[北魏:熙平三年→神亀元年 梁:天監十七年]┃胡国珍の死〔北魏の胡太后⑴の父で侍中・司徒・安定郡公の〕胡国珍⑵は仏教を篤く信じ、年老いて体が衰えた後も己を奮い…
[北魏:神亀二年 梁:天監十八年]┃旱魃 丁丑(2月27日)、北魏が詔を下して直言を求め、意見書を密封して提出させた。 3月、壬寅(23日)、詔を下して言った…
『北斉文襄(高澄)紀⑴ 女漁り系イケメン』┃生没年 521~549年8月○北斉文襄紀〔武定…七年(549)…八月…〕辛卯,王遇盜而殂,時年二十九。┃容姿 北…
[→王思政伝⑵]┃好機逸すべからず〔大統十三年(547)、正月、丙午(8日)、東魏の丞相・勃海王の高歓が逝去した。世子の高澄⑴が跡を継いだ。 辛亥(13日)、…
『周書:王思政伝⑴ 〜孝武帝の腹心〜』┃孝武帝の腹心 王思政、字は思政は、太原郡(并州の治所)祁県の人で、後漢の司徒の王允の後裔である。王氏は曹魏の太尉の王…
┃孝武帝の腹心 王思政、字は思政は、太原郡(并州の治所)祁県の人で、後漢の司徒の王允の後裔である。王氏は曹魏の太尉の王凌が誅されてより顕職に就くことが無くなっ…
[北魏:神亀二年 梁:天監十八年]┃称詔 春、正月、甲申(4日)、梁が領軍将軍の鄱陽王恢⑴を使持節・散騎常侍・都督荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・開府…
『羊侃伝(1)』[496~549]┃東朝に帰るべし 羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫(鉅平?)県の人で、〔後〕漢の南陽太守の羊続の末裔である。 祖父の羊規之…
[530~548]┃蠕蠕公主前史〔柔然の頭兵可汗⑴は、北魏に護送されて帰国を果たした頃(521年正月参照)は北魏に恭しく接していたが、北方に勢力を拡大してから…
┃プロフィール【生没年】天監七年(508)八月丁巳(6日)~承聖三年(554)十二月辛未(19日)・梁の武帝の第七子。・幼名は七符(官)・字は世誠・眼病により…
┃官職・都督→560年:領軍将軍・都督→武平年間(570~576):開府・王┃高家の家奴〔東魏の権臣の〕高歓⑴の蒼頭(家奴)の陳山提⑵・蓋豊楽⑶・劉郁斤・趙道…
『北斉書:安徳王延宗伝⑴ 動けるデブ』[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕…
[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕の芸妓の陳氏。〔澄が武定七年(549)に…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃為仁微小 壬寅(8月24日)、北魏の孝文帝⑴が肆州(九原)に到った。この時、〔肆州〕民のうち七十歳以上の者の爵位(二十…
[?~531]┃占卜によって成り上がる 劉霊助は、燕郡(幽州の治所の薊がある郡)の人である。父は劉僧安。陰陽・占卜の事を好み、范陽の人の劉弁に師事した。ただ、…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃王融策動 戊寅(7月30日)、〔病気に罹っていた〕南斉の武帝⑴が突然危篤に陥り、意識不明の状態となった。この時、帝の子…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃遷都計画 北魏の首都の平城は南五十里に定襄(雁門の誤り)郡より出て海(東シナ海)に流れる桑乾水という川があり、それに因…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃皇太孫昭業 夏、4月、癸未(3日)、北魏の使者が南斉に到着した(正月14日に北魏は邢巒と劉承叔を南斉に派遣していた)。…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃陳顕達の静退 春、正月、壬子朔(1日)、北魏の孝文帝⑴が百官を太極殿に集めて宴会を開いた。 癸丑(2日)、南斉の武帝⑵…
