日本では、江戸時代にはいってから 表面的には内戦がなくなり、 平和な状態がつづきました。 そのため一七世紀に農業はかなり発展し、 米・綿・茶などの増産にささえられて、 城下町の文化はしだいに発達しま
「千の朝」で、最近読んだ本の中で、考えさせられたフレーズを紹介しています。
自分がたまたま生を受けて、そして間もなく死んでしまう意味を知りたいのだ。 これほどの不条理の中にも、生きる一条の意味を探り当てたいのだ。 充実して生きる道を探しているのだ。 それが、何にもまして一番重要なことなのだ。 それは、広い意味における自分の「仕事」を探していることにほかならない。
西欧の回復がはじまってから 一二〇〇年ごろまでの二世紀以上の期間、 西欧は、アラビア、ビザンティンの 高度に発達した科学や数学、天文学を 食欲(どんよく)に吸収し、 同時に大胆で精力的な創造に力を注いだ
イスラームの時代が過ぎ去ったのち ロマネスクとよばれる 西欧のキリスト教文化が作られます。 これは十一世紀のことです。 イスラーム文明は、十字軍の頃、 非常に高い文化をもっています。 バグダッド
日本に仏教文化が花開いた頃、 世界では、イスラーム教が生まれ、 その勢力を増していました。 ローマ帝国の衰退の後、 西欧はゲルマン民族の大移動によって、 それまでの秩序が崩壊していく中で、 イスラー
15世紀後半には, たとえば天文学における新しい動きが生じたり, 科学者としても大先覚者である レオナルド・ダ・ゲインチ (Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア) のような人物があらわれたりしています。
豊臣政権のとった外交方針は、 統一政権の基礎を 外国貿易と海外発展によって堅固にし、 外国に対する威圧と征服とによって 勢威の拡大をほかる 封建的国家権力独得の方法であって、 そこにイスパニヤ・ポルト
徳川家康(とくがわ いえやす)の生涯は 多くの困難と戦いに満ちていました。 幼少期には今川家の人質となり、 その後独立して織田信長と同盟を結びます。 信長の死後は豊臣秀吉との 関ヶ原の戦いで勝利を
豊臣秀吉による朝鮮出兵は、 文禄の役(1592年~1593年)と 慶長の役(1597年~1598年)です。 これは、秀吉が 天下統一を成し遂げた後に行われた 大規模な軍事遠征で、 秀吉は、 明の征服を目指し、 李氏
秀吉は1588年の刀狩令で武装解除を進め、 農民から武器を取り上げることで 社会の安定を図り、これによって兵農分離を行い、 近世封建体制の基礎をつくりました。 刀狩令の目的は、一揆を防ぐことで、 安定し
秀吉は織田信長の家臣として出発し、 本能寺の変のあと、 秀吉が光秀を倒して 信長の後継者として認知され、 織田家の実権を握り、 天下統一を目指しました。 天下の趨勢を決したのが「中国大返し」でした。
本能寺の変は、1582年6月21日に発生した、 日本の歴史上非常に重要な出来事です。 この事件で信長は、 家臣の明智光秀による謀反に遭い、 京都の本能寺で自害しました。 信長は当時、 天下統一に向けて大
信長の世界観は、 当時の日本における伝統的な 価値観や宗教観とは一線を画すものです。 彼はキリスト教を受け入れ、 その教えに興味を持ち、 日本における キリスト教の布教を保護しました。 信長はキリ
長篠の戦いは、 織田信長率いる織田軍と 武田勝頼率いる武田軍が対峙した 大きな合戦です。 この戦いは、 天下統一のきっかけとなる出来事で、 現在の愛知県新城市で行われました。 織田信長は、鉄砲を積
新兵器、鉄砲の登場にすぐさま反応したのは、 各地の戟国大名たちだった。 最も早く実戟に投入したのが薩摩の島津氏。 伝来から六年目のことです。 中国地方の覇者、毛利元就は、 敵の鉄砲に気をつけるよ
守護大名の分国支配体制では、 守護がおのおの分国の 支配権を握っていましたが、 その国内には大小種々の土豪が自立散居し、 その上、荘園の遺制が残存し 公家・社寺の所領が散在する土地も多かったので、 領
応仁の乱の後、 約百年の間続いた群堆割拠の戦国時代が、 織田信長・豊臣秀吉の覇業によって治まり、 彼らの支配のもとに 新たな時代の幕が開かれたことは、 封建制度史上に劃期的特色をなすものです。 戦国
