神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 そのさばきというのは、
キリストへの祈りは生活の現場から誰にでも自由にできます。キリストは呼び求める人と共に居る方です。
このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。 クリスチャン2世として、教会の問題、カルト化の問題について、傷を受けた皆さんと共に祈り、教会・教派主義からの脱出と信仰について、自立を目指す現実的視点で触れていきます。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 そのさばきというのは、
誰かを好きなるのと同じことでキリストに「一緒に居て」と願えば神キリストは誰の中にもすでに共に居て その交わりには楽しく希望の光があります。誰一人キリストに知られなていない人はいませんから。何の条件もいらずただ落ち着いて信頼すればキリストは
『忍耐 自我の砕き 赦し 救い 将来の栄光』の組み合わせで洗脳カルト化は簡単に~命を守るには
”『自分は罪人』と意識して祈り悔い改め、キリストの十字架を信じて『救われた』と、すぐに平安を得られるのが『信仰』”これは愛され信頼を育まれた経験のある人には、抵抗なくできるのかもしれません。でも、存在を否定され続け、激しく非難し合う酷い争いに巻き込まれ
優れること、優位に立つことが自我ではなくいつも自分のために選択することが健全な自我であり、自分らしい自分をつくることになりますどんな自分でも、それがその時の無理のないありのままの自分なら受け容れる選択をするそこへとキリストはどの人の内にも住んで導きま
全的堕落の罪を認め悔い改め信じる『聖書信仰』『聖霊の満たし』の恵みとは
私たちの人格のすべての領域の救いのために誰でも信頼できるキリストの内住、聖霊の満たしを自分の奥深くに意識すればすぐに与えられたと信じてよいのです。聖書は内住のキリスト、聖霊の導きによって理解できるものです。キリストとの歩みは、おおらかに赦されている自
いつでもキリストに会えるというイメージは、どの人が持ってもいいもの。一緒にいる愛する相手として大好きなパートナーのように触れあうと癒される存在としてそんなふうにイメージできる身近な存在を考えてみて、キリストを同じように感じていい。でもキリスト
心の底からの叫び祈り弱さや困窮からの絞り出す祈りただ真実を願いその中で生きたい祈り祈りは形ではなく心の声それなら必ず神様に届き聞かれています福音派牧師の説教の『神に聞かれる祈りには、まず聖書を読み服従することが必要』などという話はまったく当
ただキリストが内に居て語る言葉が力を持つキリストが居ることの実感は人の誰からも与えられず、ただ個人として求める祈りでしかキリストご自身は見つけられない。もし大説教家や奇跡を行う者に感動させられ按手されても、その実感はキリストとは違うことが多くあります
原っぱで集会したイエス家に集う聖書に描かれた教会信じる人を神の宮と言ったイエス神殿を3日で建てると言ったイエス(十字架刑と3日目の復活のこと)二人でも三人でも集まればそこは教会いったい誰が教会堂を造りはじめ、続々どの教団も大金を集めて造り
『絶対にこれだ』と強く信じたいことを心に決めてしまうと楽(らく)
確信はどんな確信でも説得と影響を与える瞬発力になり、同志のつながりは強まるしかし心を決めて心を閉ざし確信に自信を持つと成長は鈍化し視野は狭くなっていく他人は一応話は聞いてくれるがその場限りで離れていくし些細な行き違いで激しいやりとりになったり
教会とはキリストに声を聞かれている個人の集まりのはずです教会の教えで心の声が潰される問題が確かにあります罪の告白、悔い改め、型にはまった言葉、聖書解釈は教団と牧師の言う通り、それで教会の知識を持っていてもキリストを個人で知らない人が集まる教会に行
『神に自分の最上のものを捧げましょう』などという煽り文句で教えるキリスト教関係者を警戒すべきです。彼らが『最上のもの』だと教える内容に決して従ってはいけません。選民思想で聖書聖霊が特別な意味を持ち従うべき使命を持ち人生をがんばる、という意識になってし
「自分が貢献した結果・やり遂げた目に見えるモノ」が絶えず欲しい自分の存在を確認したいからでも結局結果はモノではなく、「心に何を願っているか」だけが永遠に残りますキリストに何を願うかキリストがどんな方か知れば祈りの内容が決まっていきますだからキリスト
自然な普通の自分の存在が、世界に与えるものがある。その事実は大切で必要な認識です自然な心の願いは自然な祈りになり神に届き聞かれています整えられた祈りより心の思いをそのまま人としての素の祈りを人がその人らしく生きるために自分のためと隣人のため
自由な心で神様に祈っていますか?祈りの言葉が何かに縛られていませんか?私たちは神様に向いて自由であり、それぞれの心の思い、叫びがあります。その自由に聖霊がおられ、必ずとりなされています。多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。
