chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
フォロー
住所
北区
出身
北区
ブログ村参加

2012/08/07

  • 初期の外交問題と領土の画定・後編 その5

    現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...

  • 初期の外交問題と領土の画定・後編 その4

    それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...

  • 初期の外交問題と領土の画定・後編 その3

    清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...

  • 初期の外交問題と領土の画定・後編 その2

    廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...

  • 初期の外交問題と領土の画定・後編 その1

    自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...

  • 初期の外交問題と領土の画定・前編 その7

    ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...

  • 初期の外交問題と領土の画定・前編 その6

    一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...

  • 初期の外交問題と領土の画定・前編 その5

    このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...

  • 初期の外交問題と領土の画定・前編 その4

    政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...

  • 初期の外交問題と領土の画定・前編 その3

    不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...

  • 初期の外交問題と領土の画定・前編 その2

    ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...

  • 初期の外交問題と領土の画定・前編 その1

    ※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...

  • 冷戦体制の崩壊 その20

    ※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...

  • 冷戦体制の崩壊 その19

    聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...

  • 冷戦体制の崩壊 その18

    また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...

  • 冷戦体制の崩壊 その17

    天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...

  • 冷戦体制の崩壊 その16

    ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中国は同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に対して無差別に発砲するな...

  • 冷戦体制の崩壊 その15

    大東亜戦争以前より我が国にとって最大の脅威となっていたソ連が消滅したことで、我が国の保守系の識者の多くは「これで我が国の思想や言論の流れが変わるだろう」と安堵(あんど)しました。しかし、そんな保守系の「油断」の隙を突くかたちで、左翼系の「進歩的文化人」と呼ばれた人々が自らの思想を満足させるために、ソ連解体以前から続けていた「日本の歴史から中国や韓国の好みそうな問題を取り上げ、両国に『御注進』する」...

  • 冷戦体制の崩壊 その14

    しかし、ロシア共和国大統領であったエリツィンの呼びかけもあってクーデターが失敗に終わり、それをきっかけにソ連共産党が事実上解体されると、ソ連そのものの弱体化が一気に加速しました。そして、同年12月までに「ソビエト社会主義共和国連邦」を構成していた共和国のすべてが独立を宣言したことでソ連は解体し、新たにロシア共和国などからなる独立国家共同体(=CIS)が誕生したのです。ソ連解体後の新生ロシアでは1917(大...

  • 冷戦体制の崩壊 その13

    国家財政の立て直しを図ったゴルバチョフ大統領はペレストロイカなどの改革を次々と行ったものの、経済の停滞は依然として続き、1990(平成2)年に入るとソ連都市部の食糧不足が深刻化するようになり、ゴルバチョフは西側諸国を訪問して経済援助を懇願(こんがん)しました。また、第二次世界大戦中にソ連に併合されたエストニア・ラトビア・リトアニアのいわゆる「バルト三国」がそれぞれ独立を主張するようになり、ソ連は軍事介...

  • 冷戦体制の崩壊 その12

    大東亜戦争で我が国は敗北しましたが、欧米列強の植民地であった東南アジアの国々は戦後に次々と独立を果たし、日本を目標に新たな国家の運営を行いましたが、経済大国となった我が国がアジア全体にその技術力を伝授したことによって、マレーシアやインドネシアなども次々とハイテク製品をつくり、東欧諸国に輸出するようになりました。黄色人種どころか、自分たちが人間扱いしてこなかった旧植民地の被支配者層がつくった製品です...

  • 冷戦体制の崩壊 その11

    かつて我が国は明治維新から日清・日露戦争を経て、短期間で世界の大国にまで駆け上りました。しかし、それによって欧米列強の白色人種国家に目の敵(かたき)にされ、近代国家の運営に不可欠な石油を禁輸されたことなどをきっかけに我が国は大東亜戦争を戦い、そして敗れました。その後、占領期から朝鮮特需、そして高度経済成長を経て見事に復興を成し遂げ、世界有数の経済大国となった我が国は二度にわたる石油危機も乗り越え、...

  • 冷戦体制の崩壊 その10

    アメリカとの冷戦終結を実現したソ連のゴルバチョフは、同時に国内における改革を継続するため、1988(昭和63)年に憲法を修正して翌1989(平成元)年には国会に相当する人民代議員大会を開設すると、さらに翌1990(平成2)年には新設された大統領に自ら就任しました。しかし、アメリカと和解するために軍縮に踏み切ったことは、ソ連の軍事力が低下したと同時に、他の東欧諸国に対する締め付けが弱くなったことを意味していました...

  • 冷戦体制の崩壊 その9

    アメリカとの軍拡競争によって経済状況が極端に悪化したソ連でしたが、何とか体制を立て直そうとする政治家があらわれました。1985(昭和60)年に共産党書記長に就任したゴルバチョフです。就任当時54歳の若さだったゴルバチョフは、それまでの社会主義体制の立て直し(これを「ペレストロイカ」といいます)に着手し、情報公開(これを「グラスノスチ」といいます)を軸とした政治や社会の自由化を推進しました。また、アメリカと...

