「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
まず律令制が始まる前の常陸国の様子を見て見ましょう。あまりはっきり書かれているものが少ないため想像によるものも含まれますがご了解ください。大和朝廷より東国を制圧するために強い武将が選ばれて派遣されます。常陸国風土記に書かれている内容から読みくだいていきましょう。1)10代崇神天皇は三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移したが、疫病が蔓延し多くの人口を失ったという。 崇神天皇10年(BC88:実際は4...
<日本の夜明けと常陸国>上図は神々が地上に舞い降りたといわれる「高千穂」から、地軸の傾き23.4度に近い直線を引いた時にどのようなところを通るかを大雑把に検証したものです。当然地球は球体であるため、平面の図形上の直線は意味を持ちません。しかし、日本列島という狭い範囲で見ればそれほど大きなズレはないでしょう。地軸の傾きである23.4度の方向は、太陽の力が最も強い夏至の頃に、太陽がのぼる方角(日の出の方向)で...
【古代の歴史の概要(推論) 】1. 249年 卑弥呼が亡くなる 邪馬台国がどこにあったのかはいくつか説があり結論を得るにはもう少し時間がかかりそうです。 また死亡したというのも日本には書かれた物は無く、中国側の記述のみであり、西暦で247年~249年頃と考えられます。 邪馬台国についても卑弥呼の没後男性が王になり国が乱れ、女王「壱与」が即位して治まります。 当時中国も西暦25年に建国された「後漢」も2世...
【国府が置かれた古都・石岡】 何故、国府がこの地に置かれたのか?① 大化の改新(西暦645~650年)で国府の置かれた 石岡市は常陸国の中心として栄えてきました。② 大宝律令(西暦701年)で律令制が施行され、5畿内 から63ヶ国に街道を整備し、地方から租(税:稲)・ 庸(労役)・調(織物) を調達するルートができ、 石岡の地は中央から国司が派遣され、中央 集権 国家での常陸国の中心地となりま...
2022年6月末に八郷の下青柳にある古民家のBookcafeえんじゅにて行われたト-クサロンに講師としてお招きいただき、「石岡の歴史を訪ねて」と題して「国府の置かれた古都・石岡と繁栄を誇った明治時代の石岡の街並みを辿る」と副題をつけて説明しています。古代石岡と、近世石岡の2つの時代をパワーポイントで作成した資料を使って説明を行いました。この時に作成した内容を元に、もう少し説明を加えて、まとめた形に書き直...
土曜日に東京銀座で大学時代の仲間7人で半年ぶりに飲み会。この飲み会もコロナ禍で一時中断したが、もう15年近く続いている。最近は夏と冬の2回実施しており、ここ2~3年銀座のビヤレストラン「ライオン」に集まっている。銀座では比較的リーズナブルで、この年になってくると皆、それ程の酒量にもならない。石岡から高速バスで1時間強で東京駅に着く。1時に集合であったが、12時だいぶ前に日本橋口に到着。時間もあるので帰りの...
昨日土曜日に東京銀座へ。午後1時から飲み会であったが、時間を持て余して、新橋近くをうろうろしてきました。そこで見つけたものを紹介します。銀座通り7丁目から新橋駅の方に歩いていくと、目についたのは椿屋珈琲店本館:銀座七丁目花椿通り店(2F,3F)銀座木屋(うどん):銀座七丁目店(1F) (本店は別途近くにあります)歴史を感じる建物がすぐ目に入りました。新橋に近く、銀座と知ってもサラリーマンには今も親しまれて...
今年も行方市の井上「山百合の里」を見てきました。西連寺さんと別れ、イベントもありませんが、山は今も守られていました。私が訪れたのは午前10時前。案内によれば9時から解放されているようです。山百合も以前より少し少ないようですが、可憐に花を咲かせてくれていました。この山と前の田圃には優しい風が吹いていました。車で農道を通ってこの入り口部分までは入れます。7月25日(木)までの開催となっています。普段無...
昨日(7/11)また銚子まで仕事で出掛けました。その前は6月25日でしたので半月ほど前になります。最近は夏場で暑いせいもあり、月2回程度に訪れているのですが、街道筋の景色もあまり変わりはなく、気に留めるものも見当たりません。単調な道路を運転していくだけだと確かに距離を感じます。(片道約90km)またここのところの猛烈な暑さが身に堪え、やはり年も感じてしまいます。まあブログも飽きられないように少しずつU...