私たちも心の中まで普段着であること飾らずありのままキリストはそんな普段着の人を認めて友として傍にいるのに教会や牧師が認めないどうやっても改善しない悪い教会や悪い牧師は存在します『正統で聖書的(異端・カルトとは違う)』と自称し日曜出席や奉仕
『この世のすべての問題は人間の罪のせい』『キリストがそのすべての罪を背負った』でも十字架にかけたのは正統の教職者たち
『問題の原因が人間の原罪(げんざい)で悔い改めて実を結ぶ生活が解決の道』と言って教会通いと献金と無償の伝道奉仕をさせるのがキリスト教系のカルト宗教福音派聖霊派は『原罪を解決する救いは聖書的な信仰、聖霊の満たし』と言いさらに深みに誘い込み『聖書
カルト化ブラック化被害の心の痛み叫び願いは健全な反応で、それそのままで真っ直ぐな祈りに
カルト化ブラック化被害者にとって自分の心のためにストレスマネジメント、アンガーマネジメントは大切です自分が理想とする心地よいことを見つけて自分ために時間を取って満たして自分に余裕を与えるようにしてあげましょう何が自分に良いことで心を生かすことにな
清い顔をした信仰は危うく、生きる現実で祈る人の真実が人を救います
死生観 人の命 人生の重みそれを説きながら実は理解しておらず成長せず幼い我欲のために他人をもてあそぶカルト神キリスト聖霊聖書を我が物のような顔で『他では救われない』という教派福音派聖霊派それを捨て追い出して人生を取り戻し心を書き換える脱カルト
聖霊派でキリストよりも聖霊の満たしと癒し奇跡を絶対視して頑なに教会の教えで固定したものとしての信仰の励ましのかたち、清さ、教会参加、交わり奉仕、聖書祈りの日課それは頭に袋を被せられるようなもの牧師は本来聖書を教える人ではなくキリストへ導く役
その境界線は高い山の尾根のよう転んでは影になっている暗い斜面に引きずり込まれ光のある方を見上げて祈ると引き上げられ牧師や教会が光の側に居るとは限らない罪や心の痛みによって闇はどの人にも例外なく誰にでもこの世で生きる現実を知りつつ、キリストもその
神様は人に点数をつけず、ただ命を見つけ命を救うために寄り添う
福音派聖霊派の教会で苦しめられている当事者であり目撃者は、神からの試練ではなく、牧師や教会の人からの責めや縛りに苦しんでいます。全人類が福音派の『福音』を信じなければ地獄行き、と信じさせられ、真面目で純真であるほど持てる情熱を惜しみなく捧げて教会と隣人
福音派・聖霊派でキリストを知り救われ、いかに福音派・聖霊派の洗脳と支配から逃れるか
キリスト教の優れた所は、キリストが地上で生き、人々と語り合い、共に歩む神の姿であることで、人に分かりやすく神が人格的な交わりを喜び、共に居て住み、言葉を語り、人の思いの変化を人の理解できるペースで導き促すことを、福音書で示していることです。ところ
この世を支配したい人間と教会は他人の心を殺しますが、キリストは人の中に住み、傷んだ心に寄り添い、人の心を守ろうとします。キリストは現実を生きる神なので、そのやり方も現実的です。私達が普段触れるものから、思うこと感じること体験することから、心の自由を得
福音派聖霊派の言う『聖書通りの価値観』を持とうとするため、終末観と罪責感に支えられた『我を忘れ自我を殺す忠実な信仰の型』が信徒の心に大なり小なり存在するので、それを断ち切り、自分の中に人生の支えを得る必要があります。それが神である父・キリスト・聖霊の導
人が理想を求めて形づくる教会より、人それぞれに生きる現実に生きて伴う神、キリストと進む人たちの信仰こそ
今と将来のクリスチャンと社会に資するために、片隅の小さな記録として残しています。もう、福音派・聖霊派・聖書信仰を標榜するのをやめた方が良いと思っています。今知っていることから言えば、もし十代に戻れたら、選ばなかったもの、信じなかったもの、考えずに済ん
キリストがありのままの人の心に手を入れて支えるから、人はその平安のある変化を感じ、現実にキリストが伴う愛を感じて、悔い改められるし、生きられます。自分に共感して心配して寄り添って助言してケアしてくれるキリストに共感して、自分に自分で寄り添い静まって自分
一緒に暮らすことで相手のことが分かるとよく言われます。犬や猫も飼い主と暮らして人を知り、人への愛情と欲求の素直な反応を喜び飼い主は世話をします。私の中に素直さが絶えず出ていれば、と思います。キリストの愛と癒しが満たされて溢れるのはいつだろうと。人生へ
キリストにどんな時も会えるのを楽しみにする、これを忘れずに過ごしたいですね。キリストがトラウマになるような教会にいると、会えない、話せない、遠いと思ってしまうことがあります。心で気を張って頑張って生きていると、心の休ませ方が分からなくなることもあって
聖書が言う「キリストの御体(みからだ)なる霊的な教会」を心で求め続け
キリストは、私たちのひとりひとりが神の宮だと言いましたし、いつでもどこにいても、キリスト・聖霊は私たちから離れません。キリストはこの世に生まれ、人として生きる間も、十字架上でも、刑場に引かれていく間も、死に黄泉に下る時も、今の私たちのことをご存じ
心の内側の底の底の声を聴いて、それをそのまま祈る、自分を見つけて受容する
孤立、痛み、自己否定、自分を責め続ける心の自傷、奥底まで他人に手を入れられて干渉され責められた記憶、子どもから大人へと自立する反抗期もなく人格批判や人格否定を忠実に受け入れて、他人に左右され失った自分の存在感を揺るがない自己確立にするにはどこまで行
