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まち歩きで趣味探しと図書館めぐりを自転車で https://tosyokan-bicycle.cocolog-nifty.com/blog/

まち歩きプラス折りたたみ自転車(DAHON Curve D7)で、毎週小さな旅に出ます。今日はどこに行こうか。

小さな旅の行き先は、史跡めぐりや川の源泉、古墳、庭園ほか、何でもあります。

すずた
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住所
東久留米市
出身
豊島区
ブログ村参加

2012/01/15

  • 鳩ノ巣渓谷とその名の由来と双竜の滝、水神の滝

    多摩川上流部に鳩ノ巣渓谷があります。JR青梅線に乗っていくと、青梅駅から先は電車の運行本数も少なくなり、編成も短くなりますが、多摩川沿いの南側車窓の景色は素晴らしく、山や川そして様々な橋を見て楽しめます。鳩ノ巣駅で下車すると、すぐ前には雲仙橋が架かっています。通行車両は車幅2.2メートル、重量2トンに制限された、大きくはない橋ですが、両端には鳥居のようなゲートのような高い構造物があります。何かと考えましたが、おそらく以前はここは吊り橋であったものが老朽化等により改修工事され、そのワイヤーの支柱が残されたものでであろうかと思われます。多摩川左岸側を川へ下っていくと、双竜の滝という案内板があり滝音が聞こえてきます。駅のすぐ近くにありながら意外と大きな滝で、落差18メートルほどあります。滝口のあるとんがり岩で二分された流れが、浸食された溝で一本になる形から名付けられたと言いま...

  • ブログサービスのココログフリーの容量上限と有料プランへの変更

    ブログを見るだけでなく自分でも書いている方もいるかと思いますが、その写真などによる利用可能ディスク総容量は気にしていますか。そろそろ、このブログが容量上限に迫りつつあるので、対策を考えてみる必要があります。ブログを始めたのは平成24年(2012)1月2日のことで、東日本大震災の翌年明けですから随分前のこととなります。ちょうどパソコンを買い替えたので、ブログでもやってみるかな!くらいの軽い気持ちでした。当然に有料プランなど考えてはいなく、当時よく見ていたブログに「ココログ」のものが多かったのでココログを選び、ココログフリーという無料プランでスタートしました。niftyの回線を使用していませんでしたが、フリーならそれでも開始できるようなので気にしていませんでした。始めてみると、スマホやデジカメ写真はそのままでは容量が大きいので、画面サイズに合わせて写真を小さくしてアップロードを...

  • 木場から移ったけどもう使われなくなってしまった新木場の貯木場とその暫定利用

    地下鉄東西線に木場駅があり、有楽町線、京葉線、りんかい線に新木場駅があります。今時間違える人もいないでしょうが、かなり距離は離れています。ご存知の方も多いと思いますが、地名の由来は、かつて貯木場が木場にあり、それが新木場に移転したというものです。↑その新木場駅近くには「木材会館」という建物があります。東京木材問屋協同組合100周年記念事業として平成21年に建てられたもので、木材需要の低迷する中、いかに木材を使って安らぎを感じる魅力的な空間を作るか、地球環境に貢献できる建物が出来るかを探求したプロジェクトだそうです。「木材は燃える」という既成概念がありますが重要なのは、材料が可燃かどうかではなく、火災の際に建物が安全かどうかということだといいます。見かけは木材で燃えそうですが、耐火性能の高い鉄骨鉄筋コンクリート造で構造躯体を形成し、外壁が炎上しても上階へと燃え広がらないように...

  • 昭和、明治に次ぐ長期の応永年間からの鰐口もある南畑八幡神社

    埼玉県富士見市にある南畑八幡神社に行ってみました。南畑は富士見市東部の荒川と新河岸川に挟まれた水田の広がる地区になります。応永7年(1400)に、足利満兼がこの地を鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進して社領となり、分祀奉斎した時の八幡社だといいます。足利満兼とは知っていそうで知らない名前ですが、第3代関東公方でした。室町幕府の足利将軍ではなく、むしろ当時の関東公方と京都の将軍家とは緊張関係にありました。ここには八幡社に奉納された鰐口があり、同じく応永年間の銘文の刻まれており、富士見市指定有形文化財となっています。鰐口(ワニグチ)とは、神社仏閣の堂前にある参詣者が綱で打ち鳴らす大きな鈴のことです。応永年間は1397〜1432年までの35年間に及ぶ長さです。明治時代からの一世一元の制より前までは、元号は期間の短いものが多く、それまでで最長となります。つまり、昭和と明治に続いて歴代3...

  • 豊洲千客万来施設の建設前後とゆりかもめ豊洲駅からの延伸

    1ヶ月ほど前に乗った日暮里・舎人ライナーと同じように新交通システムである「ゆりかもめ」に乗りました。正式には「東京臨海新交通臨海線」という名称で、臨海が二度も出てくるのはおかしいですが、株式会社ゆりかもめが以前は東京臨海新交通株式会社という名だったことによるみたいです。↑東京ビッグサイト駅から豊洲駅方面に向かうと、路線はすぐに90度ターンしますが、鉄道ではできない直角カーブができるのが新交通システムの利点です。新橋駅から豊洲駅までの14.7キロを31〜33分ほどで結ぶAGT(Automated Guideway Transit)自動案内軌条式旅客輸送システムです。やはり、ATO(Automatic Train Operation)自動列車運転装置による無人運転のため、前面展望は抜群です。↑市場前駅直前でも90度ターンとなりますが、この周辺では豊洲市場が開場したため以前とは風景...

  • 金子十郎家忠に関わる入間市木蓮寺の瑞泉院と桂川神社

    JR八高線金子駅近くの入間市木蓮寺には、地図でみる限り木蓮寺という寺院は見当たりません。木々の中にあり、寺社のどちらであろうと立ち寄ると、桂川神社がありました。上州の赤城神社を勧請したもので、金子氏館の鬼門徐けとして金子十郎家忠によって建立されたといいます。平安時代終わりから鎌倉時代初期の頃のことです。近くにはJR八高線の金子駅がありますが、金子氏とは武蔵七党の一つである村山党に属していた武士です。村山頼家の三男家範が、ここ入間郡金子郷を本貫地とし、金子氏を称したことが始まりだといいます。家範の子である十郎家忠(1138〜1216)は、源義朝に従い、保元・平治の乱に参陣しました。その後も衣笠城攻や源平合戦にも参陣しました。↑桂川神社の裏側は斜面で高くなっていますが、数多くの墓石の並ぶ大規模な墓地となっているようです。行ってみると、入間霊園とともに、看板には公益財団法...

