原っぱで集会したイエス家に集う聖書に描かれた教会信じる人を神の宮と言ったイエス神殿を3日で建てると言ったイエス(十字架刑と3日目の復活のこと)二人でも三人でも集まればそこは教会いったい誰が教会堂を造りはじめ、続々どの教団も大金を集めて造り
キリストへの祈りは生活の現場から誰にでも自由にできます。キリストは呼び求める人と共に居る方です。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。 クリスチャン2世として、教会の問題、カルト化の問題について、傷を受けた皆さんと共に祈り、教会・教派主義からの脱出と信仰について、自立を目指す現実的視点で触れていきます。
人が『主の道に立ち帰る』のではなく、ふさわしくない自分の所に主の方からすでに来ていること
内側に入り、心と思いに働く父キリスト聖霊。内側から作用がなければ信仰に意味はありません。余計な聖書主義教育や律法から脱して、キリストご自身をただ愛し慕い求めることだけにシンプルに心を定められれば、主のものが内側に満ちます。福音派聖霊派の教育は心に
宗教・信仰によるネグレクトや終末の神の裁き、地獄のビジュアル的な教え、親子に必要な愛が律法的に変容してしまう、そんな子供時代があると、その時、子は親を100%信じ愛を欲して気づかずに虐待を受け入れ、気づかない傷によってその後もトラウマが積み重なり、社
『日常の語りかけで知る聖書の意味』と『教会の聖書研究』が一致しない時
日常思うことを小さくつぶやくようにキリストに聞いてみる。印象があったり、言葉が浮かんだり。置かれている状況が思う以上に厳しく、必要以上に気負ったり、振りかぶったりの時は、思い詰めることがないように、違う視点が見つかったり。聖書の意味が、誰かに教えられた厳
親切や人情が見えても、それが実は計算である人がいます。彼らに打算的に対応されるのを予想して、こちらも計算づくで抑えて対応しないと、いつまでも誠実さや心の養分を吸い取られ搾取されることがあります。やられた方は裏切りと感じますが、やった方はただの計算であ
救いに『聖書的』『決心の告白』『罪の悔い改めの告白』という条件を付けて説得することが伝道になってしまう福音派聖霊派のクリスチャンは辛いです。そもそもクリスチャンとはキリストにある者という意味なのに、派と共にある者では。人をキリストから遠ざけているという
ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。創世記 6:18-19 JA1955https://bib
素直な思いを神に言うことで自分を見つけること。それが祈りの肝
神は人が口に出す前に、すでに人の心を知っています。置かれている状況もすべてわかっています。そばにいるキリストと会う。ただそれだけが信仰で、祈りです。祈れば会っているし、祈るだけでもう信仰があります。祈りは寺社や教会堂に行く必要はなく、僧侶
「無理しない、頑張らない」が分からなくなるマインドコントロール
勉強や仕事ではいくらか無理して結果を残しますが、クリスチャン個人の生き方の結果は無理な犠牲や能力に依らない部分があります。祈りも信仰もただキリストの名を呼ぶだけで成立します。キリストに会う条件をいろいろ付け加える教会はすべて悪いものです。
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原っぱで集会したイエス家に集う聖書に描かれた教会信じる人を神の宮と言ったイエス神殿を3日で建てると言ったイエス(十字架刑と3日目の復活のこと)二人でも三人でも集まればそこは教会いったい誰が教会堂を造りはじめ、続々どの教団も大金を集めて造り
確信はどんな確信でも説得と影響を与える瞬発力になり、同志のつながりは強まるしかし心を決めて心を閉ざし確信に自信を持つと成長は鈍化し視野は狭くなっていく他人は一応話は聞いてくれるがその場限りで離れていくし些細な行き違いで激しいやりとりになったり
教会とはキリストに声を聞かれている個人の集まりのはずです教会の教えで心の声が潰される問題が確かにあります罪の告白、悔い改め、型にはまった言葉、聖書解釈は教団と牧師の言う通り、それで教会の知識を持っていてもキリストを個人で知らない人が集まる教会に行
『神に自分の最上のものを捧げましょう』などという煽り文句で教えるキリスト教関係者を警戒すべきです。彼らが『最上のもの』だと教える内容に決して従ってはいけません。選民思想で聖書聖霊が特別な意味を持ち従うべき使命を持ち人生をがんばる、という意識になってし
「自分が貢献した結果・やり遂げた目に見えるモノ」が絶えず欲しい自分の存在を確認したいからでも結局結果はモノではなく、「心に何を願っているか」だけが永遠に残りますキリストに何を願うかキリストがどんな方か知れば祈りの内容が決まっていきますだからキリスト
自然な普通の自分の存在が、世界に与えるものがある。その事実は大切で必要な認識です自然な心の願いは自然な祈りになり神に届き聞かれています整えられた祈りより心の思いをそのまま人としての素の祈りを人がその人らしく生きるために自分のためと隣人のため
