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千の朝 https://plaza.rakuten.co.jp/beabea65/

「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。

 自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。  これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。  充実して生きる道を探しているのだ。  それが、何にもまして一番重要なことなのだ。  それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。

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2014/09/11

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  • 西ローマ帝国

    六八七年に、ヘリスタールのピピンが、 分裂していたクローヴイスの王国に 支配権を揮いました。 ピピンはフランク領内では東方の、 より純粋にゲルマン的な地方 (アウストラシア)の出身である 無能なメロ

  • つかの間の安定

    再び、 これは小アジアにおける ビザンティンの支配力の回復(七一八年以後)と、 ふたつの蛮族国家の確立によるものです。 ふたつの蛮族国家は、 ドナウ下流地方のブルガリア帝国(六七九年以後)と、 もう

  • モンゴルの侵入2

    ユスティニアヌス帝の死の直後に、 第二の大波は押し寄せました。 アヴァール族の名で知られる新しい遊牧民の集団が、 南ロシアからハンガリー平原に侵入してきたのです。 そしてかつてのアッティラのように

  • モンゴルの戦闘

    西欧の騎兵は厚い鎧と冑をつけ、 大きな馬にまたがっていたのに対し、 モンゴル軍の騎兵は軽装、馬は小型で、 とてもすばしっこいものでした。 小さな馬にのっているモンゴル兵とくらべると、 西欧の騎兵は重

  • モンゴルの侵入1

    最初のモンゴルの侵入の波の時は、 西欧の中央へのフン族の侵入によって 移動がひきおこされ、 ゴート、ブルグンド、ヴアンダル、フランク、 アングロ・サクソンその他のゲルマン民族が、 三七八年からだいたい

  • モンゴルの襲来

    モンゴルの襲来が 仏教世界とキリスト教世界に およぼした影響を比べてみると、違いがあります。 地中海とバルト海の沿岸諸民族は、 長いあいだたがいに侵略しあってきたので、 侵入してきた遊牧民族の おそ

  • 西欧文明

    この時期には、西欧は 一貫して守勢に立たされていました。 守勢とは言っても、軍事的な面であり 知的、感情的には多少、 優位にありました。 西欧の思想は、 欲望を動物的本能としてとらえ、 それを制御

  • アフリカの文明

    紅海を挟んで、 東アフリカのエチオピアとヌビア、 西アフリカのガーナにそれぞれ地方国家が興り、 文明の華やかな装いを誇りました。 エチオピアとヌビアは、 ローマとコンスタンティノープルから 異端の宣

  • インドの停滞

    インドの、 この時代の社会・経済生活に関する資料は乏しく、 どのような政治的単位に分割されていたのか さえよくわかっていません。 全般的に言って 高い水準の活動がつづけられていたことは まちがいはあ

  • ヒンズー教

    ヒンズー文明の知的な側面、特に数学などは、 グブタ時代にあれほど 輝かしい未来を約束されて出発したのに、 寺院中心の文化の中では何の役にもたたないために、 まったく忘れ去られてしまいました。 カーリ

  • タントラ教

    タントラの信奉者は、 タントラ教は聖性への近道であり、 聖(ひじり)や苦行者だけが獲得できると 一般民衆の考えている超自然的な力を、 呪文を唱えて達成できるので、 普通の人でも苦行の苦痛や困難なしに、

  • ヒンズー文明の伝統

    シャンカラ(七八八-八五〇年ごろ)の作った 哲学体系は以後のヒンズー教にとって規範となりました。 シャンカラは、 伝統的な祭儀の最も粗野なものでも人々を促して、 あらゆる感覚的経験の背後に存する 絶

  • イスラムとインド

    イスラムは中央アジアで、 支那との小競り合いは何度かあり、 タラス河の戦(七五一年)によって はるか辺境のわずかばかりのオアシス地域が イスラムの戦士たちに奪われました。 この敗戦の数年後、 今度は

  • 白藤江の戦い

    白藤江(はくとうこう)の戦いは、 陳朝ベトナム軍と元軍との戦いです。 第1次元越戦争(1258年)および第2次元越戦争(1258年)の 二度の遠征に失敗したクビライは、 1287年に第3次元越戦争を行いました。 クビ

  • ベトナム諸王朝

    長かった支那の支配を打ち破って 独立をかちとったゴー=ダニンによって ゴー王朝(939~967)が建てられました。 しかし中央集権体制は容易に確立できず、 リー朝(1010~1225)にやっと永続的政権が生まれ、

  • 東南アジア諸国

    東南アジアにおいても同じ時期に、 やはり一連の民族や国々が、 文明的と言い得るだけの生活水準に達しました。 安南(現在のヴェトナム北部)は 以前から支那の文化的衛星国となっていましたが、 雲南がこれ

  • イスラム勢力

    西アジアをみると、 やはり十一世紀ごろが大きな転換期になっています。 九世紀後半よりイスラム勢力が、 一極中心時代から、多極化時代へはいり、 さらに発展したことです。 しかし、トルコ族が、 イスラ

  • ロシア文明

    十一世紀が西欧史の転換期であり、 十一~十二世紀が西欧文明の形成期です。 ロシア文明も、 ほぼこれとおなじころに誕生しています。 ロシアは、 862年にノルマン人のリューリクが 交易都市ノヴゴロドの

  • 科挙の影響

    宋代の支那では、生まれの貧しさは、 出世のための越えがたい障害にはなりません。 聡明な青年なら、きわめて貧しい家の出でも、 ときとして高位の役人となれました。 ときには、村全体が団結して、有望な候

  • 科挙

    支那の安定に役立った 仏教以外のもうひとつの因子は、 才能ある個人を帝国の官僚として補充するための 科挙と呼ばれる試験体系でした。 これが、宋代に君子として政府に仕えるための 正道だったのです。

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