プロフィールPROFILE

すずたさんのプロフィール

住所
東久留米市
出身
豊島区

小さな旅の行き先は、史跡めぐりや川の源泉、古墳、庭園ほか、何でもあります。

ブログタイトル
まち歩きで趣味探しと図書館めぐりを自転車で
ブログURL
http://tosyokan-bicycle.cocolog-nifty.com/blog/
ブログ紹介文
まち歩きプラス折りたたみ自転車(DAHON Speed P8)で、毎週小さな旅に出ます。今日はどこに行こうか。
更新頻度(1年)

48回 / 332日(平均1.0回/週)

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すずたさんの新着記事

1件〜30件

  • ときがわ町の雀川にある砂防ダムは公園が併設されていて駐車場もある

    砂防ダムまたは砂防堰堤といえば、通常は目にすることのないような山奥にひっそりとあるというイメージです。現に前回は、赤坂沢の砂防ダムにたどり着くことが出来ませんでした。↑ときがわ町にある雀川砂防ダムは公園内にあり、しかも駐車場もありますから、気軽に行くことのできる珍しい砂防ダムです。埼玉県道30号線からの西に向かう入口は標高106メートルほどで、そこには案内看板もあります。↑雀川砂防ダム公園といい、その地形を生かして、お花見・イベント広場、展望広場、渓流広場の3つのゾーンに分かれています。ダムを下から見ることができるところが、お花見・イベント広場です、ここの標高は150メートルほどです。↑メインのダムの手前にもう一つ少し小さなダムもあるようです。確かに砂防ダムというと、川の急流部にいくつか連続で設置されているイメージがあります。砂防ダムは土石流を食い止めますが、いくつか...

  • 八高線から見える越生総社の春日神社とたどり着くことが出来なかった赤坂沢

    JR八高線の越生駅から少し高崎方面に向かうと、車窓からは右に神社が見えます。車でその前を通ったので立ち寄りました。↑高麗川から先は電化されていないため架線がないので、八高線も写っている写真を撮ろうかとしました。しかし、この辺りは1時間に1本程度しか走っていないため、列車とのセット写真は撮れませんでした。↑越生総社春日神社と刻まれています。延暦元年(782年)創建とされ、内裏山獅子岩の傍に祭祀されていたものを、征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷征伐の際に、この地に宮殿を築いて内裏大明神を祀ったといいます。↑随神門もあります。さらに、平将門が当地に内裏を置いたとされ、延喜年中に将門の伯父である平国香が修繕したともいいます。社伝にしても、有名人がずらりと出てきます。↑左は拝殿、右は神楽殿ではなく舞殿と書かれていました。松山城主上田能登守の再建を経て、寛政14年に内裏大明神春...

  • 国分寺市都市計画道路の熊野神社通りの未開通部分と江戸時代の土木遺産と熊野神社

    国分寺市内でJR中央線の500メートルほど北を、東西に走っている広めの道があります。国分寺3・4・6号線という都市計画道路で、熊野神社通りと言われています。国分寺駅周辺から東側や西国分寺駅というか府中街道から西側は完成しています。 ↑その府中街道の東側は拡幅できる用地は確保されていますが、歩行者以外は通り抜け出来なくなっています。左にあるガストのさらに左の北側にある狭い道が、車にとっての「熊野神社通り」となっています。 ↑道路名になっている熊野神社がどこにあるのか知りませんでしたが、こんな所にありました。府中街道から100メートルほど東です。最初は、熊野神社が道路計画線の延長線上にあって、そのため道路が完成しないのかと思いきや、そうではないようです。 ↑計画線はここから少し北東に向いているようで、そこにも用地取得が完了したらしき空き地があります。まあ左の旗竿は移設し...