自分の本音や願いの本当のところを聴きたいのに、聞こえないところまで心を殺す『自我の死』。それがカルト化した教会のやり方です。幼稚園児の時から連れて行かれ小学生からは自分から欠かさず福音派キリスト教会の日曜学校に通い『人はみな罪だから』と言われて殺
キリストの心が伝わり、拡がる。心を楽にして満たされて生きやすくするために心でキリストと交わる
救いも心の変化も、聖書の律法ではなく、キリストとの人格的な出会いによります。キリストと出会うことで聖書のことばが人の中で生き満たされます。自由で自然で健全な心のあり方を知り、人生の現実や出会いで新鮮な発見が生まれ、いろんな過去の縛りや悪い支配の記憶が
本音の祈りは人前では祈れない内容が当然たくさんありますが、人前での『立派な祈り』の頻度が多すぎてそれに慣れると、本音の祈りと離れていきます。だから、奉仕の多い牧師は特にそうなる必然があります。本音本心の祈りは、嘆きの祈りでも良いし、神の御心
自分を持ち、敵を知り、滅びず滅ぼさずに祈り、広い視野で見分け生きる
世に悪いものと良心的なものがありますが、信仰者は世から目を背け嘆くのではなく、両方を見て、意識して見分け、キリストにつながり絶えず祈ることで、この世を保っています。成長に従って、正しい良心・良識を持つようになることは、広く実生活に通用する祈り
聖霊は風のよう。だから、祈りは風に乗って飛ぶ葉のようにしたい…現実の出来事は重くても…
「イエス様、愛してます」と軽々しく言っていいもちろん、重く、どん底の状態ですがる祈りからでも良い葉っぱに乗って空を飛び、何もない野原や荒野に降り、何もないと思えてしまう所から祈り始める、断食の時のように悲しみは重くても、重いものをキリストに吐き出せ
「あなたの初めの愛を覚えている。そこへ連れ戻し、そこから世に遣わす。」
『キリストを告白する』とかしないとか、『救われている』とかいないとか、人の心の真実、初めの愛を分かるのはキリストです。人は他人を裁けないので、早まって判断せずそれぞれキリストが居る自らの心の真実に従うこと。そこからの人との出会いであり、そこに居るキリス
自然な、内から湧く素直な発想と公平さ冷静さとちゃんとした自意識、客観的な視点で、自分を他人を動かすことができる信仰。自分と周りに前向きな動機と癒しを生むような表現と行動を生きる原則にしたい。教会や親に教えられ強いられた枠とプライドと支配と傷が心に奇妙
聖書の約束の言葉の実現は、心に信じ告白して、意欲的に行動すれば成るのではなく、
聖書の約束の言葉の実現は、キリストと交わり祈り求める生活を内面で続けていて、気がついたら結果がそうなっていた、 とみなさん実感しているところがあると思います。自分の心の願いや思いを真剣に自由に単純に、何にも縛られず礼儀も型も気にせずに、神に言うこ
キリストから人を引き離す教会とは~聖書の一節を取り出す罠と現実の違い
主イエス・キリストは心を見ますが、多くの教会は、その人が教会のために役立つか従順か、を見ます。教会が目に見える成果を上げて人の組織を存続させることを目的にしてしまうと、目に見えないキリストは人の意識から遠のきます。悪い教会の聖書の使い方は、自分
個人に寄り添うキリスト、そこから離れる教会と牧師~個人の心と人生を奪い乗っ取るカルト化
キリストは人として多くを経験し、良いものも悪いものも経験しました。だから、私たちの経験と思いも、どんな人の経験と思いも、そのすべてを誰よりも理解して、どこまでも寄り添い愛し、決して離れません。罪がある、汚れがあると他人から責められても、心が神に向いて
教会の秩序、教会の権威、聖書の権威 牧師だけの特別な権威なんてありません。
聖書的な教会とは、キリストに出会い内側から変えられつつある人たちが、集い互いに励まし合う祈り合う場で、キリストを頭に、お互いを必要とする体として、お互いを尊重できる、永遠に神と共に生きる個人の霊的集合体です。聖霊の働きが一致へ導き、結び目になり、秩序は
すぐに心の叫びを神に祈る。 教会で瓶詰めされるパッケージの信仰を避けて
キリストはまっすぐ求める人にすぐ答える神。祈ればすぐ話せる神はキリストだけで、その辺の人と話すのと同じように相談してみようと思える存在。福音派聖霊派の教育は長い寄り道になる。教会やクリスチャンに相談した時に、最初に何よりも聖書を持ち出す人
組織化した教会を維持する労力が信仰を削ぐことになる事実・現実
神キリストに出会った人たちが祈り合い証しし励まし合い助け合うために集う本来の教会が、建物を持ち維持し、専任の職業牧師やスタッフを置いて組織化することで、信仰より教会組織の維持が目的化して、参加者が教会のために人生を費やします。そうなると、人生の答
瓶詰めにされた信仰生活の外側にも神様は居て、解決のための道筋はいつもいくつでもある。
人を知る神キリストに求め祈ると、すべるように前に進めます。でも、神のことも人のことも知らない教会に助けを求めると、苦しみと悩みで道が見えず、闇は何十年にも。『聖書通り』『聖霊の満たし』という教会の教えに人生を捧げたら、心が瓶に入れられて蓋をされた
感情を乗せないと、自分も他人も心は動かない。心を縛る聖書主義ではなく、「聖書が生きた言葉になる」ためには?
