[北魏:神亀二年 梁:天監十八年]┃称詔 春、正月、甲申(4日)、梁が領軍将軍の鄱陽王恢⑴を使持節・散騎常侍・都督荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・開府…
583年(2) 天子震怒して 大隋、北伐の軍を興し 胡の不意に出でて 二李、白道に大破す
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃北斉系の不遇〔丁巳(3月19日)、隋は詔を下し、書一巻を献じた者には絹一疋を褒賞として与える事…
583年(1) 酒宴を諌めんとして 毛喜、階下に仆れ 典籍を集めんとして 牛弘、文帝に奏す
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃緩和 春、正月、庚子(1日)、隋が新都に遷る準備が整った事を祝い、天下に大赦を行なった。 また…
[496~549]┃東朝に帰るべし 羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫(鉅平?)県の人で、〔後〕漢の南陽太守の羊続の末裔である。 祖父の羊規之(?~473)は、…
582年(4) 突厥入寇して 長儒、身に五創を被り 沙城に争って 李崇、忠を北辺に示す
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]┃突厥の侵攻 10月、隋の文帝が旧殿を撤去し、居所を東宮に移した。また、朝廷内外の官吏に俸録を支給した。 こ…
582年(3) 天・人の勧めを受けて 隋文、都を大興に遷し 突厥入寇して 長儒、身に五創を被る
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]┃能吏・蘇孝慈 壬午(6月10日)、隋が太府卿の蘇孝慈を兵部尚書とした。 蘇孝慈(生年538、時に45歳)は…
[?~551]┃侯景の右腕〔548年(梁の太清二年)8月、梁の南豫州(寿陽)刺史・河南王の〕侯景が叛乱を起こし、西方の馬頭を攻めると共に、将軍の宋子仙に東方の…
582年(2) 隋・陳和して 文帝、突厥の来寇に対し 才・色を以て 張妃、後主の寵愛を得る
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●陳、隋に和を求める 戊辰(正月24日)、陳が隋に使者を派して和を求め、胡墅(石頭城の対岸)を返還した(去年…
┃警戒 これより前、後主⑴が蘭陵王長恭に邙山での大勝(564年)についてこう尋ねて言った。「何故敵陣に深入りしたのか。成功したからいいものの、失敗したら大惨事…
┃河間王孝琬の死〔565年(河清四年→天統元年)、武成帝⑴が太子緯⑵に位を譲って太上皇帝となった。緯は即ち北斉の後主である。〕 北斉の〔尚書令の〕河間王孝琬⑶…
[541?~573]┃蘭陵王の登場 高長恭は本名を肅、或いは孝瓘といい、長恭は字である。高澄⑴の第四子⑵で、母の詳細は不明。 長恭は肌が白く、美女のような顔立…
582年(1) 隋師江に臨んで 宣帝、宣福殿に崩じ 太子柩に哭いて 始興、切薬刀を以て斫る
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●隋軍、長江に達す〔これより前(581年9月26日)、隋は上柱国・〔宜州刺史・〕薛国公の長孫覧⑴を東南道行軍…
581年(5) 隋文帝、刑を緩くして後世に用いられ 独孤后、帝を諌めて二聖と称せらる
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●五銖銭鋳造 これより前、北周と北斉が鋳造した貨幣は総じて四種類⑴あり、更に民間の私鋳銭⑵も…
581年(4) 元諧、青海に大捷して渾賊を震わし 鄭訳、不孝を弾ぜられて除名を受く
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●宇文闡の死 5月、丙辰(8日)、陳が前鎮西将軍の樊毅⑴を中護軍とした。 戊午(10日)、隋…
581年(3) 李穆、文帝の寵を得て貴盛を極め 蘇威、亡父の志を継いで張弓を弛ます
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●貴盛比類無し この日(2月24日)、上柱国・并州総管・申国公の李穆⑴を太師とし、上柱国・鄧…
581年(2) 雄雉を射て 龐晃、能く天意に応じ 北周滅んで 竇氏、男子に非ざるを恨む
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●官制を漢・魏に戻す 隋の〔少内史の〕崔仲方⑴が文帝⑵に六官の制度(大冢宰など古代の周の官制…
581年(1) 代終の象表れて 静帝、相国に位を禅り 紫色の気表れて 楊堅、大隋の帝となる
