国際政治は、 このような諸体制の総体をさします。 そのなかで、 列強のうちの「超大国」イギリスは 日本に最初の条約をもたらさず、 アメリカが一番乗りをはたします。 では、ペリーの得た権限、 派遣の
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
六八七年に、ヘリスタールのピピンが、 分裂していたクローヴイスの王国に 支配権を揮いました。 ピピンはフランク領内では東方の、 より純粋にゲルマン的な地方 (アウストラシア)の出身である 無能なメロ
再び、 これは小アジアにおける ビザンティンの支配力の回復(七一八年以後)と、 ふたつの蛮族国家の確立によるものです。 ふたつの蛮族国家は、 ドナウ下流地方のブルガリア帝国(六七九年以後)と、 もう
ユスティニアヌス帝の死の直後に、 第二の大波は押し寄せました。 アヴァール族の名で知られる新しい遊牧民の集団が、 南ロシアからハンガリー平原に侵入してきたのです。 そしてかつてのアッティラのように
西欧の騎兵は厚い鎧と冑をつけ、 大きな馬にまたがっていたのに対し、 モンゴル軍の騎兵は軽装、馬は小型で、 とてもすばしっこいものでした。 小さな馬にのっているモンゴル兵とくらべると、 西欧の騎兵は重
最初のモンゴルの侵入の波の時は、 西欧の中央へのフン族の侵入によって 移動がひきおこされ、 ゴート、ブルグンド、ヴアンダル、フランク、 アングロ・サクソンその他のゲルマン民族が、 三七八年からだいたい
モンゴルの襲来が 仏教世界とキリスト教世界に およぼした影響を比べてみると、違いがあります。 地中海とバルト海の沿岸諸民族は、 長いあいだたがいに侵略しあってきたので、 侵入してきた遊牧民族の おそ
この時期には、西欧は 一貫して守勢に立たされていました。 守勢とは言っても、軍事的な面であり 知的、感情的には多少、 優位にありました。 西欧の思想は、 欲望を動物的本能としてとらえ、 それを制御
紅海を挟んで、 東アフリカのエチオピアとヌビア、 西アフリカのガーナにそれぞれ地方国家が興り、 文明の華やかな装いを誇りました。 エチオピアとヌビアは、 ローマとコンスタンティノープルから 異端の宣
インドの、 この時代の社会・経済生活に関する資料は乏しく、 どのような政治的単位に分割されていたのか さえよくわかっていません。 全般的に言って 高い水準の活動がつづけられていたことは まちがいはあ
ヒンズー文明の知的な側面、特に数学などは、 グブタ時代にあれほど 輝かしい未来を約束されて出発したのに、 寺院中心の文化の中では何の役にもたたないために、 まったく忘れ去られてしまいました。 カーリ
タントラの信奉者は、 タントラ教は聖性への近道であり、 聖(ひじり)や苦行者だけが獲得できると 一般民衆の考えている超自然的な力を、 呪文を唱えて達成できるので、 普通の人でも苦行の苦痛や困難なしに、
シャンカラ(七八八-八五〇年ごろ)の作った 哲学体系は以後のヒンズー教にとって規範となりました。 シャンカラは、 伝統的な祭儀の最も粗野なものでも人々を促して、 あらゆる感覚的経験の背後に存する 絶
イスラムは中央アジアで、 支那との小競り合いは何度かあり、 タラス河の戦(七五一年)によって はるか辺境のわずかばかりのオアシス地域が イスラムの戦士たちに奪われました。 この敗戦の数年後、 今度は
白藤江(はくとうこう)の戦いは、 陳朝ベトナム軍と元軍との戦いです。 第1次元越戦争(1258年)および第2次元越戦争(1258年)の 二度の遠征に失敗したクビライは、 1287年に第3次元越戦争を行いました。 クビ
長かった支那の支配を打ち破って 独立をかちとったゴー=ダニンによって ゴー王朝(939~967)が建てられました。 しかし中央集権体制は容易に確立できず、 リー朝(1010~1225)にやっと永続的政権が生まれ、
東南アジアにおいても同じ時期に、 やはり一連の民族や国々が、 文明的と言い得るだけの生活水準に達しました。 安南(現在のヴェトナム北部)は 以前から支那の文化的衛星国となっていましたが、 雲南がこれ
西アジアをみると、 やはり十一世紀ごろが大きな転換期になっています。 九世紀後半よりイスラム勢力が、 一極中心時代から、多極化時代へはいり、 さらに発展したことです。 しかし、トルコ族が、 イスラ
十一世紀が西欧史の転換期であり、 十一~十二世紀が西欧文明の形成期です。 ロシア文明も、 ほぼこれとおなじころに誕生しています。 ロシアは、 862年にノルマン人のリューリクが 交易都市ノヴゴロドの
宋代の支那では、生まれの貧しさは、 出世のための越えがたい障害にはなりません。 聡明な青年なら、きわめて貧しい家の出でも、 ときとして高位の役人となれました。 ときには、村全体が団結して、有望な候
支那の安定に役立った 仏教以外のもうひとつの因子は、 才能ある個人を帝国の官僚として補充するための 科挙と呼ばれる試験体系でした。 これが、宋代に君子として政府に仕えるための 正道だったのです。
