アルコール依存症の病の奥底で入れ代わる光と影に自ら血を流しながらメスを入れる!
アルコール依存症は人生の転換をもたらす。 地獄の様な日々にも、きっと何処からか日が差し込む。 私や仲間の体験から、アルコール問題で悩む本人、家族の方に、 寄り添えるような記事を日々綴って行きたい。 共に歩こう……光の届くところへ。
早いもの。あまりにも早くすぎた日々。酒を断ち、苦しかった日々は次第に穏やかになり、ただ飲まない毎日を積み重ねてきた。2008年9月11日。最後の酒を家族の涙で溢れた絶望という溜池に捨て去った。間も無く真冬が訪れる枯れ葉の積もった静かな道を歩き
「今は今しかないのよ」もうかれこれ20年ほど前のこと。休日はパチンコ、夜は仲間と飲み歩いたりする私にシビレを切らせて、まだ小さかった2人の娘を抱きかかえながらカミさんが暗闇に灯を探すようにそう嘆いた。朝から晩までパチ屋に入り浸り、夕方になるとデジ
世の中、うまくは回れないようだ。「渡る世間は鬼ばかり」というより、「渡る世間は酒いらず」という感じ。自分の不器用さにほどほど愛想を尽かしている。世間の55歳と言ったら、もう将来の備えも済ませて暮らしも落ち着き、悠々自適の生活を満喫していてもおかしくな
なんて静かな朝の近い夜だろう。 静まり返った世界。 まだ少し、あの時の喧騒が脚元に寝転がり、酒が暗がりの端っこにしがみついている。 今、雪が止んだ。 白銀をライトに照らし、目の前をコンビニの配送のトラックが行き過ぎると、シーンとし
定年後の暮らしや生き方に戸惑う年配者のアルコール依存症が増えているという。酒にたよるしかない理由は、これまで会社という組織で役職を持っていたのがなくなると、自分の居場所がなくなる気がして居た堪れなくなるらしい。昨日までは部長、課長と会社の内外で持ち
こんな師走に山に登るなんて。どうかしてると誰かに言われそう。みんな仕事納めや大掃除なんかで小忙しくしてるというのに、呑気なものだと自分でも思う。山へ向かう道中、信号待ちの後、ほら、黒い軽トラが白い時間を急加速して追い越していった。
負けないもん。君は言った。あの町角で。乗り越えて見せろよ。僕は言った。通り過ぎた黄昏の風景の中で。一人呟くように。あれから1年。君の消息は掴めない。もう祈り疲れた。届かない思いを除夜の鐘に乗せるのは、初日の出を拝
もしも今日一日が感謝に満たされ充実していたなら、お酒なんていらない。 断酒という生き方とは、そういうことじゃないのか。 このまま一生飲めないことも、嘆かない。 苦労ばかり掛けたお袋とのお別れの際に、最後に互いに交わした言葉は「ありがとう
人は誰でも、いつだって、自分の生きる場所を探し求めてる。そして今と違うところなら、あるいは時代が変わったなら、もっと自分が生き生きと生きられるはずだと夢想する。 そうすれば、今の自分とはかけ離れ
こんな時間に起きることは何かの用事がない限り滅多にない。ましてやブログを書く心の余裕があるなどとは、自分でも驚いている。これを書いているスマホからは、Amazonミュージックの浜田省吾のオルゴール曲が、掌と、どんより曇り時折雨の降る景色が映る窓を見ながらト
子供の頃、とても不思議だった。美容院でパーマをかけてたお袋を待つ間、幼い私は三面鏡の間で左右の鏡を代わる代わる見ながら思った。互いに鏡が映り、どこまでもトンネルのように続いている。小さくなって見えなくなっても、必ずそのあとも続いているはずだと思い、
桜散るより寂しげな紅葉がまだ残っている。まるで黄色く染まったまま居られるみたいに。そこにあるのも、ただの石ころではなく、慈悲溢れる仏のように。 心奪われるような紺碧の空に、最後の枝葉を広げて宙に還るその時、その境に、
