米和親条約の交渉時の交渉陣をくらべると、 ペリー側はペリーを筆頭に 副官アダムス、中国語通訳ウィリアムズ、 オランダ語通訳ポートマンで、 幕府側応接掛では筆頭の 林大学頭ほか、井戸対馬守(町奉行)、
阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまいます。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のこと
阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまった。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のことで
一九世紀中ごろの段階では、 ①キリシタン禁制、 ②日本人の渡航禁止、 ③そのための外洋船(大型船)の 所有・建造の禁止などが重要であり、 鎖国を実施した一七世紀の ポルトガル船・スペイン船の来航禁止とい
交渉に使用する言語は 幕府側だけの問題ではなく、 双方の問題です。 ペリー側は各種の理由から 日本語通訳をつれてくることができず、 口頭ではオランダ語(担当は若きポートマン)、 文書では漢文(宣教師
外交は幕府(将軍・老中)の仕事であり、 幕府の責任で条約が必要なら調印する、 そのどこかの段階で 御三家・有力大名などから必要な意見は聞くが、 責任をもつ外交主体は幕府であった。 三権分立の原則が承
15世紀後半には, たとえば天文学における新しい動きが生じたり, 科学者としても大先覚者である レオナルド・ダ・ゲインチ (Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア) のような人物があらわれたりしています。
豊臣政権のとった外交方針は、 統一政権の基礎を 外国貿易と海外発展によって堅固にし、 外国に対する威圧と征服とによって 勢威の拡大をほかる 封建的国家権力独得の方法であって、 そこにイスパニヤ・ポルト
徳川家康(とくがわ いえやす)の生涯は 多くの困難と戦いに満ちていました。 幼少期には今川家の人質となり、 その後独立して織田信長と同盟を結びます。 信長の死後は豊臣秀吉との 関ヶ原の戦いで勝利を
豊臣秀吉による朝鮮出兵は、 文禄の役(1592年~1593年)と 慶長の役(1597年~1598年)です。 これは、秀吉が 天下統一を成し遂げた後に行われた 大規模な軍事遠征で、 秀吉は、 明の征服を目指し、 李氏
秀吉は1588年の刀狩令で武装解除を進め、 農民から武器を取り上げることで 社会の安定を図り、これによって兵農分離を行い、 近世封建体制の基礎をつくりました。 刀狩令の目的は、一揆を防ぐことで、 安定し
秀吉は織田信長の家臣として出発し、 本能寺の変のあと、 秀吉が光秀を倒して 信長の後継者として認知され、 織田家の実権を握り、 天下統一を目指しました。 天下の趨勢を決したのが「中国大返し」でした。
本能寺の変は、1582年6月21日に発生した、 日本の歴史上非常に重要な出来事です。 この事件で信長は、 家臣の明智光秀による謀反に遭い、 京都の本能寺で自害しました。 信長は当時、 天下統一に向けて大
信長の世界観は、 当時の日本における伝統的な 価値観や宗教観とは一線を画すものです。 彼はキリスト教を受け入れ、 その教えに興味を持ち、 日本における キリスト教の布教を保護しました。 信長はキリ
長篠の戦いは、 織田信長率いる織田軍と 武田勝頼率いる武田軍が対峙した 大きな合戦です。 この戦いは、 天下統一のきっかけとなる出来事で、 現在の愛知県新城市で行われました。 織田信長は、鉄砲を積
新兵器、鉄砲の登場にすぐさま反応したのは、 各地の戟国大名たちだった。 最も早く実戟に投入したのが薩摩の島津氏。 伝来から六年目のことです。 中国地方の覇者、毛利元就は、 敵の鉄砲に気をつけるよ
守護大名の分国支配体制では、 守護がおのおの分国の 支配権を握っていましたが、 その国内には大小種々の土豪が自立散居し、 その上、荘園の遺制が残存し 公家・社寺の所領が散在する土地も多かったので、 領
応仁の乱の後、 約百年の間続いた群堆割拠の戦国時代が、 織田信長・豊臣秀吉の覇業によって治まり、 彼らの支配のもとに 新たな時代の幕が開かれたことは、 封建制度史上に劃期的特色をなすものです。 戦国
時尭は直ちに鉄砲の複製をつくることを命じました。 鉄砲伝来のわずか半年前の天文一二年三月、 種子島氏は、大隅半島の豪族、禰寝氏に攻め込まれ、 領土であった屋久島を奪い取られ 久島奪還をめざす時尭にと
日本人が初めて出会った鉄砲は どのようなものでしょう。 天文一二年(一五四三)、 種子島に漂着したポルトガル人によって、 日本に初めてわずか二挺の 鉄砲かが伝えられました。 火縄銃は一五世紀にヨー
アフリカ研究者の 山口昌男(やまぐちまさお)氏によれば、 「ポルトガル人は、東アフリカ沿岸 (現在のケニア)にフォート・ジーザスなどの 要塞を建設したが、一六世紀のおわりには、 ジンバ人(アフリカ人)に
ポルトガルは、その最盛期といえども、 東洋貿易の一部分をになっていたにすぎず、 主役はいぜんとしてイスラーム商人だったのです。 やはり、アフリカ南端をまわる航海は、 地中海ルートにくらべて危険が大き
一六世紀にポルトガルはコショウだけでなく、 アジアからシルク・茶・宝石などを西欧へ運送し、 一時はいちじるしく冨みさかえました。 しかし、東南アジア史の専門家である 永積昭(ながづみあきら)氏は、 「
つぎのパスコ=ダ=ガマの、 インドへの航路ですが、 さいわいにケニア沿岸のモンバサという港で、 アラブ大のイブン=マージという 水先案内大の援助を得て、 ついにインド南端の貿易港 カリカットへ到着でき
インド、エジプト、イタリアの商人が コショウの貿易ルートによって、 もうけていましたが、一六世紀はじめから、 これにわりこんできたのがポルトガル人でした。 ポルトガルは、一二世紀に イベリア半島の西
西欧人は、長いあいだ 牧畜に依存して生活してきた関係から、 大量の肉をたべる習慣が 今日までつづいてきています。 そのために、西欧人は 殺した家畜の肉を保存することについて、 むかしから大きな関心を