  • 万葉集東歌に歌われていた越生町大谷の大谷ヶ原萬葉公園

    埼玉県越生町の鹿下越生神社や学頭沼から東の方にも、やはり大きなため池があります。といっても間に一山あるので南から大きく迂回した先です。堤体は車は通れなさそうですが、その手前には数台は駐車できそうなスペースがあり、いくつかの案内板や石碑があります。ため池は大亀沼といい、ここは「大谷ヶ原萬葉公園」となっているようです。左から2番目の越生町教育委員会等による公園の説明板によると、万葉集の東歌の一つに歌われているのがこの地だということです。万葉集といえば、奈良時代の終わり頃にできたという日本で最も古い歌集です。その中でも東歌は、当時は西日本中心の日本史にあって珍しく東国のことが対象となっています。右から2番目の石碑は歌碑となっており、その歌が「入間道の 大谷が原のいわいづら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね」と刻まれています。「大谷が原」が、ここ越生町大谷の大亀沼周辺であるとさ...

  • 村社越生神社だが越生ではなく鹿下の方の越生神社と学頭沼

    埼玉県越生町の鹿下にある越生神社に行きました。石柱には村社越生神社とありますし、Googleマップの表示も越生神社です。しかし、一般的には越生神社というと、越生町の越生にある方が中心市街地近くですし有名です。鹿下(カノシタ)は町の北方で、ときがわ町との境界に近いところです。↑北に向けての石段を登ると少し広い空間があり社殿があります。元は根本神社と言われていたそうで、天平年間(729〜48)に行基が東国遊行の時に越生法恩寺を創立して、学寮を当地に選び神事を行なったということです。その後も応永年間(1394〜1427)や延徳2年(1490)に再興や再営されたと伝えられています。寛文8年(1668)に社地が寄付され再修され、明治5年(1872)村社となりました。明治40年(1907)に日枝神社を合祀して根本神社は越生神社となりました。二つの越生神社問題を知るため調べてみ...

  • 自動運転の日暮里舎人ライナーの急勾配な坂の形とポイント切り替えのやり方

    物流の2024年問題としてトラックドライバー不足が話題となっていますが、バスドライバー不足も問題となっています。車の自動運転の研究や実証実験も行われていますが、既に自動運転されている新交通システムを改めて見てみました。日暮里舎人ライナーは、荒川区の日暮里駅から足立区の見沼代親水公園駅間の9.7キロを20分で結ぶ都営のAGT(Automated Guideway Transit)自動案内軌条式旅客輸送システムです。↑電車では上に張ってある電気の流れる架線は右側面にある3本で、ここから動力としての電気が供給されます。↑日暮里駅2番線で上りでの最前部、下り方面での最後部ですが、ATO(Automatic Train Operation)自動列車運転装置による無人運転のため運転席はありません。線路ではなく2本あるコンクリート製の走行路をゴムタイムで走ります。↑先程いた2番ホームを...

  • 妙見菩薩や平将門についてwikiにも資料引用されている円泉寺は久邇宮とも関係があり久邇カントリーの隣り

    圏央道狭山日高インターの西、飯能市平松に円泉寺があります。弘法大師が開いたと縁起にありますが、延享5年(1748)の石塔より以前は詳細は不明のようです。↑参道左には六地蔵、右には十三重塔があります。また、円泉寺は武蔵野七福神の福禄寿の札所となっています。武蔵野七福神は飯能市、所沢市、入間市の六寺院、一神社にあるということです。↑本堂は天保15年(1844)に再建されたものです。円泉寺で最も古い石仏・六地蔵石幢には延宝9年(1681)と彫られています。↑本堂の西には石段があり小さな山となっており、妙見堂があります。平安時代に平将門が妙見菩薩に危機を救われ像を受け、その二代目妙見像があるということです。弘化五年(1847)妙見菩薩像を京都神祇官統領伯王殿公文所より、円泉寺境内に祀ることが 許可されたものです。土を村民総出で高く盛り上げて、お堂を建立し祀りました。...

  • 池袋駅すぐ近くにあった島田牧場跡地にある池袋の森

    池袋にある病院に行く用があり、出かけた時のことです。駅西口から北へ徒歩5分ほどのところなのですが、すぐ近くには意外と大きな木のある場所がありました。周辺は、いかがわしいホテル街で、そこに何棟もある病院も場違いでしたが、この木々も場違いな感じです。↑南側の入り口は閉鎖されていますが、豊島区と書かれていますから区の施設のようです。↑西側の平和通りの方から入れるようになっていました。あえて探さなければ気づかなそうな入り口ですが、「豊島区立池袋の森」と書かれています。よくある区立の公園とは違い、4月から9月でも8時から5時までしか開いていないようです。10月から3月はもっと短く9時から4時です。ここは日本を代表する林政学者で東京大学農学部名誉教授の島田錦蔵氏の屋敷跡だということです。↑園内ほとんどの樹木は研究用に育てていた当時のもので、左の大きなユリノキは日本にこの樹木が...

  • 多摩川に翻弄された青柳村の常夜燈と稲荷神社、どちらかわからない青柳2号墳

    平成19年(2007)に日野バイパスができるまでは国道20号として甲州街道であった、都道256号八王子日野線沿いの国立市青柳に「元青柳村の常夜燈」があります。江戸時代の寛政11年(1799)のものです。常夜燈とは聞き慣れたものですが、案内板によれば、秋葉燈とも呼ばれるということで、江戸時代に町を火から守るために油屋近くに建てられたものだそうです。秋葉というのは火伏せの神である秋葉神社への信仰です。常夜燈といいながら形は石灯籠です。↑甲州街道沿いですから、現在の街灯の役割だとばかり思いましたが、関係あってか無くてか、脇には鳥居があります。多摩川や府中用水のある南に向いた道の左右には民家への入り口があり、この参道は古くから地元に使われていたことがわかります。↑車は通れない参道の先に二の鳥居があり青柳稲荷神社です。宝暦5年(1755)に創建されたといいますが、ここに青柳村が...

  • 多摩川で隣り合う府中用水取入れ口と緑川排水樋管

    多摩川左岸側の桜咲く土手に水門があります。感覚的には立川市かと思っていましたが、国立市青柳のようです。実は府中用水取入れ口がここにあると来たのですが、ちょっと違うようです。緑川排水樋管と書かれています。川辺の方から見上げてみると、割と大きなものです。高低差からして取水するためのものでないのは一目瞭然です。もう4年前になりますが矢川緑地の湧水を見た時にあった擁壁は緑川の暗渠によるものでした。↑土手から振り返ると道路になっていますが、この下に緑川が流れているのです。緑川といいますが、昭和22年(1947)に開通した人工の立川排水路だったものです。旧陸軍立川飛行場の排水のためのもので、現在は暗渠化されており、立川市環境下水道部下水道管理課が管理しています。↑河原に戻ると、緑川排水樋管のすぐ上流にも水門らしいものがあります。こちらが府中用水取入れ口のようです。...

