ミナのたとえ(ルカ一九11~17)このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と...
ネヘミヤの関心事 この人は、物事のあるべき状態と実際の状態の両方を真に認識していました。私たちは僕として、この二つを心の中で明確に理解しないかぎり、神の御旨に貢献することはできません。すなわち、物事の実際の状態とあるべき状態についてです。もし物事が神の御旨・御心とおりのものだったなら、状況はどうなっていたでしょう?もし物事が神の御旨を反映・表現するものだったなら、状況はどうなっていたでしょう?あな...
神との交わりの中で苦しむ人 しかし、このネヘミヤ記にはもう一つの面があります――それは神との苦難の交わりの中にある人です。エズラ記には、神の主権が記されています。ネヘミヤ記には、人による神との交わりが記されています。エズラ記では、神は直接、単独で行動しておられます。ネヘミヤ記では、人が神と共に行動しています。あるいは、神が人を通して行動しておられます。この二つは常に同行します――これを覚えておいてくだ...
神の主権的反応 さて、次の動きがあります。時が来て、神はご自分の証しを回復するために再び動き出されたので、神は主権をもってクロスの霊を奮い立たせられました。クロスは布告を発して、レムナントはエルサレムに戻りました。歴代誌第二の最後の二つの節は、ご存じのように、この事実を述べていますが、続くエズラ記の最初の節はこの言葉を正確に繰り返しています。「主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせられた」。そして...
祈りにおける苦悩 さて、城壁・働き・戦いという三つの主要な特徴に取りかかる前に、ネヘミヤ自身が体現しているある本質的要素から始めなければなりません。私たちは少し遡らなければなりません。なぜなら、これが始まったのは何年も前のことであり、七十年以上前のことだからです。それは預言者エレミヤの心の中で始まりました。エレミヤは砕けた心と、悲しみに満ちた霊の持ち主でした――その心は砕かれており、その霊は主の民の...
霊的衰退の時代における神の反応 ネヘミヤは旧約聖書最後の偉大な人物であり、彼の書は旧約聖書最後の歴史書です。旧約聖書の書物の年代配置を学んでいない人は、これらの事実を全く知らないかもしれません。ネヘミヤ記は、私たちの聖書では、旧約聖書の終わりのかなり前にあるので、それは年代的にかなり前の時代と関係していると多くの人は考えています。しかし実際には、それはマラキの預言と並行しています。ネヘミヤは預言者...
「そこで、私は使者たちを彼らに遣わして言った、『私は大きな働きをしているので、下って行くことはできません。私がそれをそのままにして、あなたたちの所へ下って行き、働きを止めてよいでしょうか?』」(ネヘミヤ六・三)。「私は夜中に起き、数人の者が私と共にいた。私の神が、エルサレムのために行うよう私の心に置かれたことを、私はだれにも告げなかった」(ネヘミヤ二・十二)。 この二つの節――「私は大きな工事をして...
主の証しの全き回復T. オースチン-スパークス目次第一章 最初の行動第二章 城壁の状態第三章 根本的な問題である礼拝第四章 復活の原則第五章 城壁は何を物語っているのか第六章 働きと働き人第七章 戦い第八章 特別な宝オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
とがめのない心。キリストの死と復活の中で自分はキリストと一体化されたことを理解し、また、自分はキリストにあって天上に座しており、万物を遥かに超えて高くされていることを理解する信仰。私たちが自由に使える全能の力と命を取得すること、また、彼にあって私たちのものとされた勝利。これらのものが揃っているなら、しいたげる者の憤りは、私たちに勝利を与えてくださる神に栄光を帰す以上の影響を及ぼせません。この戦い...
さらに次のことを述べなければなりません。これは初歩的であり本質的です。神の御前でとがめのない心を持たないかぎり、しいたげる者の憤りに対する勝利を経験するのは不可能です。自分の生活の中には神に対して正しくない点があると自覚しているならば、自分の上に加えられる敵の圧迫に勝利できると思うのは愚かなことです。身に覚えのある罪があるなら、あるいは、自分の生活の中に何らかの疑わしい道楽を保持しているなら、そ...
この憤りはいつやむのでしょう?いつしいたげる者はいなくなるのでしょう?私たちがこの死すべき体の中にあって、キリストに従い続けているかぎり、私たちはしいたげる者の憤りを感じるでしょう。実に、「私たちの主の再臨が近づくにつれて、この戦いはますます激しくなります」。しかし、私たちに対してそれがやむ幸いな時が来るでしょう。私たちはイエスにあって眠るか、あるいは、彼がご自身の民のために来臨されるとき取り去...