昨年暮れにまたひとつ、夜空の星が消えた。昭和の子供時代に夢と希望、この世の不思議と恐怖を物語の中で体験させてくれた大漫画家の水木しげるさんが亡くなった。巨星堕つ、とは言わない。亡くなる前に、娘さんたちに寿命は神様に任せておけばいい、この世は通過点
もう立ち上がれないような愛する人とのお別れに、人は涙を流し、悲しみや苦しみに孤独にただ耐え忍ぶ。誰かにすがりつきたくても、そんな自分の気持ちを本当の意味で理解してくれる人など、もうどこにも居ない気がする。ここに、とても短い詩がある。さり気なく、やさし
時折、小雨降る肌寒い夕暮れの里山。季節の花の通り。 凛と咲く、あまりの美しさに目を見張る。 燗酒よりも、お寺の街灯が愛おしい。 風は強く、散り積もる枯
ちぃさんにも、素敵なクリスマスプレゼントが届くといいですね。それは勇気の出る玉手箱です。それは浦島太郎が貰った老人になる煙なんかではなく、逆に先行きの見えない霧を払う清風の吹き出すサンタからのプレゼントです。 息子さんのことを知り、また弱さを見せ
スマホの壁紙を探していたら、不思議な写真を見つけた。今の自分の琴線の何に触れたのかは分からないが、見た瞬間にぐっと引き込まれ、じっと見つめた後に目を閉じてみると、画像の世界に私はいて、ベンチに腰掛けていた。 似合いもしない
あの春に生まれたばかりの葉っぱのフレディ。 青々と息づいていた夏が瞬く間に過ぎ去り、今年もまた、紅に染め上がったと思った矢先には、不意の風に落ち葉と化す。
「ヒデキ、還暦」カメラに向かってそう言い、自嘲気味に笑った。我らが青春スターの西城秀樹。「ヒデキッ!」歌の合間に相槌の黄色い声が飛び交っていた。小学生の時、テレビを観てカッコいいと思った。友達に、なりきり少年がいて、掃除の時間など箒をマイ
「いのちって何?死って何?どうして小さな子どもたちが死ななければいけないの?」小児ガンに冒され、小さな胸をかきむしられる思いで何度も問いかけた9歳の少年が、アメリカ精神科医エリザベス・キューブラー・ロスへその思いを託して手紙を書いた。それを受け
断酒に関して最近、考え方が定まりつつある。と言うのは、大したことはしていないにも関わらず、断酒とはなんぞや? そんな長年の疑問が、南極の極寒であるはずの白い雪の現在進行中の急激な崩壊の如くに氷解していったのだ。酔って何もかも忘れ、何もかもを手
昨日の休日の朝、起きてからしばらくベッドでダラダラしてた。ふとなぜか、最近テレビでも見掛けない藤本義一が気に掛かり、枕元に置いてあったスマホに手を伸ばして調べてみると、3年ほど前に既に亡くなっていた。知らなかった。かみさんに言うと、何を今更って感じだ
何にもいらなかった。田舎町の場末の歓楽街、オンボロの借家で家族3人、肩寄せ合い暮らした幼少の頃。冬、薄汚れた壁の隙間風が冷たかった。ダンボール箱を押し当て凌いでいた。雨が降ると、天井のあちこちからポトポト雨漏れ。おふくろが風呂場や台所からタラ
光と風。明るい山。急坂、苦しい道。ほっとする稜線、平坦な道。峠を越えて分疑点。道迷い、藪を漕ぎ、崖を這いずりながらでも上を目指すか、思慮浅く、短絡的に安逸求めて谷底へ落ちるか。 闇と心の隙間風。暗い山。 アルコール依存症者の登り続
アルコール依存症を死生学の観点から捉え直すと、さしたる問題でもない気がしないでもない。その時さえ良ければいいというのは、何も飲酒に限った話でもない。たとえば大学受験。友達と遊んだり、部活や趣味、好きなことに熱中せずに、将来安全で安定していて、幸福な
言葉は命だと言うけれど、言葉にすることによって真実から遠ざかるのが怖い。言葉にした途端に透き通っているものが濁ったり、形を変え歪めてしまったりもする。言葉は諸刃の剣。時に他人や自分を傷つける。たとえば、明るい未来が待っているからと、励ますつもり