┃生没年 521~549年8月○北斉文襄紀〔武定…七年(549)…八月…〕辛卯,王遇盜而殂,時年二十九。┃容姿 北史:美姿容 賈子儒:瞼が薄く、目の動き(或い…
[507~568]┃楊忠の登場 楊忠(本姓は普六茹?)は幼名を奴奴といい、武川鎮の人である。 漢の太尉の楊震の末裔という(眉唾)。 震の八代孫の楊鉉は燕(北燕…
589年⑸ 天人告げて 陳朝、三二で滅び 後主降って 三分、一統に帰す
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃嶺南乱る これより前(588年)、陳は使持節・光勝将軍(六品)・平越中郎将・大都督・東衡州刺史・領始興内史の王勇⑴を鎮南大将軍…
589年⑷ 蕭瓛、三子を以て呉州に起ち 遂興、青門を忌んで臣節に死す
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃江州降る 癸巳(正月29日)、隋が使者を江南の各地に派して巡撫させた。 隋の〔上大将軍・蘄州総管の〕王世積⑴は蘄口にて陳が滅亡…
589年⑶ 陳後主、井中に身を隠して隋文を驚かせ 張麗華、青渓に首を晒して晋王を怒らす
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃逃走の機逸す 陳軍が敗北を喫すると、任忠⑴は宮殿に馳せ入って後主⑵に謁え、敗北した事を報告した。それからこう言った。「陛下、身…
589年⑵ 魯広達、桴鼓を執って白土岡に力戦し 蕭摩訶、妻を姦せられて賀若弼の縛に就く
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃馬鞍山・磨刀澗の戦い これより前、陳の荊州(公安)刺史の宜黄侯慧紀⑴は隋軍が渡江したのを知ると、公安の留守を長史の陳文盛らに任…
589年⑴ 賀若、計策を用いて長江を済り 王頒、傷を被るも夢に薬を授かる
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃霧気四塞 春、正月、乙丑朔(1日)、陳の後主⑴が元旦に群臣を集めて朝会(元会)を挙行した。 この時、建康の周囲に深い霧が立ち込…
588年(3) 楊素、水戦を制して江神と称され 後主、天塹を信じて詩酒に耽る
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃親餞 11月、丁卯(2日)、隋の文帝⑴が自ら伐陳軍を見送りに出た。 また、陳の後主⑵の身柄に上柱国・万戸公の懸賞を懸けた。 壬…
588年(2)大軍隋を発って 五十一万、晋王の節度を受け 精兵江に臨んで 旌旗舟楫、数千里に亘る
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃壮行の宴 9月、丁丑(11日)、隋の文帝⑴が南征に参加する諸将を集めて宴会を開き、差をつけて下賜を行なった。 癸巳(27日)、…
『周書:斉王憲伝(3) 〜晋公護の死と武帝の警戒〜』『周書:斉王憲伝(1) 〜勇敢なる駁馬将軍〜』[544(545?)~578]┃原州で育つ 斉煬王憲は字を…
『周書:斉王憲伝(1) 〜勇敢なる駁馬将軍〜』[544(545?)~578]┃原州で育つ 斉煬王憲は字を毗賀突といい、宇文泰⑴の第五子である。母は達步干妃(柔…
┃重用 天和三年(568)、夏、4月、辛巳(17日)、北周が雍州牧の斉公憲を大司馬・治小冢宰とした。雍州牧はそのままとした。 憲は〔北周の権臣の〕晋公護から信…