次のことを行うとき、私たちは言い尽くせない悲しみや苦難から救われます。まず、御言葉が告げているとおりに、神を受け入れなければなりません。次に、彼が私たちを置いてくださった所に立たなければなりません。彼は私たちをキリストの中に包み込んで、彼の力によって力づけてくださったのです。「主はまた、しいたげる者からの避け所、困難な時の避け所です」。私たちはこれらのことに対して十分ではありませんが、「神に感謝...
敵がいかなる使者、手先、経路を通してひどく圧迫したとしても、「あなたは上から与えられるのでなければ、私に対して何の権威もありません」(ヨハネ十九・十一)という御言葉を理解し、述べ、維持するといいでしょう。さいわいなことに、この御言葉はしいたげる者の力を私たちのためにどれほど粉砕してくれることでしょう。直ちに私たちは自分をしいたげる者たちを対処することを、すべてを征服する私たちのキリストの顧みに委...
敵の極度の圧迫を恐れないようにしましょう。この圧迫により、私たちは神に頼らざるをえなくなり、肉的なあらゆるものから全く分離されます。徹底的に分離されるなら、私たちは安全です。こうして、私たちを麻痺させる敵対勢力から守られます。次に、中途半端な手段や折衷案はありません。そうした手段や折衷案は、私たちに妥協的な立場を取らせるだけであり、私たちを依然としてしいたげる者の力の中に保つものです。私たちを滅...
「しいたげる者の憤り」はあらゆる種類の形を取ります。しいたげる者が私たちに臨むこれらの形のいくつかに立ち向かうならば、私たちはその憤りの猛攻撃に遥かによく耐えられるでしょう。 しいたげる者は私たちを痛めつけ、困惑させ、困らせ、怒らせます。そうです、可能なら、私たちを投獄します。私たちを拷問し、挑発し、悩ませて、限界点に至らせます。中傷し、抑圧し、混乱させ、悩ませます。縛り、傷つけ、中傷し、萎れさ...
「霊的な人」こそ、この戦いを最も切実に感じる人であり、「しいたげる者の憤り」を最もよく知っている人です。ますます前進して霊的実際の領域の中に入れば入るほど、この「憤り」はますます激しく、苛烈になります。 成功を収めるには、「しいたげる者」の性格を知ることが必要であるだけでなく、その力の大きさにも警戒した方がいいでしょう。これを過小評価してはいけません。他方、それを過大評価してもいけません。 往々...
勝利者誌 一九一一年 三巻 二月号 掲載。 「しいたげる者」とは誰のことでしょう?サタン自身にほかなりません。 この事実を知的に理解することが必要です。「敵」が明確にならなければ、私たちはせわしく「宙を打ち叩」いて、自分の時間を費やすことになるでしょう。 次の事実に直面しようではありませんか。「霊」である生ける神の子供たちとして、私たちの戦いは霊的なものなのです。また、私たちの大敵は悪魔なのです。 悪...
最後に、超自然的な効力が必要です。神は、道を導くだけでなく、成長させて成果を生じさせてくださいます。神はご自身にあってなされる最もつつましい務めにも効力を与えてくださいます。種は静かに横たわっているように見えるかもしれませんが、必ず芽を出して収穫をもたらすのです。 次の安息日の礼拝のために大工たちが修理していた空っぽの広間でスポルジョン氏が語った一文が、隣接する店の作業台の所にいた機械工の耳に届...
パウロとシラスですら、自分たちの超自然的な指導者の指示に刻々と従って進まなければならないことを、厳しく教わらなければなりませんでした。彼らが自分たちの計画を遂行するためにビテニヤ、ムシヤ、アジアを突き進んでいた時、聖霊によって突然止められたのです。「御霊は彼らにそうさせなかった」。彼らは自分たちの個人的な指導者である方よりも先走ってしまったのです。彼らは道を戻って神の御前に静まり、新しい命令を待...
私たちは超自然的な指示を持たなければなりません。神の計画を持っていても、自分自身の衝動に駆られて自分の働きに邁進するおそれがあります。それがサウロの過ちでした。神は敵を滅ぼすために彼をイスラエルの王として遣わされましたが、サウロは手綱を自分の手に握って、サムエルの指示を待たずに前に進み出て、その僭越さによって自分も自分の王国も滅ぼしてしまいました。 この過ちをヨシュアも犯す危険性がありました。神...