時尭は直ちに鉄砲の複製をつくることを命じました。 鉄砲伝来のわずか半年前の天文一二年三月、 種子島氏は、大隅半島の豪族、禰寝氏に攻め込まれ、 領土であった屋久島を奪い取られ 久島奪還をめざす時尭にと
日本人が初めて出会った鉄砲は どのようなものでしょう。 天文一二年(一五四三)、 種子島に漂着したポルトガル人によって、 日本に初めてわずか二挺の 鉄砲かが伝えられました。 火縄銃は一五世紀にヨー
アフリカ研究者の 山口昌男(やまぐちまさお)氏によれば、 「ポルトガル人は、東アフリカ沿岸 (現在のケニア)にフォート・ジーザスなどの 要塞を建設したが、一六世紀のおわりには、 ジンバ人(アフリカ人)に
ポルトガルは、その最盛期といえども、 東洋貿易の一部分をになっていたにすぎず、 主役はいぜんとしてイスラーム商人だったのです。 やはり、アフリカ南端をまわる航海は、 地中海ルートにくらべて危険が大き
一六世紀にポルトガルはコショウだけでなく、 アジアからシルク・茶・宝石などを西欧へ運送し、 一時はいちじるしく冨みさかえました。 しかし、東南アジア史の専門家である 永積昭(ながづみあきら)氏は、 「
つぎのパスコ=ダ=ガマの、 インドへの航路ですが、 さいわいにケニア沿岸のモンバサという港で、 アラブ大のイブン=マージという 水先案内大の援助を得て、 ついにインド南端の貿易港 カリカットへ到着でき
インド、エジプト、イタリアの商人が コショウの貿易ルートによって、 もうけていましたが、一六世紀はじめから、 これにわりこんできたのがポルトガル人でした。 ポルトガルは、一二世紀に イベリア半島の西
西欧人は、長いあいだ 牧畜に依存して生活してきた関係から、 大量の肉をたべる習慣が 今日までつづいてきています。 そのために、西欧人は 殺した家畜の肉を保存することについて、 むかしから大きな関心を
政治の混乱はありましたが一方では、 新しい農業や耕作技術が発展しました。 特に水田農業が重要で、 水利施設の整備や灌漑技術の 進歩が行われました。 また農業土木の発展により、 農地の拡大や効率的な
倭冠は鎌倉時代にも見られましたが、 西国の土豪が組織した海賊、 いわゆる前期倭冠は、 米と奴隷の略奪を目的として 朝鮮半島から支那の北部、 さらに南部にまで進出して猛威をたくましくし、 倭冠の至るとこ
室町幕府の財政は、 外国とくに明との貿易による利益が、 大きな財源となりました。 蒙古の来襲後も、 九州や瀬戸内海沿岸の住民は、 さかんに支那や朝鮮と私貿易を行っていました。 この貿易には莫大な利
義満は室町幕府の最盛期を 築くことに成功しました。 明徳の乱で山名氏を押えたのは、 その第一歩です。山名氏は、 因幡・伯耆など五カ国の守護を兼ねており、 一族合せて十一カ国の守護を領し、 日本六十余
1467年(応仁1)から十一年間続いた内乱は、 細川勝元と山名持豊(宗全)との対立に, 将軍足利義政の跡継ぎ問題, 斯波・畠山両管領家の相続争いがからんで, 諸国の守護大名が細川方の東軍と 山名方の西軍に
日本の統一的支配者の座を獲得した義満は、 その晩年、上皇になることに意を注ぎます。 その証左は、夫人の日野康子を 後小松天皇の准母としたことで明白です。 夫人が准母なら、夫の義満は 自動的に天皇の
足利義満(あしかが よしみつ)は、 延文3年8月22日(1358年9月25日)の生まれで、 室町時代前期の室町幕府第3代征夷大将軍です。 明徳3年(1392年)、 楠木正勝が拠っていた河内国千早城が陥落し、 南朝勢力
南朝軍で唯一優勢を誇っていた九州の懐良親王軍が、 東上の軍をおこしましたが、 途中で瓦解しました。 諸国の直冬(ただふゆ)党も勢いを失い、 天下三分の混沌状態は克服されつつありました。 義詮が十三年
室町幕府は、 足利氏の将軍による武家政治機構です。 足利尊氏は、九州から東上して 光明天皇を立てた直後、 鎌倉幕府の遺老二階堂是円(ぜえん)らに 政治の大綱を諮問しました。 その答申が一七条から成る
南北両朝和平合体の時機が到来しました。 これまでも、足利直義や佐々木高氏などが、 吉野に和平の働きかけをしたこともありましたが、 吉野では、 北朝の解消、足利氏の帰順を条件としない限り、 交渉に応じ