  • 水面に浮かんでいるようだという浮島神社と他県に迷惑かけないための霞川調節池

    霞川という一級河川が東京都に流れていますが、都内であまり知名度は高くないでしょう。青梅市に流れており、埼玉県に入り入間川に流れ込む川です。そんな霞川沿いに浮島神社があります。川の左岸で青梅市今井にあり、山根通りに面して一の鳥居があり、参道を入った正面が霞川です。二の鳥居から川に沿うように直角に参道は曲がり、正面が社殿です。↑傍には少し高くなった位置に東屋があり、休憩したり霞川を眺めたりできるようになっています。浮島神社は創建年次は不詳ですが、安土桃山時代の文禄3年(1594)に再建されたという記録が残っています。江戸時代の新編武蔵国風土記稿には浮嶋天満宮として載っています。その記載に、霞川が氾濫した際も沈まず水面に浮かんだ島のようだということで呼ばれたとあります。↑そのことからか、社殿裏側には小さな池があり、弁天様と思われる祠がありました。...

  • 越辺川の大川堤、鶴見線の大川駅や大川町の由来と横沼白髭神社

    越辺川右岸の坂戸市側の土手のところに「大川堤遺跡」という石碑が立っています。遺跡という名に惹かれて調べてみましたが、私が勝手に勘違いした古い時代の「遺跡」ではないようです。前回見た郷土の偉人大川平三郎の功績の一つです。生誕の地である坂戸市横倉の辺りは、大雨が降ると越辺川の氾濫により水害が発生する状況でした。大川平三郎は私財を投じて南へ1150メートルの堤防を築き、大川堤と呼ばれるようになりました。ここに架かる橋は道場橋といい、剣術家であった祖父平兵衛英勝の道場であり、平三郎の生家である大川道場から名付けられているようです。碑のある右岸下流側を見てきましたが、右岸上流側も同じような景色です。奥に見えている高架は圏央道です。大川について調べていて驚いたのですが、JR鶴見線の大川駅や地名の大川町も大川平三郎に因んだ名前だったのです。...

  • 坂戸の偉人である大川平三郎とロシアから移設されてきた頌徳碑

    圏央道坂戸インターから降りると、「大川平三郎翁生誕の地」という大きな看板が目に付きます。日本の製紙王・郷土の偉人とも書かれた坂戸市によるものです。前から気にはなっていたので、失礼ながら大川平三郎という人のことをよく知りません。周辺を見てまわりました。郷土の偉人を訪ねてという地図が、坂戸市教育委員会による案内板があります。ここには、大川平三郎翁記念公園があります。公園は7番となっており、大川道場のあったところで、平三郎の生家でもあったところです。剣術家大川平兵衛英勝の孫として川越藩三芳野村(現在の坂戸市横沼)で生誕しました。叔父である渋沢栄一を頼って上京し、明治5年(1872)抄紙会社(現在の王子製紙)に入社しました。毎日早朝から出社して製紙技術を学び、日本人初の製紙技師になり多くの会社経営に携わり、日本の製紙王と呼ばれるほどになったということです。↑公園内に頌徳碑...

  • ネーミングライツのアクアリウムさがみはらと高台にある山門の立派な宗佑寺

    2回に渡って見てきた水郷田名ですが、かつては観光地として栄えたというものの、今では残念ながらそうした雰囲気はあまりありません。ある程度人が集まりそうなところと言えば、「アクアリウムさがみはら」でしょうか。相模原ふれあい科学館として昭和62年(1987)にオープンしたといいます。昭和時代だし、国鉄が分割民営化されJR各社となった年ですから、若い人から見たらここも歴史的なところです。科学館というだけあって、敷地内にはアルキメデスのポンプなんていうものもあります。平成26年(2014)リニューアルオープンするに当たり、水族館をアピールするためアクアリウムさがみはらという愛称も付けたということです。ホームページによると、ネーミングライツの契約期間が令和6年3月31日までとなっていますから間もなく切れます。どうなるのでしょう、更新されるのでしょうか。豊かな相模川の水を利用した水...

  • 小田急多摩線の田名への延伸計画と田名八幡宮の微妙な時期の改称

    前回見てきた相模原市の水郷田名を巡っていると「小田急多摩線を田名に延伸させよう」という立看板をいくつか見かけました。小田急線の新百合ヶ丘から多摩ニュータウンへのアクセス路線として唐木田まで整備されている路線です。そんな延伸話あるのかと戻って調べてみると、相模原市ホームページにも載っていました。「小田急多摩線について、町田市を通り、JR横浜線相模原駅、JR相模線上溝駅、更には、田名地区を経由し、愛川・厚木方面へ延伸する計画です。」とあります。平成28年に国の交通政策審議会答申「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」で、小田急多摩線の延伸が、東京圏の都市鉄道が目指すべき姿を実現する上で意義のあるプロジェクトの一つとして位置付けられましたということです。↑ただし、その答申本文を見てみましたら、唐木田から上溝までの延伸で、記載されているのも上図です。なお書きで「更なる延伸...

  • 相模川沿いの水郷田名と小沢頭首工という名称の水郷と頭首工の意味

    いつもよりちょっと遠出して、車で相模原市の水郷田名に行きました。 相模川沿いに水郷という場所があるなんて知りませんでしたし、興味もありました。↑(国土地理院マップより)相模川に架かる神奈川県道54号相模原愛川線の高田橋の北側です。川の土手に「水郷田名の歴史」という説明板がありました。田名地区の中でも相模川に面した久所(くぞ)を中心とした地域をいうそうで、田名地区の歴史は古く、原始、古代の時代に遡ることができるという。江戸時代後半には、橋本から下九沢を通る大山参りのための大山街道が通っていて、ここから「渡し」で相模川対岸の小沢に行っていました。相模川は水上交通の流通路として筏、高瀬舟などが往来していました。その後、もともと盛んだった鮎漁に観光的要素をもつ鵜飼も加わり、旅館などが立ち並ぶ歓楽街として繁盛し、「水郷」と呼ばれるようになったということです。私のイメージして...

