栃木県佐野市2:植野■2025年6月22日(日)【歴史】佐野プレミアム・アウトレットと東武鉄道佐野線の田島駅および佐野市駅に挟まれた植野地区は、江戸時代の後期に佐野藩の藩庁が置かれていた。5代将軍徳川綱吉の大老を務めた堀田正俊が1684年に暗殺された後、三男の正高に1万石が分与され、佐野藩が再興された正高は1698年に近江国堅田に移封され初代堅田藩主となったが、1825年に6代藩主正敦が藩庁を堅田...
長野県上田市1:上田■2014年9月21日(日)■2019年10月27日(日)【歴史】安土桃山時代、上田には上田城が築かれ、真田昌幸が根城としていた。上田城は1585年と1600年に徳川の軍勢に攻められたが、昌幸は二回とも徳川の軍勢を退けた。そのため、上田城は堅固な城として名声を得ている。関ヶ原の戦い後、上田城は徳川により破棄されたが、真田昌幸の長男で東軍に与した信之は所領を安堵された。信之は上野国...
長野県東御市1:本海野■2013年4月28日(日)■2019年10月27日(日)【歴史】本海野は、日本武尊が東征した際に滞在した地と言い伝えられている。伝説では、日本武尊は病死した後、白い鳥になり、かつて滞在していた本海野にも舞い降りた。そのため、平安時代までには白い鳥が舞い降りた地に白鳥神社が創建された。平安時代末期、小県郡で兵を集めていた木曽義仲は、白鳥神社で挙兵したと言い伝えられている。このと...
長野県飯山市1:飯山■2014年9月20日(土)■2019年10月26日(土)【歴史】1564年頃、上杉謙信は信濃国一円に勢力を拡大してきた武田信玄に対抗するため、飯山に飯山城(詳細は史跡①を参照)を築城した。立地上、飯山は信濃国と越後国との結節点にあったため、謙信は飯山城を越後の防衛・信濃計略の前線基地とした。飯山城は安土桃山時代まで上杉氏の所領で、1582年から飯山城の城代には、家臣の岩井信能が...
埼玉県桶川市1:桶川■2019年10月20日(日)【歴史】江戸時代の桶川は、中山道の宿場町(桶川宿)だった。桶川宿には、松山(現在の東松山市)の箭弓稲荷神社に至る松山道との追分があり、箭弓稲荷神社への参拝客が多く通行した。桶川には、追分に建てられていた松山稲荷道の道標が現存する。桶川宿の本陣は府川家が務めた。府川家の本陣遺構は非公開ではあるが、一部が現存する。他の宿場町と同様に、桶川宿には飯盛女が...
埼玉県熊谷市1:熊谷■2019年10月20日(日)【歴史】江戸時代の熊谷は、中山道の宿場町(熊谷宿)だった。熊谷宿は館林道、行田道、桐生道など複数の街道が交差する交通の要衝だった。また、熊谷宿の外れには、秩父札所への参拝者が通る秩父往還道との追分があった。石原地区の公園には、その追分に建てられていた秩父道しるべが現存する。熊谷宿には本陣が2軒あり、そのうちの1軒を竹井家が務めた。竹井家の本陣の跡地...
埼玉県行田市■2019年10月19日(土)【歴史】行田市には埼玉(さきたま)という地名があり、大規模な古墳が密集している。古墳群は「さきたま古墳公園」として整備されている。古墳群の中で特筆すべき古墳は、直径100メートル以上、高さ19メートルを誇る円墳、丸墓山古墳で、日本一大きい円墳と言われている。古代に有力な豪族がいたことが推測される埼玉は、古代の国郡里制における埼玉(さいたま)郡の中心地だった...
宮城県栗原市2:有壁■2016年10月10日(祝)【歴史】栗原市の北方に位置する有壁(有壁駅付近)には、江戸時代に、奥州街道の宿場町があった。現在、本陣(旧有壁宿本陣)が復元されている。...
宮城県大崎市2:松山■2016年10月9日(日)【歴史】JR松山町駅から西に2キロ程離れた松山は、仙台藩家老茂庭氏の城下町だった。中世の松山には千石城があり、15世紀から16世紀は遠藤氏が治めていた。遠藤氏は戦国時代に伊達氏の家臣になり、江戸時代も別の地で存続した。千石城は現在、御本丸公園として整備され(上写真は本丸跡)、堀切が現存している(下写真)。なお、三ノ丸はコスモス園となっており、開花シー...
