ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
参院選での大敗後、マスコミや与党内の退陣の声にも負けずに続投を表明した安倍首相に対して、今度は自身の健康問題が浮上しました。安倍首相は17歳の頃から難病である「潰瘍性(かいようせい)大腸炎」を患(わずら)っており、首相に就任する数年前には治まっていましたが、一部マスコミによる度重(たびかさ)なるネガティブキャンペーンによるストレスの影響もあったのか、続投宣言をした直後に腸の症状が悪化したのです。安倍...
社会保険庁による年金記録問題の追及は、まるで松岡農水相というターゲットが姿を消したことに対する埋め合わせであるかのように、彼が自殺した平成19(2007)年5月28日以降、急激にヒートアップしました。例えば、朝日新聞では年金記録問題が6月中には毎週平均で50件、7月には30件も記事にされるという驚異的な数字を続け、こうしたマスコミの意図的な誘導によって、安倍首相の内閣支持率は急激に低下し始めました。もっとも、安...
平成19(2007)年5月28日、松岡利勝(まつおかとしかつ)農林水産大臣が議員宿舎で首を吊(つ)っているのが発見され、直ちに救急車で病院に運ばれましたが、間もなく死亡が確認されました。当時、安倍首相にさしたるスキャンダルが見当たらなかったことで、その代わりとばかりに一部マスコミが閣僚のスキャンダル探しに躍起(やっき)となっており、自らの事務所費問題などを抱えていた松岡農水相が、そんなマスコミの「スケープ...
一部マスコミなどによる様々なネガティブキャンペーンにさらされながら、卓越(たくえつ)した実行力で教育基本法の改正を成し遂げた安倍首相は、引き続き国内外の重要な政策に次々と取り組みました。平成18(2006)年12月には防衛庁設置法を改正し、それまで内閣府の外局としての存在でしかなかった防衛庁を、独立した行政組織となる「防衛省」に昇格させました。また、翌平成19(2007)年5月には憲法改正を実現するための「国民...
我が国がGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策を受けていた際に成立した教育基本法には、同時期に施行(しこう)された日本国憲法における「個人の権利や自由」や「平和主義」などが強調される一方で、教育勅語(ちょくご)などで示された我が国古来の道徳や倫理観、あるいは公共の精神といったものがなおざりにされる傾向にありました。これを憂えた安倍首相が教育基本法に関する特別委員会を新たに設置すると、国...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(11月19日までの予定)。平成18(2006)年9月20日、小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)自民党前総裁の任期満了に伴って新たに総裁に選出された安倍晋三(あべしんぞう)氏は、続く9月26日の臨時国会において内閣総理大臣に指名され、天皇陛下に任命されました。第一次安倍内閣の誕生です。初の戦後生まれであり、戦後最年少(52歳0か月)の総理大臣となった安倍首相は「戦後レジーム(...
※「第104回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(10月26日)からは「平成時代」の更新を再開します(11月19日までの予定)。世界中の有色人種の人々の希望は、やがてインドやビルマ(現在のミャンマー)あるいはインドネシアといったアジア各国の独立運動へとつながり、さらにはエジプトやポーランドなどにも飛び火しました。中国の清国も1000年以上続いた科挙(かきょ)の制度を廃止するとともに、多くの留学生を...
優位な状況で講和が結ばれたことによって、最終的に我が国の勝利で終わった日露戦争ですが、有色人種国家でアジアの小国と見なされていた日本が世界最強の白人国家であるロシアを倒したという事実は、国内のみならず世界中に計り知れない影響を与えました。15世紀末のコロンブスによる新大陸の発見の頃から始まった大航海時代をルーツとして、白色人種の国家が世界の大陸を次々と侵略して植民地とするとともに、有色人種を奴隷(ど...
ポーツマス条約の締結によって、我が国はロシアが韓国へ手を伸ばすことを阻止(そし)したとともに、鉄道などの権益を得たことで、満洲におけるロシアの影響も事実上除外できることとなりました。また、樺太・千島交換条約によってロシアの領土となった樺太も南半分だけではあったものの取り戻せたことで、安全保障上において我が国は戦争前より優位に立つことができたのです。しかし、条約は良いことばかりではありませんでした。...
