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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 第一次安倍内閣の挫折から政権交代まで その6

    参院選での大敗後、マスコミや与党内の退陣の声にも負けずに続投を表明した安倍首相に対して、今度は自身の健康問題が浮上しました。安倍首相は17歳の頃から難病である「潰瘍性(かいようせい)大腸炎」を患(わずら)っており、首相に就任する数年前には治まっていましたが、一部マスコミによる度重(たびかさ)なるネガティブキャンペーンによるストレスの影響もあったのか、続投宣言をした直後に腸の症状が悪化したのです。安倍...

  • 第一次安倍内閣の挫折から政権交代まで その5

    社会保険庁による年金記録問題の追及は、まるで松岡農水相というターゲットが姿を消したことに対する埋め合わせであるかのように、彼が自殺した平成19(2007)年5月28日以降、急激にヒートアップしました。例えば、朝日新聞では年金記録問題が6月中には毎週平均で50件、7月には30件も記事にされるという驚異的な数字を続け、こうしたマスコミの意図的な誘導によって、安倍首相の内閣支持率は急激に低下し始めました。もっとも、安...

  • 第一次安倍内閣の挫折から政権交代まで その4

    平成19(2007)年5月28日、松岡利勝(まつおかとしかつ)農林水産大臣が議員宿舎で首を吊(つ)っているのが発見され、直ちに救急車で病院に運ばれましたが、間もなく死亡が確認されました。当時、安倍首相にさしたるスキャンダルが見当たらなかったことで、その代わりとばかりに一部マスコミが閣僚のスキャンダル探しに躍起(やっき)となっており、自らの事務所費問題などを抱えていた松岡農水相が、そんなマスコミの「スケープ...

  • 第一次安倍内閣の挫折から政権交代まで その3

    一部マスコミなどによる様々なネガティブキャンペーンにさらされながら、卓越(たくえつ)した実行力で教育基本法の改正を成し遂げた安倍首相は、引き続き国内外の重要な政策に次々と取り組みました。平成18(2006)年12月には防衛庁設置法を改正し、それまで内閣府の外局としての存在でしかなかった防衛庁を、独立した行政組織となる「防衛省」に昇格させました。また、翌平成19(2007)年5月には憲法改正を実現するための「国民...

  • 第一次安倍内閣の挫折から政権交代まで その2

    我が国がGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策を受けていた際に成立した教育基本法には、同時期に施行(しこう)された日本国憲法における「個人の権利や自由」や「平和主義」などが強調される一方で、教育勅語(ちょくご)などで示された我が国古来の道徳や倫理観、あるいは公共の精神といったものがなおざりにされる傾向にありました。これを憂えた安倍首相が教育基本法に関する特別委員会を新たに設置すると、国...

  • 第一次安倍内閣の挫折から政権交代まで その1

    ※今回より「平成時代」の更新を再開します(11月19日までの予定)。平成18(2006)年9月20日、小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)自民党前総裁の任期満了に伴って新たに総裁に選出された安倍晋三(あべしんぞう)氏は、続く9月26日の臨時国会において内閣総理大臣に指名され、天皇陛下に任命されました。第一次安倍内閣の誕生です。初の戦後生まれであり、戦後最年少(52歳0か月)の総理大臣となった安倍首相は「戦後レジーム(...

  • 日露戦争の世界史的意義・後編 その6

    ※「第104回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(10月26日)からは「平成時代」の更新を再開します(11月19日までの予定)。世界中の有色人種の人々の希望は、やがてインドやビルマ(現在のミャンマー)あるいはインドネシアといったアジア各国の独立運動へとつながり、さらにはエジプトやポーランドなどにも飛び火しました。中国の清国も1000年以上続いた科挙(かきょ)の制度を廃止するとともに、多くの留学生を...

  • 日露戦争の世界史的意義・後編 その5

    優位な状況で講和が結ばれたことによって、最終的に我が国の勝利で終わった日露戦争ですが、有色人種国家でアジアの小国と見なされていた日本が世界最強の白人国家であるロシアを倒したという事実は、国内のみならず世界中に計り知れない影響を与えました。15世紀末のコロンブスによる新大陸の発見の頃から始まった大航海時代をルーツとして、白色人種の国家が世界の大陸を次々と侵略して植民地とするとともに、有色人種を奴隷(ど...