  • 縄文時代の八幡谷戸の高台に立つ奈良橋八幡神社と幼稚園と東大和市を一望できる眺め

    鎌倉時代に発達した鎌倉街道上道が東村山市を南北に貫いていますが、その支道が東大和市にあるといいます。伝鎌倉街道ということで、奈良橋辺りを南北に通っており、市立郷土博物館前の道になります。 ↑八幡通りと名付けられており、その名の通り、八幡神社があります。地名から奈良橋八幡神社といわれているようです。道路も多摩湖のある狭山丘陵に向けて登り坂になっていますが、神社に向けての階段も急傾斜です。 ↑階段を登り切ったところで、参道を右に向きを変え、一の鳥居があります。ここからの参道はかなり広くなっているというか、奥から車で入って来られるようで駐車場と道路が一体となったような構造です。 ↑社務所らしき建物の奥には幼稚園があります。大和八幡幼稚園といいますが、確かになぜか神社に併設されている幼稚園をよく見かけます。広い土地があるからなのでしょうか。 ↑手水舎やニノ鳥居の手前に、...

  • さいたま市にある秋葉神社は関東総社で1250年も前に創建という

    秋葉神社といえば、遠州静岡県にある火除けの神という印象があります。さいたま市内を車で走っていたら、その秋葉神社の関東総社という看板があったので行ってみました。JR埼京線指扇駅の北、国道16号線西大宮バイパスの北で、県道57号さいたま鴻巣線からの秋葉通りという道沿いです。秋葉神社公園という広い公園の奥に駐車場があり、その向こうに境内はあります。江戸時代に江戸で火事が多発していたため、秋葉信仰が広まったということなので、この秋葉神社もその頃のものかと思っていました。ところが、境内にある案内板によると、聖武天皇の世、天平年間創建とありますから、729年から749年の間ということになります。↑西側から入ってきましたが、鳥居は社殿の南側にあります。調べてみると、秋葉神は山岳信仰から発したものが神仏習合により秋葉山大権現として信仰されるようになったといいます。一に剣難、二に火難、...

  • 所沢市と三芳町に跨がる三富地域の総鎮守である神明社と教科書にもあった人々の名

    所沢市に中富と下富が、三芳町に上富という地名があります。これは江戸時代の上富村、中富村、下富村の名残です。↑所沢市中富にある「村社 神明社」です。元禄9年(1696年)に川越城主であった柳沢吉保がこの辺りを新田開発し、上富村、中富村、下富村の三ヶ村を開いたといいます。三富新田といわれています。↑手水舎と神楽殿の向こう側は、引き続き多聞院の敷地になります。開村の際、ここに一寺一社の制に基づき、鎮守の宮として毘沙門社と多聞院を創立したといいます。宝暦11年(1761年)(入間郡誌では宝暦8年)には境内に神明社を勧請しました。 ↑その神明社の拝殿です。明治時代になって神仏分離令により、神明社と多聞院に敷地が分けられるようになっています。明治45年には、享保年間には幕府直轄領として開発された所沢新田等の富岡地域の七社も合祀されたといいます。 ↑本殿は比較的最近に再建さ...

  • 青海南ふ頭公園で見た新しい埠頭や東京国際クルーズターミナルの整備

    青梅駅と青海駅を間違える人がいると言います。青梅市のJR青梅線の青梅駅と江東区にある新交通ゆりかもめの青海駅ですから、本当に間違えてしまったら、取り返しがつきません。青海埠頭においてかなりの数のヒアリやその女王が発見されたというニュースも気になるところですが、青海南ふ頭公園に行きました。↑ところが工事中で、肝心な海沿いの大部分が閉鎖されていました。見慣れない防波堤などが造られているようです。↑入れる範囲では、コンテナ埠頭はかなり遠くて、荷物の積み下ろしもよく見えません。以前には船がいないと思われるところに海上保安庁の船が停まっています。↑正面を見ると、こちらと並行して防波堤と岸壁らしき物があります。さらに右を見ると、海の上に建物が建設されています。東京税関の船が停泊しているため見づらいですが、対岸の大井埠頭ではありません。アップにしてみると、お分かり頂けるでしょ...