私たちは超自然的な計画を持たなければなりません。軍事作戦を遂行するとき、司令官は部下の将校らの賢明な協力に拠り頼みます。もし軍隊の一部門が指導者の計画を無視して攻撃に突入するなら、助けるどころか邪魔になるかもしれません。とても小さな部隊でも攻防の要所で用いられるなら、敵の側面を迂回して決戦の行方を変えることがしばしばあります。 キリストは仲介の御業の計画を持っておられます。彼が私たちを遣わされる...
「私たちは神の傑作であり、良い働きのために、キリスト・イエスの中で創造されました。神は、私たちがその良い働きの中を歩くようにと、あらかじめ定めてくださったのです。」(エペソ二・十) 使徒はここで、私たちの働きは「用意されていた」と告げています。というのは、これが「定めて」という言葉の正しい訳だからです。それは「私たちがそれらの中を歩くため」です。それらは私たちの働きではなく、神が聖霊とキリストの内...
また、この超自然的望みはクリスチャンの生活と働きにおける最高の励ましです。この真理ほど私たちを励まして、この絶望的な地上から召し出し、私たちの希望と志を来るべき王国に堅く据えさせるものはありません。この真理ほど私たちを聖別して、聖潔という白衣だけでなく、いっそう深い愛という婚礼衣装をも確保するよう私たちを促すものはありません。この婚礼衣装だけが、私たちを花婿に会うのにふさわしくすることができます...
結論として、主の来臨という超自然的望みは現在の真理です。なぜなら、第一に、それは現代の人間中心主義に対する真の解毒剤だからです。自己充足している人は、自分のバベルの塔を建てて、自分の未来の理想郷を野心と想像力で夢見ています。しかし、これらすべてに対して、神は天から笑って語られます、「しかし、私は私の王を、私の聖なる山シオンに立てた」と。人々には好き勝手な愚かな夢を見させておきましょう。来るべき諸...
千年王国時代の復活させられた聖徒たちは、物質界と人間生活の体系すべてに自由にいつでも出入りできるでしょう。人々を訪問したり、時には彼らとの戦いに従事することもできるでしょう。しかし、はるかに高い水準で生活することになるでしょう。アブラハムのもとに来た御使いたちや、復活後の四十日間の主ご自身のように、彼らはきっと人の食卓や地上の家族の団欒で座して食べ飲みし、単純な愛の交わりを持つことができるでしょ...
この地球が新たに整えられるとき、それは他のすべての世界に影響を及ぼすでしょう。キリストの贖いは天と地の万物を和解させるものである、という感覚があります。それが一体何を意味するのかを十分に予言することは、聖書に照らしてみても不可能です。しかし、千年期を超えて、代々の時代がさらに広大でさらに壮大なかたちで展開していくであろうことは確かです。その結果は最終的に、義のみが宿る新しい天と新しい地です。そし...
第三に、物質界は超自然的な変容を遂げます。人が変化させられるだけでなく、人の住まいも素晴らしい変容を遂げるのです。罪の痕跡、苦しみと死の記憶は消し去られます。墓場はなくなります。死という恐ろしい事実は遠い過去の記憶にすぎなくなり、墓場は死者を明け渡すだけでなく、分離と破壊の業をやめます。低次の被造物の野性的で野蛮な本能は服従させられます。獅子は雄牛のように温厚になり、狼は小羊と共に伏し、コブラや...
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ミナのたとえ(ルカ一九11~17)このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と...
ザアカイの救い(ルカ一九2~10)〔2〕「ザアカイ」原語ではザアカイと言う字義は純潔と言う意味である。ユダヤで取税人の長と言えば沢山の田畑を持っていたと言うから、彼もまた沢山の田畑を持っていたに相違ない。また彼はユダヤの宗教家の目から見て、心の汚れた者と思われていたであろうが、しかしロマ政府の立場から見れば、信用の厚い人物であったに相違ない。何れにせよ彼は取税人の長であったと言うのだから相当な身分であ...