588年(1) 神龍騰躍して 隋文、伐陳の詔を下し 災異相継ぐも 後主、大いに酒色に耽る
[隋:開皇八年 陳:禎明二年]┃拝礼問答 春、正月、乙亥(5日)、陳の散騎常侍の袁雅・兼通直散騎常侍の周止水が隋に到着した⑴。 この時、内史侍郎の元善が客館に…
587年(2) 梁廃されて 蕭巖、部衆を率いて陳に奔り 父母を称して 隋文、一衣帯水に限らず
[隋:開皇七年 陳:至徳五年→禎明元年 後梁:広運二年]┃後梁滅ぶ 隋が後梁の靖帝⑴に入朝を求めた。帝は臣下二百余人を引き連れて長安に赴いた。江陵の父老たちは…
[544(545?)~578]┃駁馬 斉煬王憲は字を毗賀突といい、宇文泰⑴の第五子である。母は達步干妃(柔然人)。 聡明で器が大きく、幼い頃から気高い精神を備…
┃芸術の天才 広寧王孝珩は北斉の文襄帝(高澄⑴)の第二子である。母は王氏。 孝珩は才能のある者を愛し、読書家で、作文を好み、芸術の才能があった。 ある時、役所…
587年(1) 阿波擒われて 獯粥みな臣妾となり 衆鬼厲りを為して 衛王忽然と薨去す
[隋:開皇七年 陳:至徳五年→禎明元年 後梁:広運二年]┃改元 春、正月、丙子(1日)、陳が安前将軍(三品)の衡陽王伯信⑴を鎮前将軍(二品)とした。 また、安…
┃侯景┃宇文護┃蘭陵王┃隋の文帝
┃晋書地理志↓綺麗な画像を見たい方はこちらhttps://twitter.com/Jl6kmgQnKEsXvLy/status/169744476454592…
┃勢力図
586年(2) 崔仲方、歳助を論じて取陳の策を献じ 孔範、奪兵を行なって文武解体す
[隋:開皇六年 陳:至徳四年 後梁:広運元年]┃元景山の死〔これより前、元景山⑴は司馬消難が挙兵した際その討伐に大いに貢献し、隋が建国されると上柱国・安州総管…
586年(1) 李顕慶、泉に帰して封禅の光景を慕い 梁士彦、計敗れて一党誅戮に遭う
[隋:開皇六年 陳:至徳四年 後梁:広運元年]┃広運 後梁が年号を天保から広運に改めた。 有識者は言った。「運の字は軍と走で成り立っている。我が君(靖帝⑴)は…
585年(3) 隋・陳衝突して 蕭岑、徴召を受け 施・沈専制して 傅縡、獄中に死す
[隋:開皇五年 陳:至徳三年 後梁:天保二十三年]┃河南諸州の水害 戊子(8月4日)の夜、〔建康にて〕老人星(カノープス。吉星)が観測された。 甲辰(20日)…
┃王神念を破る 慕容儼は字を恃徳といい、清都成安の人で、慕容廆(前燕の実質的な建国者。或いは単に前燕)の後裔である。父の慕容叱頭は北魏の南頓太守で、身長一丈(…
585年(2) 沙鉢略、大隋の援を受けて阿波を破り 隋文帝、漠北の雄を従えて一体と為す
[隋:開皇五年 陳:至徳三年 後梁:天保二十三年]┃義倉の設置 当時、隋では国内の大部分が水害や旱害に遭い、人々は生計が立てられなくなっていた。 そこで隋の民…
585年(1) 郢国公、不遜の言辞を吐いて死を賜り 名将の子、建安に干戈を交えて勇を争う
[隋:開皇五年 陳:至徳三年 後梁:天保二十三年]┃《隋朝儀礼》 春、正月、戊午朔(1日)、日食があった。 これより前、隋は〔大将軍・秘書監の〕牛弘⑴と〔上開…
┃姓名・字・出身地・侯景は字を万景といい、朔方、或いは雁門郡出身で、北魏の懐朔鎮の人である。・幼名は狗子┃生没年・503~552・548年の書状に『臣は四十六…
584年(3) 周公主、仇敵に屈してその娘となるを乞い 陳後主、三閣を建てて後庭花を詠う
[隋:開皇四年 陳:至徳二年 後梁:天保二十二年]┃沙鉢略可汗、隋に和を求める〔これより前、東突厥の沙鉢略可汗⑴は隋に大敗を喫したのち、西突厥の達頭可汗⑵の支…
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[北魏:熙平三年→神亀元年 梁:天監十七年]┃胡国珍の死〔北魏の胡太后⑴の父で侍中・司徒・安定郡公の〕胡国珍⑵は仏教を篤く信じ、年老いて体が衰えた後も己を奮い…