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国際政治は、 このような諸体制の総体をさします。 そのなかで、 列強のうちの「超大国」イギリスは 日本に最初の条約をもたらさず、 アメリカが一番乗りをはたします。 では、ペリーの得た権限、 派遣の
「発砲厳禁」を至上命令としてうけた以上、 戦争も辞さないという態度は、 脅し以外にはとれません。 それにアメリカから日本へは 太平洋を横断してきたのではなく、 世界の四分の三という遠路をとおってきた
ペリー派遣のさいの大統領命令のなかで 最大の内容のものは、「発砲厳禁」です。 海軍ですから、発砲をうけた場合の 自衛・脱出のための発砲は 当然ながら許されていますが、 自分のほうから威嚇のためであれ
これら四つの体制上の区別が 明白になってくるのは、 一九世紀の中ごろ、 ちょうどペリーとのあいだで 日米和親条約が成立した時期です。 日本は、一八三九年からの 前哨戦をふくむアヘン戟争の情報を 刻々
まず①列強とはなにか―― 列強(powers)とは、自国の船により 世界のどこへでも到達できる力をもって、 それを保護するだけの海軍力を有する 「海洋国」です。 世界では、「超大国」イギリス、 日本と長く親
早急に武備の充実を計るには、 一時的にも外国との交易を行って、 近代的な艦船や大砲を 入手する必要があります。 しかし、 それが鎖国政策によって禁止されています。 自分で自分の手を縛りあげて 身動
正弘はその頃、鎖国政策の矛盾に 一番頭を悩ませていました。 鎖国政策は、日本の泰平無事と 幕府自身の安泰を願う政策です。 そのため、幕府は 努めて諸藩の勢力を弱くすることに 意を用いてきました。
論議を続けているうちに、 海防掛に注目すべき建白書が仙台藩の 儒者大槻磐渓(ばんけい)から寄せられました。 磐渓は蘭学者だった父 玄澤(げんたく)の影響を受け、 儒学者にもかかわらず、 世界の情勢に明る
正弘は、 老中評議と海防掛会議終了後、 海防参与の徳川斉昭に対し、 ロシア国書受取りに関する 公文書翰を認(したた)めさせました。 それには、五老中の連署があり、 さすがの斉昭も反対はできません。
ロシアのネッセルローデ首相兼外相の 親書は江戸城に未着だが、 八月上旬から海防掛は対ロシア交渉の 論議をはじめていました。 親書の内容は、 長崎奉行の書状で明らかです。 議論を重ねていくうちに、
老中評議の後、 正弘は海防掛会議を召集しました。 そこで正弘は、 在府長崎奉行の水野筑後守に命じ、 ロシア艦隊の長崎来訪の儀と ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な交渉態度を紹介させました。
老中首座伊勢守阿部正弘は登城すると、 すぐに海防掛の川路聖謹(としあきら)を招き、 「さきほど、長崎奉行の水野殿が この書状を届けにこられた。 まずお読みいただきたい」 「オロシャの提督はペルリとは
豊後守は、直ちに 在府長崎奉行の水野筑後守と 老中首座阿部伊勢守に書状を認めました。 ロシア艦隊司令長官プチャーチン提督の 丁重な申入れに免じ、 ロシア首相の親書を受理してほしいと懇願しました。
翌八月十日(嘉永六年七月十八日)朝、 プチャーチンは、 全艦隊に警戒態勢に入るよう命令し、 伊王島沖を抜錨しました。 伊王島の西北端の真鼻岬沖を大きく右に迂回して、 昼過ぎに長崎湾口に浮かぶ高鉾島の
「それは相手の出方を見た上で決めるつもりだ。 しかし、レザーノフのように、 なんの成果もあげずに 長崎を去ることは絶対にしない。 アメリカ艦隊は かなり強硬姿勢で対日交渉を行うようだ。 ロシアは強硬姿
八月九日の夜、 プチャーチン提督は、 パルラダ号艦長ウンコフスキー少佐と、 水いらずで夕食を共にし、 語り合いました。 「艦長、十カ月に及ぶ大航海、 ほんとうにご苦労だった。 無事に長崎に来られたの
ロシア艦隊が 父島からそのまま直行して 浦賀に向かっていたら、 幕府が江戸城で諸大名に 意見を聴取していた六月末頃、 ロシアの黒船四隻が 江戸湾に出現したことになります。 しかし、プチャーチン提督の
結局、ロシア艦隊が後になって、 パルラダ号はインド洋の玄関口ケープタウンに 一八五三年の三月十日に入港しました。 先のカラス(黒船)ミシシッピ号の入港は 一月二十四日であり、すでに一ヶ月半の遅れです
メンシコフは、プチャーチンに対し、 いかなる交渉も平和的に行い、 諸外国との紛争は極力避けるよう命じました。 当時のロシアは、トルコ政策をめぐって、 英仏両国と外交関係が悪化しており、 アジアでロシ
ロシア政府は、 アメリカの後塵を拝することを恐れ、 四月に極東政策特別委員会を結成し、 五月にプチャーチン海軍中将を 通日全権大使に任命しました。 アメリカに対抗できる遠征艦隊を編成、 日本との三度
日本の統一的支配者の座を獲得した義満は、 その晩年、上皇になることに意を注ぎます。 その証左は、夫人の日野康子を 後小松天皇の准母としたことで明白です。 夫人が准母なら、夫の義満は 自動的に天皇の