宮城県丸森町2:丸森■2016年11月26日(土)【歴史】江戸時代の丸森は佐々氏の城下町で、阿武隈川沿いに鳥屋館を構えていた。しかし、19世紀初頭に、大洪水を避けるため、城下町が全て移転された。その際から開店した齋藤家は、時代に合わせて多角的な事業を展開し、終戦まで丸森で一番の豪商だった。齋藤家の屋敷(齋理屋敷)が今も残っている。【食】丸森は猪の北限であり、猪の肉が名物の1つである。中でも、老舗の...
茨城県笠間市2:友部■2018年1月27日(土)【歴史】江戸時代の旧友部町は、宍戸藩の城下町だった。1602年、宍戸藩には出羽国から秋田実季が転封された(5万石)。秋田氏は宍戸城を拡張し、城下町を整備した。秋田氏は1645年に三春藩に転封され、暫くの間、友部は天領になった。1682年、松平頼雄が宍戸藩の藩主に就任した(1万石)。頼雄は、徳川頼房の五男で、徳川光圀の末弟である。そのため、宍戸藩は水戸...
茨城県笠間市3:稲田■2018年1月27日(土)【名産】②稲田石 旧稲田町は、東京駅や最高裁判所などの数多くの建物に使用されている稲田石の産地である。稲田駅の駅舎には稲田石がふんだんに使用され、稲田駅の隣には、稲田石の博物館である石の百年館がある。稲田石は、明治時代に東京で石材の問屋を営んでいた鍋島彦七郎により開発された。稲田石は白く、色調がきれいで、柄・組織が均一で、耐久性がある。そして、大量に採...
群馬県みどり市2:東 ■2018年9月29日(土) 【歴史】 旧勢多郡東村の中心地だった花輪地区は、江戸時代、銅山街道の宿場町(花輪宿)だった。銅山街道は、足尾銅山で採取した銅を利根川まで運搬するために1649年に整備された街道である。なお、利根川に運ばれた銅は水運で江戸へ運ばれた。花輪には、銅の運搬途中で花輪宿に一泊する際、銅を一時的に保管する御用銅蔵が現存する。 花...
石川県かほく市2:高松■2018年11月18日(日)【歴史】高松は加賀国と能登国の境界線にあり、1584年には末森城の戦いがあった。当時は羽柴秀吉と徳川家康の対立に伴い、前田利家と佐々成政も対立していた。成政は加賀国と能登国を分断するため、末森城を包囲した。落城の危機に陥っていた末森城を救出するため、高松の村長だった櫻井三郎左衛門は進軍のルートを利家に進言した。この進言により、利家は敵軍の背後を突...
石川県白山市2:松任■2018年8月5日(日)【歴史】中世の松任は、松任城の城下町だった。特に、戦国時代の松任城は加賀一向一揆の旗本である松任組の本拠地だった。松任城は複数の堀に囲まれた平城であったが、現在の松任城の遺構は、本丸の跡地が公園になっているのみである。江戸時代の松任は北国街道の宿駅だった。松任は様々な街道との交差点だったため、商業が発達した。松任の町並みは、電柱を地中に埋めているため景...
石川県白山市3:白峰■2014年7月21日(祝)白山は北陸3県と岐阜県の境界に位置する山で、山岳信仰の対象としても有名である。白山は奈良時代に泰澄大師が山頂付近に仏像を次々に安置し、開山した。以来、多くの信者が白山を崇め、登山した。ところが、明治時代になると神仏分離令により白山の仏像が取り壊されてしまった。そのような最中、白峰にある林西寺の住職は一部の仏像を保護した。この仏像は現存し、白山御本地仏...
鳥取県境港市2:中浜■2018年7月14日(土)【歴史】境港市と米子市との境界線上にある米子空港は、戦時中、海軍航空隊美保基地だった。美保基地は1939年に設置され、艦上機航空隊と予科練習生が入隊した。戦後、美保基地は航空自衛隊美保基地と米子空港になった。美保基地の戦争遺跡として、米子空港の南側(県道47号線沿い)に、戦闘機を格納する掩体壕が数基現存する。...