[北魏:熙平三年→神亀元年 梁:天監十七年]┃郡板・県板 春、正月、甲子(8日)、北魏が氐族の酋長の楊定を陰平王とした(前任は楊炅?)。 丙寅(10日)、特進…
[北魏:熙平二年 梁:天監十六年]┃髪切り狐 北魏の洛陽大市の北に慈孝・奉終の二里があり、里内の人々は棺を売るのと霊柩車を貸すのとで生計を立てていた。 挽歌(…
[北魏:熙平二年 梁:天監十六年]┃人民救済 春、正月、辛未(9日)、梁の武帝(時に54歳)⑴が自ら南郊〔にて天〕を祀り、詔を下して言った。「朕は即位してより…
▶王羆伝⑴ 『周書:王羆伝⑴ 〜天もし国家を祐けずんば、矢を額に中てよ〜』┃雍州の著姓・剛直公正の人 王羆は字を熊羆といい、京兆覇城の人で、後漢の河南尹の王遵…
https://ameblo.jp/kabadeden147/entry-12887000942.html 『周書:王羆伝⑴ 〜天もし国家を祐けずんば、矢を額…
┃雍州の著姓・剛直公正の人 王羆は字を熊羆といい、京兆覇城の人で、後漢の河南尹の王遵の後裔である。家は代々州郡の著名な一族として名を馳せた。 羆は質実剛健・公…
[北魏:熙平元年 梁:天監十五年]┃田益宗、東豫を乞う この年、北魏の征南将軍・金紫光禄大夫・散騎常侍・曲陽県伯の田益宗⑴が上表して東豫州刺史となり、梁にいる…
[北魏:熙平元年 梁:天監十五年]┃十字を過ぎず この年、梁が〔左衛将軍の〕昌義之⑴を使持節・都督湘州諸軍事・信威将軍・湘州(長沙)刺史としていたが、その年中…
[北魏:熙平元年 梁:天監十五年]┃新体制 6月、丙申(1日)、梁の小廟の改築が完了した。 庚子(5日)、〔侍中・中権将軍・〕尚書令〔・丹陽尹〕の王瑩⑴を左光…
[北魏:熙平元年 梁:天監十五年]┃淮堰完成〔これより前、梁は何度も兵を起こしては北魏の防備の手薄な所に攻めかかったが、野心に反して実力が伴わなかったため、そ…
[北魏:熙平元年 梁:天監十五年]┃梁、北魏の荊州に侵攻 春、正月、戊辰朔(1日)、北魏が大赦を行ない、年号を延昌から熙平に改めた。 これより前、梁の弘農⑴…
[北魏:延昌四年 梁:天監十四年]┃梁の北伐〔この秋、〕梁の左遊撃将軍の趙祖悦⑴が数万の兵を率いて北魏の西硤石[1]を襲撃し、占拠した。祖悦は西硤石に外城を築…
[北魏:延昌四年 梁:天監十四年]┃胡太妃、皇太后となる 丙子(8月6日)、胡太妃⑴を尊んで皇太后とした。太后は崇訓宮に住んだ。 また、侍中・車騎大将軍・領軍…
[北魏:延昌四年 梁:天監十四年]┃南秦州氐の乱 北魏の南秦州の氐族が叛乱を起こし、武興(武興鎮、或いは東益州)を包囲した。 この月(4月)、征虜将軍(従三品…
[北魏:延昌四年 梁:天監十四年]┃益州軍の撤退 これより前(去年の11月)、北魏は司徒の高肇⑴を大将軍・平蜀大都督とし、步騎十五万を率いて蜀を討伐するよう命…
[北魏:延昌四年 梁:天監十四年]┃加冠の儀 春、正月、乙巳朔(1日)、梁の武帝⑴が太極殿にて太子統⑵の加冠の儀を執り行ない、大赦を行なった。また、全国の跡継…
[北魏:正光三年 梁:普通三年]┃高車王 4月、丁卯(6日)、梁の汝陰王の劉端⑴が薨去した。劉哲が跡を継いだ。 癸酉(12日)、洛陽にて暴風雨が起こり、屋根が…
[?〜540]┃死生富貴、天に在り 念賢は字を蓋盧といい、金城枹罕(河州。天水の西北。涼州の南)の人である⑴。父の念求就は大家の子を以て武川鎮(北魏の北辺防衛…
[北魏:正光三年 梁:普通三年]┃我が任城 春、正月、庚子(7日)、梁が宣恵将軍・尚書令の袁昂⑴を中書監・丹陽尹とし、雲麾将軍・呉郡太守の王暕⑵を侍中・尚書左…
[北魏:神亀二年 梁:天監十八年]┃旱魃 丁丑(2月27日)、北魏が詔を下して直言を求め、意見書を密封して提出させた。 3月、壬寅(23日)、詔を下して言った…
