なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
地のエルサレムの復活 さて、神がご自身の証しの一部または大部分を回復するために再び動かれる時は常に、そのような動きは必ず、復活に固有のもの、つまり命の新しさという印を帯びていました――あるいは、別の言い方をすると、死に対する勝利という印を帯びていました。これは常にそうでしたし、今も常にそうです。より豊かなご自身の証しに関する神の動きは、常に復活の性格、新しい命の性質を帯びています。 エルサレムの歴史...
「……塩は制限なく与えよ」(エズラ七・二二)。「あなたたちは地の塩である。しかし、もし塩が味を失えば、何によって塩味をつけるのであろうか?もはや何の役にも立たず、ただ投げ捨てられ、人に踏みつけられるだけである」(マタイ五・十三)。「塩は良いものである。しかし、もし塩が塩味を失ったなら、何によって塩味を取り戻すのだろうか?自分自身の内に塩を持ちなさい」(マルコ九・五〇)。 ネヘミヤ記に戻ることにします...
「主の証しの全き回復」第三章 根本的な問題である礼拝 (8)
主を求める気質 さて、この動機についてもう一言述べて、終わることにします。使徒は、ローマ人への手紙十二・一~二の礼拝に関する偉大な言葉の中で、続けてこう述べています――この御言葉を読むのを途中でやめてはいけません――「……これがあなたたちの礼拝です。そして、この時代にしたがって、かたどられてはなりません。むしろ、思いを新しくすることによって造り変えられなさい」――心を「新しくする」ことについて述べられてい...
「主の証しの全き回復」第三章 根本的な問題である礼拝 (7)
二心 さて、私たちが今回見ているように、廃墟となって崩れているこの城壁を見てください。そうするなら、あなたは今一度こう言うでしょう、「この状況はどうしてでしょう?この悲劇的光景はどうしてでしょう?それを見た人がみな、頭を振ったり、ため息をついたりするのは、どうしたことでしょう?かつてはとても輝かしかったものがこんなことになるとは、何が起きたのでしょう?これはどうしてでしょう?」。その答えは次のよう...
「主の証しの全き回復」第三章 根本的な問題である礼拝 (6)
人類に対する悪魔の欺き しかしその後、恐ろしい断絶が生じました。神から逸らすために、自分自身に向かわせるために、敵がエデンの園にやって来ました。しかし、どうやってでしょう?――これは認識するのが恐ろしいことです。敵は人自身の個人的利益を示し、人自身の個人的利益を第一とし、人に次のことを示しました。すなわち、人はなにかを所有できること――なにかを得られることを示したのです。その時までは、主が何を得られる...
「主の証しの全き回復」第三章 根本的な問題である礼拝 (5)
主は礼拝に基づいて近づかれる さて、これこそまさに聖書の分岐点です。神が人を造り、ご自身との交わりの中にもたらされた時、すべては主のためでした。人には、主以外に生き、働く目的がありませんでした。それはとても麗しい状況でした。人と主だけでした。主は夕方の涼しい頃に来て、エデンの園を歩き、ご自身が造った人々を迎え入れられたように思われます。彼らの生活と働きの中には喜びがありました。主はこれを喜ばれまし...
「主の証しの全き回復」第三章 根本的な問題である礼拝 (4)
そのような人たちの生活は、礼拝の祈りです。彼らは、常に言葉を述べているとはかぎりませんし、常にひざまずいているとはかぎりません。また、常に集会の中にいるとはかぎりません。しかし、彼らの背後から、言わば、なにかが主に向かって手を伸ばしています――彼らは主を慕っています。エルサレムの栄光の時代、イスラエルの人々は、エルサレムから遠く離れていても、エルサレムを慕いましたが、それと同じことが彼らにも言えま...
「主の証しの全き回復」第三章 根本的な問題である礼拝 (3)
宗教はひとまず置いておいて、少しの間、礼拝の初歩的な要素について考えてみましょう。宗教的な体系や形式が何もなくても、礼拝は続きます。それがまさにその中に根付いています。礼拝の基本的要素とは何でしょう?それは、人生を動機づける要素にほかなりません――つまり、生きる価値であり、生きがいです。だれもが陥るおそれのある、最低の、最も悲しい、最も悲劇的な状態は、人生への興味をすっかり失ってしまうことであり、...