  • 冷戦体制の崩壊 その8

    私有財産を認めない社会主義国家では、経済の運営を国家が計画的に管理するという、いわゆる「計画経済」が行われました。ということは、仮に事業に成功しても国民は私産を一切得られませんし、それどころか、どれだけ頑張って働いたとしても、計画経済の下ではノルマのみを実現させた人間と同じ価値としか見られないのです。このような体制で、どうやって労働意欲を高められるというのでしょうか。計画経済が長く続いたことが必然...

  • 冷戦体制の崩壊 その7

    さて、ソ連との軍拡競争によって先述したように世界最大の債務国に転落したアメリカでしたが、自由主義(資本主義)国家であったことから、景気の回復などによって財政再建を実現できる余地が残されていました。なぜなら、自由主義社会を本当に回しているのは、他でもない資産家すなわち「金持ち」だからです。金持ちが産業を創造し、人を雇い、また贅沢(ぜいたく)をすることによって、国の資産が循環するとともに新たな文化が栄...

  • 【ハイブリッド方式】第102回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年5月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。メインの主催者である「国防を考える会」のQRコードはこちらです。(クリックで拡大されます)(クリックで拡大されます)第102回黒田裕樹の歴史講座...

  • 冷戦体制の崩壊 その6

    ところが、後述する冷戦の終結とソ連解体後の1990年代に入ると、それまで「世界の警察」を自任していたアメリカが、それに伴う国際的な非難や軍事費の莫大(ばくだい)な増強もあって、かつての勢いに陰りが見られるようになりました。我が国もバブル崩壊(詳しくは後述します)後の不況が長引いたこともあって、国内総生産(=GDP)が30年以上もほとんど上昇していないほど経済が停滞(ていたい)し続けましたし、またイギリスも...

  • 冷戦体制の崩壊 その5

    イギリスと日本との連携によって、アメリカはソ連との軍拡競争に結果として勝ち抜くことになったのですが、裏を返せば、1980年代後半の世界は日・米・英の3か国で動かすことが可能であったということを意味していました。なお、我が国が戦後に「国際情勢をも動かすことができる大国」として本格的に復活したのは中曽根内閣の頃からです。中曽根氏には「靖国(やすくに)神社への公式参拝を取りやめた」という大きな失点があり、評...

  • 冷戦体制の崩壊 その4

    さて、イギリスのサッチャー政権と協調したレーガン大統領でしたが、日本に対して貿易摩擦に対する厳しい姿勢を見せた一方で、外交面では我が国との関係をむしろ強めました。当時の我が国は中曽根康弘(なかそねやすひろ)首相の時代でしたが、中曽根首相はレーガンと愛称で呼び合う(いわゆる「ロン・ヤス」)ほどの関係を構築し、日米関係は一気に緊密化しました。レーガンが日本を味方に引き入れたのには大きな理由がありました...

  • 冷戦体制の崩壊 その3

    ソ連によるアフガニスタン侵攻を受けて、1981(昭和56)年に新たに共和党のロナルド・レーガンが大統領となったアメリカでは、大幅な減税や規制緩和による経済再建が図られました。また、当時のイギリスのサッチャー首相(保守党)は、経済に対する政府の過度の介入を避け、民間の活力に重きを置いた「小さな政府」をめざそうとする「新自由主義」を唱えていましたが、レーガンはサッチャー政権と協調したうえで「強いアメリカ」を...

  • 冷戦体制の崩壊 その2

    ソ連の暗躍(あんやく)によって親ソ政権が誕生したアフガニスタンでしたが、1979(昭和54)年9月に再びクーデターが起こって政権が倒れると、ソ連は同年12月にアフガニスタンに軍事介入を行いました。ソ連による軍事介入は、中東包囲網の一環であるアフガニスタンを手放さないというソ連の意思を世界に示すとともに、ソ連の武力進攻がこの後もあり得るという厳然たる事実を明らかにしましたが、北方領土におけるソ連の軍事力増強...

  • 冷戦体制の崩壊 その1

    ※今回より「平成時代」の更新を開始します(6月2日までの予定)。第二次世界大戦終結後から激しくなったアメリカとソ連による冷戦は、1962(昭和37)年のキューバ危機をきっかけとして核軍縮の動きがみられ、1970年代に入ってアメリカがベトナムから撤退する頃になると、米ソ両首脳は緊張緩和へと向かうようになりました。この動きを「デタント」といいます。しかし、デタントによってアメリカの国防費が低く抑えられたのに対して...

  • 文明開化 その6

    ※「第101回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(5月14日)からは「平成時代」の更新を開始します(6月2日までの予定)。文明開化の風潮が様々な分野での近代化をもたらしたことで国民の生活に大きな変化が起こりましたが、それらは決して良いことばかりではありませんでした。例えば、旧来の風習が文明開化によって一新されたことで、我が国の歴史や伝統を軽視する風潮が見られるようになり、仏像や浮世絵などの...