二人のめしいの癒し(マタイ二〇29~34、マルコ一〇46~52、ルカ一八35~42)場所 エリコの近所。マルコによる福音書に基づいてこの出来事を学ぶことにする。〔46〕マルコによる福音書に録された記事とルカによる福音書のそれとを対観すると、一つの相違点を発見するのである。すなわちルカによる福音書の方には「エリコに近よれる時」とあるが、マタイによる福音書及びマルコによる福音書の方には「エリコを出る時」とある。そう...
ヤコブとヨハネの母の願い(マルコ一〇35~45)ここでは、ヤコブ、ヨハネの二人が各々左右に座することをイエスに求めたと録しているが、マタイによる福音書二〇章二○節を見ると、母親と一緒に来たとある。この母とは後にキリストが甦えられた時に、墓に行ったマリヤであったのである。この三人は共に非常に熱心な人々であったが、しかしその熱心は肉に属するところがあったのである。彼女の家族の中から二人もその子供が献身して...
エルサレムへの主の最後の旅行(マタイ二〇17~19)一節から一六節までは、神から報いを受けることを録したが、これは一七節から一九節までの十字架を除外してはその報いを受けることは不可能である。さてこの旅行は、イエスがエルサレムへ向われた第三の旅行である。イエスがこのことを人を離れて弟子たちにお語りになられたのは、そこに深い聖心があったのである。主は何とかしてこのことを弟子たちに悟らせようとなさったが、弟...
ブドウ園に雇われた人のたとえ(マタイ二〇1~16)このたとえは報いに関して人の考えと神の考えとの相違していることを示し、もう一つは後の者が先になると言う真理を示し給うたものである。〔1〕「ブドウ園」働く場所を指したものであって、未信者に道を伝え、また信者を導いて主の御前に立たせるようにする所である。〔2〕「銀一枚」日本の金高に換算して約四千円に相当する。これは当時労働者に対する一日の賃金であったと言う...
若き青年の話(マタイ一九16~26、マルコ一〇17~31、ルカ一八18~30)今日は「マルコ一○17~31」を主題として、他の福音書に記された箇所を参考にしながら学ぶことにする。〔17〕ルカ一八18を見ると、この青年はつかさである。またマタイ一九20には若者とある。彼は地位と財産とを持った青年であった。しかも彼は地位、財産がたのむに足りないことを知り、限りなき生命の問題について、心をくだいていた。この点からみれば、彼は...
イエス幼児を祝される(マタイ一九13~15)キリストが一度伝道を始められると、多くの人々が彼の許に来て、霊魂の救い、また病の癒しを願ったのである。ところが弟子たちはたびたびあわれみを求める者を阻んだ。これによって見ても弟子たちの心がいかに冷酷であったかが知られる。あのスロ・フェニキヤの女がイエスに叫んだ時にも、弟子たちは彼女を追い払って下さいと願っている。弟子たちは人々が信仰に関しての問答ならば喜んで...
パリサイ人と税吏の譬話(ルカ一八9~14)この譬話の目的とするところは、自らを正しとする人を教えることにある。このパリサイ人の眼中には、強制取り立て、不義、姦淫する人々が映っているのを見るであろう。特に自分の近くにいる取税人と自分とを対照したのが見える。これは古き人の姿であって、自分が罪人であることを承認することの出来ない者である。次に学ぶべきことは、自らを義とする人は決して神に出会ったことのない人...
ただひたすら祈ったやもめの譬話(ルカ一八1~8)〔1〕「人の恒に祈祷して気を落すまじきために……」イエスのわたしたちに対する一つの願いは、わたしたちが常に祈祷して気落ちしないことである。わたしたちはかの偶像信者が神社仏閣にちょっと参拝して気を済ませるように、ちょっと祈祷して気を済ませているから祈祷の深みに入らない。そしてその祈りはわたしたちに何らの利益をも与えず、かえって悪魔に敗れることがあるから、わ...
神の国に関する説教(ルカ一七20~37)ユダヤ人は、イエスがもしもメシヤであるならば神の国は直ちに実現して、ユダヤの国はローマの支配を脱し、ついにはユダヤ国は世界の最強国となるであろうと考えていたのである。ただに彼らのみならず、弟子たちもまたそう思っていた。だからイエスが甦った時に「主よ、汝今国をイスラエルに返さんとするか」(使徒行伝一6)などと質問を発したのである。しかしながらイエスは、彼らの誤解を...
