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撮り旅・ヨーロッパ https://blog.goo.ne.jp/balaton620

ハンガリーを拠点にカメラ片手に周辺の“いい処”探しの旅と歴史・生活情報

米国とハンガリー、メキシコの20年間の駐在生活ののち、晴耕雨読を目指してバラトン湖畔(ハンガリー)に居残ってしまった、かつての企業戦士。中世の教会を主体に写真撮影の旅を楽しんでいる。

balaton620
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住所
ハンガリー
出身
新潟県
ブログ村参加

2013/02/05

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  • バラトンそぞろ歩き(18)ラベンダー祭り

    この時期(6月中旬~下旬)は、バラトン湖周辺にはラベンダーが咲き溢れている。先日、近所の銀行のカウンターに置いてあったラベンダー・フェスティバルのパンフレットに誘われて、ぶらりと出掛けてみた。場所は前章の「バラトンそぞろ歩き(17)」で取り上げたバラトン・フルドヴァール(Balatonföldvár)であったので一層、興味を覚えた次第である。●M7高速道路高架橋からのフルドヴァールの街Jan.092019この日は雷雨前、快晴とまでいかなかった(残念)Jun.222019右の教会がカルヴィン派改革教会、左がローマカトリック教会●心休まる牧歌風景クルシュヘッジ(Köröshegy)村からのM7高速道路高架橋Jun.222019牧草ロールがあって、ラベンダーがあって、灰色牛が居て、羊が居て、北海道みたい。ハンガリー特...バラトンそぞろ歩き(18)ラベンダー祭り

  • 中・東欧を訪ねる(8)チェスキー・クルムロフ

    プラハの街を貫いたヴルタヴァ川(独語:モルダウ)を上流に遡って行く(南下する)とオーストリア国境が近くなるに従い、緑が多くなり森の中に中世の面影を残す小さな町や村が忽然と現れる。ブダペストへの帰り道、是非、立ち寄ってみたい所が「世界で最も美しい町」と呼び声の高いチェスキー・クルムロフ(CeskyKrumlov)であった。●ヴルタヴァ川はあくまでも、たわやかに流れ、時間が止まってしまったよう。Aug.112008<ロケーション><市街地マップ>1.チェスキー・クルムロフ城(ZámekCeskyKrumlov)13世紀にヴィートコフ家によって城が建てられたのが町の始まりであった。その後、町の支配者が替わる度に城も拡大し、16世紀には繁栄のピークに達したが、それ以降は時代に取り残されてしまった。それがこの町を「世界で...中・東欧を訪ねる(8)チェスキー・クルムロフ

  • 中・東欧を訪ねる(7)プラハ旧市街

    カレル橋を渡り切って、更に、真っ直ぐ歩を東に進めると旧市庁舎のある旧市街広場に出る。広場の脇を抜けて火薬塔までを「王の道」と呼ばれているそうで、観光必須ルートであろう。カレル橋を挟んで、北のマーネス橋、南のレギー橋までの範囲が旧市街地区であるらしく、ブラブラと歴史的な建造物を眺めて歩いてみた。●プラハ城から眺めた旧市街地Jul.252009<ロケーション>1.カレル橋の袂にあるアッシジの聖フランチェスコ教会1679~1685年に掛けて建立、教会前に佇むカレル4世の像と共にドームの緑屋根は旧市街のシンボル的な建造物である。Jun.1220112.クレメンティヌム(Klementinum)神聖ローマ皇帝フェルディナンド1世の治世(1526~1564年)でのフス戦争で疲弊した国家と減少した国民を補強するためにイエズス...中・東欧を訪ねる(7)プラハ旧市街

  • 中・東欧を訪ねる(6)カレル橋

    カレル橋と云えば、最初にピーンと来るのがスメタナの「わが祖国(モルダウ)」と思うのは小生だけではないような気がする。Youtubeをかけながら、珈琲を啜りながら、撮った写真を眺めながら、ブログを書く、なんとこの上もない至福なひと時か!そしてカレル橋の上に佇む彫像写真を全部並べてみたかった。カレル橋は12世紀の初頭に、ヴルタヴァ川の最初の橋として木造で造られたが洪水で流された為に、12世紀半ばには石造りの橋(ユディタ橋)に造り替えられた。しかし1342年の洪水で再び流された後に造られたのが現在のカレル橋である。1.カレル橋いろいろ●下流(北)側にあるマーネス橋(Mánesúvmost)からカレル橋の全長は516m、幅は9.5mJun.112011●橋の西側袂からフランツ・カフカ博物館横のレストランは、橋を下から眺...中・東欧を訪ねる(6)カレル橋

  • 中・東欧を訪ねる(5)プラハ城

    中欧の三大古都と云えば、ウィーン、ブダペスト、プラハで、五大古都となるとクラクフ(東欧に分類されることが多いが)、ブラチスラヴァが入るのだろう。*1プラハの人口は130万人で、ウィーン185万人、ブダペスト175万人と比べると、ちょっと少ないが第二次世界大戦の戦火から逃れたため貴重な文化遺産がそのまま残されている点では、歴史の宝庫として他を十分に凌駕していると云えるだろう。世界でトップの人気を誇る観光スポットと頷ける街、先ずはその歴史が始まったプラハ城に足を向けてみる。*1:クラクフの人口は75万人、ブラチスラヴァは45万人である。「百塔の町」と呼ばれるほど、プラハ城を中心とした西側は至る所に塔が林立し、赤茶色の瓦屋根が何とも中欧の情緒を醸し出している。1.プラハ城(Prazskyhrad)城は9世紀半ばから建...中・東欧を訪ねる(5)プラハ城

  • 中・東欧を訪ねる(4)クトナー・ホラ

    日本からの出張者や友人と共に、プラハへの旅を計画する時は、1995年に世界遺産にも登録された「クトナー・ホラ歴史都市」をよく推奨したものであった。凄い数の人骨が飾ってあるので、ホラという名かと思ったが、horror(恐怖)ではなく、horaはチェコ語で「山」という意味であった。クトナーは「採掘」という意味が語源らしいので、銀山が発見された後に付けられた地名なのであろう。先史よりこの地にはケルト人が住んでいたが、1142年にシトー会の修道院が今の郊外のセドレツという所に建てられた。その所有する山中で銀鉱脈が発見されてからは街は急速に発展した。1300年には王立造幣局が設立され、ここで鋳造された銀貨(プラハのグロシュ)はボヘミア国内外に流通し、14~15世紀にかけてはプラハに次いでチェコ王国の第2の都市として繁栄し...中・東欧を訪ねる(4)クトナー・ホラ

  • 中・東欧を訪ねる(3)オロモウツ&ミクロフ

    もう20年も前のことであるが、何度か夜通しで顧客の工場へ朝駆けした懐かしの道をリタイヤしたら、カメラを抱えて、もう一度走ってみようと思っていたことが漸く実現することになった。当時は慣れない道、とても道中の風景写真など撮る余裕などなかったが、今なら時間に縛られることなく、薄れかけた懐かしの風景を思い出しながらの撮り旅が出来るであろう。そのルートで、どうしても訪ねてみたかった町が二つあり、その一つがオロモウツ(Olomouc)であった。道中では、鷲のロゴの広告板がブルノ(Brno)を越えると見え、「オロモウツは近い、もう半分だ」なんて思ったものである。懐かしいロゴマークも健在だった。Jun.012019一面に広がる麦畑や緩やかで肥沃な丘陵の記憶が強く残っている。<コースとロケーション>1.オロモウツ(Olomouc...中・東欧を訪ねる(3)オロモウツ&ミクロフ

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