2020年12月8日に熊谷市荒川公民館で開催した講演会「熊谷ダイナミズム―息づく動の記録」の様子を動画で撮影し、YouTubeで公開しています。この講演会は埼玉新聞で連載していた「熊谷ダイナミズム」という熊谷の歴史とスポーツをオーバーラップさせながら着目する記事の情報に基づき、執筆者である熊谷市立江南文化財センターの山下祐樹が講師を担当しました。どうぞご参照ください。
5月27日、深谷市の大島工務店にて、保存修理委員会・建築小委員会を行いました。 市内平戸の源宗寺では、来月22日に新本堂の上棟式を開催予定です。現地での組み立てを前に、大島工務店では仮組みをして、組みの確認を行っています。 写真は、屋根部分の仮組みの様子です。想像以上に高さがあり、軒も当初の計画より長くしたことで、迫力が感じられました。来月の第2週目ごろから、現地での組み立てを開始する予定です。
国指定史跡「黒浜貝塚」VR体験 黒浜貝塚ガイダンスコーナー 蓮田市に所在する黒浜貝塚は、関東地方を中心とした縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標式遺跡貝塚であり、平成18年に国指定史跡に指定され、平成25年に追加指定されています。黒浜貝塚に隣接し、同遺跡からの出土遺物などを展示している蓮田市文化財展示館では、黒浜貝塚の全容や縄文時代の奥東京湾の変遷などを疑似体験できるVR(バーチャルリアリティ)システム設備があり、予約制で利用することができます。多方向から撮影した画像などが組み合わされ、臨場感ある遺跡探索を楽しみことができます。詳細については、同館ホームページをご確認ください。今後、このような新たな技術を活かしたVR体験展示などが増えていくのかも知れません。 蓮田市文化財展示館ホームページ https://www.city.hasuda.saitama.jp/ky..
市内平戸の源宗寺では、新本堂の建設が着々と進められています。 コンクリートが固まり、型枠が取り外され、基礎工事も仕上げの段階に入っていました。 また、市内久下の東竹院では、来月の上棟式に向けて、棟札を作成中です。棟札とは、建物の建築や修理の記録として、建物内部に取り付ける木の御札です。棟札には、建造の年月日やご住職名、大工の名、委員会の会員名などが記載されます。
講演会「金子兜太と哲学―兜太俳句と「定住漂泊」の思想―」動画の配信
本年3月に開催予定でした熊谷市俳句連盟主催の「金子兜太シンポジウム」は、同時期に発出されていた新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言によって中止となりましたが、講演会については無観客で収録し、約30分に編集した動画をYouTubeにて配信しています。撮影は熊谷青年会議所の協力を得て、熊谷市名勝「星溪園」積翠閣で撮影しました。 講演会では、熊谷の俳人である金子兜太氏(1919-2018)の作句思想ともいえる「定住漂泊」に着目し、西欧哲学との比較など、新たな金子兜太俳句像を探究する内容となっています。講師は江南文化財センターで文化財保護を担当する一方で、哲学研究の著作がある山下祐樹が担当しました。映像にはドイツ語での解説字幕を入れるなど編集し、哲学に関する情報の世界に向けた発信を試みています。金子兜太氏の生涯や俳句論を紹介する内容を基本に、俳句から捉える郷土文化や特色な..
藤原不比等没後 1300 年記念 熊谷市指定有形文化財「安楽寺九品仏」特別公開―報告会「不比等伝説と九品仏」―
令和3年5月22日、熊谷市西別府の安楽寺で藤原不比等没後 1300 年記念 と銘打ち、熊谷市指定有形文化財「安楽寺九品仏」の特別公開を実施しました。臨済宗円覚寺派「安楽寺」は、藤原不比等淡海(659-720)が丈六の三尊を安置して養老年間(717-724)に草創、武蔵国師藤原式部大輔任助の次男、別府左衛門行隆が六阿弥陀を増補再建し、九品仏堂としたと伝わります。安楽寺は、その九品仏堂の別当として、繁室玄茂和尚(文和2 年1353 年寂)が開山となり創建したとされます。公開に合わせて、報告会「不比等伝説と九品仏」(熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹)を開催しました。公開には約130名の来場がありました。壮観な九品仏に皆様、驚きと感動の感想を話されていました。講演会の様子は動画で撮影し、後日、YouTubeでの公開を予定しています。
5月20日、市内平戸の源宗寺にて、保存修理委員会・建築小委員会の細川末廣一級建築士、内島章雄一級建築士、施工を担当する大島工務店、江南文化財センター担当職員2名で打ち合わせを行いました。 本堂の基礎状況の確認に加え、今後のスケジュールなどについて協議しました。来月22日(火)には、関係者のみで上棟式を執り行う予定です。
熊谷市役所で「聖火をふたたびムーブメント」企画展示が5月20日までの予定で行われています。1964年の東京オリンピックの際に熊谷は聖火リレーのルートとなり、大変に盛り上がりを見せたといわれています。その記憶を今回の東京五輪パラリンピックに向けて紹介する取り組みが各地で行われており、展示が企画されました。熊谷市教育委員会の野原晃教育長は、当時、熊谷高校の陸上競技部に所属し、聖火リレーの走者として参加しました。その際に掲げたトーチも展示されています。今後、展示は市内外で予定されており、同実行委員会が発信をしていくそうですので、ご参照ください。現在、コロナ禍で東京五輪パラリンピックの開催について賛否ありますが、このような事態そのものも歴史の中での記憶として語り継がれていくことと思います。 2019年7月 毎日新聞の関連記事 https://mainichi.jp/articles..