  • 日露戦争の世界史的意義・後編 その4

    ポーツマス条約の締結によって、我が国はロシアが韓国へ手を伸ばすことを阻止(そし)したとともに、鉄道などの権益を得たことで、満洲におけるロシアの影響も事実上除外できることとなりました。また、樺太・千島交換条約によってロシアの領土となった樺太も南半分だけではあったものの取り戻せたことで、安全保障上において我が国は戦争前より優位に立つことができたのです。しかし、条約は良いことばかりではありませんでした。...

  • 日露戦争の世界史的意義・後編 その3

    講和への道を探っていた日露両国は、アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領の斡旋(あっせん)によって、明治38(1905)年8月から和平の交渉を開始しました。日本全権の小村寿太郎(こむらじゅたろう)と、ロシア全権のウィッテとの間で進められた交渉は難航しましたが、同年9月に両国はアメリカのポーツマスにおいて講和条約を調印しました。これを「ポーツマス条約」といいます。ポーツマス条約の主な内容(ロシアが我が国に対...

  • 日露戦争の世界史的意義・後編 その2

    講和の仲介国としてアメリカを選んだ日本政府は、ロシアとの開戦決意とほぼ同時期に、司法大臣であった金子堅太郎(かねこけんたろう)を特使としてアメリカへ派遣しました。当時のアメリカの大統領はセオドア=ルーズベルトでしたが、実は金子とルーズベルトはハーバード大学の同窓であり、お互いに面識があったといわれています。そうした人物を送ることでアメリカに有力な仲介国になってもらうとともに、あわよくばアメリカ国内...

  • 日露戦争の世界史的意義・後編 その1

    ところで、戦争で勝利を得るために戦うのは軍人の役割ですが、彼らには戦争を終わらせることができません。戦争終結は外交努力の結果であり、それが可能なのは政治家だけなのです。この大原則は日露戦争においても同様であり、国力の限界を見極めていた日本政府は、長期戦となって我が国が劣勢(れっせい)とならないうちに戦争を終わらせるため、開戦前から講和への道を探っていました。我が国がロシアと講和するためにはその仲介...

  • 日露戦争の世界史的意義・前編 その5

    明治38(1905)年5月、ロシアのバルチック艦隊が日本近海に姿を見せて連合艦隊と対馬沖で激突しましたが、参謀の秋山真之(あきやまさねゆき)の活躍があったほか、新式の下瀬(しもせ)火薬を利用した我が国の連合艦隊がバルチック艦隊を圧倒しました。「日本海海戦」と呼ばれたこの戦いにおいて、バルチック艦隊は戦力の大半を失って壊滅状態となった一方で、我が国の損害はわずかに水雷艇(すいらいてい)3隻(せき)のみであり...

  • 日露戦争の世界史的意義・前編 その4

    日露戦争において、我が国は大山巌(おおやまいわお)陸軍総司令官のもとで満洲を主戦場としてロシアと死闘を繰り広げました。戦いは旅順口(りょじゅんこう)攻撃から始まり、仁川沖(じんせんおき)海戦から鴨緑江(おうりょくこう)会戦、黄海(こうかい)海戦から遼陽(りょうよう)会戦と続き、我が国が有利に戦いを展開しました。しかし、ロシアが清国から租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りることだ...

  • 日露戦争の世界史的意義・前編 その3

    日露戦争の戦費は総額で約17億円もの巨費となりましたが、我が国では国債や外国債を発行して賄(まかな)いました。このうち、外国債については当初は出足が鈍(にぶ)かったものの、日本銀行の副総裁であった高橋是清(たかはしこれきよ)の尽力により、イギリスやアメリカから約8億円を調達することができました。英米が外国債の発行に応じた理由としては、自国の東アジアに関する権益を日本に守ってもらいたいという思惑があっ...

  • 日露戦争の世界史的意義・前編 その2

    ロシアの脅威に対し、我が国は戦争を回避するため懸命に外交努力を重ねました。例えば伊藤博文はロシアの満洲における支配権を認める代わりに朝鮮半島にはロシアが手出しをしないという「満韓(まんかん)交換論(または「日露協商論」)」を展開しました。たとえ満洲はロシアの支配を許したとしても、朝鮮半島における安全保障だけは死守したいという我が国にとっての苦肉の妥協案でしたが、国力や軍事力に勝るロシアが承知するは...