楠木正成の子正行(まさつら)が 河内四条畷(なわて)の戦いで戦死したことは、 吉野方には大打撃であり、 天皇は一時吉野を出て 大和の賀名生(あのう)に遷られたほどでした。 九州では、 征西将軍宮懐良(かね
吉野の朝廷では、 恒良親王.尊艮親王を奉じて 北国に下った新田義貞は、 越前金ガ崎城で敗れ、 ついで藤島に戦死し、 北畠顕家は義良親王を奉じて 陸奥から再び西上しましたが、 和泉石津の戦に戦死し、 頼
尊氏は九州で菊池武時の子武敏を破り、 少弐・大友・島津等の諸豪族をしたがえて 東上の準備を整え、 海陸両道から大軍を率いて京都に向います。 楠木正成はこれを摂津湊川に迎え戦って死に、 千種忠顕・名和
尊氏は好機訪れたとみてとり、 征夷大将軍に任ぜられて時行を討つことを請うたが、 許されなかったので勅許を待たずに東下し、 時行を討って鎌倉を回復しました。 新政権に不平を抱き、 幕府の再興を望む武士
中興事業に協力した武士の多くは、 幕府に対して不平を抱く人々です。 彼らは幕府を倒すことによって、 自己の地位を安定させ、 さらにそれがよりよくなることを期待したので。 天皇の理想を理解し、 それ
新政権に対する信頼が失われていくときに、 朝廷では、大内裏の造営を計画し、 安芸・周防を料国に宛て、 諸国の地頭にもその費用を課し、 夫役を徴した上に、 期日におくれると それを倍額にして徴収したので
中央.地方の行政機構は整備されましたが、 その施政には不手際が多く、 中興政権はわずか二年で崩壊しました。 新政の成否は、恩賞と土地問題の処理にありましたが、 恩賞の給源としての土地には限りがあるの
後醍醐天皇は伯耆を発し、 途中光厳天畠の廃立を宣言し、 京都に還幸するや、新政を開始しました。 翌年改元した年号をとって、 これを建武中興といいます。 中興政治の理想は、天皇観政を中核とする 公家
後醍醐天皇は隠岐に遷っても譲位の意志はなく、 光厳天皇の在位を認めず、 あくまでも討幕の志をすてません。 護良親王も楠木正成も幕府に抑えられることなく、 親王は近畿地方で活躍し、 叡山の末寺を中心に
正中の変により、 幕府の天皇に対する瞥或は厳重になり、 皇太子邦艮親王薨去後は、 天皇の皇子を皇太子に立てることを拒否し、 量仁親王を皇太子とします。 これで幕府を倒さない限り、 天皇が皇子に位を譲
持明院統の花園天畠のあとを受けて 皇位についたのは、大覚寺統の後醍醐天皇です。 天皇は後宇多天良の第二皇子で、 近臣とともに僧玄恵について宋学を学び、 革新的思想を身につけられました。 即位の初め
幕府の対朝廷策の失敗も 崩壊のきっかけの一つです。 承久の乱後公武両政権の関係は一変し、 治世の君として院政を担当する上皇の決定は、 幕府の手に握られることになりました。 朝廷では、後嵯峨天皇は、
御家人の所領を保護する必要に迫られた幕府は、 一二九七(永仁五)年徳政令を発布して、 御家人所領の質入・売買を禁止し、 すでに売却された土地は無償でもとの持主に取戻させ、 また金銭貸借に関する訴訟は
得宗専制の強化と内管領の抬頭は、 外様(とざま)と呼ばれた一般御家人との対立を生じ、 時宗の死を機として、 一二八五(弘安八)年の霜月騒動となって現われました。 これは幕府草創以来の名家である安達泰盛
1333年7月4日(元弘3年/正慶2年5月22日)に、 元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が、 7月17日(和暦6月5日)に 「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したこと により成立した建武の新政でしたが、 鎌倉
元の世祖フビライ・セチェン・ハーンがつくった 北モンゴルから南シナ海におよぶ帝国は、 元朝の中国に君臨した最後の皇帝である 恵宗トゴン・テムル・ハーン(順帝)の治世に その組織が完戊し、 一三六八年か
西方では、 チンギス=ハーンの孫のフラグ=ハーンが 一二五八年にバグダドを略奪し、 ついに東部のアッバス王朝にとどめを刺しました。 フラグ=ハーンは、 タブリーズの南カにある アゼルバイジャンのマラ