十人のらい病人癒される(ルカ一七11~19)このガリラヤとサマリヤには、異邦人とユダヤ人とが雑居していた。昔ユダヤ人は異邦人と交際せず、また律法によってらい病人と別居させ、決して交際などはしなかったのである。であるかららい病人たちは一団となって特種部落をなす傾向があった。故にここに記されたように、かくも多くらい者が集まっていたのである。また十六節によると、この十人の内にも異邦人のあったことは明かである...
富める人とラザロの譬話(ルカ一六19~32)これはわたしたちのよく知っているところである。けれども今特に主よりこのことについて教えられたい。このところは非常に厳かなところである。それで今日は、永遠ということについて学びたい。〔19〕この富んだ人は、この世のことのみを思う人である。「紫の細きものとを着」紫は王の着るべきものであり、また王の前において着るべきものであった(エステル記八15)。故にこの富んだ人は...
不義な家令の譬話(ルカ一六1~13)このような出来事は、世の中によくあることである。〔3〕「主人、我役目を奪いなば何を為さん。我鋤を執るには力なく」わたしたちの学ぶべき教訓は、家令の知恵である。すなわち、自分の能力を知ることである。わたしたちは時々自分の出来ないことを出来ると自負して、自分の能力を知らないことがあるが、これは愚かなことである。〔8〕「しわざの巧みなることを以てこの不義なる番当を誉めたり...
〔25〕この兄は信者であっていまだ聖潔を受けない人、換言すれば、父と共に喜怒哀楽において一致しない者の型である。兄は弟のように放蕩ではなく、正直に父のもとに働いていたのである。表面より観察する時は非常に立派である。しかしながら、その心にある一物は時に臨み、機に触れて立ち上がりこのようなにがい水を出すのである。兄は畑にいて僕たちと共に終日すきを取り、一日の労働を終えて帰る時、たまたま妙なる音楽を耳にし...
放蕩息子の譬話(ルカ一五11~33)キリストはこのところで特別に神の側と人間の側とを明かに語り給うた。〔12〕「弟は父に言いけるは身代をわれに分け与えよ」これは、誤りの第一の原因である。神は人間を自由な者に造り給うた。しかしながら、神より離れる自由ではなかった。人間は自分が主人になれば自由になると思うが、これは大いなる間違いであって、三十一節にある通り、神はわが所有物は、ことごとくあなたの所有であると仰...
失われたる羊の譬話(ルカ一五3~7)このルカ伝十五章にある三つの譬は、パリサイ人と学者たちにキリストがなし給いし教えであって、人間の魂の貴重なことと彼らの不心得なことを教えたものである。〔2〕「この人は罪ある人に交わりて食せり」。食するとは親密なことを表わす。〔4〕「一つを失わば」失われた羊とは神の聖前より離れた人間を指したものである。獲るまでは尋ね給うのである。「尋ねえば喜びてこれを肩にかけ」神の喜...
弟子たる者の覚悟(ルカ一四25~35)イエスがこの譬を語り給うたのは、エルサレムの上京の途中である。「多くの人々イエスと共に行きし」イエスと共にエルサレムに行くことは立派なことではあるが、イエスは表面のみでは満足なさらず、更に精神の中に探りを入れ給うのである。〔26〕これは弟子となる条件である。弟子とは普通の信者とは異なって、どこまでもイエスと共に行く者であり、またキリストの福音のために命を捨てるもので...
婚宴の座における婚宴の譬話(ルカ一四7~24)ユダヤ人の習慣として座席を選ぶことは、非常に煩雑であった。特に婚宴の席においてはそれが甚だしい。ユダヤ人の上座は真中であった。「上座を選ぶを見て」探られる言葉である。わたしたちの間ではそのようなことがないか。〔8~9〕箴言二十九章二十三節のように、自らを高くする者は低くせられ亡びに到る。しかし自ら謙る者は、主の来り給う時高くされるのである。従ってわたしたち...
水腫を患える人癒される(ルカ一四1~6)パリサイ人はさも宗教家らしく熱心家らしくイエスを招いた。しかしながら、彼らがイエスを招いたのは心よりではない。「人々彼をうかがいたり」これはキリストを待ち望む精神ではなくて、キリストをうかがう精神である。そのような人は決して神の恵みを受けることはできない。〔2~4〕「彼ら黙然たり」学者、理屈を張る連中でしばしばこのようなことを演ずることがある。三歳の幼な子にも知...