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●推挙令 春、正月、壬午(1日)、北周の静帝⑴が詔を下して言った。「朕は〔不徳の身であるため…
580年(9) 韋孝寛、死して千古の譏りを遺し 丞相堅、王となって簒奪の意を明らかにす
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●韋孝寛の死 丁未(11月25日)、北周の上柱国・鄖国公の宇文孝寛(韋孝寛)⑴が逝去した(享年72)。 太…
580年(8) 紇豆陵、不意に出でて要害を陥とし 可頻謙、腹心に叛かれて蜀市に斬らる
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●堅、大丞相となる 壬子(9月30日)、北周の静帝⑴が詔を下して言った。「仮黄鉞・使持節・左大丞相・都督中…
580年(7) 拓王誼、消難を平らげて礼敬を受け 宇文忻、英傑となって英公とせらる
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●淮南の攻防〔これより前、庚申(8月7日)、陳は北周の上柱国・鄖州(安陸)総管の司馬消難⑴の帰順を受け、鎮…
580年(6) 宇文忻、観戦者を射て黄龍を破り 尉遅迥、普六茹を罵って自ら命を絶つ
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●後梁も堅に付く 丁卯(8月14日)、北周が上柱国・枹罕公の普屯威(辛威)⑴を宿国公(邑五千五百戸)とし、…
580年(5) 宇文忻、堅を疑って仲文に三善を説かれ 可頻謙、匡復を辞と為して義兵を挙ぐ
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●懐州の戦い これより前(6月10日)、〔仮黄鉞・左大丞相・都督中外諸軍事・上柱国・隨国公の〕普六茹堅(楊…
[503~552]●人を食い、人に食われる豺狼 侯景は字を万景といい、朔方、或いは雁門郡出身で、北魏の懐朔鎮の人である。 若年の頃から勝手気ままで、郷里の人々…
●後宮の争い(572年8月) これより前、北斉の胡太后は淫乱がもとで鄴の北宮に幽閉されていた。太后は母としての道を踏み外していたことを深く反省し、子の後主の歓…
●確執 当時、北斉の尚書左僕射(通鑑では『右僕射』)の祖珽は比類無い権勢を誇っていた。左丞相・咸陽王の斛律光⑴は珽をひどく嫌悪し、遠くから密かにこう罵った。「…
●趙彦深左遷(571年11月) 11月、北斉の〔秘書監の〕祖珽が〔女侍中の〕陸令萱を説得して協力を取り付け、〔侍中・〕司空〔・宜陽王〕の趙彦深と〔開府・山陽王…
●宇文護、明王に政権を返す 三年(559)、春、正月、己酉(21日)、護が上表して政権を明王に返還した。明王はそこで初めて自ら政治を執るようになった。ただ、兵…
●祖珽、寵を得る(561年) 文宣帝が崩御した時(559年)、朝廷は旧臣たちに官位を与えて労をねぎらった。祖珽もその内の一人となり、章武太守とされた。しかし、…
●清徳頌で一躍有名に 祖珽は字を孝徴といい、幽州范陽郡遒県の人である。父は北魏の護軍将軍の祖瑩(名文家。神童と謳われた)。 珽は頭の回転が早く、雄健で優れた文…
580年(4) 李穆、天下の精兵を以て堅に附き 趙王、壮士の戸を蔽うを以て堅を逃す
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年] ●李穆、堅に付く〔北周の上柱国・相州(鄴)総管(自称大総管)・蜀国公の〕尉遅迥⑴は挙兵すると、〔上柱国・…
580年(3) 尉遅迥、不臣に憤って東夏に兵を挙げ 義勇の士、旬日の間に十余万に至る
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●楊尚希逃亡 これより前、北周は東京(洛陽)司憲中大夫の普六茹尚希(楊尚希)⑴に〔もと北斉領の〕山東・河北…
580年(2) 天元崩御して 二寵、大恩に背き 勢い騎虎と成りて 楊堅、丞相に就く
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●天元帝崩御 甲午(5月10日)の夜、北周の天元帝⑴が法駕(皇帝用の車)に乗って天興宮に赴いた。 乙未(1…
580年(1) 天元、艶姿を汚して杞公に叛かれ 楊堅、外官を得るも足疾に遭う
[北周:大象二年 陳:太建十二年 後梁:天保十八年]●北周、突厥に公主を送る 春、正月、丁亥(1日)、北周の天元帝⑴が道会苑にて朝賀を受けた。 癸巳(7日)、…
579年(3) 北騎渡淮して 淮南、尽く周に没し 災異屢々現れて 天元、僅かに身を慎む
