政府は新しい交通や通信の制度にも力を入れました。明治5(1872)年には新橋~横浜間に官営の鉄道が開通し、その後も神戸~大阪~京都間が結ばれました。海運業では土佐藩出身の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の経営する郵便汽船三菱会社が、国家機密である軍事輸送を行わせる目的もあり、政府の手厚い保護を受けて発展しました。岩崎の三菱は三井などとともに政府から特権を与えられ、やがて「政商」と呼ばれて海運や貿易・金融...
政府は新しい交通や通信の制度にも力を入れました。明治5(1872)年には新橋~横浜間に官営の鉄道が開通し、その後も神戸~大阪~京都間が結ばれました。海運業では土佐藩出身の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の経営する郵便汽船三菱会社が、国家機密である軍事輸送を行わせる目的もあり、政府の手厚い保護を受けて発展しました。岩崎の三菱は三井などとともに政府から特権を与えられ、やがて「政商」と呼ばれて海運や貿易・金融...
当時の我が国の貿易の輸出品は生糸(きいと)が中心でしたが、貿易自体は大幅な赤字となっていたため、政府は明治5(1872)年に生糸の生産拡大を目指して群馬県に「富岡製糸場(とみおかせいしじょう)」を設けました。なお、富岡製糸場は平成26(2014)年にユネスコの世界文化遺産として登録されています。明治6(1873)年に設置された内務省は、警察組織だけでなく殖産興業にも大きな役割を果たし、各地に製糸や紡績(ぼうせき)...
徴兵令の公布によって我が国の軍事力の基礎が固まりましたが、欧米列強に負けないくらいの兵力を養うためには「富国強兵(ふこくきょうへい)」といわれるように我が国の経済力を高める必要がありました。経済力を高めるには、生産力を増やして産業を盛んにすることが重要です。このため、政府は「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」に力を注いで産業の近代化を目指しました。まず政府は江戸時代までの封建的な制度を撤廃するため...
明治5(1872)年、政府は太政官札などと交換のために「明治通宝(めいじつうほう)」と呼ばれた新紙幣を発行しました。これによって国内における紙幣の統一が進みましたが、明治通宝もこれまでと同じく金貨や銀貨と交換不可能な不換紙幣でした。そこで政府は、商人など民間の力で金貨と交換できる「兌換(だかん、銀行券を正貨と引き換えること)銀行券」を発行させる目的で、同じ明治5(1872)年に渋沢栄一(しぶさわえいいち)が...
明治政府はその成立当初から財政難に苦しんでおり、京都や大坂の商人から300万両の御用金を徴発したほか、金貨や銀貨と交換ができない「不換紙幣(ふかんしへい)」であった太政官札(だじょうかんさつ)や民部省札(みんぶしょうさつ)を発行しました。しかし、成立したばかりの政府に対する信用が低かったので、紙幣の流通が滞(とどこお)るなど混乱したことや、4朱(しゅ)で1分(ぶ)、4分で1両(りょう)という貨幣単位が外...
地租改正の結果、全国同一の基準で収穫の豊凶にかかわらず金銭での地租の徴収が実現したことによって、近代的な税制が確立するとともに、政府の安定した財源の基礎となりました。しかし、政府が旧幕府の頃の年貢収入を維持することを前提として地価を定めたり、あるいは全国的な測量の際に地価に対する高額な査定を受けたりしたことで、農民の不満が高まりました。また、それまで共同で利用していた山林や原野などの入会地(いりあ...
土地制度の大変革を行った政府は、明治6(1873)年7月に「地租改正条例」を公布し、新たな地券制度を基本とする「地租改正」に着手しました。当初は農民の自己申告で作業が進められましたが、やがて太閤検地(たいこうけんち)以来の大規模な土地測量が全国で行われ、最終的に一億枚を超える地券を発行して明治14(1881)年までにほぼ完了しました。地租改正の主な内容は下記のとおりです。1.土地所有者、つまり地券の所有者を納...
欧米列強に負けない国づくりのためには近代化へ向けての様々な政策が不可欠ですが、そのためにも「先立つもの」である安定した財源の確保が最重要の課題でした。しかし、新政府の当初の主要な財源は、旧幕府の領地を没収したり、版籍奉還によって諸藩から得たりした年貢に頼っていたりしていました。年貢には、コメの作柄(さくがら)が年によって変動するほか、諸藩の税率もバラバラであったので、安定した税収入の確保が難しいと...
軍事制度とともに、国内の治安を守るための警察制度も近代的な整備が進みました。明治4(1871)年に東京府で「邏卒(らそつ)」が置かれると、同年に正院の下に創設された「司法省」が警察権を管轄するようになりました。その後、明治6(1873)年に「内務省(ないむしょう)」が設置されると全国の警察組織は内務省に統括されるようになり、翌明治7(1874)年には東京に「警視庁(けいしちょう)」が創設されました。警視庁の設置...