  • 文明開化 その5

    太陽暦の導入が国民に発表されたのは明治5(1872)旧暦11月9日(新暦12月9日)でした。新暦の正月まであと3週間という押しつまった時期に、何の前触れもなくいきなり知らされたのです。国民の生活に深くかかわった暦の変更は、多方面に様々な影響をもたらしました。すでに翌年の暦を販売していた業者が出版のやり直しを強(し)いられて大きな被害を受けた一方で、福沢諭吉が太陽暦の解説本を新たに発行してベストセラーになるとい...

  • 文明開化 その4

    政府が西洋の風俗を積極的に採用し、また推奨(すいしょう)したことで都市部を中心として国民の生活は大きく様変わりしました。始めは軍隊、後に官吏や巡査が着用したことがきっかけで洋服や靴の習慣が広まったほか、明治4(1871)年に政府が散髪令を出したことで、髷(まげ)を切った「ざんぎり頭」が増えました。「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という言葉が現代でも有名ですね。それ以外にも、牛鍋が人気とな...

  • 文明開化 その3

    明治維新の変革は、宗教界においても例外ではありませんでした。神道によって国民意識の統一をはかることを目指した政府は、明治元(1868)年に「神仏分離令」を出し、我が国古来の神仏習合を否定して神社から仏教色を排除しようとしました。しかし、政府のこうした動きは国民による仏教の否定にもつながり、全国各地で仏像が破壊されるなど「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の嵐が吹き荒れる騒ぎとなってしまいました。その後、明...

  • 文明開化 その2

    教育面では、明治4(1871)年に新設された文部省(現在の文部科学省)によって、翌明治5(1872)年にフランスにならった「学制(がくせい)」が公布され、「学問は国民が身を立て智をひらき産をつくるためのものである」とする近代的な実学主義による教育観が説かれたほか、政府は特に小学校教育に力を入れ、全国各地に小学校がつくられました。政府によるこうした「国民皆学」の精神は、経済的負担や子供の労働力が奪われることで...

  • 文明開化 その1

    欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐためには、西洋文明を積極的に取り入れることによって近代化を目指すことが重要であると考えた明治政府は、西洋の産業技術をはじめとして、社会制度や思想あるいは生活様式などを率先して取り入れましたが、こうした風潮は民間のジャーナリズムを通じて大都市を中心に広がり、国民の日常生活にまで大きな影響をもたらすようになりました。これを「文明開化」といいます。思想面では、それまでの...

  • 殖産興業 その3

    政府は新しい交通や通信の制度にも力を入れました。明治5(1872)年には新橋~横浜間に官営の鉄道が開通し、その後も神戸~大阪~京都間が結ばれました。海運業では土佐藩出身の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の経営する郵便汽船三菱会社が、国家機密である軍事輸送を行わせる目的もあり、政府の手厚い保護を受けて発展しました。岩崎の三菱は三井などとともに政府から特権を与えられ、やがて「政商」と呼ばれて海運や貿易・金融...

  • 殖産興業 その2

    当時の我が国の貿易の輸出品は生糸(きいと)が中心でしたが、貿易自体は大幅な赤字となっていたため、政府は明治5(1872)年に生糸の生産拡大を目指して群馬県に「富岡製糸場(とみおかせいしじょう)」を設けました。なお、富岡製糸場は平成26(2014)年にユネスコの世界文化遺産として登録されています。明治6(1873)年に設置された内務省は、警察組織だけでなく殖産興業にも大きな役割を果たし、各地に製糸や紡績(ぼうせき)...

  • 殖産興業 その1

    徴兵令の公布によって我が国の軍事力の基礎が固まりましたが、欧米列強に負けないくらいの兵力を養うためには「富国強兵(ふこくきょうへい)」といわれるように我が国の経済力を高める必要がありました。経済力を高めるには、生産力を増やして産業を盛んにすることが重要です。このため、政府は「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」に力を注いで産業の近代化を目指しました。まず政府は江戸時代までの封建的な制度を撤廃するため...

  • 地租改正と貨幣制度の改革 その5

    明治5(1872)年、政府は太政官札などと交換のために「明治通宝(めいじつうほう)」と呼ばれた新紙幣を発行しました。これによって国内における紙幣の統一が進みましたが、明治通宝もこれまでと同じく金貨や銀貨と交換不可能な不換紙幣でした。そこで政府は、商人など民間の力で金貨と交換できる「兌換(だかん、銀行券を正貨と引き換えること)銀行券」を発行させる目的で、同じ明治5(1872)年に渋沢栄一(しぶさわえいいち)が...

  • 地租改正と貨幣制度の改革 その4

    明治政府はその成立当初から財政難に苦しんでおり、京都や大坂の商人から300万両の御用金を徴発したほか、金貨や銀貨と交換ができない「不換紙幣(ふかんしへい)」であった太政官札(だじょうかんさつ)や民部省札(みんぶしょうさつ)を発行しました。しかし、成立したばかりの政府に対する信用が低かったので、紙幣の流通が滞(とどこお)るなど混乱したことや、4朱(しゅ)で1分(ぶ)、4分で1両(りょう)という貨幣単位が外...