[北周:大成元年→大象元年 陳:太建十一年 後梁:天保十七年]●南伐再開 9月、己酉(21日)、太白(金星)が南斗の領域に入った。 乙卯(27日)、北周が酆王…
579年(2) 宣帝、小児に位を伝えて天元を称し 陳宣、玄武に兵を閲して余力を示す
[北周:大成元年→大象元年 陳:太建十一年 後梁:天保十七年]●天元皇帝 辛巳(2月20日)、〔鄴にいる〕北周の宣帝⑴が詔を下して言った。『皇太子衍⑵は朕の長…
●孝閔王、護の殺害を図る 北周の孝閔王は剛毅な性格で、晋公護の専権をひどく憎んでいた。 司会[1]の李植(柱国大将軍の李遠⑴の子)は宇文泰の存命時より相府司録…
579年(1) 比干、死を賭して八失を論じ 忠臣、手を拱いて誅戮を受く
[北周:大成元年→大象元年 陳:太建十一年 後梁:天保十七年]●漢魏の衣冠 春、正月、癸巳(1日)、北周の宣帝⑴が〔宮殿の正門の〕露門にて文武百官の拝賀を受け…
578年(3) 武平、天賛と思いて幽州を擾し 陳宣、盟誓を為して団結を試む
[北周:建徳七年→宣政元年 陳:太建十年 後梁:天保十六年]●盧昌期の乱〔これより前、〕北斉のもと范陽王の高紹義⑴は〔北斉が滅亡した時に突厥に亡命し、武平帝と…
●宇文泰の死 恭帝三年(556)の9月、〔太師・柱国・大冢宰・安定公の〕宇文泰が北方の巡視より帰還し、牽屯山(天水の東北)に到った。間もなく、泰は突然病に倒れ…
[513~572]●この児の志度、我に類す 宇文護は字を薩保といい、〔北辺の武川鎮の出身で、〕宇文泰⑴の兄の宇文顥⑵の末子である。幼い時から品行方正で器量があ…
578年(2)二豎忽ち侵して周武、一統の業成らず 勲親遽かに戮されて君子、周祚の永からざるを知る
[北周:建徳七年→宣政元年 陳:太建十年 後梁:天保十六年]●反省の詔 夏、4月、庚戌(13日)、陳の宣帝⑴が詔を下して言った。「近年、我が国は征伐を行ない、…
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[北魏:神亀二年 梁:天監十八年]┃称詔 春、正月、甲申(4日)、梁が領軍将軍の鄱陽王恢⑴を使持節・散騎常侍・都督荊湘雍梁益寧南北秦八州諸軍事・征西将軍・開府…
『羊侃伝(1)』[496~549]┃東朝に帰るべし 羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫(鉅平?)県の人で、〔後〕漢の南陽太守の羊続の末裔である。 祖父の羊規之…
[530~548]┃蠕蠕公主前史〔柔然の頭兵可汗⑴は、北魏に護送されて帰国を果たした頃(521年正月参照)は北魏に恭しく接していたが、北方に勢力を拡大してから…
┃プロフィール【生没年】天監七年(508)八月丁巳(6日)~承聖三年(554)十二月辛未(19日)・梁の武帝の第七子。・幼名は七符(官)・字は世誠・眼病により…
┃官職・都督→560年:領軍将軍・都督→武平年間(570~576):開府・王┃高家の家奴〔東魏の権臣の〕高歓⑴の蒼頭(家奴)の陳山提⑵・蓋豊楽⑶・劉郁斤・趙道…
『北斉書:安徳王延宗伝⑴ 動けるデブ』[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕…
[544~577]┃衝天王にならんと欲す 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄⑴の第五子である。母は東魏の広陽王〔湛⑵?〕の芸妓の陳氏。〔澄が武定七年(549)に…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃為仁微小 壬寅(8月24日)、北魏の孝文帝⑴が肆州(九原)に到った。この時、〔肆州〕民のうち七十歳以上の者の爵位(二十…
[?~531]┃占卜によって成り上がる 劉霊助は、燕郡(幽州の治所の薊がある郡)の人である。父は劉僧安。陰陽・占卜の事を好み、范陽の人の劉弁に師事した。ただ、…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃王融策動 戊寅(7月30日)、〔病気に罹っていた〕南斉の武帝⑴が突然危篤に陥り、意識不明の状態となった。この時、帝の子…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃遷都計画 北魏の首都の平城は南五十里に定襄(雁門の誤り)郡より出て海(東シナ海)に流れる桑乾水という川があり、それに因…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃皇太孫昭業 夏、4月、癸未(3日)、北魏の使者が南斉に到着した(正月14日に北魏は邢巒と劉承叔を南斉に派遣していた)。…
[北魏:太和十七年 南斉:永明十一年]┃陳顕達の静退 春、正月、壬子朔(1日)、北魏の孝文帝⑴が百官を太極殿に集めて宴会を開いた。 癸丑(2日)、南斉の武帝⑵…