  • ついに撤去されたカリヨンブリッジといいアイディアな新宿駅西口駅前広場に建設中の巨大構造物

    渋谷だけでなく新宿の街も大きく変貌をし始めました。小田急百貨店が閉店して解体工事が進み、日々小さくなっていきます。↑そんな中の2月21日朝、旧小田急百貨店とハルク(現小田急百貨店)の間の景色に、さらに違和感が感じられました。カリヨンブリッジが無くなっているのです。↑以前から閉鎖されてはいましたが、先週撮った写真(2月15日)ではこのようにまだあります。実は、真下には横断歩道もあるし、2階で小田急とハルク間を行き来する機会もあまりなく、渡ることはありませんでした。でも無くなるとなると、やはり懐かしさを感じますから不思議です。↑地下にある西口駅前広場から小田急百貨店の方を見てみます。解体工事が進行して建物がどんどん低くなっていることよりも、右には気になるものがありました。地上から地下へのスロープ上に覆いかぶさるように鉄骨が組まれています。↑何やら巨大な構造物を造っ...

  • 銀座線渋谷駅車庫引込線の移設とJR線路上に建設している構造物

    渋谷駅には行くたびに、駅や通路もそして周りのビルも変わっていて、毎回驚かされます。地下鉄銀座線の線路を移設したときは大きくニュースにもなりました。細かい話になりますが、渋谷駅から奥の車庫引込線もふと気付いたら少し移設されていました。↑駅から西口の渋谷マークシティ下の車庫方向を見ています。乗客は下りた後なので目立ちませんが、向かって左側にあった引込線が右側に移されています。↑逆に駅ホームの方を見てみると、少しだけ、ここにかつてはレールがあったなという残骸?があります。この車庫引込線の奥、つまり北側を見れば、こちらは何やら大規模な構造物が建設されています。銀座線とは垂直に交差しているJR山手線、埼京線の線路の真上に当たります。昨年11月に山手線を運休して線路位置とホームを高くする工事を最後に、大きな運休はしないと言っていましたが、関係はないのでしょうか。す。↑外から見...

  • 松風公園という高坂ニュータウンにある谷戸公園

    前回見た東松山市はにわの丘は、関越自動車道を渡るひきのみちの東側にありましたが、それを西に向かうと「松風公園」があります。「むさし緑園都市高坂ニュータウン」として住宅都市整備公団により開発されたこのエリアは歩車分離されています。岩殿丘陵の東端にあたり、この辺りから高くなっていきます。昭和50年(1975)に関越道の川越東松山間が開通した後の、昭和59年(1984)に入居開始となる街開きでした。国土地理院の過去の航空写真を見てみると、松風公園のところは谷戸のようで、池があったようです。↑公園入り口からすぐのところに大きめの池があり、地獄坊池といいます。↑西の上流側から水が流れてきます。地獄坊池とはおどろおどろしい名前ですが、灌漑用ため池であり、古い開発前の航空写真でも直線の堰堤が見られました。↑さらに西へ上流側に行くと、菖蒲田があります。ここにあった谷戸は呉器谷と呼...

  • はにわの丘はちょっと微妙なところだけど桜山窯跡群はすごいところ

    いつものように地図を眺めていたら、はにわの丘というところが東松山市にありました。関越自動車道の東松山サービスエリアの少し北東になります。↑「ひきのみち」と名付けられた歩行者自転車用道路の弁天山橋から、南の練馬方面を見たものです。ひきのみちを東に進むと、「はにわの丘」があります。古墳時代後期である1450年前の須恵器や埴輪の窯の跡が見つかっています。平成14年(2002)の東松山市教育委員会による説明板ですから、552年頃ということになります。日本に仏教が伝来したのが538年とか552年とか言われますから、その頃のものかと思うとやっぱり悠久の昔です。昭和55年(1980)に行われた発掘調査で、ここに須恵器の窯跡2基があったということです。土器の中で、須恵器というものがよくわかっていませんでしたが、青灰色の1200度ほどの高い温度で焼かれた焼き物だということです。それ...

  • 治水橋の由来となった斎藤祐美の出身地である飯田新田のびん沼と対岸の萱沼の読み

    橋の名前には地名が付けられたものが多いですが、荒川の治水橋はそうではなく、前から疑問に思っていました。今回はその由来を調べてみました。前々回に取り上げた飯田新田の出身である斎藤祐美という人が関係していました。名前からはじめ女性かと思いましたが明治時代の男性でユウビと読みます。厳密には江戸時代末期の慶応2年(1866)に、飯田新田で代々続く外科医の次男として生まれました。明治23年(1870)荒川の氾濫で自宅付近が水没するのを見て、埼玉県議員となって水害から故郷を守ろうとしました。↑当時の荒川の流れである、びん沼川を挟んで飯田新田の反対岸から見たところです。ちょうど前々回見た、荒川で分断された馬宮地区の、さいたま市消防団馬宮西分団のある辺りになります。↑下流側を見ると、大きく左に曲がっていて、かつて暴れ川だった名残りが感じられます。旧荒川であるびん沼川が市境となって...

  • 多摩川沿いの新春飾りがまだあった阿蘇神社の古くからの由緒

    多摩川サイクリングロードの上流端ともいえる羽村取水堰のあたりのことです。左岸側をさらに少し進むと鳥居があります。↑阿蘇神社があり、都重宝とも書かれています。参道とはいっても林多摩川沿いなのに林の中の古道のようないい雰囲気のところを300メートルほど進みます。↑用水路を渡り、多摩川の流れが再び見えたところに阿蘇神社入り口があります。鳥居があり石段を少し登った先に本殿が見えます。阿蘇神社は以前は阿蘇大明神、阿蘇宮といい、創建は推古天皇9年(601)と伝えられています。平安時代の承平3年(933)には平将門が社殿を造営し、天慶3年(940)には藤原秀郷が社殿を造営したといいます。藤原秀郷といえば、新皇を称した平将門を討った武将です。両者とも阿蘇神社を余程重視したのでしょう。藤原秀郷がお手植えしたシイが本殿左にあり、東京都指定天然記念物になっています。手前の木だとば...

  • 荒川の東だけでなく西岸にもあるさいたま市西区の馬宮にある飯田新田

    11月に荒川の東側にあるさいたま市西区の馬宮地区に行きました。その馬宮は荒川西側にもあるようです。↑さいたま市立馬宮西小学校です。屋上に「創立148年」との看板がありますから歴史は古く、明治8年(1875)からあるということです。校舎の右側、東方になりますが見えているのは荒川の堤防になります。ここは荒川の西側になり、富士見市か川越市のどちらかだと思っていましたが、大宮市であって今はさいたま市西区です。もともと荒川が境界で、その流れの東側にあったため大宮側であったものが、荒川を直線化したため地区が分断されてしまいました。↑さいたま市消防団馬宮西分団もこの近くにあります。比較的新しく平成28年(2016)にできたということで、それまでは荒川東側の馬宮分団しかなかったそうです。↑裏の林の木々の奥に見える水の流れがかつての荒川でした。びん沼川となっているところが、かつて...

