今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
福岡市の郊外にある、黒田家菩提寺「崇福寺」です。福岡市営地下鉄箱崎線「千代県庁口」駅から直ぐの処にあります。かつては、海岸までの膨大な境内地と大伽藍を有してい…
福岡天神駅(北口)から新天町商店街を少し西へ行くと「西鉄グランドホテル」があり、「松風」さんへお邪魔しました。半個室でもあり、安心してゆっくりと、博多の和食を…
直ぐ右手は「福岡天神駅(福岡三越)」です。これほど、繁華街の真っただ中に鎮座している古社は珍しいでしょう。「警固(家後)神社」です。福岡城を築城した福岡藩黒田…
貞応元年(1222)袖の湊の海辺から出現した「人魚」を寺内に埋葬したと言われる「龍宮寺(浄土宗)」です。開山は、谷阿上人。人魚の出現は「国家長久の瑞兆」と占わ…
聖福寺の国史跡区域に隣接してあります「妙楽寺」です。臨済宗大徳寺派の寺院で、正和5年(1316)大応国師の法弟「月堂宗規」が開基となり創世されました。 石城山…
福岡のビル街に、整った「池泉回遊式庭園」があります。「楽水」とは、博多商人の下澤善右衛門親正の雅号です。親正は、2代にわたり博多の発展に貢献した商人でした。 …
大阪と下関の住吉神社と併せて「日本三大住吉」と呼ばれています。全国2129社の住吉神社の中で最も古い住吉神社が、博多の「筑前国一之宮住吉神社」です。 御祭神は…
太宰府天満宮シリーズの最後に「光明禅寺」を記します。太宰府天満宮の入り口にあります。文永10年(1273)鉄牛円心により創建された禅寺です。重森三玲作庭による…
新元号が「令和」に決まった時、注目された「坂本八幡宮」です。応神天皇を御祭神とする産土神として地元では大切に信仰されてきました。730年の初春、当時の大宰師(…
7世紀後半から12世紀前半にかけて、最大の地方官庁だった「大宰府」政庁が設置されていた場所です。親しみを込めて、「都府楼」跡とも呼ばれています。「大宰府」は、…
「観世音寺」の直ぐ隣りにある「戒壇院」です(観世音寺の一部ですが)。東大寺、下野薬師寺と並び、天下の「三大戒壇院」と呼ばれ、鑑真や空海も、此処に滞在したといわ…
「太宰府天満宮」からコミュニテーィバスに乗り、幾つかの寺社を回遊します。まずは「観世音寺」ですが、奈良時代に、母親の斉明天皇の追悼のために天智天皇の発願により…
道真公の一生を、16場面で展示している「菅公歴史館」です。展示に用いられている「装着博多人形」は、古い手法で制作されています。 道真公は、代々、文章博士、…
道真公が左遷されたときの役職は「大宰権師(だざいのごんのそち)」。そして「大宰府」は、律令制のもとで筑前国に置かれた外交施設との交渉や接待、中央との連絡などを…
延喜3年(903)2月25日、道真公は、住居の「大宰府政庁南館」にて亡くなり、門弟が御遺骸を牛車にお乗せして運びました。ところが現在の太宰府天満宮の位置に来る…
道真公の墓所の上に社殿を造営し、道真公の御神霊を永久にお祀りしている「太宰府天満宮」です。年間に約1000万人の参拝者が訪れる人気の神社で、此の日は平日の早朝…
博多は、玄界灘の魚介類や地元の野菜、山菜などを活かした、美味しいものの宝庫です。美味しい中華を求めて、ホテル日航福岡の「鴻臚」へ。 店名の「鴻臚」からして、拘…
「櫛田神社」は「博多祇園山笠」が奉納される神社で、1年中、「飾り山笠」が展示されています。このお祭りは770年以上もの伝統を誇り、博多の夏は此のお祭りから始ま…
757年の創建とされる博多の総鎮守・氏神の「櫛田神社」です。「お櫛田さん」の愛称で、広く市民に親しまれています。毎年7月に開催されるお祭り「博多祇園山笠」では…
「芸どころ、博多」を象徴する「博多座(九州最大の演劇専用劇場)」の直ぐ前に設置されている「川上音二郎」像です。近くに「生誕地」碑も残されています。 大河ドラマ…
昌泰4年(901)藤原時平の讒言により「大宰権師」に左遷された道真公が、途中、嵐に遭遇し袖の湊に流れ着いたとき、地元の漁師が、船の綱を円座に敷き出迎えたとさ…
此の直ぐ前の道は、博多で最古の道路(普賢堂通り)と言われています。そして此の辺りは、昔は、「芸能横丁」と呼ばれるほど、多くの芸能人が住んでいたとのこと。 「叶…
聖福寺の塔頭を幾つか。 まずは「順心寺」です。仏花(秋には曼殊沙華、春にはボケ、編笠百合など)咲く花の寺と称されています。 臨済宗建仁寺派の寺院で、14世紀に…
日本最初の禅寺「聖福寺」です。建久6年(1195)栄西禅師が開山となり創建しました。最盛期には、塔頭38院を擁する大寺院でした。現在も、塔頭は6院ですが、広大…
博多の地図を見ると、祇園から呉服町にかけて、大きく「緑色」に塗られた地があり、此処が、「日本初の禅寺」と言われる「史跡:聖福寺」です。 当寺は、美しい「博多…
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今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…