青空の下、澄んだ空気に町が色鮮やかに蘇る。今日も1日、酒なしで気持ち良く過ごせそうな予感。都会のビルのジャングルでは、こんな視界は開けないだろう。田舎暮らしの特権。生まれてこのかた、そんな町にしがみついてきた。そこで誰もと同じく、学校に通い、
それでも光は降り注ぐ。どんな僻地にも。花も実もなくとも。酒に溺れた我が身に、行き場を失っちまった悲しみに。家族が離れ、友人に唾を吐きかけられ、母親が陰で泣いていても、まだ飲み続けた世界一の愚か者。そこから必死に立ち上がろう。もう何も問わ
もうこの不要なブログを閉じてしまおうか?そう思えるほど、書くことがなくなった。とは言っても、それはアルコール依存症についてのこと。やめてまだ6年しか経過してはいない。飲酒欲も無いとは言えない。言えないけれどやめられている。だから悩みがない。し
時は流れず、命も流れない。永遠に消えゆくだけの光景を見つめてる。もう二度と出会えない一瞬、一瞬。こんにちは、さよならばかりを繰り返す。過去も未来もどこにも存在せず、あるのはただ今ここのみ。それはまぎれもない死の間際の人の視線だ。ああ、なぜ
やがて年老いて、人生を総括せざるを得ない土壇場が必ず来る。もしかしたら重い病に伏したり、死の間際のその時になるのかも知れぬが、そうなってはじめて、本当にやりたかったこと、好きなことが見えたのでは遅すぎる。もはや体力、気力ともに失せ、なす術もなく枕を濡
恋でもなく、異性でもなく、金儲けや家族でさえない。ましてや一緒に並んで夕日を眺めてる余裕も無く、明日の太陽は約束されていない。 手段は目的を選ばず、目的は手段を選ぶはず。だから、なにが欲しいか
見つけなきゃ、早く大好きなことを。探さなきゃ、これだと言えるたった一つの大切なもの。 いつまでかかっているのやら。物心がついてからずっとじゃないか。 疎外され独りぼっちで、空や湖、緑を見てた青空の下。どこへ
台風第11号接近に伴い、外は風雨が強まってきた。昔、若い頃は夜中に車に乗って、そんな大雨の中を走るのが好きだったという、変な性格だった。大雪の日にもなれば、タイヤが滑るのが楽しくて、なんの技術も要らずドリフトを楽しんだ。現在では、人生それ自体が大
歳は取るのではなく重ねてゆくもの、時はなくしてゆくのではなく、砂時計の砂のように積もってゆくもの。そう感じる心が大切なのは分かる。店を改築しておよそ1年半経つ。かなり大掛かりだった。店舗兼住居だった建物は、空いた土地に独立した家を新築するために3
午前中のタスクを書斎兼事務所で終え、さて昼飯をと隣接する自宅に帰る。先ほど外の休憩所ですれ違ったカミさんが、今から病院に行くけど、昼食の準備をしておいたからと言った。血圧の薬が2日前から切れていた。昨夜は就寝前に少し肩を揉んでやった。だから凝る
私の存在などない。今、ここに起こっていること以外は。それを悟ると、すべては一つ、いわゆるワンネスであることを実感し、それまでの一切の悩みや心配事は消滅するという。これは精神世界では有名なある人の考えだ。正直、何となくニュアンスは分かるが、認識す
生きてることのこの悲しみは、沈む夕陽に滲んでいる。 生きてることのこの苦しみは、月が太陽に届かないこと。生きてることのこの慰めは、雲が風に流されること。そして、生きてることの幸せは、そんなすべてが余すところなく絆に結ばれていることを知ること。儚き幾多
誰も知らない、行かない、いない浜辺なら、子供の頃に戻り、思いっきり泣いてもいいかな?さざ波が銀色に輝きながら、懐かしいメロディーを繰り返す。風が心の隙間を吹き抜けてゆく。遠く近く、真正面に見える、陽炎のような竹生島との波間に面影が揺れている。もうどれくら
