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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 【ハイブリッド方式】第91回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和4年7月)

    黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...

  • 大東亜戦争の始まり その1

    先述のとおり、昭和16(1941)年12月8日(日本時間)に日米開戦となりましたが、開戦直後に日本政府は、この戦争の名称を、昭和12(1937)年に始まった日華(にっか)事変(=日中戦争)も含めて「大東亜戦争」と命名したほか、自存自衛と東亜新秩序の建設をその目的と定め、戦争の遂行(すいこう)に欠かせない資源を確保するために、アメリカやイギリス、あるいはオランダが植民地を有する南方諸地域への進出を強めました。日本...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その11

    さて、ここまでフランクリン=ルーズベルト大統領のアメリカに対する功績などを振り返りましたが、その一方で、当時の我が国にルーズベルト大統領の工作や謀略などに太刀打ちできるだけの人材が存在しなかったことが、当初は望んでもいなかった日米開戦を行わざるを得なかったという歴史の流れにつながったとも考えられます。繰り返しますが、私たち日本国民が、ルーズベルト大統領による一連の手法を「卑劣」であると一方的に断じ...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その10

    これらの歴史の流れを考慮すれば、フランクリン=ルーズベルト大統領が手段を選ばずにアメリカの国益だけを追求したからこそ、経済復興を成し遂げることができたのは間違いなく、その意味においては、ルーズベルト大統領が「アメリカの最高責任者」としての役割を十分に果たしたと言えるでしょう。ただし、アメリカのもう一つの悲願であった「東アジアにアメリカの権益を構築する」ことは、ルーズベルト大統領が1945(昭和20)年に...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その9

    1933(昭和8)年にアメリカ大統領に就任したフランクリン=ルーズベルトは、世界恐慌(きょうこう)がもたらした不況にあえぐアメリカ経済を立て直すためにニューディール政策を始めましたが次第に行きづまり、失業者が増加するなど経済的に疲弊(ひへい)していました。こうした事態を打開するためには、イギリスの要請を受けて第二次世界大戦に参加し、戦争がもたらす様々な特需によって経済を発展させるしかないとルーズベルト...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その8

    ところで、先制攻撃させるよう我が国を過剰に追いつめただけでなく、真珠湾攻撃の際に自国の兵士数千人を「見殺し」にしたフランクリン=ルーズベルト大統領の当時の行動に対して、私たち日本人の多くが卑劣であると強く思うのは分からなくもありません。しかし、大統領の行動を卑劣と感じるということは、裏を返せば、我々が第二次世界大戦当時から「全く成長していない」ことを示している、とも言えるのではないでしょうか。なぜ...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その7

    当時のイギリスは、勢いに乗るドイツの攻撃によって、本土を空爆されるなど追いつめられていました。こうした事態を打開するためには、アメリカをヨーロッパ戦線に引き込む以外にないと覚悟を決めたチャーチル首相は、フランクリン=ルーズベルト大統領と連携(れんけい)して、日本にアメリカを先制攻撃させるよう仕向けてきました。そして我が国が真珠湾攻撃を行うと、チャーチルは「これで戦争に勝った」と心から喜ぶとともに「...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その6

    では真珠湾攻撃が行われた前後に、アメリカの最高責任者であるフランクリン=ルーズベルト大統領は何をしていたのでしょうか。暗号の解読によって事前に攻撃されるのが分かっている以上、ルーズベルト大統領をはじめ政府首脳は、日本軍による攻撃の回避や、あるいはアメリカからの先制攻撃の可能性を探るなど、それこそホワイトハウスに缶詰状態となって最大限の努力を重ねるのが当然のはずです。しかし、実際に彼が攻撃前夜に取っ...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その5

    もしフランクリン=ルーズベルト大統領が、我が国による真珠湾攻撃を事前に察知していたのであれば、かけがえのない自国民や兵隊らを守るために最大限の努力をするのが当然のはずですが、現実に彼がとった行動は、疑問符が付くようなことばかりでした。まず真珠湾攻撃の以前、アメリカがハル・ノートを我が国に通告した直後に、真珠湾を母港とする2隻(せき)の航空母艦(=空母)すべてが、本国の命令によって新鋭艦を伴って出港...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その4

