chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
戦国宇喜多 https://blog.goo.ne.jp/77toto

戦国宇喜多 血脈系図と備前代々の記録

歴史ブログ / 戦国時代

※ランキングに参加していません

mitsuo
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2011/01/03

arrow_drop_down
  • 宇喜多系図に登場する城名、城主、関連事項

    宇喜多系図に登場する城名と城主並びに関連事項について記してゆきます。戦いによって城主が変わり同じ城が重複して出てきます。城名城主関連事項勝嶋山城宇喜多能家(よしいえ)能家が病死した城(備前軍記では能家は自害)邑久郡島野路郷乙子城宇喜多興家(おきいえ)天文年中砥石城主島村豊後守興家を乙子城において討つ(備前軍記では興家は家臣の縁者の家で病死)邑久郡築城は能家大土居城宇喜多基家基家は直家の兄弟一家の長男若死佐伯城宇喜多綱家岩梨郡宇喜多土佐守関ヶ原討死兼松城長瀬七朗邑久郡親家(河本対馬守)息女の嫁ぎ先関ヶ原討死沼の城中山修理太夫1508年浦上に背き能家が征す但馬城山名次郎1509年作州に放火能家が征す滝山城難波下野守1512年村宗に背き能家が征す白幡城赤松下野前司晴政能家晴政と戦い子息を生捕り村上城山名右衛門佐赤坂郡...宇喜多系図に登場する城名、城主、関連事項

  • 犬島の石

    犬島は岡山市の南東にあり、市内唯一人の住んでいる島です。花崗岩を産出する島で現在では100人に満たない人が生活しています。宇喜多系図の現代語訳に次の記述があります。・天正11年(1583年)秀吉公大坂城を築く、秀家犬島石を献ず、奉行明石勘解左衛門、宇喜多安津入道なり、秀家初めて大坂に行く。(天正11年は大坂城の築城が開始された年です)・文禄3年(1594年)秀吉公伏見城を築き、秀家犬島石を献ず、同じく秀吉公吉野の花見に秀家御供し和歌を詠ず。(文禄3年は伏見城が完成した年です)犬島に在住されている在本桂子様が「犬島の石嫁ぎ先発見の旅」を発刊されています。多くの人達によって切り出され,各地に送られてきた犬島の石たちは今どのように過ごしているのか、行先を尋ねて記録に残されています。先日、在本様に宇喜多系図に犬島石のこ...犬島の石

  • 宇喜多秀家の子供

    宇喜多秀家に子供は無かった。「宇喜多系図」の血脈系図に秀家の子供は書かれていません。現代語訳から抜粋します。・慶長元年(1596年)秀家子無く河本対馬守の孫、宇喜多源三兵衛の子源太郎七歳を岡山に召し出され、宇喜多岡八郎と改む。・秀家内室所労により賀州利家より使節、秀吉より医師林了伯を備前に下さる、怪病につき京都吉田殿の使者によりやや快気なり。備前軍記では「関ヶ原の合戦後、内室は娘1人と共に前田家に引き取られた、秀家は2人の息子(孫九朗・小平次)と共に八丈島に流された」これが、現在語られている歴史認識です。岡山市指定重要文化財に「花房家歴史資料」があります、花房弥左衛門(後志麻守)は宇喜多秀家の家臣でした。「花房家歴史資料12」は前田家が秀家の流された八丈島に米を送った送り状としてインターネットでも公開されていま...宇喜多秀家の子供

  • 法鮮銘五輪塔

    宇喜多系図の解説を続けます。法鮮銘五輪塔宇喜多秀家の母おふく(俗名お鮮)が建てた宇喜多直家の墓では。基礎部に火葬骨が埋葬されていた。五輪塔蓮昌寺の寺域であった塔の山(現在は岡山市徳吉町)に巨大な墓石(五輪塔)が残っています。高さ3.38m、基礎の正面に「文禄三(1594年)甲午法鮮十二月十一日」の銘文があります。以前は塔の山西南にあったものが、第二次世界大戦後の昭和25年頃墓石整理に伴い現地に移動され、その際基礎部から火葬骨が発見されています。秀家の生母の墓との伝承がありますが、宇喜多系図には次の記述があります。「文禄三年、秀吉公伏見城を築き、秀家犬島石を献ず、同じく秀吉公吉野の花見に秀家御供し和歌を詠す、秀吉公御感なり。文禄三年四月、秀家備前に帰り家臣の城数を改む」3年後の慶長の役までは比較的おだやかな日々だ...法鮮銘五輪塔