火薬と火器は、蒙古人の手をへて 西欧に達したと考えられます。 印刷についても技術的な細目は別としても、 この径路で西欧に達したのです。 ある時期に支那で印刷されたカルタが、 蒙古人の侵入後まもなく
東洋では東部回教君主国を征服し、 支那の宋王朝を征服した蒙古人は、 最初は、アラビア人の場合よりももっと野蛮でした。 しかしかれらは、 征服した人びとから得た文明の水準にまで達しました。 蒙古人が
今日アフリカにはアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国 がかなりあります。 たとえば、
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二○○年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまって
夢窓疎石は一人で坐禅していた時に、 眠気に襲われたので 後ろの壁にもたれて寝ようとしますが、 後ろには何もなくそのまま倒れてしまいました。 思わず大笑いした時、悟りを得ました。 鎌倉幕府が滅亡する
建治元年(1275)に伊勢国で生まれた 夢窓は臨済宗の禅僧です。 9歳で出家し、奈良の東大寺で 仏教経典はもちろん支那の老荘思想を修めました。 20歳の時、夢の中で異人に導かれ、 疎山と石頭という
五月三日、合浦を出発した末路軍は 対馬、壱岐をへて六月六日、 博多湾に姿をあらわしたが、 日本側は海岸一帯に堅固な石塁を築き、 九州だけでなく関東の武士も襲撃にそなえていました。 このため、末路軍は
南宋を滅ぼし、支那征服を完了したモンゴルは、 一二八〇年に日本再征を決定し、 第一次の五倍を越える大軍を動員して、 一二八一年に出発しました。 屈服させたばかりの旧南宋の支那人十万、 船三千五百隻の
一二七四年の十月三日、 船団は朝鮮の合浦(がつぼ)(馬山:ばざん)を出航し、 五日には対馬、十四日には壱岐を犯して、 虐殺と略奪をほしいままにし、 十九日には博多湾に入り、 二十日には湾岸各地点から い
一二世紀末の日本では鎌倉幕府が成立し、 一二二一年の承久の乱をへて、 この武士政権はもっとも充実した時期を迎えていました。 フビライが派遣したモンゴルの使者が、 はじめて日本に来たのは一二六八年です
モンゴル皇帝フビライ・ハーンは、 高麗国王元宗を降伏させ、これを朝貢国とし、 一一六六年、フビライは軍事力による征服の 威嚇をこめた日本招諭のための使者の派遣を 高麗に強要しました。 いったんは 「
たしかに趙彝にとって、 日本は黄金の国と思われたかもしれない。 とくに奥州藤原(おうしゆうふじわら)氏の 豊かな金力が 彼のイメージを大きくふくらませました。 膨大な黄金を、それこそ湯水のように投じ
フビライ・ハーンの政治的叡智(えいち)は 南宋の息の根を止めるには その貿易ルートを遮断することが先決と考えました。 このフビライ・ハーンに 日本列島の侵略を示唆(しさ)したのは、 高麗(こうらい)人であ
明時代のなかでとくに注目されるのは、 四〇三年に即位した成祖で、 別名永楽帝ともよばれる国王の時期です。 第一代、第一一代皇帝が、 内政を充実させたあとをついだ永楽帝は、 積極的に対外進出にのりだし
このチムール帝国で注目すべきことが二つあります。 一つは、チムールがイスラーム教に改宗したために、 イスラームの勢力がいっそうつよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期
モンゴル時代は、 一二一八年から一三六八年まで 百五十年ほど続きました。 モンゴル帝国が滅亡してのち、 ユーラシアの各地で 新しい動きがあらわれてきましたが、 そのなかでとくに注目すべきものは、 や
第八の段階は、華中・華南の征服です。 南宋に対する作戦は、オゴデイ・ハーン以来、 何度も試みられましたが、 最後に一二七六年、フビライ・ハーンの派遣した モンゴル軍が杭州を占領し、南宋は滅亡しました
「黄金のオルド」のハーンの位を バトゥから継いだのは、 その弟のベルケですが、 ベルケとフレグは コーカサスの領有をめぐって衝突しました。 この情勢のもとに、 エジプトのマムルーク朝は ベルケと手を