  • 瑞穂町で不老川の源流はどこにあるのか流れを遡って探してみる

    不老川は、主に埼玉県内を入間市、所沢市、狭山市を通り、川越市で新河岸川に合流する河川です。埼玉県道179号所沢青梅線の入間市宮寺の上流浄化施設のある辺りが、正式には上流端になります。 しかし、いつものパターンですが、ここからさらに上流にも川の流れがあります。そもそも上流端に浄化施設が必要なわけありません。 ↑東京都瑞穂町の上流方向を見ていますが、写真では混乱を招くことに矢印があり埼玉県と書かれています。これは道路が東京都と埼玉県の境界となっており、ここから手前側の道路を埼玉県が管理する補修境界を示したものです。 ↑奥に見えていたのは、東京都瑞穂町の元狭山雨水調整池です。都内の水で埼玉県に水害の迷惑をかけないようにということでしょう。 ↑南へ上流を目指して進むと不老川の流れはこの少し先、国道16号線の瑞穂第三小入口交差点すぐ近くで暗渠となってしまいます。しかし、さら...

  • 入間市宮寺にひっそりと鎮座する出雲祝神社が延喜式神名帳の入間郡5座か

    多摩湖や狭山湖のある狭山丘陵の北を通る県道所沢青梅線を西に向かい、所沢市を抜けると入間市宮寺です。県道からは奥まった小高い丘の上に出雲祝神社があります。北側からの参道は通行できなくなっていました。表参道は東側にあるようです。村社出雲祝神社と書かれています。説明板には、延喜式内社で第十二代景行天皇の時に創建され、大宝2年(702)に再建されたとあり、その棟札もあるようです。平安時代の延喜式神名帳にある入間郡5座のうちのひとつということです。しかし、階段を数段上ると一ノ鳥居があり、そこには寄木宮と書かれています。鳥居の奥の参道の右には旗竿と思われる長い木が屋根付きで置かれています。延喜式内社の出雲イワイ神社は、いくつかの論社があるようです。2年前に行った毛呂山町にある出雲伊波比神社も論社の一つです。参道を進むと、さらに階段があり、二の鳥居へと続きます。↓二の鳥居...

  • 自転車で浦所バイパスの所沢インター周辺を右側歩道に迂回しないとどうなるのか

    浦和所沢バイパスを西行きに進むと、国道254号線との英インターを越えた「坂の下交差点」の歩道上に案内板があります。「歩行者自転車のみなさまへ」とあり、図の通り「迂回願います」と書かれています。 関越自動車道の所沢インター出入口があるところは、多くの車が左へ高速道路に入っていきますし、逆に左からバイパスに合流してきます。自転車は車道走行が原則とはいえ、そのまま車道を直進するのは危険なのはわかります。しかし、右側歩道を自転車で走行することをいやがるサイクリストもいそうなものです。 左側歩道で迂回すれば良さそうなものですが無理なのでしょうか。↑そのまま西へ左側歩道を走行していくと、700メートルの長い登り坂の先に所沢インターの入口があります。そのさらに左には歩道があるように見えますが、40キロ制限の標識があることから自動車も通れる道路です。 ↑バイパス...

  • 薬師池公園の名勝正式名である福王寺旧園地という謎と国指定重要文化財や都指定有形文化財などの旧家建築物

    東京都指定名勝となっている町田市の薬師池公園ですが、正式には「福王寺旧園地」という名称で指定されています。薬師池という位ですから薬師堂があるようなので行ってみます。ただし、地図や案内板には薬師堂の表示はありますが、福王寺という表示はないので、その辺も確認してみます。 ↑公園内の階段の登り口の所に「薬師堂参道」と書かれています。階段を登っていくと、まずは巨大な御神木がまず目をひきます。 現在は「野津田薬師堂」と言われているこの薬師堂は、奈良時代である天平年間(729〜749)行基の開基と伝えられています。しかし、鎌倉時代末期の新田義貞の鎌倉攻めの時に焼失してしまったようです。200年以上後の元亀4年(1576)にこの地に福王寺として再興されました。 ↑現在の薬師堂は明治16年(1883)に再建されたものです。前回見てきたように農業用水池として薬師池が作られた頃は、福王...

