chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
フォロー
住所
北区
出身
北区
ブログ村参加

2012/08/07

arrow_drop_down
  • 占領下の皇室と国民 その3

    以前にも述べたように、GHQは我が国と神道(しんとう)のつながりを断ち切るため、国家が神道を支援したり、あるいは普及させたりすることを禁止する「神道指令」を昭和20(1945)年12月に発しましたが、その次の段階として、天皇の神格化を否定しようと考えました。しかし、これをGHQの主導で無理やり行えば、日本国民の反発を招き、占領政策に悪影響となるのは確実でした。このため、GHQは昭和天皇があくまでも「自主的」に神格...

  • 占領下の皇室と国民 その2

    昭和天皇は、昭和20(1945)年9月に初めてGHQのマッカーサー元帥(げんすい)とご会見なさった以降も、合計11回にわたって訪問され、我が国への食糧供給などをご要望されるなど、常に国民のために無私の行動をなさっておられました。ところで、昭和天皇は昭和21(1946)年の元日に「新日本建設ニ関スル詔書(しょうしょ)」を発布なされましたが、今日ではこれが昭和天皇による「人間宣言」とされ、自ら「天皇の神格化を否定した」...

  • 占領下の皇室と国民 その1

    占領政策の遂行(すいこう)のために天皇を戦争犯罪人としなかったGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)でしたが、その一方で日本の国体(=国家としての体制のこと)の将来的な破壊を視野に入れ、皇室に対して容赦のない様々な改革を断行しました。GHQは、昭和20(1945)年11月に皇室財産の凍結を指令すると、翌昭和21(1946)年11月に公布された日本国憲法の第8条で「皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しく...

  • 【ハイブリッド方式】第96回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年5月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、今回から会場が貸会議室プランセカンスに変更となるほか、メインの主催者が「国防を考える会」となります。QRコードはこちらです。(クリック...

  • 食糧危機とインフレーション その6

    競争社会の中では、いかにして生産性を向上するかが重要であり、そのカギを握っているのが、絶え間なく続く技術革新(=イノベーション)などによる変化です。オーストリアの経済学者シュンペーターは「馬車を何台つなげても汽車にはならない」と述べ、経済発展の原動力は、それまでの方法を破壊して新しい方法を創造していく「創造的破壊」の上で成り立つと説きました。生産性の劇的な向上にはイノベーションが必須ですが、いくつ...

  • 食糧危機とインフレーション その5

    さて、先述した傾斜生産方式が一定の成功を収め、我が国の生産力が向上したことで、昭和25(1950)年に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した際に「特需景気」が起きて、我が国の経済が急速に回復しました(詳しくはいずれ後述します)。要するに、傾斜生産方式は当時の我が国にとってベストな選択であったともいえるのですが、資材と資金を石炭や鉄鋼などの重要産業部分に集中させた実態は、社会主義政策に見られる「計画経済」そのもの...

  • 食糧危機とインフレーション その4

    ところで、戦後の昭和20(1945)年に労働組合法が制定されるなど、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)が労働組合を結成しやすい環境を形成したこともあって、労働争議が続発するようになりました。こうした流れを受けて、民主革命を目指した日本共産党と産別会議の指導によって全官公庁共同闘争委員会に結集した官公庁労働者を中心に、当時の第一次吉田内閣打倒をめざし、昭和22(1947)年2月1日を期して鉄道や電信など基幹産業...

  • 食糧危機とインフレーション その3

    我が国の生産力は終戦直後に上昇しましたが、資材不足や石炭・電力不足のため、鉄鋼や化学などの基礎部門で停滞し始めました。このため、当時の第一次吉田茂(よしだしげる)内閣は経済安定本部を設置し、昭和22(1947)年には資材と資金を石炭や鉄鋼などの重要産業部分に集中させる傾斜(けいしゃ)生産方式を採用したほか、復興金融公庫を創設して、電力や海運などを含めた基幹産業への資金提供を行いました。翌昭和23(1948)年...

  • 食糧危機とインフレーション その2

    戦争が終わって軍需工場が閉鎖され、また軍人の復員や外地からの引揚げ者が増大したことで、多数の失業者が街にあふれるとともに、国民は極度の物資不足にあえぐようになりました。そんな折に、敗戦直後に臨時軍事費が大量に支払われたり、生活に不安を感じた多くの人々が預金を引き出ししたりしたことによって、日本銀行の対民間貸出しが増加するなど、戦後処理にともなって政府が通貨を増発しました。物不足で供給が停滞している...

  • 食糧危機とインフレーション その1

    さて、長引いた戦争は国民生活に壊滅的(かいめつてき)な打撃を与え、多くの都市が空襲で焼け野原になったほか、鉱工業の生産力は戦前の3分の1の水準にまで落ち込みました。当時のコメの重要な供給地であった台湾や朝鮮を失った我が国は、徴兵や徴用による農家の労働力不足や生産資材の不足などによって、戦時中から続いていた食糧難を悪化させたのみならず、戦争が終結した昭和20(1945)年の記録的な凶作が拍車をかけました。政...

  • 経済面の占領政策 その7

    労働者の権利の制限が低賃金などの不満や消費の低迷による国内市場の狭さをもたらし、結果として我が国の対外への侵略行為につながると判断したGHQは、日本での労働基本権を確立するとともに、労働組合を結成しやすい環境を形成しようとしました。これを受けて昭和20(1945)年に労働組合法が制定され、公務員を含めた労働者に団結権・団体交渉権・争議権が保障されたほか、昭和21(1946)年に制定された労働関係調整法では、労働...