第七の段階は、西アジアの征服です。 チンギス・ハーンの孫のモンケ・ハーンは、 一二五三年、弟のフレグを 西アジア遠征に派遣しました。 フレグは一二五八年、バグダードを攻略して 最後のハリーファを処
一二四一年十二月、 オゴデイ・ハーンが死去したため、 モンゴルの遠征軍は東経十六度線で突然、 進軍を中止して引き揚げました。 このときウィーナー・ノイシュタットでは、 追撃したオーストリア軍は 八人
モンゴル軍の作戦の目的は、 西欧をことごとく征服して、 大西洋岸に達し、この地方を モンゴルの故地とすることであったと思われます。 その証拠に、モンゴル軍の先鋒隊には、 あるイギリス貴族が従軍してい
第六の段階は、キプチャク草原の征服です。 チンギス・ハーンの長男のジョチは、 父からカザフスタンを牧地として与えられていました。 オゴデイ.ハーンは一二三四年、 ジョチの次男のバトゥを総司令官とし
セルジュク朝は、 イスラーム世界では最初のトルコ人の帝国ですが、 その領土の東半分を引き継いだのは、 やはりトルコ人イスラーム教徒の ホラズム・シャ一朝です。 ホラズムというのは、 現在のウズベク共
西アジアのイスラーム世界は、 七世紀のアラブ帝国の大征服が創り出したものです。 この帝国は八~九世紀、 バグダドのアッパース朝のハリーファ(カリフ)のもとで 最も繁栄したが、この時代から、 中央アジ
一二五〇年代に、 モンゴル軍は第三次西征にでかけ、 一二五八年に 有名なバグダッド(現在のイラクの首都)を攻略しました。 さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、 このときも国内からの不幸の急報に
もともと、モンゴルの文化は それほど高くはなかったのですが、 ホラズム遠征によって、 中央アジアやイランの 高い文化や都市の繁栄をみて、 はじめて世界に目をひらいたのでした。 そして、さらに西方を攻
アジアでは民族がつぎつぎにあらわれましたが、 モンゴル帝国はそのもっとも成功し例です。 モンゴル帝国の出現によって、 当時のユーラシア全体の情勢が一変しました。 モンゴルは、 モンゴル高原(支那本
これからのモンゴル帝国の発展は、 いくつかの段階に分かれます。 第一の段階は、西夏王国の征服でする。 チンギス・ハーンの即位前の一二〇五年から、 すでにモンゴル軍は西夏に侵入を開始し、 一二二七年
フランスの美術評論家プウジナは、 一九三五年の著述 『支那のイタリア・ルネサンス絵画への影響』のなかで、 技術と内容の両方から分析し、 支那絵画の影響について、 つぎのように指摘しています。 「技術
ルネサンス思潮を もっともよくあらわしたのが、 レオナルド=ダ=ビンチや ラファエロに代表される 絵画だといわれています。 それ以前の西欧中世の絵は、 完全な宗教画だったのですが、 レオナルドやラフ
ルネサンスのもとの意味は、「再生」です。 つまり、古代ギリシア・ローマに 花ひらいた人間賛歌の文芸がほろび、 その後イスラーム勢力や宗教によって 抑圧されていた時代をこえ、 いままた再生したというわ
中世の末期(一五世紀)に イタリアに大きな変化がおきました。 西欧は、一二世紀になって ようやく都市文明の時代へはいりましたが、 都市の発達のもっともはやかったのは、 北イタリアでした。 一四~一
航海について、重要なことは、 天文学も地理学も イスラームの学術書からまなんでいることです。 西欧人がイベリア半島からイスラームを 追いはらって建国した国の一つに カスチラ王国があります。 この国
一二世紀にはいると、 西欧にはいくつかの都市が誕生し、 大学も設置されるようになりました。 そして一三世紀になると、 西欧のいたるところに都市があらわれ、 また多くの大学がもうけられました。 これ
トレドには多数のイスラームの学術図書が 保存されたイスラームの大図書館があり、 そこには、古代ギリシャの学術研究を アラビア語に訳した書籍 もたくさんおかれていました。 そして、トレド図書館をみつけ
当時の西欧の軍事力では、 とてもイスラーム軍に対抗できず、 エルサレムを奪回することは一時的にはできても、 けっきょくは成功しませんでした。 しかし十字軍によって、 西欧よりはるかに文化の発達したイ