  • 地租改正と貨幣制度の改革 その3

    地租改正の結果、全国同一の基準で収穫の豊凶にかかわらず金銭での地租の徴収が実現したことによって、近代的な税制が確立するとともに、政府の安定した財源の基礎となりました。しかし、政府が旧幕府の頃の年貢収入を維持することを前提として地価を定めたり、あるいは全国的な測量の際に地価に対する高額な査定を受けたりしたことで、農民の不満が高まりました。また、それまで共同で利用していた山林や原野などの入会地(いりあ...

  • 地租改正と貨幣制度の改革 その2

    土地制度の大変革を行った政府は、明治6(1873)年7月に「地租改正条例」を公布し、新たな地券制度を基本とする「地租改正」に着手しました。当初は農民の自己申告で作業が進められましたが、やがて太閤検地(たいこうけんち)以来の大規模な土地測量が全国で行われ、最終的に一億枚を超える地券を発行して明治14(1881)年までにほぼ完了しました。地租改正の主な内容は下記のとおりです。1.土地所有者、つまり地券の所有者を納...

  • 地租改正と貨幣制度の改革 その1

    欧米列強に負けない国づくりのためには近代化へ向けての様々な政策が不可欠ですが、そのためにも「先立つもの」である安定した財源の確保が最重要の課題でした。しかし、新政府の当初の主要な財源は、旧幕府の領地を没収したり、版籍奉還によって諸藩から得たりした年貢に頼っていたりしていました。年貢には、コメの作柄(さくがら)が年によって変動するほか、諸藩の税率もバラバラであったので、安定した税収入の確保が難しいと...

  • 近代的軍事制度の確立 その4

    軍事制度とともに、国内の治安を守るための警察制度も近代的な整備が進みました。明治4(1871)年に東京府で「邏卒(らそつ)」が置かれると、同年に正院の下に創設された「司法省」が警察権を管轄するようになりました。その後、明治6(1873)年に「内務省(ないむしょう)」が設置されると全国の警察組織は内務省に統括されるようになり、翌明治7(1874)年には東京に「警視庁(けいしちょう)」が創設されました。警視庁の設置...

  • 近代的軍事制度の確立 その3

    徴兵令によって、満20歳に達した成年男子全員が身分に関係なく3年間の兵役義務を負うという近代国家としての兵制が整えられましたが、現実に軌道に乗るまでには様々な紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。当初の徴兵令には様々な例外規定があり、戸主(こしゅ)や官吏・学生などは兵役が免除されていたほか、代人料として当時は高額だった金270円を納めた者も免除されており、中には「徴兵免役心得(ちょうへいのがるるのここ...

  • 近代的軍事制度の確立 その2

    しかし、我が国の軍事力を支えていた多くの武士をいきなり路頭(ろとう)に迷わせてしまえば、大混乱が起きるのみならず、諸外国の侵略を招くのは目に見えていました。また、欧米列強にも負けない近代的な軍隊を編成することも考えていた政府にとって、武士に頼らないためにも、すべての国民が兵役に服するべきであるとする、いわゆる「国民皆兵(かいへい)」が重要であると考えるようになりました。国民皆兵は、初代の兵部大輔(...

  • 近代的軍事制度の確立 その1

    欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐためには、近代的な軍事制度の充実も急務でした。明治4(1871)年に断行された廃藩置県に先立って、不測の事態に備えて編成された御親兵は翌明治5(1872)年に「近衛兵(このえへい)」として再編され、主として天皇周辺の警護を担当しました。また、廃藩置県によって全国の藩兵は解散させられましたが、一部は兵部省(ひょうぶしょう)の下で明治4(1871)年に東京・大阪・鎮西(ちんぜい、後...

  • 四民平等と士族の受難 その3

    秩禄処分によって、年間の5倍から14倍の額となる金禄公債証書が支給者に発行されましたが、5年間は現金化が禁止されたうえに、それ以後に証書が満期を迎えた後も、抽選に外れれば現金化できないという仕組みになっていました。しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった多くの士族が困窮(こんきゅう...

  • 四民平等と士族の受難 その2

    かくして「四民平等」が実現した一方で、政府は華族や士族に対して給与にあたる家禄(かろく)の支給を続けており、また維新の功労者にも賞典禄(しょうてんろく)を支給していました。これらの禄を合わせて「秩禄(ちつろく)」といいましたが、その支出額は国の歳出の約30%を占めており、政府にとって大きな負担になっていました。また、明治6(1873)年には「徴兵令」が定められたことで(詳細は後述します)、士族とは無関係...

  • 四民平等と士族の受難 その1

    ※「黒田裕樹の歴史講座」で記されている内容は、あくまで歴史的経緯あるいは事実に基づくものであり、現代につながるような差別を意図して表現したものではないことをあらかじめご承知おきください。 従来の封建的な身分制度の廃止を進めた明治政府は、明治2(1869)年に藩主や公家を「華族」、藩士や旧幕臣を「士族」、それ以外のいわゆる「農工商」の農民・町人を「平民」としました。また翌明治3(1870)年には平民も苗字(みょ...

