なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
ネヘミヤの関心事 この人は、物事のあるべき状態と実際の状態の両方を真に認識していました。私たちは僕として、この二つを心の中で明確に理解しないかぎり、神の御旨に貢献することはできません。すなわち、物事の実際の状態とあるべき状態についてです。もし物事が神の御旨・御心とおりのものだったなら、状況はどうなっていたでしょう?もし物事が神の御旨を反映・表現するものだったなら、状況はどうなっていたでしょう?あな...
神との交わりの中で苦しむ人 しかし、このネヘミヤ記にはもう一つの面があります――それは神との苦難の交わりの中にある人です。エズラ記には、神の主権が記されています。ネヘミヤ記には、人による神との交わりが記されています。エズラ記では、神は直接、単独で行動しておられます。ネヘミヤ記では、人が神と共に行動しています。あるいは、神が人を通して行動しておられます。この二つは常に同行します――これを覚えておいてくだ...
神の主権的反応 さて、次の動きがあります。時が来て、神はご自分の証しを回復するために再び動き出されたので、神は主権をもってクロスの霊を奮い立たせられました。クロスは布告を発して、レムナントはエルサレムに戻りました。歴代誌第二の最後の二つの節は、ご存じのように、この事実を述べていますが、続くエズラ記の最初の節はこの言葉を正確に繰り返しています。「主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせられた」。そして...
祈りにおける苦悩 さて、城壁・働き・戦いという三つの主要な特徴に取りかかる前に、ネヘミヤ自身が体現しているある本質的要素から始めなければなりません。私たちは少し遡らなければなりません。なぜなら、これが始まったのは何年も前のことであり、七十年以上前のことだからです。それは預言者エレミヤの心の中で始まりました。エレミヤは砕けた心と、悲しみに満ちた霊の持ち主でした――その心は砕かれており、その霊は主の民の...
霊的衰退の時代における神の反応 ネヘミヤは旧約聖書最後の偉大な人物であり、彼の書は旧約聖書最後の歴史書です。旧約聖書の書物の年代配置を学んでいない人は、これらの事実を全く知らないかもしれません。ネヘミヤ記は、私たちの聖書では、旧約聖書の終わりのかなり前にあるので、それは年代的にかなり前の時代と関係していると多くの人は考えています。しかし実際には、それはマラキの預言と並行しています。ネヘミヤは預言者...
「そこで、私は使者たちを彼らに遣わして言った、『私は大きな働きをしているので、下って行くことはできません。私がそれをそのままにして、あなたたちの所へ下って行き、働きを止めてよいでしょうか?』」(ネヘミヤ六・三)。「私は夜中に起き、数人の者が私と共にいた。私の神が、エルサレムのために行うよう私の心に置かれたことを、私はだれにも告げなかった」(ネヘミヤ二・十二)。 この二つの節――「私は大きな工事をして...
主の証しの全き回復T. オースチン-スパークス目次第一章 最初の行動第二章 城壁の状態第三章 根本的な問題である礼拝第四章 復活の原則第五章 城壁は何を物語っているのか第六章 働きと働き人第七章 戦い第八章 特別な宝オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
とがめのない心。キリストの死と復活の中で自分はキリストと一体化されたことを理解し、また、自分はキリストにあって天上に座しており、万物を遥かに超えて高くされていることを理解する信仰。私たちが自由に使える全能の力と命を取得すること、また、彼にあって私たちのものとされた勝利。これらのものが揃っているなら、しいたげる者の憤りは、私たちに勝利を与えてくださる神に栄光を帰す以上の影響を及ぼせません。この戦い...
さらに次のことを述べなければなりません。これは初歩的であり本質的です。神の御前でとがめのない心を持たないかぎり、しいたげる者の憤りに対する勝利を経験するのは不可能です。自分の生活の中には神に対して正しくない点があると自覚しているならば、自分の上に加えられる敵の圧迫に勝利できると思うのは愚かなことです。身に覚えのある罪があるなら、あるいは、自分の生活の中に何らかの疑わしい道楽を保持しているなら、そ...