イスラームの勢力圏が もっとも拡大したのは一七世紀で、 マホメットの布教から一千年のちのことです。 一七世紀には 旧大陸(ナジアとアフリカ)のじつに半分以上が イスラームの勢力下にはいっていたのです
モンゴル(元)の国王につかえた イタリア商人のマルコ=ポーロは、 帰途スマトラ島(インドネシア)に しばらく滞在したことがあります。 そのころスマトラには、 ほぼ現在のインドネシア全域を支配する 大
アフリカには今日ではアラブ人の国が樹立され、 すべてイスラーム圏に属していますが、 中部アフリカでもイスラーム教を信奉する国、 あるいはイスラーム教を第一の宗教とする国が かなりあります。 たとえば
アフリカだけにかぎりません。 インド北部にも、 一○世紀末からたびたびイスラームの軍隊 (イスラーム化されたトルコ人)が侵入し、 一二〇〇年ごろ、ついにイスラーム勢力が 北インド全域を占領してしまっ
チムール帝国で二つの注目すべきことがあります。 一つは、チムールがイスラーク教に改宗したために、 イスラームの勢力が一層つよまっていったことです。 もう一つはチムールの後継者(その息子)の時期に、
永楽帝は南へは、 鄭和という提督に数十せきの大艦隊をあたえ、 一四〇五年から三〇年までのあいだに 七回にわたって航海させています。 鄭和の大艦隊は、東南アジアの タイ、マレー、ジャワ、スマトラをはじ
モンゴル時代は、 一二一八年から一三六八年まで 百五十年ほどつづきました。 モンゴル帝国が滅亡してのち、 ユーラシアの各地で 新しい動きがあらわれてきましたが、 とくに注目すべきは、 モンゴルの四大
歴史上の最大の大帝国を建設したモンゴルは、 世界史上でどのような意味があるのでしょうか。 五世紀ごろから一五世紀ごろまで、 騎馬民族がつぎからつぎへとあらわれて、 ユーラシアの中心勢力となったのです
モンゴル軍がなぜつよく、 たちまちユーラシア大陸を席巻できたのでしょう。 その第一の理由は、 モンゴル軍は軽装の騎馬兵だけで、 機動力にとんでいたためです。 当時、ほかの国の軍隊は、 歩兵と騎兵が
一二五〇年代に、 モンゴル軍は第三次西征にでかけ、 一二五一年にバグダッド(現在のイラクの首都)を 攻略しました。 さらにエジプトへ進撃しようとしたのですが、 このときも国内からの不幸の急報に接して
モンゴルの文化はもともと、 それほど高くはなかったのですが、 ホラズム遠征によって、 中央アジアやイランの高い文化や都市の繁栄をみて、 世界に目をひらいたのです。 そして、さらに西方を 攻略したいと
モンゴル帝国は、 まさに空前絶後の大帝国を建設しました。 領土の広さについてみるなら、 そういえるでしょう。 世界史における中世の特徴の一つは、 騎馬民族が歴史の主導権をにぎっていたことです。
アジアでは、1215年に蒙古軍が金の首都を陥れ、 チンギス・ハーンの西征が開始されます。 13世紀にモンゴル高原におこり, 西アジア・ヨーロッパにまたがる 大帝国をつくりあげたモンゴル人は, 1234年,金を
「タヤン」とは、 金帝国から与えられた称号「大王」のなまりです。 ナイマン軍はモンゴル軍とオルホン河畔で 戦闘で大敗し、タヤン・ハーンは戦死しました。 テムジンは東方に転じてタタール部族を撃破し、
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日本では、江戸時代にはいってから 表面的には内戦がなくなり、 平和な状態がつづきました。 そのため一七世紀に農業はかなり発展し、 米・綿・茶などの増産にささえられて、 城下町の文化はしだいに発達しま
ナポレオンは 一八一一年、ロシアに侵入し敗退します。 この敗戦を聞いた西欧の国ぐには、 フランス(ナポレオン)に対して 反乱をおこしました。 そしてナポレオンは戦いにやぶれ、 地中海のエルバ島へな
ナポレオンは、一七六九年に 地中海のコシカ島で生まれ フランスの陸軍上官学校をでて、 フランス革命のときは中尉でした。 革命後のフランスは、 外国軍の侵入により 自由・平等の革命理念が つぶされそう
フランス革命は一七八九年におこりました。 革命のきっかけは、 フランス王室のぜいたくから 国家財政が危機にひんしたところへ、 一七八八年、凶作に見まわれ、 その影響をうけた国民が、 不満を爆発させた