  • 新東京百景で東京都指定名勝でもあり日本の歴史公園100選にもなっている町田市の薬師池公園

    薬師池公園は1982年には「新東京百景」に選ばれ、さらに1998年には「東京都指定名勝」に指定されました。その上2007年には「日本の歴史公園100選」に選定されたという町田市を代表する公園です。↑都道18号府中町田線(鎌倉街道)沿いにあるのですが、道路が高い位置にあるため、幹線道路沿いであることを感じさせない落ち着いた雰囲気です。野津田薬師のほとりにある池ということで薬師池といわれています。 ↑池の南から北を見ると、東も西も土地が高くなっていることが分かります。しかし、ここは自然の池ではなく、江戸時代に造られたものだそうです。 ↑二連の太鼓橋もあります。寛永年間(1624〜43)に農業用水池にするために耕地を潰して溜井にしました。長さ70間(126メートル)、横28間(50.4メートル)もの大きさで十数年間かけて築いたそうです。 東と南と西を尾根に囲まれたような...

  • 石田堤が破堤したという地点と鴻巣市の史跡公園にある堤の断面

    石田三成による忍城水攻めの際に築かれたという石田堤の行田市の現存しているところを見てきました。新忍川の堀切橋が鴻巣市(合併前の吹上町)との境界ですが、その堀切橋は土木学会選奨土木遺産となっています。 ↑北の行田市方向を振り返って見ていますが、親柱頂部に尖頭半球が施されています。この高欄には三角形の空間があるデザインとなっています。昭和8年(1933)に竣工しましたが、屋外アート風の橋であることから土木遺産に選奨されたそうです。 ↑南の鴻巣市側を見てみると、幾何学模様が描かれているのもわかります。高欄の影に三角形があるのも面白いです。忍城水攻めの時は、この堀切橋のところで石田堤が破堤して、石田三成率いる豊臣軍に多数の犠牲者が出たということです。 ↑堀切橋から南の約300メートルも石田堤が保存されており、鴻巣市指定史跡として石田堤史跡公園となっています。東屋や説明板など...

  • 石田三成による忍城水攻め時に陣のあったところからの眺めとその時に築かれた石田堤

    戦国時代末期、豊臣秀吉は関東地方に勢力を持つ小田原北条氏と戦うことで関東を平定して、天下統一することを目指していました。小田原城の支城であり、行田市にある成田氏の忍城への攻撃を石田三成が命じられました。 ↑石田三成は、同じく行田市にある埼玉古墳群の丸墓山古墳から忍城付近を眺め、その地形から水攻めをすることを決めたと言われていました。しかし、実際には石田三成が考えたというよりも、豊臣秀吉の強い意向により水攻めは行われたようです。 ↑丸墓山古墳は高さ19メートルありますから、確かに忍城周辺の地形はよく見ることが出来ます。忍城を取り囲むように堤を築いて、利根川、荒川の水を引き込み水攻めをしようとしたものでした。天正18年(1590)に石田三成らは城を包囲し水攻めをすることとし、堤は石田堤と言われています。 ↑丸墓山古墳古墳から南へ向かう道も堤の一部とのことです。全長28キロ...

  • 利根川の水を東京都の水道水に利用できる仕組みとしての利根大堰

    東京都の水道水というと、都内にある奥多摩湖や多摩川のイメージが強いですが、実際には違っています。多摩川水系は全体の2割ほどで、荒川や利根川水系が8割ほどを占めています。 ↑その利根川の水を利用するために利根大堰があります。埼玉県行田市と群馬県邑楽郡千代田町の境界にあります。太平洋の利根川河口からは154キロの地点と言います。 確かに以前は多摩川に大きく依存していた東京の水ですが、昭和の高度経済成長期から増えていく水需要に応える必要が生じていました。そこで昭和38年(1963)に利根導水路計画により、利根川の水を利用することとなりました。 ↑利根川右岸側にある取水口を堰の下から上流に向けて見てみると、川幅も取水口も広いです。この計画により、昭和40年(1965)に武蔵水路が完成し、昭和43年(1968)に利根大堰も完成しました。 ↑堤防となっている土手の下を潜って、...