先月末から、基礎工事に着工した市内平戸の源宗寺では、着々と工事が進められています。 コンクリートの流し込みまで進んでいました。奥の少し高くなっている部分が仏像が安置される内陣部分、手前の低い部分がお参りに来た人がお祈りをする外陣部分です。 (倉庫に搬入された旧本堂の虹梁) また昨日、施工を担当する大島工務店にご協力いただき、屋外で一時保管していた虹梁を倉庫に搬入しました。この虹梁は、旧本堂の向拝部分に使われていたものです。旧本堂の解体時に、保存のため取り外しましたが、あまりに大きく運ぶのが困難であったため、これまで、境内屋外にてブルーシートをかぶせた状態で一時保管していました。ここのところ、天気の優れない日が続いており、木材の腐食が心配されたため、大島工務店にお願いをして運んでいただきました。 先週、大島工務店に伺った際には、既に新本堂に取り付ける新たな虹梁も出来上..
本年3月、国重要有形民俗文化財に指定された「上尾の摘田・畑作用具」に関する紹介展示が、上尾市図書館2階ロビーで行われています。「上尾の摘田・畑作用具」は、上尾市域の台地部において、稲の直播(じかま)き栽培である「摘田(つみた)」と、麦やサツマイモなどの畑作に使用された総数750点からなる農耕用具のコレクションです。昭和50年代から上尾市教育委員会が収集を進めてきたもので、稲作や畑作の一連の作業に使用された用具が網羅されています。上尾市教育委員会の解説によると、この資料群は、台地上の農業経営や畑作地域における稲作の地域的な様相を知ることができるコレクションであり、日本の稲栽培や農耕文化を理解する上で特に重要であると評価を受け、国指定重要有形民俗文化財となったとのことです。お近くを訪れた際はご参照ください。 「上尾の摘田・畑作用具」解説ページ(上尾市ホームページ) ..
現在、熊谷市役所本庁舎1階ロビー北側で、熊谷青年会議所の子ども向け広報誌「熊谷ひみつ新聞」の企画展示が開催されています。今まで刊行された「熊谷ひみつ新聞」の掲示と、残部があるバックナンバーの配布が行われています。5月20日までの予定で展示されています。各新聞内には江南文化財センターが協力監修した記事も多くあります。熊谷青年会議所のホームページにはPDFデータが公開されています。どうぞご参照ください。また、熊谷デジタルミュージアム内にも「熊谷ひみつ新聞」の特設ページを準備中です。引き続き情報発信を進めていきたいと思います。
熊谷市小八林にある熊谷市名勝「長島記念館・邸宅」の長屋門前では、ポピーが見頃を迎えています。白壁の塀と石蔵、そして新緑の木々と鮮やかなポピーのコントラストがとても美しいです。どうぞ、お楽しみください。
5月7日、大里コミュニティセンターにおいて根岸友山・武香研究会発足記念の講演会「根岸家と渋沢栄一の周辺」が開催されました。講師は熊谷市立江南文化財センターの山下祐樹が担当しました。熊谷市冑山の名家である根岸家と渋沢栄一や尾高惇忠などの関わりについて紹介しました。友山の妹の子である清水卯三郎は、渋沢栄一とヨーロッパ視察を行うなど、幕末期から明治時代へという近代の揺籃期には、根岸家と渋沢栄一周辺の人物たちは躍動的な活動を進めました。武香は、熊谷宿本陣の竹井澹如や竹井耕一郎とも繋がり、渋沢栄一との協働によって土木事業などのインフラ整備や、埼玉県の若き人々の育英事業である誘掖会発足をはじめ多様な地域振興に務めました。講演会が、このような歴史を再認識する契機となればと思い企画されました。講演会の様子は動画収録し、後日、YouTubeで配信される予定です。