この憤りはいつやむのでしょう?いつしいたげる者はいなくなるのでしょう?私たちがこの死すべき体の中にあって、キリストに従い続けているかぎり、私たちはしいたげる者の憤りを感じるでしょう。実に、「私たちの主の再臨が近づくにつれて、この戦いはますます激しくなります」。しかし、私たちに対してそれがやむ幸いな時が来るでしょう。私たちはイエスにあって眠るか、あるいは、彼がご自身の民のために来臨されるとき取り去...
次のことを行うとき、私たちは言い尽くせない悲しみや苦難から救われます。まず、御言葉が告げているとおりに、神を受け入れなければなりません。次に、彼が私たちを置いてくださった所に立たなければなりません。彼は私たちをキリストの中に包み込んで、彼の力によって力づけてくださったのです。「主はまた、しいたげる者からの避け所、困難な時の避け所です」。私たちはこれらのことに対して十分ではありませんが、「神に感謝...
敵がいかなる使者、手先、経路を通してひどく圧迫したとしても、「あなたは上から与えられるのでなければ、私に対して何の権威もありません」(ヨハネ十九・十一)という御言葉を理解し、述べ、維持するといいでしょう。さいわいなことに、この御言葉はしいたげる者の力を私たちのためにどれほど粉砕してくれることでしょう。直ちに私たちは自分をしいたげる者たちを対処することを、すべてを征服する私たちのキリストの顧みに委...
敵の極度の圧迫を恐れないようにしましょう。この圧迫により、私たちは神に頼らざるをえなくなり、肉的なあらゆるものから全く分離されます。徹底的に分離されるなら、私たちは安全です。こうして、私たちを麻痺させる敵対勢力から守られます。次に、中途半端な手段や折衷案はありません。そうした手段や折衷案は、私たちに妥協的な立場を取らせるだけであり、私たちを依然としてしいたげる者の力の中に保つものです。私たちを滅...
「しいたげる者の憤り」はあらゆる種類の形を取ります。しいたげる者が私たちに臨むこれらの形のいくつかに立ち向かうならば、私たちはその憤りの猛攻撃に遥かによく耐えられるでしょう。 しいたげる者は私たちを痛めつけ、困惑させ、困らせ、怒らせます。そうです、可能なら、私たちを投獄します。私たちを拷問し、挑発し、悩ませて、限界点に至らせます。中傷し、抑圧し、混乱させ、悩ませます。縛り、傷つけ、中傷し、萎れさ...
「霊的な人」こそ、この戦いを最も切実に感じる人であり、「しいたげる者の憤り」を最もよく知っている人です。ますます前進して霊的実際の領域の中に入れば入るほど、この「憤り」はますます激しく、苛烈になります。 成功を収めるには、「しいたげる者」の性格を知ることが必要であるだけでなく、その力の大きさにも警戒した方がいいでしょう。これを過小評価してはいけません。他方、それを過大評価してもいけません。 往々...
勝利者誌 一九一一年 三巻 二月号 掲載。 「しいたげる者」とは誰のことでしょう?サタン自身にほかなりません。 この事実を知的に理解することが必要です。「敵」が明確にならなければ、私たちはせわしく「宙を打ち叩」いて、自分の時間を費やすことになるでしょう。 次の事実に直面しようではありませんか。「霊」である生ける神の子供たちとして、私たちの戦いは霊的なものなのです。また、私たちの大敵は悪魔なのです。 悪...
最後に、超自然的な効力が必要です。神は、道を導くだけでなく、成長させて成果を生じさせてくださいます。神はご自身にあってなされる最もつつましい務めにも効力を与えてくださいます。種は静かに横たわっているように見えるかもしれませんが、必ず芽を出して収穫をもたらすのです。 次の安息日の礼拝のために大工たちが修理していた空っぽの広間でスポルジョン氏が語った一文が、隣接する店の作業台の所にいた機械工の耳に届...
パウロとシラスですら、自分たちの超自然的な指導者の指示に刻々と従って進まなければならないことを、厳しく教わらなければなりませんでした。彼らが自分たちの計画を遂行するためにビテニヤ、ムシヤ、アジアを突き進んでいた時、聖霊によって突然止められたのです。「御霊は彼らにそうさせなかった」。彼らは自分たちの個人的な指導者である方よりも先走ってしまったのです。彼らは道を戻って神の御前に静まり、新しい命令を待...