  • 霞川の水源に係るもう一つの説は平将門の後裔を名乗る三田氏が創建した天寧寺

    前回は、青梅市の霞川の上流端から西へ鉄道公園や永山公園方向に向かいました。風の子太陽の子広場内の池やその奥にある山々の谷戸が水源となっているようでした。 しかし、調べてみると、この上流端から川の水源は北の方角にあるという説もあるようです。↑つまり、都道28号青梅飯能線成木街道の北の方向になりますから、霞川はここで直角に曲がっていることになります。 道路下にあり見られなかった河の流れが、根ケ布交差点で都道から分かれる天寧寺坂通り沿いにありました。その天寧寺の総門の横を山道に沿って流れています。 元々この地には平将門創建と伝えられる真言宗高峯寺があったといいます。高峰山天寧寺は、領主でありすぐ近くの勝沼城主である三田氏が文亀年間(1501〜1504年)に創建した寺院です。この天寧寺の奥に霞川の水源の霞池があるというのです。 ↑総門から山道を進むと、山門は左にありますか...

  • 青梅市にある霞川の上流端からさらに源流を探しに行く

    東京都青梅市から埼玉県入間市を通り、入間川に合流する霞川があります。青梅市東青梅駅近くで都道28号青梅飯能線成木街道が南北方向に通っています。その鉄道公園入口交差点にある柿沢橋の所が霞川の上流端と表示されています。 しかし、他の川と同様に東京都の河川管理上での上流端なだけであって、実際にはここが水源ではありません。道路を挟んで反対側に少し西へ行くと、すぐに流れを見つけることができます。 永山公園通りという道で、鉄道公園へ向かう道ともなっています。この道路の左側つまり南側は斜面となっています。 ↑やがて、永山公園通りはその斜面を上って行くので、下の川に沿った道をいきます。上流に向けて西へしばらく進むと、風の子太陽の子広場入口という看板のところで、南西からの流れが合流しています。↓左奥からの流れと右奥からの流れがあるということです。 まず、右奥つまり北東に向かいます...

  • 大和時代はどうかとしても平安時代にはあった狭山市の廣瀬神社と樹齢400年のねじれた梅の木

    狭山市にある廣瀬神社は、社伝によれば創建は古く、3世紀の大和時代の景行天皇の御代、日本武尊東征の折だといいます。ここを流れる入間川が大和国広瀬の地によく似ていることから、廣瀬神社から分社したとのことです。しかし、元の大和国の廣瀬神社の創建が天武天皇の頃といいますから、ちょっとあり得なさそうな話でです。そうは言うものの、嘉祥3年(850年)の文徳天皇実録には、武蔵国廣瀬神社が記載されているといいます。これまでもいろいろ見てきた延喜式内の神社では、中氷川神社のようにいくつかの候補があるケースも多いようですが、ここは違うようです。廣瀬神社は入間郡五座の一つですが、ここ以外にはないようです。延長5年(927年)に延喜式神名帳は書かれていますから、平安時代にはこの神社はあったということです。↑拝殿の御神号額は明治の三筆といわれた野村素介によるものです。↑御神木の大欅二本も古く...