  • 日露戦争の世界史的意義・前編 その1

    北清事変後に満洲を支配したロシアは、親露政権となった韓国への圧力を強め、南下政策を一気に加速させました。1903(明治36)年には満洲と韓国との境にあり、黄海(こうかい)に接した鴨緑江(おうりょくこう)沿いの龍岩浦(りゅうがんほ)を手に入れて「ポート・ニコラス」という名の軍港としました。ポート・ニコラスを手に入れたということは、遼東半島沿岸や朝鮮半島の西海岸における制海権を握ったことを意味しており、我が...

  • 北清事変と日英同盟 その5

    かくして、イギリスと日本とは明治35(1902)年に「日英同盟」を結びましたが、これは世界中に大きな驚きをもたらしました。何しろあの大英帝国が「名誉ある孤立」を捨ててまでして、有色人種かつ東洋の小国でしかなかったと思われていた日本と同盟を結んだからです。日英同盟の主な内容は以下のとおりでした。1.清国における両国の権益や、韓国における日本の特別な政治経済上の利益を承認する2.日英両国の一方が利益保護のために...

  • 北清事変と日英同盟 その4

    19世紀の欧米列強による帝国主義は、植民地争奪戦ともいうべき国際的対立が激化した時代でもありました。列強は利害が一致する国との同盟を進め、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟や、フランスとロシアによる露仏(ろふつ)同盟などが結ばれました。一方、イギリスは「名誉ある孤立(Splendid Isolation)」を唱え、他国と同盟を結ばずに独立独歩の道を歩んできましたが、ロシアによる露骨な南下政策が活発化するようにな...

  • 北清事変と日英同盟 その3

    降伏した清国は、我が国を含む列強に謝罪するとともに北京議定書(ぎていしょ)を結び、列強の軍隊の北京への駐留や多額の賠償金の支払いに応じました。なお、軍隊の駐留が認められたのは、義和団のような悲劇を二度と繰り返さないため、首都を襲う反乱軍を速やかに鎮圧するという目的がありました。さて、北清事変をきっかけとしてロシアがドサクサに紛れて満洲全域を完全に占領し、我が国への圧力をますます強めるようになりまし...

  • 北清事変と日英同盟 その2

    困り果てた列強は清国から一番近い日本に救援軍を要請しましたが、我が国は容易に首を縦に振りませんでした。なぜなら、国際社会の日本に対する反応を恐れていたからです。数多くの列強の中には日本に対して必ずしも良い感情を持っていない国も存在します。もしここで我が国が独自に動いて北京を制圧できたとしても、「日本は混乱のドサクサに紛(まぎ)れて清国を侵略した」と言い出す国が列強の中から出てくるに違いないという思...

  • 北清事変と日英同盟 その1

    さて、日清戦争を経てまるで「生体解剖」のように欧米列強から領土を切り刻まれた清国では、1898(明治31)年に康有為(こうゆうい)らが政治の手法を変えて国家を強くするという「変法自強(へんぽうじきょう)運動」を起こして列強に対抗しようとしましたが、上手くいきませんでした。いわゆる「上からの改革」に失敗した清国内では白人排斥(はいせき)への動きが次第に強くなり、排外主義団体の義和団(ぎわだん)が「扶清滅洋...

  • 列強の中国分割 その4

    閔妃に直接手を下したのは同じ朝鮮人の訓練隊の兵士でしたが、いかなる理由があろうとも、一国の外交官が駐在国の王族暗殺に関わった可能性があるという事実はテロ以外の何物でもなく、極めて乱暴な行為に他なりません。閔妃の暗殺を知って驚いた日本政府は直ちに関係者を逮捕するなどの素早い処置をとったこともあって、乙未事変は当時の大きな国際問題にはなりませんでした。乙未事変が大きな問題にならなかった背景には、朝鮮半...