土台であるキリストの堅固さ ここで一つ、これまで述べてきたことと関連してすぐに浮かび上がってくることがあります。それはおそらく、土台としてのキリスト、そしてすべての正常な土台の第一の、最高の特徴です――すなわち堅固さです。土台はそうでなければなりません――堅固で安定していなければなりません。ああ、彼はなんと堅固だったことでしょう。この地上におられた時、主はなんと静かで、確信に満ち、毅然としていて、動じ...
土台の重要性 土台はきわめて重要なものです。遅かれ早かれ、すべてのものの真価は土台によって決まります。私たちがこの土台に決着をつけることは決してない、という感覚があります。もちろん、土台は一度かぎり永遠に据えられており、私たちは戻って土台を何度も何度も据えなおすべきではない、という感覚もあります。しかし、たとえ土台は据えられていても、私たちが土台に決着をつけることは決してない、という感覚もあります...
シオンの土台 さて、私たちが読んだ他の節は、エルサレムとシオンに関する問題の一つの面に言及しています――つまり、その土台に言及しています。アブラハムについて述べているへブル十一章のこの節は、彼は土台のある都を求めていた、と述べています。次に使徒パウロは、唯一の土台はイエス・キリストであり、他の土台はない、と述べています。また、詩篇作者は「彼の土台は聖なる山々にある」と述べています。神の土台は聖なる山...
「主は偉大であり、私たちの神の都、彼の聖なる山で、大いにほめたたえられるべきである。シオンの山は、北の端にあり、大いなる王の都であって、高くて麗しく、全地の喜びである(中略)シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私た...
シオンの特徴T. オースチン-スパークス目次第一章 キリストの堅固さ第二章 キリストの勝利の命における合一第三章 キリストの命の不滅性第四章 キリストの尊さ第五章 神聖な開始における栄光第六章 隠れた働きにおける栄光第七章 最終的顕現における栄光オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
私たちは、私たちを対処する神の御手の下に来ているのではないでしょうか?主がある時になさりたいことを感じ取るために狭い道に入りつつあるのではないでしょうか?主が望んでおられることや望んでおられないことを、あなたは心の中で知ります。それを主が望んでおられる時を知ります。それは御霊によってあなたに臨んだのです。それは霊的識別力であり、霊的知識たる霊性です。しかし、私たちは自分の頭で物事を考え、神聖な知...
霊的知識の性質と力 知識の問題を考えてみましょう。人は「知識は力なり」と言いますが、それは天然的な知識のことです。知的な知識のことです。人々の間では、それは力かもしれませんが、天然的知識よりも遥かに強力な霊的知識があります。パウロは、この世の知識は命の主を十字架につけたほど愚かなものである、と再度述べています。それは、最高度に発達したこの世の知識です。支配者たちはこれを行いましたし、賢い人々もそう...
霊性の証明は、全く証拠がない時でも神と共に歩めることです。神がご自身を隠される時、信仰のみで歩まなければならない時でも、そうすることです。アブラハムのように、すべてが神を否定しているように思われる時でも、神を実証するものを求めないことです。神は、ご自分の子供たちを、ご自身の臨在を感覚的に示す多くの証拠がなくても、信仰によってご自身と共に歩むことができる、と信用できる地点に導こうとしておられます。...
霊性とは何か 霊性とは、天が意味するところのものであり、統治するものです。霊性の度合いが、神の観点から見た終局性・確実性・確定性・力の度合いです。 霊性とは何を意味するのでしょう?霊的であることについて話す人のことを、この世離れした空想的で夢想的な人物と思う、大勢の人と私たちは会ってきました。彼らは、そのような人物のことを、抽象的になってしまって、実際的なものをすっかりなくした人と思うのです。そう...
神の中心的関心事 この「新しい人」に神は関心を寄せておられます。神の関心はすべてそれにあります。神が追い求めておられるのは、それを成長させて、成熟した状態にもたらすことです。それによりその人の残りの部分を取り扱うことができることを、彼はご存じです。魂と体は、主イエスにある贖いにおいてそれなりの役割がありますが、神は霊すなわち新創造の人から始めて、それを通してその人の残りの部分に働きかけて、その天然...
主の子供である私たちですら、その観念、判断、評価、物事の受け止め方や評価法は、非常に物質的です。私たちは、自分のこうした魂的感覚によって大いに支配されており、影響を受けています。物事が他人にどのような影響や印象を自然に及ぼすことになるのか、それらに対する彼らの反応がどのようなものか、それが人々の間でどれだけ重んじられるのか、ということによって、支配されているのです。大事なのはただ、それが世人に与...
