ハンガリーを拠点にカメラ片手に周辺の“いい処”探しの旅と歴史・生活情報
米国とハンガリー、メキシコの20年間の駐在生活ののち、晴耕雨読を目指してバラトン湖畔(ハンガリー)に居残ってしまった、かつての企業戦士。中世の教会を主体に写真撮影の旅を楽しんでいる。
前章のクラクフの街は、13世紀のモンゴル襲撃によって街は破壊され、人口が激減した為に積極的にユダヤ人を招き入れる施策を執ってきたことで、ヴァヴェル城の南東に彼等の居住区のカジミエジュ(Kazimierz)地区が出来た。人口の推移は....◆1843年;クラクフの全体人口約15万人ユダヤ人2万人(14%)◆1938年(大戦前);〃約25万人ユダヤ人7万人(28%)◆2015年(現在);〃約75万人ユダヤ人200人程度になった。カジミエシュ地区は、巨匠S.スピルバーグ監督作品の「シンドラーのリスト」(1993年公開)の舞台の地ではあるが、悲劇漬けの旅は避けようと行くのを止めて、映画の冒頭に出て来たアウシュビッツ強制収容所に寄ってみることにした。クラクフから西へ50kmほどの現地語でオシフィエンチム(Oswiecim...中・東欧を訪ねる(2)アウシュビッツ
中欧の5大古都と云えば、ウィーン、ブダペスト、ブラチスラヴァ、プラハ、クラクフであろう。共にドナウ川の以北にあって、ローマ帝国の北方進出から端を発し、各々の建国の歴史には民族、文化、宗教、風土といった切り離して語れない繋がりがある。今回は今まで触れていなかったクラクフとプラハ方面を訪ねてみたい。(但し、1回の旅のものではなく、過去数次にわたる旅の記録をまとめたものである)オーストリアを除く東側共産圏であったハンガリー、スロヴァキア、チェコ、ポーランドがEUに加盟したのが、共に2004年5月1日であった。それ以前にハンガリーに住んでいた小生が東側共産圏に入るのは、かなりの手間が掛かり、各国のビザ取得が必修であった。特にクルマで越境する時は、国境検問所での通行ビザの取得で数時間の待機を覚悟せねばならなかったので、大...中・東欧を訪ねる(1)クラクフ
今日のテーマは汎ヨーロッパ・ピクニックと呼ばれた勇気あった民主化運動について.....時は1989年5月2日、ハンガリー社会主義労働党改革派のネーメト・ミクローシュ首相は諸外国メディアを前に、隣国オーストリアとの国境にある電流を通した鉄条網を撤去すると表明した。この声明から数時間後、鉄条網を大きな金鋏で切る兵士の写真が通信社を通じて全世界を駆け巡った。ここに至るまでの葛藤(*1)と画策、保守派(*2)からの批判は当然あったが、冷戦により長年停滞した経済に辟易した東側諸国民の不満は限界までに達していたことや西側諸国の後押し、またソ連に誕生したゴルバチョフ新政権がハンガリーの決断を黙認するという方針も大きな決定要因となった。その後、6月にも再び、ハンガリー政府はフェンスの一部を切断したことによって、多くの東ドイツ国...知りたいハンガリー史(1)汎ヨーロッパ・ピクニック
ウィーンのドナウ川事情に触れぬまま、さらに下流(東)に進むことに躊躇し、時節を待っていたが、その再開を新元号“令和”の初日にしたいと思っていた。平成の最終日は生憎の雨模様だったが、夜が明けると、幸運にも爽やかな五月晴れ、まさに“令和時代”の前途を暗示するかのような中欧における“令和”の明るい幕開け日となった。ドナウ川を接する国は10か国もあり、言語、文化、宗教とその多様性は他に類を見ない。その川の全長2850kmの道中で首都を通る国は4か国であり、上流からオーストリア(ウィーン)、スロヴァキア(ブラチスラヴァ)、ハンガリー(ブダペスト)、セルビア(ベオグラード)である。ウィーンでは、旧市街は高台の頂上に位置し、現在のリンク道路のある所には城壁が張り巡らされていた。その当時は市街地から北東に向けてドナウ川は湿地帯...ドナウ河岸歩き(11)ウィーン
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