ボルテールにつづいて、 フランスの最大の知識人はルソーです。 ルソーは一七五五年に 「人間不平等起源論」を書き、 文明の発達にともない 人間の自由がうばわれて 不平等が生みだされたと主張し、 文明の
イギリスで市民革命が成功してのちも、 フランスでは国王の力がつよく、 国王による独裁政治がつづいていました。 しかし、 一八世紀に多くのフランスの知識人が、 独裁政治にたいしてたたかい、 一八世紀末
アメリカが独立したとき、 その国土はまだ東海岸に近い 東部十三州のみでしたが、 一九世紀のうちに、 アメリカ人は西へ西へと進撃をつづけ、 一八五○年ごろに、 ついに太平洋岸まで到達しました。 その拡
アメリカの独立宣言文の最初に、 つぎのように記されています。 「われわれは自明の原理として、 すべての人は平等につくられ、 造物主によって、 一定のうばいがたい諸権利を賦与され、 そのなかに生命、自
一八世紀の西欧は、 一七世紀のイギリスにおこった市民革命が 各国にひろまっていった時期です。 注目されるのは、 アメリカの独立(1770年代)と フランス革命(一八世紀末)です。 アメリカには一七世紀
不平等条約説は、 これまで述べてきた日米和親条約と その四年後に締結された 日米修好通商条約とを あわせて論じられてきました。 なお最恵国待遇(条項)がいきていたため、 そのほかの列強との条約も 上
大東亜戦争の戦後の時期に、 日本の戦争責任の問題もからみ、 日本とその他アジア諸国とのあいだに、 近代の「共通性」をもとめる力がはたらいて、 再度この条約の不平等性が強調されました。 その場合、アジ
日米和親条約の調印は 一八五四年三月三一日でしたが、 「正文」を何語にするか の話し合いがなかったため、 最後の段階で応接掛は 外国語文への署名を拒否し、 ペリー側をあわてさせました。 日本文(応接
ペリーの贈り物にたいして幕府は、 米をはじめ反物や漆器類を贈呈し、 さらにべリーからの要望により 作物の種子や苗も贈りました。 贈り物の点では、アメリカ側が、 それを条約交渉にうまく利用しました。
最初に宴会を催したのは幕府側ですが、 贈り物の贈与で先手をとったのは アメリカ側でした。 一八五四年三月八日の 応接掛が催した宴会で、 ペリー一行は条約草案を提示しました。 その一週間後に幕府の条
アメリカ草案にたいして、 幕府は一週間後に アメリカに草案をわたしましたが、 それはまるで木で鼻をくくったような そっけない内容でした。 すべての交渉を長崎でやる、 という意味の旧来の幕府の態度を
アメリカ草案は、 望厦条約を基礎に不必要な部分を削除する という手順と論理で構成されていました。 草案と望厦条約漢文版とを 同時に応接掛にわたした理由も そこにありました。 応接掛はその削除にとも
条約草案はまず アメリカ側からだされ(使用言語は漢文)、 同時に望厦条約の漢文版が添付されていました。 望厦条約とは 一八四四年に清米間で締結された条約であり、 二年前の清英間の南京条約にたいする
日米和親条約の交渉時の交渉陣をくらべると、 ペリー側はペリーを筆頭に 副官アダムス、中国語通訳ウィリアムズ、 オランダ語通訳ポートマンで、 幕府側応接掛では筆頭の 林大学頭ほか、井戸対馬守(町奉行)、
阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまいます。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のこと
阿部は大型船建造の解禁を、 条約交渉の開始以前に、 老中みずからの手によって諮問のうえ、 決定してしまった。 ペリー艦隊の第一回来航の約三カ月後、 諮問から三週間ほどの短時間、 一〇月一七日のことで
西欧の回復がはじまってから 一二〇〇年ごろまでの二世紀以上の期間、 西欧は、アラビア、ビザンティンの 高度に発達した科学や数学、天文学を 食欲(どんよく)に吸収し、 同時に大胆で精力的な創造に力を注いだ
イスラームの時代が過ぎ去ったのち ロマネスクとよばれる 西欧のキリスト教文化が作られます。 これは十一世紀のことです。 イスラーム文明は、十字軍の頃、 非常に高い文化をもっています。 バグダッド