どう生きればいいのだろう?どうやって働けば、神や仏、そして人は許してくれるのか?許し⁉︎ 私は何か過去に悪いことをしたというのか?原罪。アダムとイブ。意地悪な神さんが、あんな場所にりんごの木など植えなきゃ良かったのだ。 業因業果、自因自果
人生は何度も無残にも夢を打ち砕く。思い通りにいかないことが、さも修練のようにして、悲しみだけを置き去りに、今日もまた過ぎてゆく。 この幸福な時を、もう少しだけ続けて欲しい。わずかな陽だまりに憩うその場所に、思いもよらぬ不幸せがズカズカと土足で踏み
あの頃のぼくたちは、今よりきっと輝いていた。それはただ若いからって理由だけではなく、純粋に人と世界に向き合っていたからだと思う。今なら、青臭いと感じることも、自然に心のままにやっていた。もしあのまま今日を生きられていたなら……。ふとそう思う。
今にも泣き出しそうなのに泣けない大人。いつでも明るくなれるのに笑わない子供。その矛盾する感情に揺れ動くのが死別体験者と言えるだろう。死別とは本書に書かれてあるように「大切であると思っていた人を喪失すること」であり、グリーフ(悲嘆)を伴う。さらに病や救えな
世界の知性、数え上げれば切りがなく、ニーチェやハイデッガー、さらに現代科学者や物理学、数学者、例えばアインシュタインなども一様に仏教に深い関心を示して、その叡智を学んでいた。 道学的なキリスト教を基盤とする西洋文明は
朝啓示によって目覚めさせられた。 それはまさに夢から覚めるようだった。ずっと考え続けてる一つの結果、小さな自己発見であり、たわいのないことかも知れないが記しておこう。私たちの生命は個別の存在として流れてゆく存在ではなく、生命全体として流れてゆく存在で
夢を見てた。森に包まれた薄暗い石段を下りたり上ったりしながら下り切ったところに昔の家がぽつんとあった。やけに重い裏口の錆び付いたドアを開け、脱ぎ散らかした靴やスリッパを隅に寄せて家に上った。すぐ右側の部屋のドアが開きっ放しで、亡くなったはずのお袋が
酒をやめようとしてもやめられず、苦しみ悩む人がこの記事を読んでくれているのだろう。私もそうだった。苦しくて悲しくて、孤独で不安でいっぱいだったあの頃。わけのわからぬ焦りもあり、自身を見失っていた。今はもう6年弱ほど断酒が出来ていて、そんな私に何か
あまりの天気の良さに浮かれて自分を取り戻すいつものフィールドに向かった。金色に輝く慈母菩薩の前、腹筋した後に石のベンチに寝転び見上げた青空は、小学校の時に初めて行ったスキー場で滑り疲れて見惚れたあの空に似ていた。 町を、
誰もが広い河の悲しみの岸辺に佇んでいる。渡る小舟を探している。時に愛は重荷となって掛け替えのない命や幸福さえ沈めてしまう。境界線上のこの刹那!渡る勇気はどこから湧いてくるのだろう。沈み方も泳ぎ方も知らない。大切な命を見送るだけで、立ち竦むだけ。何もできな
花は咲く。いつか咲く。今咲く。必ず咲く。咲き続けてゆく。不可思議な生命の永遠の途上に。生きているこの奇蹟。昨日咲いた花。今は風の中に香り立ちながら彷徨っている。どこに飛んでいったか、種だけ残し。土に眠ってまた花になる。生きているあの儚さ。今日咲いた花。今
SoundCloudというアプリに日本の歌が聴けるようになっていた。尾籠な話、トイレで何気なくiPhoneを弄っている内にそれに気づき、いつも以上に長居してしまったという次第。それだけ夢中になれるメロディーが狭い箱に臭い空気と共に充満していたってことになる。「田舎の歌
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