聖書朗読:一コリント二・六~十五。「律法が肉のゆえに弱くて、なし得なかったので、神は、ご自身の御子を罪深い肉の様で、罪のために遣わし、肉において罪を罪定めされました。それは律法の規定が、肉にしたがってではなく、御霊にしたがって歩く私たちにおいて、満たされるためです。なぜなら、肉にしたがっている者は、肉の事柄を思い、御霊にしたがっている者は、御霊の事柄を思うからです。肉の思いは死ですが、御霊の思いは...
神の今の御旨は、行政上の手段を確保して、その手段を統治のために訓練することです。人々は、主はなぜ宇宙から悪魔を一掃しないのか、なぜ苦しみや苦悩を止めないのか、と不思議に思っています。というのは、御言葉は私たちに、私たちの主イエスは「悪魔のわざを滅ぼすために現れた」と告げているからです。このようなことがすべて許されてきたのは、教会を個人的にも団体的にも試練を霊的に克服する立場に導くためです。神の御...
この現在の時、イエス・キリストの主権と権威は、この地上における政治的なものではありません――人々の間に現れていません――「わたしの王国はこの世のものではありません」。しかし、彼の主権は霊的な主権です。彼は密かに統治しておられ、それには強烈な衝撃力があります。天上の中に入ることは、あなたが霊的・道徳的優位性を得ることを意味します。神と共に脱出する道は何でしょう?困難から、苦難から抜け出すことでしょうか...
主イエスに関するなんらかの真理を知的に把握することは一つのことですが、聖霊の啓示によってキリストに属する事柄の中に経験的に入り込む時、あなたは上に立つ強固な立場――あらゆる支配を超越する立場――にあずかるようになります。ある真理、健全で正統的で聖書的な真理を得て、それを真理として提供することと、自分の心の中にその真理の内的な意味を啓示してもらって、それを提供することとは、大違いです。二人の人を例にあ...
福音は主権の福音書であるマタイによる福音書と共に登場します。そして、この書には主イエスの主権の様々な象徴があります。「天」という言葉が出て来る回数は、マタイによる福音書では七十五回を下りません。また、この福音書では御使いもたくさん出てきます。というのは、御使いに出くわす回数は十七回を下らないからです。超越性、高揚、優位性を常に物語るもう一つの要素は、山々への言及です。山はマタイによる福音書の中に...
福音書は、天にあって人を支配し事物を支配しているものと共に導入されます。これは興味深いことであり、大きな意義があります。私が言っているのはマタイによる福音書の冒頭のことです。もちろん、私が星のことを述べていることはおわかりでしょう。この福音書は、天に見えるものによって導入されます。そして、それが人々の世話を引き受けて、彼らの進路を導きました。そして、天によって支配された進路により、彼らをキリスト...
さて、「天」の二つ目の主な意味である、主権、超越性、優位性に移ることにします。聖書をあまり深く研究するまでもなく、天は霊的に普遍的なものを象徴的に表しており、次に、主権――統治・支配するもの――を表している、という結論に明確に辿り着きます。 創世記の冒頭から、神は天に大きな光を置いて昼と夜を支配されたことを私たちは知っています。この意味で天が支配しており、聖書全体を通してこの原則が象徴や型――天体と天...
霊的理解による成熟が力の秘訣である 私たちの目がそれに対して開かれる時、私たちはキリストの富を得ます。そして、それこそ敵が憎んでいるものであると私は信じています――すなわち、霊的成熟です。もし敵があなたの前進を止めて、神があなたに示された次の一歩を踏み出すのを妨げることができるなら、あなたに対する、またあなたによる神の御旨をすべて抑え込んだことになります。神の子供たちのあらゆる従順な行いには何が関わ...
次に、天が開かれました。天が再び介入し、次に地獄も介入しました。なぜなら、誘惑はバプテスマの一部だったからです。誘惑はそれだけのものではなかったのです。「その後、イエスは御霊に導かれて荒野に行かれた」。このバプテスマは過去と未来のすべてに影響を与えました。どのようにすべての義が主イエスのバプテスマによって予型的に成就されたのでしょう?それはまさにこういうことです――神は最小限の要件として罪なき完全...