鳥取県琴浦町2:赤碕■2018年3月31日(土)【歴史】江戸時代の赤碕は、北前船の寄港地として栄えた港町だった。また、赤碕は倉吉の玄関口で、赤碕から倉吉へは陸路で物資が運搬された。江戸時代において、赤碕の主要な港は菊港だった。菊港の名前は、赤碕で海運業を営んでいた堀尾弥四郎の母で、松江藩主を務めた堀尾吉晴の孫、菊姫の名に由来すると伝えられている。なお、弥四郎の父は大庄屋の河本家で、河本氏の住宅は国...
島根県出雲市2:平田■2018年5月20日(日)【歴史】平田は木綿の集積地、および木綿の生産地として栄えた町である。平田で木綿の栽培が始まったのは、18世紀の初頭である。昔の平田は宍道湖に面していたが、埋め立てにより宍道湖から遠ざかった。なお、埋め立ては、新川を開削し、上流の奥出雲のたたら製鉄にて砂鉄から鉄を取り出す際に不要となって流れてきた砂で埋め立てられた。宍道湖は塩分を含むため、埋め立て地は...
岡山県備前市2:伊里■2019年2月24日(日)【史跡】①旧閑谷学校閑谷学校は、1670年に岡山藩主の池田光政が、庶民のために開いた学校である。光政は岡山藩を豊かにするために庶民向けの学校(手習所)を藩内に123ヶ所創った。しかし、すぐに手習所は廃止され、手習所は1つに統合され、閑谷学校になった。閑谷学校では陽明学を教え、岡山藩の外からも生徒を受け入れていた。また、閑谷学校は岡山藩から経営を独立させ...
岡山県真庭市2:久世■2018年5月1日(火)【歴史】江戸時代の久世は、出雲街道の宿場町だった。出雲街道は出雲と姫路を結ぶ街道で、久世では大山往来が交差していた。宿場町は現在の上町商店街、下町商店街で、アーケード街となっているが、一部で古民家が見られる。久世は津山藩領だったが、1726年に発生した山中一揆で津山藩が減石になると、久世は1818年に津山藩領に復帰するまで天領となった。久世には年貢米を...
岡山県瀬戸内市2:牛窓◼2018年3月17日(土)【歴史】江戸時代の牛窓は、風待ち潮待ちの港町で、北前船や参勤交代の御座船などがよく寄港していた。牛窓の特筆すべき点は、朝鮮通信使の寄港地であったことである。朝鮮通信使は、往路では毎回、牛窓にて休息や宿泊をした。朝鮮通信使の代表である三使は、牛窓では本蓮寺に宿泊した。また、本蓮寺は朝鮮通信使を接待する施設としても活用された。なお、本蓮寺の建築物には、...
富山県南砺市2:城端(じょうはな)■2014年10月12日(日)■2019年10月6日(日)【歴史】城端は善徳寺の門前町として形成された。善徳寺は浄土真宗本願寺派8世蓮如が開基し、1572年に城端城の跡地に誘致された寺である。善徳寺には彫刻がふんだんに施された山門が現存する。江戸時代の城端は五箇山との交易で繁栄した。五箇山の養蚕は城端で絹織物となり、加賀絹の名前で京や大阪、江戸へ販売された。坡場(は...
富山県南砺市3:福光■2019年10月6日(日)【歴史】平安時代末期から15世紀後半の福光は、石黒氏の本拠地だった。石黒氏は木曽義仲の家臣として倶利伽羅峠の戦いで活躍し、福光に福光城を築き、福光城を根城としていた。しかし、1481年に瑞泉寺一向一揆衆との戦いに敗れ、石黒氏宗家は滅亡した。福光城跡には、1869年に郷学所(栖霞塾)が建てられ、現在は栖霞園として整備されている。栖霞園は郷学所の後、文人...
富山県南砺市1:井波■2014年10月11日(土)■2019年10月5日(土)【歴史】井波は瑞泉寺(詳細は史跡①を参照)を中心に歴史を紡いできた町である。瑞泉寺は1390年に浄土真宗本願寺派5世宗主の綽如が建立した。瑞泉寺の建立については、伝説が伝えられている。当時、綽如は浄土真宗の布教で越中国を巡っていた。道中、綽如が乗っていた馬の蹄先から清水が湧出した。綽如はこれを寺院建立の趣意とし、瑞泉寺を建...