  • 北本市の石戸城とそれを攻める北条氏邦が一夜にして築いたという一夜堤

    石戸城は天神山城ともいわれる北本市石戸にある城跡です。室町時代長禄年間(1457~60年)頃の城といいます。 ↑荒川沿いの河川敷にある天神下駐車場から見上げていますが、荒川の堤防にもなっている桜堤通りに沿って石戸城はありました。扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門が築城し、北上する北条氏に備えるため、岩付城、松山城、川越城を結ぶ防衛ラインの一部を担っていました。 ↑その桜堤通りを南に向かい北を振り返ると、一の郭があったところを道路が分断して通っています。一の郭の左側が荒川になりますから、西側は要害となっています。 ↑さらに南に行くと、五の郭のあった辺りに北本市教育委員会による説明板があります。奥の方が三の郭になります。永禄6年(1563)北条、武田連合軍が松山城攻めした時には、援軍のため上杉謙信が上越越えをして石戸城に逗留したといいます。 ↑そこにある地図になります。埼...

  • 富士見市の武蔵野台地の端に突き出た氷川神社とそこにある湧水

    国道254号線バイパス沿いに沿っては、ららぽーと富士見、またすぐ隣には市役所もあります。この辺りは、武蔵野台地が舌状台地となって突き出た部分との間の高低差を見ることが出来ます。 ↑鶴瀬駅のある南西方向に向けては、道路も登り坂となっており、高さの差は10メートルほどになっています。奥に見える木々の生い茂ったところは、氷川神社の鎮守の杜となっています。 道路を挟んで、諏訪神社とこの氷川神社は向かい合っています。どちらも、古代の住居址が数多くあるところに建立された神社です。 ↑狛犬は溶岩の上にいて迫力があります。獅子山というそうです。 ↑拝殿にはネコが昼寝していましたが、割とこれは日常的な風景だそうです。創建は不明ですが、江戸時代の正徳元年(1711)に社殿が再建されたという棟札が現存しています。 ↑参道の途中には、下に向けて降りて行く階段があり、「雲居の瀧」と書か...

  • 以前は滝山城跡にあり北条氏照によって移された蔵王権現社であった丹木御嶽神社

    国道411号線滝山街道沿いの小高い丘の上に御嶽神社があるというので行って来ました。八王子市丹木町の滝山城跡のすぐ近くなのですが、登り口が分かりませんでした。 Googleマップにも載っていませんでしたが、南側からのルートの見当をつけて行ってみました。 ↑急な上り石段があります。村社御嶽神社と書かれています。 ↑途中で後ろを振り返っても急坂であることが分かります。やがて南東方面からのもう一つの参道につきます。 ここを左に行くと、御嶽神社本殿です。その歴史は古く、往古蔵王権現社と称し高月村にあり、今の滝山城跡山頂に蔵王堂が鎮座していたと言います。 社の立は推古天皇代(595年)といいますから、滝山城があるはずもない頃の話です。藤原時代の康平2年(1059年)源義家が社を再興し社殿を新築したといいます。その後、現地への移転が行われることになります。...

  • 崖の上にあり豊富な湧水となぜか神社もある日野市立中央図書館

    JR中央線の豊田駅近くにある日野市立中央図書館のすぐ裏は木々があり林となっています。そして、そこは崖となっています。 図書館建物の裏に行けるようになっており、そこには八幡神社があります。 その図書館の木々の生い茂った裏庭のようなところから南側は、崖になっています。 日野市には数多くの湧水がありますが、ここもその一つがあります。「図書館下湧水」といい、毎秒17リットルの水が湧き出ているそうです。 この左からも既に水が流れて来ていますが、すぐ先のコンクリートと地面の隙間から流れて来ています。 崖の林にしみ込んだ水が大量にあるのでしょう。図書館下湧水は、東京都環境局による東京の名湧水57選の一つに入っています。この南側から図書館に向かうには、鳥居をくぐって行くという不思議な風景となっています。...