┃生没年 521~549年8月○北斉文襄紀〔武定…七年(549)…八月…〕辛卯,王遇盜而殂,時年二十九。┃容姿 北史:美姿容 賈子儒:瞼が薄く、目の動き(或い…
[507~568]┃楊忠の登場 楊忠(本姓は普六茹?)は幼名を奴奴といい、武川鎮の人である。 漢の太尉の楊震の末裔という(眉唾)。 震の八代孫の楊鉉は燕(北燕…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃嶺南乱る これより前(588年)、陳は使持節・光勝将軍(六品)・平越中郎将・大都督・東衡州刺史・領始興内史の王勇⑴を鎮南大将軍…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃江州降る 癸巳(正月29日)、隋が使者を江南の各地に派して巡撫させた。 隋の〔上大将軍・蘄州総管の〕王世積⑴は蘄口にて陳が滅亡…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃逃走の機逸す 陳軍が敗北を喫すると、任忠⑴は宮殿に馳せ入って後主⑵に謁え、敗北した事を報告した。それからこう言った。「陛下、身…
[隋:開皇九年 陳:禎明三年]┃馬鞍山・磨刀澗の戦い これより前、陳の荊州(公安)刺史の宜黄侯慧紀⑴は隋軍が渡江したのを知ると、公安の留守を長史の陳文盛らに任…
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃北斉系の不遇〔丁巳(3月19日)、隋は詔を下し、書一巻を献じた者には絹一疋を褒賞として与える事…
[隋:開皇三年 陳:太建十五年→至徳元年 後梁:天保二十一年]┃緩和 春、正月、庚子(1日)、隋が新都に遷る準備が整った事を祝い、天下に大赦を行なった。 また…
[496~549]┃東朝に帰るべし 羊侃は字を祖忻といい、泰山郡梁甫(鉅平?)県の人で、〔後〕漢の南陽太守の羊続の末裔である。 祖父の羊規之(?~473)は、…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]┃突厥の侵攻 10月、隋の文帝が旧殿を撤去し、居所を東宮に移した。また、朝廷内外の官吏に俸録を支給した。 こ…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]┃能吏・蘇孝慈 壬午(6月10日)、隋が太府卿の蘇孝慈を兵部尚書とした。 蘇孝慈(生年538、時に45歳)は…
[?~551]┃侯景の右腕〔548年(梁の太清二年)8月、梁の南豫州(寿陽)刺史・河南王の〕侯景が叛乱を起こし、西方の馬頭を攻めると共に、将軍の宋子仙に東方の…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●陳、隋に和を求める 戊辰(正月24日)、陳が隋に使者を派して和を求め、胡墅(石頭城の対岸)を返還した(去年…
┃警戒 これより前、後主⑴が蘭陵王長恭に邙山での大勝(564年)についてこう尋ねて言った。「何故敵陣に深入りしたのか。成功したからいいものの、失敗したら大惨事…
┃河間王孝琬の死〔565年(河清四年→天統元年)、武成帝⑴が太子緯⑵に位を譲って太上皇帝となった。緯は即ち北斉の後主である。〕 北斉の〔尚書令の〕河間王孝琬⑶…
[541?~573]┃蘭陵王の登場 高長恭は本名を肅、或いは孝瓘といい、長恭は字である。高澄⑴の第四子⑵で、母の詳細は不明。 長恭は肌が白く、美女のような顔立…
[隋:開皇二年 陳:太建十四年 後梁:天保二十年]●隋軍、長江に達す〔これより前(581年9月26日)、隋は上柱国・〔宜州刺史・〕薛国公の長孫覧⑴を東南道行軍…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●五銖銭鋳造 これより前、北周と北斉が鋳造した貨幣は総じて四種類⑴あり、更に民間の私鋳銭⑵も…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●宇文闡の死 5月、丙辰(8日)、陳が前鎮西将軍の樊毅⑴を中護軍とした。 戊午(10日)、隋…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●貴盛比類無し この日(2月24日)、上柱国・并州総管・申国公の李穆⑴を太師とし、上柱国・鄧…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●官制を漢・魏に戻す 隋の〔少内史の〕崔仲方⑴が文帝⑵に六官の制度(大冢宰など古代の周の官制…
[北周:大定元年→隋:開皇元年 陳:太建十三年 後梁:天保十九年]●推挙令 春、正月、壬午(1日)、北周の静帝⑴が詔を下して言った。「朕は〔不徳の身であるため…