徴兵令によって、満20歳に達した成年男子全員が身分に関係なく3年間の兵役義務を負うという近代国家としての兵制が整えられましたが、現実に軌道に乗るまでには様々な紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。当初の徴兵令には様々な例外規定があり、戸主(こしゅ)や官吏・学生などは兵役が免除されていたほか、代人料として当時は高額だった金270円を納めた者も免除されており、中には「徴兵免役心得(ちょうへいのがるるのここ...
しかし、我が国の軍事力を支えていた多くの武士をいきなり路頭(ろとう)に迷わせてしまえば、大混乱が起きるのみならず、諸外国の侵略を招くのは目に見えていました。また、欧米列強にも負けない近代的な軍隊を編成することも考えていた政府にとって、武士に頼らないためにも、すべての国民が兵役に服するべきであるとする、いわゆる「国民皆兵(かいへい)」が重要であると考えるようになりました。国民皆兵は、初代の兵部大輔(...
欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐためには、近代的な軍事制度の充実も急務でした。明治4(1871)年に断行された廃藩置県に先立って、不測の事態に備えて編成された御親兵は翌明治5(1872)年に「近衛兵(このえへい)」として再編され、主として天皇周辺の警護を担当しました。また、廃藩置県によって全国の藩兵は解散させられましたが、一部は兵部省(ひょうぶしょう)の下で明治4(1871)年に東京・大阪・鎮西(ちんぜい、後...
秩禄処分によって、年間の5倍から14倍の額となる金禄公債証書が支給者に発行されましたが、5年間は現金化が禁止されたうえに、それ以後に証書が満期を迎えた後も、抽選に外れれば現金化できないという仕組みになっていました。しかも、現金化が可能となるまでは年間の利息分しか支給されず、華族などの高禄者が投資などで生計を立てることが可能だった一方で、生活できない額の利息しかもらえなかった多くの士族が困窮(こんきゅう...
かくして「四民平等」が実現した一方で、政府は華族や士族に対して給与にあたる家禄(かろく)の支給を続けており、また維新の功労者にも賞典禄(しょうてんろく)を支給していました。これらの禄を合わせて「秩禄(ちつろく)」といいましたが、その支出額は国の歳出の約30%を占めており、政府にとって大きな負担になっていました。また、明治6(1873)年には「徴兵令」が定められたことで(詳細は後述します)、士族とは無関係...
※「黒田裕樹の歴史講座」で記されている内容は、あくまで歴史的経緯あるいは事実に基づくものであり、現代につながるような差別を意図して表現したものではないことをあらかじめご承知おきください。 従来の封建的な身分制度の廃止を進めた明治政府は、明治2(1869)年に藩主や公家を「華族」、藩士や旧幕臣を「士族」、それ以外のいわゆる「農工商」の農民・町人を「平民」としました。また翌明治3(1870)年には平民も苗字(みょ...
版籍奉還から廃藩置県という中央集権化への流れのなかで、明治政府の組織の改革も進みました。版籍奉還が行われた明治2(1869)年、政体書による太政官制(だじょうかんせい)が改められ、かつての「大宝律令(たいほうりつりょう)」の形式を復活させました。すなわち、従来の太政官の外に、神々の祀(まつ)りをつかさどる神祇官(じんぎかん)を復興し、太政官の下に民部省(みんぶしょう)などの各省を置きました。その後、廃...
廃藩置県がスムーズに行われた根拠のひとつとして、約1万人の御親兵を準備していたというのが考えられますが、もっと大きな理由が別にありました。まず挙げられるのは、当時の多くの武士たちが持っていた「先祖代々続いてきた我が国を守らなくてはいけない」という強い使命感でした。ある意味「武士の集団自殺」ともいえる大事業は、一人ひとりの武士の気概(きがい)によって支えられていたのです。他の理由としては「経済的な事...
政府は、薩摩・長州・土佐から約1万人の御親兵(=政府直属の軍隊のこと)を集めて軍事力を固めたうえで、明治4(1871)年旧暦7月に東京在住の知藩事を皇居に集めて、明治天皇の詔(みことのり、天皇の言葉を直接伝える文書のこと)によって「廃藩置県」を一方的に断行しました。これによって、すべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免(ひめん)されて東京居住を命じられ、各府県には新たに中央政府から「府知事」や「県令...
版籍奉還の後、旧藩主は新たに「知藩事(ちはんじ)」に任命され、そのまま藩政を行いました。つまり、版籍奉還によって藩は領地や領民は返上したものの、徴税や軍事といった政治の実権は従来どおり知藩事たる旧藩主が握ったということを意味していました。藩が持っていた「領地」「領民」「政治の実権」のうち、政府が領地と領民を返上させる一方で政治の実権を藩に残した背景には、いきなりすべての権利を奪(うば)ったのでは各...