講和への道を探っていた日露両国は、アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領の斡旋(あっせん)によって、明治38(1905)年8月から和平の交渉を開始しました。日本全権の小村寿太郎(こむらじゅたろう)と、ロシア全権のウィッテとの間で進められた交渉は難航しましたが、同年9月に両国はアメリカのポーツマスにおいて講和条約を調印しました。これを「ポーツマス条約」といいます。ポーツマス条約の主な内容(ロシアが我が国に対...
講和の仲介国としてアメリカを選んだ日本政府は、ロシアとの開戦決意とほぼ同時期に、司法大臣であった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣しました。当時のアメリカの大統領はセオドア=ルーズベルトでしたが、実は金子とルーズベルトはハーバード大学の同窓であり、お互いに面識があったといわれています。そうした人物を送ることでアメリカに有力な仲介国になってもらうとともに、あわよくばアメリカ国内...
ところで、戦争で勝利を得るために戦うのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができません。戦争終結は外交努力の結果であり、それが可能なのは政治家だけなのです。この大原則は日露戦争においても同様であり、国力の限界を見極めていた日本政府は、長期戦となって我が国が劣勢(れっせい)とならないうちに戦争を終わらせるため、開戦前から講和への道を探っていました。我が国がロシアと講和するためにはその仲介...
明治38(1905)年5月、ロシアのバルチック艦隊が日本近海に姿を見せて連合艦隊と対馬沖で激突しましたが、参謀の秋山真之(あきやまさねゆき)の活躍があったほか、新式の下瀬(しもせ)火薬を利用した我が国の連合艦隊がバルチック艦隊を圧倒しました。「日本海海戦」と呼ばれたこの戦いにおいて、バルチック艦隊は戦力の大半を失って壊滅状態となった一方で、我が国の損害はわずかに水雷艇(すいらいてい)3隻(せき)のみであり...
日露戦争において、我が国は大山巌(おおやまいわお)陸軍総司令官のもとで満洲を主戦場としてロシアと死闘を繰り広げました。戦いは旅順口(りょじゅんこう)攻撃から始まり、仁川沖(じんせんおき)海戦から鴨緑江(おうりょくこう)会戦、黄海(こうかい)海戦から遼陽(りょうよう)会戦と続き、我が国が有利に戦いを展開しました。しかし、ロシアが清国から租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りることだ...
日露戦争の戦費は総額で約17億円もの巨費となりましたが、我が国では国債や外国債を発行して賄(まかな)いました。このうち、外国債については当初は出足が鈍(にぶ)かったものの、日本銀行の副総裁であった高橋是清(たかはしこれきよ)の尽力により、イギリスやアメリカから約8億円を調達することができました。英米が外国債の発行に応じた理由としては、自国の東アジアに関する権益を日本に守ってもらいたいという思惑があっ...
ロシアの脅威に対し、我が国は戦争を回避するため懸命に外交努力を重ねました。例えば伊藤博文はロシアの満洲における支配権を認める代わりに朝鮮半島にはロシアが手出しをしないという「満韓(まんかん)交換論(または「日露協商論」)」を展開しました。たとえ満洲はロシアの支配を許したとしても、朝鮮半島における安全保障だけは死守したいという我が国にとっての苦肉の妥協案でしたが、国力や軍事力に勝るロシアが承知するは...
北清事変後に満洲を支配したロシアは、親露政権となった韓国への圧力を強め、南下政策を一気に加速させました。1903(明治36)年には満洲と韓国との境にあり、黄海(こうかい)に接した鴨緑江(おうりょくこう)沿いの龍岩浦(りゅうがんほ)を手に入れて「ポート・ニコラス」という名の軍港としました。ポート・ニコラスを手に入れたということは、遼東半島沿岸や朝鮮半島の西海岸における制海権を握ったことを意味しており、我が...
かくして、イギリスと日本とは明治35(1902)年に「日英同盟」を結びましたが、これは世界中に大きな驚きをもたらしました。何しろあの大英帝国が「名誉ある孤立」を捨ててまでして、有色人種かつ東洋の小国でしかなかったと思われていた日本と同盟を結んだからです。日英同盟の主な内容は以下のとおりでした。1.清国における両国の権益や、韓国における日本の特別な政治経済上の利益を承認する2.日英両国の一方が利益保護のために...