自由な心で神様に祈っていますか?祈りの言葉が何かに縛られていませんか?私たちは神様に向いて自由であり、それぞれの心の思い、叫びがあります。その自由に聖霊がおられ、必ずとりなされています。多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。
私たちも心の中まで普段着であること飾らずありのままキリストはそんな普段着の人を認めて友として傍にいるのに教会や牧師が認めないどうやっても改善しない悪い教会や悪い牧師は存在します『正統で聖書的(異端・カルトとは違う)』と自称し日曜出席や奉仕
『問題の原因が人間の原罪(げんざい)で悔い改めて実を結ぶ生活が解決の道』と言って教会通いと献金と無償の伝道奉仕をさせるのがキリスト教系のカルト宗教福音派聖霊派は『原罪を解決する救いは聖書的な信仰、聖霊の満たし』と言いさらに深みに誘い込み『聖書
カルト化ブラック化被害者にとって自分の心のためにストレスマネジメント、アンガーマネジメントは大切です自分が理想とする心地よいことを見つけて自分ために時間を取って満たして自分に余裕を与えるようにしてあげましょう何が自分に良いことで心を生かすことにな
死生観 人の命 人生の重みそれを説きながら実は理解しておらず成長せず幼い我欲のために他人をもてあそぶカルト神キリスト聖霊聖書を我が物のような顔で『他では救われない』という教派福音派聖霊派それを捨て追い出して人生を取り戻し心を書き換える脱カルト
聖霊派でキリストよりも聖霊の満たしと癒し奇跡を絶対視して頑なに教会の教えで固定したものとしての信仰の励ましのかたち、清さ、教会参加、交わり奉仕、聖書祈りの日課それは頭に袋を被せられるようなもの牧師は本来聖書を教える人ではなくキリストへ導く役
その境界線は高い山の尾根のよう転んでは影になっている暗い斜面に引きずり込まれ光のある方を見上げて祈ると引き上げられ牧師や教会が光の側に居るとは限らない罪や心の痛みによって闇はどの人にも例外なく誰にでもこの世で生きる現実を知りつつ、キリストもその
福音派聖霊派の教会で苦しめられている当事者であり目撃者は、神からの試練ではなく、牧師や教会の人からの責めや縛りに苦しんでいます。全人類が福音派の『福音』を信じなければ地獄行き、と信じさせられ、真面目で純真であるほど持てる情熱を惜しみなく捧げて教会と隣人
キリスト教の優れた所は、キリストが地上で生き、人々と語り合い、共に歩む神の姿であることで、人に分かりやすく神が人格的な交わりを喜び、共に居て住み、言葉を語り、人の思いの変化を人の理解できるペースで導き促すことを、福音書で示していることです。ところ
この世を支配したい人間と教会は他人の心を殺しますが、キリストは人の中に住み、傷んだ心に寄り添い、人の心を守ろうとします。キリストは現実を生きる神なので、そのやり方も現実的です。私達が普段触れるものから、思うこと感じること体験することから、心の自由を得
福音派聖霊派の言う『聖書通りの価値観』を持とうとするため、終末観と罪責感に支えられた『我を忘れ自我を殺す忠実な信仰の型』が信徒の心に大なり小なり存在するので、それを断ち切り、自分の中に人生の支えを得る必要があります。それが神である父・キリスト・聖霊の導
今と将来のクリスチャンと社会に資するために、片隅の小さな記録として残しています。もう、福音派・聖霊派・聖書信仰を標榜するのをやめた方が良いと思っています。今知っていることから言えば、もし十代に戻れたら、選ばなかったもの、信じなかったもの、考えずに済ん
キリストがありのままの人の心に手を入れて支えるから、人はその平安のある変化を感じ、現実にキリストが伴う愛を感じて、悔い改められるし、生きられます。自分に共感して心配して寄り添って助言してケアしてくれるキリストに共感して、自分に自分で寄り添い静まって自分
一緒に暮らすことで相手のことが分かるとよく言われます。犬や猫も飼い主と暮らして人を知り、人への愛情と欲求の素直な反応を喜び飼い主は世話をします。私の中に素直さが絶えず出ていれば、と思います。キリストの愛と癒しが満たされて溢れるのはいつだろうと。人生へ
聖書の約束の言葉の実現は、キリストと交わり祈り求める生活を内面で続けていて、気がついたら結果がそうなっていた、 とみなさん実感しているところがあると思います。自分の心の願いや思いを真剣に自由に単純に、何にも縛られず礼儀も型も気にせずに、神に言うこ
主イエス・キリストは心を見ますが、多くの教会は、その人が教会のために役立つか従順か、を見ます。教会が目に見える成果を上げて人の組織を存続させることを目的にしてしまうと、目に見えないキリストは人の意識から遠のきます。悪い教会の聖書の使い方は、自分
キリストは人として多くを経験し、良いものも悪いものも経験しました。だから、私たちの経験と思いも、どんな人の経験と思いも、そのすべてを誰よりも理解して、どこまでも寄り添い愛し、決して離れません。罪がある、汚れがあると他人から責められても、心が神に向いて