「主の証しの全き回復」第三章 根本的な問題である礼拝 (2)
礼拝とは贖って神にもたらすことである そこで、数分の間、この礼拝の問題について見ることにします。いま見ているように、ネヘミヤの働きはエルサレムの城壁を再建することでしたが、それは実は贖いの働きでした――状況を贖い、証しを贖う働きでした。それは贖いの働きでした。さて、よくご存じのように、贖いとは神にもたらすことです。「私たちを贖って神にもたらしてくださった」(黙示録五・九、欽定訳)――こう記されています...
「主の証しの全き回復」第三章 根本的な問題である礼拝 (1)
私たちは、ネヘミヤの発言のある句が示している点に専念しています。彼は、敵が狡猾に、自分を陥れるために、どこか遠く離れた場所で会うように誘った時、こう言いました、「私は大きな働きをしているので、下って行くことはできません」。この言葉を「大きな働き」と短縮することにします。なぜなら、このネヘミヤ記は神の大きな働きを図式や歴史的絵図によって示しているからです。ネヘミヤは、この章のまさに冒頭で見たように...
偶像崇拝とは何でしょう?木や石でできている偶像にひれ伏す以外に、それは多くの、多くの巧妙な形を取ります。そして、多くのとき、間接的な形を取ります。それは、神に取って代わるもの、神の道に割り込むものに思いを馳せることです。なんと広大な領域をこれは網羅することでしょう!その影響の結果、最終的に、主は妨げられ、妨害され、求めているものを得られなくなります。これが偶像崇拝の原則です。それは主に取って代わ...
ある法則の働きの極端な例として、次のようなものがあります。詩篇の作者は荒野におけるイスラエルについてこう述べています、「彼は彼らにその求めるものを与えられたが、彼らの魂の中にやせ衰える病を送られた」(詩篇一〇六・十五)。彼らは手放すことを拒みました。彼らは欲しがったのです。神の「ノー」の前で「イエス」と言ったのです。「それを得ることにします」。「よろしい」と主は言われました――そして、彼らは得たこ...
偶像崇拝がこの崩壊状態の原因である 回復に移る前に、この状況をもたらした根本的・究極的理由を検証・追跡しなければなりません。この書とそれに至る他の諸書に出て来る絵図から、手がかりが得られます。この問題全体の根幹を突く一つの言葉があります。それは偶像崇拝です。廃墟と瓦礫の中にあるこの城壁を見るなら、黙想・熟考して、「なぜでしょう?これはなぜでしょう?こんなことになるとはどういうことでしょう?この状況...
城壁を修理する必要性 ここで、意味を誤解されないように、一言述べる必要があります。ネヘミヤは城壁全体を基礎から造り直したわけではありません。よく見ると、行われていたのは城壁の修理だったことがわかります。壊されたものを修理して完全なものにしていたのです。なぜ私はこれを述べているのでしょう?この城壁を基礎から築くことを、私たちは命じられていませんし、そうするよう召されてもいないからです。神に感謝します...
そして第三に、この城壁は防御するものでした。それは言わば、責任ある立場に置かれたものでした。それには、主の権益と主の民を、侵入しようとするもの、攻撃しようとするもの、堕落させようとするもの、その性格を変えようとするものから守る責任がありました。主は証しを必要としておられます。その証しは、すべてに対して課題を突き付けるものであり、主に全く属しているわけではないものをなにも通さないものです。ここで教...
そして次に――これは違いのない区別であるとあなたは思うかもしれませんが、違いがあるのです――城壁は境界つまり区別を表していました。ここでは物事は全く混ざり合っていません。この城壁は次の事実を宣言し、確立するものです。すなわち、この証しは独特な証しであるという事実です。それは一般的なものではありません。それはあらゆる種類の異なるものに帰着するものではありません。それは明確であり、独特です。それは一つの...
その目的――城壁 さて、この書の問題の主な特徴に進むことにしましょう。最初の学びで述べたように、それは三つあります。すなわち、城壁、働き、戦いです。もしくは、御旨、行動、戦いです。御旨すなわち城壁から始めることにします。ネヘミヤが修理しようとしていたこの城壁が何を表しているのかについて――この城壁が何を象徴しているのかについて――私たちはよくよくはっきりしていなければなりません。この城壁について、この城...