  • 船には見えなかったフローティングドックと中防外側埋立地の東と南と西端

    首都高湾岸線の東京港トンネルを初めて通った時は、海底トンネルが珍しかったのでワクワクしたものでした。そうした海底トンネルも今では珍しくもなくなり、東京港にもいくつもの海底トンネルができています。↑臨港道路南北線の「海の森トンネル」もその一つで、東京オリンピック前にできたことは聞いたような気もします。中央防波堤内側と外側埋立地へは、テレコムセンターや青海コンテナ埠頭から行く海底トンネルがありましたから並行してもう一本できたとは知りませんでした。↑海の森公園の東端からはゲートブリッジがよく見えるのではと思い行ってみました。海の近くの道路までで、直接海岸には近付けません。↑すぐ北側の海の森船着場の辺りにガントリークレーンのようなものが見えます。でもちょっと違うようなものにも見えるので近づいて見ます。両側をコンクリート構造物で囲まれているようですがクレーンも含めた一体構造です...

  • 水没する前提の狭山台図書館駐車場と狭山台団地の広い調整池

    狭山市にある狭山台図書館は体育館やプールも併設されており、すぐ横には久保川が流れています。通常流れている水はごく少量です。久保川は川越市を通り不老川へと流れる準用河川です。駐車場があり、出入り口にはブースと遮断棒がありますが今は使われていないようです。ただし、入ってすぐのところには、ちょっと気になる看板が立っていました。駐車場は下へのスリープで降りていくのですが、地形のためか半地下構造です。奥にはグラウンドのような広い空間が広がっています。そちらから建物と駐車場を振り返れば、地下とは思えない一階部分です。駐車場から図書館や体育館へ行く階段には多くの警告板があります。降雨時水没注意、この駐車場は降雨時水没しますなどと書かれています。狭山市ホームページによると、雨水調整池を利用した駐車場だということです。その際は緊急放送するから車を移動させろとのことです。場内には最高水...

  • 国分寺崖線西端の国分寺市西町にある西向きの西町神明社と中藤公園

    国分寺崖線は、古代多摩川が南へと流れを変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘の連なりで、30キロほどあります。立川市ではほとんど高低差はありませんが、国分寺市からは崖線らしい高低差があり、東南に向け大田区田園調布まで続きます。↑その国分寺崖線の西端となるところに西町神明社があります。村社神明社と刻まれた石碑があります。この付近はかつて中藤新田と称されおり、江戸時代の享保年間(1716〜35)に新田開発と考えられています。ここに限らず北多摩地区を巡っていると、至るところで享保年間の開発地があると感じられます。学校で習う享保の改革が実際にあったことが実感できます。本殿拝殿などの建築は昭和3年(1928)ということです。社殿は西向きに建てられており、石段から鳥居を振り返ってみると、さらに西向きの道が延びています。国分寺崖線もこの辺りでは既に10メートルほど...

  • さいたま市西区にあるプラザという多摩プラーザのように有名にはならなかったカタカナ地名

    多摩プラーザは東急田園都市線の有名な駅名ですし、街としても有名です。さいたま市西区にプラザという地名があるので行ってみました。↑住居表示版にもカタカナで「プラザ」と表示されています。数週間前に見た馬宮や西優馬のすぐ近くで、失礼ながら、あまりプラザというイメージとは違うところです。↑郵便局も大宮プラザ郵便局という名です。昭和59年(1984)にプラザという大宮市内で唯一のカタカナ地名になったということです。当時の大宮市だけでなく今に比べてカタカナ地名は珍しかったはずです。↑スーパーのマルエツも大宮プラザ店です。この地区は総面積31万2600平方メートルは、昭和46年(1971)から東急不動産が「大宮プラーザ団地」として販売をしました。プラザではなく、プラーザです。田園都市線の多摩プラーザ駅で聞き覚えのあるプラーザです。↑区域内の公園はプラザ中央公園となっています...

  • 新宿西口で進む再開発によるビル解体と新築工事の2023年12月の状況

    11月中旬から新宿駅西口地下の歩行者の通り道が変更されています。西口地下広場と丸ノ内線の間の通路が通れなくなったのです。小田急百貨店の解体工事が進められているので、理由はわかっており当たり前のことなのですが、ついに地下まで影響範囲がきました。↑新宿駅山手線ホームから見ると、小田急百貨店の北側半分は既に無くなっており、向こうが見通せます。↑現在の小田急百貨店として営業されているハルクの横から見ても同様です。今年2月に解体工事が始まったころ、見に来て初めて知った、実は建物は二つに分かれていたことが実感としてわかりました。↑西口駅前広場の向かい側からも見ると、スタジオALTAなどが見通せます。2014年3月に「笑っていいとも」の生放送も終わり、すっかり存在感が薄れてますが、しっかり今も新宿駅東口駅前にあります。↑小田急百貨店の解体工事現場を、現在もまだ頑張って営業している...

  • 陣屋跡でもある文化財としての永田家長屋門と簓子塀と立隠れ

    さいたま市西区土屋に永田陣屋跡や土屋陣屋跡といわれるところがあります。県道57号さいたま鴻巣線沿いで、前回見た馬宮コミュニティセンターの県道向かい側になります。説明板らしきものはあるのですが、雑草が生い茂った民有地の中のようなところで近寄れませんでした。目的の建物には右の道路から迂回して行くことができます。Googleマップでは「永田陣屋跡」と表示されているところです。さいたま市というか大宮市の時の文化財説明板があり、そこには「永田家長屋門及び築地塀」とあります。長屋門は桁行き21メートル、梁間5メートル、棟高6メートル、面積100平方メートルと市内最大規模です。門の両端に接しているのが忍び返しの付いた築地塀だとあります。 大宮市で市内最大ですが、合併したさいたま市でもそうかどうか念のためホームページで調べてみました。文化財の情報も簡易なものなので、その答えはわからず...

  • あすまと読む西遊馬氷川神社の秋と馬宮という地名の中心地

    さいたま市西区の荒川左岸堤防のすぐ近くに西遊馬氷川神社があります。遊馬と書いてゆうまと読むのだと思いましたが、あすまと読むそうです。難読地名は多くあるものです。調べていくうち混乱しましたが、草加市にも遊馬があるようです。この地の話に戻ると、戦国時代の「市場之祭文写」に足立群遊馬郷指扇村市祭成之と書かれています。中世末にこの辺りは遊馬郷という名であり既に開発されていたようです。創建は不明ですが、すぐ近くの寺院が戦国時代からあったことから、神社もあったのではと考えられています。江戸時代の新編武蔵国風土記稿には氷川社として記載されています。かつての遊馬村の鎮守で、「宿の氷川様」と呼ばれていました。宿ということから宿場町だったのか思いましたが、そういう記載は特になくわかりません。市による案内板で「当地は大宮と川越のほぼ中間に位置し、「宿」の名が示すように、遊馬では神社前の...