足利義満(あしかが よしみつ)は、 延文3年8月22日(1358年9月25日)の生まれで、 室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍です。 明徳3年(1392年)、 楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、 南朝勢力
南朝軍で唯一優勢を誇っていた九州の懐良親王軍が、 東上の軍をおこしましたが、 途中で瓦解しました。 諸国の直冬(ただふゆ)党も勢いを失い、 天下三分の混沌状態は克服されつつありました。 義詮が十三年
室町幕府は、 足利氏の将軍による武家政治機構です。 足利尊氏は、九州から東上して 光明天皇を立てた直後、 鎌倉幕府の遺老二階堂是円(ぜえん)らに 政治の大綱を諮問しました。 その答申が一七条から成る
南北両朝和平合体の時機が到来しました。 これまでも、足利直義や佐々木高氏などが、 吉野に和平の働きかけをしたこともありましたが、 吉野では、 北朝の解消、足利氏の帰順を条件としない限り、 交渉に応じ
楠木正成の子正行(まさつら)が 河内四条畷(なわて)の戦いで戦死したことは、 吉野方には大打撃であり、 天皇は一時吉野を出て 大和の賀名生(あのう)に遷られたほどでした。 九州では、 征西将軍宮懐良(かね
吉野の朝廷では、 恒良親王.尊艮親王を奉じて 北国に下った新田義貞は、 越前金ガ崎城で敗れ、 ついで藤島に戦死し、 北畠顕家は義良親王を奉じて 陸奥から再び西上しましたが、 和泉石津の戦に戦死し、 頼
尊氏は九州で菊池武時の子武敏を破り、 少弐・大友・島津等の諸豪族をしたがえて 東上の準備を整え、 海陸両道から大軍を率いて京都に向います。 楠木正成はこれを摂津湊川に迎え戦って死に、 千種忠顕・名和
尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
中興事業に協力した武士の多くは、 幕府に対して不平を抱く人々です。 彼らは幕府を倒すことによって、 自己の地位を安定させ、 さらにそれがよりよくなることを期待したので。 天皇の理想を理解し、 それ
新政権に対する信頼が失われていくときに、 朝廷では、大内裏の造営を計画し、 安芸・周防を料国に宛て、 諸国の地頭にもその費用を課し、 夫役を徴した上に、 期日におくれると それを倍額にして徴収したので
中央.地方の行政機構は整備されましたが、 その施政には不手際が多く、 中興政権はわずか二年で崩壊しました。 新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、 恩賞の給源としての土地には限りがあるの
後醍醐天皇は伯耆を発し、 途中光厳天畠の廃立を宣言し、 京都に還幸するや、新政を開始しました。 翌年改元した年号をとって、 これを建武中興といいます。 中興政治の理想は、天皇観政を中核とする 公家
後醍醐天皇は隠岐に遷っても譲位の意志はなく、 光厳天皇の在位を認めず、 あくまでも討幕の志をすてません。 護良親王も楠木正成も幕府に抑えられることなく、 親王は近畿地方で活躍し、 叡山の末寺を中心に
正中の変により、 幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、 皇太子邦艮親王薨去後は、 天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、 量仁親王を皇太子とします。 これで幕府を倒さない限り、 天皇が皇子に位を譲
持明院統の花園天畠のあとを受けて 皇位についたのは、大覚寺統の後醍醐天皇です。 天皇は後宇多天良の第二皇子で、 近臣とともに僧玄恵について宋学を学び、 革新的思想を身につけられました。 即位の初め
幕府の対朝廷策の失敗も 崩壊のきっかけの一つです。 承久の乱後公武両政権の関係は一変し、 治世の君として院政を担当する上皇の決定は、 幕府の手に握られることになりました。 朝廷では、後嵯峨天皇は、
御家人の所領を保護する必要に迫られた幕府は、 一二九七(永仁五)年徳政令を発布して、 御家人所領の質入・売買を禁止し、 すでに売却された土地は無償でもとの持主に取戻させ、 また金銭貸借に関する訴訟は
得宗専制の強化と内管領の抬頭は、 外様(とざま)と呼ばれた一般御家人との対立を生じ、 時宗の死を機として、 一二八五(弘安八)年の霜月騒動となって現われました。 これは幕府草創以来の名家である安達泰盛
1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、 元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、 7月17日(和暦6月5日)に 「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したこと により成立した建武の新政でしたが、 鎌倉