ネヘミヤのビジョンとインスピレーション そして、さらに、ネヘミヤはその行動によって、他の人々を自分のビジョンと関心事の中に引き込みました。まず第一に、それは彼自身の心の中にあり、彼の心の中に隠されていました。神が自分の心に置かれたことを彼はだれにも言いませんでした。そもそも、それは彼自身と主との間のことであり、彼がある地位に達して、自分の調査の結果としてある決定を下すまでは、彼は他の人に心を開きま...
私の心の中には、このメッセージでは言い表せない多くの思いがあります。しかし、私はこのことに関して、聖書全体を考慮に入れています。そして、先に進むにつれてわかるようになると思いますが、私は特に新約聖書に向かおうとしています。私は現経綸の偉大なネヘミヤである使徒パウロに思いを馳せています。クリスチャンの間で彼はなんという状況に直面しなければならなかったことでしょう!なんという状況に彼は遭遇し、対処し...
事実、今日、世界のどこに行っても、主の民の間の霊的状況を嘆いている人々が常に見つかります。彼らの感覚はおおむね正しいです――しかし、前に述べたように、彼らの多くは不満・不平・ぐち・苦情・批判を述べるだけで、解決策や改善案をなにも提示しません。それにもかかわらず、教会の霊的状況について抱いている彼らの印象はおおむね真実です。今日、次のことは大いに真実です。すなわち、教会に関してすべてが正しいわけでは...
ネヘミヤの行動 さて、ネヘミヤの関心事から彼の行動に移ることにします――というのは、これまで述べてきたように、ネヘミヤは状況を冷静かつ否定的に批判するだけの人ではなかったからです。彼は、神の栄光のためになすべきことを知らずに、またそれについてなにかを行うことなく、間違いをすべて指摘するだけの人ではありませんでした。それで、彼は行動を起こしました。聖書の中で、あるいは少なくとも旧約聖書の中で、他の書物...
ネヘミヤは、戻って来た兄弟たちから、エルサレムの状況について報告を受けていました。城壁は破壊され、門は火で焼かれ、人々は悲惨な状態にありました。彼はその報告を受け、必要についてすべて知っていましたが、まったくどうすることもできませんでした。神だけがそれをなすことができました。どうか信じてください、親愛なる友よ、このような立場によって偉大な約束が与えられます。このような立場に対して神は働かれます。...
それから、長い遅延がありました。「ああ、時間がかかりすぎます!ああ、何かできれば!」。主はそのような忍耐を要求しておられます。私たちは主の遅延に抵抗します。私たちは機会の遅れによって深刻な試みを受けます。何も始まらず、道はありません。しかし重要なのは――私たちはこのことで本当に苦悩しているのか?ということです。きっと主は、私たちの真の関心事に関して私たちを試すために、遅延や延期を用いておられるので...
ネヘミヤもそうだったにちがいないと思います。「ここで私は王の献酌官をしています!」。彼の心中の反発が聞こえてきそうです。それを彼はどれほど軽んじていたことでしょう――というのは、主の権益の方が彼にとって遥かに重大なものになっていたからです!この人、この支配者、この王は、偉大な人であり、当時の世界で最も偉大な人でした。その献酌官であることは、決して小さなことではありませんでした。エステルとモルデカイ...
ネヘミヤの苦悩の特徴 少しの間、ネヘミヤのこの苦悩について、さらに詳しく見ることにしましょう。彼の苦悩にはどんな特徴があったのでしょう?私は彼を理解し、洞察し、その心に入り込もうとしました。彼の叫びの原因、彼の悲しみ、彼の重い苦悩の原因を、知ろうとしました。そうしているうちに、彼のこの苦悩の原因のいくつかがわかったような気がしました。 ネヘミヤは、物事のあるべき姿と実際の姿を見ました。次に、自分自...
そしてこれは、親愛なる友よ、私たちに課題を突き付けます。疑いなく、私たちのほとんどは、神の民、神の教会の中にある、神の御心にかなっていないものを指摘することができるでしょう。物事があるべき姿からどれほどかけ離れているのか、このことがいかに悪く、あのことがいかに悪いのかを、指摘することができるでしょう。ああ、それはとても容易であり、とても安易です――批判すること、批判に耳を傾けること、それに同意する...
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なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...