  • 川越市にあるむさし野という地名とそこにある奥只見幹線からの南川越変電所

    川越市の関越自動車道と国道16号の交差する南東辺りにスーパーベルクは川越むさし野店という名でした。なんでここにむさし野店なんだろうと思いましたが、地名がむさし野だということでした。確かに吉祥寺のある武蔵野市があることから中央線沿線のイメージがありますが、概念はもっと広いものです。しかし調べたら、地名の歴史は新しく、平成20年(2008)に川越市内の新宿、今福、大仙波、大塚新田、南大塚の一部からできた地名でした。バスの停留所名はどうかと見てみると、四都野台南となっています。しかし、一つ隣りのバス停は武蔵野小学校です。この後ろにある電力関係らしき設備は、かなり大規模なものでした。ちなみに、四都野台はむさし野の北にある地名で、予想外にヨツヤダイと読むそうです。↑この写真を撮った道路向かいの北側にある公園が、よつや公園となっておりこちらも不思議だったのですが、戻ってから知りま...

  • 道路で寸断されたのではなさそうな、金色の仏像のたくさんある滝不動尊は24時間の無人施設もある

    国道299号の飯能から秩父に行く道は山坂道であるため、所々で短絡できるバイパス化が進められています。飯能市と日高市の境界辺りもその一つで、2017年に新路線ができたため、気付くと通らなくなっていたところに滝不動があります。滝不動前交差点にある清珠院千手山瀧不動尊です。↑右側の狭いところに本堂があり左には庭園があります。日高市台にあるため台滝不動尊とも言われています。↑やはり、滝をまず見ようかと庭園の方に行ってみましたが、そこには数多くの仏像があります。黄金色に輝く釈迦如来像が目に入りますし、七福神像もあります。↑橋の向こうには十一面観世音菩薩像もありました。ここは道路に分断されてしまったように感じられますが、この道は旧道の方ですからそうでもない気がします。橋を渡る手前から下方に滝があり、不動明王像があります。台滝不動尊は日高市ホームページによると「江戸時代末期に...

  • 渋谷本町は昔の渋谷の中心地だったのかとそこにある大隧道通りと不動通り

    本町という地名は、現在だけでなく以前のその町や村の中心地である場合に付けられています。渋谷区の本町は京王線初台駅北側にあり、昔はここが渋谷で栄えていたところだったのかと不思議に思っていました。↑行ってみるとそこは住宅街であり、渋谷区立渋谷本町図書館もそんな中にあります。調べてみると、江戸時代の幡ヶ谷村に本村、中幡ヶ谷、笹塚など5つの小字があり、そのうちの本村等が昭和7年(1932)の東京市編入の時、幡ヶ谷本町になりました。そして昭和35年(1960)に幡ヶ谷本町が本町になったということでした。幡ヶ谷の本村、本町だったものが幡ヶ谷が外れたため、渋谷区にそのまま本町という名で残っているわけです。そのため、私は勝手に渋谷の本町だったのかと勘違いしていたわけです。↑その本町図書館西側を南北に通る道路は、Googleマップでは大隧道通りとされており、こちらも何だろうと思いました。...

  • 足利尊氏と新田義貞の子義宗の決戦が行われていた鎌倉街道の笛吹峠

    笛吹峠は、埼玉県鳩山町と嵐山町の境になっている峠です。かつては鎌倉へと続く「鎌倉街道上道(かみつみち)」がここを通っていました。鳩山町ホームページには、「眼下に須江地区の集落が広がる、眺望のすばらしい笛吹峠は鎌倉街道で一番の難所で」とあります。一番の難所は否定しませんが、眺めは全く見えません。↓南に向けての鳩山町方面です。また、この峠は、鎌倉時代以降広まる坂東札所めぐりの中で、九番ときがわ町の慈光寺と十番東松山市の正法寺を結ぶ巡礼街道との交差点にもなっています。↓東に向けての正法寺方面です。正法寺は、2年前に見た岩殿観音で岩殿の名の通り、岩の壁と樹齢700年の大銀杏はインパクトがありました。林の中を進む道ですが、鎌倉街道も当時はこんな感じだったのでしょう。西に向けての慈光寺方面は民家への入り口のように見えますが、少し先からやはり林の中の細い道があります。↓ 東の...

  • 巨大で景色を見ることもできる荒川ロックゲートと歴史ある小松川閘門

    都営新宿線東大島駅周辺では、荒川の右岸である西側すぐ横には旧中川が流れています。その旧中川は荒川に合流するのですが、そこには大きな水門があります。荒川ロックゲートという名前の閘門になります。コウモンという読みのイメージが良くないからではないでしょうが、荒川閘門ではなく荒川ロックゲートです。6階建ての建物のように階段があり、昼間は上に登ることができます。↑いわば展望台から見ると、もともと水量も豊富な荒川ですが、河口間近でもあり川幅はかなり広いです。閘門・ロックゲートは、水面の高さが違う二つの川で、船が通行出来るようにするための施設です。川と川の間に二つの水門を作って水位を調節し、水面の高さを同じにして船を通します。↑門の高さは18.2メートルもありますから、通行のための水路はかなり下に狭く見えます。↑降りて改めて振り返ってみれば、水路幅は14メートルもあり12メート...

  • 新河岸川から500メートルも離れている江戸時代の前河岸跡

    新河岸川は、江戸時代には江戸と川越を結ぶ重要な交通路であり、資材や農産物の舟運が盛んに行われていました。富士見市には6カ所の河岸という船着場がありました。Googleマップを見ていて、そのうちの一つが現在の新河岸川からかなり離れた位置が表示させているので見に行きました。↑右岸側で上流を見て、水谷第二樋管のあるここに左側から旧の新河岸川が流れていたようです。地図上では現在も流路があるように表示されていますが一部暗渠化されており、ここには別所雨水ポンプ場がありました。↑そこに流れ込むところを見ましたが、やはり旧河川にも今でも多くの水が流れているようです。↑少し上流に向かうと大きく蛇行しています。新河岸川は「九十九曲がり川」ともいわれ、和光市での荒川との合流地点まで数多くの蛇行をしていました。↑600メートルほど上流の埼玉県道266号ふじみ野朝霞線のところから見ても、多く...