『北斉文襄(高澄)紀⑴ 女漁り系イケメン』┃生没年 521~549年8月○北斉文襄紀〔武定…七年(549)…八月…〕辛卯,王遇盜而殂,時年二十九。┃容姿 北…
[→王思政伝⑵]┃好機逸すべからず〔大統十三年(547)、正月、丙午(8日)、東魏の丞相・勃海王の高歓が逝去した。世子の高澄⑴が跡を継いだ。 辛亥(13日)、…
『周書:王思政伝⑴ 〜孝武帝の腹心〜』┃孝武帝の腹心 王思政、字は思政は、太原郡(并州の治所)祁県の人で、後漢の司徒の王允の後裔である。王氏は曹魏の太尉の王…
┃孝武帝の腹心 王思政、字は思政は、太原郡(并州の治所)祁県の人で、後漢の司徒の王允の後裔である。王氏は曹魏の太尉の王凌が誅されてより顕職に就くことが無くなっ…
[北魏:神亀二年 梁:天監十八年]┃称詔 春、正月、甲申(4日)、梁が領軍将軍の鄱陽王恢⑴を使持節・散騎常侍・都督荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・開府…
『羊侃伝(1)』[496~549]┃東朝に帰るべし 羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫(鉅平?)県の人で、〔後〕漢の南陽太守の羊続の末裔である。 祖父の羊規之…
[530~548]┃蠕蠕公主前史〔柔然の頭兵可汗⑴は、北魏に護送されて帰国を果たした頃(521年正月参照)は北魏に恭しく接していたが、北方に勢力を拡大してから…
┃プロフィール【生没年】天監七年(508)八月丁巳(6日)~承聖三年(554)十二月辛未(19日)・梁の武帝の第七子。・幼名は七符(官)・字は世誠・眼病により…
┃官職・都督→560年:領軍将軍・都督→武平年間(570~576):開府・王┃高家の家奴〔東魏の権臣の〕高歓⑴の蒼頭(家奴)の陳山提⑵・蓋豊楽⑶・劉郁斤・趙道…
『北斉書:安徳王延宗伝⑴ 動けるデブ』[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕…
[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕の芸妓の陳氏。〔澄が武定七年(549)に…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃為仁微小 壬寅(8月24日)、北魏の孝文帝⑴が肆州(九原)に到った。この時、〔肆州〕民のうち七十歳以上の者の爵位(二十…
[?~531]┃占卜によって成り上がる 劉霊助は、燕郡(幽州の治所の薊がある郡)の人である。父は劉僧安。陰陽・占卜の事を好み、范陽の人の劉弁に師事した。ただ、…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃王融策動 戊寅(7月30日)、〔病気に罹っていた〕南斉の武帝⑴が突然危篤に陥り、意識不明の状態となった。この時、帝の子…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃遷都計画 北魏の首都の平城は南五十里に定襄(雁門の誤り)郡より出て海(東シナ海)に流れる桑乾水という川があり、それに因…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃皇太孫昭業 夏、4月、癸未(3日)、北魏の使者が南斉に到着した(正月14日に北魏は邢巒と劉承叔を南斉に派遣していた)。…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃陳顕達の静退 春、正月、壬子朔(1日)、北魏の孝文帝⑴が百官を太極殿に集めて宴会を開いた。 癸丑(2日)、南斉の武帝⑵…