19世紀の欧米列強による帝国主義は、植民地争奪戦ともいうべき国際的対立が激化した時代でもありました。列強は利害が一致する国との同盟を進め、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟や、フランスとロシアによる露仏(ろふつ)同盟などが結ばれました。一方、イギリスは「名誉ある孤立(Splendid Isolation)」を唱え、他国と同盟を結ばずに独立独歩の道を歩んできましたが、ロシアによる露骨な南下政策が活発化するようにな...
降伏した清国は、我が国を含む列強に謝罪するとともに北京議定書(ぎていしょ)を結び、列強の軍隊の北京への駐留や多額の賠償金の支払いに応じました。なお、軍隊の駐留が認められたのは、義和団のような悲劇を二度と繰り返さないため、首都を襲う反乱軍を速やかに鎮圧するという目的がありました。さて、北清事変をきっかけとしてロシアがドサクサに紛れて満洲全域を完全に占領し、我が国への圧力をますます強めるようになりまし...
困り果てた列強は清国から一番近い日本に救援軍を要請しましたが、我が国は容易に首を縦に振りませんでした。なぜなら、国際社会の日本に対する反応を恐れていたからです。数多くの列強の中には日本に対して必ずしも良い感情を持っていない国も存在します。もしここで我が国が独自に動いて北京を制圧できたとしても、「日本は混乱のドサクサに紛(まぎ)れて清国を侵略した」と言い出す国が列強の中から出てくるに違いないという思...
さて、日清戦争を経てまるで「生体解剖」のように欧米列強から領土を切り刻まれた清国では、1898(明治31)年に康有為(こうゆうい)らが政治の手法を変えて国家を強くするという「変法自強(へんぽうじきょう)運動」を起こして列強に対抗しようとしましたが、上手くいきませんでした。いわゆる「上からの改革」に失敗した清国内では白人排斥(はいせき)への動きが次第に強くなり、排外主義団体の義和団(ぎわだん)が「扶清滅洋...
閔妃に直接手を下したのは同じ朝鮮人の訓練隊の兵士でしたが、いかなる理由があろうとも、一国の外交官が駐在国の王族暗殺に関わった可能性があるという事実はテロ以外の何物でもなく、極めて乱暴な行為に他なりません。閔妃の暗殺を知って驚いた日本政府は直ちに関係者を逮捕するなどの素早い処置をとったこともあって、乙未事変は当時の大きな国際問題にはなりませんでした。乙未事変が大きな問題にならなかった背景には、朝鮮半...
三国干渉によって我が国がロシアの圧力に屈したことは、朝鮮半島にも大きな影響を与えました。なぜなら、ロシアに対する我が国の低姿勢ぶりが「弱腰」に見えたことで、朝鮮政府が方針を転換してロシアへと接近していったからです。このような「自分よりも大きくて強い国に自国を委(ゆだ)ねる」という事大主義が朝鮮政府内のいわゆる親露派の動きを強めることになりましたが、その最たる存在が朝鮮王妃の閔妃(びんひ)でした。閔...
門戸開放を宣言したアメリカの思惑をよそに清国の「生体解剖」は着々と進んでいきましたが、もっとも露骨(ろこつ)に動いたのは我が国と国境を接するロシアでした。ロシアは1896(明治29)年に清国と対日軍事同盟を結び、シベリア鉄道を清国の領土を挟(はさ)むように延長してウラジオストックへ至る東清(とうしん)鉄道の敷設権を得ました。また、ロシアは清国が我が国から返還を受けた遼東半島の旅順(りょじゅん)・大連(だ...
先述のとおり、日清戦争で我が国に敗北した清国は下関条約によって遼東半島や台湾を我が国に割譲しましたが、これを不服とした清国はロシアに声をかけ、三国干渉によって遼東半島を無理やり自国に返還させることに成功しました。これは、外国を征するのに別の外国を利用するという「以夷制夷(いいせいい)」と呼ばれた中国の伝統的発想に基づくものでしたが、領土の返還を受けて喜んだのもつかの間、日清戦争の敗北で「眠れる獅子...