私は「自分が相手に喜ばれる、会って話して嬉しいと思ってもらえる」などと全く思えないですし、そんな発想が子どもの頃からずっとありません。人は自分の感情を乗せた上で、様々に考え分析して対応します。それで対立、行き違いはありますし、当然よい出会いや意気投
過去の心も生活も、今の心も生活も仕事も同じように大事です。過去の自分のことを大切に思うことが難しいのが今の苦しい原因であることが多いです。それも自分では分からない心のどこかで無意識に働いていて苦しめられます。それを悪霊とか罪とか言う福音派や聖霊派の教会
愛すること、隣人の心と命のために思うこと、それは自分を見つめること、自分を見つけること、そのためのキリスト
自分の中からのものが、隣人をいくらかでも生かし助け救っているか、信仰と救いを得ている自分を生かし確かにしているか、絶えず自分で問う習慣は有益です。無意識にでもできるようになればと思います。嘆きと痛みの最中で大変でそれどころでなくても、いつかは実を結ぶ
講壇上から確信めいてえぐるように説教するのが好きな牧師たちがいます。中身はそもそも当たり前のこと言っているだけなのですが、頻繁にそれしか考えられないように洗脳するように繰り返し言って支配します。誰もが分かっていることをあえて迫るのは、その牧師の心に神
人の良さ悪さは関係なく人が悪くても、祈ればその祈りは良いものです。祈り願いに心の真実があれば、何でも祈って神に言っていい。祈りは届いています。自分のことなら自分自身の思いや発想や出来事や周りや環境やめぐり合わせを期待していい。すぐのこと、また何十年あ
キリストが共にいる条件は、愛とか親切とか仕えるとか奉仕とか伝道とか聖霊の満たしではなく、悲しみの現実を見ている、体験しているなら、必ずその現場に、どんな人にでもキリストは共に居るということ、ただそれだけです。キリストを感じられない、愛されているか赦さ
自分の価値を自分で高く見ることができますか…そのためには…神は「あなたはわたしの目には高価で尊い」と私たちの人生の間に言い続けています。それぞれ人によっての天国のイメージ、神様のイメージで、自己イメージが違ってきます。もし、実際に天国に行って、そこ
悪い教会による囲い込みで、人を外に出さない、他の教会に行かせない、転会させない、日曜に仕事させない、神第一という名の教会と牧師ファースト『あなたは、この教会に神によって導かれ救われた。神に招かれ召されて、この教会でキリストの御体の器官として目に見え
聖書や聖霊をかたる虐待としての『一方的に与える愛(アガペ)』『個人の時間・金銭・労力・心・友人関係への搾取』を避け、心の痛手から回復するために
相手の気持を考えて、相手がしてほしいことをする。でも、親切にした相手が詐欺師で、搾取しかしない虐待人間だったら…カルト化した教会や牧師がそれです。深入りすると訓練と称してどんどん付け込まれて、心も生活もお金も支配されてしまいます。それも自分で納得づ
『血が通う』ネットで辞書を見ると血が流れている。 生きている。 公式的でなく、こまかい配慮を伴って物事を行なうさまにたとえる。事務的ではない人間らしさがあって、情感が通じ合う。物事を単純化できる信仰に引きこもるより、重層的で複雑な個人
人の愛に願望で依存しがち…普遍的な愛、神の本質である愛とは。心を守るには…
人に期待するというより、個人的に会うキリスト、個人的に満たされ聖霊に照らされた聖書の愛の価値観に触れたい。決して離れない神の手は、教会でというより、個人の出来事や困難の時に祈ったりして知ります。教会や牧師の教えで安心するのは結局は人に期待していることに
どの人もキリストに知られ、心も命も痛みも喜びも、その人が感じる以上にキリストが共にいて感じていること。自分で「おかしい、変だ、罪かも」否定して抑えて捨てようとしてきた様々な思いや感じ方を、その当時からキリストはどんな思いも感情も含めてあなたを100%受
カルト化した教会と牧師に脅しのように罪と滅びと救いと使命を教えられ反論は許されず、やり込められて押された焼印が届かない場所、そこにこそ私たちのキリストが居られます。カルトやブラックに心を削られて、もう何も残っていないと思っても、必ず残っている場所は
人が『主の道に立ち帰る』のではなく、ふさわしくない自分の所に主の方からすでに来ていること
内側に入り、心と思いに働く父キリスト聖霊。内側から作用がなければ信仰に意味はありません。余計な聖書主義教育や律法から脱して、キリストご自身をただ愛し慕い求めることだけにシンプルに心を定められれば、主のものが内側に満ちます。福音派聖霊派の教育は心に
宗教・信仰によるネグレクトや終末の神の裁き、地獄のビジュアル的な教え、親子に必要な愛が律法的に変容してしまう、そんな子供時代があると、その時、子は親を100%信じ愛を欲して気づかずに虐待を受け入れ、気づかない傷によってその後もトラウマが積み重なり、社
『日常の語りかけで知る聖書の意味』と『教会の聖書研究』が一致しない時
日常思うことを小さくつぶやくようにキリストに聞いてみる。印象があったり、言葉が浮かんだり。置かれている状況が思う以上に厳しく、必要以上に気負ったり、振りかぶったりの時は、思い詰めることがないように、違う視点が見つかったり。聖書の意味が、誰かに教えられた厳
親切や人情が見えても、それが実は計算である人がいます。彼らに打算的に対応されるのを予想して、こちらも計算づくで抑えて対応しないと、いつまでも誠実さや心の養分を吸い取られ搾取されることがあります。やられた方は裏切りと感じますが、やった方はただの計算であ
救いに『聖書的』『決心の告白』『罪の悔い改めの告白』という条件を付けて説得することが伝道になってしまう福音派聖霊派のクリスチャンは辛いです。そもそもクリスチャンとはキリストにある者という意味なのに、派と共にある者では。人をキリストから遠ざけているという
ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。創世記 6:18-19 JA1955https://bib