  • 白子川沿いの高低差のところにある市場豊川稲荷神社

    練馬区大泉周辺から流れている白子川は、和光市白子を通っているからこそ名付けられています。白子は白子川沿いに細長く、南北に4〜5キロくらいの距離があります。↑白子川は和光市と板橋区の境界を北に流れていますが、笹目通り側から行くと川に向けての結構な高低差があります。林になったところには神社がありました。↑鉄道でいえばスイッチバックとなっているような、道路が二股に別れた北側から入る参道があり、映える?ような鳥居がいくつもありました。Googleマップでは豊川稲荷神社・氷川神社となっています。↑左の南東側からも急な石段の参道があります。正式には5年ほど前に行った白子熊野神社に合祀されているそうです。しかし、見ての通り立派に神社であり豊川稲荷神社・氷川神社となっています。↑こちらからの先にもいくつもの鳥居がありました。どうやら地元の講によって運営されているようです。豊川...

  • 石神井川新青梅街道付近の河川改修工事と太田道灌が築いたともいう愛宕山城

    石神井川の大雨対策の河川改修工事は、上石神井周辺で新青梅街道と交差する辺りから下流については、既にほぼ完了していました。大泉学園と上石神井の間のバス通りに架かる愛宕橋と新青梅街道の間の区間も工事が進んだようです。↑上を通る新青梅街道の扇橋のすぐ下流に架かる小ヶ谷戸橋は、新たな橋梁に架け替えられていました。コロナ緊急事態宣言が出る直前の3年半前に見に行った時は、工事で架け替えで通行止めになる直前でした。↑橋から下流を向くと、左岸側は歩行者自転車道が上下二段に分かれてありました。下流の愛宕山橋から見ても、親水のため川に近づく意図でもなさそうで、地形的な配慮でしょうか。通行する人や車のことを考えて、仮橋を横に通すのが一般的ですが、この小ヶ谷戸橋は3年も単に通行止めとされていました。見たところ、車はあまり多くなく歩行者は愛宕橋に迂回すればいいと思われてしまったのでしょうか。...

  • 7世紀の三輪白坂横穴群と三輪という地名の由来にもなっている椙山神社

    前回、予想を上回る素晴らしさの町田市の三輪城跡を見てまわりましたが、そのすぐ横の坂道には遺跡がありました。三輪白坂横穴群で町田市指定史跡になっています崖面に横穴を掘った古墳時代における有力者のお墓です。この崖が凝灰岩のような白っぽい岩石なので白坂なのか、城坂から来ているのかどちらかなのでしょう。三輪白坂横穴群は二つの群13基あり、この第一支群は6基あります。鶴見川のすぐ近くですが、三輪城を築こうとするくらいですから高低差のある地形です。坂道の途中の斜面で標高50メートルほどのところに位置します。内部には川原石が敷詰められて、遺骨とともに刀子や須恵器が発見され7世紀に造られたと想定されます。見学できるのはこの2基だけです。↑この東の鶴見川に沿った崖には第二支群の7基があり標高35メートル付近に位置します。この鶴見川すぐ下流沿いの三輪小学校があります。開校前の発掘...

  • 三輪城、沢山城は公的なものには出てこないが土塁や空堀の残る素晴らしい城跡

    町田市三輪に沢山城または三輪城といわれる城跡があります。町田市ホームページなどには載っていないので知りませんでしたが、近くに行った際に立ち寄ってみました。沢谷戸自然公園の北側の山の中にあるということです。公園内からの登り口を探しても見つかりませんでしたが、南西端の入り口の奥にそれらしき階段があります。公園とのフェンス沿いの雑草の多い通路を登っていくと、横には小さな墓地などがあります。さらに、蚊に刺されながらクモの巣をよけ、ヘビに注意しながら半信半疑で進むと、これは城跡らしいと感じられるものがありました。↑両側は土塁で間には空堀のようです。しかも、想像していた以上に深く立派なものです。↑少し行くと、三輪七面山の山主名で、団体の方はお戻り下さいという立札があり、ここは民有地であることがわかります。テレビ等の取材や犬の散歩もやめるよう書かれています。↑お参りするつも...

  • 宝来という地名とそこにある福寿庵の江戸時代の石像石仏群

    さいたま市西区に宝来という縁起の良さそうなバス停がありました。場所的には荒川左岸沿いである東側で、JR川越線指扇駅近くです。国道16号大宮西バイパスの近くでもあります。江戸時代の寛永から正保年間(1624〜48)は宝来野と呼ばれる原野で、秣(まぐさ)場だったといいます。天和2年(1682)荒川に水除堤が築かれて土地が開墾され、上宝来村、下宝来村となりました。交差点名も宝来で、宝が来るということですからちょっと近くを見てまわりました。↑福寿庵がありますが、福寿とこちらも縁起の良い名前です。ここにある福寿庵百観音はさいたま市有形民俗文化財になっています。102体の木造銅造の観音像は建物内にあり、これは元禄14年(1701)から享保8年(1723)の間に勧請されたそうです。荒川沿いのための度重なる水害で、流失や破損などを被っても、補い修理されてきました。ここにはいくつ...

  • 完成した特別緊急事業であった不老川の富士見橋架け替え工事

    早稲田大学所沢キャンパス付近の三ヶ島農協前交差点から北に向けて、入間市藤沢方面に行く浅間山通りがあります。しばらく前から、その途中で橋の架け替え工事が行われていました。↑隣りに仮設橋が架けられて迂回するようになっていたのが、元の位置の橋が渡れるようになっていました。老朽化による架け替えかと思っていましたが違うようです。不老川緊急治水対策としての架け替え工事です。平成28年の台風9号による豪雨では、狭山市と入間市で甚大な浸水被害がありました。↑不老川下流方向を見ていますが、普段は水害が起きるような川とは思えません。埼玉県で、平成29年度から令和4年度の6年間で行う不老川浸水対策特別緊急事業の一つが、この富士見橋の拡幅のための架け替えです。↑上流方向はしっかりした護岸が造られていました。入間市で3時間に200ミリ超という降雨を記録したといいますから、この橋がボトルネッ...

  • 越谷にある石神井神社と公園内の腰巻稲荷神社と越谷アメダス

    石神井神社と聞いて、練馬区にあるのだろうなと思う人は多いことでしょう。本当は難読地名のですが、すっかり有名なのでシャクジイと読めるのだということです。↑しかし、越谷市西新井にある石神井神社は、イシガミイと読むそうです。ある意味、この方が自然な読み方と言えそうです。天正年間(1573〜79)創建といい、江戸時代の新編武蔵風土記稿にも記載されており西新井村の鎮守でした。それでは石神社となっているので、なぜか途中で井の文字が入ったようです。本殿左には富士塚があります。頂上には浅間大神の石碑があり、右側は磐長姫命と彫られています。左は富士講の碑のようです。石神井神社を南に少し行くと大きな公園がありました。正式には公園というより県民健康福祉村という埼玉県の施設でした。埼玉県の緑の中の健康増進施設として設置されたもので、屋内温水プールや多目的グラウンドがあり、健康づくり...