  • 中央集権化の完成 その5

    版籍奉還から廃藩置県という中央集権化への流れのなかで、明治政府の組織の改革も進みました。版籍奉還が行われた明治2(1869)年、政体書による太政官制(だじょうかんせい)が改められ、かつての「大宝律令(たいほうりつりょう)」の形式を復活させました。すなわち、従来の太政官の外に、神々の祀(まつ)りをつかさどる神祇官(じんぎかん)を復興し、太政官の下に民部省(みんぶしょう)などの各省を置きました。その後、廃...

  • 中央集権化の完成 その4

    廃藩置県がスムーズに行われた根拠のひとつとして、約1万人の御親兵を準備していたというのが考えられますが、もっと大きな理由が別にありました。まず挙げられるのは、当時の多くの武士たちが持っていた「先祖代々続いてきた我が国を守らなくてはいけない」という強い使命感でした。ある意味「武士の集団自殺」ともいえる大事業は、一人ひとりの武士の気概(きがい)によって支えられていたのです。他の理由としては「経済的な事...

  • 中央集権化の完成 その3

    政府は、薩摩・長州・土佐から約1万人の御親兵(=政府直属の軍隊のこと)を集めて軍事力を固めたうえで、明治4(1871)年旧暦7月に東京在住の知藩事を皇居に集めて、明治天皇の詔(みことのり、天皇の言葉を直接伝える文書のこと)によって「廃藩置県」を一方的に断行しました。これによって、すべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免(ひめん)されて東京居住を命じられ、各府県には新たに中央政府から「府知事」や「県令...

  • 中央集権化の完成 その2

    版籍奉還の後、旧藩主は新たに「知藩事(ちはんじ)」に任命され、そのまま藩政を行いました。つまり、版籍奉還によって藩は領地や領民は返上したものの、徴税や軍事といった政治の実権は従来どおり知藩事たる旧藩主が握ったということを意味していました。藩が持っていた「領地」「領民」「政治の実権」のうち、政府が領地と領民を返上させる一方で政治の実権を藩に残した背景には、いきなりすべての権利を奪(うば)ったのでは各...

  • 中央集権化の完成 その1

    さて、明治政府は戊辰(ぼしん)戦争などによって没収した旧幕府領を直轄地(ちょっかつち)としたほか、東京・大阪・京都などの要地を「府」とし、その他を「県」としましたが、諸藩は各大名が従来どおり統治することを認めていました。しかし、欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには権限と財源の政府への一元化を、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために「中央集権化」を目指す必要がありました。...

  • 明治新政府の発足 その8

    明治元(1868)年旧暦7月、明治天皇の名において江戸は「東京」と改められ、東京府が置かれました。翌8月には京都で明治天皇の即位の礼が行われ、翌9月8日には元号がそれまでの慶応(けいおう)から「明治」へと改められました。明治の元号は慶応4年旧暦1月1日からさかのぼって適用され、以後は天皇一代につき元号一つと決められました。これを「一世一元(いっせいいちげん)の制」といいます。一世一元の制によって、天皇が交代...

  • 明治新政府の発足 その7

    ところで、桓武(かんむ)天皇が延暦(えんりゃく)13(794)年に平安京へ遷都(せんと)されて以来、一時的な例外を除いて京都は我が国の首都でしたが、大政奉還から王政復古の流れのなかで、政治の刷新という意味も込めて新しい首都を定めようという雰囲気(ふんいき)が高まりました。新政府の内部では、大久保利通(おおくぼとしみち)が大坂(=現在の大阪)への遷都を主張しましたが、江戸城が無血開城となり、江戸の街が戦...

  • 明治新政府の発足 その6

    五箇条の御誓文で新しい政治の基本方針を示した明治政府でしたが、その一方で、国内の治安維持をどうするかということも緊急を要する課題でした。幕末以来の政治の激変が深刻な社会不安をもたらしたところへ、曲がりなりにも260年以上続いていた幕府が崩壊(ほうかい)したことによって、さらなる混乱が予想されたからです。そこで、政府は応急の措置(そち)として、五箇条の御誓文が発表された翌日の明治元(1868)年旧暦3月15日...

  • 明治新政府の発足 その5

    明治元(1868)年旧暦閏(うるう)4月、新政府は「政体書(せいたいしょ)」を公布し、五箇条の御誓文で示された方針に基づく政治組織を整えました。具体的には、王政復古の大号令で定められた総裁・議定(ぎじょう)・参与のいわゆる「三職」を廃止し、太政官(だじょうかん)にすべての権力を集中させ、その下に立法権を持つ議政官(ぎせいかん)・行政権を持つ行政官・司法権を持つ刑法官を置くとする「三権分立制」を採り入れ...

  • 明治新政府の発足 その4

    御誓文には、明治新政府の当面の基本方針を「天皇が神々に誓われる」という形式にすることによって、国民に信頼感や安心感を与えるという意味も込められていました。そして、それだけの覚悟を決めたマニフェストは簡単に破ることが許されず、絶対に実行しなければならないものだったのです。なお、御誓文の内容は参与の由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)が起草したものに、木戸孝允(きどたかよし)が修正を...