  • 本富士警察の名前の由来となった本郷にある富士浅間神社と東大内の庭園

    文京区本郷に本富士警察という警察署があります。左隣にある消防署は本郷消防署という名称ですから、警察はなぜ「本富士」なのか不思議でした。 これまで存在に気付いていなかった神社がすぐ近くのビルの隙間にありました。そこにあった文京区教育委員会による説明板で謎が解けました。 ここは明治5年(1872)から昭和40年(1965)まで「本富士町」という町名だったといいます。なぜかというと、加賀藩本郷邸の跡地であった東京大学本郷キャンパスに「富士浅間神社」があったからだそうです。 江戸時代には「椿山」と呼ばれる小丘があり、それが「富士山」「富士塚」などと呼ばれ、富士浅間神社が祀られていました。現在のこの位置ではなく、数百メートルほど離れた赤門を入った右側の辺りだそうです。ではここになぜ神社があるかというと、明治4年には、加賀藩本郷邸は国に接収されました、 前田家は旧加賀藩邸の南...

  • 越生町にある越辺川の黒山三滝と予想外の森林の所有者

    東京都からそう遠くない白鳥飛来地ということで、埼玉県川島町の越辺川に5ヶ月ほど前の冬には白鳥を見に行ったところです。越辺川と書いて「おっぺがわ」と読む川の源流の一つであり、滝もあるという黒山川に行きました。 ↑梅林で有名な越生町にあり、滝に行くための駐車場横を流れている川でも既に源流感があります。3つの滝があり、黒山三滝とされています。車で来たのですが、駐車車両も多く予想以上に観光客がいました。 ↑坂道を10分近く歩いたでしょうか、左に天狗滝への入口があります。周辺の地層が美しいです。滑らないように注意しながら登って行くと、すぐに到着です。 ↑落差13.6メートルという天狗滝(てんぐだき)です。周囲の石は珍しい赤色チャートだそうです。 ↑元の道に戻り、残り二つの滝を目指しますが、昔ながらの土産物店があります。写真左側が川の流れ、右側が店を見ながらの道になってい...

  • 今では誰も13号地とは呼ばなくなった臨海副都心の埋立地にあるアクアシティお台場神社

    神社といえば、歴史的に古くからある町や村にあるものと思われます。お台場のある臨海副都心は、昭和時代に東京湾を埋め立てたところに開発された街ですから、神社なんて無いと思っていました。 ↑でも、アクアシティお台場の6階から7階へのエスカレーターの上り口に鳥居があります。何らかのイベントのためのものかとも思いましたが、7階に到着した所にも鳥居があります。 ニノ鳥居ということでしょうか。そして、その横にはおみくじの販売機があり、おみくじ結びところもありました。ちなみに100円のようです。 7階は最上階ではありませんが、屋上があり外に出られるようになっています。外には予想通りに三ノ鳥居があり、「お台場アクアシティ神社」という名の神社があります。 ここはなんちゃって神社ではなく、芝大神宮から御神霊を分けていただいているものです。御祭神は天照皇大御神、豊受大神です。屋上とは...

  • 豊田駅やイオンモールの近くにあって大量の湧水がある黒川清流公園とカルガモ親子

    イオンモール多摩平の森のすぐ近くには、まさに森があります。その森のある多摩平第6公園は崖の上にあり、南東方向に向けて下の方が見渡せます。ここは黒川段丘崖となっています。 高い所と低い所では10メートル近くの高低差があります。この周辺の敷地は公園や東豊田緑地保全地域として、崖の緑が残されています。 ↑それらを巡る黒川段丘崖散策コースの案内板もあります。ここには豊富な湧水があるといいますから見に行ってみます。 ↑坂を下りると、まさにジャージャーという音を立てて水が斜面から水路に流れ込んでいます。この斜面には立ち入りできなくなっています。 崖の斜面の部分が開発されずに保存されているため、至るところから水が湧くようです。少し上流側の清水谷公園には池があり、子育て中のカルガモの親子がいます。 ↑左側にヒナ鳥が5羽ほど円形に固まっています。みんながやさしく見守っている...