  • 列強の中国分割 その3

    三国干渉によって我が国がロシアの圧力に屈したことは、朝鮮半島にも大きな影響を与えました。なぜなら、ロシアに対する我が国の低姿勢ぶりが「弱腰」に見えたことで、朝鮮政府が方針を転換してロシアへと接近していったからです。このような「自分よりも大きくて強い国に自国を委(ゆだ)ねる」という事大主義が朝鮮政府内のいわゆる親露派の動きを強めることになりましたが、その最たる存在が朝鮮王妃の閔妃(びんひ)でした。閔...

  • 列強の中国分割 その2

    門戸開放を宣言したアメリカの思惑をよそに清国の「生体解剖」は着々と進んでいきましたが、もっとも露骨(ろこつ)に動いたのは我が国と国境を接するロシアでした。ロシアは1896(明治29)年に清国と対日軍事同盟を結び、シベリア鉄道を清国の領土を挟(はさ)むように延長してウラジオストックへ至る東清(とうしん)鉄道の敷設権を得ました。また、ロシアは清国が我が国から返還を受けた遼東半島の旅順(りょじゅん)・大連(だ...

  • 列強の中国分割 その1

    先述のとおり、日清戦争で我が国に敗北した清国は下関条約によって遼東半島や台湾を我が国に割譲しましたが、これを不服とした清国はロシアに声をかけ、三国干渉によって遼東半島を無理やり自国に返還させることに成功しました。これは、外国を征するのに別の外国を利用するという「以夷制夷(いいせいい)」と呼ばれた中国の伝統的発想に基づくものでしたが、領土の返還を受けて喜んだのもつかの間、日清戦争の敗北で「眠れる獅子...

  • 日清戦争と三国干渉 その7

    ロシアなどからの理不尽な要求に対して、我が国は当然のように激怒しました。しかし、巨大な三国に対抗するだけの軍事力を我が国が持っているはずがありません。我が国はやむなく三国からの要求を受けいれ、賠償金3,000万両(テール、当時の日本円で約4,500万円)と引き換えに遼東半島を清国へ返還しました。ロシアの横暴ともいえる仕打ちに対して当時の国民の怒りは頂点に達し、今は辛抱するとしてもいつの日か必ずロシアへの復讐...

  • 日清戦争と三国干渉 その6

    遼東半島は朝鮮半島の北西および満洲の南側に位置していますが、ここを我が国が領有されると非常に困る国がありました。それは、東アジアに領土的野心を持っていたロシアです。なぜなら、当時のロシアは南下政策を進めており、いずれは満洲から朝鮮半島の領有をも視野に入れていました。それなのに、我が国が遼東半島を自国の領土とすればロシアの野望に大幅な支障をきたすことになってしまうのです。実は、こうした事情を理解して...

  • 日清戦争と三国干渉 その5

    さて、下関条約の主な内容(清国が我が国に対して)は以下のとおりでした。1.朝鮮の独立を認めること(詳細は先述のとおり)2.遼東半島・台湾(たいわん)・澎湖(ほうこ)諸島を割譲(かつじょう)すること3.賠償金として2億両(テール、清の通貨単位。当時の日本円で約3億1,000万円)を支払うこと4.新たに沙市(さし)・重慶(じゅうけい)・蘇州(そしゅう)・杭州(こうしゅう)の4港を開くことこのうち、2.や3.に関しては「敗...

  • 日清戦争と三国干渉 その4

    明治28(1895)年4月17日、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光(むつむねみつ)と清国の全権であった李鴻章(りこうしょう)との間で日清戦争における講和条約が下関において調印されました。これを「下関条約」といいます。この条約には後述するような様々な事項がありましたが、もっとも重要なのは「清国が朝鮮を独立国として認める」ということでした。下関条約の第1条には「清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確...

  • 日清戦争と三国干渉 その3

    日清戦争に対し、欧米の新聞の大多数が清国の勝利を予想した一方で、我が国民は「朝鮮の独立を助ける義戦である」とこぞって評価しました。福沢諭吉がかつて咸臨丸(かんりんまる)に同乗させてもらった恩人の子が出征(しゅっせい)した際に「もし討ち死にしてもご両親のことは心配なさらぬように」と手紙を書いたほか、後に日露戦争に反対した内村鑑三(うちむらかんぞう)でさえ、英文で「日清戦争の義」を世界に発信しました。...

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