今井町の寺内町としての成立は、天正年間(16世紀)此の地に今井兵部卿豊寿が「稱念寺」を建立したことに由来します。 「称念寺」は今井町の中核として発展を続け、称…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
昭和52年に完成した「乗蓮寺の東京大仏」は、像高8.2m。台座に乗るので、全体では約13mもの高さになる堂々たる体躯の大仏様です。応永年間(14~15世紀)の…
康正2年(1458)に千葉自胤(よりたね)が入城したと伝わる「赤塚城」。現在でも空堀や土塁跡が残り、大部分が「都立公園」となり、人気がある観光名所になってい…
コロナ禍のなか、なかなか東京都心部へ出掛けられないので、ニューオータニ幕張「千羽鶴」へ。「和の達人/黒田廣昭(元「なだ万」調理本部長)ポロデュースランチ≪蘭≫…
四ツ谷の総鎮守「須賀神社」です。「須賀」とは、素戔嗚が八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲の「須賀」で「此の地で我が心、清々し」と言って宮を造成し…
「四ツ谷の毘沙門さま」と呼ばれる「本性(ほんしょう)寺(日蓮宗)」です。松戸の本土寺の末寺です。三河の郷士/三田某が、麹町9丁目に所持していた隠居所を提供し日…
鶴屋南北原作の「東海道四谷怪談」はフィクションであることを強調するためにわざと「東海道」と名を付けています。実在の於岩さんは御家人「田宮家」の娘で、田宮家の入…
「東海道四谷怪談(鶴屋南北)」ですっかり有名になった「於岩さん」。貞女説(夫婦円満説)と悪女説が入り乱れ真相は不明ですが、その本拠地である四ツ谷には参拝者がひ…
(四谷三丁目と信濃町の中間にある)「左門町信号」を東へ入ると、「顕性寺」の隣りに「法恩寺」があります。此処は、法華宗の単立寺院です。日禎上人が寛永元年(162…
板橋シリーズは、未だ赤塚方面が残っていますが、暫くは「四谷三丁目コース」を。四谷と言えば、まず「東海道四谷怪談」の於岩さんの本拠地です。此の関連寺社が、「陽雲…
板橋シリーズの最後に「長徳寺(真言宗豊山派)」を、ご紹介します。建久年間(12世紀末頃)の創建とされ、御本尊は「不動明王」です。 昭和55年の再建ですが、立…
都営三田線の「志村坂上、本蓮沼、板橋区役所前」界隈を散策しています。今日は、本蓮沼駅に近い「南蔵院(真言宗)」です。創建は江戸初期とされ、御本尊は「十一面観世…
江戸初期の創建と伝わる「文殊院(真言宗豊山派)」です。板橋宿本陣飯田家の菩提寺で、本陣跡と「板橋」の中間にあります。賑やかなスーパーが直ぐ近くにありますが、通…
板橋界隈には、武蔵一之宮の「大宮氷川神社」の末社が数多く鎮座します。その中で、氷川町の「氷川神社」は、旧下板橋宿の鎮守社で、豊島経泰が大宮氷川神社の御分霊を勧…
子易神社の近くにある「宗仙寺(日蓮宗)」です。延宝5年(1677)に「要法寺(京都三条)」の末寺として、日順上人により河内の若江村(現在の東大阪市)に創建され…
「板橋Jct」の下といえるのでしょうか。「高速5号線と17号線」が交差しているダイナミックなエリアに位置しています。江戸時代は此の一帯は「金井窪(かないくぼ…
江戸時代、此の辺り(板橋3〰4丁目)には、加賀藩前田家の広大な「下屋敷」がありました。上屋敷が本郷にあり、中仙道に沿った此の辺りは、加賀への行程上、極めて至便…
三田線「板橋区役所前」駅から少し歩き、国道17号線と中仙道旧街道が交差する辺り。室町期の創建とされる「東光寺(浄土宗)」があります。此処には、関ヶ原の戦いで西…
板橋区内にも「熊野神社」は複数あります(熊野町という地名まで)。此処「志村熊野神社」は、「城山熊野神社」と呼ばれています。その鎮座地は古墳の上で、平安~鎌倉初…
とても静謐なお寺です。小豆沢神社の隣りにあり「薬王山龍福寺(真言宗智山派)」と言います。室町時代末期に、袋村(現在の北区岩淵町)の運珍和尚が隠居寺として創建し…
「薬師の泉庭園」を東へ、広大な「小豆沢公園」の更に東に、「小豆沢神社」が鎮座しています。当社は、康平年間(11世紀)に、源 義家が勧請したと伝わります。小豆沢…
総泉寺の奥に「薬師の泉庭園(総泉寺亀山荘庭園)」があります。此処は、昭和初期に総泉寺と統合された名刹「大善寺(曹洞宗。青雲大善庵主が創建)」のもと境内の一部。…
三田線「志村坂上」駅から更に坂を上ると「総泉寺(曹洞宗単立寺院)」があります。 此処も「梅若伝承(幾度となく歌舞伎や人形浄瑠璃で採り上げられた貴種流麗譚)」の…
此の辺りまで来ると、東京都区内も北の外れとの印象です。実に清々しいお寺が「志村延命寺(真言宗豊山派)」。正式には「見次山松壽院延命寺」と言います。見次権兵衛が…
「ブログリーダー」を活用して、嵯峨野の青竹さんをフォローしませんか?
今井町の寺内町としての成立は、天正年間(16世紀)此の地に今井兵部卿豊寿が「稱念寺」を建立したことに由来します。 「称念寺」は今井町の中核として発展を続け、称…
「中町筋」にある「旧米谷家住宅(重文)」です。 「米谷」の屋号をもち、広く金物商を営んでいました。 18世紀中頃の建物で、後に、内蔵や蔵前座敷を増築していま…
やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
此の辺りには大きな蔵が散在しており、江戸時代には廻船問屋街であった、当時の繁栄ぶりを偲ぶことができます。 「西叶神社」の御祭神は応神天皇で、養和元年(1181…
浦賀園と呼ばれ、明治26年に開園された、横須賀では最古の公園「愛宕山公園」です。咸臨丸出航の碑もあります。 この先の石段を上るので、浦賀港を見下ろす景勝地です…
黒船が来航し浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、浦賀へ来る人が多くなりました。しかし浦賀は宿場ではないので、船乗り以外の旅人の宿泊は禁止。 知人宅に宿泊を依頼し…
天然の良港である浦賀港。入り江が深く入り込んでおり、東西浦賀を行き交う人々の交通手段は重要です。 浦賀に奉行所が設置された頃から、此の「浦賀の渡し舟」は続いて…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…