  • 多摩湖自転車道沿いの谷津仙元神社と富士塚とそこから南向きの謎の道

    多摩湖の南西の端近くの多摩湖自転車歩行者沿いに富士塚があるというので行って来ました。外からでは分かりづらいですが、少し高い山が築かれています。 入口も分かりづらいのですが、ここは谷津仙元神社の北西側からの入口というか参道になります。住居表示では武蔵村山市中藤ですが、谷津は地名のようですから以前の小字だったのでしょうか。入っていくと神社の社殿があります。 その横には教育委員会による案内板があり、市指定無形民俗文化財の谷津仙元神社富士講の説明があります。これは富士講を信仰行事として続けている都内でも数少ない団体だそうです。 ↑右には富士塚への登り口があります。神社には身禄山仙元神社と書かれていましたが、谷津地区に富士講を伝えた富士講中興の祖食行身禄からついているようです。 ↑頂上は平らな少し広い空間となっています。祠があり、浅間神社と書かれています。読みは同じです...

  • 所沢市三ヶ島にある中氷川神社の方が延喜式に記載されている神社なのか

    前回は、平安時代の延喜式にも載っていたという所沢市山口にある中氷川神社に行って来ました。ところが同じ所沢市内に同じ中氷川神社があり、こちらも延喜式に記載されていたという神社であるというので、2週連続で所沢市に向かいました。埼玉県道179号所沢青梅線沿いの早稲田大学所沢キャンパスの近くにあります。鳥居の横にはやはり「延喜式内中氷川神社」と書かれており、住宅の間に西に向けて細長い参道が続きます。拝殿前の案内板には「延喜式」神名帳に記載される「武蔵野国四十四座の一つ中氷川神社」と伝える古社であると書かれていました。境内が、北東から南西にかけて、非常に細長い形をしているところからかつて当社は長宮とも称されていたといいます。↑拝殿向背には虎の彫刻、光背柱には獅子と龍、水を吐いている龍、花の彫刻等も多数あります。覆殿の隙間から本殿を見ることが出来ます。本殿は一間造りで、側面や扉...

  • GHQも来たという所沢市山口にある中氷川神社は三氷川の中乃社という

    以前から前を通る時にちょっと気になっている神社の案内板がありました。埼玉県道179号所沢青梅線沿いの所沢市山口にある中氷川神社です。 「武蔵国三氷川中乃社」とあります。3つの氷川神社の真ん中にある中氷川神社ということでしょうか。 ↑一ノ鳥居を抜け、南から北に向かう参道の階段を上り、ニノ鳥居も抜けると、参道は西に向かう階段となります。約3500坪の狭山丘陵の杜ということですから、小高い山すべてが境内となっているようです。 「延喜式内祈年國弊社」とも書かれていましたから、平安時代の延喜式に記載されていた神社ということになります。入間・多摩二郡にまたがる92ヶ村の総鎮守とうことで、かなり広範囲の総鎮守です。本殿は大社造で、昭和22年(1945年)に造営されたものですが立派で、心の御柱25尺です。 本殿造営の少し前である、終戦直後の昭和20年(1945年)11月に連合国軍...

  • 東村山市役所近くにある平和塔公園の境塚、あちら側にあるという浅間塚と今後は見られないであろう景色

    東村山市役所や東村山警察署前の府中街道西武新宿線踏切を渡ったすぐ西のところに、平和塔公園があります。階段の付いた小さな山があるだけの公園で、この名称も不思議でした。↑この小山は「境塚」というようで、東久留米市教育委員会による説明板があります。江戸時代に幕府は武蔵野原の新田開発をすすめましたが、延宝、元禄年間には入会地の開墾をめぐって幕藩領主層と自立農民との対立も起りました。延宝8年(1680)には「境目絵図」がつくられたり、その後村々にはこのような境塚が築かれたということです。境塚の上には、昭和36年に平和の女神像が立てられたのでこの公園の名前となったようです。ここは元「大塚」で、今はなき「小塚」も近くにあったそうです。説明板には「あちら側にある」という表現で、浅間塚についても書かれています。しかし、「あちら側」が頂上からも見えないので、住宅街を探し...

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