茨城県を中心に関東にたくさんの店舗を構えるカスミストア(スーパーカスミ)の1号店は御存じですか?昭和36年(1961)株式会社霞ストアーとして、7月に茨城県石岡市金丸店を1号店として開店しています。この場所は現在の常陽銀行の裏側の通り沿いでした。現在のラーメン屋「珍来」さんに隣接した場所です。(写真集:昭和の肖像より拝借)写真のように「霞ストアー」となっており、店の右上に「霞」と書かれたマークがついてい...
年に1回から2回、このブログに紹介した内容を本にまとめることを計画し、今までに40冊ほど書籍としてまとめて来た。6月末として1冊をまとめ上げたので紹介しておきます。「芭蕉・一茶・子規 それぞれの常陸国紀行」 A5サイズx173頁子規句碑:藤代:旅籠屋の 門をいづれば 春の雨土浦:霞みながら 春雨ふるや 湖の上石岡:二日路は 筑波にそふて 日ぞ長き千波湖:この家も 鴨ものぞくや 千波沼好文亭:崖急に ...
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「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
東西の各府県にわたって「タタラ」という地名があって、とりわけ山中に多い。久しく、この地名を「タタラ製鉄」由来としてすべてを語るのは、いかに砂鉄の分布でもおおよそ限りのあるものであろうから、その起原をことごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし、多数のタタラは必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、しかも燃料または用水の関係及び場所の清浄...
何々屋敷という小字の中には注意すべき者が多いかと思う。ことに今は田畠や山林となっていてなおその地名を存する者などは、何か普通の農民にあらざる者が居住したために、その地を別異にする風があった結果かと認められる。その一例として金子屋敷のことを言おう。もっとも金子という地名はいくらもある。今の美作(みまさか)苫田(とまた)郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神(かなやごじん)という祠がある。銕山(かなやま)の守護神だ...
「グリ」は各地で、海中の暗礁のことをそう呼んでいる。また地域によっては陸上でも岩の事を指す場合もある。「はなぐり」などよよばれる大きな立岩があるマクリ・シワナグリ・イスズグリ等とあり、、一合ぐり・宇田島ぐり・姫ぐり等もある。『和漢三才図会』には涅、和名久利、水中黒土などが載っている。東京などでも道路に敷く小さな割石をワリグリと呼んでいる。「ハエ」というのも中国・四国の海辺で、弘く暗礁を意味する語で...
水田を「ウダ」というという説があるが、ウダは果して単純なる水田だろうか。東北地方の多くの宇田という地名には注意せられぬまでも、鴫(しぎ)わな張ると大昔の歌にもある大和の菟田県(うたのあがた)などがあり、ウダは九州に多い牟田(むた)と同じ語ではなかろうか。長門風土記の阿武郡椿郷東分村松本船津組字無田ヶ原の条に「「小畑へ行く道なり、家二軒あり、むたヶ原、ぬたヶ原・うたヶ原とも唱え、文字定かならず」とある。ま...
関東平野の丘陵と丘陵の間、いわゆる窪またはヤツという地形の処を、田畑に開いた場合に一つの特色がある。・常磐線の利根川附近などは、そう言った風の田畑が丘の根方まで、ずっと境なしに続いている。・浦和辺では、地が低く沼がちで水の多いためか、丘と田畑との境には溝があって、丘の裾(すそ)から湧(わ)く清水が直接流れこまぬよう、やや温かくなってから田へ落すようにしてある。これらの溝を流れる水は相当の量となって川に...
「ダイ」という地名は大きく分けて三種類ある。1) ○〇台:高台などと云うように、文字通りに物の台などと似寄っているからの名であろう。2) ○〇代:河内・和泉その他畿内の国々では、上代(かみだい)、下代(しもだい)、東代、西代など、耕地の一区域をシロと言ったのが元かも知れぬ。3) ○〇岱:岩手・青森・秋田の諸県で多く使われ、堆、平の字を当てている例もある。またこのタイはサワ(沢)に対して使われている。これはア...
朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かも知れぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西に当る日影に乏しい処は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオン...
「潟」カタ、ガタという地名は太平洋岸にも愛知潟(あゆちがた)・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。川口の砂浜がすでに必ずしもその川の搬出した物でないとすれば、もちろんさしたる川の流れて出ぬ海岸にも、砂嘴はできるはずである。汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち潟である。荒浪が幾度となくこれを毀(...
