戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
阿波藩蜂須賀家25万7千石の居城「徳島城」の表御殿に設えられていた庭園が「国の名勝」として(昭和16年に指定)保存されています。城郭内部に設けられたため、広さ…
徳島城御殿跡に建つ「徳島市立徳島城博物館」です。此処は、「徳島藩と蜂須賀家に関する博物館」です。秀吉は天正13年(1585)に、17万1千石の領主として蜂須賀…
蜂須賀家が支配する前の阿波国の中心地は、今の徳島市ではありませんでした。もともと山地が多く平地が少ない阿波国なので、徳島から鳴門方面が中心ではありましたが。 …
「徳島シリーズ」を始めます。 四国では織豊期に長宗我部元親が勃興し、あっという間に、ほぼ四国全体を平定するまでに至りましたが、信長が方針を「長宗我部打倒」に転…
鎌倉の「長谷寺」です。御本尊の「十一面観世音菩薩」は、「奈良の長谷寺」の御本尊と同じクスノキの霊木から刻まれたものです。 そして、境内の彼方此方に、地蔵様が。…
鎌倉の「長谷寺」です。創建は天平8年(736)。御本尊の「十一面観世音菩薩像」は、奈良の「長谷寺」の御本尊と同じ「霊木」から刻まれたものだと言われています。 …
長谷観音の少し南にある「収玄寺」です。隠れたる「花の寺」と言われています。此処は、北条光時の重臣・中務三郎左衛門頼基(四条金吾)の邸跡です。金吾は日蓮に深く帰…
いつの間にか、「撮影禁止」の札が目立つようになりました。「撮影禁止」の外からの撮影に止めます。 「御霊神社」の御祭神とされる「鎌倉権五郎景正公」は、桓武平氏の…
成就院の東山門から約100m。成就院の境外堂「虚空蔵堂」があります。正式名称を「名鏡山円満院星井寺と言います。「星ノ井」は、「鎌倉十井」のひとつ。 その「星ノ…
「極楽寺坂切通し」上にある「成就院(真言宗大覚寺派)」です。季節は、成就院が最も輝く、紫陽花の時期です。此の日は早朝だったので、未だ人出は、殆どありません。 …
さて、「極楽寺」開山に「忍性上人」です。 大和の生まれ、東大寺で授戒し、その後、叡尊から別授戒を受け、比丘(びく)となりました。年少の頃より「行基」を思慕し、…
鎌倉時代を舞台とした歴史時代小説に、良く登場します。最盛期には子院を49カ寺も擁する大寺院でした。此の辺りの地名であり江ノ電の駅名でもある「極楽寺」です。 境…
特に紫陽花の時期の鎌倉は、大混雑します。ゆっくりと食事を愉しみたいときは、西口(御成通り側)に予約するようにしていますが、そんなフレンチの一軒です。「ブラッス…
そういう事情で、日出(にちしゅつ)上人が「夷堂」を再興した「本覚寺」です。日蓮上人が「夷堂」から身延山へ旅立ったこともあり、「東身延」とも呼ばれています。日蓮…
滑川に架かる「夷堂橋」です。道は「小町大路」です。「夷堂」とは、日蓮が佐渡配流から鎌倉へ戻った際に滞在した御堂で、日蓮は此処から、身延山へ旅立ちました。 「夷…
鎌倉駅から、ほど近い「大巧寺(日蓮宗)」です。「おんめさま(おうめさま、御産女様)」と愛称されています。安産子育ての寺です。 もともとの山門は逆側でしょうけれ…
建仁3年(1203)9月、「比企の乱」が勃発しました。数十年にわたり頼朝を支援し続けた「比企の尼」。当時の比企家の当主「比企能員」は、比企尼の甥で猶子。そして…
日露戦争の日本海海戦時に、連合艦隊の旗艦としてロシア海軍のバルチック艦隊を撃破・壊滅させた貴重な歴史資産「戦艦三笠」が、横須賀港に「世界三大記念艦」のひと…
日露戦争の「日本海海戦」でロシアのバルチック艦隊を壊滅させたとき、旗艦として指揮官の東郷平八郎を乗船させていた「戦艦三笠」です。現在、世界三大記念艦のひとつと…
横須賀港の「戦艦三笠」前に建つ東郷元帥像です。 東郷元帥は、薩摩出身の海軍軍人。薩英戦争や戊辰海戦に参加後、英国に留学しています。 日清戦争には大佐で「浪速艦…
横須賀総鎮守「諏訪大神社(おおかみのやしろ)」です。「ドブ板通り」の後背地の丘(緑が丘)に鎮座します。 康暦2年(1380)、横須賀(長峯)城主・三浦貞宗が、…
「よこすか海軍カレー」、「ヨコスカチェリーチーズケーキ」、「ヨコスカネイビーバーガー」が、横須賀三大グルメだそうです。 確かに、その系統のお店が多く並んでいま…
横須賀軍港が米海軍の管理下にある横須賀。街じゅうにアメリカ人が溢れています。最もエキゾチックなエリアが「ドブ板通り」です。 「ドブ板通り」というより、「DOB…
JR横須賀駅前の「ヴェルニー公園」内にある「ティボディエ邸」です。ティボディエは、フランスのイーゼル県の生まれ、1869年から6年半、横須賀製鉄所の「副首長」…
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戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…