  • 明治新政府の発足 その3

    明治元(1868)年旧暦1月、新政府は兵庫に欧米列強の代表を集め、王政復古と今後は天皇が外交を親裁(しんさい、君主が自分で裁決すること)することを通告するとともに、旧幕府が列強と結んだ条約を引き継ぐことを約束して対外関係を整理しました。新政府からすれば、自分たちが政治の実権を握る前に江戸幕府が諸外国に無理やり結ばされた不平等条約など引き継ぎたくはありませんでしたが、政権が交代しても国家間のルールをその...

  • 明治新政府の発足 その2

    「このままでは我が国も他国の植民地とされてしまうのではないか」という強い危機感をもった明治新政府は、欧米列強と肩を並べるためにも一刻も早い近代国家としての確立を目指さなければなりませんでした。しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府がいくら優れた政策を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。そこで、新...

  • 明治新政府の発足 その1

    ※今回より「第101回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。ペリーによる黒船来航のいわゆる幕末の頃から、明治新政府によって我が国が近代国家として新たな歩みを始める一連の歴史の流れを一般的に「明治維新」といいますが、当時は「御一新」と呼ばれました。徳川家による江戸幕府の「大政奉還(たいせいほうかん)」から「王政復古の大号令」を経て政治の実権を握った明治新政府でしたが、その前途は多難であり、...

  • プロパガンダは近現代史だけとは限らない その3

    ※「第100回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(4月10日)からは「第101回歴史講座」の内容を更新します(5月13日までの予定)。物事には「プラスとマイナス」があり、また「光と影」があります。それは歴史においても例外ではなく、両方をバランスよく学ぶことで「本当の歴史」を初めて理解できるはずです。しかし、今の歴史教育はあまりにも「マイナス」や「影」の部分を強調し過ぎではないでしょうか。一方的...

  • プロパガンダは近現代史だけとは限らない その2

    4世紀には「朝廷」がなく、また「天皇」も当時は「大王(おおきみ)」と呼ばれていたのだから、政権の名前は「ヤマト王権」こそが正しいのであり、また「自分の陵(みささぎ)の建設に際して国民を強制的に労働させた」仁徳天皇のような人物の古墳が今も存在するかどうかは非常に疑わしく、さらには聖徳太子も存在せず、中国の皇帝を怒らせた「厩戸王」を美化しただけに過ぎないということになります。鎌倉幕府は源頼朝が守護や地...

  • プロパガンダは近現代史だけとは限らない その1

    私が歴史教育の世界に身を投じて間もなく16年を迎えますが、これまでに積み重ねてきた経験を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけとは限らない、ということです。今回の講演で述べた数々の歴史的事実を、もし「自虐史観」に染まりきった内容で語って、いや「騙(かた)って」しまえば、果たしてどのような表現になってしまうのでしょうか。日本の起源はいわゆる「世界四大文明」よりも遅れており、...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その10

    秀吉が死亡した慶長3(1598)年にさかのぼること10年前の1588年、イスパニアの無敵艦隊がイギリスとのアルマダの海戦で敗北しました。この戦いは、イスパニアとイギリスとの勢力が逆転するきっかけとなり、これ以降のイスパニアは東洋に軍事力を割(さ)く余裕がなくなってしまったのです。もしイスパニアがアルマダの海戦に勝利していれば、明の征服も成功していたかもしれません。そうなれば、我が国の運命がどうなったのか見当...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その9

    秀吉と同じように海外に遠征したアレクサンドロス大王やチンギス=ハーンにしても、英雄としての顔を持つ一方で、彼らによって虐殺されたり滅ぼされたりした民族が大勢いるという現実を考えれば、我が国に関わらず、違う国同士で共通した歴史認識を持つということがどう考えても不可能ではないかという思いがします。だからといって、その国にはその国で語り継ぐべき歴史が存在する以上、他国の歴史認識を一方的に間違いと決め付け...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その8

    しかしながら、秀吉が朝鮮半島へ攻め込んだ本当の理由は「イスパニアへの対抗として明を先制攻撃しようと計画した際に、その通り道となることを朝鮮が拒否したから」であることを忘れてはいけません。可能性の有無はともかくとして、仮に朝鮮が我が国の「唐入り」に協力していれば、秀吉から攻められることはなかったでしょう。秀吉の最終目標はあくまで「明の征服」であり、朝鮮半島そのものを侵略するという意図はなかったといえ...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その7

    その後、我が国と朝鮮や明との間で和平交渉が行われましたが、文禄5(1596)年に我が国に使者を送った明が「秀吉を日本国王に封ずる」という一方的な内容の国書を送り返したこともあり、失敗に終わりました。翌慶長(けいちょう)2(1597)年に秀吉は再び朝鮮半島を攻めました。これを「慶長の役」といいますが、日本軍は当初から苦戦を強いられました。その後、慶長3(1598)年に秀吉が亡くなったことで休戦となり、我が国は朝鮮...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その6

    秀吉のこうした決断は、天下が統一されたことで今後の領土獲得の機会を失い、力を持て余していた兵士たちに好意的に迎えられました。古代マケドニアのアレクサンドロス大王や、モンゴルの英雄チンギス=ハーンがかつて挑んだ「巨大な兵力を持つ人間が当然のように行う」遠征という名の道を、彼らと同じように秀吉も歩み始めたのです。自ら計画した明の征服に対して「唐入(からい)り」と名付けた秀吉でしたが、先述したように我が...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その5