聖書的な教会とは、キリストに出会い内側から変えられつつある人たちが、集い互いに励まし合う祈り合う場で、キリストを頭に、お互いを必要とする体として、お互いを尊重できる、永遠に神と共に生きる個人の霊的集合体です。聖霊の働きが一致へ導き、結び目になり、秩序は
キリストはまっすぐ求める人にすぐ答える神。祈ればすぐ話せる神はキリストだけで、その辺の人と話すのと同じように相談してみようと思える存在。福音派聖霊派の教育は長い寄り道になる。教会やクリスチャンに相談した時に、最初に何よりも聖書を持ち出す人
神キリストに出会った人たちが祈り合い証しし励まし合い助け合うために集う本来の教会が、建物を持ち維持し、専任の職業牧師やスタッフを置いて組織化することで、信仰より教会組織の維持が目的化して、参加者が教会のために人生を費やします。そうなると、人生の答
人を知る神キリストに求め祈ると、すべるように前に進めます。でも、神のことも人のことも知らない教会に助けを求めると、苦しみと悩みで道が見えず、闇は何十年にも。『聖書通り』『聖霊の満たし』という教会の教えに人生を捧げたら、心が瓶に入れられて蓋をされた
私は「自分が相手に喜ばれる、会って話して嬉しいと思ってもらえる」などと全く思えないですし、そんな発想が子どもの頃からずっとありません。人は自分の感情を乗せた上で、様々に考え分析して対応します。それで対立、行き違いはありますし、当然よい出会いや意気投
過去の心も生活も、今の心も生活も仕事も同じように大事です。過去の自分のことを大切に思うことが難しいのが今の苦しい原因であることが多いです。それも自分では分からない心のどこかで無意識に働いていて苦しめられます。それを悪霊とか罪とか言う福音派や聖霊派の教会
自分の中からのものが、隣人をいくらかでも生かし助け救っているか、信仰と救いを得ている自分を生かし確かにしているか、絶えず自分で問う習慣は有益です。無意識にでもできるようになればと思います。嘆きと痛みの最中で大変でそれどころでなくても、いつかは実を結ぶ
講壇上から確信めいてえぐるように説教するのが好きな牧師たちがいます。中身はそもそも当たり前のこと言っているだけなのですが、頻繁にそれしか考えられないように洗脳するように繰り返し言って支配します。誰もが分かっていることをあえて迫るのは、その牧師の心に神
人の良さ悪さは関係なく人が悪くても、祈ればその祈りは良いものです。祈り願いに心の真実があれば、何でも祈って神に言っていい。祈りは届いています。自分のことなら自分自身の思いや発想や出来事や周りや環境やめぐり合わせを期待していい。すぐのこと、また何十年あ
キリストが共にいる条件は、愛とか親切とか仕えるとか奉仕とか伝道とか聖霊の満たしではなく、悲しみの現実を見ている、体験しているなら、必ずその現場に、どんな人にでもキリストは共に居るということ、ただそれだけです。キリストを感じられない、愛されているか赦さ
自分の価値を自分で高く見ることができますか…そのためには…神は「あなたはわたしの目には高価で尊い」と私たちの人生の間に言い続けています。それぞれ人によっての天国のイメージ、神様のイメージで、自己イメージが違ってきます。もし、実際に天国に行って、そこ
悪い教会による囲い込みで、人を外に出さない、他の教会に行かせない、転会させない、日曜に仕事させない、神第一という名の教会と牧師ファースト『あなたは、この教会に神によって導かれ救われた。神に招かれ召されて、この教会でキリストの御体の器官として目に見え
相手の気持を考えて、相手がしてほしいことをする。でも、親切にした相手が詐欺師で、搾取しかしない虐待人間だったら…カルト化した教会や牧師がそれです。深入りすると訓練と称してどんどん付け込まれて、心も生活もお金も支配されてしまいます。それも自分で納得づ
『血が通う』ネットで辞書を見ると血が流れている。 生きている。 公式的でなく、こまかい配慮を伴って物事を行なうさまにたとえる。事務的ではない人間らしさがあって、情感が通じ合う。物事を単純化できる信仰に引きこもるより、重層的で複雑な個人
人に期待するというより、個人的に会うキリスト、個人的に満たされ聖霊に照らされた聖書の愛の価値観に触れたい。決して離れない神の手は、教会でというより、個人の出来事や困難の時に祈ったりして知ります。教会や牧師の教えで安心するのは結局は人に期待していることに
どの人もキリストに知られ、心も命も痛みも喜びも、その人が感じる以上にキリストが共にいて感じていること。自分で「おかしい、変だ、罪かも」否定して抑えて捨てようとしてきた様々な思いや感じ方を、その当時からキリストはどんな思いも感情も含めてあなたを100%受
カルト化した教会と牧師に脅しのように罪と滅びと救いと使命を教えられ反論は許されず、やり込められて押された焼印が届かない場所、そこにこそ私たちのキリストが居られます。カルトやブラックに心を削られて、もう何も残っていないと思っても、必ず残っている場所は