  • 経済面の占領政策 その6

    また戦前には、どの村や町にも大抵は大きな屋敷があって、地方における文化の発信地となっていましたが、その多くが大地主でした。しかし、その大地主が没落したことで、地方における富裕層がいなくなるとともに、担(にな)い手を失った地方の文化が絶滅の危機に瀕(ひん)してしまったのです。実際には不徹底で終わったものの、GHQが財閥を解体して我が国の経済力を大幅に削減しようと考えたように、大地主の没落はそのまま地方...

  • 経済面の占領政策 その5

    GHQの命令による第二次農地改革によって、我が国の小作地率は昭和15(1940)年の45.5%から昭和25(1950)年には10.1%にまで減少し、その分自作農は大幅に増えました。こうした結果から、農地改革は「日本で成功した改革」のひとつに数えられることが多いようです。確かに「地主の廃止」は小作人を喜ばせて裕福にしましたから、貧者による「共産革命」が起きずに済んだのかもしれません。しかし、長い目で歴史を見れば、全国の大...

  • 経済面の占領政策 その4

    日本における封建的な寄生地主制度などが農民層の窮乏化(きゅうぼうか)をもたらし、民主化を妨(さまた)げているとみなしたGHQは、昭和20(1945)年12月に農地改革についての覚書の指令を日本政府に出しました。これを受けて、当時の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣は農地調整法を改正し、在村地主の保有限度を5町歩(ちょうぶ、約5ヘクタール)に制限した「第一次農地改革」を始めましたが、我が国の共産主義化を目論...

  • 経済面の占領政策 その3

    当初は我が国に対する徹底的な封じ込め政策が目指された占領政策でしたが、米ソによる冷戦や東アジアの共産主義化への懸念から、日本を共産主義への防波堤として存続させた方が有益であると判断したGHQは、次第に日本の経済自立主義の方針へと転じました。例えば、昭和23(1948)年2月に325社が過度経済力集中排除法の指定を受けましたが、実際に分割されたのは11社に過ぎませんでした。また、独占禁止法についても、その後の改正...

  • 経済面の占領政策 その2

    GHQからの財閥解体の指令を受けた政府は、昭和20(1945)年11月24日に会社制限令を公布し、会社の解散や資産の処分に大蔵大臣の許可を必要と定め、財閥や大企業の資産凍結を図ったうえ、昭和22(1947)年までに1,200社余りを制限会社に指定しました。翌昭和21(1946)年8月には持株会社整理委員会が始動し、財閥の所有する株式や有価証券を譲り受けて一般に売却するなど、財閥解体の執行機関として活動しました。さらに、昭和22(1...

  • 経済面の占領政策 その1

    公職追放によって我が国の多くの有益な人材を駆逐(くちく)したGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)が、日本弱体化政策の一環として次に目指したのは「財閥(ざいばつ)解体」と「土地政策」でした。「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」ことを理想とした共産主義の思想者にとって、財閥の存在は「許されざる宿敵」でしたが、同時にGHQの立場からも日本の財閥は「アメリカ全体の敵」に見えまし...

  • 政党の復活 その2

    昭和20(1945)年11月、旧立憲政友会の流れをくむ鳩山一郎(はとやまいちろう)を総裁として日本自由党が結成されると、同年12月に制定された新選挙法によって、満20歳以上のすべての男女に選挙権が与えられた後に初めて実施された昭和21(1946)年の戦後初の衆議院総選挙において139議席を獲得し、第一党となりました。日本自由党は、同じく昭和20(1945)年11月に旧立憲民政党の流れをくむ大日本政治会の後継政党として結成され...

  • 政党の復活 その1

    ※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(6月12日までの予定)。昭和20(1945)年10月のGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)の指令によって釈放された徳田球一(とくだきゅういち)らを中心に日本共産党が合法政党として再建されると、ソ連(現在のロシア)のコミンテルンの指示を受けた「32年テーゼ」に基づいた「天皇制打倒」の主張を占領軍が黙認したこともあり、共産党は学界や教育界・労働界を中心に急速にその勢力...

  • 飛鳥文化 その4

    ※「第95回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(5月14日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(6月12日までの予定)。法隆寺は7世紀後半に一度火事で消失しましたがその後再建され、寺院の一部は世界最古の木造建築として残っており、平成5(1993)年には「法隆寺地域の仏教建造物」が我が国で初のユネスコの世界文化遺産として登録されました。仏教の信仰によって、数多くの仏像が造られました。中でも...

  • 飛鳥文化 その3

    仏教の発展によって、6世紀末から7世紀前半にかけて数多くの寺院が建てられました。なお、寺院は古墳にかわって豪族の権威を象徴するものであり、礎石(そせき、建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと)の上に丹塗(にぬり、朱色で塗ること)の柱を立てて、屋根に瓦(かわら)を葺(ふ)く建築技法が用いられました。聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また蘇我馬子が飛鳥...

  • 飛鳥文化 その2

    ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋との間で、前回(第94回)の講座で紹介したように587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続きました。思いあまった聖徳太子...

  • 飛鳥文化 その1

    さて、聖徳太子が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、チャイナの南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗の高僧であった恵慈(えじ)に学び、法華経(ほ...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その6

    今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その5

    今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その4

    藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その3

    文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その2

    平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...

  • 聖徳太子をめぐる昨今の諸問題 その1

    さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子」と名付けられたという話がありますが、同じように「馬小屋の前で母親が産気づいた」とされるイエス=キリストとの共通性に興味を惹(ひ)...

  • 聖徳太子の外交 その9

    ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用しないということが、聖徳太子と高句麗に対する隋の態度の大きな違いを見ればよく分かりますね。我々日本人には、かねてより清廉...

  • 聖徳太子の外交 その8

    明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、チャイナの君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字...

  • 聖徳太子の外交 その7

    裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?

ハンドル名
黒田裕樹さん
ブログタイトル
黒田裕樹の歴史講座
フォロー
黒田裕樹の歴史講座

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用