  • 備中高松城の攻防・宇喜多直家の病死

    備中高松城跡高松城主清水宗治は地元高松では、己を犠牲にして城内の数千人を救った恩人として、今も人々の心の中に生きています。攻防中に直家は病死、蓮昌寺にて火葬。宇喜多系図の現代語訳から抜書きします。・天正10年(1582)4月、直家先鉾にて備中に入り、忍の城・土田城・小田城を攻め落とす。・高松城に取り懸かるに、城主清水長左衛門(清水宗治)よくこれを守る。・秀吉公この城水攻めの術をなすべくして三里余の堤を築き水を堰いる。・輝元諸将小早川等五万余り猿懸不動嵩・岩崎山に対陣す。・宇喜多直家病気につき、岡山に帰りて子息八郎秀家・岡豊前守等を差し添え、高松に遣わし八幡山に陣す。・直家病気重くして天正10年(1582)5月14日死去す、乱世により死を隠し夜隠蓮昌寺地内に火葬なり備中高松城の戦いは天正10年6月4日に清水宗治が...備中高松城の攻防・宇喜多直家の病死

  • 和気天神山城の落城

    浦上宗景がたてこもる和気天神山城。宇喜多直家は18歳の時、宗景に召仕わる、春家・一家(直家の兄弟)同じく召出さる。和気天神山(平成22年秋)現代語訳からの天神山落城・直家、宗景の援兵を借りずに己の働きによって国中を摩(さしず)し、備中を略(計略)し、美作を劫(劫略きょうりゃく)せんと欲す。・直家勢い甚だしく、武威(ぶい)盛りなり、これにより宗景、直家を誅(誅伐ちゅうばつ)さんと欲す。・明石(飛騨守景親)・楢崎(霜台)搦手(からめて背後をせめる軍勢)大将として北の麓を押し登り、直家大手(正面からせめる軍勢)大将として川筋より押し登り、太鼓矢倉を乗っ取り、南北より箭玉(やだま弓矢)をもってこれを攻む。・宗景無勢にてかなわず、永禄12年(1569年)3月15日天神山を落ち播州室に走る。・宗景児島佐々木美作守、小豆島城...和気天神山城の落城

  • 宇喜多系図の現代語版(続)

    宇喜多系図の現代語版(続)

  • 宇喜多系図の現代語版

    少し不鮮明ですが現代語に訳したものを掲載します。宇喜多系図の現代語版

  • 八浜合戦

    ----系図について----「宇喜多系図」は宝永弐年(1705年)山口猪之八によって書かれ西川幸之助あてに出されたものです。猪之八の改名前は「秀一」です。系図の現代語版の一部を拡大して添付します。猪之八が改名した元禄七年(1694年)は第5代将軍徳川綱吉の治世下です。秀一の妹が西川助六に嫁いでいることから、西川幸之助は妹の嫁ぎ先の人と思われます。秀一の祖父保秀は9歳で岡山城を落ち、89歳卒となっているので1591~1680年に生きた人物となります。能家(よしいえ)、興家(おきいえ)の子孫が直家、秀家を含めてはっきり書かれています。系図には能家は病死、興家は乙子之城で討死と書かれています。(備前軍記では能家は砥石山城で自害、興家は病死となっています)系図には秀家の子供は書かれていません。この系図の末尾に「一家一門...八浜合戦

  • 戦国・宇喜多について綴ります

    はじめまして本日より、戦国・宇喜多の系図について綴って参ります。はじめてのブログで不慣れではございますがどうぞご訪問くださいませ。平成21年3月、「宇喜多系図」が岡山県立記録資料館から「紀要第4号」で公開されました。この系図は戦国宇喜多一族の血脈系図と備前代々の記録で、300年間眠っていたものです。岡山県地域の戦国時代史は、ともすれば江戸時代に作られた軍記類によって描かれています。「宇喜多系図」は岡山に定着している歴史観と異なる内容が多く含まれております、「波風を立てるな」とのおしかりを受けるかも知れませんが、史実の復元に少しでも役立つことを願って、宇喜多系図の一部ですが分析、解説を付してゆく事とします。「紀要4号」では「宇喜多系図」の原文(古文書)を活字に変換したものと現代語版が掲載されました。このブログでは...戦国・宇喜多について綴ります

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、mitsuoさんをフォローしませんか?

ハンドル名
mitsuoさん
ブログタイトル
戦国宇喜多
フォロー
戦国宇喜多

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用