日本に仏教文化が花開いた頃、 世界では、イスラーム教が生まれ、 その勢力を増していました。 ローマ帝国の衰退の後、 西欧はゲルマン民族の大移動によって、 それまでの秩序が崩壊していく中で、 イスラー
15世紀後半には, たとえば天文学における新しい動きが生じたり, 科学者としても大先覚者である レオナルド・ダ・ゲインチ (Leonardo da Vinci 1452-1519イタリア) のような人物があらわれたりしています。
豊臣政権のとった外交方針は、 統一政権の基礎を 外国貿易と海外発展によって堅固にし、 外国に対する威圧と征服とによって 勢威の拡大をほかる 封建的国家権力独得の方法であって、 そこにイスパニヤ・ポルト
徳川家康(とくがわ いえやす)の生涯は 多くの困難と戦いに満ちていました。 幼少期には今川家の人質となり、 その後独立して織田信長と同盟を結びます。 信長の死後は豊臣秀吉との 関ヶ原の戦いで勝利を
豊臣秀吉による朝鮮出兵は、 文禄の役(1592年~1593年)と 慶長の役(1597年~1598年)です。 これは、秀吉が 天下統一を成し遂げた後に行われた 大規模な軍事遠征で、 秀吉は、 明の征服を目指し、 李氏
秀吉は1588年の刀狩令で武装解除を進め、 農民から武器を取り上げることで 社会の安定を図り、これによって兵農分離を行い、 近世封建体制の基礎をつくりました。 刀狩令の目的は、一揆を防ぐことで、 安定し
秀吉は織田信長の家臣として出発し、 本能寺の変のあと、 秀吉が光秀を倒して 信長の後継者として認知され、 織田家の実権を握り、 天下統一を目指しました。 天下の趨勢を決したのが「中国大返し」でした。
本能寺の変は、1582年6月21日に発生した、 日本の歴史上非常に重要な出来事です。 この事件で信長は、 家臣の明智光秀による謀反に遭い、 京都の本能寺で自害しました。 信長は当時、 天下統一に向けて大
信長の世界観は、 当時の日本における伝統的な 価値観や宗教観とは一線を画すものです。 彼はキリスト教を受け入れ、 その教えに興味を持ち、 日本における キリスト教の布教を保護しました。 信長はキリ
長篠の戦いは、 織田信長率いる織田軍と 武田勝頼率いる武田軍が対峙した 大きな合戦です。 この戦いは、 天下統一のきっかけとなる出来事で、 現在の愛知県新城市で行われました。 織田信長は、鉄砲を積
新兵器、鉄砲の登場にすぐさま反応したのは、 各地の戟国大名たちだった。 最も早く実戟に投入したのが薩摩の島津氏。 伝来から六年目のことです。 中国地方の覇者、毛利元就は、 敵の鉄砲に気をつけるよ
守護大名の分国支配体制では、 守護がおのおの分国の 支配権を握っていましたが、 その国内には大小種々の土豪が自立散居し、 その上、荘園の遺制が残存し 公家・社寺の所領が散在する土地も多かったので、 領
応仁の乱の後、 約百年の間続いた群堆割拠の戦国時代が、 織田信長・豊臣秀吉の覇業によって治まり、 彼らの支配のもとに 新たな時代の幕が開かれたことは、 封建制度史上に劃期的特色をなすものです。 戦国
時尭は直ちに鉄砲の複製をつくることを命じました。 鉄砲伝来のわずか半年前の天文一二年三月、 種子島氏は、大隅半島の豪族、禰寝氏に攻め込まれ、 領土であった屋久島を奪い取られ 久島奪還をめざす時尭にと
日本人が初めて出会った鉄砲は どのようなものでしょう。 天文一二年(一五四三)、 種子島に漂着したポルトガル人によって、 日本に初めてわずか二挺の 鉄砲かが伝えられました。 火縄銃は一五世紀にヨー
アフリカ研究者の 山口昌男(やまぐちまさお)氏によれば、 「ポルトガル人は、東アフリカ沿岸 (現在のケニア)にフォート・ジーザスなどの 要塞を建設したが、一六世紀のおわりには、 ジンバ人(アフリカ人)に
ポルトガルは、その最盛期といえども、 東洋貿易の一部分をになっていたにすぎず、 主役はいぜんとしてイスラーム商人だったのです。 やはり、アフリカ南端をまわる航海は、 地中海ルートにくらべて危険が大き
一六世紀にポルトガルはコショウだけでなく、 アジアからシルク・茶・宝石などを西欧へ運送し、 一時はいちじるしく冨みさかえました。 しかし、東南アジア史の専門家である 永積昭(ながづみあきら)氏は、 「