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栃木県佐野市2:植野■2025年6月22日(日)【歴史】佐野プレミアム・アウトレットと東武鉄道佐野線の田島駅および佐野市駅に挟まれた植野地区は、江戸時代の後期に佐野藩の藩庁が置かれていた。5代将軍徳川綱吉の大老を務めた堀田正俊が1684年に暗殺された後、三男の正高に1万石が分与され、佐野藩が再興された正高は1698年に近江国堅田に移封され初代堅田藩主となったが、1825年に6代藩主正敦が藩庁を堅田...
栃木県大田原市2:大田原■2025年6月20日(金)【歴史】1545年に大俵資清は蛇尾川西岸の龍体山に大田原城を築き、自らの姓を大田原に変更した。資清および資清の先祖代々は、中世に下野国那須郡を中心に勢力を誇っていた那須氏の重臣だった。資清の孫の晴清は、豊臣秀吉の小田原征伐で那須氏やその一族および重臣が処罰を受ける中、戦中に秀吉と謁見していたことで所領を安堵された。その後、晴清は所領を没収された那...
茨城県行方市1:麻生■2025年6月14日(土)【歴史】≪中世の麻生~麻生氏による治世~≫中世の麻生は麻生氏が治めていた。平安時代末期の行方郡は、常陸大掾氏の一族である行方氏が治めていた。平安時代末期に行方氏の当主だった行方景幹は1184年の屋島の戦で戦死したため、遺領の行方郡は景幹の4人の子供に分け与えられた。麻生は景幹の三男の家幹が継ぎ、麻生氏を名乗った。麻生氏が根城とした麻生城は現在は羽黒山公...
栃木県日光市4:藤原■2025年6月9日(月)鬼怒川温泉のある藤原には、幕末の一時期に高徳藩の藩庁が置かれていた。1866年、宇都宮藩家老の戸田忠至が宇都宮藩から1万石を分与され、高徳藩が立藩した。忠至は、宇都宮藩2代藩主戸田忠翰(ただなか)の弟である田中忠舜の次男である。そのため、忠舜は宇都宮藩戸田家の分家に当たる。忠至は山陵(天皇の墓)の修復事業を提言し、山陵奉行として事業を完遂させた。また、...
栃木県栃木市3:吹上■2025年6月4日(水)栃木市の市街地から北西に数Kmに位置する吹上地区には、幕末に吹上藩の藩庁が置かれていた。初代久留米藩主の有馬豊氏の三男である有馬頼次は、徳川忠長に仕え、1万石を給されたほどの重臣だった。しかし、忠長が改易されたことで、頼次も失脚した。その後、頼次の子孫は紀州徳川家に仕え、頼次から4代後の氏倫(うじのり)が徳川吉宗の側近となったことで出世し、1万石の大名...
茨城県結城市■2025年1月19日(日)【歴史】≪戦国時代の結城~結城氏の治世~≫戦国時代の結城は結城氏が治めていた。結城氏は、藤原秀郷の末裔である小山政光の三男の朝光が所領の結城を姓として名乗ったのが始まりである。朝光は鎌倉幕府を築いた源頼朝の側近として活躍し、1235年には評定衆にも任命された。晩年は出家し、自ら称名寺を建立したことから、朝光の墓が称名寺にある。結城氏は結城城を築城し、根城とした...
千葉県館山市■2025年1月12日(日)■2025年1月13日(祝)【歴史】≪里見氏の興亡~戦国時代から江戸時代初期までの館山~≫戦国時代の館山は安房里見氏が治めていた。里見氏は源氏の新田氏の分家と言われ、現在の群馬県高崎市榛名町の里見郷から里見氏を名乗ったと言われている。15世紀に鎌倉公方足利氏が上杉氏との戦いを有利にするため、里見義実を安房に送ったことが安房里見氏の始まりと言われている。安房里見氏...
千葉県鋸南町1:勝山■2025年1月13日(祝)【歴史】≪安房勝山藩の歴史≫江戸時代の勝山は安房勝山藩の陣屋町だった。安房勝山藩は、里見氏が伯耆国に配流されて館山藩が廃藩になってから10年後の1624年に内藤清政が勝山に封じられ、立藩した(3万石)。しかし、清政とその弟の正勝が相継いで亡くなると、正勝の嗣子の重頼がまだ2歳であったことから0.5万石に除封され、廃藩となった。なお、重頼の養子の清枚は初...