素直な思いを神に言うことで自分を見つけること。それが祈りの肝
神は人が口に出す前に、すでに人の心を知っています。置かれている状況もすべてわかっています。そばにいるキリストと会う。ただそれだけが信仰で、祈りです。祈れば会っているし、祈るだけでもう信仰があります。祈りは寺社や教会堂に行く必要はなく、僧侶
「無理しない、頑張らない」が分からなくなるマインドコントロール
勉強や仕事ではいくらか無理して結果を残しますが、クリスチャン個人の生き方の結果は無理な犠牲や能力に依らない部分があります。祈りも信仰もただキリストの名を呼ぶだけで成立します。キリストに会う条件をいろいろ付け加える教会はすべて悪いものです。
キリストの伴いは、福音派・聖霊派の言う感動や確信や悔い改めや決心とは違い、日常の普通のことの中にあります。牧師や証し者から聞いた話に感動して高揚したり、悔い改めたり、腑に落ちるとか、世間とは違う特別なことは、神の臨在や存在の証明になりません。感動や
マインド・コントロールと『自発的な教会依存・自由献金・教会奉仕』
癒しと現実を生きることを目的にキリストを信じ祈り交われば、キリストのすべてが私たちを愛し生かし守り癒すためだと分かっていきます。信仰のはじめは傷がうずいて文句と恨みのつぶやきばかりでもいいのです。キリストだけは裏切らないとさえ思えます。祈り、すがるよう
赦さず縛る『愛』は愛ではない。必ず赦し受け容れるのが愛。隠れ場に行き心をケアする祈りを
誰かを信頼できることが親切心や愛の基盤になります。信頼も自信もあまりなくても出会いで段々と育っていくし、親は子供から、先輩は後輩から信頼されて育てられ自信を持つ面は必ずあります。ただ自分以外の何からも学ばない人には全く成長がありません。叱責し縛る人は
無意識で求めている心の満たし、足りないと感じるもの素直に生かして
心の声は否定しないようにしましょう。生きて出あうことには良いこと悪いこと両方あり、その反応と結果も、良いもの悪いものが私たちの中に当然に自然に現れます。生きることに含まれるすべてをそのまま持って神に会えば、それが信仰です。福音派聖霊派では、無意識にあ
心の深い傷をどうする? 誰かの言いなりではない一心な関係は神や友人を身近にする
親が負っている傷を連鎖させない意思と自覚があれば、その毒は軽くなります。でも報復心や自己充足や認証願望を抑えられず、弱く言いなりの子どもや隣人に犠牲を強いて慰みにする人もいます。子どもの愛や、純愛や、キリストを知った初めの愛は、何も疑わず、ちゃん
意志の強さ、押しの強さは、身を守ることと実行力に必要です。誰かに期待だけするのではなく、意志を伝え、相手がイメージできるまで説得することは個人の普通のことです。実行し事を成すのが我の強さだけでなら愚かです。他人を理解し生かすまでが、本当の意思の強さ
キリストは人の心にあるものをすべて知って、それでも愛される。
キリストが愛する時に、決して目をつぶることはなく、本人が知らないことまですべてを見透かし見通して知って、そこから心から慈しみ伴い愛し友となるキリストです。人は開き直るのではなく、キリストが共に居る人生で様々な人に出会い経験することで、自分や人のあり方
周りのことを何でも許し受容すると愚かに。愛と呼べるものはなに?
健全で素直な違和感や疑問が人を成長させるもの。『あの人は間違いない』とか、他人を無批判に信じることが人を愚かにします。信頼ではなく放縦です。これは教会でよく起こっています。でも、誰かを信じたい、信じて安心したいのも人情。『ただ信じる』のではな
そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。コロサイ人への手紙 3:17 JA1955https://bible.com/bible/81/col.3.17.JA1955教会を信じる人とキリストを個人的に
形だけの祈り、儀式ばった祈りから心のどんなつぶやきもすべて神様が聞いてくれる、うなずき深く理解し共に担ってくれる、と思うことへ飾られた花より無造作に咲く野花の群れの中のひとつのように、そんな日常で祈る、自然に私は変えるのに10年以上、恐怖が無くなる
祈り、父キリスト聖霊に心を向け、自分ひとりで自分を清い捧げ物として神様だけに差し出しましょう。牧師や誰かに言われてイメージするのではなく、教会からも心を離して、ひとりでただ真っ直ぐ純粋に神様を求める心を見つめて素直に出して。神様は何もない人の捧げ
『聖書的』『聖書主義』に固執してカルト化する教会から外へ出る
牧師は教会員に経済的支援をされ生活を依存しています。役に立っていない場合、支援しなければいいだけです。什一献金を神への義務とか公然か暗黙のルールにしている時点で警戒すべきです。福音派聖霊派の教会からのカルト的な精神的支配の問題は数えきれない証言がネッ
良心・善意・正気を保ち、脅し・追い込み追い詰め・嘘をはっきり見分けて、実生活で充実した心で前向きになり自由に発想が拡がる方を向いて
幸せって、人と自分と家族の良心や善意を信じられること。信仰で言えば「神はキリストの十字架ゆえに人のありままを受け容れて愛する方」のはず。厳しくして強迫的に奉仕献金をさせて、できないことを責め裁くようなことをするのは神ではなく、人生を破綻させるのは神
『トラウマから逃れるために他人を犠牲にする連鎖』を意識できる弱さは幸い
毒親というワードが最近言われています。親的な信頼を寄せる人からの冷たさ無関心・突き放し・しごきなど信頼の裏切りからのトラウマがあると、無意識にいつも他人を試してしまいます。それも気を許せる信頼できる相手に対してや、下に見て自分に従うかついてくるか試したい
いつでも自由の足掛りを期待できること。いつでも逃げ出せる用意がある生き方が大事です。それは逃げるべき場に居てもいつでもキリストを目の前に置いていることです。逃げる足掛り、自由の足掛りをちゃんと分かって持っていることは必要な知恵です。職場や教会の問題、ま
”救いか?滅びか?” この二択縛りで自分も隣人も赦せず愛せない?