    さて、これまでに述べたように、昭和16(1941)年12月8日に我が国がハワイの真珠湾を攻撃したことによって、日米はついに開戦を迎えることになりました。その際、我が国の大使館員の怠慢によって、フランクリン=ルーズベルト大統領が「日本軍による騙し討ち」と喧伝して「リメンバー・パールハーバー」と唱えたことで、それまで反戦気分の強かったアメリカ国民の我が国に対する敵愾心(てきがいしん)を一気に高め、国家を挙げて...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その3

    我が国が奇襲で真珠湾攻撃を行ったと「誤解」されたこと自体は、戦後に開かれた極東国際軍事裁判(=東京裁判)において「日本が真珠湾攻撃を事前に通告する意思があった」と認められましたが、こうした「日本に有利な事実」は、我が国や世界の常識となる機会に恵まれず、フランクリン=ルーズベルト大統領が喧伝した「リメンバー・パールハーバー」の精神が今もなおアメリカの間で広がりを見せています。一方、これだけの弁解の余...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その2

    開戦前日(現地時間で12月6日)の午前中に、外務省は野村吉三郎(のむらきちさぶろう)駐米大使に向けて、「これから重大な外交文書を送るから準備しておくように」という予告電報を送りました。当時は開戦前夜の雰囲気(ふんいき)がいやがうえにも高まっていることから、万全の態勢を整えて電報の到達を待つのが常識のはずでした。ところが、日本大使館の職員が、同僚の送別会を行うために総出で引き上げてしまったことで、国交...

  • 真珠湾攻撃に秘められた真実 その1

    ※今回より「昭和時代・戦中」の更新を開始します(8月10日までの予定)。昭和16(1941)年12月8日(日本時間)、山本五十六(やまもといそろく)司令長官率いる日本海軍連合艦隊は、ハワイ真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を攻撃しました。かくして日米両国がついに戦争を始めた訳ですが、日本軍による真珠湾攻撃を「卑怯(ひきょう)な奇襲」とフランクリン=ルーズベルト大統領が主張したことによって、アメリカの世論は...

  • 室町文化 その16

    ※「第90回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月20日)からは「昭和時代・戦中」の更新を開始します(8月10日までの予定)。ところで、この当時の一向宗や日蓮宗、さらには比叡山延暦寺の天台宗(てんだいしゅう)といった宗教勢力同士の争いの背景には、布教地における莫大な利権がありました。宗教勢力は、布教地の要所ごとに関所を置いて通行税を徴収したり、あるいは布教地に座(ざ)を設けて、商売を許可...

  • 室町文化 その15

    一方、当初は東国を中心に発展した日蓮宗(にちれんしゅう、または法華宗=ほっけしゅう)は、室町時代には京都にも勢力を伸ばしましたが、蓮如と同じ頃に出た日親(にっしん)は、他の宗派を厳しく非難したことでしばしば迫害を受けました。日親が6代将軍の足利義教の前で説法(せっぽう)した際には、激怒した義教に煮えたぎった熱い鍋を頭からかぶせられたという伝説が残っています。京都の商工業者を中心に支持を受けた日蓮宗...

  • 室町文化 その14

    鎌倉仏教の一つである浄土真宗(じょうどしんしゅう)は「一向宗(いっこうしゅう)」とも呼ばれ、室町時代には農民から運送業者や行商人あるいは手工業者などにも広まりました。本願寺(ほんがんじ)の蓮如(れんにょ、別名を兼寿=けんじゅ)は、応仁の乱の頃に「阿弥陀仏(あみだぶつ)の救いを信じれば誰でも極楽往生(ごくらくおうじょう)できる」という教えを「御文(おふみ)」と呼ばれた平易な文章で説いて、各地で「講(...

  • 室町文化 その13

    鎌倉時代に広まった新仏教の各派は、室町時代に入ると教団としての組織を完成させ、武士や庶民に、そして都市や農村へと勢力を拡大していきました。当初は幕府の保護を受けた臨済宗の五山が大いに栄えましたが、応仁の乱などで幕府が衰退すると、その勢いが失われていきました。これに対して、より自由な活動を求めて地方への布教を目指した禅宗諸派が、地方の武士や庶民の支持を受けて各地に広がっていきました。禅宗諸派は「叢林...