茨城県水戸市1:水戸■2015年9月27日(日)■2024年12月1日(日)■2025年1月5日(日)【歴史】≪中世の水戸から水戸徳川家の誕生まで≫鎌倉時代、大掾資幹が水戸に水戸城(詳細は史跡①を参照)を築城した。その後、15世紀前半に江戸氏(常陸国那珂郡江戸を発祥とする武士)が水戸城を奪取し根城としたが、1590年に佐竹氏が江戸氏を攻め滅ぼし、佐竹氏の本城となった。関ヶ原の戦い後に佐竹氏が出羽国秋田に...
茨城県桜川市1:真壁■2013年3月2日(土)■2025年1月4日(土)【歴史】≪中世の真壁~真壁氏と真壁城~≫中世の真壁には真壁城があり、多気氏(大掾氏の惣領家)の分家である真壁氏が真壁城を根城に真壁を治めていた。真壁氏は最終的に佐竹氏の家臣となり、関ヶ原の戦い後に佐竹氏の出羽国秋田への転封に随行した。真壁家の墓所が遍照院にあり、約40基の五輪塔が建ち並んでいる。真壁城は堀、土塁、虎口など中世の山城...
茨城県かすみがうら市1:千代田■2024年11月17日(日)【歴史】石岡市との市境に接する志筑地区は、江戸時代に志筑(しづく)陣屋があった地区である。志筑陣屋は、領主の本堂氏によって、中世に築かれた志筑城跡に築かれた。本堂氏の出自は、和賀郡(現在の岩手県西和賀町)で勢力を誇っていた和賀氏の庶流と言われているが、はっきりしない。戦国時代の本堂氏は、現在の秋田県美郷町あたり一帯を支配する小大名だった。...
茨城県石岡市1:石岡■2024年11月17日(日)【歴史】≪古代の石岡~常陸国の中心~≫古代の石岡は常陸国の中心地で、常陸国の国府が置かれていた。常陸国府跡が石岡小学校の校庭から発掘された。また、奈良時代の石岡には国分寺および国分尼寺も建てられていた。国分寺跡の説明板が現在の国分寺の山門前にある。国分尼寺跡は府中小学校の北隣にある。古代の常陸国は朝廷の勢力の及ばない陸奥国と接していたため、陸奥国の蝦...
茨城県下妻市1:下妻■2024年11月4日(祝)【歴史】≪多賀谷氏の歴史~中世の下妻~≫中世の下妻は多賀谷氏が多賀谷城を築いて治めていた。多賀谷氏は武蔵七党の1つである野与党(現在の埼玉県加須市に勢力のあった武士団)をルーツとする一族である。関東の有力な守護大名だった結城氏に仕えたが、結城氏からの独立を度々画策したと言われている。多賀谷城の本丸跡が「多賀谷城跡公園」として整備されている。下妻第一高等...
茨城県筑西市1:下館■2024年10月27日(日)【歴史】≪水谷氏と下館藩の成立≫関東の有力な守護大名だった結城氏の家臣である水谷(みずのや)氏は、1478年に結城氏から下館の地を拝領し、下館城を築城した。下館城は勤行川が流れる崖と沼に挟まれ、四方を幾重もの壕で囲んだ城だった。本丸跡は城山八幡神社になっている。下館城は後の時代に下館藩の藩庁となった。出丸跡は下館公園になっている。水谷氏は出羽国から羽...
神奈川県箱根町■2024年9月29日(日)■2024年10月5日(日)【歴史】≪古代・中世の箱根~山岳信仰・地蔵信仰の霊場~≫箱根は古くから多くの山伏が入峰し修験道の修練を行った、山岳信仰の地である。箱根神社は757年に万巻(まんがん)が箱根山中で箱根権現を感得し、箱根権現を祀る神社を創建したのが始まりと言われている。鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて、地蔵信仰の流行を受けて精進池の周辺に数多くの石...