ただ信じなさいと言われ、教会に通い、奉仕し、祈り…それでもキリストを近くに感じられない、愛されている実感がない、聖霊の働きが分からない、すべてを赦されすべてが新しくなったという約束が自分からは遠く感じる…救われているのか不安になる…10年クリスチ
神キリストがそれぞれの人の現実に例外なく共にいて重荷を負うので、人は神と共にその現実を生きる。人の願望・理想と十字架
現実は苦しい。これは動かせません。人は現実から逃げたい、負いたくないという願望を誰でもどこかで持っています。カルトに近いほど、マインドコントロールで、現実を快適にすべき、そのために祈りと教会と聖書で救うべきという物語で理想と思わせようとします。無意識
福音派・聖霊派のカルト化教会やカルト宗教の脱出後、不安定になる心を安定させるには
脱会の後、脱マインドコントロールの過程で、安定する関係性を離れて拠り所がなくなり孤独が続く場合、不安と圧迫や虐待の記憶のフラッシュバックで生活が不安定化することがあります。家庭環境や成育歴、個性、性格、社交性によって違うでしょうが、できるだけ孤独を
福音派宗教2世…人に迫られた『罪の悔い改め』で教会で命を奪われ、キリストに会って命を見つけて
十字架刑死で贖罪がされ、復活で新たな命に生きるまったく新しくされました。それはキリストによって神に真っ新(まっさら)と認められ、神に新しい人として出会うことその表れはキリストが私の深いところにある黒い罪の姿を一生共に負って一緒に居ることここ
『聖書教』信者はキリストにある者(クリスチャン)なのかどうか、他人にも自分にも『聖書通りか』チェックし言葉狩りをして裁くほどマインドコントロールが進みます。裁いてはいけないと知りながら、もう言葉狩りは止まらないのです。親切や感謝の言葉もマニュアル
私たちは、人とも神とも関わりたいと思うのは、単純にシンプルにうれしいと感じる時、安心できると感じる時があるからです。互いに満たされて、喜びや充実感を共有できる関係は素敵です。神様も単純に人の愛、子どものような愛を喜び受け取るとキリストは言います
真の信仰者は自我をしっかり持ちましょう~それが真の賜物につながり
良いものにはちゃんと執着すべきです。自分らしく執着できる自由な興味を見つけて、安心できて縛られない内面から湧く個性を持ちましょう。人間的なものを越える上からの賜物は霊がいきいきと生きるものです。律法的に自我を無くしても、周りの評価や裁きがあるから不安
2世からしたら福音派も聖霊派もカルトと呼べる支配がある。キリストに個人的に救ってもらうまで叫び脱出する
教祖が『自分が再臨のキリストだ』と言うカルト教団があって、それを否定して、牧師が『神のみ声を聞き分けられる』と言う、牧師が『聖書のことばに従う教会をつくる』と言う、その牧師のことばも、キリストを認めている証拠にはなりません。『神と悪魔、信仰と罪、
福音派宗教2世…『私は自分のことが嫌い』『自分を憎んでいる』『自分なんかダメ』悔い改めという名の自己否定すると落ち着く
宗教2世で親や教会の大人に縛られた価値観…やりたいことを罪だ余計だ清さだ常識だと言われて、教会や社会で通用しないからと脅され行動を縛られてきた。常識から外れた感情的な大人の言葉さえ細かく逃さず信じて守らないと自分は地獄行きで他の誰かも不幸にすると思い込む
キリストはすぐそばに、手を触れる近さに、私たちが立ち 座るその隣にいつも
キリストは私たちひとりひとりの存在をいつくしみ、いつも手をのばして触れています。私たちの心が恨み嘆き泣いている時も、残酷に自分と他人を思う時でも、病に沈む時も、ゲームしたり体を動かしている時も、喜んでいても悲しんでいても、勤勉でも怠けても、正しくても間
キリスト教信仰の肝は、小さく弱く弾き出された人が受けられるキリストの伴いと愛です。
無条件の救い、つまりどんな条件も付けずに救われるのが本来の信仰です。救いは求めれば与えられるものです。でもどうすればいいのか分からないから、決まりがある宗教に行って、宗教の決まりに従おうとしてしまいます。「どうすればいいんですか」と聞く人がいても、「キ
キリストを迎え入れたら罪は重荷ではなく、負えるものに変わります。
赦しとは、キリストが、人の罪ゆえの刑死を負ったから人が罰されず、神の目が人に罪を認めないこと。正直な人は、それでも自分が罪人だと知っています。私たちが決心して、神の正しさの側に居たいから祈りと思いを沿わせようとして救いを意識する、その前からキリ
あなたのみむねを行うことを教えてください。あなたはわが神です。恵みふかい、みたまをもってわたしを平らかな道に導いてください。詩篇 143:10 JA1955https://bible.com/bible/81/psa.143.10.JA1955神のみこころを行いたいと心から願い、みこころを行うことに飢え渇い
神の声は思いや印象であり私は耳を通しては聞こえません。神の声は、キリストが現実に寄り添って生き、死にまで従い世の人に赦しを教えた愛と一致します。現実と赦しを知るほど、現実と赦しを知る他人との関わりを知るほど、神の声の意味、神との交わりが分かります。
他人を上か下か正しいか愚かか無知かで分けるのは虚しい感情や感覚や傷や宗教や律法で人を切り分ける前にどんな人とも「感じ方の柔らかい相互共有」をお互い感じ合いたい一方的な支配や押しつけは、縛りや傷や敵意を生むが、そうしないと気が済まない衝動、思い通りにし
他人と自分のために 妥当に行動するのは必ず平和につながってる、と普通は信じられる。すべてに互いに生きるために進む必然の糸、思いやりや常識の当然と思う線があるものです。そこを外す余計なものを見分けていれば良い人でいられる。常識、必然、妥当、適当
「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」とパウロは言います。自分の闇を知っており、迫害者サウロだった心をいつも思えたし、そこに現れたキリストをいつも生き生きと感じていたと思います。見せかけの信仰ではない人のことばで、人間の決意や熱意では