    明がイスパニアによって征服されるのを黙って見ているわけにはいかないとすれば、秀吉にはどのような策があるのでしょうか。我が国への侵略の前提として明を攻めようとしたイスパニアでしたが、中国大陸へ直接攻め込めるだけの大きな軍艦は所有していたものの、それこそ地球の裏側まで多数の兵を連れて行くことができず、キリシタン大名の兵力を借りなければならないと考えるほどの兵力不足でした。一方の我が国ですが、兵力や鉄砲...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その4

    後に徳川家康がカトリックを信仰しないオランダやイギリスと交流を深めたことで江戸幕府とオランダとの交易が実現し、カトリックの信仰国であるイスパニアやポルトガルとの関係を完全に断ち切ることが可能となったことを考えれば、あまりにも大きな差でした。なお、文禄(ぶんろく)5(1596)年にイスパニアの商船が土佐(とさ、現在の高知県)に漂着した際に、乗組員が世界地図を示して「イスパニアは領土征服の第一歩として宣教...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その3

    次に秀吉を待ち受けていたのは、キリシタン大名の領内において無数の神社や寺が焼かれていたという現実でした。これらはカトリックの由来であるキリスト教が「一神教」であり、キリスト以外の神の存在を認めなかったことによって起きた悲劇でもありましたが、秀吉の目には「我が国の伝統や文化を破壊する許せない行動」としか映りませんでした。さらに秀吉を驚かせたのが、ポルトガルの商人が多数の日本人を奴隷(どれい)として強...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その2

    天正15(1587)年、島津氏を倒すために九州平定に乗り込んだ秀吉を、カトリックのイエズス会の宣教師が当時の我が国に存在しない最新鋭の軍艦を準備して出迎えました。その壮大さに驚いた秀吉は、イエズス会による布教活動には我が国への侵略が秘められているのではないかとの疑念を持ち始めました。そして、現地を視察した秀吉が「3つの信じられない出来事」を目にしたことによって、疑念が確信へと大きく変化したのです。秀吉が...

  • 朝鮮出兵の真実・後編 その1

    永禄(えいろく)3(1560)年の桶狭間(おけはざま)の戦いで名を挙げ、破竹の勢いで天下取りに向かって前進していた織田信長(おだのぶなが)は、南蛮貿易による権益や西洋の進んだ文化や技術を手に入れるために、キリスト教(=カトリック)を保護しました。ちなみに、カトリックの宣教師から地球が丸いことを知らされた信長は、すぐにそれを理解したそうです。16世紀の日本人とはとても思えない、信長の柔軟な発想力がうかがえ...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その7

    ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿易による権益の欲しさから宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、なかには自らが洗礼を受けて「キリシタン大名」となるものも現れました。キリシタン大名のうち九州の大友宗麟・大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)はイタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、天正10(1582)年に伊...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その6

    我が国との南蛮貿易も布教活動と一体化されており、天文18(1549)年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。ザビエルは鹿児島から京都にのぼった後、山口の大内義隆(おおうちよしたか)や豊後府内の大友宗麟(おおともそうりん、別名を義鎮=よししげ)らの大名の保護を受けてキリスト教(=カトリック)の布教活動を続けました。...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その5

    南蛮貿易は、先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料・生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。また当時の貿易港としては、松浦(まつら)氏の平戸や大村(おおむら)氏の長崎、大友(おおとも)氏の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)など、九州地方が中心でした。大航海時代のきっかけのひ...

  • 【ハイブリッド方式】第101回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和6年3月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、令和5年5月より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコード...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その4

    鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃(う)てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきまし...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その3

    地球をまるで饅頭(まんじゅう)を二つに割るかのような、ある意味とんでもない発想ですが、これは当時の白人至上主義による人種差別に基づく当然の思想でもありました。そして両国は条約の取り決めを守りながら着実に植民地化を進め、その過程では南アメリカ大陸西側にあったインカ帝国や、メキシコ中央部にあったアステカ帝国という二つの国が滅ぼされ、国民の生命や財産あるいは文化が永遠に失われてしまうという悲劇が生じてい...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その2

    イスパニアはアメリカ大陸に植民地を広げると、16世紀半ばには太平洋を横断して東アジアに進出し、フィリピン諸島を占領して、ルソン島のマニラを根拠地としました。一方、ポルトガルはインド洋で貿易を行っていたアラブ人を追い出すと、インド西海岸のゴアを根拠地として東へ進出し、マレー半島のマラッカから中国の明(みん)のマカオにも拠点を築きました。要するに、イスパニアは西廻(まわ)りで、ポルトガルは東廻りでそれぞ...