私たちは超自然的な指示を持たなければなりません。神の計画を持っていても、自分自身の衝動に駆られて自分の働きに邁進するおそれがあります。それがサウロの過ちでした。神は敵を滅ぼすために彼をイスラエルの王として遣わされましたが、サウロは手綱を自分の手に握って、サムエルの指示を待たずに前に進み出て、その僭越さによって自分も自分の王国も滅ぼしてしまいました。 この過ちをヨシュアも犯す危険性がありました。神...
私たちは超自然的な計画を持たなければなりません。軍事作戦を遂行するとき、司令官は部下の将校らの賢明な協力に拠り頼みます。もし軍隊の一部門が指導者の計画を無視して攻撃に突入するなら、助けるどころか邪魔になるかもしれません。とても小さな部隊でも攻防の要所で用いられるなら、敵の側面を迂回して決戦の行方を変えることがしばしばあります。 キリストは仲介の御業の計画を持っておられます。彼が私たちを遣わされる...
「私たちは神の傑作であり、良い働きのために、キリスト・イエスの中で創造されました。神は、私たちがその良い働きの中を歩くようにと、あらかじめ定めてくださったのです。」(エペソ二・十) 使徒はここで、私たちの働きは「用意されていた」と告げています。というのは、これが「定めて」という言葉の正しい訳だからです。それは「私たちがそれらの中を歩くため」です。それらは私たちの働きではなく、神が聖霊とキリストの内...
また、この超自然的望みはクリスチャンの生活と働きにおける最高の励ましです。この真理ほど私たちを励まして、この絶望的な地上から召し出し、私たちの希望と志を来るべき王国に堅く据えさせるものはありません。この真理ほど私たちを聖別して、聖潔という白衣だけでなく、いっそう深い愛という婚礼衣装をも確保するよう私たちを促すものはありません。この婚礼衣装だけが、私たちを花婿に会うのにふさわしくすることができます...
結論として、主の来臨という超自然的望みは現在の真理です。なぜなら、第一に、それは現代の人間中心主義に対する真の解毒剤だからです。自己充足している人は、自分のバベルの塔を建てて、自分の未来の理想郷を野心と想像力で夢見ています。しかし、これらすべてに対して、神は天から笑って語られます、「しかし、私は私の王を、私の聖なる山シオンに立てた」と。人々には好き勝手な愚かな夢を見させておきましょう。来るべき諸...
千年王国時代の復活させられた聖徒たちは、物質界と人間生活の体系すべてに自由にいつでも出入りできるでしょう。人々を訪問したり、時には彼らとの戦いに従事することもできるでしょう。しかし、はるかに高い水準で生活することになるでしょう。アブラハムのもとに来た御使いたちや、復活後の四十日間の主ご自身のように、彼らはきっと人の食卓や地上の家族の団欒で座して食べ飲みし、単純な愛の交わりを持つことができるでしょ...
この地球が新たに整えられるとき、それは他のすべての世界に影響を及ぼすでしょう。キリストの贖いは天と地の万物を和解させるものである、という感覚があります。それが一体何を意味するのかを十分に予言することは、聖書に照らしてみても不可能です。しかし、千年期を超えて、代々の時代がさらに広大でさらに壮大なかたちで展開していくであろうことは確かです。その結果は最終的に、義のみが宿る新しい天と新しい地です。そし...
第三に、物質界は超自然的な変容を遂げます。人が変化させられるだけでなく、人の住まいも素晴らしい変容を遂げるのです。罪の痕跡、苦しみと死の記憶は消し去られます。墓場はなくなります。死という恐ろしい事実は遠い過去の記憶にすぎなくなり、墓場は死者を明け渡すだけでなく、分離と破壊の業をやめます。低次の被造物の野性的で野蛮な本能は服従させられます。獅子は雄牛のように温厚になり、狼は小羊と共に伏し、コブラや...
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なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...