大森停車場の上の八景坂はどう考えてみても八景一覧の地とは思われぬ。近年たびたびの土工などのためにやがて地形も不明になろうから、今の間にあの地名の何を意味するかを確かめておこう。大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りて行く坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だろう。ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近...
武隈(たけくま)の塙(はなわ)の松は有名なる奥州の歌名所で、古来人のもてはやす所である。武隈という地名の起原は、一説には阿武隈(あぶくま)の阿の字が脱落したのだろうとあるが、阿武隈や武隈の名はともに中国以西に多い久万(くま)もしくは何隈という地のごとく、水流の屈曲している地形を意味する普通名詞であろう。塙の字は多分は和製の合意文字で、土の高い処がすなわちハナワであることを証している。(圷:アクツはこれの...
・土居(ドイ):堺などの置土をドイ、ドエなどとという所は多くあり、土手を言う言葉と思う。この土の堤防で囲まれた屋敷などが昔はドイと呼ばれたとしても、土居は決して近世にいわゆるドイをもって取り囲むことを要せず、単に武家の屋敷を指してそう呼ばれたりしたようである。この土居の地名の多く存している中国・四国の村々に入り、その地形を審(つまびら)かにしつつ昔からの生活を考えたら、多くの面白い事実が発見せられる...
・根岸(ねぎし):山の根岸の義としか考えられないが、関東から奥羽へかけて数多い地名であり、何故この地名がはなはだ多く発生したか?第一には村が高い処から下りて来る傾向である。そのため、根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。(比較的新しい時代にできた)第二には荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫...
「堀之内」という地名は非常に数多くあり、堀からすぐに中世以降の城の堀を考えるが、そこに村が起こっていることを考えれば、「城址」と考えるのは早計であろう。多くの堀ノ内の地名のある場所で「城址」の説明がされているが、地名となったのはもっと古い頃ではないかと思える。中古の武家は通例砦の中には住まず、戦時の防禦地は険阻の山の上にあって、平時は平地に今の大地主のようにして住んでいた。堀之内の堀はその屋敷を取...
・東北六県に地名としてまた普通名詞として最も広く行わるるタテ(館)という地名は、漢字が「館」であるので武士の居宅を想像するが、館は国訓タチであってタテではない。しかも奥州のタテは古くは「楯」の字も用いられて始めからタテである。・代表的に実物をもって示しているのが、常陸真壁(まかべ)郡下館(しもだて)の町(現茨城県下館市)である。また北足立郡志木(しき)の町(現埼玉県志木市)も、古くは「館村」と呼ばれてお...
垣内(かいと)問題は、郷土研究で必ず研究すべき課題であったが、必ずしもこれと云った説に接していない。これはそれだけ込み入った事柄である。垣内は文字のごとく垣の内でいわゆる土豪の囲い込んだ地域を意味する。しかし、これがその後いろいろな村の属地の義に転んじたり、切り開いた新部落をよぶようになった。東京近郊で村附の山野を開いた一区をサンヤ(山谷、三屋などと書く)というのと同じであろう。・『三州志』などに...
・山居(サンキョ):家族が増えて、遠い原野の開墾に着手し、別な居を構える「散居」が元の言葉か?関東から奥羽にかけての地名にサンキョというものが多くある。「散居」「参居」「三居」「山居」などと書く。文字のごとく山中の住居の義かと思っていたが、不思議に平地にも往々にこの名がある。たとえば羽後酒田港で有名な米穀倉庫の所在地なども確か山居であった。市街から少し離れ最上(もがみ)川の川口に臨んだ水郷である。房...
・イナカ=田舎 とはどの範囲を表しているのだろうか?イは居であって、イナカは民居の中ではないかと思う。 田舎という語の最も古く顕われたのは『日本書紀』垂仁天皇の二年、意富加羅(おおから)国王の子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝説である。その中の黄牛(あめうし)に田器を負わせて田舎に将往(い)かんとすとあって、田舎の二字をいつの頃よりかイナカと訓ませている。昔は今でいう田舎それ自身の中において、特に田舎...
・軽井沢:「カルウ=背負う」から、この地で馬から人の背に荷物を積みかえ人力で山を越す仕度をした場所? 軽井沢と称する地で最も有名なものは、もちろん中仙道碓氷(うすい)峠の軽井沢である。この「軽井沢」という地名が諸国にわたって多いことと、それが知れている限りいずれも峠路の麓にあることとを注意していた。この地名の意を今までの書物では、「涸渓(かれさわ)の義(村岡櫟斎(れきさい)翁)」とか「水源涸渇の渓頭(吉...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...