素の自分は、どんな人なのか神の前に出て、自分は何かを成し遂げたという思いは持てません無理です。神と知り合えば、自分が成し遂げたなど決して思いません。でも人として生きるには、毎日何か小さいことでも積み重ねて成し遂げる実感は必要なんです。自意識やアイデ
キリストは永遠、不変の愛、普遍で誰にでも漏れ無く寄り添う~自由に生かされる幸せを願う
人が心で何を求めて、何を願い、何をしたいのかキリストはいつでもどこにも居てそれを知りどの人も助けます。聖霊は風のよう、聖霊が存在しないところはありません。解放を願う私たちもそうしたいし、そうすることで縛りからの解放が確かに。律法に縛られた人の心は、
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神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 そのさばきというのは、
誰かを好きなるのと同じことでキリストに「一緒に居て」と願えば神キリストは誰の中にもすでに共に居て その交わりには楽しく希望の光があります。誰一人キリストに知られなていない人はいませんから。何の条件もいらずただ落ち着いて信頼すればキリストは
”『自分は罪人』と意識して祈り悔い改め、キリストの十字架を信じて『救われた』と、すぐに平安を得られるのが『信仰』”これは愛され信頼を育まれた経験のある人には、抵抗なくできるのかもしれません。でも、存在を否定され続け、激しく非難し合う酷い争いに巻き込まれ
優れること、優位に立つことが自我ではなくいつも自分のために選択することが健全な自我であり、自分らしい自分をつくることになりますどんな自分でも、それがその時の無理のないありのままの自分なら受け容れる選択をするそこへとキリストはどの人の内にも住んで導きま
私たちの人格のすべての領域の救いのために誰でも信頼できるキリストの内住、聖霊の満たしを自分の奥深くに意識すればすぐに与えられたと信じてよいのです。聖書は内住のキリスト、聖霊の導きによって理解できるものです。キリストとの歩みは、おおらかに赦されている自
いつでもキリストに会えるというイメージは、どの人が持ってもいいもの。一緒にいる愛する相手として大好きなパートナーのように触れあうと癒される存在としてそんなふうにイメージできる身近な存在を考えてみて、キリストを同じように感じていい。でもキリスト
心の底からの叫び祈り弱さや困窮からの絞り出す祈りただ真実を願いその中で生きたい祈り祈りは形ではなく心の声それなら必ず神様に届き聞かれています福音派牧師の説教の『神に聞かれる祈りには、まず聖書を読み服従することが必要』などという話はまったく当
ただキリストが内に居て語る言葉が力を持つキリストが居ることの実感は人の誰からも与えられず、ただ個人として求める祈りでしかキリストご自身は見つけられない。もし大説教家や奇跡を行う者に感動させられ按手されても、その実感はキリストとは違うことが多くあります
原っぱで集会したイエス家に集う聖書に描かれた教会信じる人を神の宮と言ったイエス神殿を3日で建てると言ったイエス(十字架刑と3日目の復活のこと)二人でも三人でも集まればそこは教会いったい誰が教会堂を造りはじめ、続々どの教団も大金を集めて造り
確信はどんな確信でも説得と影響を与える瞬発力になり、同志のつながりは強まるしかし心を決めて心を閉ざし確信に自信を持つと成長は鈍化し視野は狭くなっていく他人は一応話は聞いてくれるがその場限りで離れていくし些細な行き違いで激しいやりとりになったり
教会とはキリストに声を聞かれている個人の集まりのはずです教会の教えで心の声が潰される問題が確かにあります罪の告白、悔い改め、型にはまった言葉、聖書解釈は教団と牧師の言う通り、それで教会の知識を持っていてもキリストを個人で知らない人が集まる教会に行
『神に自分の最上のものを捧げましょう』などという煽り文句で教えるキリスト教関係者を警戒すべきです。彼らが『最上のもの』だと教える内容に決して従ってはいけません。選民思想で聖書聖霊が特別な意味を持ち従うべき使命を持ち人生をがんばる、という意識になってし
「自分が貢献した結果・やり遂げた目に見えるモノ」が絶えず欲しい自分の存在を確認したいからでも結局結果はモノではなく、「心に何を願っているか」だけが永遠に残りますキリストに何を願うかキリストがどんな方か知れば祈りの内容が決まっていきますだからキリスト
自然な普通の自分の存在が、世界に与えるものがある。その事実は大切で必要な認識です自然な心の願いは自然な祈りになり神に届き聞かれています整えられた祈りより心の思いをそのまま人としての素の祈りを人がその人らしく生きるために自分のためと隣人のため
自由な心で神様に祈っていますか?祈りの言葉が何かに縛られていませんか?私たちは神様に向いて自由であり、それぞれの心の思い、叫びがあります。その自由に聖霊がおられ、必ずとりなされています。多様な祈りがあってこそ、みからだの一致ではないでしょうか。
私たちも心の中まで普段着であること飾らずありのままキリストはそんな普段着の人を認めて友として傍にいるのに教会や牧師が認めないどうやっても改善しない悪い教会や悪い牧師は存在します『正統で聖書的(異端・カルトとは違う)』と自称し日曜出席や奉仕
『問題の原因が人間の原罪(げんざい)で悔い改めて実を結ぶ生活が解決の道』と言って教会通いと献金と無償の伝道奉仕をさせるのがキリスト教系のカルト宗教福音派聖霊派は『原罪を解決する救いは聖書的な信仰、聖霊の満たし』と言いさらに深みに誘い込み『聖書
カルト化ブラック化被害者にとって自分の心のためにストレスマネジメント、アンガーマネジメントは大切です自分が理想とする心地よいことを見つけて自分ために時間を取って満たして自分に余裕を与えるようにしてあげましょう何が自分に良いことで心を生かすことにな