寺内廃寺の灯明皿は復元できる坏や碗でその数は500点ほどを数え、復原の難しい細片では千数百点に及ぶでしょう。これらの灯明皿に残る灯芯痕を見ると、1か所から何か所も残る場合があり使用状態が異なっていたと考えられる例があります。集落で使用されることの多い須恵器坏や須恵器碗から転用と思われる灯明皿も多数見つかるなかで、数回程度の使用しか認められない灯明皿は、特別な場所か特別な法会などに使用されたとも想定されます。 以下の写真は、油分とススの固着分部で、灯芯の位置が白抜けした状態で観察されます。
写真の土器は寺内廃寺出土灯明盤の「刻書土器」例の二例目です。2点出土していますが、読むことができませんので、示す意味が図りかねます。「上」「ハ」または、「一」「六」の合字でしょうか。それとも記号なのでしょうか。「赫坏」の文字と同筆のように思われ、一応文字と考えますがお気づきの方はぜひご教示ください。「赫坏」と同様に坏内底面にヘラ書きされています。 寺内廃寺出土刻書土器 なお、字画で類似する例では本遺跡より2km内の宮下遺跡より「卜之」の合字と推定される墨書が5点出土しています。異なるように見えるのですが字配・表記・5画と共通する点もあり、注目しています。 宮下遺跡Ⅲ出土墨書土器 ..
寺内廃寺から日々の燃燈や法会に使われた灯明盤に文字が残されている資料を前回(出土瓦に残る文字1「郡名瓦―その1」)までに墨で書かれた「墨書土器」として紹介しましたが、今回は「ヘラ書き」された例を取り上げます。 この文字資料は「刻書土器」と呼びます。本例刻書は土器を焼く前に書かれた文字で、文字の内容によって土器の性格付けがなされたことがわかります。このことは、共通する形、共通する特徴を持った寺内廃寺出土の土器は「灯明盤」として造られた可能性が高いと考えられることです。他の灯明盤では須恵器坏や碗、蓋も使用されていましたが、これらは転用品で本来はそれぞれの用途に使われる日用什器のうつわです。寺内廃寺の灯明皿は専用品は「灯明盤」、転用品は「灯明皿」と区別できると考えています。 ..
古代の土器は完全な形で出土することは稀です。もともと衝撃に弱い土器は壊れやすく、日常使いの消耗品でしたから、発掘される土器は時代を遡るほど風化し、僅かの破片しか残らなくなります。完全な形を残す土器は大変貴重で稀な例ともいえます。 そんな土器の小破片でも時代を特定できる資料となることから、整理を進めるうえで土器の観察を詳細に行っています。写真は寺内廃寺の東院集落に重なる縄文時代中期の集落跡から出土した貯蔵用の深鉢形の土器片です。粘土紐を巻き上げる方法で造られた鉢の胴部の一片です。粘土を重ねて接着した部分が平坦な凹凸となっていることが多い中で、写真の破片には刻み目が施されています。これは模様ではなく、粘土同士の接着をより強固にするためになされた工夫で、現在でも見る陶芸の基本技法です。偶然この接合部分で剥離したらしく縄文人の土器の作り方法を知ることができました。 ..
寺内廃寺の寺域内からは多量の縄文時代遺物が出土しています。古代寺院の立地が元々縄文時代の遺跡の上になされたと考えられることがあり、中期の住居跡が東院集落内などから発見されています。また、基壇土や整地土などからも土器や石器の出土もあります。 寺内廃寺の北側には西原遺跡という中期後半の大きな集落遺跡が発掘されています。寺内廃寺の寺域内に広がる縄文時代遺跡は西原遺跡の広がりの中に納まるものでしょう。写真は、煮焦げの付着した土器片です。このお焦げは有機物の炭化したもので食物由来のものと考えられ、ドングリやシイの実などのでんぷん質が焼き付いたと想定され、本例も当時の煮炊きに使われ煮汁や油分が固着したと考えられます。 縄文時代中期加曾利EⅢ式土器の内面について ↑炭化物の拡大 ..
「ブログリーダー」を活用して、踊る埴輪さんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。