  • 畠山重忠がいたという菅谷館跡と埼玉県立嵐山史跡の博物館

    嵐山町の国道254号を走っていて興味があり行ってみたいと思うながら、これまで行けていないところがありました。埼玉県立嵐山史跡の博物館です。ここには隣接して菅谷館跡という城跡もあるといいます。↑左側が国道バイパスですが、入り口からすぐそれに沿うように空堀があり、気分も盛り上がります。駐車場の奥が博物館ですが、その目の前には土塁があります。まずは城跡見学の予習も兼ねて入館料100円を支払い、博物館に入ります。県立博物館だし、安いとはいえ一応有料なので期待していたのですが、展示されているものは量的にも質的にも、失礼ながらよく市町村にある歴史博物館にあるものとと同じようなものでした。博物館敷地も含めて城内なので、建物裏口から出るとすぐに菅谷館跡です。この城跡の方は期待以上によく保存されており、空堀も結構深く大きなものでした。毒ヘビ(マムシ)注意との看板は有り難いのですが、...

  • 奥武蔵自然歩道と登ってもあまり達成感の感じられない高麗峠

    奥武蔵自然歩道は、飯能市の天覧山、日高市の高麗峠、巾着田、日和田山、高指山、さらに毛呂山町の物見山、鎌北湖までの約11キロメートルに渡る、文字通り奥武蔵の山中を散策できる道です。国道299号沿いのカインズやマミーマートの飯能武蔵丘店前には入り口がありました。ここは起点ではなく、すでに天覧山は過ぎており「高麗峠入口」と書かれた看板がありますが、地図で見ると割と近そうなので立ち寄ってみました。気楽に来ましたが、思ったより急な石段がまずはあります。暑い日でしたが、木蔭のため比較的涼しいです。↑しばらくすると、斜面も緩やかになり、下には沼らしきものが見えます。これは最初の入り口正面から行けそうなので、帰りに立ち寄ってみます。さらに進むと少し広い空間があり見づらいですが「アオダモの森」と書かれています。アオは青、タモは木偏に佛です。ここは分かれ道となっており、高麗峠は左右どち...

  • 吾野にある日本武尊も流星もやって来たという借宿神社と大きな岩上の弁財天

    西武池袋線の終点は西武秩父駅と思っている人は多いでしょう。西武秩父線があることを知っている人は飯能駅と思うでしょうか。しかし、実は吾野駅です。↑そんな吾野駅近くに借宿神社があります。 吾野村は合併しており、飯能市長沢になります。国道299号下り吾野トンネルを出てすぐ目の前です。借宿という珍しい名前ですが、江戸時代の新編武蔵風土記稿によると、創建伝説では日本武尊が東国平定の際にここを一夜の宿としたことからこれを祀って社を建立し、「借宿」と名付けたといいます。また、江戸時代末期の安政2年の『高山案内記』では、流星が入間野の臥龍山へ飛んで行く途中、東山麓の長沢宮、つまり当社に休んだところから、ここを借宿明神と呼ぶという流星伝説があります。↑この神社は狛犬が有名だということですが、特徴が特にはなさそうに感じられます。↑しかし、正面ではなく社殿右の方にある狛犬は確かにユニーク...

  • 伝説の地こわしみずと斜面林にある松宮稲荷神社と関越道の蓋かけ

    東京都の地図を見ると、中央部に北側にちょこんと飛び出たところがあります。清瀬市下宿と旭が丘で、関越自動車道とJR武蔵野線が交差する辺りです。↑ここには伝説の地こわしみずという石柱がありました。ここには一年中水が湧き出る泉があり、働き者の百姓さんが飲むと甘いお酒の味がするということです。武蔵野線沿いの斜面となった林にあり、線路の北側には柳瀬川が流れていて、こうした斜面林がいくつもあります。泉は昭和48年に武蔵野線が通るまで実在しており、住居標示も清戸下宿字清水でした。毎日ほろ酔い機嫌で帰るのを不思議に思った息子が泉の水を飲むとただの水でした。親はきき酒、子は清水ということで「こわしみず」だというでした。名前からホラーを想像していましたがギャグでした。↑少し南の斜面林には松宮稲荷神社があります。高低差があるので、南の坂道の道路の途中から参道への石段があります。江...

  • 入間川沿いにある野田河川公園の湧水と江戸時代の石造物群

    谷田の泉という入間市の湧水を見たのは春のことでしたが、夏にこそ湧水を見たいと思います。入間市による観光パンフレットの7つのコースのうち「湧水をめぐる」には、野田河川公園の湧水も載っていました。「ハケの崖から滝のように流れ落ちる湧水です」という表記に惹かれ行ってみました。最初はどこなのかと思ったのですが、確かに水音がします。↑少し大袈裟ですが滝といえば滝となって湧水が落ちていました。マムシに注意と書かれており、この季節は草村には近付きづらいです。↑水はそのまま入間川に流れ込んでいるのでなく、すぐ近くの小さな池まででした。野田河川公園はその名のとおり、野田にある入間川の河川敷の公園です。↑先程の斜面では周囲との高低差がわかりにくいですが、すぐ近くでは大掛かりな構築物となった階段があるので高さがわかります。まずは、階段上に上がってみました。住宅街となっているのですが、...

  • 実は城山公園だけでなく本当の城跡もある稲城市大丸城と円形をした都営住宅

    半年ほど前に行った稲城市向陽台にある城山公園は、大丸城跡なのかと思いきや、なんちゃって城跡でした。でも、本当に大丸城はあったということなので、そちらに行ってみました。多摩川の是政橋の右岸側、南武線南多摩駅からさらに少し南です。↑道路に架かる城山橋から見て、左方が城山公園や稲城市立中央図書館、右方が大丸城のあったところです。↑山城らしく斜面を登っていかなくてはなりません。木々が生い茂っているので暑さよりも、夏のこの時期は蚊やハチ、マムシなどに注意が必要です。稲城市だけでなく、多摩市、八王子市などで昭和の終わり頃、多摩ニュータウン開発のため大規模な造成工事が行われました。ここのような風景の広がる地区だったのでしょうが、周囲は中高層建築物や戸建て住宅が多数あります。↑やがて、予想外の舗装された、ベンチのある狭い広場にでます。しかし、大きな木々があり景色は見えませんし、隙...

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