  • 室町文化 その12

    応仁の乱によって京都が焼け野原になり、公家や僧侶(そうりょ)が戦火を逃れて続々と地方へ下るようになると、領国の内政が充実して中央の文化を受け入れるだけの余裕が生まれていた戦国大名などの地方の武士が積極的に彼らを迎えたことで、戦国時代の頃には文化が地方にまで広がっていきました。なかでも日明貿易で莫大(ばくだい)な利益を上げていた周防(すおう、現在の山口県東部)の大内氏が有名であり、本拠地の山口では儒...

  • 室町文化 その11

    南北朝時代に和歌と同様の地位を築いた連歌は、応仁の乱後に宗祇(そうぎ)が全国を回って普及に努め、正風連歌(しょうふうれんが)を確立しました。宗祇が編集した「新撰莬玖波集(しんせんつくばしゅう)」が先述した二条良基の「莬玖波集」と同様に勅撰(ちょくせん、天皇や上皇の命令で歌集などを編集すること)に準ぜられたほか、弟子たちと詠(よ)みかわした連歌を集めて「水無瀬三吟百韻(みなせさんぎんひゃくいん)」を...

  • 室町文化 その10

    室町時代には、惣村(そうそん)の成立などによって庶民の社会的地位が向上したこともあって、それまでの武家や公家のみならず、庶民が文化の担い手として広く参加するようになりましたが、それらはやがて地方へも波及して、近世の我が国の文化の基礎ともなっていきました。当初は3代将軍足利義満の保護を受けるなど上流社会に愛好された能も、時が経つにつれてより素朴(そぼく)で娯楽性(ごらくせい)が強いものが各地の祭礼な...

  • 室町文化 その9

    我が国の伝統文化を代表する茶道(ちゃどう、または「さどう」、別名を茶の湯)や花道(かどう、別名を華道=かどう、あるいは生花=いけばな)も、この時代に基礎がつくられました。茶の湯では、奈良の村田珠光(むらたじゅこう)が質素な茶室で心の平静を求めるという茶と禅による精神の統一を主張した侘茶(わびちゃ)を始めました。この後、侘茶は堺の武野紹鴎(たけのじょうおう)が発展させ、千利休(せんのりきゅう)によっ...

  • 室町文化 その8

    書院造のような新しい住宅様式の成立は、掛軸(かけじく)や襖絵(ふすまえ)などの絵画や、床の間を飾る生花(いけばな)や工芸品などの座敷の装飾を発展させる効果をもたらしました。絵画では、北山文化で発達した水墨画が、この頃に活躍した僧の雪舟(せっしゅう)が日本的な水墨画様式を創造して全盛期を迎えました。また大和絵(やまとえ)では応仁の乱後に土佐光信(とさみつのぶ)が出て土佐派を再興したほか、狩野正信(か...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和4年7月)

    黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 室町文化 その7

    北山文化で開花した室町文化は、その芸術性が生活の中に取り込まれたことで新たな独自の文化を根付かせました。義満の孫にあたる8代将軍足利義政は、政治的には応仁の乱の原因をつくるなど失策ばかりでしたが、その一方で京都の東山に「銀閣(ぎんかく)」を建てました。現在は慈照寺(じしょうじ)として知られる銀閣は、書院造(しょいんづくり)と禅宗様の仏殿(ぶつでん)から成り立っており、当時の文化を象徴する建築である...

  • 室町文化 その6

    神事(しんじ)芸能として平安後期の院政時代から行われてきた田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)などが能楽(のうがく)という舞台芸術として大成されたことで、多くの人々に親しまれるようになったのも北山文化の頃でした。能の発達は、やがて寺社の保護を受けて専門的に能を演じる能楽師(のうがくし)を生み出し、興福寺(こうふくじ)などを本所とした観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金春(こんぱる)・金剛(こんごう...

  • 室町文化 その5

    五山の禅僧にはチャイナからの渡来(とらい)僧やチャイナから帰国した留学僧が多かったことから、彼らの間で宋学(そうがく)の研究や漢詩文の研究が盛んとなり、義満の頃に中巌円月(ちゅうがんえんげつ)や絶海中津(ぜっかいちゅうしん)、義堂周信(ぎどうしゅうしん)らの学僧によって「五山文学」が成立しました。また、宋からもたらされた木版(もくはん)に文章や絵を彫(ほ)って版をつくる木版技術によって禅の経典や漢...