死生観 人の命 人生の重みそれを説きながら実は理解しておらず成長せず幼い我欲のために他人をもてあそぶカルト神キリスト聖霊聖書を我が物のような顔で『他では救われない』という教派福音派聖霊派それを捨て追い出して人生を取り戻し心を書き換える脱カルト
聖霊派でキリストよりも聖霊の満たしと癒し奇跡を絶対視して頑なに教会の教えで固定したものとしての信仰の励ましのかたち、清さ、教会参加、交わり奉仕、聖書祈りの日課それは頭に袋を被せられるようなもの牧師は本来聖書を教える人ではなくキリストへ導く役
その境界線は高い山の尾根のよう転んでは影になっている暗い斜面に引きずり込まれ光のある方を見上げて祈ると引き上げられ牧師や教会が光の側に居るとは限らない罪や心の痛みによって闇はどの人にも例外なく誰にでもこの世で生きる現実を知りつつ、キリストもその
福音派聖霊派の教会で苦しめられている当事者であり目撃者は、神からの試練ではなく、牧師や教会の人からの責めや縛りに苦しんでいます。全人類が福音派の『福音』を信じなければ地獄行き、と信じさせられ、真面目で純真であるほど持てる情熱を惜しみなく捧げて教会と隣人
キリスト教の優れた所は、キリストが地上で生き、人々と語り合い、共に歩む神の姿であることで、人に分かりやすく神が人格的な交わりを喜び、共に居て住み、言葉を語り、人の思いの変化を人の理解できるペースで導き促すことを、福音書で示していることです。ところ
この世を支配したい人間と教会は他人の心を殺しますが、キリストは人の中に住み、傷んだ心に寄り添い、人の心を守ろうとします。キリストは現実を生きる神なので、そのやり方も現実的です。私達が普段触れるものから、思うこと感じること体験することから、心の自由を得
福音派聖霊派の言う『聖書通りの価値観』を持とうとするため、終末観と罪責感に支えられた『我を忘れ自我を殺す忠実な信仰の型』が信徒の心に大なり小なり存在するので、それを断ち切り、自分の中に人生の支えを得る必要があります。それが神である父・キリスト・聖霊の導
今と将来のクリスチャンと社会に資するために、片隅の小さな記録として残しています。もう、福音派・聖霊派・聖書信仰を標榜するのをやめた方が良いと思っています。今知っていることから言えば、もし十代に戻れたら、選ばなかったもの、信じなかったもの、考えずに済ん
キリストがありのままの人の心に手を入れて支えるから、人はその平安のある変化を感じ、現実にキリストが伴う愛を感じて、悔い改められるし、生きられます。自分に共感して心配して寄り添って助言してケアしてくれるキリストに共感して、自分に自分で寄り添い静まって自分
一緒に暮らすことで相手のことが分かるとよく言われます。犬や猫も飼い主と暮らして人を知り、人への愛情と欲求の素直な反応を喜び飼い主は世話をします。私の中に素直さが絶えず出ていれば、と思います。キリストの愛と癒しが満たされて溢れるのはいつだろうと。人生へ
キリストにどんな時も会えるのを楽しみにする、これを忘れずに過ごしたいですね。キリストがトラウマになるような教会にいると、会えない、話せない、遠いと思ってしまうことがあります。心で気を張って頑張って生きていると、心の休ませ方が分からなくなることもあって
キリストは、私たちのひとりひとりが神の宮だと言いましたし、いつでもどこにいても、キリスト・聖霊は私たちから離れません。キリストはこの世に生まれ、人として生きる間も、十字架上でも、刑場に引かれていく間も、死に黄泉に下る時も、今の私たちのことをご存じ
孤立、痛み、自己否定、自分を責め続ける心の自傷、奥底まで他人に手を入れられて干渉され責められた記憶、子どもから大人へと自立する反抗期もなく人格批判や人格否定を忠実に受け入れて、他人に左右され失った自分の存在感を揺るがない自己確立にするにはどこまで行
自分の本音や願いの本当のところを聴きたいのに、聞こえないところまで心を殺す『自我の死』。それがカルト化した教会のやり方です。幼稚園児の時から連れて行かれ小学生からは自分から欠かさず福音派キリスト教会の日曜学校に通い『人はみな罪だから』と言われて殺
救いも心の変化も、聖書の律法ではなく、キリストとの人格的な出会いによります。キリストと出会うことで聖書のことばが人の中で生き満たされます。自由で自然で健全な心のあり方を知り、人生の現実や出会いで新鮮な発見が生まれ、いろんな過去の縛りや悪い支配の記憶が
本音の祈りは人前では祈れない内容が当然たくさんありますが、人前での『立派な祈り』の頻度が多すぎてそれに慣れると、本音の祈りと離れていきます。だから、奉仕の多い牧師は特にそうなる必然があります。本音本心の祈りは、嘆きの祈りでも良いし、神の御心
世に悪いものと良心的なものがありますが、信仰者は世から目を背け嘆くのではなく、両方を見て、意識して見分け、キリストにつながり絶えず祈ることで、この世を保っています。成長に従って、正しい良心・良識を持つようになることは、広く実生活に通用する祈り
「イエス様、愛してます」と軽々しく言っていいもちろん、重く、どん底の状態ですがる祈りからでも良い葉っぱに乗って空を飛び、何もない野原や荒野に降り、何もないと思えてしまう所から祈り始める、断食の時のように悲しみは重くても、重いものをキリストに吐き出せ
『キリストを告白する』とかしないとか、『救われている』とかいないとか、人の心の真実、初めの愛を分かるのはキリストです。人は他人を裁けないので、早まって判断せずそれぞれキリストが居る自らの心の真実に従うこと。そこからの人との出会いであり、そこに居るキリス
自然な、内から湧く素直な発想と公平さ冷静さとちゃんとした自意識、客観的な視点で、自分を他人を動かすことができる信仰。自分と周りに前向きな動機と癒しを生むような表現と行動を生きる原則にしたい。教会や親に教えられ強いられた枠とプライドと支配と傷が心に奇妙