千葉県佐倉市1:佐倉■2015年10月31日(土)■2024年10月12日(土)【歴史】≪戦国時代から江戸時代前期の佐倉≫戦国時代の佐倉には、千葉氏の家臣である鹿島親幹が城を築いたと言われている。その関係で、馬加(千葉市幕張)にあった千葉氏の菩提寺である海隣寺が佐倉に移されている。佐倉藩がいつ立藩したかは諸説あるが、分かっていることは、1610年に佐倉藩に入封した土井利勝が鹿島親幹の築いた城を近世城郭...
千葉県市原市1:五井■2024年9月23日(祝)【歴史】市原市の中心地である五井は、古代の上総国の中心地だった。≪五井の古墳≫五井には、3世紀後半(古墳時代初期)に造られたと推定される神門古墳群があり、古くから有力な豪族がいたことが窺える。神門古墳群のうち、5号墳が県指定の史跡になっている。また、稲荷台1号墳からは「王賜」と刻印された鉄剣が出土した。稲荷台1号墳自体は宅地開発で消滅し、記念広場にミニ...
千葉県市原市4:市原■2024年9月23日(祝)【歴史】旧市原町の菊間地区は、大政奉還後に沼津藩が移封し、藩庁を構えた地である。大政奉還で江戸幕府が崩壊した後、徳川宗家は静岡藩70万石に減封された。この減封に伴い、沼津藩は玉突き状に上総国に移封となった。*沼津藩の歴史は、静岡県沼津市の記事を参照。沼津藩主の水野忠敬(ただのり)は菊間の千光院を仮陣屋にした後、近くに陣屋を構えた。1871年の廃藩置県...
千葉県市原市2:姉崎■2024年9月16日(祝)【歴史】姉崎には江戸時代末期に鶴牧藩の藩庁が置かれていた。≪鶴牧藩の歴史≫鶴牧藩は1827年に安房北条藩主の水野忠韶が領地替えにより上総国に藩庁を移したことで立藩した。忠韶の家は、水野忠清(水野忠重の四男)の四男である水野忠増を祖とする家柄である。忠増の子の忠位(ただたか)は大坂定番に出世したことで大名となり、跡継ぎの忠定の代から安房北条藩の藩主となっ...
千葉県市原市3:南総■2024年9月16日(祝)【歴史】旧南総町の鶴舞地区は、大政奉還後に浜松藩が移封し、藩庁を構えた地である。大政奉還で江戸幕府が崩壊した後、徳川宗家は静岡藩70万石に減封された。静岡藩の領地は駿河国と遠江国になったため、遠江国の浜松藩は玉突き状に上総国に移封となった。*浜松藩の歴史は、静岡県浜松市の記事を参照。藩主の井上正直は原野だった桐木原を開墾して鶴舞陣屋を構えた。鶴舞陣屋...
神奈川県横浜市5:神奈川■2024年5月4日(祝)《神奈川の地名の由来》神奈川の地名の由来の1つに、かつて神奈川小学校東脇に流れていた上無川(カミナシガワ)が訛ったものという説がある。上無川は水量が乏しく、水源が定かでない川だったと言われている。関東大震災後の復興計画で埋め立てられ、現在は川の姿を見ることができない。江戸時代になると、神奈川は東海道の宿場町(江戸から数えて3番目)になった。当時、中...
神奈川県横浜市4:金沢■2024年4月21日(日)【歴史】《鎌倉時代の金沢~金沢北条氏と金沢文庫~》鎌倉時代の金沢には鎌倉幕府の外港「六浦湊」があったことから、鎌倉幕府の海路を通した玄関口であったと同時に、物流の拠点だった。また、金沢には北条実時が創設した金沢文庫があり、日本や中国の本が大量に収められていた。実時は北条氏の分家の金沢(かねさわ)北条氏の家柄で、2代執権北条義時の孫に当たる。寄合衆な...
神奈川県横浜市3:戸塚■2024年3月30日(土)【歴史】《東海道の宿場町、戸塚宿》江戸時代の戸塚は、東海道の宿場町(江戸から5番目の宿場町)だった。戸塚宿は起点の日本橋から約10里(40Km)の距離にあり、朝に江戸を発った旅人の一番目の宿泊地として最適だった。さらに、戸塚には大山道との追分もあり、大山に参詣する旅人にも利用された。そのため、戸塚宿は53ある東海道の宿場の中で10番目に宿泊施設が多...