ロシアなどからの理不尽な要求に対して、我が国は当然のように激怒しました。しかし、巨大な三国に対抗するだけの軍事力を我が国が持っているはずがありません。我が国はやむなく三国からの要求を受けいれ、賠償金3,000万両(テール、当時の日本円で約4,500万円)と引き換えに遼東半島を清国へ返還しました。ロシアの横暴ともいえる仕打ちに対して当時の国民の怒りは頂点に達し、今は辛抱するとしてもいつの日か必ずロシアへの復讐...
遼東半島は朝鮮半島の北西および満洲の南側に位置していますが、ここを我が国が領有されると非常に困る国がありました。それは、東アジアに領土的野心を持っていたロシアです。なぜなら、当時のロシアは南下政策を進めており、いずれは満洲から朝鮮半島の領有をも視野に入れていました。それなのに、我が国が遼東半島を自国の領土とすればロシアの野望に大幅な支障をきたすことになってしまうのです。実は、こうした事情を理解して...
さて、下関条約の主な内容(清国が我が国に対して)は以下のとおりでした。1.朝鮮の独立を認めること(詳細は先述のとおり)2.遼東半島・台湾(たいわん)・澎湖(ほうこ)諸島を割譲(かつじょう)すること3.賠償金として2億両(テール、清の通貨単位。当時の日本円で約3億1,000万円)を支払うこと4.新たに沙市(さし)・重慶(じゅうけい)・蘇州(そしゅう)・杭州(こうしゅう)の4港を開くことこのうち、2.や3.に関しては「敗...
明治28(1895)年4月17日、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光(むつむねみつ)と清国の全権であった李鴻章(りこうしょう)との間で日清戦争における講和条約が下関において調印されました。これを「下関条約」といいます。この条約には後述するような様々な事項がありましたが、もっとも重要なのは「清国が朝鮮を独立国として認める」ということでした。下関条約の第1条には「清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確...
日清戦争に対し、欧米の新聞の大多数が清国の勝利を予想した一方で、我が国民は「朝鮮の独立を助ける義戦である」とこぞって評価しました。福沢諭吉がかつて咸臨丸(かんりんまる)に同乗させてもらった恩人の子が出征(しゅっせい)した際に「もし討ち死にしてもご両親のことは心配なさらぬように」と手紙を書いたほか、後に日露戦争に反対した内村鑑三(うちむらかんぞう)でさえ、英文で「日清戦争の義」を世界に発信しました。...
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ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...
我が国が隋に強気の外交姿勢を見せた一方で、かつて隋と激しく戦った高句麗は、自国が勝ったにもかかわらず、その後もひたすら低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けていました。隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったの...
今から2200年以上前に大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗りました。これが慣例となって、後の大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されるこ...
さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...
ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...
大東亜戦争以前より我が国にとって最大の脅威となっていたソ連が消滅したことで、我が国の保守系の識者の多くは「これで我が国の思想や言論の流れが変わるだろう」と安堵(あんど)しました。しかし、そんな保守系の「油断」の隙を突くかたちで、左翼系の「進歩的文化人」と呼ばれた人々が自らの思想を満足させるために、ソ連解体以前から続けていた「日本の歴史から中国や韓国の好みそうな問題を取り上げ、両国に『御注進』する」...
しかし、ロシア共和国大統領であったエリツィンの呼びかけもあってクーデターが失敗に終わり、それをきっかけにソ連共産党が事実上解体されると、ソ連そのものの弱体化が一気に加速しました。そして、同年12月までに「ソビエト社会主義共和国連邦」を構成していた共和国のすべてが独立を宣言したことでソ連は解体し、新たにロシア共和国などからなる独立国家共同体(=CIS)が誕生したのです。ソ連解体後の新生ロシアでは1917(大...
国家財政の立て直しを図ったゴルバチョフ大統領はペレストロイカなどの改革を次々と行ったものの、経済の停滞は依然として続き、1990(平成2)年に入るとソ連都市部の食糧不足が深刻化するようになり、ゴルバチョフは西側諸国を訪問して経済援助を懇願(こんがん)しました。また、第二次世界大戦中にソ連に併合されたエストニア・ラトビア・リトアニアのいわゆる「バルト三国」がそれぞれ独立を主張するようになり、ソ連は軍事介...