  • 朝鮮出兵の真実・前編 その1

    我が国における「国防の歴史」を語る際に欠かせないのが13世紀後半に起きた「元寇(げんこう)」ですが、その一方で、我が国が侵略を受ける前に先手を打って外国へ攻め込んだこともありました。豊臣秀吉(とよとみひでよし)による二度にわたる「朝鮮出兵」のことです。しかし、多くの歴史教科書で秀吉の行為を「朝鮮侵略」と断じているばかりか、秀吉が結果的に「朝鮮の人々に多大な迷惑をかけた」ことばかりを強調するような歴史...

  • 聖徳太子抹殺計画 その7

    聖徳太子は1000年を遥(はる)かに超える長い年月のあいだ、ずっと我が国の人々に語り継がれた立派な偉人です。近現代においても、我が国のお札の肖像画(しょうぞうが)として最多の7回も採用されています。特に、昭和32(1957)年から我が国最初の五千円札に使用され、さらに翌昭和33(1958)年から昭和59(1984)年まで26年の長きにわたって現在の最高額紙幣である一万円札に使用されたという事実が、聖徳太子の我が国における...

  • 聖徳太子抹殺計画 その6

    文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ、呼称の変更に批判的な意見が多かったほか、教員からも「小中で呼称が異なれば子供たちが混乱する」「指導の継続性が損なわれる」といった意見が出ていたそうです。こうした状況を踏まえ、文科省は小中ともに聖徳太子の表記に統一し、中学では古事記や日本書紀に聖徳太子の本名である「厩戸皇子」などと表記されていることも明記する方向で調整することになりました。そ...

  • 聖徳太子抹殺計画 その5

    また、大阪の四天王寺(してんのうじ)や奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)をはじめとした全国各地の聖徳太子ゆかりの寺院の存在を「現在もなお、太子を信仰したり敬慕(けいぼ)したりする善男善女でにぎわっている。それは、日本の仏教史や精神文化史などを顧(かえり)みる上で極めて重要なことである」と肯定的に評価しています。さらには、同じく没後に諡(おくりな)をされた弘法大師(=空海)を例に挙げて「弘法大師の名を知ら...

  • 聖徳太子抹殺計画 その4

    そして、今回のような改定案が発表された背景には「今から20年近く前に、日本史学界の一部で唱えられた『聖徳太子虚構説』と呼ばれる学説」があると指摘し、この説の根拠が乏(とぼ)しいにもかかわらず「文科省は、この珍説が歴史学界の通説であるととらえてしまったようだ」と断じています。さらに、藤岡氏は「この説は日本国家を否定する反日左翼の運動に利用されているのであり、その触手(しょくしゅ)が中央教育行政にまで及...

  • 聖徳太子抹殺計画 その3

    ところが、新たに公表された次期学習指導要領には「『聖徳太子』は没後使われた呼称(こしょう)に過ぎないため、歴史学で一般的な『厩戸王(うまやどのおう)』との併記にする」と書かれていたのです。具体的には、伝記などで触れる機会が多く人物に親しむ小学校では「聖徳太子(厩戸王)」と、史実を学ぶ中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記するとされていました。文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関...

  • 聖徳太子抹殺計画 その2

    平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...

  • 聖徳太子抹殺計画 その1

    さて、内政においては我が国最初の成文法であり、後年の法典の編纂(へんさん)に多大な影響を与えた憲法十七条を制定し、外交においては当時の大国であった隋(ずい)との対等外交を実現した偉大な政治家である「聖徳太子(しょうとくたいし)」は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた...

  • 八紘一宇と民のかまど その8

    既(すで)に存在する大量の土砂を利用すれば、古墳も比較的早く完成しますし、また仁徳天皇のように善政を敷(し)かれた人物の陵(みささぎ)だからこそ、多くの国民が「進んで」天皇陵の建設に力を尽くしたのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。これ...

  • 八紘一宇と民のかまど その7

    仁徳天皇陵については、ある建設会社が「完成までに15年6か月の年数と延べ800万人の労力を要する」と試算しました。それだけ巨大な天皇陵であることを証明する数字ではありますが、当時の日本列島の人口は約400~500万人と推定されていますから、天皇陵の完成までに多くの人々が果てしない労役に駆り出されたともいえそうです。このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとら...

  • 八紘一宇と民のかまど その6

    このこと以来、仁徳天皇は「聖帝(ひじりのみかど)」と称され、やがて天皇が崩御されると、和泉国の百舌鳥野(もずの)の陵(みささぎ)をつくって葬り奉(たてまつ)ったと「日本書紀」に記載があります。ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を残されておられるのです。1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこ...

  • 八紘一宇と民のかまど その5

    民のかまどがにぎわっているのを満足げに見つめられた仁徳天皇は、傍(かたわ)らにおられた皇后(こうごう)陛下に以下のように仰られました。「朕(ちん)は既(すで)に富んだ。喜ばしいことだ」。天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みながら仰られたそう...

  • 八紘一宇と民のかまど その4

    さて、皆さんは大阪府堺市堺区に存在する、全長約486mを誇る世界最大級の古墳に葬(ほうむ)られておられるとされる「仁徳(にんとく)天皇」についてどのような印象をお持ちでしょうか。古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)か...

ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?

ハンドル名
黒田裕樹さん
ブログタイトル
黒田裕樹の歴史講座
フォロー
黒田裕樹の歴史講座

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用