神奈川県横浜市2:保土ヶ谷■2024年3月30日(土)【歴史】江戸時代の保土ヶ谷は、東海道の宿場町(江戸から4番目の宿場町)だった。保土ヶ谷宿は1601年に設置されたが、1648年に道筋が変わり、現在の天王町、岩間町、帷子町、保土ヶ谷町が保土ケ谷宿になった。旧古町橋跡は、この道筋の変更の歴史を今に伝えるものである。保土ヶ谷宿の江戸方見附(江戸方面の宿場町の出入口)は、シルクロード天王町商店街にあっ...
神奈川県横浜市1:横浜■2024年2月3日(土)■2024年2月10日(土)【歴史】《横浜はかつて入り海だった》横浜は17世紀まで入り海だった。1656年に江戸の商人の吉田勘兵衛がこの入り海を埋め立て新田開発を行い、1667年に完成し、横浜村が成立した。当時は戸数100戸程度の農村で、村民は農業を主体に閑散期は漁業で生計を立てていた。《日米和親条約が横浜で締結された》横浜は1854年3月8日に江戸幕...
東京都武蔵野市■2024年1月20日(土)【歴史】≪中島飛行場の工場の進出≫1938年、武蔵野市には中島飛行機(SUBARU、日産自動車の前身)の工場『武蔵野製作所』が設立された。中島飛行機は1917年に中島知久平が創設した会社で、主に軍用機を製造していた。設立当初は陸軍用の軍用機を製造していたが、1941年に隣接した敷地に『多摩製作所』が設立され、海軍用の軍用機も製造するようになった。さらに、2つ...
東京都中野区■2024年1月5日(金)【史跡】①哲学堂公園1904年に井上円了が創設した公園で、2020年に国指定の名勝に指定された。井上は哲学者だったが、哲学館(後の東洋大学)を創設した教育者でもあり、生涯教育を提唱し全国を行脚し各地で講演会を実施した。哲学堂公園は哲学の世界を視覚的に表現しており、来園者が哲学について学べるような社会教育の場となっている点が大きな特徴である。なお、井上の墓が哲学堂...
東京都北区■2024年1月6日(土)【歴史】≪郡衙と豊島氏~古代から中世の北区~≫奈良時代の北区には豊島郡の郡衙が設置され、豊島郡の中心地だった。郡衙は行政の事務的な仕事を司る郡庁院、庶民から徴収した稲籾を納める正倉院から成り立つ組織だった。跡地は滝野川公園になっており、当時は武蔵国から下総国への最短ルート上にあった。11世紀頃になると、北区には平氏の一族である豊島氏が土着した。豊島氏が14世紀末頃...
東京都杉並区■2024年1月8日(祝)【歴史】江戸時代の杉並区には甲州街道が通り、宿場町(高井戸宿)があった。17世紀、高井戸宿は甲州街道の1番目の宿場町で、下高井戸宿と上高井戸宿の2つの宿場が半月交代でその勤めを果たしていた。しかし、1698年に内藤新宿が置かれると、高井戸宿を素通りする旅人も多くなり、高井戸宿の宿場町としての役割が減少した。なお、高井戸宿は半宿半農だったため、便所を旅人に開放し...
東京都江戸川区■2024年1月4日(木)【歴史】≪小岩市川の関所(渡し)~小岩地区~≫江戸川区の北東部に位置する小岩地区は、江戸川に面していることから、江戸時代に『小岩市川の渡し』と呼ばれる渡し場があった。渡し場があったことを証明するものとして、1839年に造られた常燈明が宝林寺に移され、現存する。小岩市川の渡しには江戸の防衛のため橋は架けられず、『小岩市川関所』が設置された。小岩市川関所のあたりは...
東京都墨田区1:本所■2023年12月17日(日)【歴史】≪本所の始まり≫墨田区南部の本所地区は、1657年の明暦の大火後に開発された地域である。明暦の大火では、千住大橋以外に橋が架けられていないことで多くの江戸町民が逃げ場を失い、10万人が死傷したと言われている。幕府は防災のため、武蔵国と下総国との間に橋を架け(両国橋)、徳山重政に本所の開発を命じ、江戸の町を本所に拡げた。徳山重政の屋敷跡には、徳...