さて、明治政府は戊辰(ぼしん)戦争などによって没収した旧幕府領を直轄地(ちょっかつち)としたほか、東京・大阪・京都などの要地を「府」とし、その他を「県」としましたが、諸藩は各大名が従来どおり統治することを認めていました。しかし、欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには権限と財源の政府への一元化を、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために「中央集権化」を目指す必要がありました。...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子」と名付けられたという話がありますが、同じように「馬小屋の前で母親が産気づいた」とされるイエス=キリストとの共通性に興味を惹(ひ)...
ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用しないということが、聖徳太子と高句麗に対する隋の態度の大きな違いを見ればよく分かりますね。我々日本人には、かねてより清廉...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、チャイナの君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
チャイナの皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋か...
そんな状況のなかで、無理をして我が国へ攻め込んでもし失敗すれば、国家の存亡にかかわるダメージを与えかねないことが煬帝をためらわせましたし、我が国が高句麗や百済と同盟を結んでいることが、煬帝には何よりも大きな足かせとなっていました。こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから...
我が国が隋に強気の外交姿勢を見せた一方で、かつて隋と激しく戦った高句麗は、自国が勝ったにもかかわらず、その後もひたすら低姿勢を貫き、屈辱的な言葉を並べて許してもらおうとする朝貢外交を展開し続けていました。隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったの...
今から2200年以上前に大陸を史上初めて統一した秦(しん)の王であった政(せい)は、各地の王を支配する唯一の存在として「皇帝」という称号の使用を始め、自らは最初の皇帝ということで「始皇帝(しこうてい)」と名乗りました。これが慣例となって、後の大陸では支配者が変わるたびに自らを「皇帝」と称し、各地の有力者を「王」に任命するという形式が完成しました。そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されるこ...
さて、煬帝をここまで怒らせた国書は、以下の内容で始まっていました。「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは...
我が国の内政における思い切った改革に成功した聖徳太子は、いよいよ外交問題の抜本的な解決へと乗り出しましたが、そのための手段として、隋に対し共同で対抗するために、朝鮮半島の高句麗や百済(くだら)と同盟を結びました。事前の様々な準備を終えた聖徳太子は小野妹子を使者として、607年に満を持して2回目の遣隋使を送りました。この頃、隋の皇帝は2代目の煬帝(ようだい)が務めていました。「日本からの使者が来た」との...
例えば第1条の「和の尊重」ですが、言葉自体は非常に耳に心地よい響きがするものの、これには「蘇我氏だけで勝手に物事を進めずに、他の者の同意を得てから行うように」という意味も含まれているのです。また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって、蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」にな...
さて、憲法十七条では第1条や第17条で示した「和の尊重」の他にも、様々な規範を示しています。例えば、第2条では「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え」として、仏教への信仰を説いています。なお、三宝とは仏・法理(ほうり)・僧侶(そうりょ)のことで、仏教の三つの宝物(ほうもつ)とされています。また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教の道徳思想に基づく心構えを示している条文...
冠位十二階によって「朝廷が役人に対して冠位を授与する」という明確な姿勢を示した聖徳太子でしたが、公地公民制の実現へ向けての次の手段として、朝廷と豪族との間における「順位の上下」を明らかにするための正式な規則をつくろうと考えました。こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに、後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された「憲法十七条」でした。憲法十七条...
そうこうしているうちに、聖徳太子が朝廷での人事権を握って、自身が抜擢(ばってき)してきた優秀な若者をどんどん増やしていけば、自分の影響力が少しずつ削られていくのを蘇我氏はそれこそ指をくわえて黙って見ているしかないのです。おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分を述べながら、ウラでは蘇我氏打倒のために色々と策謀(さくぼう)を練り続...
しかしながら、聖徳太子もなかなかの「食わせ者」でした。曲がりなりにも昇進が可能な身分制度ができたことにより、冠位を授ける立場の朝廷の権力が向上した一方で、相対的に蘇我氏の権力が後退する遠因をつくったことにもなったからです。冠位十二階の制度によって、朝廷の権力向上と蘇我氏の衰退が同時に起きるとなぜ言い切れるのでしょうか。ここで、冠位十二階による様々な波及効果を検討してみましょう。蘇我氏を冠位十二階か...
公地公民制という国家の最終的な目標の実現や、隋にも負けない優秀な人材を集めるため、聖徳太子は時間をかけて豪族あるいは民衆の立場や意識を改革していくという作戦に出ました。603年に制定された「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」もその例です。冠位十二階は、朝廷に仕える人々に対する新しい身分秩序でした。まずは階級として「徳(とく)」・「仁(にん)」・「礼(らい)」・「信(しん)」・「義(ぎ)」・「智(ち)...