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戦国宇喜多 https://blog.goo.ne.jp/77toto

戦国宇喜多 血脈系図と備前代々の記録

歴史ブログ / 戦国時代

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2011/01/03

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  • 備中高松城の攻防・宇喜多直家の病死

    備中高松城跡高松城主清水宗治は地元高松では、己を犠牲にして城内の数千人を救った恩人として、今も人々の心の中に生きています。攻防中に直家は病死、蓮昌寺にて火葬。宇喜多系図の現代語訳から抜書きします。・天正10年(1582)4月、直家先鉾にて備中に入り、忍の城・土田城・小田城を攻め落とす。・高松城に取り懸かるに、城主清水長左衛門(清水宗治)よくこれを守る。・秀吉公この城水攻めの術をなすべくして三里余の堤を築き水を堰いる。・輝元諸将小早川等五万余り猿懸不動嵩・岩崎山に対陣す。・宇喜多直家病気につき、岡山に帰りて子息八郎秀家・岡豊前守等を差し添え、高松に遣わし八幡山に陣す。・直家病気重くして天正10年(1582)5月14日死去す、乱世により死を隠し夜隠蓮昌寺地内に火葬なり備中高松城の戦いは天正10年6月4日に清水宗治が...備中高松城の攻防・宇喜多直家の病死

  • 和気天神山城の落城

    浦上宗景がたてこもる和気天神山城。宇喜多直家は18歳の時、宗景に召仕わる、春家・一家(直家の兄弟)同じく召出さる。和気天神山(平成22年秋)現代語訳からの天神山落城・直家、宗景の援兵を借りずに己の働きによって国中を摩(さしず)し、備中を略(計略)し、美作を劫(劫略きょうりゃく)せんと欲す。・直家勢い甚だしく、武威(ぶい)盛りなり、これにより宗景、直家を誅(誅伐ちゅうばつ)さんと欲す。・明石(飛騨守景親)・楢崎(霜台)搦手(からめて背後をせめる軍勢)大将として北の麓を押し登り、直家大手(正面からせめる軍勢)大将として川筋より押し登り、太鼓矢倉を乗っ取り、南北より箭玉(やだま弓矢)をもってこれを攻む。・宗景無勢にてかなわず、永禄12年(1569年)3月15日天神山を落ち播州室に走る。・宗景児島佐々木美作守、小豆島城...和気天神山城の落城

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