  • 室町文化 その4

    室町幕府3代将軍の足利義満は、京都の北山に壮麗(そうれい)な山荘である北山第(きたやまてい、別名を北山殿=きたやまどの)を建てましたが、そのうちの「金閣(きんかく)」は我が国の伝統的な寝殿造(しんでんづくり)と禅宗寺院の禅宗様(ぜんしゅうよう)とを折衷(せっちゅう)したものであり、当時の文化を代表する建築として知られていることから、この時代の文化を「北山文化」といいます。鎌倉時代に栄西によって武家...

  • 室町文化 その3

    「此頃(このごろ)都(みやこ)ニハヤル物 夜討(ようち) 強盗 謀(にせ)綸旨(りんじ、側近が出す天皇の命令書のこと)」で始まる「二条河原落書(にじょうがわらのらくしょ)」は、建武の新政当時の混乱する政治や社会を風刺(ふうし)した落書(らくしょ)として有名ですね。南北朝時代の頃までには、和歌における「五・七・五・七・七」の韻律(いんりつ)を基盤として複数の作者が連作する形式でつくられた「連歌(れんが...

  • 室町文化 その2

    朝廷が二つに分裂した南北朝の動乱期には、激しい戦いが続いたことによって高まった緊張感や、南朝に悲劇がもたらされたという複雑な歴史が、様々な特色をもった歴史書や軍記物語などの文学作品を生み出しました。後醍醐(ごだいご)天皇の信任が厚かった南朝の公卿(くぎょう)の北畠親房(きたばたけちかふさ)は、伊勢神道(いせしんとう)の理論を背景として、南朝の立場から我が国の長い歴史を通じて皇位が継承されてきたこと...

  • 室町文化 その1

    室町時代の文化には、南北朝の動乱期を背景とした南北朝文化や3代将軍の足利義満の時代を中心とした北山(きたやま)文化、8代将軍足利義政の時代を中心とした東山(ひがしやま)文化があります。これらの文化の大きな特徴として、それまで東国を中心に栄えていた武家文化が、室町幕府が京都に置かれたことで公家(くげ)文化と融合したほか、我が国の伝統的な文化が、明や朝鮮など東アジアとの活発な交流に伴って大陸文化と融合し...

  • 朝鮮・琉球・蝦夷との交易 その4

    一方、蝦夷地(えぞち)では、14世紀の頃に渡島(おしま)半島在住のアイヌが津軽との間を往来して、鮭・昆布・毛皮などの北海の産物を我が国にもたらしていました。これらは津軽の十三湊(とさみなと、現在の青森県五所川原市)と畿内とを結ぶ日本海交易によって、京都にまで運ばれました。やがて奥州の住人の中から蝦夷ヶ島(えぞがしま)と呼ばれた北海道の南部に進出し、渡島半島に館(やかた)をつくって移住する人々も現れま...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和4年7月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 朝鮮・琉球・蝦夷との交易 その3

    15世紀に入った頃の沖縄島では、北山(ほくざん、別名を山北=さんほく)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん、別名を山南=さんなん)のいわゆる三山(さんざん)による勢力争いが続いていましたが、中山王の尚巴志(しょうはし)が永享(えいきょう)元(1429)年に三山を統一して、首里(しゅり)を王府とする琉球王国をつくり上げました。琉球は明との藩属国(はんぞくこく、明を宗主国とすること)の関係を保ちながら我が国...

  • 朝鮮・琉球・蝦夷との交易 その2

    朝鮮は日朝貿易のために富山浦(ふざんほ、現在の釜山=ふざん)・乃而浦(ないじほ、別名を薺浦=せいほ)・塩浦(えんぽ、現在の蔚山=うるさん)の三浦(さんぽ、三つの港のこと)を開いて、また我が国からの使節の接待と貿易の管理を行うために、首都の漢城(かんじょう、別名を漢陽=かんよう、現在のソウル)に倭館(わかん)を設けました。日朝貿易は、応永26(1419)年に朝鮮が倭寇の本拠地を対馬と誤認して襲撃した「応永...

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